何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

エッ、自転車も....!

2018年06月30日 | 街角スナップ

【滋賀・東近江市】滋賀の寺社巡りをしていて某私鉄を利用していた時、某駅の電車内でホームに背を向けて発車を待っていたら、突然、学生風の乗客が自転車を押しながら乗り込んできた。 車内がガラガラに空いていたとはいえ、電車に乗せられた自転車をみるのは初めてで吃驚した。
乗客は周りを気にするでもなく、スタンドを下げて自転車を止め、自転車に手を添えながら座席でうとうとし始めた。
下車駅で、出口に向かってホームを歩いている時、謎が解けた。 車両の端に座席のない所があって、窓下の壁に、自転車のデザインが入った小さな「ステッカー」が貼られていたのだ。 ローカル線とはいえ、なかなか粋なサービスだと感心した。
そういえば以前、地方を探訪するテレビの旅番組で、フロント部に自転車を固定して走るバスの映像を見たことがあるが、これと同じサービスだったのだろうと思った。

自転車に手を添えながらうとうとし始めた学生風の乗客
 
ホームから覗いた車内....座席のない所に自転車のデザインが入った小さな「ステッカー」が貼られている
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郭庄 (中国)

2018年06月28日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】清代末の光緒三十三年(1907)、杭州のシルク商人・宋瑞甫氏によって造営された別荘で「端友別荘」と呼ばれた。 その後、汾陽県(山西省中部)の郭氏の所有となって「汾陽別荘」と改名されたが、人々から郭庄と呼ばれた。 典型的な江南庭園の代表作で、西湖に隣接し西湖の山水を借景した庭園として知られている。

両宜軒で仕切られたように浣池と鏡池という二つの池があり、池を囲むように建物が建つ。 鏡池側の入口から郭庄の中へ....まるでプールのような鏡池が広がり、正面に両宜軒、右手に長い翠迷廊と迎風映月亭がある。 両宜軒の脇を通って浣池へ....欄干付回廊から眺めはまさに中国庭園らしい雰囲気が漂う。深い緑に囲まれ、周りに太湖石が配された浣池に突き出るように両宜軒と六角亭が佇む景観は絵画のようで、蘇州の庭園を思い起こさせる。 西湖に面して景蘇閣が建ち、すぐ前の丸い仕切門を通して西湖に浮かぶ蘇堤が霞見える。

鏡池側の切妻造瓦葺の入口門

鏡池は両宜軒と翠迷廊と迎風映月亭に囲まれている

鏡池と後方の浣池との間に建つ两宜軒....両側の寄棟造を繋いだ中央に八注造を設けた構造

两宜軒には「郭庄茶室」があり、茶室から二つの池の眺めが楽しめる....向かって右手に翠迷廊がある
 
曲線的に造られた回廊の翠迷廊/翠迷廊の右端に建つ寄棟造瓦葺の迎風映月亭....扇型の空窓があり、池には二羽の白いガチョウが遊んでいる
 
迎風映月亭の近くの池で遊ぶのは、くちばしの上にこぶをもつ「シナガチョウ」か?

两宜軒に対面して建つ欄干付回廊....円形や方形の空窓がある
 
欄干付回廊の丸い空窓を通して眺めた两宜軒そして右手に六角亭と景蘇閣

回廊から眺めた浣池を囲む两宜軒(左)と六角亭と景蘇閣

浣池側から眺めた两宜軒....池の周りに太湖石が配されている

欄干付回廊から眺めた六角亭と切妻造瓦葺の景蘇閣

六角亭の先にある宝形造瓦葺の賞心悦目亭....太湖石の上に築かれている
 
賞心悦目亭からは鏡池と浣池そして西湖に浮かぶ蘇堤が望める絶景の場所だが、立ち入り禁止に

西湖に面した景蘇閣前の仕切門....門前はテラスになっている....西湖に直線的に延びている蘇堤

仕切り門越しに眺めた切妻造瓦葺の景蘇閣

景蘇閣....二階からは西湖の美しい風景が眺望できるだろうが....

景蘇閣の内部正面....彫刻が配された衝立のようなものがある
 
壁際に設けられた碑亭/郭庄の南側に建つ寄棟造瓦葺の乗風邀月軒....西湖に面したテラスの手前に建っている          
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西園 (中国)

2018年06月26日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】留園の西側に位置する戒幢律寺とその奥に併設されている西花園とを総称して「西園」という。
戒幢律寺は元代の創建で、もとは帰元寺と言われたが、明代嘉靖年間(1522~1566年)に留園を造った徐時泰が所有して庭園となり、西園と名付けられた。 その後、元徐時泰の子「徐溶」が再び以前の帰元寺に戻したが、1635年に住持となった茂林律師により戒幢律寺に改称された。
清代末期(1860年)の戦火で焼失したが、同治~光緒年間(1862~1908年)に再建され現在に至る。

太鼓橋の福徳橋を渡り、大きな牌坊を通り、「戒幢律寺」の扁額が掲げられた山門殿をくぐって境内に入る。 正面が3つのアーチ形入口だけの天王殿、手前の参道左右に三重層にみえる鼓楼と鐘楼が建つ。 鎮座する弥勒尊像・韋駄天像・四天王像に参拝しながら天王殿を抜けると、木立の葉陰の奥に鎮座する大雄宝殿が見える。 西側に立つ羅漢堂には金色に輝く500体の羅漢像が安置されている。 伽藍は他に蔵経堂・三宝楼があるが確か立ち入り禁止だった。
羅漢堂の奥には湖心亭が浮かぶ放生池を中心に西花園が広がり、回廊が巡らされている。 湖心亭はとがった屋根と跳ね上がった大きな軒反りが実に特徴的な六角重層の造りだ。 九曲橋を進んで湖心亭に....亭内には庭園を造営した徐時泰らしき像が鎮座。
九曲橋傍の台座にスッポン顔の亀像が横たえているが、この池には400年以上生きている亀が住んでいる....と、案内板に書かれているらしいが失念した。

水路(運河)に架かる福徳橋越しに眺めた西園の遠景....左手には照壁と福徳橋と同じ形の智慧橋が架かっている

石柱に瓦葺屋根の木製明楼を三段に乗せた牌坊....梁に「敕賜西園戒幢律寺」とあり、「〇國戒幢」の扁額が掲げられている(〇は?)

牌坊の山門側から眺めた照壁と水路に架かる福徳橋(左)と智慧橋(右)

戒幢律寺の山門殿....入母屋造瓦葺で三門式の門....大きな「戒幢律寺」の額が掲げられている

門前に霊獣(獅子)の力強い狛犬が鎮座する山門殿
 
天王殿前の参道の左右に建つ重厚な鼓楼(左手)と鐘楼(右手)

入母屋造瓦葺で裳腰を設けた天王殿....3つのアーチ形の入り口がある
 
天王殿の弥勒尊像(撮影を失念)の後ろに鎮座する韋駄天像/弥勒尊像を守護するように天王殿の左右に鎮座する四天王像のうちの2体

天王殿から眺めた大雄宝殿....木立は銀杏かな?

大雄宝殿境内に西の放生池に連なる水路があり、中央に太鼓橋風の石橋が架かる

水路に架かる石橋から望む大雄宝殿....石橋の床に縁起の良い双魚の文様が彫られている

入母屋造瓦葺で裳腰を設けた大雄宝殿....身舎と裳腰の大きく反った軒が美しい....脇間に連子子を入れた花頭窓と丸窓

大雄宝殿前に置かれた宝塔形常香炉....正面三間は花狭間を入れた両折両開きの桟唐戸か?下部に格狭間が彫られている

大雄宝殿の内陣に鎮座する三世仏....中央は弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像か?

三世仏を見守るように周囲に鎮座する種々尊像
  
大雄宝殿に向かって左手に建つ羅漢堂....堂内に金色に輝く千手観音や500体の羅漢像を安置(撮影を失念)/大雄宝殿に向かって右手に建つ観音殿....奥に経蔵堂がある/「吉祥」と表記された通路

放生池がある西花園の入口

西花園入口から眺めた池に浮かぶ湖心亭

池に浮かぶ湖心亭を中心に回廊が巡らされている

六角重層の湖心亭への九曲橋
  
観光客が涼んでいる湖心亭....とがった屋根と跳ね上がった大きな軒反りが美しい/湖心亭に鎮座するのは庭園を造った徐時泰像か?/九曲橋傍で横たえる長寿の縁起を担いだ亀像....池に400年以上生きている亀が住んでいるとか?

放生池の辺に建つ建物
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閶門遺址 (中国)

2018年06月24日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】蘇州市街の北西にある「西中市」という道路を跨いでいる巨大な水陸城門。 「閶門」は蘇州の街を護る8つの城門のひとつで、紀元前の春秋時代(前770~前403年)に建造された。 閶門がある西中市の一帯は、明代(1368~1644年)から清代(1636~1912年)に商業地として隆盛を極めた。
水路の発達した街らしく、閶門は水城門と陸城門とで構成されている。 陸城門には1934年に改築設置された3つのアーチ形通行口(中央は車道、両側は歩道)が設けられているが、元々あった頑強な扉は1958年から始まった「大躍進政策」の最中に取り除かれた。

△橋の上から眺めた重厚な閶門と上に重層の城楼

△紀元前の春秋時代に建築された城門....城門の上に建つ入母屋造瓦葺で裳腰付きの大きな閶門城楼は元代至正十一年(1351)の再建

△重層の水陸城門は高さ10m、幅156m、奥行き84mあるそうだ....手前は水城門
  
△閶門は水城門と陸城門で構成されていて、鉄壁の城門だったことが想像できる/門近くに露店が並ぶ水城門と陸城門の遠景

△改築整備された水城門と陸城門

△閭門のアーチ形通行口は1934年に改築設置された....中央が車道、両側が歩道

△建物の大きな軒反....大棟の両端に鯱が乗り、中央には円板に龍の彫り物
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御霊神社 (木津川)

2018年06月22日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】社伝では、平安時代貞観十八年(876)の創建とされ、「木津の御霊」といわれ木津郷の産土神(氏神)として永く祀られてきた。 幾たびかの戦火に遭ってきたが、江戸時代の享保年間(1716~1736)に再建され、御霊神社に改称された。
現在の本殿は享保十五年(1730)の建立。 木津三社の一社(他は岡田国神社、田中神社)で、かつては大路村にあったが、木津ニュータウン開発に伴って社有地を売却し、昭和五十八年(1983)、現在地(木津宮ノ浦)に造営、整備された(三社いずれも移転)。 祭神は天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命。

安福寺から右隣に鎮座する御霊神社に向かっていると急に雨脚が強くなってきた。
土砂降りの中、道路に面して建つ大きな朱塗りの鳥居をくぐり、玉砂利を敷き詰めた広い境内に入る。
境内の中央に砂を円錐状に盛り上げた「立砂」があり、頂部に紙垂の付いた青竹が立てられている。 正面に唐破風向拝の拝殿、拝殿左右に吹き放ちで照り屋根の宮座、そして右側宮座の手前に身舎に裳腰を付けた社務所が建つ。
拝殿の右横を通って、後方の本殿に向かう。 15段ほどの石段を上がると、屋根のある小さな明神鳥居と小さな狛犬とを従えた流造の本殿が建つ。 近づこうとしたら急に雨が激しくなってびしょ濡れになったので、止む無く石段から少し遠目で本殿を撮り、急いで社務所に避難した。
インターネットで木津川市の「御霊神社」について調べると、この地域に同じ神号の神社が2つあり、歴史や由緒が混乱しているようで少し戸惑った。

道路から眺めた境内全景....正面に拝殿、拝殿の左右に氏子詰所の宮座、手前右に社務所が建つ

独特の字形の「御霊宮」の額が掲げられた鮮やかな朱塗りの明神鳥居
 
切妻造桟瓦葺の手水舎....屋根の留蓋瓦は鬼の顔だがユニークで、どことなくムツゴロウの顔のようだ!

玉砂利を敷き詰めた広い境内の中央に設けられた「立砂」....頂部に紙垂を付けた靑竹が立つ

基壇上に建つ切妻造銅板葺で照り屋根の拝殿...正面五間で朱塗りの組高欄付き廻縁
 
鬼板が乗る唐破風の向拝....正面の貫に大きな刳抜蟇股、虹梁の上に板蟇股、柱上に平三斗/脇間は全て蔀戸

流造銅板葺の本殿....殿前に屋根を設けた小さな朱塗りの明神鳥居が立つ
 
大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る....向拝の柱下に浜床/殿前に小さな狛犬が鎮座
  
ご神木の2本の老杉..手前の石碑は移転の顛末を記した造営碑の「昭和造営記録」/本殿左手に鎮座する外削ぎ千木と2本の堅魚木を乗せた社は摂社か?

拝殿の左右に切妻造銅板葺で照り屋根の宮座が建つ(写真は左手の宮座)....柱上に舟肘木

社務所の入口で雨宿りしながら眺めた拝殿

境内右奥に宮座....右隣に切妻造桟瓦葺で身舎に裳腰を設けた社務所
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安福寺 (木津川)

2018年06月20日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】平安時代の長保三年(1001)、「往生要集」を著した天台宗の僧・恵心僧都(源信)により創建された。 宗旨は法然の弟子の証空を祖とする西山派の浄土宗で、本尊は阿弥陀如来坐像。
阿弥陀如来坐像は、東大寺・興福寺を焼き打ちにした平重衡命終の引導仏と伝わる。
安福寺は平重衡が処刑された木津川畔に鎮座し、境内には平重衡の供養塔と伝わる「十三重石塔」がある。 平重衡は平清盛の五男で、東大寺や興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にしたが、寿永三年(1184)に一ノ谷の戦いで源氏に敗れて捕虜となり、翌年の文治元年(1185)、南都僧都の要求により木津川の河原で斬首された。 寺の近くに重衡の首を洗った池と伝わる直径約1.5mの「首洗池」と称する池がある。

降り続く雨の中、大智寺から国道24号線を横切り、さらにJR奈良線の踏切を渡って安福寺に着く。
境内を囲む白壁の築地塀の前に、桜の老木が大きく枝を広げている。 山門をくぐって境内へ....正面に「哀堂」と呼ばれる近年の建築とみられる本堂、右手に白壁の庚申堂、左手に庫裡が建つ。
山門を入った直ぐ左の四半敷の参道脇に「平重衡卿之墓」と刻まれた古びた標石があり、その奥の一郭に、檀上積の基壇上に平重衡の墓とされる十三重石塔が立つ。 十三重石塔が立っているのは、平重衡の胴体が埋葬された所だそうで....合掌。
十三重石塔の傍の塀際に、石仏と石造物が鎮座しているが、静かに平重衡を見守っているのだろう。

白壁の築地塀に囲まれた境内....門前に樹齢70年~80年のソメイヨシノの古木

切妻造桟瓦葺の山門は薬医門....袖塀に通用口

入母屋造桟瓦葺の本堂....平重衡の死を地域の人たちが哀れんだことから通称「哀堂(あわんどう)」とも呼ばれる

中央間は引戸の舞良戸、脇間に花頭窓、水引虹梁の中部に刳抜蟇股が乗る

周囲に擬宝珠高欄付切目縁を廻らす....大棟・平降棟・隅降棟・稚児棟の先に獅子口、流れ向拝屋根の隅に獅子の留蓋瓦

広くない境内に本堂、右手に庚申堂そして左手に庫裡が建つ

寄棟造桟瓦葺の庚申堂....大棟・隅降棟に鳥衾を乗せた鬼瓦....堂内に本尊靑面金剛明王像を安置

四半敷の短い参道の脇に「平重衡卿之墓」と刻まれた標石....奥に石造物と石仏が鎮座している
 
平重衡の首から下(胴体)が埋葬されていると伝える墓(供養塔)の十三重石塔/檀上積基壇の上に立つ十三重石塔....初層軸部に金剛界四仏の種子を薬研彫り

塀際にひっそりと佇む石仏と石造物
  
五輪塔の笠石を4つ重ねたとみられる石塔/丸彫りの地蔵菩薩尊像/舟形光背の石仏....左手で薬壷を持っているようにみえるので薬師如来像と思う
 
確か庫裡の脇に置かれた飾手水鉢(と思う)/何の石碑かな?

平重衡の供養塔越しに眺めた境内
 
小さな庭の石組と手前に飾手水鉢....三尊石を表しているにかな?/桟瓦葺屋根の庫裡
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大智寺 (木津川)

2018年06月18日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】鎌倉時代の弘安年間(1278~1288)、京都西大寺慈真和尚(縁起)を開基とし、西大寺中興の祖といわれる律宗の僧・叡尊によって創建された橋柱寺が前身。 西大寺の末寺。
その後衰退したが、江戸時代寛文九年(1669)、本寂和尚が東福門院和子(後水尾天皇の皇后)の下賜によって中興し、大智寺に改号された。 宗旨は真言律宗(西大寺派)で、本尊は文殊菩薩像。 文殊菩薩像(重文)は、鎌倉時代弘安年間(1278~1288)作で、高さ65.2cmの寄木造の像。 天平十三年(741)に高僧行基が泉川(現在の木津川)に架けた泉大橋が流れ落ちたが、鎌倉時代に至って、残っていた橋柱から叡尊和尚が刻みだし、橋柱寺を建立して安置されたとされる。

雨脚が少し強くなってきた中、泉橋寺から泉大橋を渡って対岸の集落にある大智寺に向かう。
門前に着いて直ぐ気になったのが塀の定規筋だ。 築地塀と山門袖塀はいずれも格式が高いことを示す筋塀だが、何故か定規筋の本数が異なるのだ。 山門屋根の鬼瓦と留蓋瓦を見る....留蓋瓦は衣を着た獣のように見えるが、何の像か分からず。
山門をくぐると、直ぐ左手に袴腰鐘楼、正面に本堂、右手の先に地蔵堂、そして山門から見えないが左手奥に庫裡が建つ。 本堂は三間四方で、寺域の規模に対してかなり小さいのに驚いた。 本堂前に佇む石燈籠の竿に「文殊堂燈籠」と刻まれているので、本堂は文殊堂が正式名のようだ。
本堂前の石燈籠は元禄初期(1691年)の造立だが、特に火袋の形がユニークで、全体に装飾性が高い造りに感心した。 境内には主に地蔵尊像の大小の石仏、隅飾突起が大きく反りかえった宝篋印塔、そして初層軸部に四方仏が彫られた十三重石塔がひっそりと鎮座している。
案内板に「現在も再興時の伽藍が残っており、南山城地方ではよく保存された寛文期の伽藍として貴重」とあり、本堂・庫裡・鐘楼・表門だけのお寺だが、筋塀を設けた門構え、本堂の棟木銘に奈良時代の木工名があるなどかなり歴史のあるお寺だと分かる。

築地塀の中にある袖塀を設けた山門....両塀はいずれも筋塀で格式が高いことを表すが、何故か定規筋の本数が異なる....袖塀の筋は5本で最高格式を表す

切妻造本瓦葺の山門の表門....大棟と隅棟に鳥衾を乗せた鬼瓦、切妻屋根の隅に留蓋瓦があるが衣を着た獣のようにみえる

山門から眺めた境内....正面に西面の本堂、右手に地蔵堂、左奥に庫裡が建つ

入母屋造本瓦葺で三間四方の本堂(文殊堂か)....棟木銘に奈良時代の大工名がある...鎌倉時代弘安年間(1278~1288)作の文殊菩薩坐像(重文)(寄木造、高さ65.2cm)を安置

大棟・平降棟・隅降棟・稚児棟の先に鳥衾を乗せた鬼瓦、流れ向拝屋根の隅に獅子とみられる留蓋瓦
 
中央間は両折両開の桟唐戸、脇間は蔀戸のようだが釣金具がない/向拝柱と身舎を繋ぐ虹梁がない、柱上に舟肘木が乗る....切目縁を巡らす

切妻造桟瓦葺の地蔵堂..貫の中備に刳形蟇股、禅宗様木鼻、鰐口が下がる
 
地蔵堂に鎮座する舟形光背地蔵石仏....周りに石龕仏などの小さな石仏が並ぶ/地蔵石仏は赤と白の前垂を重ねて着けている

塀際に建つ地蔵堂と宝篋印塔....地蔵堂に鎮座する2躯の石仏はいずれも地蔵尊坐像、右の像は円光を背負っている
 
古そうな宝篋印塔..隅飾突起が大きく反りかえって開いているので江戸期作か....塔身と基礎の月輪に四方仏の梵字を刻む/元禄四年(1691)造立の石燈籠....装飾性が高く、特に火袋の形がユニーク
 
地蔵堂脇の木立の中に佇む十三重石塔..初層軸部の舟形に彫り窪めた中に薄肉彫りの四方仏、基礎に格狭間を刻む

山門の直ぐ左手に鐘楼堂、左奥に南面の庫裡が建つ

切妻造本瓦葺の袴腰付鐘楼

入母屋造桟瓦葺の庫裏
 
境内に設けられた小さな門を配した築地塀の奥は庫裡と本堂を繋ぐ渡廊下があるようだ
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泉橋寺 (木津川)

2018年06月16日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】奈良時代の天平十二年(740)、泉川(現木津川)に架けられた泉大橋を守護・管理するため、高僧行基により創建された橋守寺院。 泉大橋は、聖武天皇による恭仁宮造営に関わって、平城京と恭仁宮とを繋ぐ交通の便を図る事を目的として架けられた。
泉橋寺は行基が造営した四十九院の一つで、創建時は泉橋院と呼ばれて寺勢を誇った。 平安末期の武将・平重衡の南都攻めの際の戦渦に依って伽藍を焼失したが、鎌倉時代、般若寺の僧・真円上人によって再興され、その時地蔵菩薩石仏の造立が発願された。
鎌倉時代徳治三年(1308)、地蔵石仏は13年の年月をかけて造立され、地蔵堂に鎮座した。 「山城大仏」と呼ばれる丈六の地蔵石仏は、高さ約4.58m。 室町時代の応仁の乱(1467~1477)の戦火で地蔵堂と共に焼かれて大きく損傷し、それ以来露座のままとなっている。 現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、損傷から約200年後の江戸時代元禄三年(1690)に補われたもの。

雨が降る中、JR木津駅から国道24号線を歩いて泉橋寺に向かった。 木津川に架かる長い泉大橋を渡っているときに何度も強い横風を受け、傘を持って歩くのに難儀した。
泉大橋を渡り切って堤防の上の道を進むと、集落の中に大きな石造地蔵像が見えてくる。 門前に着いた頃、雨が小降りになった。 まずは境内を拝観させて頂こうと、山門袖塀の通用口から入り、何度も声を掛けたが応答がない。 止むを得ず、山門に置かれた柵越しに境内を撮影させて頂いた。
門前左手の基壇の前に棟門のような簡素な門が建ち、檀上積の基壇の上に日本最大とされる丈六の地蔵石仏がどっしりと露座している。 基壇上に残る礎石の遺構から、当時は荘厳な地蔵堂に木津川を向いて鎮座し、渡河する人々の安全を静かに見守ってきたのだろう。 それにしても、応仁の乱の戦火で地蔵堂が焼かれて以来、540年以上もこうして露座しているお姿は少し悲しい....合掌。
 
門前に「泉橋寺地蔵尊像」が鎮座し、「泉橋寺」の寺号標石が立つ

門前に露座する大きな地蔵石仏と御堂と祠
 
切妻造桟瓦葺の辨財天を祀る祠            切妻造桟瓦葺の御堂

御堂に鎮座するのは獅子像が守る香炉(と思う)、側面に菩薩を示す「大慈尊」の刻

門前で大きく枝を広げている松の老木

切妻造本瓦葺の山門(薬医門)....袖塀を設け左側に通用口がある

山門から眺めた境内

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の仏堂
 
本堂前庭に石仏や石造物が佇む/木津川の土手から眺めた十三重石塔....初軸の月輪に梵字また基礎に格狭間
 
壇上積の基壇上に露座する大きな地蔵石仏....手前に棟門風の門と切妻造銅板葺の手水舎/「洗垢」と刻まれた手水鉢

地蔵石仏は鎌倉時代徳治三年(1308)の造立....永仁三年(1295)から石材の切り出しが始まり、13年後の地蔵堂上棟の時期に完成した

室町時代の文明三年(1471)、応仁の乱の戦火で地蔵堂が焼かれ、石仏も損傷を受けて露座になった
  
江戸時代元禄年間に頭部と両腕が補われた....右手に錫杖、左手に宝珠を持つ/地蔵石仏の前に佇む造立年不明の2基の石燈籠.....竿に「地蔵尊」の刻

基壇上の地蔵堂跡に礎石の遺構が並ぶ

蓮華座に整然と並べられた小さな薄肉彫りの石仏群

地蔵石仏前に置かれた石造りの常花(花瓶)と前机....前机下に線香炉

蓮華座上に整然と鎮座する石仏群
  
錫杖と宝珠を持つ舟形光背地蔵石仏/二尊石龕仏いずれも尊名は分からず

境内の石造物群....石仏が積上げられた千体仏塔や2基の五輪塔が見える....1基は重文に指定されているが、多分手前の大きな台座に立つ五輪塔と思う

木津川の土手から眺めた泉橋寺の全景
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室生寺の五重塔

2018年06月13日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・弥陀市】我が国で屋外に立つ最小の五重塔。
平安時代初期(800年頃)の建立とされる。 天武天皇九年(680)に修験道の開祖・役行者(役小角)が創建したとされる室生寺の灌頂堂(本堂)後方の杉の樹林の中に建つ五重塔で、国宝に指定されている。
五重塔は和様建築で、法隆寺五重塔(推古天皇十五年(607)建立)に次いで国内で2番目に古く、室生寺の最古の建造物で本尊を祀る本堂より古いとされる。
基壇上に建つ五重塔は総高は16.2mで、通例の五重塔の約三分の一の高さで建てられ、古代の塔としては逓減率が極端に小さい。 部材や銘板から鎌倉時代・江戸時代(明和)・明治時代に修築されたことが確認されているが、優美な姿は古の風格を感じさせる。 屋根は檜皮葺で、柱・軒廻・組物(斗栱)・高欄付縁など木部は全て鮮やかな丹塗り、また相輪の九輪の先には水煙の代わりに八角の天蓋を設けた宝瓶を配している。
平成十年(1998)の秋、台風7号の強風で倒れた杉が塔を直撃し、西北側の各重の屋根と軒が壊れたが、心柱を含めた根幹部は無事で、2000年7月に復旧された。
深い樹林に包まれてひっそりと建つ五重塔.....以前、JRのTVコマーシャルで観たまんまの優美な姿で、小ぶりながらも気品に溢れていて大いに魅了される。

本堂後方の樹林の中に建つ五重塔

平安時代初期(800年頃)の建立で、国内で2番目に古い

基壇上に建つ五重塔の総高は16.2mで、通例の五重塔の約三分の一の高さしかない、また古代の塔にしては逓減率が極端に少ない
 
檜皮葺の屋根で、二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、蛇腹支輪

初重は板扉と脇間は白壁で窓がない
 
初重に縁がなく、二重以上に組高欄付き縁を設けている...相輪の九輪の先に水煙の代わりに八角の天蓋を設けた宝瓶を置いている

奥之院参道から眺めた五重塔、右奥は灌頂堂(本堂)の屋根
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花園の磨崖不動明王

2018年06月10日 | 石仏巡り

【滋賀・湖南市】湖南三山の善水寺にほど近い花園集落から岩根山を登る中腹の巨岩に浮彫りされた不動明王磨崖仏で、江戸初期の作とみられている。 不動明王像は高さ約2.3m、肘幅2.1m、顔幅0.8mで、右手に長さ約2.3mの利剣(宝剣)、左手に羂索を持っている。 地元では、「車谷不動尊」という通称で呼ばれている。
参道入口に案内板が立ち、そこから沢に下ると小さな谷川に少し苔生した平橋が架かる。 平橋を渡ると袂に手水鉢があり、勢いよく注がれている冷たい清水で身を清め、先の階を少し上って行くと巨岩に彫られた不動明王像が木立の中に現れる。
不動明王像は両足を大きく広げ、威風堂々たる風貌で人間界を見下ろしている。 賽銭箱まで階を上って間近で見上げると、大きな利剣を持ち、鋭い眼光とダイナミックなポーズにひときわ迫力を感じる。

「磨崖不動明王尊」の案内板から沢に下り、平橋を渡って階の参道を登る
 
沢を流れる小さな谷川に架かる苔生した平橋/橋の袂に置かれた円柱形で二脚の手水鉢

高さ6.2m、幅約2mの自然の巨岩に彫られた不動明王磨崖仏....像高約2.3m、肘幅2.1m、顔幅0.8m
 
辯髪を左肩にたれ、右手に長さ約2.3mの利剣、左手に羂索を持つ/像の足下の切妻屋根の覆屋に賽銭箱が置かれている

大日如来の化身の不動明王は鋭い眼光で参詣者を見下ろしている
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常楽寺 (上田)

2018年06月07日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】寺伝では平安時代の天長二年(825)、比叡山延暦寺座主円仁(慈覚大師)によって創建された北向観音の本坊。 別所三楽寺の一つ。 京都南禅寺の開祖・大明国司が正応五年(1292)に信濃国塩田別所常楽寺で「十不二門文心解」を書写した文献があり、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた学門寺で、創建時より名僧高僧が学んでいる。
観音堂裏手の北向観世音霊像が出現した所に、弘長二年(1262)造立の石造多宝塔(重文)が保存されている。 宗旨は天台宗で、本尊は宝冠を頂く妙観察智阿弥陀如来像。

常楽寺前の参道に「天台宗 別格本山」の標石が立つ。 少し先に進むと、石段の上に茅葺の起り屋根と唐破風が見える。
十数段の石段を上ると、正面に茅葺で古民家風の古色蒼然とした本堂が鎮座している。 「常楽台寺」の扁額が掲げられた本堂に廻縁はなく、向拝は登高欄があるだけで簡素だが、分厚い茅葺の唐破風が重厚感を感じさせる。 本堂の前庭には、「御船の松」と呼ばれる樹齢約350年の老松が大きく枝を広げている。 本堂右に茅葺で箱棟の大棟に煙出し櫓を設けた庫裏が連なるが、古民家風の建物でしみじみとした味わいがある。
本堂左の六地蔵尊像や青円金剛庚申塔等の石仏が佇む参道を進み、本堂裏手の杉林の中にある歴代住持が眠る墓所に向かう。 木漏れ日が降り注ぐ墓所には、墓碑の無縫塔のほかに苔生した無数の五輪塔、多層塔そして鎌倉時代造立の多宝塔などの石造物がひっそりと佇んでいる。 石造多宝塔は、北向観音の霊像が出現した所に鎮座しているとのことだが、まさに聖地らしい雰囲気が漂っている。
拝観後、切石敷きの広い表参道を下っていくと、参道入り口に近年再建の仁王堂2棟が建ち、2基の石塔が佇んでいる。 石塔は六十六部廻国供養塔と五輪塔四方の梵字の一つ「(東)発心門」が刻まれた石塔だ。 他の三つの(南)修行門、(西)菩提門、(北)涅槃門の石塔も、どこかの路傍に佇んでいるのだろうな~と思いながら次の訪問先に向かった。 途中、別所温泉の一郭に鎮座する常楽寺建立の七苦離地蔵堂に立ち寄り、安置されている地蔵尊像・聖観音像に参拝した。
 
参道に立つ「天台宗 別格本山」の標石/石段の上に顔を出す本堂の茅葺屋根

享保十七年(1732)頃の建立とされる本堂....向拝屋根は瓦葺箱棟を乗せた唐破風....本堂前庭の左右に老松が枝を広げている

寄棟造茅葺の本堂..小棟造りの起り屋根で、大棟に瓦葺の箱棟を乗せている

唐破風の箱棟端に3本のアンテナを付けた鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に蕪懸魚....向拝柱に禅宗様木鼻
 
疎舞良戸の扉の上に「常楽台寺」の扁額....水引虹梁に法輪を彫った板蟇股、上の梁に笈形/柱上に雲肘木....廻縁はなく宝珠柱の登高欄が設けられている

正面脇間には花頭窓、腰高障子、障子欄間と通用口の板扉

本堂前庭に大きく枝を広げる老松...樹齢約350年で「御船の松」と呼ばれる

本堂の右手に茅葺の庫裏が建つ

入母屋造茅葺の庫裏....大棟は瓦葺の箱棟で中央に煙出し櫓を設けている
 
石造多宝塔がある墓所への参道脇に鎮座する赤い前垂をした六地蔵尊像

参道脇に鎮座する石仏と板碑
 
舟型光背青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、3猿)       舟型光背の合掌観音像(と思う)

こちらの石仏5体は近年の造立か....手前は左が聖観音菩薩像、右は8臂から不空羂索観音像?
  
後方で獅子に騎乗する文殊菩薩(と思う)/後方で象に騎乗する普賢菩薩(と思う)/智拳印を結ぶ金剛界大日如来像かな?

杉林の墓所....殆んど無縫塔なので歴代住持の墓碑とみられる

無縫塔から多宝塔までの参道脇に並ぶ苔生した小さな五輪塔群

石造多宝塔(重文)と石造多層塔....多宝塔は鎌倉時代弘長二年(1262)の造立
 
北向観音の霊像が出現した場所に鎮座する石造多宝塔....苔生した多宝塔の総高は2.7m/多宝塔の他に五重塔、七重塔2基そして小さな多宝塔が鎮座

常楽寺表参道に建つ仁王堂2棟と2基の石塔..仁王堂は平成六年(1994)再建

六十六部廻国供養塔と「(東)発心門」の梵字石塔
 
安永四年(1775)造立の六十六部廻国供養塔/五輪塔四方の梵字の「(東)発心門」の石塔....月輪の下にキャ(空)・カ(風)・ラ(火)・バ(水)・ア(地)の梵字

二重六注造桟瓦葺で獅子口が乗る軒唐破風を設けた七苦離地蔵堂(六角堂)と切妻造銅板葺で軒唐破風を設けた観音堂(と思う)....北向観音本坊の常楽寺により別所温泉の一郭の参道に建立
 
禅宗様高欄付須弥壇に鎮座する地蔵菩薩立像....頭貫の中備に鶴の彫刻のある刳抜蟇股/円光を背負い右手に錫杖、左手に宝珠を持つ
 
寺紋の「笹竜胆」を施した鬼板を乗せた軒唐破風、兎毛通は鳳凰か....中備の刳抜蟇股にも「笹竜胆」/右手で天衣をつまみ、左手で蓮花を持つ聖観音菩薩立像
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別所神社 (上田)

2018年06月04日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】鎌倉時代建久年間(1190~1199)の創建で、熊野本宮大社(紀州)の分霊を勧請したのが始まりとされる。 当初は熊野社といい、別所温泉の産土神として信仰された。
江戸時代天和二年(1682)に現在地へ移転した。 現在の一間社春日造りの本殿は、江戸時代天明八年(1788)に造営されたもので、建築様式や精緻な彫刻などが優れた貴重な建築物とされる。 明治十一年(1878)に熊野社から別所神社に改称され、その際8社が合祀された。 御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命ほか。

常楽寺参道の脇から入る参道の入口に、杉の巨木に挟まれるように明神鳥居が立つ。 「本朝縁結大神」の額が掛かる鳥居の前に、猿田彦大神と刻まれた文字庚申塔と2基の石燈籠、そして直ぐ後に狛犬が鎮座している。
杉並木に沿って続く参道の奥の40段ほどの階を上ると、正面に仏堂風の拝殿、右手に広い間口の神楽殿、そして拝殿後方に、玉垣に囲まれた江戸後期建立の「一間社隅木入り春日造」の本殿が建つ。
拝観を失念したが、本殿背面に3つの木造の祠があり、「男石・女石・子種石」が祀られている。 縁結びの神を祀っていることから、後に鳥居に「本朝縁結大神」の額が掲げられたようだ。
壁がない広い間口の神楽殿の舞台に上がる。 天井を見上げると、化粧屋根裏天井の梁と桁はいずれも湾曲した木材が巧みに組まれていて、まさに古民家の造りで趣がある。 また、背後の壁面が大きく開口していて、別所温泉の温泉街が見下ろせるようになっている。
境内左手の小高い樹林の中に、神門と屋根のある玉垣に囲まれた皇大神宮ともう1社の境内社が並んで鎮座している。 皇大神宮は神明造、もう1社は流造の屋根で、皇大神宮は大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木を乗せている。
帰り際、ふと神楽殿に目を遣ったら、中年のカップルが舞台に設けられた腰掛に座って別所温泉街を眺めていた。

参道入口に立つ文字庚申塔と2基の石燈籠と....参道に立つ明神鳥居に「本朝縁結大神」の額....鳥居後方に狛犬が鎮座
 
天保十四年(1843)造立の石燈籠/享和二年(1802)造立の猿田彦大神の自然石型文字庚申塔....上部に月輪の線彫り
  
寛政九年(1797)造立の石燈籠/昭和五十年(1975)造立の阿形吽形の獅子の狛犬
 
石段を上がった入口から眺めた境内/境内入口に立つ石燈籠....天明元年(1781)の造立

正面に拝殿、右手に間口が大きく開いた神楽殿が建つ

入母屋造桟瓦葺の拝殿....簡素な唐破風の向拝、周囲に組高欄を巡らす
 
唐破風屋根に獅子口が乗り、兎毛通は波と亀の彫刻....水引虹梁の上に三つ巴が彫られた板蟇股/二軒平行垂木、組物は出組、蛇腹支輪を設けている....正面は全面腰高格子戸
 
屋根を設けた玉垣の中に鎮座する一間社隅木入り春日造の本殿....天明八年(1788)の建立/二軒平行垂木、組物は三手先、支輪の位置や扉の脇や脇障子などに精緻な彫刻が施されている
 
社殿左側の末社群....大沢社、大岩社、北山社、大峯社、鼎社、雨宮社、下宮社?、愛宕社、水沢社?、角宮社/社殿右側の末社群....廣田社、八幡社?、諏訪社、日月社、山祇社、伊鹿社、香取社,熊野社?、藤田社?

切妻造桟瓦葺の神楽殿....両側の建物は控室や道具収納庫またお囃子が行われる所のようだ

頭貫、梁、桁はいずれも湾曲した木材が使われている
 
化粧屋根裏天井の梁と桁は湾曲した木材が巧みに組まれている....神楽殿内に末社が祀られている

神楽殿背後の壁面が大きく開口....腰掛が置かれ、別所温泉の町並みが望める

境内右手の小高い樹林の中に鎮座する2つの境内社

境内社の入口参道に建つ木製の神明鳥居

切妻造桟瓦葺の神門(棟門)と瓦屋根を設けた玉垣に囲まれて鎮座する皇大神宮
 
皇大神宮は神明造の屋根で、大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る/組高欄付き廻縁を巡らす、階段下に小さな浜床を設けている
 
火袋以外は自然石を巧みに用いた2基の石燈籠....文久四年(1864)の造立

皇大神宮の右手に鎮座する境内社....切妻造銅板葺の神門(棟門)と銅板葺屋根を設けた玉垣に囲まれている
 
流造の屋根で、組高欄付き側縁奥に脇障子/虹梁中備に板蟇股、階段下に浜床を設けている

神楽殿の舞台から中年カップルが別所温泉街の景色を眺めている
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安楽寺 (上田)

2018年06月01日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】鎌倉時代以前の歴史は判然とせず、伝承では奈良時代の天平年間(729~749)に行基による建立とも、平安時代の天長年間(824~834)に叡山延暦寺座主慈覚大師円仁により創建されたともいわれる。 安楽寺は同時期に建立された別所三楽寺(他は長楽寺、常楽寺で、長楽寺は廃寺)の一つ。
歴史的に明確なのは、鎌倉時代に実質的な開山である信濃出身の臨済宗の僧・樵谷惟仙が臨済宗の寺院として中興した以降。 鎌倉時代中期には鎌倉北条氏の外護によって禅寺として栄えたが、室町時代以降は衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみ。 室町時代の天正八年(1580)頃、曹洞宗の僧・高山順京に再興されたことで曹洞宗寺院となり、真田一族が古くから信仰した信州最古の禅寺。
鎌倉末期(1290年代)建立の国宝・八角三重塔は日本に残る唯一の八角形であり、わが国最古とされる禅宗様建築。 宗旨は曹洞宗で、本尊は釈迦如来像。

戒壇石が立つ高麗門形式の黒門をくぐって参道を暫く進むと、杉の樹林の中に消えるように狭い参道が続く。 鬱蒼と繁る杉林の奥に山門が僅かに見える。 石段の上に袖塀を設けた古びた山門が建つが、茅葺風の銅板葺屋根は近年葺き替えられたようで新しく、少しアンバランスな感じがする。
山門から切石敷の参道を進んで、日差しを燦々と浴びている本堂に向かう。 参道の左右に、千社札がべたべた貼られた十六羅漢堂、屋根や廻縁を支える組物が見事な袴腰鐘楼、そして入口に「選佛場」の扁額が掲げられた起り屋根の座禅堂が建つ。
本堂は寄棟造銅板葺の小棟造りで、先代の茅葺の起り屋根の姿をそのまま残していて風情が感じられる。 大棟に寺紋の「三つ鱗」が付いた箱棟を乗せ、正面は障子窓と白い小壁だけの極めて簡素な造りで入口が中心からずれている。 本堂に連なって右に独特な造りの庫裏が建つ。 大棟の箱棟の中央に煙出し櫓を設け、平側屋根を兜造りのように大胆に切り落として二階の窓を設けた造りで印象に残る。
本堂の脇から杉林の参道を進み、本堂裏の山腹に建つ八角三重塔に向かうと、杉木立の間から少しずつ八角三重塔が見えてくる。 厳かな空気に包まれた山腹の墓所に、古色蒼然とした佇まいで荘厳な八角三重塔がひっそりと聳える。 八角三重塔には金剛界大日如来像が安置されていて、周囲に眠る人々の霊を静かに見守っている。
 
黒門前の戒壇石....「入許葷酒入山門」の刻/参道入口に建つ切妻造桟瓦葺の黒門(高麗門)....寛政四年(1792)建立
 
参道奥の杉の樹林の中の石段の上に山門が見える

切妻造茅葺風銅板葺の山門は薬医門....両側にL字状に土壁の袖塀が設けている
 
茅葺屋根風に葺き替えられた屋根と古そうな梁や柱や扉とのアンバランスを感じる/堂宇側から眺めた山門

山門から眺めた樹林の中に広がる境内

堂宇参道の左手に十六羅漢堂、右手に袴腰鐘楼が建つ
 
寄棟造桟瓦葺で妻入の十六羅漢堂/ガラス格子の中に寛政年間造立の十六羅漢像の他、8体の諸仏(如来3体。菩薩4体、不動明王)を安置

入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼....明和六年(1769)の建立で、折衷様式の建築
 
軒下は二軒扇垂木、組物は尾垂木が伸びた二手先、中備は詰組/頭貫木鼻は唐獅子と獏の彫刻...擬宝珠高欄付縁を支える組物は三手先

小棟造りで寄棟造茅葺風銅板葺の本堂....起り屋根で大棟に寺紋「三つ鱗」入り箱棟を乗せている

正面九間で向拝なしの平入....入口を左にずらした簡素な造り
 
正面は全面が障子窓と白い小壁、柱上に舟肘木....入口に「安楽禅寺」の扁額/本堂に直交して連なる寄棟造銅板葺の庫裏....大棟の箱棟の中央に煙出し櫓がある

独特な造りの庫裏..まるで平側屋根を半分切り落とした兜造りのような姿
  
庫裏の入り口に「禅悦堂」の額が掛かる/本堂と庫裡の繫部に唐破風の玄関が設けられている....軒下に精緻な鳳凰の懸魚彫刻....虹梁上に龍と波頭の透かし彫り/玄関の中に置かれた浮き彫り彫刻が施された衝立....襖の上に「正法眼蔵」の書の額

箱棟を乗せた寄棟造茅葺風堂板葺の座禅堂....本堂のような起り屋根で、庫裏と向かい合って建つ
 
「遷仏場」の扁額が掲げられている/入口を含めて正面は全面が腰高格子ガラス窓

国宝八角三重塔への入口....直ぐの後方に経蔵が建つ
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の経蔵....寛政十六年(1784)建立/経蔵には宇治の黄檗山萬福寺から購入した鉄眼の一切経を保管
 
八角三重塔への参道に佇む六地蔵尊像と延命地蔵尊像/本堂と八角三重塔への参道との間にある池は放生池か
 
傳芳堂の左にある「寂光尊」の額が掲げられた簡素な地蔵堂....鎮座するのは水子地蔵尊像..左上に八角三重塔が見える/「傳芳」の扁額が掲げられた傳芳堂....安楽寺開山樵谷惟仙和尚と二世幼牛恵仁和尚の像を安置

山腹の墓所内に立つ八角三重塔

鎌倉時代末期(1290年代)建立の杮葺の八角三重塔(国宝)....わが国最古の禅宗様建築

構造形式は八角三重塔婆....木造の八角搭としてはわが国に残された唯一のもの
 
塔高(礎石上端~頂上)は18.75m、各重は二軒扇垂木、組物は三手先....二重目と三重目の全面に連子窓だけが設けられている
 
初重の裳腰の軒下は二軒扇垂木、組物は出組、中備は詰組、桟唐戸の上に弓欄間
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