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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

西明寺-(3) (益子)

2023年11月01日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・芳賀郡・益子町】南北朝時代の南朝の正平六年(1351)の兵火で災厄に見舞われたが、応永元年(1394)、益子勝直によって堂宇が再建された。 益子氏(本姓は紀といい、紀貫之の後代)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて 宇都宮城に城主・宇都宮氏の重臣として活躍した武将だったので、西明寺は宇都宮家からも庇護を受けるようになり、三重塔は宇都宮家宗により建立された。 江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられ、本堂の改修、閻魔道の建立、鐘楼の再建などが行われた。

■簡素な茅葺の弘法大師堂には、奉納された約50体の弘法大師坐像が安置されている。 石造りの大師像で、すべて右手に金剛杵、左手に数珠を持つ。 弘法大師ゆかりの霊場「四国八十八箇所」をイメージして88体の寄進が期待されているようだ。

△本堂の前縁から眺めた弘法大師堂(手前))と閻魔堂

△寄棟造茅葺の弘法大師堂....建立年不詳

△外壁は背面と両側面に縦羽目板を張った造りで、堂内には大師像を祀るコの字に配置した二段の棚がある

△天井は格天井....弘法大師堂内に約50体の石造り大師坐像が整然と鎮座

△右手に金剛杵(五鈷杵)、左手に数珠を持つ弘法大師像....四国八十八カ所霊場をイメージして八十八体の寄進が期待されているようだ

△本堂に向かって右側の境内に聳え立つ推定樹齢800年の高野槇....承元三年(1209)に本堂再建の記念として宇都宮景房が植樹....樹高30m、周囲5.42m、枝張12mで北関東で最大級/高野槇の近くに赤子を抱いて鎮座する慈母観音像

△嘉永三年(1850)造立の石碑....「中〇〇〇碑」と刻まれているが読めず....左右には坂東三十三観音霊場の本尊石仏が並んでいる

△石碑右側の舟光背形石仏群....光背に刻まれている坂東十番、十一番、十二番などが確認できる

△閻魔堂を見守るようにして鎮座する修行大師像

△閻魔堂の脇から眺めた弘法大師堂と本堂....弘法大師堂の側面は縦羽目板張りで内法貫や腰貫、地貫がある

△閻魔堂に向かって鎮座する行脚姿の弘法大師像....左手は「萬霊供養塔」で上部にキリーク(阿弥陀如来)の種子を配す

■最後は楽しみにしていた「笑い閻魔」の拝観で、格子窓から閻魔堂の中を覗くと....いましたいました、左手を前にひろげて笑っている閻魔様が。 約400年前に造立された閻魔王を含めた五体の彩色仏像だが、造立時に施された彩色のままだとすると見事というほかない。 閻魔王がなぜ笑っているのかNETで調べてみたが、どうも三回唱える「地蔵菩薩の真言」の中に3つ連続する梵字「ha」(「カ」と読む)に由来するようだ。 つまり、「ha」が3つ並んで「ha ha ha」となり、「ははは」と笑いの声になるから閻魔様も笑っているようだ。 いままで憤怒の形相の閻魔王しかみたことがないので、初めてみる珍しい笑う閻魔様には何か癒されるものを感じた。

△楼門前から眺めた閻魔堂....堂内に五体の仏像(閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊)を安置

△寄棟造茅葺の閻魔堂....正徳四年(1714)の創建で、寛保三年(1743)の再建

△閻魔堂は三間四方で、正面は全て蔀戸風格子窓と板張りの腰壁

△周囲に榑縁を巡らす....頭貫の上の柱間に奉納額が掲げられている/側面は縦羽目板張りで内法貫や腰貫、地貫があり、手前一間に板扉の入り口がある

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は出三ツ斗....中備は扁額や奉納額があって確認できずだが、左側面にはない

△閻魔堂に鎮座する木造の閻魔王坐像と両脇侍立像....寛永十年(1633)造立の彫刻

△掌善童子(右)後方に地蔵菩薩像が、掌悪童子(左)後方に閻魔大王の妹の奪衣婆像が鎮座している

△「笑い閻魔」と呼ばれる閻魔大王坐像....彫刻手法は大胆にして精美....約390年前の造立だが当時のままの彩色ならば素晴らしい/閻魔王は地蔵菩薩の化身

△地蔵菩薩が従えた眷属の掌悪童子像(左)と掌善童子像(右)/掌善童子像の後方に円光を背負う地蔵菩薩像が少しだけ見える




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西明寺-(2) (益子)

2023年10月25日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・芳賀郡・益子町】平安時代後期の康平年間(1058~1065)、高舘城(西明寺城)を築いた益子氏初代の益子正隆が西明寺境内を城郭内に取り込んだことから、以後、西明寺は歴代益子氏により篤く庇護された。 平安末期の大治二年(1127)の兵火で一山を焼失したが、鎌倉時代の建長七年(1255)、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって七堂伽藍が整えられて再興され、その際、時頼の戒名「最明寺道崇」に因んで寺号を益子寺から西明寺に改めた。

■どっしりとした重量感がただよう楼門をくぐる。 こじんまりした境内の正面の一段高いところに本堂、左手に鐘楼そして右手には閻魔堂が鐘楼と向かいあうように建ち、その奥に大師堂がある。 まずは鐘楼を拝観。 鐘楼は露盤宝珠を乗せた宝形造りの茅葺で、朱塗りの楼造りなのだが、装飾や彫刻などの意匠が殆どみられず実にシンプルだ。
楽しみにしている笑う閻魔様には最後に会うとして、次は本堂に。 本堂前の左右には六基の石燈籠が建ち並び、前庭に数基の大きな石碑が立つ。 本堂前の石段下に、水穴面が苔生した手水鉢があり、竹の水口から清水が注がれているが、この水は「弘法大師 無盡水(聖水)」とある。 前庭の石碑のひとつには金剛界五仏の種子が刻まれている。

△三重塔と楼門の間から眺めた鐘楼

△宝形造茅葺の鐘楼....享保七年(1722)の再建

△二間四方の楼造りの鐘楼....装飾や彫刻が殆どないシンプルな構造/吹き放し造りの下層は角柱で上層は円柱

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は出三斗で中備なし....擬宝珠勾欄付き廻縁を支える腰組は出三斗

△上層に下がる梵鐘は寛文十一年(1671)の鋳造で古式な造り

△境内の正面の一段高いところに建つ向拝屋根がない本堂....前庭に6基の石燈籠や石碑が建ち並ぶ

△寄棟造茅葺形銅板葺の本堂....応永元年(1304)の建立で、元禄十四年(1701)に改修....大棟に瓦葺櫓を乗せている

△本堂前石段の下にある手水鉢....水穴に注がれる清水は「弘法大師 無盡水(聖水)」とある/本堂前庭に立ち並ぶ石碑....左は「三界萬霊塔」、右は安永二年(1773)造立で金剛五仏の種子が刻まれている

△室町時代建立の本堂は江戸初期に焼損....堂内には応永元年(1394)建立の黒漆塗りの唐様厨子(重要文化財)があり、宝形造板葺き屋根で軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手先で詰組などは精巧な造り

■本堂の正面の長押の下に寺紋を入れた紫の幕を張り、また、扁額は異体字で「寺朙㢴」(寺明西)と書かれていて、風格と威厳とを感じさせる。 正面五間のすべての柱間には、まるで入堂を拒むかのように腰高の紫の幕を張っている。 本堂前の縁の東隅に賓頭盧尊者と閻魔王の妹の奪衣婆が参詣者を見つめている。
奥行五間の内の前二間は吹き放しの外陣で、内陣とは中央三間の蔀戸と引き違い板戸で仕切られている。 蔀戸上の欄間にはまるで鏝絵のような彩色彫刻、そして外陣の鏡天井には龍の墨絵が描かれているが、いずれも劣化が激しいので気になった。

△本堂正面にには寺紋の「輪違い」を配した紫の寺院幕と、五間すべてに腰高の紫幕を張っている....前庭の球形火袋の石燈籠は昭和十四年(1939)の造立

△扁額の「寺朙㢴」は異体字で「寺明西」と書かれている....本堂のすぐ前の石燈籠は昭和四十六(1971)の造立

△本堂は五間四方で正面の前二間は吹き放し、側面四間の外壁は縦羽目板張

△本堂正面に寺紋「輪違い」を配した紫の寺院幕を張っている/本堂前縁の右端に鎮座する二体の木像....右は十六羅漢で第一尊者の賓頭盧尊者、左は閻魔王の妹の奪衣婆とみられる

△側面五間の前一間に五色幕を張っている....周囲を巡らす擬宝珠勾欄付き廻縁は切目縁

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、柱間の中備は脚間に十二支の彫刻を配した本蟇股

△軒天井と軒支輪はあり、四方の頭貫端に漆喰造りのような獅子の木鼻

△本堂の側面と背面....背面は中央に板唐戸で他は縦羽目板張の外壁

△内陣と外陣の仕切りは中三間が蔀戸、両脇一間は引き違い板戸....内陣は格天井で人物花鳥等が描かれ単彩が施されている

△内外陣仕切りの欄間は天女奏楽、鶴と仙人、浮舟上の仙人などの彩色彫刻....外陣天井は鏡天井で龍の墨絵が描かれている

△外陣の左右の柱と梁、柱頭や梁上に複雑に組まれた組物
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西明寺-(1) (益子)

2023年10月19日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・芳賀郡・益子町】天平九年(737)、奈良時代の高僧・行基菩薩が巡錫で訪れた際に自ら十一面観音像を彫刻し、大旦那(勢力ある檀家)となった紀有麻呂が建てた一宇に本尊として祀ったのが始まりとされる。 当初の寺号は益子寺だったようで、天平宝字元年(757)に唐僧恵林によって境内が整備され、さらに入山した弘法大師空海によって基盤が固まると寺運が隆盛。 延暦年間(782~806)、境内に48の堂宇が建ち並び12坊を擁する大寺院となった。 宗旨は真言宗豊山派で、本尊は十一面観音菩薩。 坂東三十三観世音霊場第20番札所、下野三十三観音霊場第13番札所。

■益子駅からタクシーで向かうと、15分ほどで獨鈷山(高舘山)の南斜面中腹に建つ「独鈷處」の看板を掲げた納経所の前に着く。 境内に入ると寺号と山号を刻んだ門柱が立ち、そこから堂宇境内への急な石段が続いている。 石段の脇に白い肌の布袋尊像が鎮座し、笑顔で参詣者を迎えている。 坂東三十三観世音霊場のお寺らしく、石段途中の脇に、第一番札所の杉本寺(鎌倉市)や第十五番札所の長谷寺(高崎市)などが刻まれた舟形光背石仏が鎮座している。 急な石段を見上げると、木立の間に接近して建つ三重塔と楼門が見える。

△境内入り口に建つ納経所....庇の上に「獨鈷山の休憩所 独鈷處」の看板/窓口の上に大きな龍の彫刻

△堂塔境内への石段の入り口に立つ山号と寺号とを刻んだ門柱....石段脇に布袋尊坐像が鎮座

△石段脇の岩に鎮座する布袋尊坐像、奥に蓮華座に立つ三重石塔....初重塔身の月輪に金色の胎蔵界大日如来の種子/標柱近くの石段脇に竹の水口の手水鉢と奥に雪見燈籠が佇む

△石段の途中から見上げた楼門

△石段脇に未開蓮をもって鎮座する舟光背形十一面観世音像....光背に坂東三十三観音霊場第1番札所の「杉本寺」の刻/錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩像/錫杖と未開蓮をもって鎮座する舟光背形十一面観世音像....光背に坂東三十三観音霊場第15番札所「長谷寺」(群馬県高崎市)の刻

△石段途中の脇に鎮座する石仏越しに見上げた堂塔

△石段の上部から見上げた三重塔と楼門

■急な石段を上り詰めると、こじんまりとした伽藍配置の境内があり、すぐ目の前に荘厳な楼門が迫るように建つ。 楼門は今から500年以上も前の室町時代に建てられたもので、古色蒼然とした佇まいで歴史を感じさせる。 楼門上層に「獨鈷山」が書された古びた扁額が掲げられ、戸口両側の金剛柵の中に赤茶色の仁王像が鎮座している。 憤怒の形相の仁王像は、まるで全身を赤くして怒っているかのようだ。
楼門に向かって手前すぐ左手に板屋根銅板葺きの三重塔が建つ。 珍しい目板打の屋根で、さらに錣屋根のように二つの屋根をズラして重ねたような造りで珍しい。 また、屋根の軒の出がかなり深く反りが大きい造りだが、バランスがとれていて安定感がある。

△入母屋造河葺きの楼門(重文)....室町時代明応元年(1492)の建立で唐様式建築

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目先が尾垂木の二手先、柱間の中備は蓑束

△周囲に擬宝珠勾欄付回縁、回縁を支える腰組は三手先で柱間の中備は蓑束....頭貫木鼻の繰形彫刻は渦形文様

△礎盤の上に立つ柱は32角造りで粽付き    上層に掲げらっれた「獨鈷山」の扁額

△楼門の前室金剛柵の中に阿形・吽形の仁王(金剛力士)像が鎮座

△楼門の側面....妻飾は虹梁大塀束

△背面腰組下(台輪上)の中備は正面の蓑束と異なり本蟇股(刳抜蟇股)....本蟇股は脚間に精緻な文様彫刻を配している

△目板打の板屋根銅板葺の三重塔(重文)....室町時代天文七年(1538)の建立

△禅宗様を主に初層は和様.二層は折衷様、三層は唐様という三様式建築/屋根の軒の出が深く、反りが大きいがバランスがとれていて安定感がある

△初層の軒廻りは繁垂木、三手目が和様尾垂木の三手先、柱間の中備は中央間のみに本蟇股

△中央間は八双金具を施した板唐戸、脇間は盲連子窓....本蟇股は脚間に彫刻を配す....軒天井と軒支輪がある

△二層三層の周囲に組勾欄付き廻縁、廻縁を支える腰組は二層三層いずれも平三斗

△二層三層の軒廻りは二層三層いずれも扇垂木....軒支輪があるが軒支輪は二段に見える(軒天井があると思うがみえず)



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高勝寺-(3) (栃木)

2022年02月08日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・栃木市】高勝寺の表参道は、岩船山の南側(JR岩舟駅側)斜面に造られた600段の石階。 石階の途中の脇に高勝寺地藏結縁の地があり、岩窟を仏龕にあつらえた地蔵堂が建っていて「坂中地蔵」が鎮座している。

●奥の院から本堂に戻る途中に孫太郎尊本殿への石段の参道がある。 参道の山手側に、本堂を向いて鎮座する百観音石仏が孫太郎尊拝殿まで立ち並んでいる。 孫太郎尊本殿は山頂にあるが、孫太郎尊拝殿は参道途中の山腹の樹林の中に建つ。 拝殿中央間の腰高格子戸の上に天狗面の扁額が掲げられている。 格子戸通して殿内を除くと、利剣と羂索を持つ烏天狗と両脇に団扇を持つ3体の天狗像が鎮座….烏天狗の凄むような鋭い目と目が合ってドキッとした。 拝殿から更に続く石段を上りつめると、山頂の開けたところに石燈籠を構えた孫太郎尊本殿が建つ。
孫太郎尊本殿から百観音石仏が鎮座する山中の霊場の中の参道を下って三重塔に向かう。 境内南側の山腹に、江戸中期創建の丹塗りの三重塔が悠然と建っている。 初層の窓部、中備の蟇股そして軒支輪部に鮮やかに彩色された彫刻が施されている。 初層窓部の彫刻は中国故事を題材としたものだ。
三重塔から仁王門に対面して東側の高台に建つ「西院の河原堂」に向かう。 賽の河原に沿って設けられた苔生した石段を上りつめると、樹林に囲まれて古色蒼然たる佇まいの西院の河原堂が建つ。 三間四方の外壁は真壁造り板張り、また、身舎の小壁の彫刻や鏝絵のような木鼻や手挟などは白っぽいので漆喰造りか? 中央一間の向拝に、向拝とは真壁造り板張り、また、身舎の小壁の彫刻や鏝絵のような木鼻や手挟などは白っぽいので漆喰造りか? 中央一間の向拝に、向拝とほぼ同じ幅の大きな賽銭箱が置かれ、その両側一間に切目縁への階段が設けられている珍しい造りだ。
岩船山の境内から岩舟町の美しい風景を暫く遠望した後、600段ある石造り階の表参道を下っていく。 途中の参道脇に岩窟を仏龕にあつらえて岩窟から突き出た地蔵堂に「坂中地蔵」が鎮座している。 鎮座するこの地は、高勝寺開山の草庵があったところで、ご本尊の「生身の地藏尊」の結縁の地とされている。 坂中地蔵からさらに少し石段を下って下界に….寺号標石が立つ参道を抜け、県道133号線を進んでJR岩舟駅に。

△孫太郎尊拝殿と本殿への石段参道の入口....石段脇に百観音石仏が鎮座している

△石段の上は真ん中が切石敷の参道で、山手側に本堂を向いた百観音石仏が鎮座

△孫太郎尊本殿への参道の途中に建つ拝殿....孫太郎は後北条氏の家臣・松田康郷の別名で、臼井城の戦いで上杉謙信の軍を撃破して軍神と呼ばれた

△入母屋造銅板葺の孫太郎尊拝殿....水引虹梁と梁の間に「孫太郎〇〇」の扁額が掲げられている

△中央間に腰高格子戸、脇間は白壁の羽目小壁、小壁も白壁....格子戸画の小壁に赤い天狗の面を配した額....臼井城の戦いで康郷が赤色が目立つ装備だったため松田の赤鬼の異名が広まった、また、もともと岩船山には赤鬼の伝説があったことに由来/軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木....白壁の小壁に連子欄間を設けている

△利剣と羂索を持つ烏天狗を中心に3体の天狗像が鎮座....天狗山の神様として信仰を集めている

△樹林の中に続く孫太郎尊本殿への上の石造り階の参道から眺めた孫太郎尊拝殿と百観音石仏

△参道を上りつめた岩船山山頂の平地に鎮座する孫太郎尊本殿....2基の石燈籠が何故か柵外に立つ

△切妻造銅板葺の孫太郎尊本殿....北条氏の家臣・松田康郷(別名孫太郎)を祀る

△雑草が生えた境内に鎮座する孫太郎尊本殿と石燈籠

△境内南側の山腹に北面で建つ高さ19メートルの三重塔/塔内には四天柱、須弥壇があり四方仏を安置

△銅板葺の三重塔....寛延四年(1751)の建立

△軒廻りは初層と2層目が二軒繁垂木で3層目は扇垂木、組物は各層いずれも三手目が尾垂木の三手先....初層高欄の無い切目縁、2層目と3層目に組高欄を巡らす

△中備は3層目が中央間のみに蓑束、2層目は各組物間に蓑束....支輪部分に彩色された彫刻を配し、軒天井がある....2層目と3層目の腰組はいずれも出三ッ斗

△初層の中央間に桟唐戸、脇間に中国故事を題材とした彩色された立体彫刻を配す

△各組物間に脚間に彩色された十二支の彫刻を配した本蟇股....軒天井上の支輪の位置を彩色された波と花の彫刻で埋めている

△仁王門に対面して東側の高台に鎮座する西院の河原堂への石段....苔生した石段左側が「賽の河原」/石段最上段近くから眺めた三間四方の西院の河原堂(賽の河原堂)....正面の向拝に大きな賽銭箱が置かれ、左右の脇間の位置にそれぞれ階段を設けている

△入母屋造桟瓦葺の西院の河原堂....正面は中央間に腰高格子戸、脇間に舞良戸

△向拝の水引虹梁の上に白い龍像、木鼻い白い獅子像を配しているが、漆喰で制作したものだろうか?

△西院の河原堂の外壁は真壁造り板張りで側面は横羽目板....周囲に高欄なしの切目縁を巡らす

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、中備は正面中央間のみ本蟇股、脇間と側面は全て蓑束....身舎の小壁の彫刻,向拝の手挟なども白いので漆喰造りか?

△岩船山の高勝寺境内近くから遠望した栃木市岩舟町....ここから下界迄の長い石造りの階が続く

△石段の表参道の途中の高勝寺開山(草庵があった)と本尊の「生身の地藏尊」の結縁の地に鎮座する「坂中地蔵」

△岩窟を仏龕にあつらえて岩窟から突き出た千鳥破風を乗せた銅板葺屋根の地蔵堂....4体の地蔵尊石仏が鎮座

△中央奥の基台上に円光を背負い宝珠を持つ地蔵尊が鎮座/手前に舟に乗った舟光背型地蔵尊が鎮座

△地蔵堂の左側の基台の上に並んで鎮座する六地蔵尊像

△石段の表参道を跨いで建つ簡素な切妻屋根の棟門

△JR岩舟駅側の石段の表参道の入り口に佇む石燈籠

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高勝寺-(2) (栃木)

2022年02月01日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・栃木市】江戸時代に入ると歴代将軍によって庇護された。 三代将軍徳川家光の側室・宝樹院は高勝寺に帰依していたとされ、また、四代将軍徳川家綱は「岩舟地蔵の申し子」と言われていた。
享保年間(1716~1736)に諸堂の大改修が行われ、寛延四年(1751)に三重塔が建てられた。 この頃、岩船節といわれる念仏が関東一円に流行し、昭和十七年(1942)頃まであったとされ。 踊り念仏はその名残りといわれている。

●本堂に向かって右手(北側)に、本堂と高床の渡り廊下で繋がる宝形造りで三間四方の護摩堂が建つ。 本堂境内の南側に江戸中期創建とされる袴腰付きの鐘楼が建つが、羽目は石積みで石の境目を漆喰で隠していて、まるで城壁のように見えて趣がある。
鐘楼の西側の山裾に「血の池」と称される小さな池がある。 傍に赤字で「血の池」と彫られた石碑があり、池の中の基壇上に合掌する地蔵尊像が鎮座している。 血生臭い名前の池だが、調べたが名前の由来は分からなかった。
本堂と護摩堂を結ぶ渡り廊下の下をくぐって奥の院に向かう。 樹林の中に続く落ち葉に覆われた奥の院への参道を進むと、道脇に百観音菩薩石仏が整然と並んでいる。 途中から奥の院まで自然石を並べた階になっていて、山頂に近い開けた平地に奥の院が….しかし、御堂らしき建物はなく、舟形に並べた石組の上に2体の石仏が鎮座しているだけだ。 調べたら、平成二十三年(2011)の東日本大震災で山体の一部が崩壊し、奥の院へ行く道が寸断したため、現在地に奥の院が遷されたようだ。

△賓頭盧尊者が鎮座する本堂の向拝から眺めた護摩堂への渡り廊下

△護摩堂前から眺めた本堂と高床式の渡り廊下

△宝暦十三年(1763)造立の金銅製燈籠越しに眺めた護摩堂

△宝形造桟瓦葺の護摩堂....三軒四方で正面は中央間に格子戸、脇間は白壁の小壁羽目

△三間四方で、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は木鼻付き平三つ斗で中備なし/賽銭箱が置かれた向拝に鰐口が下がる

△入母屋造銅板葺の袴腰鐘楼....江戸中期の寛保二年(1742)の建立とされる

△羽目の袴腰は石積のようだが、石の境目を漆喰を施して隠している....漆喰が剥がれた部分に石積みの境目が見える/周囲に組高欄付き切目縁を設けている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備なし....廻縁を支える腰組は出組

△蛇腹支輪がり、廻縁下と軒下の白壁の小壁に楕円形の空間の意匠を設けている

△境内南側の山裾にある「血の池」....調べたが由来わからず

△「血の池」に鎮座する地蔵尊石仏、手前に宝篋印塔が立つ

△江戸中期の正徳二年(1712)造立の宝篋印塔/.「血の池」の中に鎮座する丸彫りの合掌する地蔵菩薩立像

△切妻造銅板葺の手水舎に何故か梵鐘が下がる....傍の宝形造銅板葺の覆屋に三脚の常香炉が置かれている/山裾に立つ石造りの宝篋印塔と三重石塔....いずれも塔身の月輪に梵字が刻まれている、宝篋印塔は胎蔵五仏の梵字ようだ

.△「血の池」の左右の山裾と傾斜地に立ち並ぶ石造物群

△奥の院への参道....脇に鎮座する百観音菩薩石仏

△奥の院参道脇に鎮座する舟光背型百観音菩薩石仏

△千手観音菩薩立像....風化により頂上の十一面と顔の一部が摩滅し剥離している/十一面観音菩薩坐像....頂上の十一面は摩滅しているが存在は分かる、右手は与願印を結び左手に開蓮を持つ/「秩父五番」と刻まれているので准胝観世音菩薩立像(と思う)

△奥の院の参道途中に鎮座する石祠

△奥の院は開山弘誓坊明願が満願の日,岩に立った草庵の主が金色燦然たる地蔵尊の姿になった縁の地....舟形石組の上に2体の石仏が鎮座

△前垂れをし、帽子をスッポリ被った地蔵尊立像/お顔が摩滅・剥離していて笑っているようにみえる地蔵尊立像
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高勝寺-(1) (栃木)

2022年01月25日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・栃木市】奈良時代の宝亀八年(777)、第49代光仁天皇の御代伯州(鳥取県中西部)大山の山麓に住んでいた名僧弘誓坊明願が、地蔵菩薩の霊夢を見たことで岩船山を訪れ、生身地蔵と謁見できたことから開山したと伝えられる。
山全体が一艘の船の形をなし、岩肌を剥き出した標高約173メートルの岩船山は、関東の高野山日本三地蔵の第一の霊場とされ、死者の魂や霊魂が集まる場所と伝えられている。 宗旨は天台宗で、本尊は地蔵菩薩像。

●山岳寺院の高勝寺は標高約173メートルの岩船山の山頂にあり、地図をみると山裾から寺院まで階段が記されている。 JR岩舟駅近くのタクシー会社で尋ねたら600段もの石階を上るとのこと、また、少し疲労があったのでタクシーにて高勝寺に向かった。 岩船山北側の曲がりくねった狭くて急な山道の裏参道から庫裡境内に着く。
石階の表参道と合流する所に楼門形式の仁王門が東面で建ち、両側の緑色に塗られた金剛柵の奥に鎮座する護法神の仁王像が迎えてくれた。 金網が張られていないので、仁王像の力強い姿がハッキリみえ存在感がある。 仁王門を通して供務所脇前に鎮座する金仏や本堂境内への石段が見える。 仁王門をくぐって石段前に。左手に簡素な手水舎が建ち、右手の高い基壇上に「金仏」と呼ばれる江戸中期造立の地蔵坐像が露坐している。
石段脇にある供養塔や石仏などを拝観しながら石段を上りつめると、玉砂利を敷いた境内があり、石段から幅広の切石敷の参道が本堂に向かって延びている。 脇に趣のある江戸中期造立の4基の金銅製燈籠が立ち並ぶ参道を進んで本堂へ。 本堂前には身舎幅の大きな庇を設けていて、向拝と庇の境が分かり難く、まるで巨大な向拝があるようだ。 身舎の四方の壁は全て羽目板で、正面の脇間四間を蔀戸とし、側面は1つの花頭窓を配した造りで虚飾を排した無駄のない蒼然たる佇まいだ。 大きな庇を設けたのは、風雨から柱や壁の木材の劣化を防ぐための工夫なのだろう。

△入母屋造銅板葺の仁王門....享保十五年(1730)の建立

△仁王門の規模は県内随一の大きさ

.△頭貫上の組物間の中備は脚間に彩色された動物と花の彫刻を入れた蟇股

△仁王門の緑に彩色された金剛柵の奥に鎮座する護法神の阿形・吽形の仁王像

△軒廻りは二軒繁垂木、蛇腹支輪と軒天井を設けている

△組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は撥束

△回縁を支える腰組は三手先....周囲に組高欄付き回縁/側面に上層への木の階がある

△仁王門を通して眺めた本堂境内への石階と、左右に建つ金仏と手水舎

△堂宇境内側(背面)から眺めた仁王門....下部の両側に古い瓦等が置かれている

△改修前に山門の屋根に取り付けていた花瓦....先端に地蔵の梵字「カ」を入れた鳥衾を乗せ、「岩舟山」の文字を入れている

△本堂境内への苔生した石階....金仏後方の建物は供務所

△切妻造銅板葺の水屋(手水舎)/昭和十六年(1941)造立の手水鉢....側面に月輪に「忍」が刻まれている/3本爪の龍の水口

△供務所傍の基壇上の蓮華座に露座する金仏と呼ばれる地蔵菩薩坐像/円光を背負い右手に錫杖,左手に宝珠を持つ金仏....享保九年(1724)の造立

△明和八年(1771)造立の石燈籠....正面の掘り窪めた中に「南無地蔵大菩薩」の刻/頂部に舟光背形地蔵坐像石仏が乗る供養塔とみられる(「塔」の文字が僅かに読める)

△石段脇に鎮座する2体の櫛型如意輪観音石仏....「信女」や「尼」の文字が刻まれているので女性信者の墓碑(と思う)....左は明和三年(1766)の造立、右は摩滅していて確認できず

△樹林を背にし金銅燈籠を構えた本堂が建つ....玉砂利の境内の中央に、比較的幅が広い切石敷の参道が本堂に延びている

△入母屋造銅板葺の本堂....正面に銅板葺の大きな庇を設けている

△本堂前に立つ4基の金銅製燈籠は宝暦十三年(1763)の造立....基礎の反花座の下の格狭間に獅子像を配す/金銅製燈籠の笠と火袋に菊の紋と法輪の飾りを配す....節、中台、笠下に飾りがある

△向拝屋根と境が分からないほどに設けられた庇が大きく張り出している

△正面切目縁の前に一段低い部隊のような造りがあり側部に組高欄

△中央間の格子戸の上に「地蔵大菩薩」の扁額、両脇間は軒から釣金物が垂れているので蔀戸(と思う)....前縁の右手に十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊者が鎮座

△軒廻りは一軒疎垂木で組物なし、身舎は縦羽目板....周囲に切目縁を巡らす、側面後方に花頭窓

△札所と金銅製燈籠越しに眺めた本堂

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鑁阿寺-(4) (足利)

2022年01月07日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・足利市】本堂は関東地方における禅宗様を基調とした建築の貴重な古例として、国宝に指定されている。 また、袴腰鐘楼と経堂は国指定の重要文化財。 その他、県指定有形文化財の建造物として多宝塔、太鼓橋、御霊屋、仁王門、東門・西門がある。

●大酉堂の東隣りに大黒堂が建つが、どうみても御堂というより校倉造りの収蔵庫だ。 調べたら、宝物を他へ移したので大黒天を祀ったようだ。 大黒堂の右隣りに分福観音菩薩立像が鎮座し、その前にたくさんの文字庚申塔そして最前列に五輪塔群が並んでいる。 観音像傍にあるひときわ大きな舟形の石碑は、元禄四年(1691)の造立で、五輪塔四方の梵字の「(東)発心門」(空・風・火・水・地)が刻まれている。
石造物群の東隣に妻入の御堂の蛭子堂が建つ。 安産の神様・蛭子女尊を祀るので、格子窓にかわいい「涎掛け」が幾つか下がっている。 蛭子堂から北門へ。 残念ながら北門は改修中で、防護ネットに覆われていて全容が見えない。 北門は鑁阿寺の塔頭の山門を移築した袖塀のある薬医門で、簡素だが剛健な武家屋敷の西門と違って、寺門らしい味わいのある造りだ。
本堂の右後方に鎮座する出世稲荷大権現を参拝してから本坊に。 細い5本の筋が入った築地塀と「解脱林」の扁額を掲げた門を構えた本坊は、板壁の身舎の東側妻面に付け足したように切妻屋根をだして白壁の建物を設け、全体に桟瓦葺の裳腰をつけた珍しい造りだ。 本坊の後、西門と同じ造りの東門を拝観し、境内に戻って楼門を通って足利駅に向かった。

△寄棟造本瓦葺の大黒堂....室町時代の永享四年(1432)、公文書奉行による創建で、宝暦二年(1752)の再修....元来、宝物の収蔵庫だったが、他お御堂へ移された後鑁阿寺伝来の大黒天を祀った

△大黒堂は角材を井桁に組んで外壁とした校倉造り、側面に小さな窓がある/軒廻りは一軒疎垂木、扉は八双金具を取り付けた板戸

△大黒堂の東隣に鎮座する観音立像、像前に多くの文字庚申塔群そして最前列に五輪塔群が並んでいる

△観音菩薩像が五輪塔と自然石に庚申の文字を刻んだ庚申塔群を見守っている

△分福観音菩薩立像....右の手の平に乗せているのは宝珠か日輪と思う/元禄四年(1691)造立の石碑....五輪塔四方の梵字の「(東)発心門」(空・風・火・水・地)が刻まれている

△切妻造桟瓦葺で妻入の蛭子堂....創建年代は不詳で本尊は栗のいがを手に持つ蛭子女像を祀る....時姫堂とも称し、義兼の妻・北条時子(源頼朝の妻の北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう

△妻に桟瓦葺の向拝と切目縁を設け、正面三間はいずれも横木数が少ない格子窓/「安産守護 蛭子女尊」とあり、中央間の格子窓に沢山の涎掛けが取り付けられている

△正面三間奥行三間で、軒廻りは一軒疎垂木、組物はない....小壁は全て横羽目板、側面は入口の板製引戸を除いて横羽目板

△訪問時改修中だった北門(薬医門)....江戸後期の弘化二年(1845)の建立で、鑁阿寺の十二支院の筆頭塔頭の千手院の山門を移築したもの

△切妻造桟瓦葺の北門(NETから拝借)....桟瓦葺で板壁の袖塀を設けている

△両本柱を渡した横木の上の組物間の空間が閉じられ、足利氏の家紋「足利二つ引両」と七五桐の紋が配されている

△二軒繁垂木で、垂木を支える丸桁の位置で天井を設けている/板扉には八双金具と四隅に散らし金具を施している

△本堂の背面....向拝屋根があり、中央間一間が桟唐戸で両脇間は全て縦羽目板

△本堂の右後方に鎮座する多くの縦長の朱色の明神鳥居と石造り神明鳥居を構えた稲荷堂

△切妻造銅板葺の稲荷堂....格子戸の上に「出世稲荷大権現」の扁額が掲げられている

△社頭に神明鳥居と石燈籠が立ち、社殿を守護する赤い前垂れをした神使の狐像が鎮座

△稲荷堂脇に立つ「當山鎮守七社 出世稲荷大権現」と刻まれた石柱/社頭に立つ石燈籠と前垂れをして鎮座する神使の狐像....左は鞠を踏む玉取りの狛犬で、鞠は富・財産・吉祥の象徴/右は子を踏む子取りの狛犬で、子連れは子孫繁栄の意味

△境内の北東に袖塀を備えた門と築地塀に囲まれて建つ本坊

△切妻造銅板葺の門は薬医門....扉は不思議な意匠を入れた桟唐戸、格子窓を入れた袖塀がある....扁額は「解脱林」だろうか?

△唐破風銅板葺の玄関....足利氏の家紋「足利二つ引両」を入れた獅子口、兎毛通は大きく精緻な鳳凰の彫刻....玄関先に大きな急須が置かれている

△切妻造桟瓦葺の本坊....板壁の身舎の東側妻に付け足したように切妻屋根をだして白壁の建物を設け、全体に桟瓦葺の裳腰をつけている

△案内板に表記されていない切妻造桟瓦葺の建物....窓がないので宝物を収蔵する御堂か?

△切妻造本瓦葺の東門....足利義兼による建立で西門と同じ構造の門

△丸柱の本柱と角柱の控柱   柱下と礎石の間に設けられた木造の礎

△本堂脇の境内に佇む板碑型石塔と宝塔....宝塔の塔身に蓮の花と月輪に虚空蔵「タラーク」の梵字が彫られている/小さな溝(?)に架かる擬宝珠高欄付き石橋
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鑁阿寺-(3) (足利)

2022年01月01日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・足利市】鑁阿寺の約4万平方メートルに及ぶ寺域は、12世紀半ばに足利氏祖・源義康が建てた居館の址で、ほぼ正方形の寺域の周囲には土塁と堀がめぐらされ、平安時代後期の武家屋敷の面影を今に伝えている。
境内には武家屋敷の遺構をそのまま遺している他、建造物や古書も焼失せず残っていることから、明治四十一年(1908)には大御堂及び鐘樓が特別保護建造物に、さらに大正十一年(1922)には境内地、土塁、濠一式が史蹟に指定された。

●不動明王を祀る中御堂に向かって左手に本堂を向いて裳腰を付けた経堂が建っている。 四方が白壁で、白壁の中に桟唐戸と花頭窓を設けた簡素な造りだが、威厳に満ちている。 室町時代の再建だが、鎌倉時代の禅宗様建築の様々な特徴を見ることができる。
経堂から西門に行く。 古色を帯びた簡素な門だが、鎌倉時代の武家屋敷の門らしく剛健な風格を感じさせる。 西門で注目したのは、柱下と礎石の間にある木造りの礎盤で、特に本柱の礎盤の大きさに驚いた。 西門の外に出て境内西側の見事な土塁と水を湛えた石積護岸の堀を眺めるが、足利氏宅が豪壮な構えだったと思わせるに十分な光景だ。
西門から境内の北西に南面で並んで鎮座する御堂群に向かう。 まずは、本殿に源氏の祖、拝殿に足利15代将軍義昭像を祀る御霊屋。 社殿と塀が全て丹塗りなので「赤御堂」ともいわれ、横に回って本殿を眺めると懸魚・妻飾・木鼻・小壁・手挟・海老虹梁の若葉彫刻などに鮮やかな彩色を施して威厳を保っている。
御霊屋の右隣に室町時代建立の簡素な妻入りの大酉堂が建ち、鑁阿寺伝来の大酉大権現を祀っている。 大酉堂は元々足利尊氏の御霊屋で、甲冑姿の木造尊氏像が祀られていたそうだ。 尊氏像が本坊に移された理由がなかなか興味深い。

△宝形造桟瓦葺の経堂(重文)....鎌倉時代建久七年(1196)の創建(伝)で、足利義兼が妻の供養のため一切経会を修する道場として建てたもの....室町時代の応永十四年(1407)、関東管領の鎌倉公方足利満兼により再建

△裳腰は桁行五間、梁間五間(身舎は三間四方)で、中央間三間は桟唐戸、両脇間に花頭窓を配す

△中央間に「一切経堂」の扁額、真ん中は格子入りの桟唐戸/側面五間は全て縦羽目板壁と白壁の小壁で、羽目板壁に花頭窓を配す....丸柱の頂部に粽がある

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、組物間に詰組が施されている/裳腰屋根の隅降棟端と稚児棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦

△堂内に本尊の釈迦如来像、足利歴代の将軍坐像が祀られ、一切経二千余巻を納めた八角形の回転式の経棚がある

△経蔵の背面は窓がなく、中央間一間に桟唐戸、両脇間は全て白に彩色された羽目板壁そして白壁の小壁

△切妻造本瓦葺の西門(四脚門)....開基足利義兼により創建(伝)....室町時代永享四年(1432)に公文書奉行により再修

△簡素で古色を帯びた西門....鎌倉時代の武家造りで剛健な風格がある

△本柱に乗る桁の中央から梁行き方向に腕木を天秤のように渡し、その先端に舟形の肘木を乗せて丸桁を支えている/様式は虹梁に板蟇股が乗る虹梁蟇股式

△柱下と礎石の間に設けられた礎盤は石材ではなく木造(円覚寺舎利殿でも木造礎盤がみられる)

△元は足利氏宅ということで、寺院だが周囲に土塁と水掘を巡らせている

△鎌倉時代の創建とされる御霊屋....江戸時代後期、十一代将軍徳川家斉の寄進により再建され「足利大権現」と称す....神門の扉は足利氏の家紋「足利二つ引両」を入れた桟唐戸

△神門・拝殿・本殿からなり、塀や社殿の身舎が丹塗リのため「赤御堂」ともいわれる/正面三間側面二軒の拝殿....神門の隙間から眺めた足利15代将軍義昭像を祀る拝殿の正面....中央間は桟唐戸、両脇間は蔀戸....扁額は「足利大権現」と思う

△塀越しに眺めた拝殿と本殿の側面....拝殿は入母屋造銅板葺、拝は彩色された亀の彫刻(?)、妻飾はよく分からないが2つの出組が見える

△拝殿の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備なし....全ての小壁に彫刻、全ての柱に獅子の木鼻が施されている/源氏の祖を祀る流造銅瓦葺の御霊屋本殿....二軒繁垂木、大棟端に鳥衾を乗せ三つ葉葵の紋を入れた鬼板

△拝の懸魚は龍の彫刻、妻飾は虹梁の上一面に龍の彫刻....懸魚・妻飾・木鼻・小壁・手挟・海老虹梁の若葉彫刻にそれぞれ彩色が施されている

△入母屋造桟瓦葺で妻入の大酉堂....鑁阿寺伝来の大酉大権現を祀っている....室町時代に足利尊氏公の御霊屋として建立され、甲冑姿の木造尊氏像が祀られていた....明治の中期、尊氏逆賊の皇国史観の台頭で尊氏像は本坊に移された

△簡素な造りの三間四方の大酉堂....側面は入口を除いて横羽目板で入口は板造りの引戸

△軒廻りは一軒疎垂木で組物はない、小壁は全て横羽目板/正面三間は全て横木の数が少ない格子窓で、窓下は縦羽目板
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鑁阿寺-(2) (足利)

2021年12月25日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・足利市】足利宗家3代当主義氏は大御堂を修築した他、十二支院を建立、その後、足利氏累代の寄進により七堂伽藍を備えた大寺院となった。 足利氏が室町幕府を開いた将軍家となると寺領の寄進が全国に及び、最盛期には寺領15万石を領していた。
戦国時代に入り、下野国足利を領していた足利長尾但馬守顯長が北条氏の配下となっていたことから、天正十八年(1590)の小田原征伐によって北条氏と足利長尾氏を滅ぼした豊臣秀吉によって寺領は全て没収された。 しかし、秀吉の命で天正十八年に関東移封となった徳川家康から、翌年の天正十九年(1591)に改めて境内地の他、寺領六十石の御朱印状を受領した。

◆参道の右側には木々が生い茂り、木立に包まれるように鐘楼が建ち、少し奥には心字池を中心とした庭園が広がっている。 羽目板の袴腰付き鐘楼は鎌倉時代後期の再建だが、禅宗様建物として貴重な遺構とされる。
石組護岸の心字池には2つの石橋が架かり、池の南北の水際にそれぞれ1基の雪見燈籠がひっそりと佇んでいる。 南側の1基をよくみると、笠一面に苔が生していて風情がある。
庭園から木立の中を通って参道に戻り、国宝の本堂に向かう。 本堂は鎌倉時代に建立された密教寺院の禅宗様仏堂で、近づいて拝観すると身舎の柱、組物、建具などの意匠から明らかに禅宗様式の建築だとわかる。
本堂に向かって左隣に建つ中御堂には、成田山より勧請された不動明王像が祀られているが、平安時代の興教大師(覚鑁)の作と伝えるらしい。 中御堂の向拝で参拝し、振り返ると、逆光で眺める大銀杏と多宝塔とが味わいのあるコラボを見せている。

△境内の南東に広がる庭園の木立に囲まれて鎮座する鐘楼....(伝)鎌倉時代の建久七年(1196)、足利義兼による創建....現在の鐘楼は鎌倉後期の再建

△入母屋造本瓦葺の袴腰付鐘楼(重文)....桁行三間、梁間二間で鎌倉時代の禅宗様建築の特色を有す....羽目板の袴腰、梵鐘は江戸時代の天明鋳物の再鋳

△軒廻りは二軒繁垂木、周囲に組高欄付き縁(切目縁)....鎌倉時代の代表的な禅宗様式の建物

△組物は舟肘木を組んだ出組で中備はない/腰組は変形の三手先のようで、腰組の間に据えられた中備は撥束

△境内南東に広がる石組護岸の心字池を中心とした趣のある庭園

△石橋を挟んで池の南北の水際に雪見燈籠がひっそりと佇む

△心字池の北側の水際に佇む雪見燈籠/南側の水際に佇む雪見燈籠は笠一面に苔が生していて趣がある

△心字池は「心」の草書体をかたどっで造営された池で、水面に映る木々が美しい

△心字池に架かる2つの石橋....二つの平たい巨石をずらして並べた重量感のある平橋(左)と小さな反橋

△入母屋造本瓦葺の本堂(国宝)....鎌倉時代建久七年(1196)、足利義兼が持仏堂として創建....その後足利義氏が方五間の大堂を建立したが焼失、尊氏の父・足利貞氏により鎌倉時代正安元年(1299)に再建された

△本堂には本尊の胎蔵内大日如来像....他に弘法大師(空海)、興教大師(覚鑁)、開基鑁阿上人(足利義兼)像などを安置

△本堂は鎌倉時代の密教寺院の禅宗様仏堂の初期の建築....関東地方における禅宗様の古例として貴重な遺構

△桁行五間梁間五間で、軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の出組、中備は詰組....柱の頂部に粽をつくっている

△向拝の海老虹梁の中央に大瓶束を立て、その上の軒(丸)桁から小さな海老虹梁が身舎に伸びる、精緻な彫刻の見事な手狭

△虹梁の上に唐破風の棟木を担いで支える力神、水引虹梁の上に龍の彫刻をそれぞれ配す

△周囲に擬宝珠高欄付き切目縁、正面の中央間の三間は桟唐戸、両脇間は羽目板/側面は二間の桟唐戸で三間は羽目板

△桟唐戸の間口いっぱいの大きさの賽銭箱が置かれていて、外陣に入れない

.△向拝の水引虹梁に下がる明和年間(1764~1772)鋳造の鰐口/本堂の大棟端に足利氏の家紋「足利二つ引両」を入れた鬼板、拝は三つ花懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

△入母屋造桟瓦葺の中御堂(不動堂)....(伝)建久七年(1196)、足利義兼により創建....文禄元年(1592)、足利基氏の末裔で喜連川氏初代の喜連川国朝より再建

△明治十二年(1879)造立の石燈籠越しに眺めた中御堂....本尊は平安時代作(興教大師作とも)の不動明王像で千葉県成田山より勧請

△桁行三間梁間三間で、古くは本堂と屋根付き廊下で繋がっていた護摩堂だった

△鰐口が下がる水引虹梁の上に精緻な3つ爪の龍の彫刻を配している

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の出組、中備は脚間に彫刻を配した本蟇股

△身舎近くが大きく湾曲した海老虹梁、板張り小壁、軒支輪の位置に彫刻が施されている

△中御堂の向拝から眺めた逆光の多宝塔/大銀杏の傍に立つ上部に金剛界大日如来の種子「バン」が彫られた石塔/ひと際目を引く大銀杏の巨木は推定樹齢約650年....樹高約30メートル、幹周り約10メートル

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鑁阿寺-(1) (足利)

2021年12月19日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・足利市】鎌倉時代の建久七年(1197)、武将・御家人で足利宗家2代当主の義兼が、足利氏の祖である源義康がこの地に構えた邸宅を撤去し、大日如来を祀る持仏堂を建て、伊豆国走湯山から上人朗安を招聘して開山とし、堀内御堂を創建した。
義兼の三男で足利宗家3代当主の義氏は、文暦元年(1234)、亡父の戒名「鑁阿寺殿」にちなんで「堀内御堂」を鑁阿(ばんな)寺に改名し、本尊大日如来を祀る大御堂を中心に堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺とした。 宗旨は真言宗大日派の本山で、本尊は大日如来。 関東八十八ヶ所霊場16番札所(大日如来)、下野三十三観音霊場28番札所。

◆足利学校跡から門前町の石畳の参道を進み、3分ほどで大門通りの突き当りに建つ山門の前に着く。 門前に「史蹟 足利氏宅址」の標石が立ち、境内に沿って鯉が泳ぐ堀があり、堀に屋根を設けた神橋が架かっている。 屋根のある神橋は太鼓橋で、妻側を唐破風にした切妻造桟瓦葺だ。
ゆったりと泳ぐ鯉を眺めながら太鼓橋を渡ると、直ぐの所に荘厳な楼門が建つ。 室町時代建立の楼門には、運慶作とされる仁王像が鎮座しているが、金剛柵の内側に張られた防護金網の目が小さ過ぎてうまく撮影できない。 楼門前の左手に自然石を用いた二基の石塔が佇んでいるが、一基は庚申塔、もう一基は極端な異体字のようで読めないが、3文字の真ん中が「申」に見えるのでこれも庚申塔だと思う。
楼門をくぐると緑の多い境内が広がり、左手の先に、参道の半分を覆うほどに大きく枝を張り出した樹高約30メートルの銀杏の巨木が聳え立つ。 「大銀杏」と呼ばれている樹齢約650年とされる古木だが、青々とした葉を繁らせている。
大銀杏の少し手前の参道左手に多宝塔への参道があり、入り口に唐破風付きの古い墓碑が立ち、正面に「報身(胎蔵界大日)真言」の梵字が刻まれている。 参道の先に、裳腰の四方に五色幕が張られた銅板葺の多宝塔が建つ。 多宝塔は江戸初期に徳川幕府五代将軍綱吉の生母が再建したもので、扇垂木、桟唐戸、花頭窓など禅宗様の特徴を取り入れていて味わいがある。 組物の間の全ての小壁に彫刻が施されているが、小壁に装飾がある多宝塔は珍しいと思う。

△門前町の石畳み参道の大門通りの突き当りに、神橋と楼門の屋根が重なって見える

△正面門前から眺めた神橋と楼門....神橋前に「史蹟足利氏宅址」の標石が立つ

△境内周囲に造営された堀に架かる屋根を設けた神橋(太鼓橋)....県内で唯一の屋根付きの神橋

△唐破風桟瓦葺の太鼓橋は、江戸時代後期安政二年(1855)の再建

△大棟端に足利氏の家紋「足利二つ引両」を入れた鬼板、兎毛通は精緻な鳳凰の彫刻/太鼓橋の天井は格天井

△入母屋造桟瓦葺の楼門....室町時代の永禄七年(1564)、室町幕府十三代将軍足利義輝による再建

△楼門の創建は本堂と同じ時期の鎌倉初期とされる/楼門に鎮座する運慶作といわれる護法神の仁王像(像高3.7メートル)....金剛柵の中の防護金網の目が小さ過ぎてうまく撮影できず閉口

△軒廻り二軒繁垂木、組物は出組で中備は間斗束....「金剛山」の扁額が掲げられている

△擬宝珠(と思う)高欄付き回縁(切目縁)を設け、腰組は変形の三手先で中備は間斗束

△楼門前の西側に鎮座する2基の石碑

△寛政元年(1789)造立の石碑(極端な異体字で、庚申塔と彫られていると思う)/文久二年(1862)造立の文字庚申塔

△楼門から眺めた境内....左の巨木の大銀杏は樹高約30メートル、周囲10メートルで推定樹齢約650年とされ、往古より避雷針の役目をなし堂宇の災厄を守護

△参道脇に鎮座する地蔵尊像と弘法大師修行像....地蔵尊は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ/弘法大師修行像は網代笠を被り、右手に金剛杖、左手に数珠と鉢を持つ

△参道脇に鎮座する8体の石仏....大きな3体は赤い帽子を被り前垂れをした地蔵尊像

△寛政六年(1794)造立の頂部の円形石板(日月と瑞雲か)に六字名号が刻まれた六十六部供養塔(基台に「大乗妙典」の刻)/参道に立つ正徳五年(1715)造立の石燈籠

△墓石越しに眺めた多宝塔は、鎌倉時代建久七年(1196)の創建(伝)

△元文元年(1736)造立の唐破風付墓石(3名の名前と異なる年号が刻).....正面に刻まれた梵字は大日如来三尊の内の「報身(胎蔵界大日)真言」/裳腰の軒下に五色幕が張られ、堂内には本尊の金剛界大日如来と勢至菩薩そして両側に十六羅漢像を安置

△銅板葺(瓦棒付)の多宝塔....江戸初期の寛永六年(1629)、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院尼公による再建

△軒廻りは二軒扇垂木で組物は四手先、軒天井と軒支輪を設けている

△裳腰の組物は出組で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股、小壁に彫刻が施されている....裳腰中央間に格子窓を入れた桟唐戸、両脇間に花頭窓

△組物は四手目が尾垂木の四手先、亀腹は漆喰造り/裳腰の軒廻りは二軒繁垂木

△周囲に擬宝珠高欄付き切り目縁を設けている

△参道の東脇に建つ入母屋造銅板葺の手水舎

△頭貫から突き出た木鼻は精緻な獅子の彫刻/手水鉢の側面の月輪の中に金剛界大日如来の梵字(バン)が彫られている
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