
【川崎・麻生区】中世は称名寺の末寺として禅・律・真言の三宗兼学の道場として栄え、最盛期には真言密教を修行する七堂伽藍を有す(当時を偲ぶ古絵地図に多くの塔頭が描写)学問寺として檀家を持たず、本寺(大寺)として近隣の末寺36ヵ寺からの上納により営まれていた。
寛永十九年(1642)には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を受領。徳川幕府の歴代の将軍(徳川家康を始めとし、後の13人の将軍)の位牌を奉り、将軍家より葵の御紋の使用を与えられた。 明治維新の神仏分離令まで王禅寺は、王禅寺村の鎮守5社(日枝神社、神明神社、稲荷神社、比川神社、白山神社)の別当寺だった。
◆石階から芝生境内に建つ観音堂に向かって切石敷の参道が延びている。 小さな箱棟を乗せた観音堂は、江戸後期に建てられた旧本堂なのだが、飾り気がなく、古色蒼然たる佇まいを感じさせる。 また、向拝の水引虹梁の上の龍と木鼻の獅子は、精緻でしかも迫力のある彫刻で素晴らしい。

△寄棟造銅板葺の観音堂....江戸後期の嘉永四年(1851)建立の旧本堂

△観音堂には江戸初期慶長十三年(1608)造立の聖観音菩薩像を安置(12年に一度、子年にだけご開帳)

△正面と両側面に切目縁を巡らす

△飾り気のない観音堂は古色蒼然たる佇まいだ

△向拝水引虹梁の上に精緻な3本爪の龍の彫刻を配している

△木鼻は大きな獅子、眉を欠いた虹梁に若葉彫刻

△正面は五間で、中央間は両折両開(と思う)桟唐戸、脇間は観音開きの桟唐戸と連子窓

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備なし

△側面五間で前から横羽目板、二間目と三間目は引き違い板戸、三間目と四間目の間の縁に板張りの脇障子を設けている


△観音堂前に建つ慰霊塔と六字名号塔/文化十年(1813)造立の六字名号塔

△玉垣に囲まれた慰霊塔は宝塔....石燈籠は昭和五十五年(1980)の造立

△観音道の右脇から眺めた手水舎
◆観音堂に向かって右奥に地蔵堂が建ち、赤い帽子を華ぶり前垂れをした水子地蔵尊像が鎮座している。 また、境内右手の山裾に簡素な御堂が建っている。 すぐ傍に鎮座する円光を背負う地蔵菩薩像と下品上生とみられる印相を結ぶ阿弥陀如来像が御堂を見守っている。
腰高格子戸の隙間から中を覗くと、弥陀三尊の種子が彫られた石の板碑が安置されている。 種子はかなり風化しているが、上に主尊の「キリ-ク」(阿弥陀)、下の左右に脇侍の「サク」(勢至)と「サ」(観音)がみて取れる。 観音堂に向かって左側に、たくさんの小さな石仏(墓碑)、宝篋印塔そして上に丸彫りの石仏を乗せた墓碑がひっそりと鎮座しているが、丸彫りの石仏は頭部がない悲しいお姿だ.…合掌。

△観音堂に向かって右手に建つ慰霊塔と奥に地蔵堂

△宝形造銅板葺の地蔵堂


△地蔵堂に鎮座する赤い帽子を華ぶり前垂れを掛けた水子地蔵尊立像/慰霊塔は明治四十一年(1908)造立の日露戦没者慰霊碑(と思う)

△観音堂に向かって右手の山裾に建つ御堂(堂名は阿弥陀堂か?)

△御堂は宝形造木皮葺で、軒廻りは一軒繁垂木....入口は腰高格子戸


△堂内に鎮座する弥陀三尊種子板碑....上部に主尊の「キリ-ク」(阿弥陀)、下部右に脇侍「サ」(観音)、下部左に「サク」(勢至)を配す/御堂に向かって左脇に鎮座する円光を背負う地蔵菩薩立像と阿弥陀如来立像(下品上生の印相と思う)

△観音堂に向かって左脇に鎮座する墓碑の石仏群....一石二尊石仏は天和三年(1683)の造立、他に元禄、宝永、享保の年号が確認できる

△観音堂に向かって左脇に鎮座する、墓碑上の頭部のない合掌石仏と宝篋印塔(と思う)


△頭部のない合掌石仏は安政六年(1859)の造立/.宝篋印塔の塔身の月輪に金剛五仏(と思う)梵字が彫られている