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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

祥瑞寺 (大津)

2025年02月06日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】鎌倉時代末期の元弘二年(1332)、比叡山横川楞厳院の僧・了本房が草庵「玉泉庵」を結んだのが始まり。 その後、南北朝時代の康暦二年(1380)に僧単澡に、更に同時代の明徳二年(1391)に僧原素に譲られ、室町時代応永十三年(1406)に京都大徳寺の高僧・華叟宗雲に寄進され、華叟宗雲は禅宗寺院・祥瑞寺として開山した。
祥瑞寺は一休和尚(宗純)修養の地で、宗純22歳の時、禅の道を究めるため祥瑞寺の門を叩き、華叟宗雲の教えを乞って13年間修行した。 壊疽時代元禄三年(1690)に松尾芭蕉がこの寺を訪れていて、句碑がある。 宗旨は臨済宗(大徳寺派)で、本尊は釈迦如来坐像。

◆堅田の伊豆神社から100mほど歩くと、「一休和尚修養地」の石碑が建つ門前に着く。 境内の東側と南側に堀があり、東側に建つ山門の前の堀に低い高欄付きの石造り反橋が架かっている。 山門はコの字に設けられた築地塀の間に建ち、築地塀の屋根が弓なりに反っている。
境内は一面苔生していて、山門から続く切石敷参道の奥に鐘楼と庫裡が見える。 小棟造りの鐘楼の軒廻りは、珍しい一軒吹寄垂木だ。 庫裡は書院及び本堂と連なっているようだが、前庭からは庫裡の東側半分と唐破風の玄関しが拝観できず、堂宇配置は分らずだ。

△祥瑞寺門前に建つ「一休和尚修養地」の標石

△門前の堀に架かる石造り反橋と少し先に切妻造銅板葺の山門....山門はコの字に設けられた築地塀の間に建ち、瓦葺屋根が弓なりに反っている

△山門は薬医門形式で照り屋根、軒廻りは一軒半繁垂木

△梁上に平三ツ斗を乗せた蟇股を置く/山門の扉は上に菱格子を入れた桟唐戸....門前に寺号標石がなく、山門の柱に「臨済宗 大徳寺派 祥瑞寺」の表札が掛かる

△山門から眺めた境内....芝生境内(前庭かな)の切石敷参道の先に堂宇が建つ

△石碑が佇む前庭に建つ寄棟造桟瓦葺の鐘楼、右の建物は庫裡

△基壇上に建つ小棟造りの鐘楼は禅宗様で、軒廻りは一軒吹寄垂木

△鐘楼に下がる梵鐘       鐘楼越しに眺めた庫裡

△切妻造桟瓦葺で妻入の庫裡(東側)....大棟端に鳥衾付鬼瓦、拝は猪目縣魚、妻飾は笈形付虹梁大瓶束(と思う)

△庫裡に唐破風の玄関があるので客殿または方丈(書院?)と一体の構造?....唐破風玄関の脇から境内を仕切る中門の袖塀が延びている

△玄関の唐破風に乗る獅子口、兎毛通は猪ノ目懸魚....妻飾は虹梁大瓶束、下の梁に大きな本蟇股を配す/庫裡東面にいずれも瓦葺庇を設けた腰高格子戸と両側に格子窓があり、それぞれの庇には支えるように持送を施している

△苔生した前庭に鎮座する摩滅が激しい2基の板碑型石仏....左は右手に五鈷杵を持つ空海か?

△前庭に鎮座する古い墓碑の板碑型石仏や石造物群

◆庫裡の唐破風の玄関の脇から境内を仕切る中門の袖塀が延びている。 中門前の苔生した庭には石造物や松尾芭蕉の句碑などがひっそりと佇む。 中門の中に広がる苔生した庭は、左手の木々から緑の枝が延びていて風情のある佇まいだ。
中門の正面に小棟造りの開山堂、右手に本堂や書院が建つ。 苔庭の保護のためか中に入れず、中門から身を乗り出して撮影した。 開山堂と本堂は禅宗様建築で、正面の白壁に花頭窓があしらわれている。 落ち着いた佇まいの堂宇境内からの禅宗様建築の拝観が叶わず.…残念だった。

△中門前の苔庭に石造物や石碑が佇む

△地面に置かれた中台から上の石燈籠      飾手水鉢

△松尾芭蕉の句碑....芭蕉は元禄三年(1690)の秋に祥瑞寺を訪れた....句碑に刻まれている句は「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」

△境内を仕切る切妻造桟瓦葺の中門と格子窓を設けた白壁の袖塀

△中門に結界棒が置かれていて中に入れず....予約未済のためか苔庭を護るためかは不明

△中門から眺めた苔生した庭の正面に小棟屋根の開山堂、右奥に本堂、手前右手に書院....開山堂は白壁に花頭窓を配す

△基壇上に建つ寄棟造銅板葺の開山堂....開山華叟宗曇と一休宗純の木像が安置されている

△入母屋造桟瓦葺の本堂、右は書院....本堂に本尊釈迦如来様を安置、本堂は大正時代に焼失し昭和八年(1933)に再建

△本殿の手前は桟瓦葺の書院で、裳腰に内縁があり、縁外に沓脱石と井戸がある

△本堂正面の中央間に上に連子を入れた大きな桟唐戸、脇間三間に花頭窓と2つの舞良戸とを配している/書院の内縁傍にある井戸の滑車


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伊豆神社-(2) (大津)

2024年01月26日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】平安時代の天暦三年(949)に山城国加茂大神を勧請し、神田大明神伊豆大権現のニ神を祀って室町時代には堅田大宮とも称され、湖上水運に特権をもっていた堅田全域の総鎮守として崇敬された。 室町後期の永禄十二年(1569)、兵火によって多くの社殿、社宝、記録などが焼失して一時衰退したが、中世には琵琶湖の水運に絶大な特権をもっていた。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に再興されたが、その際、合祀されたはずの下鴨神社の分霊が祀られなくなった。境内にはハート形の霊石「幸福を呼ぶ石」があり、撫でると願いが叶うと伝わる。

★本殿境内には本殿と並んで太い鈴紐が下がる「伊勢 大神宮」、また、本殿に向かって左側の境内に境内社三社が鎮座している。 「稲荷大神」の額が掛かる石造り鳥居と「年丸大明神」の額が掛かる木造りの鳥居とが建ち並ぶL形に曲がった参道の奥に年丸稲荷神社がある。 年丸稲荷神社は拝殿と本殿で構成され、拝殿がある境内社はかなり珍しいと思う。 

△年丸稲荷大明神への参道に立ち並ぶ「稲荷大神」の額が掛かる石造り明神鳥居と三基の朱塗りの明神鳥居

△三基の朱塗りの明神鳥居には「正一位 年丸大明神」の額が掛かる/年丸稲荷大明神への参道脇に鎮座する境内社....神明社または樹下神社か?

△年丸稲荷大明神の前に建つ額のない石造り明神鳥居/隣りに鎮座する長寿神の社....ご神木の「無患木」があり、傍に「子に患いが無いように」とある

△朱塗りの瑞垣で囲まれ,「年丸大明神」の額が掲げられた年丸稲荷神社

△切妻造銅板葺の拝殿と一間社流造銅板葺の本殿が連なるように建つ....両殿の間に雨樋を配す

△平入の拝殿....大棟端に獅子口、拝は猪の特徴的な目懸魚....扁額の「正一位」が右から書されている/社殿に浜床、組高欄、側縁奥に板張りの脇障子....方柱の拝殿に対し本殿は円柱

★年丸稲荷神社の参道脇に天満宮が建ち、社頭には首に注連縄を巻いた臥牛像が鎮座し、道真公を守護している。 境内には「幸福を呼ぶ石」というハート形の霊石があり、擦ると縁結びの願い事が叶うそうだ。 自分にはとっくに縁のない願い事だが…周りを気にしながらそっと撫でてみたが....。

△稲荷社の左手に立つ「天満宮」の額が掲げられた石造り明神鳥居

△基壇上に鎮座する一間社流造銅板葺の天満宮

△天満宮の御神牛の臥牛像/一間社流造銅板葺の天満宮....側縁奥に脇障子、組高欄、浜床がある

△入母屋造桟瓦葺の社務所....社務所前に建つ手水舎

△切妻造銅板葺の手水舎            3本爪の龍の水口

△ハート形の霊石「幸福を呼ぶ石」....擦ると幸せをもたらすと伝わる石
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伊豆神社-(1) (大津)

2024年01月21日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】伊豆神社の草創は、平安時代の寛平四年(892)、宇多天皇(第59代)御代の寛平年中(889~898)に諸国行脚をしていた延暦寺の僧・法性坊尊意僧正が、静岡三嶋大社から分霊を勧請したことに由来と伝える。 古くは京都賀茂社の分霊を祀る神田神社と伊豆神社の両社殿からなっていた。 主祭神は大山祇命。

★浮御堂がある満月寺にほど近いところに鎮座する神社で、境内の周囲を琵琶湖に繋がるお堀で囲んでいる。 お堀に架かる石造りの反り橋の前に立つと、明神鳥居の中に拝殿、そして拝殿の柱の間に神門と本殿の屋根が垣間見える。 反り橋を渡って境内に。 周囲に注連縄を張り巡らした拝殿は壁のない吹き放しなのでどうみても神楽殿だと思う....が、拝殿前の境内案内板には拝殿とある。 されど、参拝のための鈴と賽銭箱がない。

△堀に架かる石造り反り橋と傍に立つ大正十三年(1924)造立の社号標石....境内を囲む割堀は琵琶湖に繋がっている

△「伊豆神社」の額が掲げられた屋根付きの石造り明神鳥居

△社号標石の直ぐ後方の基壇(台石二段)の上に立つ石灯籠/鳥居を入って直ぐの左右の脇に立つ石灯籠

△中門前の中央に建つ入母屋造銅板葺で妻入の拝殿....案内板に「拝殿」と記されているが、鈴や賽銭箱がないので神楽殿(または舞殿)と思うのだが....

△三間四方の拝殿の軒廻りは二軒疎垂木、大棟端に鬼板、拝に猪ノ目懸魚、妻飾は狐格子....外壁のない吹き放しで、丸桁を柱上の舟肘木で支えている

△拝殿の天井は格天井....周りに組高欄付き切目縁を巡らす

△拝殿に向かって右手に建つ入母屋造銅板葺の神饌所....一軒疎垂木、拝は猪ノ目懸魚、妻飾は連子子を配した狐格子か?

△拝殿に向かって左手に建つ切妻造桟瓦葺で吹き放しの建物....神事が行われる場所と思う

△瓦葺きの透塀に囲まれた本殿と幣殿、社頭に配された二基の石灯籠と狛犬....石灯籠は大正四年(1915)の造立

★拝殿の先に神門が建ち、門前左右の高欄付基壇の上に狛犬が鎮座している。 見ると左の吽形は一角なので雌の狛犬で、右の阿形は獅子だ。 本殿境内は神門と屋根付き瑞垣で囲まれているが、神門の扉が開けれていて本殿を間近で拝観でき参拝できる。 少し気になったのが賽銭箱で、鈴がない拝殿と鈴が下がる本殿のいずれにもなぜか賽銭箱がないことだ。 境内社には置かれているが....。

△本殿前に建つ神門....左右に瓦屋根の透塀が延びる

△神門前の左右の高覧付基壇の上に鎮座する狛犬....左の吽形は一角があるので雌の狛犬/右の阿形は雄の獅子

△切妻造桟瓦葺の神門

△幣殿から眺めた本殿....殿前に鈴は下がるが、何故か賽銭箱が置かれていない

△一間社流造銅板葺の本殿....縁に組高欄、左右の縁奥に脇障子、向拝下に浜床がある

△外壁は真壁造り板張り....組高欄付き縁の左右の奥に板張りの脇障子

△板張りの脇障子、側壁は縦羽目板/二軒重垂木、扉は菱格子の引き戸

△本殿に向かって右側の基壇上に伊勢大神宮が鎮座

△切妻造銅板葺の伊勢大神宮           瑞垣で囲まれた本殿境内に立つ石灯籠








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菩提禅寺 (湖南)

2022年04月14日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】江戸時代の享保八年(1723)、黄檗宗の宗祖隠元の法孫である寂門道律を開基として建立された「正禅庵」が始まりとされる。 「正禅庵」は蒲生郡日野の商家島崎家の先祖光岳と当地の伊地知氏・真野氏が建てた精舎。
聖徳太子創建と伝えられる近江正明寺に住していた寂門道律禅師は、江戸時代前期に戒律復興運動を推進した黄檗宗の律僧・妙幢浄慧が依止した律僧で、龍渓性潜の高弟。
正禅庵はもとは歴代天皇の祈願所であった大般若院少菩提寺の阿弥陀堂だったが、室町時代元亀元年(1570)の兵火ですべて灰燼と化した。 江戸時代に再興されて後水尾天皇(第108代)の勅願寺となり、江戸時代享保八年(1723)に黄檗宗となって黄檗禅の中本山の寺格を備えた。 昭和元年(1926)に寺号が菩提禅寺に改称された。 宗旨は黄檗宗で、本尊は平安時代作とされる木造阿弥陀如来立像。  <2020年6月9日投稿の「菩提寺」(削除済み)の改訂版>
なお、大般若院少菩提寺は奈良時代天平三年(731)に創建された興福寺の別院で、最盛期に七堂伽藍と37坊を擁する大寺院だったが、7元亀元年(150)、織田軍と武家・六角氏の戦渦に巻き込まれて全山を焼失、以後、復興されず廃寺となった。

●石部駅で借りたレンタサイクルで野洲川に架かる石部大橋を渡り、県道27号線の野洲甲西線を東に進んで菩提禅寺に向かう。
菩提寺集落の道に入り、山側に上っていくと石段の参道の入り口に菩提禅寺の寺号標石が立つ。 石段の上の植栽の上に本堂の屋根と石塔の上層が見える。 S字状に曲がった石階を上りつめると正面に庫裡が建ち、砂利が敷き詰められた境内の左手の奥の基壇の上に本堂が鎮座。
中央間の腰高格子戸の前の切目縁に、「脚下照顧」と浮彫りされた駒形木札が置かれていて禅宗寺院らしい。

△「黄檗宗 圓満山菩提禅寺」と彫られた寺号標石が立つ参道入り口から山岳寺院のような石の階が続いている

石階下から眺めると、繁った植栽の上に石塔の上層部が頭を出している/S字状に曲がった石段参道を上ると正面に庫裡が建つ

△山腹の境内には砂利が敷き詰められ、石段から本堂に向かって切石敷の参道が延びている....右手の建物は庫裏

△入母屋造桟瓦葺の本堂....基壇の上に建ち、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱上に舟肘木があるだけ

△大棟端に鯱、中央に露盤宝珠を配している....正面三間は全て引き戸式の腰高格子戸

△長押の上は白壁の小壁....中央間に「菩提禅寺」の扁額が掲げられている/基壇上に建つが床下に亀腹を設けている

△大棟端に鳥衾付鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

△本堂正面の縁に置かれた「脚下照顧」の駒形木札/「脚下照顧」とは禅家の語で、自分の足元をよく見よという意

△向拝の両側に設けられた石造り天水桶....向拝軒先から吊り下がる円柱の樋を通して雨水を受ける/境内の隅に置かれた唐獅子瓦....邪気や邪鬼を祓い除けや火除けの縁起物で屋根に乗せる

●本堂に向かって左手前に、室町後期に造立された地藏菩薩石像が低い基壇上に鎮座。 輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされたこの石像は、廃寺となった大寺院・大般若院少菩提寺の遺仏とされ、まさに、少菩提寺の栄枯盛衰の歴史をしっかりと目に焼き付けてきた石仏だ。
地藏菩薩石像の前にある基壇の上に、野洲川の川向の石部の町並みを遠望するように江戸時代享保八年に造立の三重石塔が立つ。 相輪を乗せた三重石塔の初層軸部の輪郭を巻いた中に「法華塔」と彫られている。 この塔は建立時は山頂に聳えていて、信仰厚く多くの人々が参拝したらしいが、いまは参拝する人はないとのこと.…合掌。

△本堂前に野洲川や石部の町並みを遠望するように石塔や石仏などの石造物が並んでいる

△基壇上に鎮座する室町時代永正十六年(1519)造立の地蔵石仏....少菩提寺の遺品(伝)で、像高114cm

△輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされた地蔵菩薩像....像右に「三界万霊 法界衆生」の刻/軒付舟形の龕部に二仏が浮き彫り

△銀杏の根元の基壇上に鎮座する墓碑の石造物群....中央付近に頭部をもぎ取られた坐像を乗せた墓碑がある

△3基あるうちの2つの五輪塔だが、右側は五輪塔の上に別の五輪塔の火輪から上を積み重ねたようだ/左は頭部のない坐像を乗せた墓碑、右は2つの五輪塔が浮き彫りされた屋根付き墓碑

△地蔵菩薩造の前に佇む三重石塔....享保八年(1723)の造立で、建立時は山頂に聳えていたのを境内に移転

△相輪を乗せた三重石塔....初層軸部に輪郭を巻いた中に「法華塔」の刻

△境内から眺めた野洲川の向こう岸側の湖南市石部の町並み

△二重円光の光背を背負い、赤い前垂れをした地蔵尊立像/地蔵石仏の傍に置かれた一石造り(と思う)の五輪塔

△入母屋造桟瓦葺で裳腰付の庫裡

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宇佐八幡宮-(2) (大津)

2022年04月07日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】此の地(錦織荘)の山腹に宇佐八幡宮が鎮座したことで、この山を宇佐山と呼ぶようになったとされる。 鎮座して以来、宇佐八幡宮は土地の産土神として崇拝され、子供の守神「むし八幡」として親しまれてきた。
宇佐山は戦国時代、織田信長の近江攻略のための前線基地のような地だった。 境内の御由緒碑によると、織田信長が宇佐山の山頂に宇佐山城を築城したが、戦乱の中で落城し、その戦火により社殿が悉く焼失したとあり、荘厳な往時の様子はいまに語り継がれているとある。
宇佐山の麓には天智天皇を祭神として皇紀2600年を記念して昭和十五年(1940)に創祀された近江神宮が鎮座しているが、歴史と由緒ある宇佐八幡宮はそこから僅か数百メートルしか離れていない樹林の山中に鎮座しているにもかかわらず、近江神宮に比べて参詣者が少ない。

●左三つ巴紋を入れた暖簾が張られた神門をくぐると、掃き清められた境内に厳かな空気が流れる。 神門の左右に壁に菱狭間窓を入れた小さな回廊があり、神門から本殿へも長押の上の小壁に額が掲げられた廊が延びている。 廊は本殿の庇と繋がっていて、本殿の傍らにはずんぐり体型だが精悍な姿の阿形・吽形の狛犬が鎮座。
本殿は一間社流造で、向拝を隠すように「対い鳩紋」を入れた鮮やかな紫色の神幕が張られ、軒下に4基の金色の釣燈籠が吊り下げられている。

△左三つ巴の紋を入れた暖簾が張られている神門を通して眺めた本殿

△神門(中門)の左右に延びる菱狭間窓を入れた切妻造銅板葺の回廊

△神門と本殿が屋根付き廊で繋がり、廊の先に鈴が下がり賽銭箱が置かれている

△長押の上に様々な額が掲げられた廊の本殿近くの左右に狛犬が鎮座、本殿の左右の境内に各2社の境内社が鎮座している

△魔よけの力があるとされる阿形・吽形の狛犬

△長押の上は白壁の小壁で丸桁を支える舟肘木....屋根付き廊が本殿と繋がり、左右に石燈籠と狛犬が鎮座

△流造銅板葺の本殿(一間社流造)....全ての柱が土台の上に立ち、正面左右に組高欄付縁、側面縁奥に板張りの脇障子

△白い「対い鳩紋」を入れた紫色の神幕が張られた本殿....左右の軒に釣燈籠が下がる

△本殿前の賽銭箱の上に下がる紅白の紐と大きな鈴/本殿の正面は菱格子扉

●本殿の左右の縁下に、沢山の青い土鳩がびっしりと雛壇状に並んでいる。 調べたら、八幡様の神使である鳩は、子供の健やかな成長を祈る土鳩信仰によって奉納されたものとのこと。 広くない境内には、本殿の左右にそれぞれ二社の境内社が石を積んだ基壇の上に鎮座している。
境内の隅に、約960年前に源頼義が創設した宇佐八幡宮の柱石の一部が置かれている。 神門付近で発掘されたそうだが、礎石の表面が焼け爛れているので、宇佐山城の戦火で八幡宮も焼失したことを裏付けているようだ。
険しい参道を下り、麓の住宅地に延びる参道を進むと宇佐八幡宮の遥拝所がある。 遥拝所で参拝しながら、宇佐山の麓に鎮座する昭和十五年(1940)に創祀された近江神宮に比べて宇佐八幡宮への参詣者が少ない理由が分かった気がした。 体力に自信のない参詣者がこの遥拝所で参拝を済ませてしまうためだろう….と。

△本殿左右の回縁下に雛壇のように並ぶ奉納された沢山の青い土鳩....鳩は八幡様の神使で、子供の健やかな成長を祈る土鳩信仰による

△本殿向かって右側に鎮座する二社の境内社

△右側二社の左が若宮八幡宮、右は丹後宮....いずれも流造銅板葺

△本殿向かって左側に鎮座する二社の境内社

△左側二社の左が蛭子社、右が高良社(稲荷社)....いずれも流造銅板葺

△蛭子社と高良社の前に立つ寛政四年(1792)造立の石燈籠....丸と三日月のある火袋が木製格子で覆われている(と思う)/蛭子社(左)と高良社(右)

△寛政九年(1797)造立の石燈籠....火袋の窓に格子を入れている/昭和五十四年(1979)造立の木製の家形据燈籠

△境内の隅に置かれている礎石....平安時代治暦元年(1065)に源頼義が宇佐八幡宮を創設した当時の柱石の一部で、明治期に中門付近の地中から出土/礎石表面が焼け爛れている....山頂に築かれた宇佐山城が戦火に遭った際、八幡宮も焼失したことを裏付ける遺構(伝)

△入母屋造銅板葺の宇佐八幡宮の遥拝所....住宅地の参道脇に建つ

△遥拝所の大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子

△遥拝所の境内に鎮座する切妻造桟瓦葺の祠と左に流造銅板葺の祠....右は奉燈と刻まれているので石燈籠の異形のようだ

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宇佐八幡宮-(1) (大津)

2022年04月01日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】平安時代中期の治暦元年(1065)、「前九年の役」で安倍氏を討って平定した鎮守府将軍源頼義(頼朝の五代前)が、豊前国(現在の大分県宇佐市)宇佐神宮を鳩の群れが導き示した此の地(錦織荘)に祠宇を建て、勧請して創建した。 頼義は前九年の役の功績により康平六年(1063)に正四位下伊予守に任じられ、治暦元年(1065)に出家し信海入道と号した。
「前九年の役」とは、永承六年(1051)~康平五年(1062)にかけて、陸奥の豪族安倍頼時とその子らが起こした反乱。 境内には天智天皇の病気を治したとされる「金殿井」と呼ばれる霊泉がある。 ご祭神は八幡大神(応神天皇)。

●近江神宮から直線で約700メートルの距離に鎮座する宇佐八幡宮に向かう。 川沿いの道を進むと山麓の参道入口の傍に、青紫の花が満開のジャカランダの大樹が聳え、鬱蒼とした枝葉を大きく広げて参道を覆い、薄暗い大樹の下に隠れるように社号標石が立つ。
坂道の参道を上っていくと石造りの明神鳥居が立ち、そこから右脇に石燈籠が整然と立ち並ぶ参道が鬱蒼とした樹林の中に吸い込まれるように続いている。 樹林の中の参道を暫らく上っていくと、参道脇に朱塗りの瑞垣に囲まれて「御足形」が鎮座するが、岩面に沓形があって御神示の跡だそうだ。
さらに上ると参道の右脇に小さな棟門が建ち、棟門の少し先に天智天皇の病気を治したという霊泉である「金殿井」がある。 棟門をくぐり、覆屋で護られた「金殿井」に。 中を覗くと、格子の中に周りが石で固められた湧泉がある。 棟門と「金殿井」から砂利を敷いた狭い参道が奥に続いているが、この参道が本来の表参道なのだろうと思う。

△参道入口に立つ社号標石と傾斜地に聳える青紫の花が咲き乱れるジャカランダ

△参道途中に建つ石造り明神鳥居....額束に「宇佐八幡神社」の額

△参道脇に朱塗りの瑞垣に囲まれて鎮座する「御足形」....岩面の沓形は御神示の跡と伝えられる....鹿島鳥居風の鳥居を構えている

△参道脇に一定の間隔で立ち並ぶ石燈籠....奥に霊泉「金殿井」への門が見える

△天智天皇の病気を治した霊泉「金殿井」への参道に建つ瑞垣の袖塀を備えた切妻造銅板葺の棟門(だったと思う)

△乱積の石垣の上に建つ覆屋....「金殿井」の額が掲げられている/切妻造桟瓦葺の覆屋に護られている霊泉の「金殿井」

△格子の中が霊泉の「金殿井」         周りが石で固められた霊泉

●砂利の参道を進むと、木立に囲まれて朱塗りの二基の明神鳥居と四基の木製家型据燈籠を構えた豊平稲荷社が鎮座。 ごつごつとした十数段の石段を上ると、乱積基壇の上に建つ瑞垣に囲まれた覆屋があり、その中に二重に積み重ねた巨石の上に社殿が建つ。
参道の奥に着き社殿境内への石階を見上げると、木々の間に神楽殿が見える。 石階を上りつめると、深い樹林に囲まれた静謐な境内が広がり、手入れが行き届いていて気持ちがいい。 目前に建つ神楽殿を通して中門と呼ばれる神門と両側の菱狭間窓を入れた回廊が見える。 唐破風を設けた神門に「宇佐八幡宮」の扁額が掲げられ、門柱の左右に「宇佐八幡宮」の文字を入れた提灯が下がっている。 提灯の正面から見えない位置に、彩色された向かい合う2羽の鳩が描かれている。 鳩は八幡神(八幡宮)の神使で、調べたら「対い鳩紋」といい、向かい合う2羽の鳩が「八幡神の”八”」を表すそうで、鎌倉鶴岡八幡宮の扁額「八幡宮」の”八”の絵文字を思い出した。

△参道脇に鎮座する豊平稲荷社....社殿前の石階のに二基の朱塗りの明神鳥居と四基の木製家型据燈籠を構える

△乱積の基壇の上に鎮座する豊平稲荷社

△切妻造桟瓦葺の覆屋に,二段重ねの巨石の台座上に鎮座する豊平稲荷の社殿/流造板葺の社殿

△参道から眺めた石段上の神楽殿

△両側に笠の形が微妙に異なる4基の石燈籠が立つ石段....社殿境内の入り口に建つ神楽殿

△神楽殿奥の鬱蒼とした樹林から、社殿が深い山中に建っていることが分かる

△入母屋造銅板葺の神楽殿....大棟端に獅子口が乗る....境内は手入れが行き届いている

△神楽殿の軒廻りは二軒疎垂木、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子

△神楽殿左手に建つ手水舎と左奥に切妻造桟瓦葺の社務所

△切妻造桟瓦葺の手水舎            口は口から清水を吐き出す3本爪の龍

△神楽殿の天井は格天井....神楽殿を通して眺めた神門と左右に延びる回廊

△社務所前から神楽殿越しに眺めた神門

△切妻造銅板葺の神門(中門)と壁に菱狭間窓を入れた銅板葺の回廊

△門柱の両側に下がる「宇佐八幡宮」を入れた提灯....正面から見えない位置に向かい合う2羽鳩が描かれている....鳩は八幡神(八幡宮)の神使/彩色された「対い鳩紋」....2羽の鳩は「八幡神の”八”」を表す.....御神紋は「三ツ巴水紋」

△唐破風を設けた神門...「宇佐八幡宮」の扁額、入り口に左三つ巴の紋を入れた暖簾が張られている


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滋賀院門跡 (大津)

2021年10月01日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】江戸初期の元和元年(1615)、江戸幕府に仕えた天台宗の僧・天海が、第107代天皇だった後陽成上皇から京都法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築して創建した寺院。 明暦元年(1655)、後水尾天皇(第108代)から寺領千石が賜われ、明暦元年(1655)に寛永寺の守澄法親王が天台座主に就任した前後に、父の後水尾上皇から滋賀院の寺号を賜った。
江戸時代末まで、天台座主となった代々の法親王が暮らす御殿となり、比叡山延暦寺運の営と天台宗宗政の中心となって延暦寺本坊として機能した。 滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は明治十一年(1878)の火災で焼失したが、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移築されて再建された。 宗旨は天台宗で、本尊は薬師如来像。

◆慈眼堂から滋賀院門跡への参道石段を下っていくと、石段の下の左右に境内社が鎮座している。 境内社は乱積みの基壇の上に瑞垣に囲まれて建ち、いずれも流造りの社殿の山王社と石鳥居を構えた稲荷社だ。
たくさんの支え柱を設けた白壁の築地塀にそって進むと、築地塀で囲まれた滋賀院門跡の堂宇境内の外側に建っている天台宗務庁の敷地に。 天台宗務庁近くの築地塀の傍に、日本最初の大師号を賜った根本伝教大師像、そして最澄の有名な言葉からとった「照隅苑」の石碑がある。
天台宗務庁の正面の築地塀に設けられた仕切り門をくぐって滋賀院門跡の境内に。 入母屋造りで白壁の2つの御堂がそれぞれの境内を仕切る塀を挟んで建ち並び、さらに仕切り塀があって山門側に庫裡が建つ。 ネットで調べたら境内には内仏殿、宸殿、二階書院、庫裡、勅使門、山門があるのだが、境内図が見当たらないので、庫裡、勅使門、山門以外の堂宇名は分からない。
2つ目の入母屋造りの御堂の玄関前には透塀があるが、中国でみられる目隠しの照壁のようだ。 御堂傍に珍しい造りの覆屋で覆われた古井戸がある。 覆屋は棟門のように二本の柱で支えられ、補強のためそれぞれの柱の両側に控え柱を設けていて、両部鳥居の控え柱を連想させる。 どれが本堂なのか分からず、また向拝も見当たらない(見過ごした?)ので参拝せず、また散策予定の都合により国の名勝に指定されている将軍家光命で作庭されたとされる池泉回遊式庭園も拝観せず、足早に庫裡前を進んで山門を出た。
山門から右に石垣と筋塀に沿って進むと本坊の正面に勅使門があり、門跡寺院の風格を醸し出している。 滋賀院門跡は穴太衆積みと称される背の高い石垣と5本の筋が入った白壁の立派な筋塀に囲まれ、また筋塀の間に荘厳な勅使門があって比叡山延暦寺の本坊(総里坊)らしい構えだ。

△滋賀院から慈眼堂境内への石段参道の入り口の左右に鎮座する滋賀院境内社の稲荷社と山王社

.△乱積み基壇の上、瑞垣に囲まれて鎮座する稲荷社と山王社

△石段下の左手に鎮座する石造り明神鳥居を構えた稲荷社....額束に「正一位稲荷大明神」の額/流造銅板葺の稲荷社社殿....社を護る神使の狐が一頭鎮座

△石段下の右手に鎮座する山王社        流造銅板葺の山王社社殿

△天台宗務庁が建つ敷地から眺めた滋賀院門跡....築地塀に囲まれて内仏殿・宸殿・書院・庫裏・土蔵などが建ち並ぶ

△滋賀院門跡の築地塀脇に立つ根本伝教大師像と昭和六十三年(1988)造立の「照隅苑」の碑

△天台宗務庁

△築地塀に設けられた仕切り門....中が滋賀院門跡の境内、手前は天台宗務庁そして慈眼堂への参道

△入母屋造桟瓦葺の御堂(堂名分からず)....玄関は入母屋造りで唐破風を設けている....大棟に右三つ巴入りの獅子口、拝に懸魚なし、妻飾は狐格子....軒廻りは失念、組物は舟肘木で、長押の上は白壁の小壁

△入母屋造桟瓦葺の御堂(堂名分からず)....左に境内を仕切る屋根付き板塀、御堂前には照壁のような連子入り透塀を設けている

△大棟端に右三つ巴を入れた獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は連子窓を設けた白壁の素式/切妻造桟瓦葺の覆屋の古井戸....棟門形式の造りで2本の柱に控え柱を設けている

△境内の勅使門の左手にある松尾芭蕉の句碑「叡慮にて賑ふ民や庭竈」....貞享五年(1688)の作/苔生した手水鉢....自然石を用い上面に長方形の水溜が掘られている

△境内側から眺めた勅使門

△入母屋造桟瓦葺で妻入の庫裡....大棟端に獅子口、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子....玄関は獅子口を乗せた入母屋破風桟瓦葺で、拝は三つ花懸魚、妻飾は狐格子

△門柱に「延暦寺事務所」と「通用門」の聯が掲げられた山門(通用門)

△穴太衆が積んだことから穴太衆積みと称される背の高い石垣....自然石の組み合わせのみで積み上げ小石を詰め石として利用している

△滋賀院門跡は、立派な石垣と5本の筋が入った筋塀(築地塀)で囲まれている

△正面に建つ切妻造杉皮葺き(と思う)の勅使門(御成門)....箱棟で正面と後方軒に大きな獅子口を乗せた唐破風を設けている

△二軒繁垂木で格天井になっている....各梁の中央上に動物(鳥や獣)とみられる彫刻が配されている

△門扉は菱狭間を入れた桟唐戸....桟に装飾を兼ねた飾金具が打たれている/垂木の木口、兎毛通し、組物の胡粉を施している

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延暦寺慈眼堂 (大津)

2021年09月25日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】江戸時代初期の正保三年(1646)、天台宗寺院恵日院の山内に建立された禅宗様を基本とした仏堂で、慈眼大師天海大僧正の廟。 堂内には木造慈眼大師坐像(重文)が祀られていたが、現在は延暦寺国宝殿に保管されている。
近世天台宗の傑僧とされた天海は、徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に幕府の顧問として遇され、政務にも参加した。 慶長十二年(1607)に比叡山南光坊に住し、安土桃山時代元亀二年(1571)に織田信長の焼き討ちにあって全焼した比叡山延暦寺を復興した。 また、家康の死後、東照大権現を贈号し、日光東照宮・輪王寺や東叡山寛永寺の 創建など多くの業績を残した。 慈眼大師の勅諡号は、慶安元年(1648)に 第110代後光明天皇から賜った。

◆鬱蒼とした木々に覆われた門前に、軒反りの大きな笠を乗せた石燈籠が佇む。 両側に白壁の築地塀が延び、鬱蒼と茂る木々に覆われて日差しが遮られた参道が山門まで延びている。 真ん中が切石敷になっている玉砂利の参道を進んで山門に。
山門は本柱と控柱の間に切妻屋根を設けた高麗門で、左右の柱に小さな「慈眼堂」と「恵日院」の聯が下がっている。 山門を通して慈眼堂が見える。
山門をくぐると苔生した境内が広がり、参道両脇にお椀を伏せたような笠を乗せた数基の重厚な石燈籠が、まるで慈眼堂に誘うように立ち並んでいる。 正面の基壇上に建つ慈眼堂は、慈眼大師天海大僧正の御廟で、江戸初期に建てられた禅宗様の建築様式を基本とした建物。 扇垂木、詰組、桟唐戸、花頭窓、丸柱の粽、礎盤など禅宗様の意匠が見て取れ、荘厳な佇まいを醸し出している。
慈眼堂の左手に厳かな雰囲気が漂う墓所があり、「慈眼大師塔」と刻まれた無縫塔、桓武天皇の御骨塔、後陽成天皇や後水尾天皇の供養塔の九重石塔、徳川家康・紫式部の供養塔などがひっそりと佇んでいる。 九重石塔の二基は相輪ではなく宝珠を笠に乗せている(1基は欠落)。 墓所後方の一段高い所に13体の阿弥陀如来坐像石仏が少し間隔を置いて鎮座し、静かに墓碑群を見守っている。

△天台宗寺院恵日院の境内に建つ慈眼堂の門前....石燈籠を構え、切石敷参道の両側に白壁の築地塀が山門まで延びる

△門前に立つ石燈籠は天明八年(1788)の造立

△切妻造桟瓦葺の山門....両側に簡素な板造袖塀を設けている

△山門は切妻屋根に直角に本柱と控柱間に切妻屋根を設けた高麗門の造り/左右の柱に小さな「恵日院」「慈眼堂」の聯が掲げられている

△山門から眺めた延暦寺慈眼堂の境内....切石敷参道の両脇の苔生した境内に、慈眼堂に誘うように佇む江戸時代初期造立の石燈籠群

△宝形造桟瓦葺の慈眼堂(重文)....江戸時代正保三年(1646)の建立で慈眼大師南光坊天海大僧正の廟

△慈眼堂には木造慈眼大師天海大僧正坐像(重文)が祀られていたが、現在、延暦寺国宝殿に安置されている

△正面三間の慈眼堂の軒廻りは二軒扇垂木、組物は実肘木を乗せた出三斗で柱間に2つの詰組

△両脇間は花頭窓で、下に腰羽目板/中央間に藁座に固定された連子入りで飾金具が施されている桟唐戸

△重厚な石燈籠越しに眺めた延暦寺慈眼堂....後方に恵日院が建つ

△境内の16基の石燈籠は江戸時代初期の造立で、慈願堂の建立と同時に設置された

△延暦寺慈願堂の墓所....江戸時代以降の歴代天台座主の墓(無縫塔)や徳川家康・紫式部の供養塔がある

△後水尾天皇の供養塔の九重石塔        東照大権現の供養塔の九重石塔

△石燈籠が建ち並び、右手後方の一段高い所に鎮座する石仏群に見守られている延暦寺慈願堂の墓所

△桓武天皇の供養塔の石造り宝塔....鎌倉時代後期の造立/後陽成天皇供養塔の石造九重塔

△清少納言之塔の五輪塔(一番手前)、2番目は和泉式部之塔で3番目が紫式部之塔だがいずれも笠石が欠落した五輪塔だと思うが....

△慈眼大師(天海大僧正)之墓碑の無縫塔....寛永二十年(1644)の造立で「慈眼大師塔」の刻/高貴な方の宝篋印塔と思うが不詳

△墓所後方の一段高い所に鎮座する13体の阿弥陀如来石仏....戦国時代天文二十二年(1553)の造立で、江戸時代初期に高島郡(現滋賀県高島市)鵜川から移設された (写真はNETより拝借)

△慈眼堂が建つ鮮やかな緑に囲まれた恵日院の境内

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近江神宮-(2) (大津)

2021年07月08日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】昭和二十年(1945)の終戦の直後に神道指令が発令され、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨によって勅祭社に治定された。 現在、勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し、奉幣を行う神社)は16社(加茂別雷神社、石清水八幡宮、春日大社など)ある。
日本で最初の時計・漏刻(水時計)を採用した天智天皇を祀る神社であることから、境内に漏刻と称される水時計や日時計などがあり、世界の時計約2300点を集めた時計館・宝物館が併設されている。

◆外拝殿奥の石段の上に内拝殿が建ち、連子窓を設けた回廊に囲まれている。 外拝殿の中央通路の内側に賽銭箱が置かれていて、ここで参拝した。 回廊を通って内拝殿に近づけるが、ない拝殿前に賽銭箱が見えないので、多分、参拝は外拝殿でと思う。 外拝殿の右手に栖松遙拝殿への吹き放しの朱塗りの廻廊があり、途中に賽銭箱が置かれている。 そこから山手に、樹林を背にして栖松遙拝殿が鎮座している。 栖松遙拝殿は、かつての高松宮家の邸内社・御霊殿で、大正二年に廃絶した高松宮家と神縁があって、平成十八年に近江神宮に移築された。
時計館・宝物館前の玉砂利が敷かれた境内に、赤色の「精密日時計」と白色の「矢橋式日時計」が置かれ、時計館・宝物館の西隣りに天智天皇が創始した漏刻(水時計)が設けられている。
境内北側に神楽殿が建ち、妻側に設けられた舞台は連子窓のある回廊に囲まれている。 切妻で照り屋根の玄関の横の回廊に設けられた連子入り扉から中へ....。 神楽殿の妻側五間が大きな唐破風を設けた舞台になっていて、五間の建具はいずれも腰高格子戸、手前に組高欄付き切目縁がある。 回廊の北側に社務所への出入口があり、石段を降りて社務所に。
楼門に戻る途中、ふとと境内の裏山に目をやると、樹林の中に咲いている紫色の藤の花を見つけた。 野生の藤の花は何度か見たことがあるが、人の手になる藤棚とは違って味わいがある。

△外拝殿から眺めた祭典や祈祷が行われる内拝殿

△入母屋造銅板葺の内拝殿....昭和十五年(1940)建立....正面五間で、中央間三間は板唐戸で脇間は蔀戸

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗(と思う)で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股....中央間の扉は両折両開の板唐戸

△外拝殿の内拝殿側に唐破風の拝所が設けられている

△外拝殿の左右からコの字形に建つ内院回廊....昭和十五年(1940)の建立

△左側の内院回廊から眺めた内拝殿

△左側内院回廊から眺めた内拝殿後方の檜皮葺の神門と本殿の大棟....昭和十五年(1940)建立の本殿の大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る

△右側の内院回廊....奥の壁に大きな連子窓を配している

△右側の内院回廊から眺めた内拝殿

△外拝殿回廊から栖松遙拝殿に向かう屋根付きの回廊....回廊に賽銭箱か置かれた拝所がある/回廊に設けられた拝所/拝殿から眺めた鳥居を構えた遙拝式が行われる栖松遙拝殿

△神明鳥居を構えた栖松遙拝殿....有栖川宮家の「栖」と高松宮家の「松」をとって名付けられた

△流造銅板葺の栖松遙拝殿....寛永二年(1625)創立の高松宮家の邸内社・御霊殿,平成十八年(2006)に近江神宮に移築された

△寛文七年(1667)に高松宮から有栖川宮に改称されて以来、御霊を祀っていた....高松宮家が大正二年(1913)に廃絶したため,近江神宮創建当初から高松宮殿下と神縁があったことから近江神宮に移築

△玉砂利の境内に赤と白の2基の日時計が置かれている

△「精密日時計」....中央の棒はほぼ北極星の方向を指しているとか/岐阜天文台の矢橋徳太郎氏考案の「矢橋式日時計」

△楼門の左絵に建つ時計館・宝物館....昭和三十八年(1963)の築

△自動車清祓所....明治二十三年(1890)建築の旧大津裁判所本館車寄の玄関車寄せで、昭和四十六年(1971)に近江神宮に移築された

△漏刻(水時計)の模型....天智天皇が天智天皇十年(671)に漏刻を創始....昭和三十九年(1964)にオメガ社総代理店が奉納

△手前から北神門、外透塀、外廻廊、神符授与所そして楼門が連なる

△社殿境内の外側から見た切妻造銅板葺の北神門....昭和十五年(1940)建立、正面奥は栖松遙拝殿

△境内に置かれた石押しに眺めた入母屋造銅板葺の神楽殿....昭和十九年(1944)建立/正面は切妻で照り屋根の玄関と大きな格子戸が並ぶ

△神楽殿の切妻造りの玄関は鬼板を乗せ、拝に猪目懸魚、妻飾は豕扠首....扉は玄関には珍しい観音開きの板張戸

△玄関右手の連子入り透き塀と回廊で囲まれた中に神楽殿の舞台がある/神楽殿の妻側五間は大きな唐破風の舞台....腰高格子戸で組高欄付き切目縁を設けている

△神楽殿前の回廊の社務所への出入口/社務所

△社務所の大きな唐破風の玄関

△入母屋造銅板葺の社務所

境内の裏山に咲く野生の藤

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近江神宮-(1) (大津)

2021年07月02日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】第38代天智天皇が天智天皇六年(667)、琵琶湖西岸のこの地に古都・近江大津宮を創建して飛鳥から遷都した。 大津宮に遷都したのは大和政権が天智天皇二年(663)に唐・新羅連合軍に攻められた百済を救援するため水軍を出したが、唐・新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」で惨敗、そのため連合軍の日本侵攻への危機が高まり、海に近い難波京や飛鳥では不安なため国土防衛上と考えられている。
天智天皇は皇太子(中大兄皇子)として大化の改新を断行し、第37代斉明天皇没後に称制をとり大津宮に遷都したのち即位した。 大津宮は遷都5年後の天智天皇十一年(672)、皇位継承をめぐって起こった「壬申の乱」により廃都になった。 この由緒に因み、明治三十年(1897)頃から天智天皇を祀る神宮の創建運動が滋賀県民の間に高まり、昭和に入って昭和天皇の勅許を賜わり、皇紀2600年の佳節にあたる昭和十五年(1940)、近江大津宮跡に天智天皇を祭神として創祀された。
社殿は「近江造り」と呼ばれ、山麓の傾斜地に本殿・内拝殿・外拝殿を回廊が囲む造りで、近代神社建築の代表的なものとされる。祭神は天智天皇。

◆時々小雨が降る中、京阪石山坂本線近江神宮前駅から徒歩で近江神宮に向かった。 県道47号線に面した表参道入り口に、樹林を背にして一の鳥居が立つ。 一の鳥居は木造の明神鳥居で、亀腹の上の柱に大きな根巻を設けている。
鳥居をくぐり、深い緑の中に延びる厳かな空気に包まれた広い参道を進むと、数十段の石段の上に木造の二の鳥居が立つ。 中段の境内に立つ鳥居をくぐると、山裾に数基の歌碑・句碑が参詣者を迎えるようにひっそりと立ち並び、その先に大きな屋根の手水舎そして上段の社殿境内への石段がある。 石段の上に建つ鮮やかな朱塗りの楼門を見上げながら上りつめると、門前は静寂につつまれ、神々しい雰囲気が漂っている。
楼門を通して荘厳な外拝殿がみえるが、中央部に大きな唐破風そして左右に翼廊がある割拝殿だ。 石段前の左右に火袋や中台などに装飾彫刻が施された立派な石燈籠が佇み、下側の広い石段の上に大理石で造られた白い狛犬が鎮座する。 狛犬は左右いずれも阿形像で、左が子取り、右が玉取り。 石段左手に、約4000年前の古代中国で使われていたとされる龍の姿をした「古代火時計」の模型がある。
石段を上って外拝殿に。 外拝殿は中央入口に大きな唐破風、左右に翼廊を設けた割拝殿の造り。 中央の通り抜け通路は全て唐破風の天井で、4本の梁の中央に天井の荷重を受ける大瓶束を配している。 外拝殿で振り返って見ると、深緑を背にして朱塗りの楼門が神々しく鎮座している。

△県道47号線に面した近江神宮の表参道の入口

△入り口に立つ「近江神宮」の社号標石/一の鳥居の木製明神鳥居....鳥居は亀腹の上に大きな根巻を設け、額束に社号額がない....奥に続く広い表参道

△表参道の途中の石段の上に建つ二の鳥居の木製明神鳥居/二の鳥居を通して眺めた境内には現代建立の石碑群が建ち並び、右奥に手水舎がある

△表参道の山裾に立ち並ぶ現代建立の歌碑・句碑群....手前左は平成二十年(2008)建立の「高市黒人歌碑」

△切妻造銅板葺の大きな屋根の手水舎....屋根を支える四方の柱に各々2本の補強柱がある....右隣に切妻屋根を乗せた由緒高札がある

△自然石を用いた手水鉢....上部を掘り窪めて水溜を作っている/清水を吐き出す3本爪の龍の水口

△手水舎の右隣に切妻造銅板葺屋根の由緒高札があり、樹林の間に社殿境内への石段がある

△石段上の社殿境内の入口に建つ鮮やかな朱塗りの楼門

△入母屋造銅板葺の三間三戸の楼門

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は中央間に蟇股、脇間は間斗束....軒天井と蛇腹支輪がある

△上層の周囲に組高欄付き切目縁を巡らす....切目縁を支える腰組は三手先

△楼門を通して眺めた外拝殿

△入母屋造銅板葺の外拝殿....昭和十五年(1940)建立

△外拝殿の石段下に狛犬、石燈籠、古代日時計

△両方共阿形の大理石製狛犬....左は子取りの狛犬/右は玉取りの狛犬

△見事な装飾が施された平成二年(1900)造立の石燈籠(皇紀2640年の銘がある)

△古代火時計.....古代中国(約4000年前)で使われていたと伝えられる....昭和五十四年(1979)ロレックス社が奉納

△石燈籠越しに眺めた割拝殿造りの外拝殿

△通り抜けできる中央部に大きな唐破風、左右に翼廊がある

△翼廊は組高欄付き縁を巡らし、前面は全て蔀戸

△外拝殿の中央の通り抜け通路は全て唐破風天井....架かる4本の梁の中央に天井の荷重を受ける大瓶束を配している/左右翼廊側の梁の中央に脚間に彫刻を配した本蟇股を乗せている

△外拝殿を通して眺めた内拝殿

△外拝殿から眺めた楼門
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正福寺 (湖南)

2020年06月05日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】奈良時代の天平十五年(743)、諸国に国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)の勅願により、華厳宗の僧(第二祖)・良弁が開山したと伝えられる。
創建時は七堂伽藍を整え、僧坊18を擁した大寺で、平安時代にかけて隆盛を誇った。 2度の火災に遭ったが、平安時代の貞観十年(868)、願安大師により伽藍が再興された。 戦国時代末期の元亀年間(1570~1573)、織田信長の比叡山焼き討ちの兵火に遭って一山諸堂僧坊が悉く焼失して衰退したが、本尊の大日如来像、そして薬師如来像、十一面観世音菩薩像、子安地蔵菩薩像は難を逃れた。
江戸時代の承応年間(1652~1655)、浄土宗の住僧寂誉が易行念仏の道場として中興し、明暦年間(1655~1658)、華厳宗から浄土宗に改宗した。 その後も度々火災に遭ったが、本尊大日如来像等の仏像は奇跡的に災難を逃れてきた。 復興に着手していた無徳上人願主により宝暦十二年(1762)、諸堂が完成して再興された。 宗旨は浄土宗で、本尊は大日如来坐像。大日如来坐像は、金粛大菩薩の一刀三礼による彫刻とされる秘仏。 大日如来・ 薬師如来・十一面観世音・子安地蔵の仏像4体は、旧国宝保存法では国宝だったが、昭和二十五年(1950)制定の文化財保護法ではいずれも重要文化財に。

バス道路から続く参道の入り口に寺号標石、六字名号塔、霊場塔、そして「國寶 大日如来」と「國寶 薬師如来 十一面観世音 子安地蔵尊」の碑が立つが、いささか乱立気味だ。 樹林の中に真っ直ぐ続く参道を進むと、山門への石段があり、脇に「大日如来御詠歌」が刻まれた石碑が置かれている。
浄土宗の宗紋「月影杏葉」を配した幕が張られた山門をくぐるとさらに石段があり、その上に堂宇境内が広がっている。 正面に本堂、右に大玄関を挟んで庫裡、左の少し奥に観音堂が建っている。 本堂向拝の水引虹梁に「ともいき堂」と書された大きな額が下がり、五色幕が張られた本堂の前の右手に、合掌する法然上人の幼年像が鎮座している。
本堂の裏は雛壇のツツジの花畑になっていて、植栽の中に十三観音石仏が並び、大日如来と思われるひときわ大きな戦国時代造立の朝鮮風石造り五重塔1基が十三観音を見守るように立っている。
観音堂では、前縁に鎮座する賓頭盧尊者像が迎えてくれる。 観音堂前の基壇に小さな覆屋が建ち、中に舟光背型一石六地蔵石仏が鎮座....大事に安置されている石仏に癒された。 また、本堂と観音堂の間にも磨崖石仏があり、自然石を銅鐸形に掘り窪めた中に地蔵尊坐像らしき像が薄肉彫りされている。
山門前の右手の木立の中に石組護岸の放生池があり、池の中に弁財天を祀っているとみられる石祠がある。 正福寺から東へ150メートルほど行った竹林の中に、飛鳥時代造営とみられる塚山古墳がある。 巨石を重ねた横穴式構造の石室に入り、緻密に積み上げられた巨石を眺めていると、この地を支配した当時の豪族の財力と権力を思い知らされる感じがした。

△参道入口に寺号標石、「國寶大日如来」、「國寶 薬師如来 十一面観世音 子安地蔵尊」、六字名号塔そして西國三十三所観音霊場塔などの石碑が佇む....本尊大日如来像そして薬師如来像、十一面観世音菩薩像、子安地蔵尊像はいずれも重要文化財

△石段下から眺めた浄土宗の宗紋「月影杏葉」を配した幕が張られた山門

△切妻造本瓦葺で二軒繁垂木の山門....両側にL字の瓦葺袖塀を設け、右側に通用口がある
 
△石段右傍にある「大日如来御詠歌」が刻まれた石碑/門前の植栽の中に佇む「國寶大日如来」と刻まれた櫛型の碑....本尊大日如来像は1950年施行の文化財保護法以前は国宝だった

△山門から眺めた境内....正面に本堂、右に庫裡、左に観音堂が建つ
 
△切妻造桟瓦葺の手水舎     △自然石を刳り抜いた舟形の手水鉢

△入母屋造桟瓦葺の本堂....正面と側面に五色幕が張られている
 
△五色幕が張られた正面入口に「正福寺」の扁額が掲げられ、向拝の水引虹梁に、大きな木板に「ともいき堂」と書された額が下がる

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子
 
△本堂に向かって左手前に鎮座する水子地蔵尊像/右手前に鎮座する勢至丸坐像....勢至丸は浄土宗の宗祖法然上人の幼名

△本堂の西側に建つ観音堂と鐘楼

△小棟の寄棟造桟瓦葺の観音堂

△三間四方、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木....中央間は腰高格子戸、両脇間に現代的な四角い窓を配す
 
△観音堂には薬師如来坐像、地蔵菩薩半跏像そして2体の十一面観音立像を安置/観音堂前縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊者像

△流造銅板葺の覆屋に鎮座する舟光背型一石六地蔵石仏

△大事に安置されている一石六地蔵石仏

△基壇の上に建つ切妻造本瓦葺の鐘楼
 
△頭貫の中備に1つ、飛貫の中備に2つの刳抜蟇股を配す/鐘楼に下がる梵鐘
 
△本堂と庫裡の間に設けられ、月影杏葉紋を入れた幕が下がる大玄関/身舎に裳腰を設けた入母屋造桟瓦葺の庫裡....縁側に「法然共生」を配した幕が下がる
  
△本堂と観音堂の間に、自然石を銅鐸形に堀り窪めた中に鎮座する磨崖石仏は地蔵尊坐像とみられる/本堂裏の雛壇のツツジの花畑の中に鎮座する三十三観音石仏と石造五重塔/朝鮮風の石造五重塔は戦国時代大永二年(1522)の造立

△山門前の右手の木立の中にある石組護岸の放生池
 
△昭和五十年(1975)造営で「放生池」の標石がある/放生池に鎮座する石祠は弁財天を祀っている
 
△正福寺から東へ150メートルの所の竹林の中にある塚山古墳/案内板に「6世紀末から7世紀前・中葉までの年代で、この地の豪族たちの配下の墓と考えられ、横穴式構造の石室」とある

.△飛鳥時代造営(とみられる)の塚山古墳の石室内部





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西教寺-(2) (大津)

2019年12月09日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】織田信長の比叡山焼き討ち後、近江国滋賀郡を与えられて坂本城を築城した武将・明智光秀が、地理的に坂本城に近い西教寺を菩提寺にしようとして復興に尽力した。 それ以来、光秀との由縁が深く、境内には光秀一族の墓がある。 江戸時代には、本堂再建にあたって紀州徳川家から建材の寄進を受けるなど、徳川家の庇護をうけたようだ。
明治十六年(1941)、明治政府によって別派独立が公許され、「天台宗真盛派」の本山となった。 昭和十九年(1941)、天台三派合同となったが、昭和二十一年(1946)に天台宗三派「延暦寺(三門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)」に分離、天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立した。

石段を上りつめると、砂利を敷いた境内が広がり、幽玄静寂な空気が漂う。 本堂に続く切石敷の参道を進む....本堂の正面は、五間の桟唐戸と脇間に蔀戸があるだけで、寝殿造りのようで荘厳な風格を感じさせる。
本堂に向かって左手の高い乱積石垣の上に白壁の築地塀があり、石垣を背にして宝篋印塔や石仏など多くの石造物が整然と並んでいる。 その中に、織田信長の延暦寺焼き討ちで焼失した西教寺の復興に尽力した坂本城主・明智光秀の供養塔と妻の墓がある。 妻の墓は小さな五輪塔で、光秀の供養塔から少し離れた場所に眠っている。 光秀の供養塔など4基の石造物が鎮座する前には「明智光秀一族の墓」と表示されているだけで、どれが光秀の供養塔なのか分からずだ。 多分、香炉が置かれ、上に石仏が鎮座し、「萬霊」と刻まれた墓標がそれだと思うが....。 本能寺の変の後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走の途中で悲惨な死を遂げた戦国武将のならいとはいえ、光秀一族が眠る墓はなんだか寂しそうに佇んでいるようにみえる。
杮葺の客殿の門の前の小さな放生地に、苔生した石造りの太鼓橋が架かり、その先に宗祖真盛上人御廟への石段が深い樹林の中に続く。 急な石段参道を上りつめると、山中に、石垣と白壁の築地塀に囲まれて「慈摂大師」の扁額が掲げられた真盛上人御廟がひっそりと建っている。

本堂境内....左手に客殿、右奥に大本坊が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂(重文)....元文四年(1739)建立で四代目、正面(桁行)七間側面(梁間)六間の総欅造り....建材は紀州徳川家の寄進

軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蟇股、軒支輪がある

正面の中央五間は菊紋を配した連子入りの両折両開の桟唐戸で、中に明障子と欄間、また両脇は蔀戸で中に明障子
 
正面三間の向拝....天水桶があるが、雨水を桶に通す鎖樋等がない/周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

本尊に平安時代作の丈六阿弥陀如来(重文)を安置

入母屋造本瓦葺の手水舎(水屋)....大棟に「西」入りの鳥衾と鬼板....後方は右が観音堂で左は納骨堂
 
二軒繁垂木で格天井、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子/手水鉢に清水を注ぐ龍の水口

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の納骨堂
 
露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の観音堂/観音堂に鎮座する金色の円光を背負い、未蓮華をもつ黒い聖観音菩薩立像

江戸中期造立の宝篋印塔越しに眺めた本堂

左は安永八年(1779)、右は明和六年(1769)造立の宝篋印塔
 
六字名号が刻まれた板碑型三界万霊等の左後方の小さな五輪塔が坂本城主・明智光秀の妻・凞子(天正四年(1576)寂)の墓/平成十六年(2004)法要開眼の聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩石仏

天正十二年(1584)造立の旧二十五菩薩石仏は風化・破損が激しいため「欣浄廊」に移設・安置....前列の左右端に毘沙門天と不動明王が鎮座

織田信長の延暦寺焼き討ちで焼失した後、寺の復興に尽力した明智光秀公と一族の墓....「明智光秀一族の墓」とあるが、光秀の供養塔はどれかな?

本堂左手に建つ南面入母屋造・北面切妻造杮葺の客殿(重文)と切妻造杮葺で連子を入れた桟唐戸の門(薬医門)....客殿は桃山時代建立で、伏見城の旧殿を移築した遺構

宗祖真盛上人御廟への石段参道の入り口....左手の六字名号塔は宗祖真盛上人の筆による

宗祖真盛上人御廟への石段参道前の放生池に架かる苔生した石橋

石橋は擬宝珠欄干を設けた石造りの反橋(太鼓橋)....右奥の苔生した木造の塀は客殿
 
宗祖真盛上人御廟への長い石造りの階/宗祖真盛上人御廟への階の途中から見下ろした客殿

御廟への石段途中の脇に佇む染殿(五輪塔)....鎌倉時代の造立で境内で最も年代が古い石造物

真盛派の開祖・真盛上人御廟(歴代管長墓所)境内に建つ宝形造本瓦葺の建物....天保十三年(1843)の建立で、堂内に真盛上人の墓の五輪塔を安置

二間四方の折衷様(和様・唐様)で、軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の出組、中備は蟇股、軒支輪がある

「慈摂大師」の扁額が掲げられた正面中央は菱狭間を入れた桟唐戸、脇間に花頭窓

大本坊(庫裏)....明智光秀と妻凞子夫人の木像を安置

入母屋造桟瓦葺の大本坊....昭和三十三年(1958)の改築.....昭和の木造建造物では滋賀県内最大
 
入母屋造本瓦葺の袴腰付き鐘楼堂....天保二年(1831)の建立で、梵鐘(重文)は平安時代作、もとは坂本城陣鐘で明智光秀寄進とされる/総檜造りで、軒の出が深くて重量感があり、袴腰の裾が広く安定感がある

擬宝珠高欄付き廻縁を設けた鐘楼堂....軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手先で中備に蓑束....回縁を支える腰組は三手先で中備は本蟇股


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西教寺-(1) (大津)

2019年12月05日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】飛鳥時代、聖徳太子が仏法の師である高麗僧の慧慈と慧聡のために開創したと伝えられ、推古天皇二十六年(618)に大窪山の山号、天智天皇八年(668)に西教寺の寺号を下賜されたとされる。 その後、久しく荒廃していたが、平安時代、比叡山中興の祖で天台座主の慈恵大師良源大僧正が復興し、良源大僧正の弟子の源信(恵心僧都)とともに念仏道場として栄えた。
室町時代、比叡山で修行していた真盛上人(真盛派の開祖)が文明十八年(1486)に入山....堂塔と教法を再興し、不断念仏の根本道場として発展した。
戦国時代の元亀二年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失したが、3年後に本堂が再建され、本尊として甲賀郡浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えた。 宗旨は天台系仏教の一派である天台真盛宗(総本山)で、本尊は阿弥陀如来像。

坂本観光案内所でレンタサイクルを借り、西教寺に向かった。
総門は高麗門で、もと城門だけあって重厚な感じだ。 門前は古刹を感じさせる趣ある雰囲気が漂う。
総門を通して境内を眺めると、鮮やかな緑のトンネルの中に参道が真っ直ぐ延びている。 両脇に幾つかの塔頭寺院が鎮座する砂利敷の参道を進むと、正面に、左右に白壁の袖塀を設けた勅使門が見えてくる。 勅使門は意外に簡素な造りだ。
門前の左手に、独立前の旧寺格を表す「天台宗真盛派本山」と刻まれた寺号標石が佇む。 勅使門の左手には、六注造桟瓦葺の手水舎が建ち、その先に築地塀で囲まれた宗祖大師殿の通用門がある。
白壁の築地塀に沿って進んで宗祖大師殿の表門の唐門に向かう。 唐門は約100年前の大正時代の建立だが風格があり、虹梁の上などに配された精緻な獅や龍などの多彩な彫刻が見事だ。 各所に飾金具を打ち、花狭間と連子を入れた桟唐戸には天台真盛宗の紋「三羽雀」が配されているが、連子の中の羽根を広げた雀の姿が実に可愛い。
唐門をくぐって宗祖大師殿境内に....正面に宗祖大師殿が建つが、シンプルな住宅建築風の建物なれど格式が感じられる。 境内には真盛上人が出家した時の姿の「宝珠丸像」が鎮座し、西教寺を再興した自分が安置されている宗祖大師殿を向いて佇んでいる。 勅使門側にある通用門を出て、左手の少し急な石段を上って本堂がある境内に向かう。

総門は天正年間(1573~1592)に坂本城主明智光秀が移築した坂本城門....明治十一年(1878)建立の寺号標石に「天台真盛宗総本山」の刻

切妻造本瓦葺の総門....老朽化で昭和五十九年(1984)に修理復元....本柱と控柱の間に切妻屋根がある高麗門....門前の石燈籠は天保十三年(1842)の造立

石碑は「沢庵禅師の碑」で、慶長十九年(1614)作の紀行文「石山行記」に書かれている一文

総門を通して眺めた境内の参道....緑に覆われ、砂利を敷いた参道が一直線に伸びている
 
参道途中の階は、宗祖大師殿の唐門への石段参道/一直線に延びる境内参道の突き当りに勅使門が見える

左右に白壁の築地塀を設けた勅使門....門前の寺号標石には旧寺格の「天台宗真盛派本山」の刻

切妻造本瓦葺の勅使門....白壁の袖塀を設けている...手前の石燈籠は総門前のものと同形なので天保十三年(1842)造立とみられる

勅使門は四脚門で軒廻りは二軒繁垂木....屋根の棟に装飾された経巻を乗せた獅子口を配す

勅使門の頭貫上に龍の彫刻を入れた蟇股、虹梁上に笈形付き大瓶束を配す....板扉に入八双の八双金具と多くの花菱釘隠が施されている
 
石造り十三重層塔....軸部には舟形に掘り窪めた中に四方仏が彫られ、基礎の格狭間には蓮花か?/勅使門後方の裳腰を付けた建物は、上の本堂境内に建つ納骨堂

宗祖大師殿の通用門の前に建つ手水舎
 
六注造桟瓦葺の手水舎         格天井の手水舎に置かれた蓮花形の手水鉢

宗祖大師殿の唐門....左右の袖塀は全長3m、宗祖大師殿境内を囲む白壁の築地塀は全長38mでいずれの塀にも薄い5本の筋が入っている

宗祖大師殿の入母屋造檜皮葺きで前後に軒唐破風を設けた唐門....大正六年(1917)建立で、唐破風屋根に三羽雀紋入りの獅子口が乗る
 
花狭間と連子を入れ、飾金具を打った桟唐戸    桟唐戸の連子に入れた天台真盛宗の紋「三羽雀」

頭貫の虹梁の中央に三斗、左右に精緻な獅子の彫刻,上の虹梁には笈形付きの大瓶束で大きな装飾結綿....棟通りに精緻な龍の彫刻

入母屋破風の拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子

入母屋造桟瓦葺の宗祖大師殿....明治二十七年(1894)の建立....明治十一年(1878)の真盛宗別派独立に伴って建設された格式の高い住宅建築の意匠

正面の軒唐破風の屋根は銅板葺....軒廻りは二軒疎垂木で、組物は長い束の上に舟肘木....正面と側面は全面が腰高明障子戸で、周囲に擬宝珠高欄付縁を巡らす

荘厳な雰囲気が漂う宗祖大師殿境内...回忌塔と頌徳碑が立ち、宝珠丸像が大師殿を向いて鎮座

境内奥に立つ頌徳碑と3基の回忌塔....玉垣で囲まれた頌徳碑は昭和二年(1927)の建立

宗祖大師殿を見つめる宝珠丸像(真盛上人出家時の幼形像)....宝珠丸は14歳で剃髪・出家し、名を真盛と改めた

通用門から眺めた宗祖大師殿.....天台真盛宗の宗祖真盛上人(円戒国師・慈摂大師)の木像を安置する

宗祖大師殿の檜皮葺の通用門(平唐門)....大正六年(1917)の建立の四脚門で、左右の袖塀は全長3m及び築地塀は全長43m

頭貫上に棟柱を支える大きな蟇股....連子入り桟唐戸の連子に天台真盛宗の紋「三羽雀」を配す
 
宗祖大師殿の唐門近くの築地塀傍に鎮座する石仏と石造物、獅子口は三羽雀紋入り/宗祖大師殿から本堂境内への階の石段
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西應寺-(2) (湖南)

2019年02月06日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】室町時明応元年(1492)に作製された古地図(模写)には、禅祥坊とその近くに「禅定安〇岩」と記された巨大な岩が描かれており、本堂右手に鎮座する巨大岩がこの岩であることから禅祥坊が西鷹寺の前身であることを裏付けている。
客殿の裏手に、岩山の傾斜地を築山として趣向を凝らして造営された枯山水の庭園がある。

巨大岩から書院の裏手に広がる枯山水の庭園に向かう。 
「庭園入口」の案内板がある小さな門をくぐって右手に進むと、渡り廊下があって行き止まりだが、みると床板を跳ね上げて庭園に入る説明板が。 志納金を箱に納め、跳ね橋のように床板を上げて枯山水の庭園に....。 まず目に入ったのは、庭園奥の一段高い所に建つ楼閣造りの白壁の無量寿堂、そして庭園上方に聳え立つ高さ約10メートルの十三重石塔だ。
岩山の傾斜地に造営された庭園は、露出した岩肌の間に植栽や石組を配し、その中に回遊のための飛び石を敷き、いろいろな形の大小の石灯籠を点在させていて趣がある。 庭園はいろいろと趣向を凝らして造られているらしいが....自分はただ静かに観賞するだけ。
お寺の方から「古地図も見ていってください」といわれ、書院に上がって拝観、撮影もさせて頂いた。 古地図は模写らしいが、奈良時代建立の少菩提寺の一山を表した図で、本堂脇の巨大岩と前身の禅祥坊がくっきりと描かれていて感動し、奈良時代の荘厳な姿の少菩提寺に思いを馳せた。

瓦葺の客殿と銅板葺の書院の屋根越しに眺めた十三重石塔と無量寿堂

入母屋造銅板葺の書院....玄関は大きな唐破風屋根

唐破風の玄関....兎毛通は猪の目で、頭貫上に猪の目を入れた板蟇股
  
大棟端に獅子口が乗る切妻造桟瓦葺の鐘楼/鐘楼に吊り下げられている梵鐘/五輪塔風の異形の石塔....五輪塔の地輪がなく、水輪と火輪の間に宝篋印塔の笠をはめ込んだもの....大小2基の五輪塔の部位を利用しているようだ
 
枯山水庭園への棟門....屋根表面に竹が葺かれている/書院と庫裏を繋ぐ渡り廊下....床板が跳ね橋のように跳ね上げて庭園に....

岩山の傾斜地に造営された枯山水の庭園....植栽の中に多くの石組や様々な石灯籠が配されている

庭園上部に立つ十三重石塔と楼閣造りの無量寿堂....書院の縁側の前にある蹲と石燈籠
 
庭園上部に聳え立つ高さ約10メートルの十三重石塔/初層軸部は輪郭を巻いて格子模様を入れた狭格間、基礎には連子模様をいれた狭格間が....
  庭書院の縁側から眺めた枯山水の庭園....植栽の中の石燈籠と壺....菊や龍の文様がある壺は飾手水鉢の代わりか

入母屋造桟瓦葺の客殿....軒廻りは一軒疎垂木
 
露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺で楼閣造りで白壁の無量寿堂/軒廻りは一軒繁垂木、組物は平三斗で中央に詰組....組高欄付廻縁の腰組は出組
  
上層は中央に舞良戸、脇間は小壁の小脇羽目....下層は袴腰風の白壁(漆喰壁か)/正面に「無量寿堂」の額が掲げられた無量寿堂は納骨堂か/無量寿堂の正面側に佇む竿が方形で太いずんぐりした形の2基の石燈籠
  
無量寿堂が建つ台地に五重石塔と歌碑、石垣下に石燈籠と歌碑が佇む/五重石塔の初層軸部に宝珠に彫り窪めた中に四方仏、基礎の四方に狭格間....基礎の正面の狭格間の中に向き合う鳥(孔雀?)が浮彫/自然石を利用して造立された石燈籠

入母屋造銅板葺の書院....軒廻りは一軒疎垂木で組物は舟肘木、拝に猪目懸魚、妻飾は狐格子

書院内景....連子欄間の連子に藤と牡丹の紋を配している

書院内にある室町時代明応元年(1492))作の少菩提寺一山の古地図(模写)
 
古地図の中央に「禅定安〇岩」と記された巨大岩があり直ぐ近くに禅祥坊が描かれている
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西應寺-(1) (湖南)

2019年02月01日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】江戸時代の天和三年 (1683)、祐堂禅師を開基として創建された。 この山地一帯には、奈良時代、東大寺のほか国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)が国家の繁栄と安泰を願い、華厳宗の僧・良弁僧正が創設した少菩提寺という古刹があった。
少菩提寺は奈良興福寺の別院で、大金堂、三重大塔、開山堂などのほか7つの神社と36の僧坊とを有し、壮大な伽藍がその偉容を誇って興隆していたが、戦国時代の元亀二年(1571)、織田信長の兵火により全山を殆ど焼失した。 36僧坊の一つが西應寺の前身である禅祥坊で、所有する寺宝の室町時代明応元年(1492)作の古地図(模写)には、盛時の少菩提寺が克明に描かれ、現在の地に禅祥坊があったことが示されている。 宗旨は浄土真宗(大谷派)で、本尊は阿弥陀如来立像。

落ち着いた門前に着き、5本の白い筋が入った黒い袖塀を設けた薬医門をくぐると、直ぐ「円満橋」という石造りの反橋がある。 その先に、両側に緑が茂る階が続き、上り詰めた堂宇境内入り口の建物の傍に多くの石仏が鎮座、向かい側の山裾の植栽に織部石燈籠や歌碑などがひっそりと佇んでいる。
参道の正面奥に本堂が建つが、数年前に再建された建物なので柱や梁などから木の香りが漂ってくるようだ。 本堂右手にどっかりと鎮座する巨大岩の前に、池泉の小さな庭と岩山の斜面に造営された庭が広がる。 放生池とみられる池泉の庭は、周囲の植栽に石塔や石燈籠が配され、池の中に傾いた竿の石燈籠が佇んでいてなかなか趣がある。 岩肌にしわ模様がある巨大岩は、明応元年(1492)作の古地図(模写)に描かれており、この巨大岩の上で少菩提寺を創設した良弁僧正が坐禅を行ったらしい。
巨大岩の横で腰を下ろし、おこがましいが、良弁僧正の坐禅修行をまねてしばし瞑想擬き....合掌。

落ち着いた雰囲気の門前....本瓦葺の黒い袖塀(筋塀)に5本の筋が入っている

切妻造本瓦葺の山門(薬医門)
 
山門をくぐると直ぐ反橋の「円満橋」がある/前垂れをした多くの石仏が置かれた建物から堂宇境内に....
 
参道脇の山裾に佇む織部石燈籠と歌碑(と思う)

緑に覆われた参道の奥に鎮座する本堂

入母屋造本瓦葺の本堂....平成二十六年(2014)建立、周囲の一間が吹き放ち、擬宝珠高欄付き廻縁を設けている

軒廻りは一軒繁垂木、組物は平三斗で中央間に2つの詰組....向拝水引虹梁の柱上に連三斗、中央に本蟇股

母屋は正面五間、中央三間に両入両開の桟唐戸で内側に明かり障子と菱格子欄間、両脇間は白壁の小脇羽目
 
藤の寺紋を配した天水桶、樋は鎖樋でなく箱型/本堂前庭に置かれた数基の不完全な石塔

本堂前の右手にある池泉は放生池か....池の中と周囲の植栽に幾つかの石燈籠などの石塔が佇む
  
植栽の中に佇む五重石塔と異形の宝篋印塔....幾つかの石塔の部位を組み合わせもの

本堂に向かって右側に鎮座する巨大岩....この巨大岩で良弁僧正が坐禅を行ったそうな

趣がある巨大岩を背にした放生池と岩山の斜面に造営された庭園

巨大岩越しに眺めた本堂....巨大岩のあるこの山の山裾に前身の「禅祥坊」があった
 
巨大岩の傍に佇む異形の石塔....複数の五輪塔の部位を重ねたもの/良弁僧正が坐禅を行ったとされる巨大岩にしわ模様がある
 
堂宇境内を見つめるように岩山斜面の庭園に佇む石燈籠
  
庭園の植栽の中に佇む異形の五重層塔と五輪塔....幾つかの石塔の部位を組み合わせたもの/石燈籠
 
切妻造桟瓦葺の手水舎               竹筒の水口から清水が注がれている六角形の手水鉢
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