何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

海前寺 (逗子)

2016年09月28日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】室町時代の永和二年(1376)、厳阿上人を開山として小坪漁民の為の念仏道場として創建されたと伝わる。 昔この地は海に近く、穏やかで風光明媚な景勝地として栄え、江戸時代には時宗歴代上人の隠居所となっていた。
裏山は、平安末期の治承四年(1180)に源頼朝が旗挙げした時に三浦軍と畠山軍とが一戦を交えた小坪坂古戦場であり、また、室町時代の永正九年(1512)に三浦道寸と小田原北条早雲とが戦った住吉城址でもある。 三浦氏は永正十三年(1516)、北条早雲によって滅ぼされた。 宗派は逗子で唯一の時宗で、本尊は室町時代作とみられる阿弥陀三尊立像。

前に広がる逗子マリーナは埋め立てて造営されたので、昔はまさに海の前に建つお寺だったろう。
古東海道に沿いの石段を上っていく....石垣の上にこじんまりとした海前寺がある。 向拝の屋根に波形の飾り瓦が乗る本堂....その後方からコンクリートで固められた急峻な崖が迫ってくる。 境内の隅に大きな3体の舟形光背石仏が佇む....観音菩薩と地蔵菩薩像のようだが造立年を失念した。
本堂前の道は墓所に続くが、急峻な石段の途中に墓石群があり、江戸時代の年号が刻まれた舟形光背の石仏、箱型&板碑型連碑が鎮座している。
石段を上っていくと裏山の中腹に、突然、五輪塔、宝篋印塔、箱型や板碑型の墓石、舟形光背石仏形の墓石などたくさんの石造物が現れ、その奥に浅い塚穴の「首塚」がある。 「首塚」には三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将らを葬っているらしい、合掌。 蘇鉄と松の植え込みがある青々とした芝生の境内....手入れが行き届いていて気持ちがいい。

門柱から眺めた境内と本堂..堂前に蘇鉄や松の植え込み

入母屋造桟瓦葺の本堂(右手は庫裡)..各棟に獅子口、向拝両側の棟の先に波形の飾り瓦が乗る
 
本堂向拝は非常にシンプルな造り..梁上の蟇股の中央は寺紋か/本堂の扉の上に「佛日増輝」の扁額が掲げられている
 
軒下は疎の平行垂木                  本堂右手に建つ庫裡

本堂には室町時代造立とされる木造阿弥陀三尊立像を安置
  
本堂境内に佇む大きな石仏..観音菩薩と地蔵菩薩像だが造立元を失念/本堂前の永代供養塔(納骨堂か)上に鎮座する阿弥陀如来坐像

墓所への石段脇に鎮座する墓石群「三界萬霊」..舟形光背石仏、箱型、板碑型連碑など多くは江戸時代の年号が刻
  
狭い境内の急斜面に鎮座する墓石群/貞享期(1684~1688)や元禄期(1688~1704)の年号が多く見られる石仏形墓標群..江戸期の石仏形墓標には戒名が刻
 
正徳期(1711~1716)や元禄十五年(1702)の年号が刻まれた墓標(石仏形墓石)

裏山中腹にある「首塚」..三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬っているらしい

首塚を護るように五輪塔、宝篋印塔、箱型や板碑型墓石、舟形光背石仏形などの石造物群が鎮座
 
舟形光背石仏形墓石には延宝や元禄の年号が刻まれている
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小坪寺 (逗子)

2016年09月24日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・逗子市】室町時代の文明五年(1473)創建の報身院(鎌倉光明寺の末寺)と、それ以前に建立された香蔵寺が明治四十年(1907)に焼失したため、行念上人が二ヶ寺を合併して創建したのが小坪寺。 香蔵寺には鷺浦学舎という学校があったようだ。 宗派は浄土宗で、本尊の阿弥陀如来(定朝作)。 他に延命地蔵菩薩立像(運慶作)や右手に鯛をさげた魚籃観音を安置している。

石段下から眺めると、門柱の傍に今にも倒れそうな銀杏の古木が2本の支え棒に支えられて斜めにやっと立っている。 葉を残す2本の銀杏の間を通って境内に入り本堂に向かうと、砂利を敷き詰めた狭い境内の隅に鎮座する石仏群が迎えてくれる。 石仏は江戸時代(1660年~1800年頃)の造立が多く、舟形光背に寛文、宝永、享保、宝暦、寛政などの元号が刻まれている。
明るい境内と本堂や庫裡が比較的新しいせいか、約540年の歴史を持つ古刹という趣はあまり感じられない。

石段の下から眺めた門前と門柱..倒れそうな銀杏の老木が2本の支え棒で支えられている

境内正面に鎮座する本堂..向拝の右側軒先から樋が天水桶に下がる

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の本堂
 
身舎に大きな裳腰を設けた造りの本堂
 
本堂の周りに縁(切目縁)が設けられている/屋根上の露盤宝珠と母屋と裳腰の隅降棟先に鬼板と鳥衾

「轉法輪山」の扁額が掲げられた向拝..梁上に見事な龍の彫刻

砂利を敷き詰めた狭い境内の隅に鎮座して参詣者を迎える石仏群
 
赤い涎掛けをし、慈愛に満ちた穏やかなお顔の六地蔵尊像

舟形光背に浮き彫りされた5体の石仏..釈迦如来像、如意輪観音像、地蔵尊像、観音菩薩像など
 
珍しい宝冠をのせた如意輪観音像..宝永年間(1704~1711)造立/右端の観音菩薩像は寛文年間(1661~1673)造立

箱型墓石と石仏群..中央は「南無阿弥陀仏」の石仏か?
 
僧侶の石仏か/石仏群..宝永、享保、宝暦、寛政等の元号が刻まれているので1700年代造立が多い

庫裡前の庭園に佇む石燈籠
 
輪郭を巻いた八角の中台の下に反花、上に段級、そして火袋に彫刻が施されている/本堂右手は客殿の玄関か..屋根に獅子口を乗せ、梁上に見事な彫刻、その上に大きな蟇股がある
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椿八幡神社 (国東)

2016年09月19日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】社伝によると、奈良時代の天平神護元年(765)、ご神託により御在所山に宇佐神宮の分祠を鎮座した。 約260年の間に数度の野火に遭い、平安時代治安三年(1023)の火災を機に現在地に社殿を造営し、ご神体を安置した。 それ以来、宇佐神宮の末社の行幸会が六年に一度執行されたが、江戸時代元和二年(1616)頃に途絶えた。
鎌倉時代以降、領主の嵩敬が厚く、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意を注いだ。 御祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后の3神。

重厚な鳥居をくぐると直ぐ先に擬宝珠高欄を設けた古い石橋がある。 石橋を渡った直ぐ右手にご神木のクスノキが聳えるが、その幹の巨大な太さに吃驚した。 樹齢約990年と伝わる大分県指定の特別保護樹木だ。
その先に重厚な屋根に鯱を乗せた四脚門の神門が建ち、左右に白壁の低い築地塀が続く。 静謐な空気が漂う門前は、まるで寺院のようで趣があるが、神門を通して奥に社殿が見える。
神門をくぐって社殿境内に入ると、参道の脇や社殿の周りに苔生した笠が乗った多くの石燈籠が佇んでいる。 殆どの石燈籠は江戸時代造立のようだが、一部の火袋部には造立年を記した木札が目立たぬように取り付けられていて、椿八幡神社を守護する氏子たちの気配りを感じさせる。
神門の直ぐ右手に小さな朱塗りの神馬舎があり、社殿を向いて白い神馬像が鎮座....格子を通して見える神馬像に一礼して神門を出た。

道路から眺めた神社正面の全景

江戸時代宝永二年(1705)造立の石造り台輪鳥居..「八幡○○宮」の額が掛る

石橋の直ぐ右手に太い幹のクスノキが聳える..樹齢約990年と伝わる(大分県指定特別保護樹木)
 
門前を流れる小川に架かる擬宝珠高欄付の石造り太鼓橋/切妻造桟瓦葺で柱・貫が朱塗りの手水舎

入母屋造本瓦葺の神門(四脚門)..本柱は丸で控柱は角、棟に鯱を乗せている

境内には享保など江戸時代造立の多くの苔生した石燈籠が佇む

入母屋造桟瓦葺の拝殿..左右の部分は「楽の間」か

獅子口が乗る大きな千鳥破風の拝殿向拝
 
拝殿前に江戸時代前期の貞享元年(1682)造立の石燈籠..蕨手がない笠、請花が彫刻された中台、太い竿、反花座と2段基礎
 
向拝の梁上に2頭の龍の見事な彫刻..木鼻は獏のようだ

拝殿から眺めた擬宝珠高欄を設けた弊殿、奥に本殿..拝殿に「八幡宮」の額と額絵馬が掛る
 
入母屋造銅板葺の弊殿と向唐破風を設けた流造銅板葺の本殿/本殿大棟に男神を表す外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せている

社殿左手に立つ元文二年(1737)造立の台輪鳥居越しに眺めた境内

入母屋造桟瓦葺の神楽殿
 
神楽殿傍に佇む石燈籠..両側の大きな2基は享保十年(1725)造立/神楽殿傍に佇む石造祠

境内の左手に整然と立ち並ぶ石燈籠..元文造立が多く、左端の石燈籠は元文二年(1737)造立
 
社殿左手で四脚を設けた石燈籠を従えて鎮座する境内社
  
江戸時代初期寛永八年(1631)造立の石燈籠群/寛延三年(1750)造立の石燈籠/切妻造桟瓦葺の屋根で覆われた古井戸

自然石を利用した手水鉢..手前の擬宝珠石柱に宝暦七年(1757)の刻銘
 
手水鉢越しに見た神輿庫..手水鉢には元禄七年の刻(1694年造立)/神門右手の神馬舎..白い神馬像を安置

神門前の右奥に建つ裳腰をつけた建物は社務所と思う
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楽庭八幡社 (国東)

2016年09月16日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】南北朝時代、大友氏から分かれた田原氏庶流の吉弘正堅が、吉広に入封した際に、豊後国一宮である柞原八幡宮の分霊を祀って創始されたと伝えられる。 ご祭神は、柞原八幡宮の主祭神の仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の3神とみられる。
同時代、城主吉弘正賢公が領内繁栄・武運・五穀豊穣などを祈願して「吉弘楽」が始まったとされる。 その後、大友氏の滅亡により一旦は衰退するが、江戸時代元禄十年(1697)、杵築藩第2代藩主松平重栄が吉広から伝わり都甲松行に残っていた「吉弘楽」をこの地に復活させ、以来、連綿と伝統が受け継がれている。

境内を囲む石垣塀の切れ間から中に入ると、境内参道に石燈籠を従えた石造りの台輪鳥居が立つ。 少し小さめで重厚な造りの鳥居だが、笠木・島木・貫・柱のいずれも太くずんぐりむっくりとした形だ。
拝殿前に珍しい形の石燈籠が立つ。 阿形・吽形の仁王像が、火袋・笠部を社殿形とした石燈籠の竿を抱え持っている造形で、目を丸くして踏ん張っている仁王像の姿が印象的だ。
社殿左手に「吉弘楽」と刻まれた大きな石標が立つが、後で調べて、楽庭八幡社は大分県各地に分布する太鼓踊りの一種の「吉弘楽」が行われることで有名な神社であることを知った。

楽庭八幡社の正面の全景

比較的新しい石燈籠から眺めた境内..石造り鳥居の右手の傍に珍しい形の手水鉢がある

江戸時代文化九年(1812)建立で、小さい割には重厚な台輪鳥居..額束に架かる石額に「山神社」の刻
 
鳥居傍の注連縄が巻かれた珍しい形の手水鉢..鉢側面に請花の彫刻、竿部に刻があるが判読できず/四脚を設けた手水鉢
 
境内全景..左奥に太鼓踊りの「吉弘楽」の石標が立つ     境内左手に聳えるご神木

入母屋造桟瓦葺の拝殿

向拝の虹梁上に龍の彫刻、虹梁と繋虹梁に獅子の木鼻
 
珍しい形の石燈籠..屋根形の笠で、阿形吽形の仁王像が踏ん張って竿を持ち上げ抱えている
 
嘉永四年(1851)銘がある石燈籠越しに眺めた拝殿/拝殿内部に「楽庭八幡社Jの額と額絵馬が..

流造銅板葺の本殿..妻飾りの見事な彫刻、海老虹梁、擬宝珠の付いた組高欄

本殿右手に鎮座する3つの石祠

二重基壇上に鎮座する3つの石祠は、屋根の形がそれぞれ異なる

境内左手の台輪鳥居..宝暦四年(1754)銘で、「八幡宮 山神社」の額が掛る

「吉弘楽」(重要無形民族文化財)の石標..吉弘楽とは天下泰平・五穀豊穣・虫祈祷を祈願する太鼓踊り

切妻造桟瓦葺の神輿庫
 
石の祠と何かの献台..献台を囲む石柵に享和三年(1803)の刻がある

自然石を利用した苔生した手水鉢

境内の外に建てられた入母屋造桟瓦葺で裳腰を付けた社務所

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龍神社 (国東)

2016年09月13日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】千燈寺前の道を隔てた反対側に鎮座する神社で、調べたが創建や由緒など分からず。

道路に平行して境内があり、参道に石造りの2つの台輪鳥居が立つ。 一の鳥居の亀腹の傍に、玉石に足を乗せた小さな狛犬が植木に隠れるように佇んで参詣者を迎えている。
参道を進み二の鳥居をくぐって社殿に....脇間から社殿後方の風景が透けて見える簡素な造りの拝殿の後方に幣殿と本殿が鎮座する。 社殿の右手に聳える御神木の巨木に隠れるかのように奥に十基ほどの石祠が整然と並んでいる。 苔生した石祠群は殆どが江戸時代後期の造立のようで、右側4つの石祠の前に小さな台輪鳥居があり、額束に「善神社、天神宮、稲荷社、〇〇社」と刻まれた額が掲げられている。
 
千燈寺前の県道を挟んで鎮座する龍神社            「龍神社」の額が掛る一の鳥居

一の鳥居と二の鳥居..いずれも石造りの台輪鳥居
 
一の鳥居の傍で玉石に足を乗せて鎮座する阿形と吽形の霊獣の狛犬
 
手水舎..棟門のような覆屋   一の鳥居から眺めた境内

笠に蕨手が無く、丸みを帯びた中台の石燈籠越しに眺めた社殿

入母屋造桟瓦葺の拝殿..左側の切妻造桟瓦葺の建物は神輿庫か

権現造の社殿..拝殿、弊殿そして流造銅板葺の本殿が建つ
 
「龍神社」の扁額が掛る拝殿               幣殿後方に鎮座する本殿
 
社殿右手の右手に聳える御神木(クスノキか)..奥に石祠が整然と鎮座している

石燈籠と整然と鎮座する11基の石造祠

「善神王」「天神宮」等の11基の石祠には寛延二年(1749)、文政十三年(1830)、天保四年(1833)などの銘が刻
 
天満宮や稲荷社など4社名が刻まれた小さな台輪鳥居の額/本殿右後方に佇む石燈籠(常夜燈)
 
神殿改築記念碑          台座に乗る苔生した手水鉢

境内の隅に佇む石燈籠..中台に装飾彫刻が施されている
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広徳寺-(2) (あきる野)

2016年09月10日 | 寺社巡り-東京

【東京・あきる野市】現在の堂宇は江戸時代に再建されたもので、地形上の制約から東向きに総門・山門・本堂が東西の中心軸上に配置され、北側に鐘楼、南側に経蔵が対置する禅宗様伽藍で構成。

山門から本堂に向かう....2本の銀杏が天を突くかのように聳え立ち、繁った葉の間から本堂が少しだけ見える。 銀杏の巨木を抜けると右の北側に重厚な鐘楼、左に経蔵が向かい合い、正面に大きな茅葺屋根の本堂が建つ。 茅葺の本堂は古民家風で趣があり、昔話にでてくるのような雰囲気を漂わせている。
本堂の右に入母屋造茅葺で妻入りの庫裡があるが、本堂とはL字状に連なっていて、繋がれた位置に唐破風の玄関がある。
本堂の左手から後方に向かう....庫裡の後に枯山水のような小さな庭があり、本堂側の鬱蒼と繁る樹林の中には周りに水草が茂る池がある。 池から流れ出る小川に橋が架かり、その橋の袂の崖裾に守護堂とみられる流造りの小さな社と笠に宝珠を乗せた変わった石造物が佇む。
池の周りの木立の中に多くの子供たちの甲高い声が響いていた。3人の先生に引率されて自然観察に来た子供たちが15人ほどが、小さなカメラ片手に先生の説明に熱心に耳を傾けていた。

山門から眺めた本堂境内..天を突くように聳え立つ2本の銀杏の巨木

現在の堂宇は18~19世紀(江戸時代)再興とされるが、総門と山門と違って本堂は「あきる野市指定有形文化財」になっていない

風格がある寄棟造茅葺の本堂..建立年は不詳

本堂の前面は全て板扉と障子戸..屋根最上に箱棟が乗る
 
中央入口に大きな花頭窓のような格子欄間/狭い切目縁を廻らせている..縁が2段になっているようだ
 
本堂に連なって客殿と庫裡がある/本堂の縁の右手の柱に下がる巡照板、玄関脇に置かれた梵鐘

寄棟造りの本堂と入母屋造りの庫裡を繋げた位置に玄関を設けている

本堂と庫裡を結ぶ位置にある唐破風銅板葺の玄関..貫や梁に見事な装飾彫刻がある
 
入母屋造茅葺で妻入りの庫裡                   簡素だが趣がある妻飾

経蔵と鐘楼とが南北に建って対峙している

寄棟造茅葺風銅板葺の鐘楼..大木や屋根と太い柱から重厚感ある
 
梵鐘の銘の中に寛永六年(1629)とあるが鋳造年か/切妻造銅板葺の経蔵

入母屋造茅葺の庫裡の裏の枯山水風の小さな庭

本堂の茅葺屋根の側面と後方の軒近くに草や苔が生えている..正面とは日当たりの違いか

本堂後方の樹林には天然記念物の「タラヨウ」「カヤ」の木が2本あるが....
  
本堂後方の巨木の傍に佇む石燈籠/池の傍に佇むお社と石造物..お社は守護堂か

本堂左後方に茂る樹木の中にある池(放生池と思う)..池越しに眺めた本堂の屋根
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広徳寺-(1) (あきる野)

2016年09月04日 | 寺社巡り-東京

【東京・あきる野市】南北朝時代の応安六年(1373)、正応長者を開基とし、妻・龍智智雲尼が鎌倉建長寺の七十世心源希徹禅師を請うて開山として創建された。 その後、戦国時代の天文年間(1532~1555)、北条氏康が堂舎を再建して中興した。 江戸時代には幕府から40石の朱印地が与えられ約1万2千坪の境内地を有した。 宗派は臨済宗建長寺派で、本尊は木造の聖観世音菩薩坐像。

五日市盆地西縁の秋川右岸の山麓の長い参道を進んでいくと、緑の中に茅葺の総門が見えてくる。 約200年前に建立された総門は禅宗様建築で、質素な造りだが趣がある。 袖塀に設けられた通用門から、鮮やかな緑に包まれた茅葺屋根の二重門が見える。
通用門をくぐる....境内は静謐な空気が満ち溢れ、木々の間を流れる風が心地よい。 茅葺屋根の二重門を見上げる。 重厚で風格がある禅宗様の二重門....に軒裏の組物・詰物が素晴らしく、荘厳さを演出しているようで目が釘付けになった。 この門は江戸時代中期の建立のようだが、約300年間、風雪や地震に耐えて堂々と建つ姿に感動した。
二重門の左手の傾斜地に墓所があり、入り口には丸彫りの六地蔵尊石仏や五輪塔等の石造物が鎮座しているが、五輪塔は五輪の各姿形が微妙に異なるのが興味深い。

参道脇に整然と並ぶ石造物群
  
いずれも供養塔と思う..丸彫りの石仏は両手で宝珠を持つ地蔵尊像か/文字庚申塔/石燈籠・五輪塔・石塔などの各パーツを積み上げたようだ

参道から眺めた緑の中の総門

総門前に立つ石標には「臨済宗建長寺派 廣徳無霊禅寺」の刻

袖塀を設けた総門....袖塀に屋根を乗せた通用門がある
 
切妻造茅葺の総門(四脚門)....文政二年(1819)建立/軒裏装飾は禅宗様、柱は欅材fr本柱は円柱、控柱は四角柱
 
通用門の棟門を通して眺めた茅葺屋根の山門

寄棟造茅葺の山門は三間一戸の二重門....江戸時代中期建立の禅宗様建築

上層の屋根は下層より大きく、複雑な組物(下層は四手先,上層は二手目と三手目が尾垂木の三手先)や詰組が見事だ
 
礎石は自然石、礎盤は木製、下層は平行垂木、上層は扇垂木/上層に組高欄を設けた回縁、中央間に格狭間を入れた桟唐戸、両脇間に花頭窓がある禅宗様建物

山門には「正眼閣」の扁額か掲げられている

山門左手の傾斜地にある墓所の入口に鎮座する六地蔵尊像..後方は二重門
 
山門の左脇に円光を背負い錫杖と宝珠を持って佇む地蔵石仏/所内に鎮座する珍しい造りの石造物

所内の7基の五輪塔..五輪の各姿形が微妙に異なるのが面白い

二重門を通して眺めた本堂



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大悲願寺-(2) (あきる野)

2016年09月01日 | 寺社巡り-東京

【東京・あきる野市】その後、徳川家康の信任が厚かった十三世海誉僧正、伊達政宗の末弟といわれる十五世秀雄僧正などを輩出し、明治二十九年に長谷寺の直末寺になった。
仙台藩主伊達政宗は、異腹の末弟が大悲願寺の修行僧だったことからこの寺を訪問....その時に境内一面に咲いていた白萩に心を惹かれ、「白萩一株を所望したい」として送った書簡(「白萩文書」と呼ばれる)が残されている。

観音堂境内には樹齢750年の杉の老木が聳え立つ。 観音堂から杉の巨木と鐘楼の間を通って本堂境内に....緑豊かな閑寂な境内には書院造り風の簡素な本堂が建ち、前庭には自然石を積み上げたような大きな石燈籠が佇む。 本堂の真南の緑の参道の先に約240年前に建てられた朱雀門が立つ。 パンフには「破風造りで唐門とも呼ぶ」とあるので平唐門かと思ったが、朱雀門には唐破風はなくパンフと整合しない。 前庭には、約400年前にこの寺を訪れた伊達政宗が観賞して感動したとされる白萩があるが、春の訪問だったので咲いていなかった。
境内全域に四国八十八ヶ所の霊場の本尊を浮き彫りした多くの石仏が点在している。 庭園背後の裏山には四国八十八ヶ所の霊場の土砂を埋めた「お砂踏み霊場」があり、それぞれの本尊を浮き彫りした石仏が見守るささやかなお遍路があるそうだ。

観音堂から眺めた本堂の境内..右手に鐘楼、左手に大きな屋根の本堂が建つ

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の鐘楼
 
梵鐘は江戸時代寛文十二年(1672)鋳造..口径69.5cm、高さ105cm/梵鐘は第二次大戦中の供出を逃れた

本堂境内

本堂と前庭..右奥に玄関が見える..本堂の周囲に切目縁をめぐらしている

本堂前に弘法大師空海の修行像が立つ

寄棟造銅板葺の本堂..江戸時代元禄八年(1695)再建で三代目

書院造り風方丈型講堂様式の本堂で、南の広縁に面して3部屋、その後方の中央が内陣で須弥壇に本尊の金剛界大日如来を安置
 
緑に包まれた簡素な造りの本堂と右手に唐破風の玄関

庫裡

安永九年(1780)建立の朱雀門と前庭に佇む十三重層塔..前庭には伊達政宗が観賞した白萩と臥龍梅がある
 
十三重層塔..塔身には輪郭を巻いて月輪の中に梵字を刻む/朱雀門は本堂の真南に位置する

前庭の石燈籠越しに眺めた本堂と弘法大師空海像
 
火袋以外は自然石を積み上げたような大きな石燈籠

本堂を見守るように前提に佇む重厚な石燈籠
 
舟形光背の石仏..仏尊名や造立年号不詳/火輪が欠落した五輪塔のようだ..手前は自然石を用いた手水鉢
 
宝珠が欠落し隅飾突起が反りかえりひらいている宝篋印塔..風化してるが「寛延」(1750年頃)と刻されているように見える/自然石の石段の上に鎮座する珍しい「乳牛供養塔」
  
四国八十八カ所の霊場が設けられ、札所番号・寺院名・本尊を浮き彫りした石仏が境内全域に点在している
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