何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

智恩寺 (京都)

2013年01月24日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】平安時代の前期、現在の相国寺付近に加茂社の神宮寺として円仁が創建したものと伝わる。 創建当初、円仁作とされる釈迦如来像を安置したことから今出川の釈迦堂と呼ばれた天台寺院で、加茂社を崇敬した法然上人により念仏道場とされた。 法然入滅後、弟子の勢観房源智上人が跡を継ぎ、法然を開山第一世とし興隆し、寺名を功徳院智恩寺と改称した。
鎌倉時代末の元弘元年(1331)、疫病が蔓延した時に後醍醐天皇の命で第八世善阿空円上人が百万偏念仏を唱えたら直ぐさま疫病が鎮まり、天皇から「百万偏」の号を賜った。
相国寺の創建に伴う移転などで、江戸時代の寛文元年(1661)、現在地に再建された。

「百萬遍念仏根本道場」の石標が立つ門から境内を眺めると、真っ直ぐ伸びた参道の正面奥に御影堂、その手前の左手に阿弥陀堂、そして、右手に釈迦堂が並んで建つ。 いずれのお堂も入母屋造瓦葺であるが、御影堂と釈迦堂は本瓦葺なのに対し、阿弥陀堂には桟瓦葺が使われているのは建築時期の違いからだろう。
境内参道を進むと、御影堂の手前の右手に碑楼が建つが、石碑の由来を失念した。 御影堂の桟唐戸の内側の障子戸が開いていて、覗くと、須弥壇に鎮座する法然上人像が小さく見える。 350年前に建立された釈迦堂正面の桟唐戸と花頭窓、そして、後奈良天皇宸筆の「智恩寺」の額が印象的だった。

山門前に「百萬遍念仏根本道場」の石標が立つ

今出川に面して建つ山門

松の木が立つ境内参道の正面奥に建つ御影堂
 
御影堂(本堂)..法然上人43才の頃の姿を現したと伝える木像を安置

御影堂..入母屋造本瓦葺で、江戸時代宝暦六年(1756)改築

重厚な造りの御影堂

御影堂への参道脇に建つ碑楼..石碑の由来は?
 
御影堂正面の近景..須弥壇に鎮座する法然上人像が見える 御影堂の向拝

釈迦堂..江戸時代寛文四年(1664)に本堂(祈祷堂)として建立
 
釈迦堂..「智恩寺」の額は後奈良天皇宸筆           堂内には釈迦如来坐像を安置

京都三大釈迦堂の一つで「今出川釈迦堂」と称された

阿弥陀堂(念仏堂)..江戸時代文政十一年(1828)建立
 
阿弥陀堂..禅宗様仏殿様式の入母屋造桟瓦葺        正面の扉は桟唐戸

阿弥陀堂..阿弥陀如来立像安置、左手の小さなお堂は地蔵堂か?

勢至堂..寛文年間(1661~1673)建立

勢至堂は宝形造本瓦葺

鐘楼
 
鐘楼の梵鐘

鐘楼..左下の鳥居の奥に加茂明神が鎮座

手水舎
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廬山寺 (京都)

2013年01月16日 | 寺社巡り-京都

【京都・上京区】平安時代の天慶元年(938)、比叡山延暦寺の中興の祖である元三大師良源が京都の北山に創建した与願金剛院に始まる。 鎌倉時代の寛元元年(1243)、法然上人の弟子覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山(江西省の北部の山岳)にちなみ廬山天台講寺と改称。
後醍醐天皇の勅願寺となったが、室町時代の応仁の乱(1467~1477)の兵火で焼失、元亀三年(1572)、織田信長の比叡山焼き討ちに際しては、正親町天皇から明智光秀に焼き討ちを止める女房奉書が出されて難を免れた。 その後、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に豊臣秀吉の京都都市改造で現在の寺町通に移転。

「開祖元三大師良源」の高札がある山門の前から、正面奥に風格のある大師堂が見える。
紫式部の邸宅趾に建立されたお寺ということで、期待しながら山門をくぐって大師堂に向かう。 荘厳な大師堂を拝観したが、正面縁の左隅に木製の像が鎮座しているのが気になった....多分、「元三大師像」と思うが....。 大師堂拝観後、「源氏の庭」を拝見するため参拝入口から本堂に進む。
本堂南側に造営された「源氏の庭」....白砂に洲浜形に苔を配した美しい眺めで、暫しの間、本堂の縁に座って観賞....苔の中に紫のキキョウの花が咲いていたのが印象的だった。
 
山門..「開祖元三大師良源」の高札が立つ
 
山門から眺めた正面奥の大師堂..元三大師自刻の鬼面の角大師坐像を安置
 
鐘楼                  入母屋造瓦葺の手水舎

大師堂..江戸時代天保六年(1835)に再建
 
入母屋造本瓦葺の大師堂は「元三大師堂」と呼ばれる
 
大師堂の正面の縁の隅に鎮座する「元三大師像」(..と思うが)

境内に立つ大きな宝篋印塔..どなたの供養塔だろうか

本堂と庭園参観への玄関
 
本堂..光格天皇の勅命で寛政六年(1792)、仙洞御所の一部を移築して再建
 
本堂..鎌倉時代の阿弥陀三尊像を祀る/本堂縁隅に下がる梵鐘越しに眺めた「源氏の庭」
 
本堂南側にある「源氏の庭」..昭和四十年、この地ゆかりの紫式部にちなみ整備された
 
「源氏の庭」は白砂に洲浜形に苔を配し、紫のキキョウを添えている

紫式部にちなむ「源氏の庭」..教科書等の書籍で、紫式部や源氏物語の説明で見た庭だ

勅使門と思う..門前に「慶光天皇廬山寺陵」の石碑が..
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清浄華院 (京都)

2013年01月12日 | 寺社巡り-京都

【京都・上京区】平安時代の貞観二年(860)、清和天皇の勅願により天台宗の慈覚大師円仁が御所内に禁裏内道場として創建したのが始まりで、開山は3世天台座主の慈覚大師円仁。
後に、後白河法皇が浄土宗の開祖法然上人に帰依し、清浄華院を与えたことから法然を中興開山とし、天台・真言・仏心(禅)・戒律の4宗兼学から浄土宗寺院となり、以後、念仏道場としての道を歩む。
室町時代の応仁の乱(1467~1477)で荒廃したが後に復興、豊臣秀吉時代の天正十三年(1585)に現在地に移転した。 清浄華院は浄土宗大本山八ヶ寺の一つで、かつては末寺140ヵ寺を誇った....法然上人二十五霊場23番札所。

門前に立つ大きな「法然上人八百年大遠忌法要」の高札を眺めながら、山門をくぐると、境内参道右手奥に、柱に紅白の布を巻かれた鐘楼がある。
法然上人の像を祀る唐破風と千鳥破風をもつがっしりとした御影堂....堂前には、天明京都大火の犠牲者の供養塔(五輪塔)が立ち、六地蔵が3体ずつ背中合わせに鎮座、まるで供養塔を護っているようだ。
境内には、篤姫の曾祖母「智満方」の墓といわれる宝篋印塔が静かに佇む。 御影堂には清和・村上両天皇像を安置され、皇室とのゆかりの深い寺らしい雰囲気が漂う境内だ。

落ち着いた佇まいの山門

門前に「法然上人八百年大遠忌法要」と書かれた大きな高札が立つ

明治四十二年(1909)再建のどっしりとした入母屋造瓦葺の御影堂(大殿)

御影堂には木造法然上人像、清和・村上両天皇像を安置
  
正面に大きな唐破風と千鳥破風の屋根をもつ御影堂..御影堂前は静寂が漂う

御影堂前の両側に五輪塔ろ石燈籠が佇む

御影堂の正面

質素な造りの向拝と擬宝珠高欄
  
宝篋印塔は篤姫の曾祖母「智満方」の墓/御影堂前に立つ天明京都大火(1788年)の犠牲者の五輪塔

御影堂と渡り廊下で繋がっいている一風変わった建物
 
白い漆喰塗袴腰風基台に建つのは御廟か納骨堂?/御廟か納骨堂?の入口部分
 
御影堂の右手に建つのは阿弥陀堂(旧松林院)か?
勅使門

鐘楼..柱に紅白の布が巻かれている
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二伝寺 (藤沢)

2013年01月06日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】室町時代の永正二年(1505)、初代玉縄城主北条氏時が開基、忍蓮社浄誉正空上人(鎌倉大本山光明寺第十世)を開山として建立。 遺構は残っていないが、永正九年(1512)頃に北条早雲によって玉縄城とともに造られた砦(二伝寺砦)があったところ、また、寺院裏山には平安時代を生きた平良文(通商村岡五郎)、平忠光、平忠通三代の塚がある。
戦国時代、一帯は幾度と無く戦場となって荒廃したが、安土桃山時代から江戸時代前期に、玉縄領主松平正次公によって中興された。
本堂には運慶作と伝えられる木造聖観音坐像を安置されている浄土宗の寺院で、鎌倉群第32番観音札所。

少し苔生した石段の上の鬱蒼とした木々の間に本堂の屋根が見える。
石段を上ると視界がパッと開け、正面には、建て直して間もないと思われるシンプルな造りで白壁が眩しい本堂が建つ。 墓所内に佇む多くの宝篋印塔、宝珠を乗せた笠塔波、無縫塔、そして箱型や板碑型の墓石が立っているのが印象的だった。
また、かなり風化しているが元禄や天保などの年号が刻まれた石仏群が、歴史のあるお寺であることを感じさせる。
  
木立の中の苔生した石段の上に本堂が建つ              塀際にひっそりと佇む石燈籠

石段の上の境内に建つ入母屋造銅板葺の本堂

本堂はシンプルな造りで、白壁が眩しい
 
本堂正面には連子窓付きの桟唐戸と花頭窓が..

本堂向拝の虹梁の上には大きな蟇股がある
  
本堂をいろいろな角度から眺めてみた

墓所から眺めた本堂
  
墓所に立つ宝篋印塔、笠塔波、無縫塔..大きな無縫塔には「第26世 行誉上人」と刻

墓石(供養塔)越しに眺めた本堂
 
元禄や天保などの年号が刻まれている風化が進んだ石仏群、箱型や板碑型の墓石など並ぶ

六地蔵が本堂を向いて鎮座
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本蓮寺 (藤沢)

2013年01月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】古墳時代の推古天皇三年(595)、聖徳太子の師義玄和尚を開山として建立された真言宗の寺院(密教寺院)と伝わる古刹。
平安時代末期の元暦元年(1184)に源頼朝により源立寿寺として再建された後、鎌倉時代の嘉元年間(1303~1306)の頃、日秀が日蓮宗に改宗し現在に至る。 江戸時代の慶安二年(1649)、徳川家綱から朱印地七石を賜り「御朱印寺」となった。

寺号標石の近くの冠木門をくぐって参道を進み、総門といわれる山門に向かう。
参道の途中にある古い石橋の上に「不告入門」の札が置かれ、いやな予感を感じながら進むと、やはり山門には入門拒否の柵が....。 仕方がないので、柵から身を乗り出して境内の写真を撮ったが、山門から本堂と鐘楼と銀杏の古木を拝観できるだけだった。
参道から山門まので境内を見た限りでは、非常に手入れが行き届いている古刹であるが、入門できないのは残念だった。

山門(総門)前の石橋は江戸時代寛政十二年(1800)作..橋の上に「不告入門」の札
 
門前に源頼朝が父義朝の首と対面したとき馬を繋いだといわれる「鎌倉殿駒牽の松」の立札があるようだが失念

袖塀を持つ唐破風の立派な山門..薬師門のようだが..

山門..平成十九年(2007)再建....江戸時代は仁王門だった、「轉法輪」の扁額が掛る
 
山門の袖塀(透塀)と脇に立つ上野寛永寺から移設された石燈籠

山門に置かれた柵から眺めた境内
 
山門に葵の御紋のある「御朱印寺」の札が掛る/山門から眺めた宝形造瓦葺の鐘楼....境内参道右手にも銀杏の古木

入山禁止また更に境内では撮影禁止らしい....左手に銀杏の古木が聳える

入母屋造瓦葺の本堂..昭和六年(1931)再建、小さな唐破風のシンプルな向拝

山門袖塀の左奥が庫裡のようだ
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