goo blog サービス終了のお知らせ 

何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

珍味・美味!?

2025年03月16日 | ひとり言

【中国・福建省・福州市】約15年前、仕事で中国の福州市に長期滞在した際、現地会社の部長夫妻の案内で馬尾区に属する琅岐鎮を訪れた。 琅岐鎮は福州市内を流れる閩江(びんじゃん)の河口に位置する大きな島で、琅岐島に鎮座する4つの寺院を巡った。 往路は閩江に架かる閩江大橋を渡ったが、帰路はフェリーを利用した。
寺院を巡っていた途中、昼食のため小さな食堂に。 テーブル席に着いて店内を見回していたら、壁に張られた「陳師傳特別推存」と書かれた特別メニューらしきものが目に入った。 陳師秘伝の料理らしく、牛の6ヵ所の部位と効能が記された特別メニューのようだが、部位の一つに「牛睾丸」があり、目が点になった。 何度も訪中したが初めて見るメニューで、まさに薬膳料理....流石は中国だと頷いてしまった。 もちろん、わが身には不要な効能だったし、注文する勇気もなかった。

△白雲寺....宋代(1271~1368)の創建で、山内に五重塔が聳え建つ

△天竺寺....南宋代(1127~1297)の創建、派手な装飾を施した鐘楼に開口部が波打った中国独特の梵鐘が下がる

△南山寺....元代(1271~1368)の創建で、高い門壁に寺院を守護する二頭の5本爪の龍が....

△天安寺....南宋紹興年間(1131~1162)の創建

△琅岐鎮のフェリー乗り場....対岸は馬尾区

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状の偶然!

2025年02月11日 | ひとり言

昨年10月に義姉が亡くなり、11月初旬、賀状交換をしている40人ほどの方々に自作の”喪中ハガキ”を送った。 早めに知らせたので、今年の年賀状はゼロだろうと思っていたら、5通受け取った(1通は市内の業者から)。
新聞を読んでいて”お年玉”の当選番号が目に入ったので、例年のように番号合わせをしたら全て外れ。 で、ふと気づいた。 何と4枚の番号の下二桁が「33、44、55、66」と続いていたのだ。 たった5枚の年賀状でこのような偶然があるなんて、と驚くと同時に、喪中なのに今年は何かいいことありそうだとつい口元が綻んでしまった。 今思うと、”喪中ハガキ”を出すタイミングが早過ぎたのかも。 NETで調べたら、「喪中ハガキは11月下旬~12月初旬に....」とあった....反省。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かっぱ狛犬!?

2025年02月01日 | ひとり言

【東京・品川区】先日訪問した品川の寄木神社で、通称 ”かっぱ狛犬” と呼ばれる狛犬に出会った。 文政十一年(1828)に奉納されたこの狛犬は、頭の上に皿(窪み)が造られている。 この狛犬が造られた理由は定かではないが、神社の前まで海が広がっていた江戸時代、皿に蝋燭を灯して灯台の代わりとし、沖にいる船の目印としたと伝わっているようだ。
頭の上に皿がある狛犬は、海のない山形県遠野市の常堅寺の十王堂前にも鎮座していて、やはり ”カッパ狛犬” と呼ばれている。 常堅寺がカッパ淵に隣接して建ち、そこに住むカッパが常堅寺の火事を消して狛犬になったという伝説があるらしい。
17年ほど前から寺社巡りをしているが、いずれにせよ ”かっぱ狛犬” を見るのは初めてで、珍しい狛犬だと思う。

△石造り神明鳥居を通して眺めた寄木神社の社殿

△唐破風の形が珍しい社殿の社頭に鎮座する3対の狛犬

△手前の見事に緑青が吹いた狛犬は銅製(と思う)で、昭和六十三年(1988)の造立

△造立年不明の子連れ(子取り)狛犬の前に鎮座する1対の「かっぱ狛犬」は文政十一年(1828)の造立

△社殿に向かって左の吽形の「かっぱ狛犬」....頭の上に皿(窪み)が造られていて、その昔、皿に蝋燭を灯して灯台の代わりとしたと推定されている

△社殿に向かって右の阿形の「かっぱ狛犬」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円覚寺「宝物風入れ」を拝観!

2024年11月11日 | ひとり言

【神奈川・鎌倉市】今月2日~4日に行われた円覚寺「宝物風入れ」で特別公開された国宝舎利殿を拝観した。 いままで鎌倉円覚寺へは何度か足を運んでいるが、国宝舎利殿がある円覚寺塔頭の正続院は通常非公開で、舎利殿は正続院の山門前から遠目にしか拝観できず、しかも、舎利殿を隠すかのように殿前に平唐門と塀とが建っていて屋根しか見えない。 
最近になって、円覚寺「宝物風入れ」が毎年11月3日前後に行われるのを知り、特別公開最終日の4日に行ってきた。 正続院の山門前に9時半前に着いたが、公開最終日だったのと、少し早い時間帯だったせいか拝観者は意外に少なく20人ほどだった。 燦燦と陽を浴びて建つ舎利殿は、荘厳と威厳とを漂わせる室町時代の禅宗様建築で、古建築好きにはたまらない趣がある建物だ。 30分ほど拝観しながら撮影を楽しんでいたら、急に拝観者が増えて混雑してきた。
帰り際には、正続院山門前に約20人、円覚寺総門前には30人以上の長い列ができていて驚いた。 総門前に並んでいる多くの人は、特別公開の国宝舎利殿が目当てだと思うのだが…。 (「舎利殿」については別途投稿の予定)

△円覚寺の塔頭・正続院への参道

△正続院山門前の受付で特別参拝記念券を受け取って入山

△切妻造桟瓦葺の正続院山門(「万年門」と呼ばれる)....銅板葺の黒い袖塀を設け、門前に「佛牙舎利塔」の標石が建つ

△山門近くから眺めた正続院の境内....右手に茅葺の本堂、その奥に雲水の修行道場の正法眼堂(禅堂)そして左手には鐘楼、宝蔵が建ち並ぶ

△舎利殿境内は前門の平唐門と瓦葺きの塀で仕切られていて、左側の脇門から入る

△平唐門と舎利殿と開山堂(舎利殿の後方)が一直線上に並んで建つ....塀の前に大きな石燈籠と江戸時代文政期造立の手水鉢が置かれている

△平唐門の軒下の彫刻は、拝に鳳凰、台輪の上は中国故事の一場面ではと思う

△入母屋造柿(椹?)葺で裳腰を設けた舎利殿....禅宗様の特色である大きな軒反りが美しい

△扉や窓など建具が全開で、まさに「風入れ」の風景

△殿内正面の須弥壇の上に仏牙舎利を収めた宮殿(厨子)を安置....鎌倉彫りで禅宗様高欄のある須弥檀の上に観音菩薩と地蔵菩薩とが鎮座

△優美で荘厳な姿の円覚寺舎利殿(国宝)

△正法眼堂(禅堂)前で、舎利殿と拝観者たちを見守る雲水(と思う)/時々、拝観者の質問に答えていた雲水

△10時を過ぎた頃には円覚寺総門前の石段の中ほどまで長い列ができていた

△「国宝舎利殿」の特別参拝記念カード(上)と円覚寺拝観券



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬師池公園を散策!

2024年08月21日 | ひとり言

【東京・町田市】安土桃山時代の天正十八年(1590)、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・北条氏照の命により、多摩丘陵の南部の起伏の激しいこの地に水田用水池として福王寺溜池(現在の薬師池の原形)が造られたのが始まり。 江戸時代の宝永五年(1708)と文化十四年(1817)に泥砂で埋まって渇水状態となったが、日照り喘ぐ七町余歩(約7ヘクタール)の水田の水を得るため地域の村人によって溜池が掘り直された。
昭和三十六年(1961)、町田市は野津田町の暖沢地域にある薬師池公園などを都市計画公園にすることを決め、自然の地形を生かした造園がスタート。 江戸時代の古民家として、昭和四十九年(1974)に旧荻野家住宅、 翌年、旧永井家住宅(国指定重要文化財)が園内に移築され、昭和五十一年(1976)に日本の原風景を感じさせる「薬師池公園」が開園。 平成十九年(2007)に「日本の歴史公園100選」に選定され、薬師池の周りの四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれる。

★鎌倉街道のバス停「薬師池」で下車し、街道の西側に広がる薬師池公園に向かう。 坂を下って行くと太鼓橋が架かる薬師池の辺に「新東京百景 薬師池」の標石が建つ。 空が広くて明るい薬師池公園は、鮮やかな樹林と植栽などに囲まれていて里山を感じさせる。 池を南北に分けるように架かるジグザク橋のような2つのタイコ橋を北側から渡る。 橋上から南側の池を眺めると、池の真ん中に小さな寄棟屋根の建物が浮かび、穏やかな水面には、白い雲が浮かぶ青空と樹林の鮮やかな緑が映っている。 タイコ橋を渡り、薬師池の周囲を時計回りに進んで、園内の諸施設を見学。 藤棚、水車小屋、薬医門、旧萩野家住宅(医家)、旧永井家住宅、そして公園の脇に鎮座する福王寺薬師堂などがあり、古建築・古民家好きにはなかなかの歴史公園だ。

△薬師池の北の辺に建つ平成七年(1995)建立の「新東京百景 薬師池」の標石

△薬師池の北側の辺からから眺めた池に架かるタイコ橋

△ジグザグ橋のように繋がれている2つのタイコ橋

△タイコ橋から眺めた南側の薬師池....穏やかな水面に映る白い雲が浮かぶ青空と樹林の鮮やかな緑

△タイコ橋から眺めた池に浮かぶ小さな寄棟屋根の建物と奥に藤棚

△手前(池側)の藤棚....咲き誇る藤の花は美しいが、金属製パイプの棚が気になる

△奥側の丸太の藤棚の藤は品種が異なるようでまだ満開ではないようだ

△花菖蒲田に架かるジグザク橋は九曲橋か?

△赤く染まった春もみじの間から眺めた寄棟屋根の水車小屋

△水車小屋の北側にある古井戸跡?....井戸枠に釣瓶が置かれている

△第2水流溝の水が水車に利用されている

△上掛け式の水車

△花菖蒲田の南側奥に建つ宝形屋根の東屋

△旧萩野家住宅への参道に建つ切妻造桟瓦葺きの薬医門

△江戸時代末期建立の入母屋造茅葺で妻入りの旧萩野家主屋....医院の住宅

△第1水流溝の大滝

△江戸時代中期建立の寄棟造茅葺の旧永井家主屋(国指定重要文化財)....東京都下で最古に属する農家建物

△薬師池公園の西側(公園外)に鎮座する入母屋造本瓦葺の福王寺薬師堂(野津田薬師堂)

△薬師池の北側に広がる芝生広場、奥の建物は町田フォトサロン

△薬師池公園の案内板....園内の見どころがよくわかる















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企画展「江戸当世 図上旅行」を鑑賞!-(2)

2024年08月16日 | ひとり言

【横浜・金沢区】奥の展示室には川崎宿・保土ヶ谷宿・藤沢宿・小田原宿・箱根宿・洗馬宿・大月宿のそれぞれの旅先の様子が描かれた絵図が展示されている。

★「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」は先の「大日本道中細見絵図」と同様、各宿駅の名所や脇街道の入り口の案内、次の駅までの距離、駄賃(馬を使った人や荷物の輸送費)などを表と挿絵で案内した書物で、なかなか面白い。

△「東海道名所図絵」....嘉永二年(1846)歌川博家画....日本橋~境木(横浜市戸塚区)までの名所を紹介する狂歌本

△「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」....各宿駅の名所や脇街道の入り口の案内、次駅までの距離、駄賃などを表と文で案内した書物

△「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」の表面で、東海道や伊勢参りの案内図....秋葉山、鳳来寺(愛知県新庄市に鎮座する寺院)などが読み取れる

△「大師河原開帳ノ図」....江戸時代後期歌川国貞画、江戸時代の川崎大師(平間寺)の開帳には「出開帳」と「居開帳」があった....「大師河原開帳ノ図」には人物に歌舞伎役者の名札が付されている

△「大師河原厄除 弘法大師御開帳奉納物番附」....天保十年(1839)作で、天保十年6月17日から行われた「弘法大師御開帳」で奉納された供物の番付

△「大師河原厄除 弘法大師御開帳奉納物番附」での最高額は大傳馬丁の鰐口講中と通油町の魚重が布施した金百両

△「西湖之八景武之金沢模写図」....文政十年(1827)頃北尾重政(2代目)画で、光傳寺(金沢区六浦)が文政十年に並木天満宮を再建した記念に開版した金沢八景の一覧図

△「西湖之八景武之金沢模写図」には金沢きっての旅亭の東屋(生簀の描写もあり)と千代松が描かれている

△「東海道七 五十三次 藤沢」....嘉永年間(1848~54)歌川広重画で、「東海道五十三次」シリーズのうち、東海道を隷書で記した「隷書東海道」の夕刻の藤沢宿の様子を描いたもの

△「相州江之島弁財天開帳参詣群集之図」....嘉永四年(1851)歌川広重画で、江之島神社のシンボル「弁天様」(日本三大弁財天)参詣のため江之島に向かって先頭を歩く女性たち

△「相州江之島弁財天開帳参詣群集之図」の先頭の桃色の傘は「三本の杵」の模様、次の黄色の傘は「菱に三つの柏」模様、その次は赤色の傘は「角木瓜」の模様が描かれている

△「東海道箱根山中図」....文久三年(1863)歌川貞秀画で、箱根山中の大名行列を描く大判3枚続きの浮世絵

△「東海道箱根山中図」は鉄砲を担いだ物物しい姿の従者で構成された行列で、東海道を西に進み京に向かっている

★「富岳絶頂俯望図」は富士山頂上の上空から見下ろしたように描かれた俯瞰図(鳥瞰図)で、大きな火口付近に大日堂が鎮座し、大日堂への参拝道4本が描かれている。
旅路の双六が2紙ある。 日本橋をでて鎌倉・江之島・大仙を巡って日本橋に戻る葛飾北斎画の「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」と、江戸日本橋を振り出しとし、東海道五十三次の宿駅のほか名所・旧跡を巡って京都三条大橋を上がりとした初代歌川広重画の「東海駅路狂歌寿娯録」で、双六ではなく「寿娯録」と記されている。
資料の中に八隅芦庵という旅好きの一般人が著した「旅行用心集」といういわゆる旅行ガイドブックがある。 旅の心得の他、旅に関するあらゆる情報を網羅したマニュアルで、旅行の際に気を付けることを「道中六十一ヶ条」にまとめている。 ネットで「旅行用心集」の現代語訳を読んでみたが、まさに微に入り細を穿った旅のハウツー本であり、現代の旅人にも役に立つことが満載で大いに感心した。

△「富岳絶頂俯望図」....寛政元年(1789)、和爾部信胤彦著で、富士山頂上の上空から眺めたように描かれた俯瞰図....山頂に鎮座する大日堂八葉内院への4本の参拝道が絵地図で案内されている

△「富岳絶頂俯望図」の山頂図で、火口脇に鎮座する大日堂が描かれている

△「鎌倉江ノ嶋大山新板往来髞双六」....天保二年(1831)初版、葛飾北斎の画と柳亭種彦の詞書で日本橋を出発して鎌倉・江之島・大仙を巡って日本橋に戻る旅路の双六

△「東海駅路狂歌寿娯録」....弘化~嘉永年間(1844~54)頃、歌川広重の絵と檜園梅明の狂歌で、東海道の宿駅・名所を巡る双六....日本橋を振り出しとし京の三条大橋を上がりとしている

△振り出しの日本橋そして品川、川崎と続く....枠外に「禁賣買」と記されている

△上がりの京の三条大橋、一つ手前に大津

△「旅行用心集」....文化七年(1810)八隅蘆庵著で、旅の心得を記した書....旅に関するあらゆる情報を網羅した案内書

△「大山巡富士詣」....文政五年(1822)十返舎一九著で、念願の富士参詣のため知人と江戸出発から始まる滑稽本....小田原宿から足柄峠を越え、須走から富士山頂に登った

△「滑稽江之嶋土産」....文化七年(1810)十返舎一九著で、長編滑稽本「東海道中膝栗毛」の人気を受けて著した滑稽道中記の一つ....とぼけ役の頓太郎と女好きの弥助が鎌倉・江之嶋を巡る「滑稽江之嶋土産」全3編の内の第3編

△「 箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」....天保四年(1833)歌川国安画で、十返舎一九著の長編滑稽本「東海道中膝栗毛」と並行して著した滑稽道中記

△「扶蘇名所名物集 武蔵国」....安政六年(1859)歌川芳虎画で、安政四年~七年(1857~60)に開版された全19冊の狂歌集











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企画展「江戸当世 図上旅行」を鑑賞!-(1)

2024年08月11日 | ひとり言

【横浜・金沢区】5月24日~7月21日(2024年)に県立金沢文庫で開催された企画展『江戸当世 図上旅行』を鑑賞した。 企画展の散らしによると、「江戸時代、全国に53カ所の関所があり、手形を持たずに関所を避けて通ろうとする「関所破り」は死罪だったので、自由な旅が難しかった庶民は、旅本や絵地図の上での気ままな旅路を楽しんだとものと推される」とある。 この展示では、県立金沢文庫が所蔵する草双紙や絵地図を通して江戸時代の旅の楽しみ方を追体験する…と記されている。
散らしの中に「写真撮影を解禁」の文字を見つけて嬉しくなった。 一般に展示物の撮影はNGなのだが、「本展示期間限定で展示室内の写真撮影を解禁、広報担当としてSNSで投稿を....」と記載されていたのだ。 県立金沢文庫で展示物を撮影するのは、2020年の企画展「江戸刷リ物品定メ」(2020年10月29日投稿)以来で2度目だ。 二階の展示室には江戸時代の資料54点が展示されていたが、当ブログには興味を引いた草双紙や面白い絵地図などに絞って掲載したが、少々天こ盛りのきらいがある....かも。

★開館早々の訪問だったが、二階の展示室に上がると来館者はまだご婦人一人だった。 階段を上がった所の展示室の直ぐ右手に「関所手形」と「往来切手」が展示されている。 「往来切手」とは番所を通るための通行証で、「切手」とは切符手形の意だそうだ。 次の展示は1700年代前半に作製された絵地図。 その一つの「日本道中行程記」は折り畳んで持ち歩く陸・海行程図で、朝鮮半島の釜山港から蝦夷にいたる道中の宿駅名と各駅・船着場の距離とが記されていて素晴らしい。

△称名寺境内と繋がるトンネルの中から眺めた県立金沢文庫

△県立金沢文庫の正面入口

△二階展示室の階段上の壁に掲示されている「江戸当世 図上旅行」のポスター

△ポスター前から見た二階展示室....多くの「江戸時代の旅の必需品」が展示されている

△最初の.展示は関所を通るための「関所手形」(4通)と番所を通るための「往来切手」(1通)....参考として壁に「長介身元請状」と「おもよ身元請状」が

△「箱根関所手形」(複製)....嘉永五年(1852)、伊勢神宮を参詣する百姓9人に発行されたもの

△「箱根関所手」(複製)....(推)嘉永七年(1854)、江戸留守居役・益田伊豆が家来4人を江戸から長門国に赴かせるため発行したもの/「往来切手」....江戸留守居役・志波左転太が主従3人の赴任のため発行したもの

△「東海道分間之図 巻1」....元禄十六年(1703)作で、巻1は日本橋から小田原までの分間絵図....日本橋~京までの道程を描いた絵地図は巻5まである....「分間」とは3分(約1cm)を1町(約110m)とする縮尺の意

△「日本道中行程記」....享保九年(1724)作で、懐中用の陸・海行程図....「西ハ従朝鮮釜山海對馬壱岐五島平戸」、「東ハ到奥仙臺森〇弘前松前蝦夷ノトロ」の記

△「日本道中行程記」の西端に五嶋、平戸、長崎、諫早などの地名が読み取れる

△「日本道中行程記」の東端に記されている江戸日本橋

△「東海道名所画帖」....嘉永四年(1851)歌川広重画、東海道の名所を絵と俳諧で巡る句集

★葛飾北斎画の「東海道名所一覧」は鳥瞰図で、江戸日本橋から京都への東海道を1面に詳細に描いていて流石だ。 神奈川県の現地名が江戸時代の絵図の中にあって嬉しくなった。 また、列島全体を記した「大日本道中細見記」と「大日本道中細見絵図」では、前者は諸街道の宿駅や名所・旧跡を、後者ではさらに御城下・名取寺社・宿名・國名・御関所・御番所・七道などが事細かく記され、また、海路運賃表まで示していて驚いた。

△「東海道名所一覧」....文政元年(1818)葛飾北斎画で、江戸から京都への東海道を1面に描いた鳥瞰図

△「東海道名所一覧」の右下に「葛飾前北斎」と記されている

△「東海道名所一覧」の横浜周辺と三浦半島の絵図....図中に金沢村、能見堂、浦賀、燈明堂、走水などが読み取れる

△「東海道名所一覧」の鎌倉周辺の絵図....図中に光明寺、由比ガ浜、鎌倉、長谷、藤沢などの地名が確認できる

△「東海道名所一覧」の富士山南部の絵図....図中に田子浦、三保松原、久能山、あべ川(安倍川)などが読み取れる

△「大日本道中細見記」....江戸時代友鳴松旭画で、松前(北海道)~五島列島までの諸街道の宿駅や名所・旧跡を記した絵図....宿駅は黄色い丸、名所・旧跡は赤い丸で図示

△「大日本道中細見記」の江戸~沼津までの絵図....図中に金澤、鎌倉、小田原、伊豆、沼津の地名が読み取れる

△「大日本道中細見記」の京都、大坂付近の絵図....図中に伊賀、近江、京、大坂、淡路などの地名が読み取れる

△「大日本道中細見記」の四国、九州そして對馬・壱岐の図....図中に高松、今治、高知、宇和嶋、福岡、長崎、臼杵、熊本などの地名が読み取れる

△「大日本道中細見絵図」....弘化四年(1847)作で、折り畳み式の懐中用の絵地図....北は箱館(函館)、南は八丈島、西は五島列島までの陸・海路図....右端下に海路運賃表を標記

△「大日本道中細見絵図」の上総・下総、江戸から掛川までの絵地図....図中に金澤、小田原、沼津、伊豆などが読み取れる

△「大日本道中細見絵図」の京、大坂、なら(奈良)付近の絵地図....図中に近江、伊賀、高槻などが読み取れる

△「総房海陸景勝奇覧」....江戸後期作葛飾北斎画、空から眺めたように描いた鳥瞰図で、江戸内海(東京湾)を挟んで三浦半島を房総半島が囲むように描かれている

△「総房海陸景勝奇覧」の三浦半島の東側半分の絵図

△「総房海陸景勝奇覧」の東端(東京湾側)にのじま(野島)、申しま(猿島)、六ツ浦、走り水、燈明堂などが読み取れる

△「日本沿岸海路図」....文政十三年(1830)作で、本州と四国は旧国名や国境線がなく、色分けは沿岸部のみ国が制していることを示す(九州は国名があり、沿岸部の浦や港名が記されている)

△「日本沿岸海路図」の関東地区で房総半島、江戸、三浦半島、伊豆半島が色分けされている












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞窟ホテルの思い出!

2023年03月25日 | ひとり言

【トルコ・カッパドキア】2012年の夏、某旅行社のトルコの世界遺産を周遊する10日間のツアーに参加し、カッパドキアのウチヒサールという町の洞窟ホテルに一泊した。
ウチヒサールは「尖った城塞」の意味で、外敵の侵入を防ぐため大きな城砦を築いていたカッパドキアの中で最も高い位置にある小さな町。 ウチヒサールの中央にある大きな岩の城砦は、紀元前1600年前後のヒッタイト時代に造られたようだ。 当時、ここでは修道士が鳩の糞を葡萄畑の肥料にするめ鳩を飼っていたので「鳩の谷」と呼ばれている。 大きな城砦の上部にある小さな穴は、鳩の糞をためる「鳩の家」。 ウチヒサールの高台から続く傾斜地に、岩を削りだして建てられた洞窟住居や洞窟ホテルなどが建ち並ぶ。

■洞窟ホテルに泊まるのは初めてで、心を弾ませながら洞窟部屋に向かう。 見晴らしがよく、眼下の「鳩の谷」や広大な奇岩群の景色はまさに絶景....まるで地球外の惑星を奇想させる。 洞窟部屋は個々に造営されているので、宿泊客は自分でそれぞれの狭い通路を進んで割り当てられた洞窟部屋に。 洞窟部屋の前は石造りのバルコニー風でカッパドキアが一望でき、眼前に大パノラマの絶景が広がる。

△ウチヒサールの街中の坂を下って洞窟ホテルに向かう

△坂の途中にある洞窟のお土産屋さん

△洞窟の上に岩を積み上げて建てられた石造りの家

△坂を下った左右に建つ洞窟ホテル「argos in Cappadocia」の管理棟....確かここで「鳩の谷」を眺めながら食事をした記憶が....

△宿泊部屋がある建物の外観

■バルコニーには堅牢なアーチ形の梁と柱があり、奥の小さなドアから洞窟部屋に入る。 洞窟部屋は石の柱とアーチ形の梁で天井を支えた堅牢な造りで、一瞬、牢獄の雰囲気が漂う。 とはいえ、岩肌剥きだしの天井や壁、岩壁に埋め込まれた暖炉などを見ていると、岩を削り出した洞窟であることを実感....面白く楽しめた。

△洞窟部屋の前はバルコニー風で、石造りのアーチ形の梁と柱で堅牢な造り

△アーチ形石壁の奥に洞窟部屋の扉がある

△洞窟部屋の扉から眺めたバルコニー風の部屋前/バルコニー風の部屋前からは広大な奇岩群の景色が望める

△部屋内から見た扉側....洞窟は石の柱や梁で支えられた造り

△岩壁に埋め込まれた暖炉と茶棚(でいいのかな?)

△床に円形のガラスを張った穴があるが何だったか?/冷蔵庫を収納した茶棚

△洞窟をアーチ形の石の梁で支えている....入って直ぐ左に洗面所への入口がある/開いた扉の中に洗面所の設けられた2つの四角いボウル

△居間に置かれた低い長椅子、テーブルの上には果物と観光案内パンフが....

△居間の左奥にベッドルーム

△洞窟の奥に設けられたベットルーム

△天井が低いので少し圧迫感があり、洞窟の雰囲気を強く感じる

△入口を入って直ぐ左手にある洗面所

△洗面所の奥にあるトイレとバスルーム

△早朝、外に出て眺めた洞窟家の風景....岩壁をくり抜いて造られた住居家や洞窟上に石積み造りの家がある

△ホテル前からカッパドキアが一望でき、大パノラマの絶景が広がる

△ホテル前から眺めたウチヒサールの「鳩の谷」....遠くにたくさんの気球が上がっている

△ウチヒサールの中心に聳える大きな岩の城砦....紀元前1600年前後のヒッタイト時代の造営




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉敷川の河畔を歩く!

2022年11月13日 | ひとり言

【岡山・倉敷市】倉敷川(堀割り)を中心とする地域は、早くからに干拓による田地の開発が進められていて、慶長五年(1600)に備中国奉行領となり、松山藩の玄関港として上方への物資輸送の中継地として栄えた。 寛永十九年(1642)に江戸幕府の天領となり、倉敷代官所が設けられて物資の集積地としてさらに発展した。 天領になってからは倉敷川の河畔に軒を連ねる町家が形成され、地域一帯は活気を帯びて賑わった。 倉敷美観地区は、倉敷市の美観地区景観条例に基づいて昭和四十四年(1969)に定められた。

●倉敷市の寺社巡りをしていた途中、疲れを癒すため倉敷川の河畔を散策した。 まずは掘割りの倉敷川の北端に位置する「倉敷物語館」の長屋門風の南門をくぐり、土蔵の展示室でそそくさとこの地域の歴史を俄仕込み。 倉敷物語館の広い中庭は、白壁なまこ壁の蔵屋敷や土蔵、古民家風の建物に囲まれていて、もし中庭に置かれたベンチ(&テ-ブル)や椅子、店の看板などがなければ、まさに江戸期にタイムスリップした気分に....と想像。
倉敷物語館をでて倉敷川の西側の柳並木が連なる河畔を進む。 倉敷川沿いになまこ壁を施した白壁の土蔵や蔵屋敷が立ち建ち並んでいて、町家で織りなす天領時代の風情を彷彿させる。 美観地区の倉敷川にはいずれも堅牢な造りの3つの石造り反橋が架かっている。 とくに平橋に近い反橋の上から眺める太鼓橋の「中橋」は、背後に連なる白壁の蔵屋敷と重なって絵画のように見え、美しい町屋の景観に趣を深めている。

△美観地区の入口に位置する平成二十一年(2009)4月開館の「倉敷物語館」の南門....江戸期の建築で、切妻造本瓦葺の長屋門形式

△切妻造桟瓦葺で貼り瓦のなまこ壁を施した白壁の土蔵展示室/土蔵展示室の展示物

△倉敷物語館は江戸期から昭和初期にかけて残っていた古民家(東大橋家住宅の母屋と4つの土蔵、中庭)を全面改修した観光・文化施設

△中央に建つ木造2階建て入母屋造本瓦葺の母屋....1階は展示室で倉敷の歴史・文化を年表・写真パネル・模型などで紹介、2階は貸室の和室と会議室

△奥の南面で建つ切妻造りの建物は多目的ホール....手前左は喫茶室の「ぽっ♪カフェ」

△中庭で椅子やベンチに腰掛けて周りのなまこ壁を施した白壁の土蔵や蔵屋敷を眺めるのも乙なもの

△美しい白壁の蔵屋敷が連なる

△倉敷川の最上流域に建つ「亀遊亭」の袖塀を備えた桟瓦葺の門(棟門形式)

△二羽の白鳥が泳ぐ堀割りの倉敷川の北側の風景....右奥の石造りの橋は「今橋」、左の河岸に延びる連子窓を設けた高い土塀は旧大原家住宅

△倉敷川の今橋の東側河岸に建つ「旧大原家住宅」と別邸の「有隣荘」

△切妻造本瓦葺の旧大原家住宅(重文)....江戸後期の建立で、主屋(本邸)は敷地の南東隅に建つ....特色がある1階の格子を「倉敷格子」、2階の窓は「倉敷窓」と呼ばれる

△倉敷川の東側の河岸に建つ茶色の建物は有隣荘で、昭和三年(1928)建築の大原家旧別邸....「緑御殿」とも呼ばれ、独特の製法で焼かれた艶やかな緑色の瓦が美しい

△倉敷川の北側に架かる堅牢な石造りの「今橋」....大正十五年(1926)の造立....欄干に龍の浮彫彫刻が施されている

△今橋の上から眺めた倉敷川の両河岸に立ち並ぶ白壁の建物群....奥に倉敷川に架かる「中橋」が見える

△中橋付近から眺めた有隣荘と旧大原家住宅

△幅約10メートルの掘割りの倉敷川に架かる石造り太鼓橋の「中橋」

△石造り中橋は明治十年(1877)に木造橋から石橋に架け替えられた....欄干下の部分(橋桁)は花崗岩の一枚岩

△中橋の奥の三階建ての建物は倉敷考古館....江戸時代の土蔵造り米倉が改装され、昭和二十五年(1950)に考古館として開館

△倉敷考古館は、白壁となまこ壁の美しい貼り瓦のコントラストがすばらしい建物

△東側河岸に西日を受けて建ち並ぶ「旅館くらしき」、「倉敷珈琲館」、古民家カフェギャラリー「くらしき桃子倉敷本店」など

△掘割りの倉敷川の南側....右奥の石造りの橋は「高砂橋」

△掘割りの倉敷川の南側に架かる「高砂橋」....江戸末期造立の旧今橋が旧高砂町に移築され、改名された

△夕暮れ時の美観地区の入り口付近....左手に建つのは「亀遊亭」






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小っちゃな訪問者!

2022年10月01日 | ひとり言

8月の雨上がりの晴れた日、砂利を敷いた玄関先で休んでいた小っちゃなトカゲを捕まえた。 我が家には日当たりがあまりよくない猫の額よりも小さい庭があり、以前からトカゲが棲みついていて時々姿を見せる。 とはいえ、姿を何度目にしても、トカゲの種類を気にしたことはなかった。 初めて捕まえたトカゲは幼体で、胴頭部は20mmほどだが尾っぽが非常に長く、全長の約2/3はある。 写真で容姿が分かったのでNETで種類を調べてみたら、このトカゲは日本中に広く分布している「ニホンカナヘビ」という名前のようだ。 かなり俊敏に動くのが特徴で逃げ足が速いようだが、簡単に捕まえられたのは、体温調節のために陽の当たる石の上で日向ぼっこでもしていたからだろうか。 それにしても、トカゲなのに何故「ヘビ」という名がついたのか気になって調べてみた…が、幾つかの説があるようでハッキリしない。

△特徴から「二ホンカナヘビ」というトカゲ....胴頭部は親指の爪の約1.5倍、長い尾っぽは全長の3分の2ほどある

△全身がガサガサした褐色の皮膚で、背部と体側にクリーム色の条線がはいっている

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の龍の爪の数!

2021年05月18日 | ひとり言

定年間近い頃から始めた寺社巡りで、仏堂や社殿などで多くの龍像や龍画を拝観してきた。 最初は全く気にしていなかったが、京都東福寺の仏殿(本堂)の天井に描かれた天井画(蒼龍)を見ていて、龍の爪が3本しかないのが気になった。 その後、寺社向拝の水引虹梁の上の彫刻や天井画、襖絵、手水鉢の水口などで多くの龍を見てきたが、4本爪や5本爪もあるが、多くは3本爪だ。
以前、NET等で龍の由来や爪の数について調べたことがあるが、日本の多くの龍の爪が何故3本なのか腑に落ちる情報がなかったが、最近、古書店で見つけた本に、日本の龍の爪が3本である理由が記されていて目から鱗が落ちた。 その本によると、中国の華夷秩序のもとで属国とならなかった日本は、「夷狄」として蔑まされ、いちばん下に置かれていたため、3本爪の龍しか許されなかったとのことだ。 一方、属国として次の序列にあった朝鮮やベトナムなどの龍は、1本足りない4本の爪を用いることが許されていたとのこと。
再度NETで龍の爪の数について調べてみた。 古代中国では宋代までは龍の爪数は明確に定まっていなかったが、日本の鎌倉時代末期にあたる元代の延祐元年(1314)に「五爪二角」の龍文が皇帝専用の文様となり、以降、中国では皇帝以外の者による5本爪の龍の使用が禁止され、階級によって4本爪あるいは3本爪の龍が使用された。 室町時代以降、日本の注文を受けて中国から運ばれてきた龍の画や置物は、日本は3本爪という決まりだったので爪は3本しかなかった。 なお、奈良時代から鎌倉時代までは、時代によって少し違うが5本、4本、3本いずれの爪の龍がいた。
本を読んだ後、寺社巡りで撮り溜めた写真の中から龍に関するものを少し探してみた。 予想はしていたが、やはり仏堂や社殿の向拝の水引虹梁の上に配された龍の彫刻の写真が圧倒的に多い。 また、先日の産経新聞の社会面の『首里城の復元資料発見』という記事に、首里城正殿の玉座の背後を飾った龍の彫刻の下絵の写真が載っていたが、爪の数は4本だ。 調べたら、独立した王国として存在していた琉球王国は、日中両国と朝貢外交を行っていて、日本との外交では中央集権に使節を送り、薩摩藩に朝貢を行っていた。 他方、中国とは明王朝(元代の次の王朝/1368~1644)に朝貢外交を行って見返りに貿易が認められ、また皇帝から冊封を受けていたことから高い序列の4本爪の龍が許されたようで、興味深い。

△中国清王朝(1636~1912)の乾隆帝時代(1711~1799)造立の紫禁城(故宮)の九龍壁(北京市)....龍の爪は5本
 
△鎌倉時代嘉禎二年(1236)創建の東福寺(京都市東山区)の仏堂の天井画(冒頭写真の雲龍図)....「蒼龍」と呼ばれる龍の爪は3本

△鎌倉時代建仁二年(1202)創建の建仁寺(京都市東山区)の法堂の天井画(双龍図)....龍の爪は5本 <現双龍図は創建800年記念として小泉淳作画伯により描かれ、平成十四年(2002)に完成>

△鎌倉時代正応四年(1291)創建の南禅寺(京都市左京区)の法堂の天井画....龍の爪は3本

△鎌倉時代末期~南北朝時代初期の間に創建された宝福寺(岡山県総社市)の仏殿の天井画....江戸時代宝暦年間(1751~1764)の作で、龍の爪は3本
 
△室町時代天文四年(1535)創建の大樹寺(愛知県岡崎市)の手水鉢の水口....龍の爪は3本/古墳時代欽明天皇元年(540)創建の津島神社(愛知県津島市)の手水鉢の水口....龍の爪は3本

△室町時代応永十七年(1410)創建の国土安穏寺(東京都足立区)の仁王門の天井画....昭和以降の作で、龍の爪は5本

△平安時代弘仁年間(810~824)創建と伝える金乗院(埼玉県所沢市)の塀の上を這う龍....近年の造立だが何故か龍の爪は5本ではなく4本

△平安時代以前創建の船橋大神宮の摂社・大島神社の水引虹梁上の龍の彫刻....龍の爪は3本

△中国元代(1271~1368)創建の南山禅寺(中国福州市琅岐鎮)の六字名号が書された壁の上から飛び降りようとしている2頭の龍....龍の爪は4本

△南山禅寺の左側壁の龍

△南山禅寺の右側壁の龍
 
△創建不詳のドラゴン寺(Wat Samphran、タイバンコク)の僧坊に巻き付く龍....十七階(高さ約80メートル)のドラゴンタワーは1991年の建設で、龍の爪は5本  <左の写真は車窓から撮影、右はNETから拝借>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企画展「江戸刷リ物品定メ」を鑑賞!

2020年10月29日 | ひとり言

【横浜・金沢区】7月31日~9月27日(2020年)に県立金沢文庫で開催された『企画展・江戸刷リ物品定メ』を見に行った。 企画展のチラシには、「自分だけの展示カタログを作ろう」という特別企画で、「本企画限定! 展示室内の写真撮影を解禁します」とあって少々驚いた。 いままで、県立金沢文庫には何度も足を運んでいるが、展示物の撮影は禁止だったので、「撮影解禁」に胸を躍らせながらの訪問だった。
早い時間帯だったのと新型コロナウイルスの影響のためか、見学者はまだ数人しかおらず、じっくりと時間を掛けて江戸期の刷り物の品定めが楽しめ、多くの展示物を撮影した。 興味を引いた展示物の写真をブログにアップしたいと思い、今月中旬、駄目元で県立金沢文庫に問い合わせてみたら、「OK」との嬉しい回答を頂いた。
展示室には、江戸時代の庶民や職人らの生活がわかる刷り物、元禄時代の易占いの指南書、歴史の教科書に載っていた「御成敗式目」や「延喜式」、そして鎌倉時代の歴史の変を描いた錦絵などいずれも興味津々の刷り物が展示されていた。 寺社巡りが趣味の自分にとって最も興味を引いたのが「延喜式」で、”神祇一”から”神祇五”までが展示されていた。 詳しくは、神祇一:四時祭上、神祇二:四時祭下、神祇三:臨時祭、神祇四:伊勢大神宮、神祇五:斎宮だ。 ちなみに、「延喜式」とは、平安時代の延喜五年(905)、醍醐天皇の勅により編纂され、建長五年(927)に完成した律令の細則で、全50巻ある内の1巻(神祇一)~10巻(神祇十)が神祇官関係の式(神祇式)だ。 いままで社号標石に「式内社」と彫られた多くの由緒ある古社(当時の官社)を訪問・拝観してきたが、「式内社」が記載されている「神名帳」は9巻と10巻なのだが、残念ながらこの企画展では....。 次に面白かったのは鎌倉時代の歴史の変を描いた錦絵で、武蔵坊弁慶や将軍源頼朝らが描かれていて、鎌倉武士の生き様について大いに想像を掻き立ててくれた。

△神奈川県立「金沢文庫」の正面

△企画展「江戸刷り物品定め」のチラシ

△二階の「江戸刷リ物品定メ」展示場

△「江戸職人歌合」(国学者石原正明遍、江戸時代文化五年(1808)作の読本)....対決する題材となる職人(八卦見・人相見)が左右に描かれている

△「近世奇跡考」(山東京伝著、喜多武清画、江戸時代文化元年(1804)作の読本)....京伝自身で取材、執筆、考証した随筆集(全5巻)の一記事の挿絵

△「絵本三国妖婦伝」(高井嵐山著、蹄斎北馬画、江戸時代文化元年(1804)作の読本)....九尾の狐が絶世の美女に化け、中国、天竺、日本の三国を渡り歩いて亡国を図る物語

△「絵本三国妖婦伝」の一絵....右上に「妖狐寿羊女を吮殺」とある

△「絵本三国妖婦伝」の一絵....右上に「若藻女吉備公の船に乗り日本へ渡る」とあるが、正しい?

△「通変八卦掌中指南」(馬場信武著、江戸時代元禄十一年(1698)作の指南書)....生年と十干十二支から該当の卦を探して占う易占いの指南書

△「御成敗式目」(鎌倉時代貞永元年(1232)の制定)....鎌倉幕府で運用する式目(法令)で、源頼朝以来の先例や慣例に基づいて制定された....学生時代に習った超有名な書!

△「延喜式」(平安時代の康保四年(967)施行の格式(律令の施行規則))....延喜五年(905)、醍醐天皇の勅で藤原時平・忠平らが編纂し、延長五年(927)に成立した

△「延喜式」の神衹二~五(前の写真は神衹一)....延喜式は弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもので50巻ある....寺社巡り好きの自分には興味津々の書!

△「旅行用心集」(八隅蘆菴著、江戸時代文化七年(1810)作の心得)....江戸時代の旅に関するあらゆる情報を網羅した案内書

△「大日本海陸行程図鑑」(木版墨刷・須原屋茂兵衛版、江戸時代天保七年(1836)作の図鑑)....松前(北海道)から対馬(長崎)までの海路と陸路の行程図

△「西湖之八景武之金沢摸写図」(北尾重政(二代)画、江戸時代文政元年(1573)創建(伝)の光伝寺が裏山の並木天神を再建した記念に出版....左下に金沢文庫の「称名寺」が描かれている

△「源義経平家を亡して凱旋するも、讒者の為に頼朝公の疑を蒙り相州腰越にて弁慶に命じて許状を作る図」

△因幡守(大江広元)宛に作成した「腰越状」を読み上げる武蔵坊弁慶

△「鎌倉星月夜」(歌川芳虎画、江戸時代後期作)....梶原景時の讒言で頼朝に疑われた源範頼が、潔白を証明するため富摩三郎に頼朝の寝所へ忍び込ませたが捕まり九州に流罪された

△頼朝の寝所で三浦平六兵衛に取り押さえられる富摩三郎....上座の屏風前に鎮座する頼朝,「征夷大将軍源頼朝郷」と記されている

△「源頼朝平家追討綸旨之図」(歌川芳虎画、江戸時代後期の作)....平安時代末期の治承四年(1180)、後白河法皇の皇子・以仁王が発した平家追討の令書を受け取る源頼朝

△後方に控える戦支度をした側近に見守られながら令旨を受けとる源頼朝

△「和田義盛一門九十三騎大磯において三日三夜宴を催す折から小林朝比奈義秀曽我五郎致宗が血気にはやると止めて互いに力量をおらはす図」(歌川国芳画、江戸時代後期の作)

△文化十一年(1814)に江戸・森田屋で初演された長唄「正札附根元草摺」を元に描かれた錦絵....兄曽我十郎の危機を知った弟五郎が鎧を手に駆けつけるところを、小林朝比奈が止めようとする場面

△「神奈川横浜新開港圖」(五雲亭貞秀画、万延元年(1860)作)....画面手前より、本町通り1丁目から5丁目を描いたもの

△「ポーハタン号」(江戸時代後期作)....嘉永七年(1854)、ペリー提督が艦船6隻で2度目の来航、その一艦で蒸気外輪フリゲートの軍艦ポーハタン号

△「横浜港崎廓岩亀楼異人遊興之図」(歌川芳員画、万延元年(1860)....岩亀楼で4人の西洋人が豪勢な料理と9人の芸妓を座敷に挙げて宴会をしている様子の錦絵
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋城の守り神「尾張四観音」

2020年07月25日 | ひとり言

【愛知・名古屋市&あま市】昨年(2019年)、名古屋を中心に愛知県の寺社をめぐったが、その中に「尾張四観音」と称される四寺院が含まれている。 「尾張四観音」は、徳川家康が名古屋城を築城する際、城の守り神として、鬼門の方角にある尾張国の四つの寺院を鎮護として定められたとされる。
名古屋市街を囲むように鎮座する四つの寺院は、、北東に位置する龍泉寺(龍泉寺観音)、南西に位置する観音寺(荒子観音)、南東に位置する笠覆寺(笠寺観音)、北西に位置する甚目寺(甚目寺観音)で、いずれも平安時代以前に創建された古刹だ。 ご本尊はいずれも平安時代造立とされる観音菩薩で、観音様の慈悲をもとめる民衆の信仰を集めた。
「尾張四観音」には趣のある楼門(仁王門)と多宝塔(または三重塔)が建ち、荘厳な堂宇が建ち並ぶ伽藍は歴史を感じさせる。

■龍泉寺(龍泉寺観音)  <名古屋城の北東/守山区>

延暦年間(782~806)、天台宗開祖の伝教大師最澄による創建と伝える。 江戸時代宝暦五年(1755)に記された古文書「龍泉寺記」では、「延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、龍の住む多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。
一方、弘法大師空海も熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺の地中に埋納して熱田神宮の奥の院としたことから、龍泉寺は伝教・弘法両大師の開基ともされている。 龍泉寺は庄内川を望む高台にあって濃尾平野を一望できるため、尾張の歴史上古くから軍事施設として使われた。 宗旨は天台宗で、本尊は馬頭観音菩薩像。

△入母屋造杮葺の仁王門(重文)....入母屋造柿葺の楼門、江戸時代慶長二年(1607)の建造

△入母屋造桟瓦葺で妻入の本堂....明治四十四年(1911)の再建 (前本堂は明治三十九(1906)の放火で焼失)

△本瓦葺の多宝塔....安土桃山時代の慶長三年(1598)から復興開始 (前多宝塔は長久手合戦で焼失)

■観音寺(荒子観音)  <名古屋城の南西/中川区>

奈良時代の天平元年(729)、修験道の僧・泰澄(山岳修験者)により草創され、泰澄の弟子の僧・自性により堂宇が整えられたとされる。 その後、興廃を繰り返したが詳細不明。
戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で、豊臣政権の五大老の一人だった前田利家が、天正四年(1576)に修造して再建し、自身の菩提寺とした。 加賀藩主前田氏の祖である前田利家は、荒子の土豪の家に生まれ、北陸に所領を与えられるまで観音寺近くに荒子城を構えていた。 利家が荒子城主の時、荒廃していた観音寺を修造した。 宗旨は天台宗で、本尊は聖観音菩薩像。

△入母屋造本瓦葺の山門(仁王門)....大正五年(1926)の建立で、延宝四年(1671)造像の仁王像は最大の円空仏

△入母屋造本瓦葺の本堂....安土桃山時代の天正四年(1576)、前田利家により再建

△檜皮葺の多宝塔(重文)....戦国時代の天文五年(1536)の再建....名古屋市内で現存する最古の建物

■笠覆寺(笠寺観音)  <名古屋城の南東/南区>

奈良時代の天平五年(733)(一部古文書では天平八年(736))、僧・禅光(善光)が浜に漂着した流木(霊木)で十一面観音菩薩像を刻み、像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりとされる。その後約二百年の歳月が流れて荒廃、お堂が壊れて本尊の観音像が風雨に晒された。
平安時代の延長八年(930)、公卿の藤原兼平がこの地に復興し、寺号を笠覆寺に改めた。宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は十一面観音像。

△入母屋造本瓦葺の仁王門....江戸時代後期文政三年(1820)の建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....江戸時代宝暦十三年(1763)の建造

△銅板葺の多宝塔....江戸時代初期の正保年間(1644~1648)の建立

■甚目寺(甚目寺観音) <名古屋城の北西/あま市>

創建及び開山は不詳だが、境内から奈良時代前期作とみられる古瓦が出土したことから、甚目寺は白鳳時代には存在していたようだ。 祀られている聖観音像は、百済から渡来したもので、敏達天皇十四年(585)(敏達天皇は記紀で第30代)、排仏を主張した物部守屋らの手によって海中に投じられた三尊仏の内の一尊とされる。 (他の二尊は、阿弥陀像が信州善光寺、勢至菩薩像は九州大宰府の安楽寺に安置)
大化の改新を断行した天智天皇(第38代)の病気平癒祈祷が縁で勅願寺となったのを契機に、大寺院へと発展した。 7世紀中頃に天智天皇より宝鏡が下賜され、続いて天武天皇七年(679)(天武天皇は記紀で第40代)、天武天皇から「鳳凰山」の額を勅賜した。 平安時代前期の仁寿三年(853)に堂宇が整えられたが、その後一時衰退した。
平安後期の康和五年(1103)、藤原連長や僧智能、大江重房らによって七堂伽藍が再興されて隆盛を極めたが、天治元年(1124)の大地震で甚大な被害を受けた。 鎌倉時代に入って建仁元年(1201)、聖観上人が勧進により再興をはかり、七堂伽藍が整えられた。 宗旨は真言宗(智山派)。 通称「甚目寺観音」と呼ばれている。

△入母屋造柿葺の南大門(仁王門、重文)....鎌倉時代建久七年(1196)の再建で、聖観上人寺再興の折、源頼朝の命で奉行梶原景時が建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....平成四年(1992)の再建....創建時の本堂は安土桃山時代天正十三年(1585)の天正地震で被害を受けて再建したが、明治六年(1873)に焼失した、後は仮本堂に....

△本瓦葺の三重塔(重文)....江戸初期の寛永四年(1627)の再建
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペリーが残したシチュー鍋!

2019年11月12日 | ひとり言

【神奈川・横須賀市】10月5日~13日に浦賀コミュニティセンターで「2020年浦賀奉行所開設300周年記念事業 プレ企画展」が開催され、「のんびりぶらぶら 歴史のまち 浦賀まるごとガイド展」を見学した。
ガイド展では、地元の「浦賀探訪クラブ」が中心となって、縄文時代から現代までの浦賀の歴史と文化が、展示パネルで詳しく紹介されていた。
会場に入ってまず目を引いたのが、ガラスケースの中に展示されている錆びついた大きな鍋。 この鍋は、来航したアメリカ海軍東インド艦隊のペリー総督が、浦賀に残していった鉄製のシチュー鍋で、「ペリーが呉れた鍋(宮井家所蔵)」・「嘉永6年6月ペリーより貰いしシチュー鍋」と表示されている。
調べると、嘉永六年(1853)に黒船で来航したペリーが、浦賀沖に停泊した際、小舟で何度も水や食糧などを提供してくれた浦賀の廻船問屋や船頭たちの計らいに感激し、そのお礼として、長らく航海で使っていた「シチュー鍋」を置いていったそうだ。 「シチュー鍋」は代々受け継がれ、唯一残る旧廻船問屋の旧萬屋(宮井)清左衛門家(宮井家)が家宝として大切に所蔵されてきたとのこと。
大きな鍋を眺めながら、ペリーが航海中、この鍋で調理されたシチューを大きな背中を丸めて美味そうに食べている姿を想像していたら、つい口元が綻んだ。
 
「2020年浦賀奉行所開設300周年 記念事業 プレ企画展」のパンフ/展示会場入口のガラスケースに展示されている「シチュー鍋」

嘉永六年(1853)に来航したペリーが、水や食糧を提供してくれた浦賀の廻船問屋や船頭たちに贈った鉄製の「シチュー鍋」
 
「シチュー鍋」は、唯一残る旧廻船問屋の旧萬屋(宮井)清左衛門家(宮井家)が家宝として所蔵している
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしいイラクの思い出!

2019年01月09日 | ひとり言

【イラク・バグダット】年末に古いアルバムを整理していたら、37年前に仕事で滞在したイラクでの懐かしい思い出の写真がでてきた。
イラクに行ったのは、イラン・イラク戦争(1980~1988)が勃発して間もなくの1982年で、照明製造設備のプラント輸出で12月から半年間、首都バグダッドに滞在した。 戦争勃発の数年前に交わした契約だったため止むを得ずの履行だったが、当時はまだ、紛争国への出張は問題にならなかった。 滞在中、バグダット市内を激しく走行する戦車を何度も目撃、また、出張先の会社の前には出兵して戦死した多くの従業員の写真が張り出され、さらに会社責任者が拳銃を所持して工場内を巡回するという環境下での仕事だった。

写真は、滞在中に訪れたサーマッラーという町で見学した「大モスクとスパイラル・ミナレット」と「カリフ宮殿」のものだが、記憶がかなり薄れていて、写真を見てもはっきり思い出せない。 ネットで調べながら写真にコメントを付したが、整合しているかどうか自信がない。
砂漠の中に延々と続く道を長時間走行して着いたサーマッラーという町は、バグダッドの北西約130kmに位置し、836~892年の約55年間、スンニー派イスラム王朝(アッバース朝)の首都として繁栄した古代都市。 2007年に「サーマッラーの考古学都市」として世界遺産に登録された。
最初に見学したのは9世紀半ばに建造された「大モスクとスパイラル・ミナレット」。 建造当時は世界最大を誇っていた大モスクだが、ドーム状屋根の礼拝堂がある神殿のような外観とは異なり、だだっ広い方形の中庭があり、その周りを高い壁で囲っただけの簡素な造りだ。 大モスクのすぐ傍に、849年から3年の歳月をかけて建築されたスパイラル・ミナレットが聳え立つ。 塔の高さは基壇を含めて53メートルで、日本で現存する最も高い東寺五重塔とほぼ同じだが、大きな違いは、外壁に設けられた螺旋階段で頂上に登れることだ。 写真を見ると、手摺りや柵がない階段を乗って頂上に立ったようだが思い出せず、頂上からサーマッラーの町を遠望した写真もない。
スパイラル・ミナレットから、大通り沿いのチグリス川を見渡せるところにあるカリフ宮殿に向かう。 カリフ宮殿はアラブ・イスラム世界において最大級のもので、まだ多くが埋もれていて、現在も発掘が続いているようだ。 カリフ宮殿は古代後期の皇帝宮殿として唯一のもので、初期の配置が残っていて、内部には住居、行政府、衛兵詰所、休憩所などが残されているが、時間がなかったため外観のみを見学して帰路に....。 (掲載した写真は、アルバムに貼ってある写真をそのままデジカメで撮ったもの。 サーマッラーの他、メソポタミア地方の古代都市バビロンの遺跡(イシュタル門、ライオン像など)の写真もあったので、載せた。)

古代都市サーマッラーにある大モスク(右)とスパイラル・ミナレット....サーマッラーは9世紀にスンニー派アッバース王朝の第8代カリフ(預言者)のムウタスィムによって造られた首都

西暦849年から3年の歳月をかけて建てられた螺旋式の塔・スパイラル・ミナレット
 
6段ある塔の高さは基壇を含めて53メートルで、7段目は神の領域とされる....サーマッラーのスパイラル・ミナレットは世界に3塔ある内の一つ
 
人懐こいイラクの若者たち....高学歴の女性はヒジャブ(信仰心が強い人はアバヤで顔をニカブで覆い隠す)を着けないようだ

螺旋階段の途中から眺めた大モスク....だだっ広い方形の中庭を高い壁で囲っただけの造り
 
スパイラル・ミナレットの頂上で撮ったイラク人の家族とカップル....サーマッラー遠景の撮影を失念

大モスクの中庭から高い塀越しに眺めたスパイラル・ミナレット
 
パンフ写真から拝借したスパイラル・ミナレット....外壁に螺旋階段が設けられていて、まるでトンネルを掘るドリルのようだ

サーマッラーの大通り沿いのチグリス川を見渡せるところにあるカリフ宮殿

カリフ宮殿はアッバース王朝第8代カリフ(預言者)によって建てられたアラブのイスラムで最大級の宮殿
 
カリフ宮殿には2本のミナレットが聳え立ち、金色に輝く礼拝堂のドーム状の屋根/ミナレットはイスラム教徒に礼拝を呼びかけるアザーンが流される塔
 
青系のタイルで装飾が施されたカリフ宮殿の入り口/カリフ宮殿の入り口から眺めた内部
 
バグダットの南約90kmにあるメソポタミヤ地方の古代都市遺跡バビロンの北域に位置する8番目の門の「イシュタル門」/「イシュタル門」は紀元前575年の建設で、耐久性のある青い彩釉煉瓦に天候神アダドの随獣の牡牛と聖獣のムシュフシュの彫刻
 
二重構造で煉瓦造りのバビロンの城壁(だったと思う)....聖獣のムシュフシュとオーロックスの浮彫り彫刻が施されている

人に馬乗りになっているライオン像....バビロンではライオンは古代メソポタミアの女神イシュタルのシンボルとされる

37年前(1982年)に入手したパンフレットの裏表紙....右上にサーマッラーのスパイラル・ミナレット、左下にバビロン城壁の聖獣ムシュフシュの浮彫彫刻がある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする