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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

津久井浜駅傍の庚申塔

2024年05月06日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】「万代会館」訪問のため京急久里浜線の津久井浜駅を降りると、駅前に浅間神社の大きな社号標石と三基の庚申塔が大きな基壇の上に鎮座。 さらに、駅から坂道を少し上がったところにコンビニ店があり、その脇の丁字路の角に四基の庚申塔が鎮座し、いずれも駅に行き交う津久井の人々を見守っている。

★駅前の三基はいずれも「青面金剛」と刻まれた駒形文字庚申塔で、一基は明治期、二基は江戸時代後期の造立だ。 庚申塔には造花だが供えられていて、津久井の方々に手厚く保存されていることがわかる。 青面金剛は駅に背を向けているが、駅利用者に降り掛かりそうな悪疫を調伏しているのだろう。

△京急津久井浜駅前に鎮座する社号標石「村社浅間神社」と三基の庚申塔....社号標石は昭和十五年(1840)の造立

△三基の庚申塔の造立年は左から明治四十一年(1908)、文化十三年(1816)、文政七年(1824)

△駒型青面金剛文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)/三猿

△駒型青面金剛文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)/剥落した三猿の跡

★津久井浜駅近くのコンビニ傍の基壇上に鎮座する四基の庚申塔。 いずれも全体の形状が異なる。 駒型の青面金剛文字庚申塔を除く三基は風化による摩滅や剥落が進み像容や文字がわからない。 三基のうちの一基は笠付き角柱型青面金剛庚申塔で、邪鬼を踏みつける青面金剛が左手で合掌する女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げている。 二基目は合掌する地蔵尊像が浮き彫りされたもので、庚申塔と思う。 最後の一基は自然石を用いた庚申塔で、摩滅や剥落が激しく、浮き彫りされた猿とみられる像のみが確認できるものだ。

△津久井浜駅近くのコンビニ傍に佇む庚申塔....花が添えられ手厚く供養されている

△磨き石の基壇の上に鎮座する四基の庚申塔

△左は駒形青面金剛文字庚申塔、右は笠付角柱型青面金剛庚申塔/笠付角柱型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)は文化五年(1808)の造立

△浮き彫りされた悪疫を調伏する六臂の青面金剛像....「剣&人持型」と思うが剣は確認できず/左手で着物を着て合掌する女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げている

△謹慎態度を示す三猿と青面金剛に踏まれている邪鬼....邪鬼の左右の盛り上がりは「鶏」か?

△舟光背型地蔵菩薩庚申塔....造立年は摩滅していて不明/合掌する地蔵立像が浮き彫り

△風化・剥落が激しく、種類及び造立年不明の自然石型庚申塔/向かって左下の浮彫り像は猿の一匹か?

△庚申塔の後方に並べられた幾つかの五輪塔と宝篋印塔の各部位....宝珠と受花が多い
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世田谷区立郷土博物館の石仏群

2024年03月16日 | 石仏巡り

【東京・世田谷区】世田谷代官屋敷と同じ敷地内にある世田谷区立郷土資料館の屋外展示物として、本館脇に地蔵石像や庚申塔、他に供養塔や道標などが鎮座している。 石造物はいずれも江戸時代の享保十三年(1728)~天保七年(1836)の造立で、最古の享保十三年のものは青面金剛庚申塔。 石仏群と並んで石造り農具(摺臼・搗臼・麦打ちコロ)が展示されている。

★世田谷代官屋敷を拝観した後、隣接する世田谷区立郷土資料館の本館脇に整然と並んで鎮座する石仏群に。 外壁に各石造物の解説が掲示されていて、刻まれている銘文などが詳しく記載されている。 石造物はすべて近隣の地域に佇んでいたもので、昭和期に寄贈されたとある。 いずれも貴重な遺物なのだが、ひとつ残念だったのは蓮華座に鎮座する合掌地蔵菩薩立像で、頭部がない悲しいお姿なのだ....合掌。

△世田谷代官屋敷と同敷地にある世田谷区立郷土博物館本館の脇に整然と鎮座する石造物群

△石造物は地蔵尊石像、庚申塔、供養塔、道標、狐石像など

△右は文政十年(1827)造立の文字庚申塔、中は天保七年(1836)造立の道標「品川領用水御普請所」、左は文化十年(1813)造立の供養塔「馬頭観世音」

△右は文化十三年(1816)造立の庚申塔「東目黒通」、中は延享四年(1747)造立の庚申供養塔「西ハ大山道」の刻、左は享保十三年(1728)造立の庚申塔「青面金剛」

△享保十三年(1728)造立の駒型光背青面金剛庚申塔(日月瑞雲、1鬼、2鶏、3猿)/合掌する1面6臂の青面金剛像

△摩滅が激しいが邪鬼と2羽の鶏、三猿が確認できる

△右から神使の狐像、地蔵菩薩像、三界萬霊塔

△稲荷明神の神使である六体の狐石像

△地蔵菩薩立像....宝暦六年(1756)の造立で、台座に「念〇(佛)講供養佛」の穀/蓮華座に鎮座する合掌地蔵尊像は頭部が欠失した残念なお姿

△天明五年(1785)の造立の駒型光背三界萬霊塔....道標を兼ねていて、正面に「三界萬霊等」と西・さ加み(相模)道、右側面に南・池上道、左側面に北・高井戸宿通り、背面には東・江戸道が刻まれている/萬霊塔上部に彫られた仏坐像....摩滅が激しいが地蔵菩薩か?

△三界萬霊塔の左隣に展示されている石造り農具....右から摺臼、搗臼、麦打ちコロ
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金屋の石仏

2023年09月01日 | 石仏巡り

【奈良・桜井市】日本最古の道である”山の辺の道”の金屋集落から大神神社へと続く道沿いに、「金屋の石仏」を安置する小堂がある。 堂内には平安時代後期~鎌倉時代にかけての造立と推定されている二体の石仏が、高さ約220cm、幅約80cmの板石(石棺の蓋を転用したとされる)に薄肉彫りされていて、国の重要文化財に指定されている。
石仏はかつて三輪明神(現・大神神社)の神宮寺だった平等寺に祀られていたが、明治維新の廃仏毀釈によって破壊されるのを防ぐため村人が現在地に移した。 挙身光を背負って蓮華座に鎮座する石仏は、向かって右が説法印を結ぶ釈迦如来立像、左が右手施無畏印、左手与願印の弥勒如来立像といわれる。

■平成二十八年(2016)に”山の辺の道”近くの寺社巡りをしていた際、金屋の二尊石仏を拝観した。 鉄筋コンクリート造りの小堂の腰高鉄格子戸の隙間から中を覗くと、大きな板石に薄肉彫りされた石仏が安置されている。 風化による摩滅が進んでいるが、やわらかで流麗な線で彫られた像容であり、とくにみごとな衣文を示している衲衣のひだがハッキリと確認できる。 二尊石仏はいずれも肩幅が広く、肉付きがよいふっくらとした体つきだが、全体にバランスがとれたお姿だ....合掌。

△日本最古の道「山の辺の道」の沿道に建つ「金屋の石仏」が安置されている切妻造桟瓦葺の小堂....昭和五十六年(1981)の建立で鉄筋コンクリート造り

△高さ約220cm、幅約80cm、厚さ約21cmの板石に薄肉彫りされた二体の石仏(重文)....平安時代後期~鎌倉時代にかけての造立(推定)/バランスのとれた像容で、穏やかな丸顔

△挙身光を背負い蓮華座に鎮座する二尊石仏

△左は弥勒如来立像(推)....像高163cm....右手は施無畏印で、左手は与願印を結ぶ/右は釈迦如来立像(推)....像高164cm....説法印を結ぶ
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霊仙寺の石仏

2023年06月19日 | 石仏巡り

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身・仁聞菩薩によって聞基されたと伝わり、六郷満山末山本寺十ヵ寺の一つである霊仙寺の境内に鎮座する石仏群。 その中で、巨大な一石造りの地蔵尊像は、九州最大を誇る。

■一段高くて長い石垣の上に混凝土塀に囲まれて建つ霊仙寺。 小振りの鐘楼門の両脇に守護神の二天像が鎮座し、仏敵の侵入を防いでいる。 二天像は江戸時代初期の造立で、板石に浮き彫りされた像は石造彫刻としては国東の佳作とされている。 鐘楼門右手の混凝土塀の上に、大地蔵尊像が上半身を出している。 鐘楼門をくぐって振り返ると、門両脇に2躯の石仏が、本尊の千手観世音菩薩像を祀る本堂を向いて鎮座。 一方は、三鈷杵を持つ右手と右足を高く上げた躍動感あふれる像容から蔵王権現像、もう一方は中に釈迦の骨が入った宝塔を右手で持つ像容から多聞天像とみられる。

△霊仙寺の山門(鐘楼門)と本殿....山門脇に二天像、混凝土塀奥の右手に大地蔵尊像が鎮座

△鐘楼門の両側に鎮座する板石に厚肉彫りされた仁王像(金剛力士像)

△仏敵の侵入を防ぐ守護神の仁王像は江戸時代初期の造立で、国東の佳作とされる

△鐘楼門の後方で仁王像の後ろに鎮座する2躯の像....三鈷杵を持つ右手と右足を高く上げた躍動感あふれる像容は蔵王権現像か?/釈迦の骨が入った宝塔を右手で持つので多聞天像か?

■境内にひときわ巨大な大地蔵尊像が南面で鎮座している。 江戸時代末期安政七年(1860)造立の一石造りで、像高は4.87メートルある。 一般に見られる地蔵尊像のお顔とは少し違い、珍しい面長....やさしい表情のお顔に癒される。 大地蔵尊像の足元に、丸彫りの二天像が鎮座して大地蔵尊を護っている。 大地蔵尊像後方の裏山の傾斜地に羅漢像とみられる多くの石仏が鎮座し、静かに山内を見守っている。

△大地蔵尊像....安政七年(1860)の造立で像高4.87メートル(総高6.50)....一石造り地蔵尊像としては九州最大

△地蔵尊像を護る丸彫りの二天像(金剛力士像)

△二天像は少しごついが、ひるがえる天衣と腰布を纏う

△大地蔵尊像後方の裏山の傾斜地に鎮座する石仏群は羅漢像か?

△傾斜地に鎮座する尊名不詳の石仏(羅漢像)/錫杖を失った地蔵菩薩立像
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朝夷奈切通の石仏

2023年04月25日 | 石仏巡り

【神奈川・横浜市】鎌倉時代造営の鎌倉七口のひとつである切り通し「朝夷奈切通」の朝比奈側の入り口に鎮座する石仏群。 朝夷奈切通は仁治二年(1241)、鎌倉幕府が鎌倉と当時海外等からの物資集散の港であった六浦とを結ぶ重要交通路として、山稜部を開削して造営した路。

■バス停「朝比奈」から朝夷奈切通に向かうと、2~3分で「朝夷奈切通」の道標が立つ入口に着く。 もう少しで見過ごすところだったが、道標の少し手前の右側の切岸の岩崖に2つの大きな穴がある。中世の洞窟墓地だった「やぐら」の跡だろう。
切通しは横浜横須賀道路の高架下を通るが、その手前の切岸の裾に8基の石仏(含む石碑・供養塔)が散策者の安全を祈るかのように鎮座している。 造立年が分かる石仏はいずれも江戸中期から後期のもので、一部は風化による磨滅や剥離が激しい。 8基の石仏の中で、「猿田彦大神」と刻まれた神道型の石碑、「坂普請供養塔」と刻まれた供養塔そして.「道禄神」と刻まれた道祖神が珍しいと思う。

△朝比奈側の朝夷奈切通の入り口....右側の切岸の岩崖にある2つの穴は中世の納骨施設であった「やぐら(谷倉)」跡(と思う)

△国指定遺跡「朝夷奈切通」の案内板

△「朝夷奈切通」の道標....側面に「左熊野神社」と刻まれている

△左上に走る横横高速道路の高架下を通る「朝夷奈切通」の参道の手前脇に鎮座する石仏群

△庚申塔、道祖神、供養塔、猿田彦大神など8基の石仏・石碑が整然と鎮座

△石碑・石仏には風化による磨滅と剥離がみられる

△延宝八年(1680)造立の笠付角柱型青面金剛庚申塔(日月、3猿)/合掌する青面金剛像

△笠破風の兎毛通の位置に蕪懸魚を彫っている/台座に彫られた3猿

△寛政六年(1794)造立の駒型文字庚申供養塔(欠けているが日月瑞雲、台座に3猿)/安政四年(1857)造立の「猿田彦大神」と刻まれた神道型の石碑....左右が割れていて原形不詳

△造立年不詳の舟光背型地蔵庚申塔(3猿)/磨滅と剝離が激しい地蔵型庚申塔

△天保七年(1836)造立の「坂普請供養塔」と刻まれた供養塔/天保四年(1833)造立の.「道禄神」と刻まれた道祖神....上部の梵字は「青面金剛」と思う

△造立年不詳の舟光背型地蔵庚申塔....台座に三猿らしきものがあるので庚申塔と思う/造立年不詳の櫛型光背仏像....磨滅が激しく尊名不明だが、像容から地蔵仏と推察



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来迎寺の石仏

2023年03月19日 | 石仏巡り

【東京・足立区】鎌倉時代初期の建久六年(1195)に創建された古刹・来迎寺の境内に鎮座する石仏。 来迎寺は江戸時代の天和年間(1681-1684)に尊宥和尚によって再興されて今日に至るが、近年建立の趣のある多宝塔や勅使門風の平唐門がある。

■境内に入った直ぐの参道の脇に、子育地蔵尊が祀られた地蔵堂と並んで四基の庚申塔と起舟形光背型地蔵尊像が佇んでいる。 庚申塔はいずれも江戸時代前半(元禄~正徳)造立で、青面金剛庚申塔と三猿庚申塔が各1基、他は供養と刻まれた文字庚申塔だ。 青面金剛庚申塔は「島根古蹟庚申塔」と呼ばれていて、島根(此の地区)周辺の衆生の信仰の姿を伝えている。 庚申塔と同時期に造立された起舟形光背型地蔵尊像が、庚申塔に交じって鎮座している。 本堂脇の墓碑の上の石造りの椅子に弘法大師像が座り、墓所に眠る人々を静かに見守っている。

△門柱傍に地蔵堂と庚申塔....庚申塔後方に歴代住持の墓石が並んでいる

△境内参道の脇に鎮座する4基の庚申塔と舟光背型地蔵石仏

△「島根古蹟庚申塔」と呼ばれる正徳三年(1713)造立の青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)

△「島根古蹟庚申塔」と呼ばれる此の地区(島根)周辺の衆生の信仰の姿を伝える青面金剛庚申塔

△「島根古蹟庚申塔」の邪鬼と三猿....邪鬼は背中を踏まれ苦しそうな顔をしている

△寛文六年(1666)造立の板碑型三猿刻像庚申塔

△元禄四年(1691)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)/天和二年(1682)造立の板碑型文字庚申塔(3猿)....上部に阿弥陀三尊の種子を刻

△延宝四年(1676)造立の起舟光背型地蔵尊像/「荒綾八十八所第58番来迎寺」と刻まれた石塔

△地蔵堂に鎮座する子育地蔵尊像....柱に「荒川綾瀬八十八ヶ所第五十八番」の刻/赤い帽子と前掛けで宝珠と錫杖を持つ

△本堂脇に墓を向いて墓碑上の椅子に鎮座する弘法大師空海像/持物は右手に五鈷杵、左手に数珠とみられる


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清澄庭園の石仏

2023年01月07日 | 石仏巡り

【東京・江東区】昭和七年(1932)に開園されたた「清澄庭園」内に鎮座する石仏群。
「清澄庭園」は、大正十二年(1923)に発生した関東大震災の翌年、東京市が三菱財閥三代統率者岩崎久弥から寄贈された震災被害が比較的少ない「回遊式築山林泉庭園」の東半分を整備した庭園。 石仏は岩崎家が庭園築造する中で出土したものだが、この地に鎮座した由来などは不詳のようだ。

■大泉水の南東の園路に「石仏群」の小さな標示が立ち、近くの園路脇に初重軸部に四方佛が彫られた十一重石塔、そして緑の木立の中に九重石塔が聳える。 前者は奈良御影石、後者は伊豆御影石で造られた石塔だ。
両側に大きな石を並べた参道を進むと脇に地蔵尊像が鎮座し、富士山と称す築山の東側の裾の斜面に周囲を石積みで固めた石龕があり、その中に2基の供養塔と2基の庚申塔が東面で鎮座している。 いずれも江戸時代の造立で、供養塔は「法印慶光供養塔」の舟光背型阿弥陀如来立像と「馬頭観音供養塔」の櫛型馬頭観音菩薩坐像、2基の庚申塔は三猿が彫られた文字供養塔。 頂上に馬頭をいただく馬頭観音菩薩像は穏やかなお顔1面と6臂で、胸前の印相は馬口印ではなく合掌だ。

△石仏群の入口脇の木立ちの中に佇む多重塔....九重石塔で石材は「伊豆御影石」

△石仏群の入口近くに佇む多重塔....高さ約2.7m(九尺)の十一重石塔で、石材は「奈良御影石」/十一重石塔は初重軸部に四方仏が彫られている

△参道から緑の植栽越しに眺めた石仏群

△富士山の東の裾の木立ちの中にひっりと鎮座する石仏群/石仏群前参道脇に鎮座する地蔵尊立像

△大泉水の南東の木立ちの中に鎮座する石仏群

△周囲を石積みで固めた石龕の中に石仏(供養塔)と庚申塔の各2基が東面で鎮座....右の庚申塔前の石造物は石塔の相輪か

△中央に施無畏印と与願印を結んだ阿弥陀如来立像が鎮座....石仏はいずれも江戸時代の造立

△「法印慶光供養塔」は舟光背型阿弥陀如来立像....延宝七年(1679)の造立で、像高は141cm/「馬頭観音供養塔」は櫛光背型馬頭観音菩薩坐像....1面6臂で、安永三年(1774)の造立、像高は44cmで頂上に馬頭をいただく

△台座に三猿が彫られた文字庚申塔....文化十二年(1815)の造立で、高さは67.5cm/下部に三猿が彫られた文字庚申供養塔....寛文十年(1670)の造立で、高さは89.5cm

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興正寺の石仏

2022年03月22日 | 石仏巡り

【名古屋・昭和区】江戸時代の貞亭五年(1688)に密教と戒律の寺として創建された興正寺の新回廊に、16体の石仏が鎮座している。 新回廊は新しい建物のようで「境内案内図」には表記されていない。
16体の石仏は、帽子を被り前垂れをした七観音像・六地蔵像・弘法大師像などで、本堂を向いて横一列に並んでいる。 石像はいずれも造立年代が不詳だ。 七観音坐像は全て尊名が彫られた基台の上に置かれた蓮華座に鎮座している。
七観音像の中で、胸前で「馬口印」を結ぶ3面6臂の馬頭観音像が興味を引いた。 馬頭をいただいた頂上と顔、そして胴部の一部が朱色に彩られているのだ。 いままで彩色の一部が残っている石像は数体見たことがあるが、この馬頭観音顔では胴部の彩色が上から液が垂れたように付いているので、頂上部を彩色している時の液だれでは…と思う。 もしかしたら、誰かの悪戯なのかもしれないが....。

△切妻造桟瓦葺の新回廊....七観音・六地蔵など16体の石仏が鎮座

△新回廊の中央に鎮座する六地蔵と左奥に七観音石仏

△新回廊の中央に赤い帽子を被り前垂れをして蓮華座に鎮座する六地蔵菩薩立像石仏(左端の尊名は不詳)

△尊名不詳の立像       様々な色の帽子を被り赤い前垂れをした地蔵菩薩立像

△新回廊の左手に鎮座する7体の観音坐像石仏....尊名が彫られた台座上の蓮華座に鎮座

△左から不空羂索観音像、如意輪観音像、准胝観音像

△化仏を配した宝冠を被り3面8臂で円光を背負った不空羂索観音像/赤い前垂れをした輪王坐の如意輪観音像

△1面18臂で二重円光を背負った准胝観音像 二重円光を背負った千手観音像

△左から馬頭観世音像、十一面観音像そして聖観音像

△円光を背負った3面6臂の馬頭観世音菩薩像....胸前で両中指を突き立てた「馬口印」を結んでいる/円光を背負い赤い前垂れをした十一面観音像

△新回廊の右端に鎮座する石仏は弘法大師空海坐像と地蔵尊像(と思う)

△赤い帽子を被り前垂れをして鎮座する地蔵菩薩坐像(と思う)/新回廊の右端に赤い帽子を被り前垂れをして鎮座する弘法大師坐像....台座に彫り窪めらた格狭間に不動明王の梵字(カーン)が刻まれている
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公郷町周辺の庚申塔-(2)

2022年01月19日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】バス道路を南下し、バス停「妙真寺」近くにある妙真寺に。 境内の参道脇に庚申塔が鎮座。妙真寺西側の公郷台アパートの脇のこんもりとした高台に湯山神社が建ち、参道脇に庚申塔が鎮座。 公郷神社近くの民家の一角に横須賀市の市民文化遺産(民俗文化財)に指定されている数基の庚申塔が立ち並ぶ。 その中の1基は、約390年前の江戸時に造立された市内で最も古い庚申塔。

■妙真寺境内に佇む庚申塔■
公郷町に鎮座する妙真寺は、創建年が不詳の単立寺院。 境内の参道脇の石垣の上に、紫陽花を挟んで2基の石碑と2基の庚申塔が佇んでいる。

△無雑作に置かれたようにみえる傾いた庚申塔

△延宝八年(1680)造立の駒型文字庚申塔(3猿)で「奉勧請南無帝釈天王加護処」の陰刻/享保十年(1726)造立の円頭型文字庚申塔で「南無妙法蓮華教奉勧請帝釈天王」の陰刻....「天王」がはみ出していて輪郭に刻まれている

■湯山神社参道に佇む庚申塔■

建ち並ぶ公郷台アパートの傍の木々が生い茂るこんもりとした高台に湯山神社がある。 石段下の狭い参道の脇に3基の庚申塔が佇んでいるが、まるで公郷台アパートに住む人たちを見守っているかのようだ。 それにしても3基の庚申塔には台座がなく、いずれも地面に突き刺さったように立っている。

△公郷台アパートの住民を見守るように佇む3基の庚申塔....いずれも地面に突き刺さっているようだ....右は宝暦四年(1754)造立の隅丸型文字庚申塔で「庚申供養塔」の陰刻

△造立年号不明の舟光背型青面金剛庚申塔(3猿)/文政十年(1827)造立の駒型文字庚申塔で「青面金剛塔」の陰刻

■公郷神社近くに佇む庚申塔■

公郷神社近くの路傍というより民家の一角に8基の庚申塔が整然と佇んでいる。 傍に「横須賀市指定 市民文化遺産 公郷町の庚申塔群」の案内柱が立ち、「市内最古の庚申塔(左端)を含む八基の庚申塔群」と記されている。 左端の板碑型文字庚申塔がそれで、江戸時代初期の寛永十二年(1635)11月の造立。 市内最古というより三浦半島最古の庚申塔なので、一見に値する。 最古の庚申塔に「帰命山王庚申大権現」と陰刻されているので、平安時代から広まった猿を神使とする日吉大社の山王権現の「山王信仰」と、室町時代後期から広まった「庚申信仰」の「申」が猿を意味することから結び付いたものだろう。
最古の他に7基あるが、造立元号不明の1基を除いていずれも江戸中期の明和二年(1765)までに造立されたもの。 4基は刻像塔で、合掌する険しい顔の青面金剛像が浮き彫りされている。

△左側4基の庚申塔....左端の板碑型庚申塔は横須賀市内最古

△横須賀市内最古の庚申塔....江戸初期の寛永十六年(1639)造立の板碑型文字庚申塔で「帰命山王庚申大権現」の陰刻,塔高は117cm....「帰命山王庚申大権現」と陰刻されていることから山王信仰と庚申信仰の結び付きを示す/延宝五年(1677)造立の笠付型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)....陰刻は不明

△造立年号不明の自然石型文字庚申塔で「庚申塔」の陰刻/元文三年(1738)造立の板駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、1鬼、3猿)

△右側4基の庚申塔

△明和二年(1765)造立の板駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、1鬼、3猿)/享保十一年(1726)造立の板駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲)

△寛延四年(1751)造立の板状型文字庚申塔(3猿)....「奉納庚申塔」の刻/享保十五年(1730)造立の板駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、1鬼)

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公郷町周辺の庚申塔-(1)

2022年01月13日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】京浜急行線堀ノ内駅とJR横須賀線衣笠駅の間のエリア(三春町と公郷町)に点在する庚申塔を巡った。 堀ノ内駅から三春町の住宅街を通って西側の丘陵を上っていくと、丘陵の住宅地を結ぶ狭い道の路傍2カ所に庚申塔が鎮座。 丘陵を下って公郷トンネルに向かい、トンネルの北側(東京湾側)の脇から丘陵を上りつめると、最初の民家の道沿いに庚申塔が鎮座。 丘陵の衣笠側を下り、JR衣笠駅に向かうバス道路にでて少し進むと、バス停「公郷トンネル」のすぐ傍の崖下のコンクリート台座上に庚申塔が鎮座。

■堀ノ内駅西側の丘陵の路傍に鎮座する庚申塔■

位置の説明が難しいが、堀ノ内駅西側の丘陵(三春町)の上の路傍2ヶ所に庚申塔が鎮座している。 1ヶ所目は樹林を背にして鎮座する4基の文字庚申塔と「弁財天」文字塔で、3基は江戸時代の元禄・延享・明和の造立、残り1基は約90年前の昭和八年(1933)に造立されたもの。 庚申信仰が昭和の時代にも連綿と続いていた証であり興味深い。
2ヶ所目は日当たりのよい三叉路の角地に、昭和九年(1934)造立の「山坂弁財天」文字塔と江戸前期の貞享元年(1682)造立の庚申塔で「奉勧請南無帝釈天王御加護」と陰刻されている。

△丘陵の住宅地(三春町)の路傍に佇む4基の文字庚申塔と「弁財天」文字塔....右端は昭和八年(1933)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「南無庚申塔」の陰刻

△明和五年(1768)造立の櫛型文字庚申塔....「南無庚申塔」の陰刻/延享四年(1747)造立の笠を失った笠付型(?)文字庚申塔(3猿)....「南無庚申」の陰刻/元禄十六年(1703)造立の板碑型文字庚申塔(日月瑞雲)....「南無妙法蓮華経勧請帝釈天王」の陰刻

△京急線堀ノ内駅西側の丘陵(三春町)に佇む庚申塔

△丘陵上の三叉路の路傍に佇む1基の庚申塔と、左は昭和九年(1934)造立の「山坂弁財天」文字塔

△貞享元年(1684)造立の笠付型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)....「奉勧請南無帝釈天王御加護」の陰刻/庚申塔の3猿

■公郷トンネルがある丘陵の住宅地の民家脇に鎮座する庚申塔■

JR衣笠駅に向かうバス道路を横断し、公郷トンネル右脇の坂道を上った丘陵地(三春町)に幾つかの住宅が建ち、民家脇(多分、私有地)のコンクリート台座の上に9基の庚申塔が整然と並んでいる。 江戸時代の延宝二年(1674)から明治三年(1870)に造立されたいずれも文字庚申塔。 一番古い江戸前期の延宝二年造立の庚申塔は、「南無妙法蓮華経庚申○○」の陰刻があり、日蓮宗の題目と庚申信仰とを組み合わせた珍しいものと思う。

△住宅地の民家脇に整然と鎮座する9基の文字庚申塔

△右側3基の庚申塔.....右は文政七年(1824)造立の柱状型文字庚申塔で「庚申供養塔」の陰刻、中は弘化五年(1848)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「奉納帝釈天王」の陰刻、左は安永五年(1776)造立の駒型文字庚申塔で「奉納庚申供養塔」の陰刻

△中央3基の庚申塔.....右は文政十三年(1830)造立の駒形文字庚申塔(日月瑞雲)で「南無帝釈天王」の陰刻、中は宝永八年(1711)造立の笠付型(笠欠落と思う)文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「奉納南無帝釈天王現安後善守所」の陰刻、左は延宝二年(1674)造立の柱状型文字庚申塔(3猿)で「南無妙法蓮華経庚申○○」の陰刻

△左側3基の庚申塔....右は明治三年(1870)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「帝釈天王」の陰刻、中は天明八年(1788)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「青面金剛」の陰刻、左は文化四年(1807)造立の駒型文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)で「青面金剛塔」の陰刻

△右端に置かれたこの笠は中央の宝永八年造立の文字庚申塔のものか?/笠の後方に鎮座する小さな地蔵石仏(造立年号不明)

■バス停「公郷トンネル」近くの崖下に鎮座する庚申塔■

丘陵の住宅地から坂道を下り、JR衣笠駅に向かうバス道路を少し南に進むと、まもなく三春町と公郷町の町境近くに「公郷トンネル」というバス停があり、傍の道路沿いの崖下のコンクリート台座の上に10基の庚申塔が東面で並んでいる。 江戸時代の寛文十一二年(1671)から明治三十年(1897)に造立されたいずれも文字庚申塔。 江戸前期の寛文十二年と元禄五年(1692)に造立された庚申塔には、それぞれ「南無妙法蓮華経」、「妙法蓮華経帝釈天王守護所」と陰刻されている。 日蓮宗の題目が庚申塔に現れる文字としては珍しく、この地域では、江戸時代前期は日蓮宗の法華経信仰と庚申信仰とが結びついて信仰されたようで興味深い。

△バス道路に面してコンクリート基壇上に並ぶ10基の文字庚申塔....左端は笠と基礎のみの笠付型庚申塔

△右側3基の駒型庚申塔....右は明治三十年(1897)造立の駒型文字庚申塔(3猿)で「南無帝釈天王」の陰刻、中は安永十年(1781)造立の駒形文字庚申塔(3猿)で「奉納庚申塔」の陰刻、左は文政八年(1852)造立の駒形文字庚申塔(3猿)で「青面金剛塔」の陰刻

△中央3基の庚申塔....右は慶応四年(1868)造立の駒型文字庚申塔(3猿)で「帝釈天王」の陰刻、中は嘉永元年(1848)造立の駒型文字庚申塔(3猿)で「庚申供養」の陰刻、左は安政五年(1858)造立の柱状型文字庚申塔で「帝釈天王」の陰刻

△左側3基の庚申塔....右は明治十九年(1886)造立の笠付型(笠無し)文字庚申塔(3猿)で「帝釈天王」の陰刻、中は寛文十一年(1671)造立の駒型文字庚申塔(3猿)で「南無妙法蓮華経」の陰刻、左は元禄五年(1692)造立の箱型文字庚申塔で「妙法蓮華経帝釈天王守護所」の陰刻
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大津町の3地蔵尊

2021年11月25日 | 石仏巡り


【神奈川・横須賀市】京浜急行電鉄の本線と久里浜線が通っている大津町の街中3か所に鎮座する地蔵石仏を訪ねた。 本線にある大津駅近くの閑静な住宅街の中にひっそりと鎮座する「日限地蔵尊」、隣町の三春町との境界に近い緩やかな坂道の脇に鎮座する「砂坂地蔵尊」、そして久里浜線の新大津駅から国道134号線に向かう坂道の路傍に鎮座する「風神地蔵尊」で、3地蔵尊を巡り拝観した。

■日限地蔵尊■

大津駅近くに、平行して走るそれぞれ一方通行の2本の道路を繋ぐように細い路地があり、路地を入って行くと高札風の案内板が立っている。 住宅と住宅の間にひと一人が通れる狭い参道があり進むと、奥の階の上に全体がコンクリート造りの堅牢な切妻造りの地蔵堂が建ち、数体の地藏石仏が安置されている。
蓮華座に鎮座するピンク色に変色した前垂れをした大きな舟光背型石仏が日限地蔵尊だ。 他に小さな4体の地藏石仏が安置されているが、その一つは円形光背を背負う地蔵尊像が彫られた珍しい一石二地蔵石仏だ。 一石二地蔵石仏は風化のため剥離・剥脱が激しいが、かなり原形が残る左側のお地蔵様の顔を見ると、穏やかで笑みを浮かべた子供のようだ。
地蔵堂前には、江戸末期造立の馬頭観音石仏が日限地蔵尊に寄り添うように鎮座している。 馬頭観音は、逆立つ髪の上に馬頭を戴く三面八臂で、胸前で両中指を突き立てて馬の口を模した馬口印を結んでいる。 また馬頭観音は通常、観音像唯一の忿怒の相をとるが、この馬頭観音様のお顔は忿怒なれど少し笑みを浮かべているように見える....気のせいか。

△住宅と住宅の間にひと一人が通れる参道がある/階の上の狭い境内に地蔵堂(覆屋)が建つ

△日限地蔵尊を安置している地蔵堂....堂前に馬頭観音石仏が鎮座

△地蔵堂は切妻造り屋根を乗せた堅牢なコンクリート造りで、平入で大棟正面端に鬼板がある/堂内に安置されている5体の地蔵石仏....二段の蓮華座の上に日限地蔵尊が鎮座

△ピンクの前垂れをした舟光背型日限地蔵菩薩立像/穏やかで童子のようなお顔だ

△日限地蔵尊の左手前に安置されている一石二地蔵石仏....円形光背を背負う地蔵菩薩が彫られているが風化による摩滅が激しく、像や台座が剥離・剥脱している/かなり原形が残る左の地蔵尊像のお顔は,まるで笑う子供のようだ

△日限地蔵尊右手前に安置されている合掌する櫛光背型地蔵石仏....お顔の下半分が剥脱しているが、明らかに笑顔のお地蔵さんだ/日限地蔵尊の右後方に安置されている合掌する舟光背型地蔵石仏

△堂前に鎮座する舟光背型馬頭観音石仏....文政七年(1824)の造立/逆立つ髪の上に馬頭を戴く三面八臂

△胸前で両中指を突き立てて馬の口を模した「馬口印」と呼ばれる印相を結んでいる/逆立つ髪の上に馬頭を戴く

■砂坂地蔵尊■

緩やかな坂になっている砂坂の脇に、煉瓦を積み上げた枠に木造の入母屋造り風の銅板葺屋根を乗せた地蔵堂(覆屋)が建つ。 地蔵堂は大正十三年(1924)の建立で、平成十年(1998)に改修されたとある。 地蔵堂前には連なって四阿が建ち、参拝者が休憩できるよう腰掛が置かれていて気遣いが嬉しい。
堂内には、赤い前垂れをした大小数体の地藏石仏が安置されている。 大きな二体の丸彫り石仏の向かって左が砂坂地蔵尊で、イボ取りに霊験あらたかとして「いぼとり地蔵」とも呼ばれているそうだ。 砂坂という尊名は前を走る小さな坂道の名前「砂坂」に由来するようで、坂道は昔、砂地に石塊がゴロゴロとした難所だったようだ。 そのためだろうか、地蔵石仏が鎮座する仏檀一面に、大きめの玉砂利が敷かれている。 右は白須川地蔵尊で、大正時代まで地蔵堂の脇を流れていた白須川の河原から出土したそうだ。 砂坂地蔵尊の傍に一石六地蔵石仏が鎮座しているが、上下段にそれぞれ三体ずつ円光を背負う地蔵尊が並んでいる石仏で珍しい。
地蔵堂近くの路傍にゴミ集積所があり、傍に見過ごしてしまいそうな小さな石造り欄干がある。 白須川に架かっていた石橋の欄干のようで、親柱に大正十五年と刻まれている。

△地蔵堂前の四阿に腰掛が置かれ、壁に地蔵尊の説明と砂坂地蔵尊御詠歌が張られている

△堂内に安置されている11体の地蔵尊....像を安置している仏檀一面に大きな玉砂利が敷かれている....左端は珍しい一石六地蔵石仏

△円光光背を背負った砂坂地蔵菩薩立像....前垂れをめくって、左手に乗せている宝珠を拝観した/砂坂地蔵尊と白須川地蔵尊は、お顔の違いから異なる石工により造られたとみられる

△白須川地蔵菩薩立像....右手の錫杖は上半分を消失

△砂坂地蔵尊の傍に鎮座する一石六地蔵石仏/上下段にそれぞれ3体ずつ円光を背負う地蔵尊が並んでいる

△上段の3体地蔵尊と下段の3体の地蔵尊はいずれもお顔が微妙に違うようだ

△砂坂地蔵尊と白須川地蔵尊の間の後方の壁にもたれるように鎮座する3体の石仏....右側の舟光背型石仏は合掌する地蔵尊

△地蔵堂近くの路傍にある石造り欄干.....白須川に架かっていた石橋の欄干のようだ/欄干の親柱に大正十五年(1926)の刻

■風神地蔵尊■

久里浜線の新大津駅と国道134号線を結ぶ坂道の途中の路傍に地蔵堂(覆屋)が建つ。 地蔵堂は、煉瓦を1メートル程積み上げた枠の上に木造の切妻造鉄板葺の御堂を組上げた造りで、堂内に円形光背を背負う風神地蔵尊が蓮華座に鎮座している。 風神の名から想像されるが、風邪に霊験あらたかな地蔵尊と伝えられている。
造立の由来は不詳のようだが、地元の篤志家が大正の末か昭和の初めにこの地に勧請したようだ。

△地蔵堂は煉瓦を1メートル程積み上げた枠の上に木造の切妻造鉄板葺の御堂を組上げた造り/風神地蔵と刻まれた円光を背負い、大きな錫杖頭の錫杖を持って蓮華座に鎮座する風神地蔵尊

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大善寺の庚申塔

2021年01月16日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】衣笠城の二の丸跡に建つ大善寺の正面の高い石垣の上に、14基の庚申塔が燦燦と陽を浴びて鎮座している。 庚申塔は、衣笠城が落城するまで登城する人々を見守っていたのだろうか? 近くでじっくりと拝観したかったが、石垣の上にあがるのは厳しく、正面からズームアップで青面金剛の像容を、大善寺への石段から造立年号が確認できた。
確認できたのは、江戸時代の中期と後期造立の3基のみ。 庚申塔は殆どが悪疫を調伏する青面金剛で、5基が青面金剛像を浮き彫りにした庚申塔、9基は文字塔だ。
興味深かったのは、合掌女人(ショケラ)の髪を握ってぶら下げている青面金剛像庚申塔3基の内の2基だ。 一般に、合掌女人をぶら下げる青面金剛像は六臂剣人型で、合掌女人を中央の左手で腰のあたりにぶら下げている像容なのだが、この2基は違っていて、六臂合掌型なのに側部上の左手で合掌女人高く持ちあげていて珍しい。 青面金剛像庚申塔では、青面金剛の標準的な像容は一般に六臂合掌型と六臂剣人型の二つで、中央の左手で合掌女人をぶら下げるのは六臂剣人型。 中央が合掌の六臂合掌型で、側部の手で合掌女人を高くぶら下げた像容は少ないと思う。

△大善寺の切込はぎ積の石段の左側の高い石垣の上に南面で14基の庚申塔が鎮座....殆どが悪疫を調伏する青面金剛

△右の5基が青面金剛像型庚申塔、左の9基は文字塔....前者の5基は4基が六臂合掌型、右端の1基が六臂剣人型

△右端から3基の青面金剛像型庚申塔....右端は嘉永元年(1848)、真ん中は文化九年(1812)の造立で、いずれも合掌女人(ショケラ)の髪を握ってぶら下げている
 
△右から2基目と3基目の合掌する青面金剛像型庚申塔....2基目の文化九年造立の青面金剛像は合掌女人を高い位置でぶら下げていて珍しい....2基とも上部に瑞雲・日・月、下部に邪鬼と三猿が彫られている/右端の嘉永元年造立の青面金剛像型庚申塔は上部に瑞雲・日・月、下部に雌雄の鶏・邪鬼・三猿が彫られている

△右から4~6基目の青面金剛像型庚申塔(2基)と青面金剛文字塔....右(4基目)は宝暦八年(1758)の造立で瑞雲・日・月・三猿....真ん中(5基目)の笠付は瑞雲・日・月・ショケラ・雌雄の鶏・邪鬼・三猿....左(6基目)の駒形は「青面金剛」の刻、瑞雲・日・月・三猿

△右端から7基目~11基目の4基の笠付型(4基)と駒形の文字庚申塔....右から「青面金剛塔」、瑞雲・日・月・三猿....「庚申供養塔」・三猿....「庚申供〇」、瑞雲・日・月・三猿....「待庚申塔」、三猿(?)....駒型は「青面金剛」、三猿

△左端の東面で鎮座する3基の文字庚申塔....右の駒形は「青面金剛王」、瑞雲・日・月・三猿....真ん中の板碑型は文字(梵字?)も年号も判読できず、三猿....左の角柱型は「庚申供養塔」、三猿

△石垣の中央の石段から眺めた庚申塔群....足場が悪いので近づいての拝観ができない

△石段を挟んで反対側(東側)の石垣の雛壇と上に鎮座する石造物

△雛壇の3基の内の2基は石祠、上に2~3の石造物がある
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満昌寺の磨崖仏

2020年11月28日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】鎌倉時代建久五年(1194)の創建とされる満昌寺の寺領の山腹にある磨崖仏。 焼場谷戸を入っていくと、満昌寺裏の矢部山の崖上に、凝灰岩に線刻された磨崖仏が整備された覆屋に護られて鎮座している。 磨崖仏は鎌倉時代末期に彫刻されたようだ。
「三浦一族研究会」発行の小冊子によると、「三浦半島唯一のもので、阿弥陀如来、観音、地蔵像などが線刻され、納骨穴もあり、写経石らしき川砂利が残され、墨書痕、木枠をはめた痕跡もある」とある。 また、案内板には、「岩肌に合計三面あり、そのうち二面に仏像が、他の一面に直線的な溝が彫られている」、「左側の面に七体の仏像、中央の面に高さ約40cmの阿弥陀如来立像一体が線刻....」と記され、線刻された阿弥陀如来立像の写真が載っている。

急峻な階を上って磨崖仏へ。 正面に金属柵を設けた覆屋の左側に凝灰岩の大きな岩があり、岩肌に直径20cmほどの円内に線刻された蓮華座に坐する仏像7体が横一列に並んでいる。 目を凝らして像容から尊名を知ろうとしたが....。 一石に七体の仏像が並んで彫られているが、もしかすると「七観音」か? 
案内板によると、「中央の面に高さ40cmの阿弥陀如来立像(来迎仏)一体が線刻されている」とあるので、白壁の中のごつごつした岩壁を目視で探したが....。 ファインダーを通し岩壁をズームアップしてみると、方形に掘り窪めた平らな面に線刻されている阿弥陀如来立像の姿が薄っすらと見えてくる。 撮影した写真を大きく拡大すると、鎮座する阿弥陀如来立像が少し鮮明にみえる。
磨崖仏はいずれもかなり風化が進んでおり、摩滅も激しいので、像容や尊名を知るのは難しそうだ。 その他、岩壁の右下に納骨用の小さな窪みが、また、その前には写経石らしき川砂利が残されている。 線刻仏像を中心としたこれらは、まさに三浦半島における鎌倉期の仏教文化を伝える貴重な史跡といえる。 (参考:2016年10月19日投稿「満昌寺(横須賀)」)

△鎌倉初期の建久五年(1194)創建の満昌寺....源頼朝の忠臣で衣笠城で戦死した三浦大助義明(89歳)の追善供養のため建立された

△満昌寺境内の裏山の矢部山の中腹にある磨崖仏/整備された覆屋の中に鎮座する磨崖仏

△覆屋の左側にある凝灰岩の大きな岩/右側の白壁の中に納まったような凝灰岩のごつごつとした岩壁

△岩肌に7つの線刻石仏が横に並ぶ....仏像は直径20cmほどの円内に蓮華座に坐す

△金属柵の中にカメラを入れ、凝灰岩の岩を左側から撮影

△左側3つの線刻石仏

△右側4つの線刻石仏

△左端の線刻石仏                     左から2番目の線刻石仏

△左から3番目の線刻石仏                左から4番目の線刻石仏

△左から5番目の線刻石仏                左から6番目の線刻石仏

△右端の線刻石仏                     凝灰岩の岩を右側から撮影

△右側の岩壁の前に写経石らしい川砂利が残っている

△右側の白壁の中に埋もれたような凝灰岩の岩壁....これが中央の面で阿弥陀如来立像の線刻が彫られている....右下の窪みは納骨用の穴とのこと

△方形に掘り窪めた平らな面に線刻された阿弥陀如来立像が薄っすらと見える/写真を拡大すると少し鮮明に見える

△案内板に載っている線刻された阿弥陀如来立像の写真
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龍泉寺の馬頭観音石仏

2020年08月17日 | 石仏巡り

【名古屋・守山区】名古屋城の守り神である「尾張四観音」の一つの龍泉寺の境内に、馬頭観音石仏など多くの石仏が鎮座している。 龍泉寺は平安時代以前の創建で、伝教(最澄)・弘法(空海)両大師の開基ともされている古刹。
本尊は馬頭観音菩薩で、江戸中期に編纂された古文書「龍泉寺記」に、馬頭観音菩薩を本尊として祀っている縁起が記されている。 江戸初期建立の仁王門の門前と堂宇境内に、赤い前垂れや一部帽子を被った多くの石仏が鎮座している。
堂宇境内の石仏は殆ど馬頭観音で、門前には馬頭観音以外の地藏菩薩などの尊像が鎮座して参詣者を迎えている。 馬頭観音菩薩が本尊だからだとは思わないが、門前の石仏を拝観していて、つい馬頭観音以外の尊像はみな門前に追いやられたのではと勘ぐってしまった。
仁王門脇の築地塀の堂宇側に鎮座する多くの馬頭観音石仏を拝観する。 宝冠に馬頭を頂き、忿怒面を持つ多くの馬頭観音石仏がまとまって鎮座している光景は壮観だ。 奈良時代以降信仰されている馬頭観音の像容は不定だが、本来的な4面2臂像では、中央1面が菩薩面、左右2面が忿怒面、そして頂上(宝冠)面に馬頭をいただくという異様なお姿の観音様だが、ユニークな像容に惹かれて楽しく拝観できる....合掌。

△門前右側の門柱傍に佇む石仏群

△門柱傍に鎮座する前垂れをした7体の石仏群....丸彫りの地蔵尊石仏3体と4体の舟光背型石仏

△舟光背型十一面観音菩薩像(と思う)/舟光背型石仏....仏法のシンボルとされる輪宝を背負った石仏は尊名不詳

△7体の石仏が鎮座...2つの石造覆屋に各2体の石仏,「卍四国第十七番札所」と刻まれた標石の右側に地蔵尊像を含めた3体の石仏

△「八十八番」と刻まれた台座に鎮座する尊名不明の2体の石仏/「阿波國第十七番」と刻まれた台座に鎮座する尊名不明の2体の石仏

△江戸時代建立の仁王門の脇の築地塀傍に前垂れをして鎮座する石仏群

△石仏は殆ど馬頭観音像で、角柱に「馬頭観音菩薩」と彫られた文字塔や丸彫りの地藏尊像も鎮座

△馬頭観音は六道のうちの畜生界を済度するとされ、馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し、煩悩を排除する功徳を持つ菩薩、また馬の守護神とされる/馬頭観音は怒りが強いほど衆生を救済する力が大きい

△馬頭観音の像容は不定だが、観音菩薩三十三化身の中で唯一忿怒の相、髪の毛を逆立て、額に第3の眼があり、牙があるとされる

△馬頭観音の4面2臂像では、中央1面が菩薩面、左右2面が忿怒面(柔和相と忿怒相)....3面いずれも忿怒相もある)、そして宝冠に馬頭をいただく

△前垂れで見えないが、一般に胸前の二手を合掌にして明王馬口印を結ぶ....2臂~8臂に法輪・弓・矢・数珠・宝剣・矛・宝棒・斧・健・羂索などを持つ

△東門の参道脇に鎮座する2基の舟光背型地蔵菩薩石像....右の地藏石仏は元禄四年(1691)の造立
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野倉の夫婦道祖神

2020年01月21日 | 石仏巡り

【長野・上田市】別所温泉駅で電動アシスト自転車を借りて寺社巡りをした後、山道を3キロメートルほど登って野倉の里に。 静かな山村の集落の中に双体道祖神が佇んでいる。 夫婦道祖神と称され、自然石の前面を円形に彫り窪め、その中に、公卿の正装の衣冠束帯の男神と女房装束の十二単を纏った女神が浮き彫りされている。
男神と女神は、互いに肩に手をかけ、仲良く手をとりあい、満面に笑みを浮かべている。 案内板によると、「家庭円満、子宝の神、また、縁結びの神として信仰厚く、遠方から訪れる人が多い」とある。
造立年代不詳とのことだが、露座で風雨にさらされているのに摩滅や剥脱などが殆どみられないことから、さほど古い石神ではない気がする。 とはいえ、微笑ましい男女神の姿には癒される。 子宝や縁結びにはもう縁のない齢だが、家庭円満のご利益はいただけた気がする....合掌。

野倉の里に佇む双体道祖神(夫婦道祖神)....造立年代や由緒等は不詳....家庭円満、子宝の神、また、縁結びの神として厚く信仰されてきた

自然石の前面を円形に彫り窪めた中に、公卿の正装の衣冠束帯の男神と女房装束の十二単を着た女神が浮き彫り

男神と女神は互いに肩に手をかけ、仲良く手をとりあい、両神とも満願に笑みを浮かべている
 
別所温泉の路傍に佇む大湯道祖神....平成十三年(2001)の造立かな?/自然石に「道祖神」と刻まれた文字塔の道祖神
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