何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

酒見寺-(4) (加西)

2023年08月25日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】江戸幕府3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状と所領60石を下付されて隆盛、その後も天皇や幕府、藩によって厚く保護されてきた。 護摩堂には歴代天皇、ならびに歴代徳川将軍の位牌が祀られている。

■本堂左手の放生池に沿って進み、本堂裏手の弘法大師像を祀る御影堂に向かう。 本堂を向いて建つ御影堂は、古びていて味わいのある佇まいだ。 300年以上前の建立らしいが、当時の姿のままなのではと感じさせるほど風情がある。 本堂の背面を見て驚いた。 瓦の庇を設けた出窓のようなものを含めて壁全面が羽目板で、仏堂のイメージがまるでない。 また、左手に隣接する持仏堂・護摩堂の背面も、ほぼ全面が白壁でまるで城郭のような造りだ。

△本堂の西側に中の島に社が建つ放生池、本堂後方に御影堂と社が建つ

△本堂後方に本堂を向いて建つ宝形造本瓦葺の御影堂.... 17世紀後期の建立で、弘法大師像を祀る

△軒下の垂木や梁や組物などの古びた外観は建立当時のままのためか?

△軒廻りは二軒繁垂木、正面の組物は向拝柱と繋ぐ虹梁と組み合わせた造りのようでよく分からず、側面は出三ツ斗、中備いずれも蓑束

△正面三間はいずれも蔀戸だが、釣金具がない....側面三間はいずれも縦羽目板張りで、手前一間に花頭飾りを設けた板張りの窓がある

△御影堂は本坊の御堂と桟瓦屋根の渡り廊下で繋がっている

△本堂の背面....裳腰部の壁は出窓のようなものを含め全面が羽目板

△持仏堂・護摩堂の背面はほぼ全面が白壁(換気用らしき4つの窓あり)で城郭のような造り....本堂と渡り廊下で繋がっている、左の建物は御影堂

■御影堂の左に桟瓦葺の一間社流造の毘沙門堂が鎮座するが、瓦葺社殿は珍しい。 毘沙門堂の前には、造立して間もないとみられる石燈籠が立っているが、竿や火袋などにこれでもかというほど精緻な飾装彫刻が施されていて見事だ。 放生池の中之島に一間社春日造りの弁天社が鎮座しているが、照屋根で二手先の組物など仏堂様式が強いようだ。
放生池の南側に擬宝珠欄干を設けた総石造りの太鼓橋が架かり、その先に西側に隣接する住吉神社の境内が見える。 重厚な造りの太鼓橋は形がよく、芸術性が高いように見える。 太鼓橋は放生池を南北に分けるように架かっていると思ったが、南側の放生池がない。 散歩中の地元の方に聞いて驚いた…なんでも度々池の水が溢れるため南側は埋めたてられたそうだ。

△御影堂越しに眺めた境内社

△毘沙門堂前の境内に立つ飾装彫刻を施した石燈籠....竿と基礎部に数頭の龍像が絡み、火袋に獅子像と鶴の透かし彫り、中台には十二支の彫刻/一間社流造桟瓦葺の毘沙門堂....瓦葺の社殿は珍しい

△観音開き扉の桟唐戸、左右の切目縁の奥に板張りの脇障子....向拝水引虹梁の上いっぱいに龍の彫刻を配す/一軒繁垂木で組物は出組、妻飾は虹梁大瓶束

△親柱に擬宝珠を乗せた中之島へ渡る金属製の平橋....左奥に見えるのは太鼓橋と隣接する住吉神社の鳥居

△中之島に南面で鎮座する弁天社

△一間社春日造銅板葺の弁天社....軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で仏堂様式が強い/向拝水引虹梁の上いっぱいに龍の彫刻を配す....観音開きの扉は全面に飾り金具を施した桟唐戸

△中之島から社越しに眺めた御影堂

△放生池に架かる擬宝珠欄干を設けた重厚な総石造り太鼓橋

△芸術性の高い造りの太鼓橋越しに眺めた多宝塔と引聲堂

△太鼓橋は放生池の真ん中に繋っていたが、太鼓橋の手前(南側)半分は埋めたてられたそうだ

△酒見寺の西側の総石造り太鼓橋の向こう(西側)は住吉神社
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酒見寺-(3) (加西)

2023年08月19日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】江戸時代に入り、姫路城主の池田輝政が酒見寺を姫路城の守護寺に定めて援助した。 姫路藩初代藩主の池田輝政は織田信長・豊臣秀吉に仕えていたが、慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦い」では徳川家康に従って功をあげて播磨を領し、8年掛けて姫路城を大改修し、広大な城郭を築いた。
池田家が鳥取藩に転封された後の元和三年(1617)、姫路城主となった徳川四天王のひとり本多忠勝の子・忠政の援助を受け、寛永年間(1624~1644)に江戸幕府の命を受けた実相院隆恵によって再興された。

■地蔵堂と多宝塔と並んで、多宝塔の北隣に観音堂が建つ。 質素な造りの観音堂は、周囲の腰部に縦羽目板を低く張った以外は白壁の小壁で、正面の両脇間そして側面にそれぞれ1つの花頭窓を設けている。 観音堂前に数基の石造物があり、そのひとつの笠塔婆が興味を引く。 笠塔婆は江戸初期の造立で、隅飾突起のある笠を乗せていて趣がある。

△観音堂越しに眺めた多宝塔

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の観音堂....寛保二年(1742)創建で、19世紀中期の再建

△三間四方で、正面の中央間は腰高格子戸、脇間に花頭窓

△縁はなく、四方面の腰壁は縦羽目板....側面中央に花頭窓を配し、それ以外は白壁の小壁

△三間四方で、軒廻りは一軒繁垂木、組物は柱上に出三ツ斗で、中備は真ん中のみに平三ツ斗

△観音堂前に石塔婆、地蔵石仏、石碑などが鎮座....石塔婆は明暦年間(1655~1658)の造立

■本堂に向かって右手に羽目板の袴腰を設けた鐘楼が建つ。 朱色の垂木・親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付回縁と白壁の小壁以外の全てに、多宝塔と同じように極彩色の装飾文様が施されていて、実に鮮やかだ。 境内北側に築地塀に囲まれた本坊があり庫裡や持仏堂・護摩堂が建つが、手入れが行き届いた本坊内を覗いて吃驚….前庭の低い植栽が実に芸術的に選定されていて目を奪われた。

△入母屋造本瓦葺の袴腰付鐘楼.... 寛文四年(1664)の再建

△大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は混成複合式....二間三間いずれにも波形連子窓

△袴腰・垂木・小壁以外のすべてに多宝塔と同じように壮麗な極彩色の装飾文様が施されている....親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付高欄付き回縁

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で、中備は蓑束....腰組も三手先で中備は蓑束

△羽目板張り袴腰の鐘楼はバランスがとれていて安定感がある

△鐘楼奥の境内の北側境内に建つ本坊

△白壁の築地塀に囲まれた中に本坊がある....築地塀の間に唐門(と思う)、塀内奥の建物は本堂と繋がった持仏堂・護摩堂

△切妻造本瓦葺の本坊の山門(表門)

△山門を通して眺めた本坊内の庫裡

△入母屋造桟瓦葺の庫裡....大きな玄関の屋根は入母屋造銅板葺で唐破風を設けている....玄関の大棟と鬼板そして唐破風屋根の鬼板に三つ葉葵紋を配している

△本坊内の西側に建つ入母屋造本瓦葺の持仏堂・護摩堂....18世紀後期の創建、築地塀側に平唐門

△本坊敷地の中央の前庭....植栽や石組が配され見事に整備されている

△本坊前の坪庭に佇む宝篋印塔と石燈籠

△坪庭に立つ宝篋印塔は大正元年(1912)の造立で、塔身が長く、塔身に梵字のような4字が彫られているが....


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酒見寺-(2) (加西)

2023年08月13日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】平安時代後期の平治元年(1159)に京都で起こった「平治の乱」で全山を焼失したが、二条天皇(第78代)から御朱印を賜って再建された。 二条天皇は「平治の乱」で幽閉されたが、平清盛に救出された。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に兵火によって再び全山を焼失した。

■本堂の縁から境内を眺める。 整然と堂宇を配した境内だが、殆んど緑がなく、近くの住宅が見えていてチト残念な光景だ。
参道を戻って仁王門近くに建つ引聲堂に。 小棟造りの引聲堂は、四方に緩やかに広がる照屋根と、正面中央間の格子戸以外は全て縦格子の舞良戸のような蔀戸だけの母屋で、気品が漂う。 参道を挟んで引聲堂に対面して地蔵堂が建つ。 地蔵堂は三間四方だが、正面側二間が吹き放しという造り。 また正面には中2本の柱がなく、太い虹梁を渡して長押と貫とを支えている。

△本堂前から眺めた堂塔....両側に飾燈籠が立ち並ぶ参道先に二王門、右に引聲堂、左に地蔵堂と多宝塔が建つ

△寄棟造銅板葺の引聲堂(常行堂、阿弥陀堂とも呼ばれる)....17世紀後期創建、19世紀前期の再建で本尊阿弥陀三尊を安置....播州酒見の念仏道場

△桁行五間、梁間四間で一間の向拝付、正面一間のみに高欄付切目縁

△正面中央間は格子戸、両脇間二間は縦格子だけの舞良戸と思うが、一間のみに釣金具がある....向拝水引虹梁の上に大きな龍像の彫刻を配す、木鼻は獅子

△正面中央三間の長押上の小壁に絵様装飾を施した虹梁を設けている....主屋と向拝の柱は全て角柱

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蓑束....外側脇間の長押の上に菱格子欄間

△向拝柱と主屋柱との間に二段の海老虹梁がある/反華座に置かれた赤サビが浮き出た常香炉

△側面四間は釣金具がないが全て縦格子だけの舞良戸(と思う)

△引聲堂に向かって右隣りにある茶之寿観世音第二番霊場

△「ぼけ防止観音」の石柱が立つ寿観世音第二番霊場/王冠に阿弥陀如来の化仏を頂き、左手に未開蓮を持つ聖観音像....蓮華座の上に男女の老人と共に立っている

△境内参道の左側に立ち並ぶ手前から地蔵堂、多宝塔そして観音堂

△宝形造本瓦葺の地蔵堂....宝暦四年(1754)の建立で本尊地蔵菩薩像を祀る

△三間四方だが、前二間が吹き放し、後一間に部屋を設けている....正面間口は一間で、真ん中の2本の柱がない....前二間の両側には低い板腰壁

△後一間の部屋の中央間は腰高格子戸、両脇間は横木(舞良子)の幅が広い舞良戸風の造り....腰高格子戸の腰部も舞良戸風

△正面は中2本の柱の代わりに太い梁を渡し、梁上の柱の位置にスペーサーをかまして長押と貫を支え、長押上の柱の位置に出三ツ斗、中備は平三ツ斗を置く

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は出三ツ斗と平三ツ斗で、後一間のみに中備があり、中備は異形の蓑束かな?

■地蔵堂の北隣に重要文化財の多宝塔が聳え立つ。 折衷様式で建てられた古風な多宝塔は、バランスのとれた外観を持つ。 多宝塔の屋根の葺き方は、上重が檜皮葺で下重(裳腰)が本瓦葺と違っていてかなり珍しい。
裳腰の腰部から上の柱や梁・長押、そして軒下の組物など小壁以外の部材に極彩色が彩りされていて美しい。 この美しさは再建された江戸時代初期から維持されてきたのだろうと思うと、感慨深い。 それにしても、複雑な形の組物などの塗り直しは、職人にとって相当な苦労があったのだろうな~とおもんばかった。

△上重檜皮葺・下重本瓦葺の多宝塔(重文)....室町時代の創建で、寛文二年(1662)の再建

△優れた彩色が施された折衷様建築....塔内に大日如来を安置

△柱、長押、組物、丸桁など軒下全体に極彩色の装飾文様が施されている/軒廻りは上重が隅扇の二軒扇垂木で下重は二軒繁垂木

△中央間は上に連子を入れた桟唐戸、脇間は連子窓で腰部は白壁

△下重の組物は出組で中備なしで軒支輪がある....周囲に擬宝珠高欄付切目縁を巡らす

△上重の組物は四手目が尾垂木の四手先、回縁を支える腰組は平三ツ戸

△背の高い樹木が殆んどない開放的な境内....堂塔は地蔵堂と多宝塔

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酒見寺-(1) (加西)

2023年08月07日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】寺伝では、奈良時代の天平十七年(745)、この地を訪れて酒見明神を詣でた行基菩薩が、酒見明神の神託を受けたことを行基に帰依した聖武天皇(第45代)に奏上し、伽藍を建立したことに始まる。 古くから朝廷の崇敬篤く、聖武天皇の勅願寺として平安時代後期から勅使の参詣が毎年行われた。 また、隣接する酒見明神社(現・住吉神社)の別当寺となった。 宗旨は真言宗(高野山)で、本尊は十一面観世音菩薩像。 新西国三十三箇所第29番札所。

■北条鉄道北条町駅から歩いて約15分、白壁の築地塀の間に建つ仁王門に着く。 門前からは境内に建つ幾つかの堂塔の屋根が望める。
楼門形式の仁王門の左右の金剛柵の奥に仁王像が鎮座しているが、正面には目の細かい金網が張られていて像容がよくく見えない。 戸口側は菱格子なので、格子の隙間からなんとかお顔が拝観できた。 戸口を通して禅宗様とみられる重層屋根の本堂が見える。 仁王門から本堂に向かって延びている参道の両脇に青銅製の飾燈籠が整然と立ち並んでいて、まるで参詣者を本堂に誘っているようだ。

△入母屋造り本瓦葺の仁王門(楼門)....寛永十九年(1642)創建で、文政八年(1825)の再建....門前の寺号標石は昭和七年(1932)の造立

△大棟端に鯱が乗せた三間二戸の仁王門の軒廻りは、二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は蓑束

△上重の長押の上と丸桁の下の小壁に鏝絵のような浮彫りの彩色装飾を施している

△上・下重の間に親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付回縁(切目縁)....回縁を支える腰組は三手先、中備は正面は脚間に彫刻を配した蟇股で側面は蓑束

△円柱の門柱に「泉生山 酒見寺」「新西国第廿九番霊場」の聯が掛かっている....戸口の前一間は金剛柵、後ろ一間は菱格子で、ここに仁王像が鎮座

△仁王門の左右の金剛柵の奥に鎮座する仁王像....正面は目の細かい金網でガードされていて像容がよく見え難い

△戸口の菱格子の隙間から見た阿形像の頭部

△仁王門から本堂への参道の両側に21対の青銅製飾燈籠が整然と並ぶ

△切妻造桟瓦葺の手水舎...側部に「水盥」と彫られた手水鉢(造立年不明)....右は水を汲み上げていた古井戸跡か....後方に立つ宝篋印塔

△水口は3つ爪の龍像/手水舎の西側に立つ宝篋印塔....隅飾突起が大きく反りかえり開いているので明らかに江戸期の造立....塔身には蓮華座に乗る月輪に阿閦如来の種子(と思う)が彫られている

■仁王門をくぐると開放的な境内が広がり、本堂に向かう参道の両側に趣のある堂塔が建ち並んでいる。 まずは参道を進んで本堂に近づくと、やたら金色の三つ葉葵の紋が目にはいる。 軒丸瓦、青銅製燈籠、天水桶、常香炉そして賽銭箱にまで.…。
本尊に合掌した後、本堂の構造や細部意匠などを拝観。 正面五間の中央間三間には扉がなく開放され、両脇間に連子子を入れた花頭窓を配している。 堂内は格子戸と板戸によって外陣と内陣とが仕切られ、外陣の隅に参詣者を見見守るように賓頭盧尊者が鎮座している。

△仁王門から眺めた境内....参道の正面に本堂、左側に引聲堂、右側奥に観音堂、本堂の右隣に鐘楼

△本堂は禅宗様建築で、大きな裳腰のユニークな重層屋根

△入母屋造本瓦葺で裳腰付き二層屋根の本堂(根本堂)....寛永三年(1626)創建で、元禄二年(1689)の再建....本尊十一面観音菩薩像、他に脇侍として持国天像、多聞天像を安置

△裳腰は正面五間で、央間三間に扉がなく開放、両脇間は連子子を入れた花頭窓....上層は一軒繁垂木で組物は舟肘木

△向拝の水引虹梁の木鼻は獏(と思う)....屋根の軒丸瓦には三つ葉葵の紋が施されている

△本堂前の青銅製飾燈篭、天水桶、常香炉そして賽銭箱いずれにも三つ葉葵の紋が配されている....大きな青銅製飾燈籠は明治十四年(1881)の造立

△内陣と外陣は中央三間が格子戸、左側一間は板戸(引き戸)で仕切られている....右側一間は小部屋

△階段から見た本堂正面の左脇間....連子子入り花頭の内側に賓頭盧尊者が鎮座....格子戸の仕切りの左側一間は板扉の引き戸/外陣隅に鎮座する賓頭盧尊者....十六羅漢の第一尊者で神通力にすぐれている

△向拝柱は面取角柱で、主屋は円柱

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蓑束

△周囲に擬宝珠高欄付切目縁....裳腰の軒隅四方に宝鐸がさがる....外陣の側面に連子窓、内への入口は桟唐戸

△本堂の大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は混成複合式/妻飾の虹梁の間の小壁に兎のような動物の彫刻を配す


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大塚・歳勝土遺跡-(3) (横浜)

2023年08月01日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・都築区】大塚集落遺跡から南に約80メートル離れた位置に広がる「歳勝土遺跡」は、大塚遺跡の住人たちの墓所とされる。 25基ある墓は弥生時代~古墳時代にかけての墓の一形態である"方形周溝墓"。 周囲に溝を掘り、墓域が広く土盛りを施して中央に木棺をおいた方形周溝墓は有力者のものとみられ、社会的な発展を示す。

■大塚遺跡の南に位置する歳勝土遺跡に近づくと、こんもりとした方形の墓が幾つか見える。 復元された5基の墓は、方形に土を盛り、四方に溝を掘った造りだが、その中央付近だけに棺を納めたにしては大き過ぎるサイズだ。
墓所内には墓道があるが、北に約80メートル離れた大塚のムラから続いていた道らしい。 墓道を奥に進むと、復元されていない墓の溝の跡が分かるように石が並べられている。 当時の大塚のムラには100人くらい住んでいたらしいが、その程度の人口での墓所としては規模がデカすぎる感じがする。

△入り口側の園路から眺めた歳勝土墓地遺跡....大塚集落遺跡からほぼ南に約80メートル離れた位置にある

△大塚遺跡側から眺めた歳勝土墓地遺跡のほぼ全景....25基の墓と溝から多くの土器が発掘された

△復元された5基の方形周溝墓群....「方形周溝墓の埋葬当時を復元した姿」の案内板

△多くは四辺を囲む溝とマウント中央に棺を埋めた穴だけが見つかる....手前はS-10墓、奥右はS-1墓、奥左はS-4墓

△復元された方形周溝墓の内部....「方形周溝墓の埋葬内部を復元した姿」の案内板

△墓地の最北部にあるS-16墓に復元された埋葬内部

△S-16墓に隣接する手前(東南側)はS-17墓だが盛り土が少ない

△S-16墓の埋められた木棺の埋葬状態の復元....調べたら、弥生時代の棺には甕棺、支石棺、箱式石棺、木棺があるが、特に木棺を中央においた方形周溝墓は有力者の墓のようだ

△大塚遺跡側のS-10墓とS-16墓の間から墓所内に向かって墓道が延びている

△整然と並ぶ方形周溝墓の列の間に一定の隙間があり、この隙間が通路(墓道)らしい

△S-9墓(溝位置を石で配列)の右側が墓道で、右奥から墓道が二手に分かれていた

△墓地南側に広がる復元されなかった方形周溝墓の跡(周囲の溝跡)を石を配列して示されている

△墓は墓地南側の緩やかな傾斜地にまで広がっている

△東端から眺めた墓地....手前はS-11墓、その奥にS-15墓そしてS-16墓

△NETから拝借した上空からの歳勝土遺跡写真

△園内に造営された「大塚・歳勝土遺跡周辺地形模型」の案内板

△大塚・歳勝土遺跡部分の拡大図

△大塚遺跡部分....弥生時代中期集落/祭勝土遺跡部分....弥生時代中期墓地
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