何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

滝口寺 (京都)

2021年03月26日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】平安時代末期、浄土宗の開祖法然の弟子・良鎮上人が創建した往生院の子院のひとつで三宝寺と称し、念仏道場として栄えた。 往生院の多くの子院や坊が山中に建ち並んでいたが、祇王寺と三宝寺のみが残り、室町時代末期の応仁の乱で荒廃したが、江戸時代末期まで細々と存続していた。
明治維新政府の「神仏判然令」による神道国教化政策により、仏教排斥運動(廃仏毀釈)が起こって廃寺となったが、昭和初期、祇王寺が再建されたのに続いて、三宝寺跡にも小堂が建てられて再興、その際「滝口寺」と命名され現在に至る。
「滝口」は、『平家物語』に描かれている滝口入道と横笛との悲恋物語に由来する。 滝口入道は御所の警護にあたった滝口の武士・斎藤時頼のことで、平清盛の二女・徳子(建礼門院)付きの侍女・横笛に一目ぼれし恋仲になったが、父に叱責されたため十九歳で往生院に入って出家した。 想い焦がれる横笛は入道の出家を聞いて往生院を訪ねるが、入道は修行の妨げになるとして会わなかった。 その後、入道は高野山浄院に入り後に高野聖に、一方、横笛の消息については諸説あるが、悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良法華寺に出家したともいわれる。
本堂には三宝寺の遺物である滝口入道と横笛の木像を安置している。 また境内には、鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞の首塚と妻の供養塔がある。 宗派は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

◆祇王寺を拝観した後、祇王寺案内板の右手に続く階を進む。 苔生した簡素な棟門があり、門をくぐると左側に受付があり、窓口に様々な案内の張り紙や写真がある。 その中に「滝はありません」の張り紙があり、つい口元がほころんだ。
受付から鬱蒼と木々が生い茂る狭い階を上っていくと、参道脇に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞公の首塚、その隣に妻の供養塔がひっそりとある。 更に狭い参道を上りつめると本堂の前庭に出る。 鮮やかな緑の樹林に囲まれた境内に、古民家風で風情がある茅葺の本堂がポツンと鎮座している。 境内は静寂につつまれていて野鳥の声だけが聞こえてくる。
本堂の柱に「飲食物の持込可」「建物の中で座るか縁側に腰かけてゆっくりして下さい」の張り紙があるので、部屋に上がらせて頂き、額縁風に緑の前庭をしばし鑑賞。 床の間のようなところに、水晶の目を持つ滝口入道(斎藤時頼)と横笛の坐像が安置されているが、撮影を失念した。
本堂に向かって左手に、竹柵を設けた少し屈曲した狭い参道があり、奥に滝口入道の主君・平重盛を祀る小松堂が建っている。 屋根瓦が苔生している小松堂は、瓦に少し破損がみられ手入れが必要のようだ。 それにしても、先に訪問した祇王寺と違って、人の気配が感じられない錆びた雰囲気だ。

△「滝口寺」の額が掲げられた切妻造板葺の山門....門前は深閑としていて趣がある

△簡素な造りの山門は棟門のようだ

△屋根の上は全面に苔生している....扉は木枠に竹を縦に張り付けた構造

△元弘三年=正慶二年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞の首塚

△石造り瑞垣に囲まれた新田義貞公の首塚
 
△石造り門扉に新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」があしらわれている/田義貞首塚の左手に立つ三重石塔は新田義貞の妻・勾当内侍供養塔....最上段の塔身に四方仏の梵字が薬研彫り....正面の梵字はキリーク(阿弥陀如来)

△樹林の中に佇む古民家風の茅葺の本堂....本堂には出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を安置

△入母屋造茅葺の本堂....周囲に桟瓦葺の裳腰を設けている

△本堂周囲に巡らした半間の縁側は槫縁....畳部屋の周りは腰高明障子、欄間に障子を張った格子

△縁側の欄間全面に曇りガラス窓を配す....本堂内から眺めた鮮やかな緑の前庭

△本堂前の左手前にひっそりと佇む十三重石塔....滝口入道(斉藤時頼)と平家一門の供養塔
 
△塔身に金剛界五仏の梵字が刻まれているようだ....手前(南)は宝生如来の梵字と思う(塔身の中心部が大日如来を示す)/左が東の阿閦如来、右は北の不空成就如来の梵字

△陽光を受けて輝く青モミジに隠れるように聳え立つ十三重石塔

△小松堂への竹柵を設けた参道から眺めた本堂の側面....茶室の雰囲気を醸し出している

△本堂の左手奥に建つ宝形造桟瓦葺の小松堂

△小松堂にはた斎藤時頼の主君で小松内大臣の平重盛を祀る
 
△一間四方の小松堂の軒廻りは一軒繁垂木....側面と背面は白壁、正面は腰高格子戸
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三明寺-(2) (豊川)

2021年03月21日 | 寺社巡り-愛知

【愛知・豊川市】三重塔は戦国時代の享禄四年(1531)の再建で、第一層と第二層を和様、第三層を禅宗様(唐様)とした特徴の造りで、国の重要文化財に指定されている。 再建前の旧三重塔の建立時期は不詳のようだが、無文元還が再興した応永年間と推測される。
本堂内には、天文二十三年(1554)再建の一間社流造の宮殿(厨子)があり、その中にご本尊の弁財天が安置されている。 弁財天が安置されたのは平安時代で、三河の国司・大江定基が愛人力寿姫の死を悼んで弁財天御像を刻み納めたことによる。
三明寺は豊川弁財天の通称で親しまれ、三河七福神の霊場の一つとされ、安産・芸道・福徳・海運の守護神となっている。

◆石造りの平太鼓桁橋を渡って本堂に....本堂前の参道に簡素な礼拝所が設けられていて珍しい。 本堂は江戸中期建立の建物だが、正面と側面の外陣部二間がガラス入り格子戸になっていて、やや趣に欠ける佇まいだ。
向拝に「辨才天」と書された切株を平らに削ったような奇形の扁額が掲げられている。 梁裄五間の前二間が「豊川辨財尊天」の赤い提灯が下がる外陣になっていて、内陣とは格子で仕切られている。 外陣の右隅に賓頭盧尊者坐像が鎮座し、奈良法起寺の三重塔を模した小型三重塔がある。
本堂の右脇を進むと奥に江戸期に建てられた医薬門があり、門をくぐると庭が広がり、オレンジ色の屋根の小棟造りの庫裡が建つ。 庫裡境内に釣鐘形仏龕のようなものがあり、頂部と龕の中に多くの水子地藏尊像が鎮座している。
本堂前に戻って三徳稲荷に....。 丹塗の明神鳥居を構えた三徳稲荷は三間四方の建物で、正面の小脇羽目板の脇間に興味を引かれた。 両側の羽目板上部に格狭間を設け、その中に社紋とみられる三つの焔宝珠が配されている。
境内図がないのでネットの地図で調べたら、本堂が豊川弁財天、庫裡が三明寺と記されている。 また、何故か、本堂右後方に建つ庫裡の前に山門があり、更に袖塀前に立っている高札形案内板の最初に太字で「本堂(江戸時代)」と揮毫されているので、あたかも庫裡が本堂のように見えて少々混乱した。 正面の参道入り口に大きな石造り鳥居があることから、ネットの地図のように本堂は元は豊川辨財天の本殿だったのでは?

△石造りの太鼓橋(反り橋)と平太鼓桁橋越しに眺めた本堂

△寄棟造本瓦葺の本堂....正徳二年(1712)の再建で、本堂内に天文二十三年(1554)建立の宮殿があり弁財天像を祀っている

△本堂は桁行五間、梁裄五間....正面は全面にガラスを入れた格子戸
 
△本堂前にある切妻造銅板葺の礼拝所        本堂向拝に掲げられた珍しい造りの扁額

△「辨才天」と書されている扁額は、切株を平らに削って作られているようだ....奥に「豊川辨財尊天」の赤い提灯が下がる外陣と内陣があり、格子で仕切られている

△軒天井部には全面に波模様の彫刻が配されている....身舎柱の最上部に粽が施されている

△梁桁五間の前方二間が外陣で、内陣とは格子で仕切られている....外陣に鰐口が下がり、「妙音閣」の扁額がある(院号「妙音閣」から妙音閣と思う)....内陣の天井は格子天井で極彩色画が描かれている

△外陣の右隅に鎮座する賓頭盧尊者坐像と三重塔
 
△賓頭盧尊者像....十六羅漢の中の第一尊者で、神通力が強すぎて仏陀に叱られて南方で衆生済度につとめた/奈良法起寺の三重塔を模した小型塔

△.軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組、中備は本蟇股

△正面と側面に切目縁を設け、側面奥に板張りの脇障子がある

△本堂後方に建つ山門と庫裏....山門は薬医門で江戸時代の建立

△切妻造桟瓦葺の山門....通用口を設けた板張りの袖塀がある

△山門前から眺めた本堂と三重塔....本堂の梁裄五間の後三間は舞良戸

△山門の左に「龍雲山 妙音閣 三明禅寺」、右に「般若心経 写経道場」の聯が掲げられている

△山門から眺めた庫裡と前庭

△寄棟造鉄板葺の庫裏....古民家風の造りで、入り口側に桟瓦葺の庇がある
 
△庫裡前庭の釣鐘形仏龕のような上に鎮座する円光を背負う水子地藏菩薩像....波トタン板の庇でよく見えないが地蔵尊像の足元に七福神らしき像が鎮座/仏龕の中の雛壇に幾体もの水子地蔵尊像が鎮座している....厨子の中の地蔵尊像とお前立ちとが重なっている

△庫裡境内の右手に建つ宝形造桟瓦葺の御堂は観音堂か?....中央間の両小脇羽目に卍紋が配されている

△本堂に向かって左手に丹塗の明神鳥居を構えて鎮座する三徳稲荷

△基壇上の瑞垣に囲まれて鎮座する三徳稲荷....西島稲荷(同市西島町)の分祀で、参拝すると3つの願いが成就する

△中央間は格子戸、脇間は小壁羽目板....羽目板上部に格狭間を施し中に神紋を配している
 
△社殿右前に鎮座する数匹の神使狐像/正式な神紋名は分からずだが、意匠から「三つ焔宝珠」と呼んでいいかも?

△流造銅板葺の三徳稲荷社殿....三間四方で白壁の造り

△三徳稲荷に向かって鎮座する石仏群
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三明寺-(1) (豊川)

2021年03月16日 | 寺社巡り-愛知

【愛知・豊川市】寺伝では、白鳳時代の大宝二年(702)、第42代文武天皇が三河国に行幸の折にこの地で病を患ったが、弁財天の霊験で平癒したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりとされる。
真言宗寺院として続いていたが、平安時代の後期、源範頼の兵火で焼失し荒廃した。 範頼は源頼朝の弟で、頼朝の挙兵を助け平氏討伐に参加したが、後に頼朝に追われ、伊豆修禅寺で殺害された。 南北朝時代の応永年間(1394~1428年)、禅僧・無文元還(後醍醐天皇の子)が遠州方広寺に行く途中ここに立ち寄った際、その荒廃を嘆き、堂宇を建て禅宗に改宗して禅宗寺院として再興した。 宗旨は曹洞宗で、本尊は千手観音菩薩。

◆JR豊川駅から歩いて5~6分で門前に着く。 門前といっても山門はなく、石燈籠が立つ駐車場があるだけだ。 石燈籠から木々の中に延びる参道に木々が影を落としている。 参道口脇に、自然石を三段に積み上げた低い石垣で囲まれた「本願光悦入定の塚」がある。 案内板には、約450年前、余命を悟った光悦和尚が厳しい修業のため7日間塚に籠って独経しながら示寂したとあり、供養塔とみられる小さな標石が佇んでいる。
少し奥に石造りの明神鳥居が参道を跨いでいるが、寺院境内の中なので少し違和感を感じる。 明神鳥居をくぐると、直ぐ左手に杮葺の三重塔が聳え、鳥居右手に三重塔を見守るようにたくさんの小さな石仏が鎮座している。 三重塔は約490年前の中世の建立で、各層いずれも深い軒で、三層目の大きな軒反りが優雅さを醸し出している。 また初層と二層目は繁垂木、間斗束、連子窓など和様の、三層目は扇垂木で親柱に逆蓮頭を乗せた禅宗様高欄付き回縁など禅宗様の構造になっていて趣がある。
三重塔拝観後、本堂に向かう。 本堂手前にある放生池に2つの石造りの橋が並んで架かっている。 石橋は欄干のある太鼓橋と少しだけ反りのある平太鼓桁橋で、いずれも堅牢そうな造りだ。 太鼓橋を池側からみると、径間に水平に設けられた梁の上に橋を支える石が配されているが、まるで古建築の梁の上の蟇股のような形をしていて興味をそそられた。

△山門の無い門前に佇む天保十一年(1840)造立の石燈籠

△堂宇境内の入口の自然石を三段に積み上げた石垣に囲まれた「本願光悦入定の塚」....室町時代弘治二年(1556)、余命を悟った光悦和尚が厳しい修業の入定のため7日間塚に籠り、独経しながら示寂した/.「本願光悦和尚入定の塚」に立つ小さな供養塔(と思う)

△境内参道の途中に立つ石造り明神鳥居....正面の奥に本堂、左手に三重塔が見える

△石燈籠越しに眺めた三重塔と本堂

△大日如来像を安置した三重塔を向いて鎮座する石仏群越しに眺めた三重塔

△三重塔と明神鳥居が建ち並ぶ珍しい光景

△杮葺の三重塔(国重文)....戦国時代享禄四年(1531)の再建

△総高は14.5メートル....比較的小型の三重塔だが、軒が深く、特に三層目の大きな反りの軒が美しい/軒廻りは1層・2層が二軒繁垂木、3層は禅宗様の二軒扇垂木

△四方に巡らした切目縁は、二層目が組高欄付き、三層目は親柱に逆蓮頭が乗る禅宗様高欄付き....腰組はいずれの層も平三斗

△三層目の軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備なし、軒天井がある

△二層目の軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は間斗束、蛇腹支輪と軒天井がある

△初層は四方に切目縁を設け、長押を通し、中央間は格子を配した桟唐戸、脇間は盲連子窓

△初層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は間斗束、蛇腹支輪と軒天井がある

△三重塔前の参道から眺めた石橋の奥に建つ本堂

△石橋前に立つ石燈籠(造立年を失念)

△本堂手前の放生池に架かる石造りの反り橋(太鼓橋)と平太鼓桁橋

△放生池に堅牢な造りの2つの欄干付き石橋が並んで架かっているのは珍しい

△石造り太鼓橋(反り橋)....欄干の親柱は擬宝珠を乗せた一石造り

△径間に設けられた梁のような上に蟇股型の支え石があって興味深い

△石造り平太鼓桁橋....欄干の親柱は兜巾型石柱

△堅牢な2径間の平太鼓桁橋....手摺りの束柱間に石板が張られている

△太鼓橋越しに眺めた三重塔

△石橋の本堂側に立つ「百度石」             本堂境内に立つ切妻造銅板葺の手水舎
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和歌山城-(2) (和歌山)

2021年03月11日 | 史跡探訪-日本編

【和歌山・和歌山市】元和五年(1619)、浅野家が広島藩に加増転封となった後、代わって徳川頼宣(家康の十男)が55万5千石を拝領して入国し、御三家の紀州徳川家が成立し長い歴史を刻むことになる。 頼宣は、二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立てて広げ、内郭に砂の丸・南の丸を新たに造成、ほぼ現在の和歌山城の姿になった。
明暦元年(1655)に西の丸・二の丸、文化十年(1813)に西の丸御殿が焼失した。 寛政十年(1798)、紀州10代藩主・徳川治宝がそれまで黒板壁だった天守閣を白壁の白亜の天守に改修したが、弘化三年(1846)の落雷で天守曲輪の大小天守など本丸が全焼した。 当時の武家諸法度により天守再建は禁止されていたが、徳川御三家という家格により特別に許可され、嘉永三年(1850)に大小天守等が再建された。 和歌山城は、太平洋戦争中の昭和二十年(1945)7月の和歌山大空襲で焼失したが、昭和三十三年(1953)に鉄筋コンクリートで復元された。

◆大天守の北隣に建つ小天守の大きな唐破風の入り口から大天守に。 一階と二階が展示場になっていて、江戸時代の紀州藩士の甲冑や武器、藩主が乗ったと思われる駕籠、三つ葉葵の紋が入った陣羽織や行李などが展示されている。 最上階の三階には和歌山城郭のジオラマがあり、当時天守閣の周りに造営された西の丸、二の丸、本丸御殿などの屋敷がよく再現されていて興味深い。
大天守の最上階から中庭と周りに建つ多聞や櫓を眺めると、天守閣が台形の曲輪の上に造営されているのがよく分かる。 天守閣は連立式天守と呼ばれ、大天守から時計回りに多聞・天守二の門(楠門)・二の門櫓・多聞・乾櫓・多聞・御台所そして小天守が台形状に繋がっている。
天守二の門を出て新裏坂を下って城内南側にある不明門跡に向かう。 城壁しか残っていない不明門跡から城郭の外に出て、三年坂通りを東に進み南東端に建つ岡口門に。 江戸初期の建立で趣がある二階建ての岡口門は、空襲の難を逃れた貴重な遺構で、和歌山城唯一の国指定重要文化財だ。
岡口門から再度城郭内に入り、少し暗くなってきたので急いで大手御門に向かう。 大手御門に着いた時は既に照明が点いていた。 高麗門の造りの大手御門をくぐると、北堀に架かる擬宝珠欄干付き太鼓橋の「一の橋」がある。 「一の橋」を渡って振り向くと、いまにも大手御門から紀州藩士が飛び出てくるような雰囲気が漂う。

△大天守へは北隣に建つ小天守の唐破風の玄関から入る

△大天守一階の展示場....右の階段から二階展示室、三階展望室に

△江戸時代紀州藩士の甲冑(撮影禁止の甲冑がある)

△長刀、槍、大身槍、鉄金棒/各種の屋根瓦....三つ葉葵の紋を入れた鬼板、鬼瓦、鯱瓦など

△藩主が乗った駕籠(と思う)と三つ葉葵の紋を配した行李(と思う)

△白虎像....白虎は四神の一つで、天の西方の守護神/三つ葉葵の紋が入った陣羽織(と思う)

△黒い2つは大名行列の際に用いる黒毛絵槍の先か....左は纏いの先かな?/大天守の模型(二十分の一のサイズ)

△最上階三階にある和歌山城郭のジオラマ

△大天守の最上階から眺めた天守閣の中庭....天守閣が台形の曲輪に建っているのが分かる....時計回りに多聞、天守二の門(楠門)、二の門櫓、多聞、乾櫓、多聞が曲輪を囲むように連なる

△小天守から眺めた天守閣....手前右は御台所、右奥は乾櫓、左奥は二の門櫓

△多聞内に武具などが展示されている                    棘がついている武具の刺股

△多聞で囲まれた天守閣を巡った後、天守二の門から南側の不明門跡に向かう

△三年坂通りに面している不明門跡

△切妻造本瓦葺の岡口門(重文)....浅野幸長入城後に大手門(表門)として創建された

△徳川頼宣入城後、大手門が一の橋に改められたため搦手門(裏門)とされた

△現存する岡口門は元和七年(1621)に徳川家が建立した二階建ての門(空襲を逃れた貴重な遺構)

△伏虎像....江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれた....現在の像は二代目で、昭和三十四年(1959)に造られた

△大手御門は高麗門....城郭門で、本柱の上に切妻屋根があり、直角に本柱と控柱間に切妻屋根がのっている

△切妻造本瓦葺の大手御門....城郭に入る正面の門で、浅野期に大手門として機能した

△大手御門と擬宝珠欄干付き太鼓橋の一の橋....寛政八年(1796)に大手門及び一の橋に改称された

△大手御門は明治四十二年(1999)に倒壊したが、昭和五十七年(1982)に再建された

△東側の堀越しに眺めた大手門と一の橋....いまにも紀州藩士が門から出てくるような雰囲気が漂っている
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和歌山城-(1) (和歌山)

2021年03月06日 | 史跡探訪-日本編

【和歌山・和歌山市】安土桃山時代の天正十三年(1585)、紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟・秀長に命じて紀ノ川河口部の岡山(虎伏山)の峰に創建した城で、普請奉行で築城の名人・藤堂高虎らが担当した。 秀長が郡山城(奈良県大和郡山市)を居城としたため、翌年、家臣の桑山重晴が秀長の城代を勤めた。
秀長家が途絶えると桑山氏が城主となり、豊臣・桑山時代に山嶺部や岡口などの整備に取り組んだ。 慶長五年(1600)、桑野家が大和新庄藩に転封した後、関ヶ原の戦いでの功績により37万6千石を与えられた浅井幸長が紀州藩主となって入城。 幸長は連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営など大規模な増築を行った。

◆訪問時はちょうど「和歌山城天守閣再建60周年」を迎えていた。 晩秋の紅葉が織り成す「紅葉渓庭園」の風景を満喫した後、観光案内所で頂いた「和歌山城たんけんMAP」を見ながら、西の丸跡から傾斜した御橋廊下を渡り、堀の縁を進んで搦手側の登城ルートである裏坂に向かう。
裏坂を上り始めると右手に、銀明水と呼ばれる古井戸があり、赤い前垂れをした数体の石仏が見守っている。 案内板には、銀明水は本丸の日常用水また籠城時の非常用水として使用されたとある。
しばらく緩やかな階を上って天守閣に近づくと、左手の一段高い所に曲輪がある。 そこは本丸御殿跡で、案内板に「 天守閣の撮影ポイント」とある。階を駆け上がって振り返ると眼前に豪壮な天守閣....曇天の空なれど美しい白壁の白亜の天守にただただ驚嘆。 本丸御殿跡から天守閣の入り口である「楠門(二之門)」に向かう。 荒々しく積み上げられた野面積みの石垣を見上げながら進み、石垣に沿って設けられた緩やかな幅広の階を上ると、石垣の間に造られた楠門に着く。
楠門の上は天守と二之門櫓を繋ぐ多門で、すぐ左上に「二之門櫓」がある。 楠門をくぐり石段を上がって天守がある曲輪に....広くない曲輪の南東に三重三階の大天守が聳え、小天守、2つの櫓などが多聞で繋がっていて、連立式天守と呼ばれるつくりだ。 いずれも白亜の建物で、近くで見ると一段と白さが際立っている。 大天守の最上階から天守閣の狭い中庭を見下ろすと、ほぼ菱形の曲輪に築城されていることがよく分かる。 最上階からの和歌山市街の眺望も素晴らしい。

△けやき大通りから眺めた北堀の内堀に架かる御橋廊下と奥に聳える和歌山城天守閣/西の丸広場(西の丸跡)から見た「御橋廊下」の入り口

△徳川期に内堀に架けられた御橋廊下....平成十八年(2006)に復元された

△切妻造桟瓦葺の御橋廊下....藩主の他、付き人・奥女中らが二之丸(右手)と西之丸とを行き来するための傾斜のある橋

△二之丸背後にある台所門から本丸・天守曲輪へと至る裏坂....搦手側の登城ルート/裏坂の途中にある切妻造板葺屋根で覆われた古井戸の銀明水....銀明水は本丸の日常用水、籠城時の非常用水として使用された

△南東に位置する本丸御殿跡(天守閣の撮影ポイント)から眺めた天守閣....正面が大天守で右に小天守/最上階に物見のための高欄が設けられている....各階の屋根に唐破風と千鳥破風を交互に配置

△虎伏山に聳える白亜の美しい天守閣....現在の天守閣は昭和二十年(1945)の戦災で焼失した後、昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリートで復元された

△天守閣はほぼ菱形の曲輪に建つ....3種類の石垣があり、石の種類や積み方、工法などが違っていて、時代の流れと技術の進歩が垣間見れる/大天守の南東隅に設けられた石落とし

△和歌山城は三重三階の連立式天守閣の造りで大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門(二の門)を多聞によって連結させている

△天守閣の南側の荒々しく積み上げられた野面乱石積の石垣

△天守閣の「天守二之門」への石垣に沿って設けられた幅広の階

△天守二之門(楠門)と左上に二之門櫓がある

△天守二之門(楠門)の正面....上は大天守と二之門櫓とを繋ぐ多聞

△天守二之門と奥に大天守が聳える

△入母屋造本瓦葺の天守二之門....大棟端に鯱が乗る

△天守二之門と大棟端に鯱が乗る入母屋造本瓦葺の二之門櫓

△天守閣の南西に位置する入母屋造本瓦葺の乾櫓

△庭園の中に伸びる白い玉石が敷かれた小天守への参道、その先に小天守、右手に大天守が建つ....小天守の左手に御台所がある

△大小天守など本丸の主要な建物は弘化三年(1846)に天守曲輪に落ちた雷で焼失したが、嘉永三年(1850)に特別許可により再建された....天守の妻面に青海波文様が描かれている

△小天守に設けられた大きな唐破風の入り口/唐破風の兎毛通は猪ノ目懸魚、虹梁の上に棟柱を支える笈形付き大瓶束、虹梁下に本蟇股

△曲輪の南東に位置する大天守から眺めた多聞で囲まれた天守閣の中庭....右奥が乾櫓、左奥は二の門と二の門櫓


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和歌山城西之丸庭園 (和歌山)

2021年03月01日 | 史跡探訪-日本編

【和歌山・和歌山市】安土桃山時代の天正十三年(1585)、紀州を平定した羽柴(豊臣)秀吉が弟・秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建した和歌山城にある。 西之丸庭園は、紀州藩初代藩主徳川頼宣(8代将軍徳川吉宗の祖父)が隠居所として西之丸御殿を建てた際に造営した池泉回遊式の大名庭園。
紅葉が美しいことから「紅葉渓庭園」と呼ばれ、慶長五年(1600)に入城した関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長の時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の起伏をたくみに取り入れて造られた。

◆数年前の11月下旬、和歌山の寺社巡りをした際、和歌山城と西之丸庭園(紅葉渓庭園)を訪問した。 JR和歌山駅から西に延びる県道を進み、けやき大通りに面した西ノ丸広場に建つ市役所南別館に立ち寄り、「わかやま歴史館」観光案内所で「史跡 和歌山城」と「和歌山城たんけんMAP」のパンフを頂いた。
案内所の方が『けやき大通りから眺める御橋廊下と天守閣が撮影スポットですよ』と教えてくれたので、まずは少し駅方向に戻り、けやき大通りから内堀に架かる御橋廊下と奥に聳える和歌山城の天守閣を眺めた。 曇天の空だったが、内堀の水面に御橋廊下とその橋脚そして天守閣が映っている光景が素晴らしく、しばし寺社巡りの疲れがとれたような気がした。
案内所に戻り、「和歌山城 紅葉渓庭園」と彫られた標石の近くから園内に入る。 雪見燈籠、湧水の段落風の滝、木立の中に建つ四阿を眺めながら紅葉に彩られた園道を進むと、木造の紅葉渓橋がある。 紅葉渓橋から庭園を見下ろすと、紅葉した木々の中に、滝を流れ落ちる水が注ぎ込む池と緩やかに反った橋が見える。
紅葉渓橋から池に沿った園道をくだり、内堀と池を分けるように石を積み上げて造営した提のような柳島を進むと、色鮮やかな紅葉の間から「御橋廊下」と内堀に浮かぶ「鳶魚閣」が現れる。 反り橋から上の池を眺めると、紅葉渓橋の下を通って湧水が池に注がれ、池辺に様々な緑色の石組が配され、池の中央に舟の形をした「御船石」が浮かんでいる。
反り橋を渡ると直ぐ右手に、檜皮葺とみられる宝形造の「鳶魚閣」が池に見立てた内堀に突き出るように建つ。 組勾欄付き回縁を設けた「鳶魚閣」は、正面は花頭風枠に舞良戸のような引戸、両側面と背面は蔀戸で内側の花頭風枠に明り障子を建て付けた質素な造りだが、味わいのある佇まいだ。 江戸後期作の「和歌山西丸図」によると、「鳶魚閣」は池の中(内堀)に浮かぶように建っていたようだ。「鳶魚閣」は釣殿とも呼ばれるので、城主らが回縁に腰かけ、ゆったりと釣りを楽しんでいる様子が浮かんでくる。 晩秋の訪問だったが、まさに「紅葉渓庭園」の名の通りで、紅葉の風景と風情を存分に楽しむことができた。

△けやき大通りから眺めた内堀に架かる御橋廊下と奥に聳える和歌山城の天守閣/西之丸庭園の入り口にある「紅葉渓庭園」の標石

△西之丸庭園は紀州徳川家初代城主・徳川頼宣が和歌山城の西之丸御殿に築いた風雅な大名庭園....通称は「紅葉渓庭園」と称す

△園道の傍らに佇む丸くて大きい笠の雪見燈籠/山裾から湧き出た水が流れ落ちる段落風の滝....出水は下の池に注がれる

△園内の木立の中にある四阿              切妻造板葺でL字造りの四阿

△園内の高い位置に架かる木造の紅葉渓橋

△紅葉渓橋の下を湧き水が流れ、下の池に注がれている

△紅葉渓橋から眺めた紅葉に彩られた池泉

△園道の斜めに聳える楓が内堀の水面に大きく突き出している

△園内から内堀越しに眺めた御橋廊下

△内堀のほとりに建つ鳶魚閣....釣殿と呼ばれるようだ

△柳島で仕切られ、緩やかに反った木造橋の右側が池で左側が内堀

△紅葉渓橋の下を通って流れ落ちる湧水が池に注がれ、池辺に石組が配され、池の中央に舟の形をした「御船石」が浮かぶ

△池辺の周りに配された豪壮な石組が美しい....周囲に緑色片岩(紀州青石)を立石として配している

△鳶魚閣の飛び石の参道、参道脇に2本の松の老木がある....幹に害虫駆除の「こも巻き」が巻かれている

△露盤宝珠が乗る宝形造檜皮葺(と思う)の鳶魚閣

△鳶魚閣の参道脇に横に枝を伸ばす見事な松の老木

△鳶魚閣の周囲に組勾欄付き切目縁を設けている

△後方のこの位置で釣が行われていたのかな?

△軒廻りは一軒繁垂木、側面と背面の三方は蔀戸で、内側は花頭風枠に明り障子を配している

△鳶魚閣は内堀に面して建っているが、まるで池の辺から突き出ているようだ

△.御舟石のある上の池だけでなく、柳島を浮かべて仕切って内堀を池に見立てている
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