何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

長壽寺-(1) (湖南)

2018年08月31日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】奈良時代の天平年間(729~749)、聖武天皇(第45代)の勅願により金粛菩薩良弁僧正が創建した勅願寺。 「湖南三山」の一つ(他の二山は常楽寺、善水寺)。
聖武天皇が大仏造営のため柴香楽宮に遷宮していた際、世継ができるよう良弁僧正に祈請を命じ、良弁が阿星山の瀑布に籠もって祈願した結果、間も無く皇女が降誕。 これにより、聖武天皇は柴香楽宮の鬼門に当る東寺に七堂伽藍と二十四坊の寺を建立、皇女誕生に因んで子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて本尊とし、皇女の長寿を願って東寺に「長壽寺」という寺号を贈ったことに始まる。
その後、平安時代の貞観年間(859~877)に焼失したが、同年間に復元されて現在に至る。 平安時代には阿星山五千坊と呼ばれるほどの天台仏教園を形成した。 宗旨は天台宗で、本尊は木造の子安地蔵菩薩像。

「湖南三山」巡りでは西寺と呼ばれる「常楽寺」を最初の訪問先として事前に電話をいれたが、訪問予定日はご住職が不在で、しかも予定日が変更できないため断念した。
JR草津線の石部駅で下車し、通学の学生で身動きができないほど超満員のバスに乗り込んで長壽寺に向かった。
深緑を背にして簡素な山門が建つ。 檜皮葺の山門をくぐると緑のトンネルの中に参道が延びているが、堂宇は見えない。 山門傍の「長寿庵」の右手に小さな「内仏堂」が建つ。 堂前に「子宝パワースポット」の表記があり、近づいて堂内を覗くと、厨子の中に見慣れた?金精神が鎮座している....なるほどと納得しながら本堂に向かう。
鮮やかな紅葉に彩られたトンネルを想像しながら、静寂に包まれた参道を進む。 途中に擬宝珠高欄を設けた古びた小さな石橋があり、渡って直ぐ右手の少し奥まった所に、日本最大級とされる石造りの多宝塔が鎮座している。 流石に聖武天皇の菩提を弔うために造立されただけあって、堂々たる姿で勢いが感じられる。 多宝塔の傍に8基の小さな五輪塔が佇んでいるが、聖武天皇をお世話していた侍従たちの姿が目に浮かんだ。

深緑を背にして建つ簡素な山門....境内に緑のトンネルの参道が延びている

静寂に包まれた門前....紅葉の季節には多くの参詣者で賑わうようだ

切妻造檜皮葺の山門(四脚門)....門柱に「湖南三山 国宝 長壽寺」の木札(聯)が下がる
 
山門傍の境内に建つ「長壽庵」             山門から眺めた深緑の参道

「長壽庵」の右手の参道脇に建つ入母屋造桟瓦葺で妻入の内仏堂
 
起り屋根で大棟に獅子口、拝みに蕪懸魚、虹梁中央にに刳抜蟇股が乗る/堂内の厨子に金精神が鎮座....左隣に子宝・安産・長寿のお守り

途中で参道が二手に分かれ、明神鳥居がある左は鎮守社・白山神社への参道....社号標石は大正十年(1921)造立

二つの参道の間にある石燈籠風の石造物....自然石を石塔のように積み上げただけのものもある
 
参道脇に鎮座する「聞きます地蔵像」と石を積み上げた石燈籠風の石造物

参道を横切る小川に架かる古びた擬宝珠高欄付の石橋

石造多宝塔....鎌倉時代の造立で、「日本最大級の多宝塔」とある

多宝塔は聖武天皇(第45代)の菩提を弔うために造立....小さな8基の五輪塔が多宝塔を見守っている

少しアンバランスさを感じるが、雄大で勢いがある多宝塔....総高約3.6mで、相輪が欠けているが極めて少ない遺例とされる
 
裳階・笠部ともに分厚い軒口をゆるやかに反らせ、笠は錣葺き風に二段葺き、笠部下面に大きな二段の斗栱を表わす....多宝塔傍の角柱卒塔婆に「五輪塔四方の梵字」が刻....見えるのは右に(東)発心門、左に(北)涅槃門

裳腰(屋根)上の饅頭型上に勾欄がなく、直ぐ上に斗栱型そして上に笠石、また頂上には相輪でなく宝珠を乗せている

少し下り坂になった参道の先に本堂が見え隠れする....本堂前は切石敷の参道
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富貴寺の大堂

2018年08月29日 | 最古・唯一などの遺構

【大分・豊後高田市】九州に現存する最古の木造建造物で、九州唯一の国宝和様建造物。
平安時代後期(12世紀頃)の建築とされる。 奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩により開創されたとされる富貴寺に建つ大堂で、平安時代に盛行した「阿弥陀堂」の典型的な遺構。 九州に残る平安期作の和様建築として、また、六郷山の寺院群の最盛期を忍ばせる遺構として歴史的価値が高い。
石段の上に聳える榧と銀杏の巨木の間の奥の静寂に包まれた境内に大堂(阿弥陀堂)が佇んでいる。 主屋は正面三間、側面四間だが屋根は宝形造りで、奈良でも見られない見事な行基瓦が葺かれている。 瓦当を見ると、蓮華座に乗る仏像(阿弥陀仏か)の文様が軒丸瓦に彫られている。
正面は全て板唐戸、側面は二間板唐戸で二間横羽目板で窓がない。 軒廻りは二軒平行垂木、柱上に舟肘木が乗り、中備なし。 建物の周囲には、石塊を帯状に並列したシッカリした造りの雨落溝が設けられている。
露盤宝珠からゆるやかな曲線を描いて流れる行基瓦葺屋根の阿弥陀堂....約900年もの時が流れる静謐な空間にひっそりと建っている姿は優雅で美しい。

露盤宝珠を乗せた宝形造行基瓦葺の大堂(阿弥陀堂・国宝)....平安時代後期(12世紀頃)の建築で、屋根は古い様式の行基瓦で葺いている

正面三間、側面四間の宝形造り....正面三間と側面左右の手前二間と背面の中央一間に両開の板唐戸....建物の周囲に雨落溝が設けられている

周りの柱は全て方柱で、幅広く面取(大面取)が施されている....軒丸瓦に蓮華座に乗る仏像(阿弥陀仏か)の文様がある
 
軒廻りは二軒平行垂木、柱上に舟肘木が乗る、中備なし....周囲に切目縁を廻らす/隅降棟と稚児棟の先に鳥衾を乗せた鬼瓦....屋根の変遷は瓦葺→草葺(安土桃山時代)→瓦葺(明治四十五年)→行基瓦葺(昭和三十九年)

背面は中央間に板戸、脇間に横羽目板

堂内には藤原時代末期作の像高86cmの阿弥陀如来坐像が鎮座、内陣後壁に阿弥陀浄土変相図、四壁に五十仏、四天柱に胎蔵界曼荼羅の中心部の尊像が描かれている
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百済寺-(3) (東近江)

2018年08月23日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・東近江市】安土桃山時代の天正十二年(1584)、信長・秀吉に仕えた武将で、近江攻めなどで功を立てた堀秀政が仮本堂を建てたことで再興が始まった。 江戸時代慶長七年(1602)、146石5斗の地を寺領として免除され、一山の坊舎もその数を増し、漸く復興に向かった。
寛永年間(1624~1644)、江戸初期の天台宗の僧・天海大僧正の高弟・亮算が入寺して伽藍の再興を計り、寛永十四年(1637)に明正天皇(第109代)により改建が勅許された。 これにより、本堂・仁王門・山門等が再建され、これらの堂宇が現在に至る。 

仁王門から石段参道を下って喜見院の表門に....喜見院境内を通って南庭下の駐車場から表参道に戻る。 樹林の中に続く木漏れ日が射し込む「石垣参道」と呼ばれる参道を下っていくと、赤門までの途中に「蛇封じの井戸」、参道を横切る小川に架かる「六枚橋」、六枚橋の袂に佇む「石仏群」、覆屋に鎮座する「ねずみ地蔵」、注連縄が巻かれた「矢杉」、”五ノ谷川”に架かる朱塗りの「極楽橋」、「天文法華の乱 戦士供養塔」そして入母屋造の簡素な「阿弥陀堂」がある。
長い表参道を下って赤門に.....赤門近くの青モミジが、傾きかけた西日を燦燦と浴びて鮮やかに輝いている。 赤門は約370年前の慶安三年の再建だが、老朽化のため今年(2018年)修復されたそうだ。
赤門から上山町の公民館傍のバス停「上山町」に急いだ。 3~4時間に1本しかない「ちょこっとバス」に何とか間に合い、八日市駅に向かった。

喜見院の表門から南庭下の駐車場との間の鮮やかに苔生した参道は通行禁止だ!

駐車場から赤門に向かって下る表参道の石段

参道の横切る小川に架かる石板6枚を並べた六枚橋....向こう側の左手に「蛇封じの井戸」がある
 
六枚橋の側に鎮座する石仏群....五輪塔が彫られたものもある/切妻屋根の覆屋に鎮座する「ねずみ地蔵」

参道脇に鎮座する宝珠の石造物、注連縄が巻かれた「矢杉」そして朱塗りの極楽橋

”五ノ谷川”に架かる擬宝珠勾欄を設けた朱色の極楽橋...橋の手前(赤門側)が「此岸」、渡り終えた本堂側が「彼岸」となる

極楽橋から本堂まで延々と続く参道は「石垣参道」と呼ばれる

「天文法華の乱 戦士供養塔」と戦死者を見守る5体の石仏
 
「天文法華の乱 戦士供養塔」....天文五年(1536)の「天文法華の乱」で出陣した百済寺僧兵の戦死者の供養碑/入母屋造桟瓦葺の阿弥陀堂

傾いた日を燦燦と受ける青モミジと境内側から眺めた赤門

門前から眺めた赤門....赤門は老朽化により修復され平成三十年(2018)に完成した

切妻造桟瓦葺の赤門....慶安三年(1650)の再建
 
門前にある「釈迦山百済寺御詠歌」が刻まれた石碑

赤門を通して眺めた鮮やかな青紅葉.....まるで額縁の絵のようだ

樹林の中で静寂に包まれた赤門前の風景
  
門前に佇む石碑....摩滅が激しく何の碑か不明/「日吉神社御旅所」の石碑/「峻徳院殿御墓道」の石碑....参道から樹林の中約200mの奥に井伊直滋公の墓がある
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百済寺-(2) (東近江)

2018年08月21日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・東近江市】平安末期から鎌倉・室町時代にかけては、一山境内を東西南北の四ツ谷に分かち、楼門凱回廊を配した本堂、五重塔婆、常行三昧堂、阿弥陀堂など十五棟の堂宇と塔頭三百余坊を有し、約1300人が居住する荘厳な大寺院だった。
室町時代の明応七年(1498)、本堂付近の堂宇を焼失、また文亀三年(1503)には戦乱による災厄に遭って、荘厳な多くの堂宇を焼失したが、再興により寺勢を保っていた。
戦国時代の永禄六年(1563)に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、山門から本堂までの参道を「地上の天国 一千坊」と絶賛したほど、隆盛を極めた。
時代が室町から安土桃山に代わる元亀四年(1573/天正元年)、織田信長に敵対していた佐々木氏(百済寺の近くに観音寺城の支城・鯰江城を築いていた)を支援したとして焼き討ちに遭って全山灰燼に帰し、衰亡した。

表門から樹林の中に続く石段の長い参道を上っていくと、苔生した石垣に守られた石段の奥の杉木立の間に仁王門が見えてくる。 仁王門手前の右手の土手の上の平地は旧喜見院跡で、喜見院が昭和十五年(1940)に現在地に移築されるまでここに建っていた。
約370年前に再建された仁王門は風情があり、古寺の面影を感じさせる。 正面の連子前には大きな草履が下がり、まるで鎮座する金剛力士像を隠しているかのようだ。 草履にそっと触れてから仁王門に入る。 阿形と吽形の金剛力士像が向き合って鎮座しているが、皮膚がはがれ少々くたびれたようなお姿なので、守護神としてしっかりとお寺を護っているのか心配になった。
仁王門をくぐると、老杉が林立する石段の先の石垣の上に本堂が見える。 乱積の石垣の前には、推定樹齢430年の「観音杉」と呼ばれる境内最大の古木が聳えている。
石段を上り詰めると、江戸初期に再建された本堂が建つ。 軒唐破風付きの本堂は、金剛輪寺及び西明寺の本堂よりも一回り小さいが、正面と内陣部分の側面のみに縁を設けた典型的な天台形式の建物で、歴史を感じさせる。 本堂の左手に、「仏陀の聖樹」として崇められてきた推定樹齢約千年の「千年菩提樹」がある。 幹が苔に覆われた「千年菩提樹」は、織田信長の焼き討ちによって幹まで損傷したが、若木が育って蘇った....合掌。
 
境内に鎮座する弥勒半跏石像....平成年(2000)造立で、座高1.75m、全高3.3m/弥勒半跏石像

仁王門の手前の石段参道....支院跡の名残を残す左右の乱積の石垣が石段の参道を護る
 
仁王門前参道の右手の石段の上に旧喜見院跡がある/石段左側に五輪塔の笠を積み重ねたような七重石塔と仏像が浮き彫りされた4体の石仏が鎮座

旧喜見院跡....元文元年(1736)に自火で焼した喜見院は、元文二年(1737)に仁王門側のこの地に移転改築された
 
旧喜見院跡にある放生池/放生池越しに眺めた仁王門....大棟に鳥衾付鬼板、拝みに蕪懸魚、妻飾は豕扠首

入母屋造銅板葺の仁王門....慶安三年(1650)の再建

軒廻りは二軒並行垂木、組物は頭貫に台輪をのせ隅柱上に連三斗の出組、中に柱上に間斗束、中央に詰組を配す
  
鎮座する仁王像を隠すように連子前に大きな草履が下がる/金剛柵の奥に向き合って鎮座する阿形吽形の金剛力士像....健脚の両足に草鞋を履く「印度発祥の東洋的な神様」

本堂境内側から眺めた仁王門....両脇の連子窓を設けた袖塀

仁王門をくぐった参道の右手に鎮座する流造銅板葺の弁天堂
 
石段を上り詰めると老杉に隠れるように野面積の石垣の上に本堂が建つ/古杉が聳える石段参道の先の石垣の上に鎮座する本堂

入母屋造銅板葺の本堂(重文)....慶安三年(1650)の再建

注連縄が張られた「観音杉」越しに眺めた本堂....「観音杉」は推定樹齢430年で境内最大の樹木

乱積の石垣の上に鎮座する本堂....正面中央に軒唐破風を設けている

正面五間、側面六間で正面は中央間に桟唐戸、両脇間に蔀戸....軒廻りは二軒並行垂木、組物は頭貫上に出三斗、中備は撥束と蟇股

正面は両折両開の菱狭間付桟唐戸で、内側に腰高障子と連子欄間
  
組物や中備の巻斗上に繰形の実肘木が乗る/軒唐破風に鳥衾付鬼板、猪の目のような兎の毛通/大棟に鳥衾付鬼板、拝みに猪の目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

引違格子戸で仕切られた本堂の内陣と外陣....外陣に鎮座する閻魔大王坐像2体、賓頭盧尊像、聖徳太子元服姿立像が鎮座....内陣の厨子に奈良時代造立の十一面観音立像(秘仏)が鎮座

側面六間は両開の板戸(出入口)、蔀戸、花頭窓、小さい四角の格子窓そして白壁二間....正面と内陣部のみに擬宝珠勾欄付切目縁を設置....手前の五輪卒塔婆の各輪に「(北)涅槃門」の梵字が刻
 
寛政九年(1797)造立の宝篋印塔....後方の五輪卒塔婆は明治三十六年(1903)造立/注連縄で囲まれた推定樹齢約千年の千年菩提樹....古来より「仏陀の聖樹」として崇められてきたが、天正元年の信長の焼き討ちで幹まで損傷したが根は助かり、若木が育って蘇った

本堂前の左手に建つ鐘楼、宝篋印塔そして幹が苔生した千年菩提樹
 
低い基壇上に建つ切妻造桟瓦葺の鐘楼/梵鐘は三代目で昭和三十年(1955)の鋳造.....初代は信長焼討ちの際に持ち去られ、二代目(江戸期鋳造)は先の大戦で供出
 
本堂境内の入り口で本堂を見守るように佇む宝篋印塔/塔身は方形でなく丸形に近く、月輪に四方仏が浮き彫り、基礎は輪郭を巻いて格狭間

本堂の右手に鎮座する鎮守社の三所権現社....本堂と同時期の建立で熊野三社の主祭神を祀る

立派な基壇に鎮座する一間社流造で檜皮葺の三所権現社....向拝柱上に連三斗、中備に蟇股
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百済寺-(1) (東近江)

2018年08月19日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・東近江市】飛鳥時代の推古天皇十四年(606)、摂政の聖徳太子の勅願により百済人のために創建されと伝えられる近江最古の仏教寺院。 湖東三山のひとつ。
仏堂は百済国の梵閣「龍雲寺」を模して建てられ、開山法要にあたっては高句麗の僧・恵慈が招かれ、その後の供養には百済国の僧が任じられ、先進的な文化・技術を伝えた渡来系氏族の氏寺として発達した。 平安時代、比叡山延暦寺が開創されると百済寺は天台の寺院となり、伽藍の規模が拡大されて「湖東の小叡山」「天台別院」と称されるほど壮大な寺院となった。
宗旨は天台宗で、本尊は全高3.2mの十一面観音菩薩像(秘仏)。 近江西国観音霊場第十六番札所、神仏霊場第百四十一番札所、聖徳太子御遺跡第三十四番札所、湖国十一面観音霊場第十番札所。

山門の「赤門」からではなく、参道の途中に建つ本坊・喜見院の通用門から入山した。
左手に喜見院の庫裡・書院・不動堂を眺めながら広い芝生の南庭を進むと、不動堂の前にある庭園に誘う「先ず庭園から…」の案内板が目に入る。 笠付「下乗」碑が立つ入口から、不動堂の横を通つて庭園に向かうと竹の仕切り垣根がある。 そこから続く飛石を敷いた参道を進むと、周りに巨石をふんだんに配し、たっぷりと水を湛える池が現れる。 書院の北側に広がる見事な庭園は、池泉回遊式かつ鑑賞式の庭で「天下遠望の名園」と称される。
巨石の上を飛び跳ねるようにして左回りで池を一周して書院に....「拝石」と呼ばれる平らな石の近くの広縁に腰を下ろし、静寂な佇まいとパノラマの景色をゆっくりと楽しんだ。
足元の水辺を見ると、たくさんの鯉が悠々と泳いでいる。 広縁に置かれている有料の「鯉の餌」を求め、水際に立つと、鯉が群れをなして勢いよく押し寄せる。 口を大き開け、「シュパ、シュパ」という吸引音をたてながら餌をねだる鯉の姿が実に可愛い。
庭園の案内板には「庭園から本堂へは石段のない「なだら坂」のご利用を!!」とあったが、素晴らしい景色を堪能した後、庭園入口に戻り、不動堂前に建つ表門をくぐって石段の参道に。 表門前から南庭下の駐車場の傍までの間の参道は、通行禁止になっている。 参道一面が鮮やかな苔に覆われていて、まるで緑の絨毯を敷いたようで美しい。 表門から樹林の中に続く石段の参道を上り、奥の山腹に鎮座する本堂に向かう。

本坊・喜見院への簡素な切妻造桟瓦葺の通用門

切妻造桟瓦葺の本坊・喜見院(寺務所兼庫裏)

通用門から表門にかけて広がる南庭から眺めた書院と不動堂.....不動堂は百済寺奥の院(大萩西ヶ峯)の不動堂を明治に移築したもの....書院には本尊阿弥陀如来像、不動堂には木造不動明王像と二童子像を祀る

入母屋造桟瓦葺の書院(本堂)....昭和十五年(1940)に仁王門南側から移築....大棟端に獅子口、拝みに蕪懸魚、妻飾は狐格子....南側は小壁で柱上に舟肘木、切目縁を巡らし全て舞良戸を配す

入母屋造杮葺で妻入の不動堂....正面三間、側面五間(左側面は三間舞良戸、一間白壁)、大棟端に鬼瓦、拝みに蕪懸魚、妻飾は狐格子

切目縁を巡らした不動堂....右側面は二間舞良戸、二間白壁、軒廻りは二軒並行垂木で組物は柱上に出三斗
 
正面一間は吹き放ちで、扉は舞良戸で内側に腰高格子戸、大きな鰐口が下がる/不動堂の前に佇む石塔....石灯籠と五輪塔を組み合わせた石塔のようだ
 
本坊庭園入口に立つ笠付の「下乗」の碑/庭園の竹の仕切り垣根から大きな飛石の参道が続く

書院横(東側)から眺めた池泉廻遊式かつ観賞式の本坊庭園....「天下遠望の名園」と称される

庭園は東方の山を借景に山腹に造営され、大きな巨岩を配して作庭された

書院正面中央の池畔に置かれた平な石は「拝石」と呼ばれる

書院正面一間は吹き放ち....全面舞良戸で、明障子の欄間が設けられている

書院対面の渓流の源に見える平らな巨石は「不動石」と呼ばれる
 
書院右手の庭に架かる石橋....飛び石の参道の先に立つ2基の石塔/左は大きな五輪塔の地輪・水輪の上に小さな五輪塔を乗せたもの、右は宝塔か

書院右手の庭の石橋の上から眺めた書院正面....広縁に有料の「鯉の餌」が置かれている
 
池に多くの鯉が棲む....餌を投げ入れる仕草をすると口を大きく開けて集まってくる

通用門から表門にかけて広がる広い本坊喜見院の南庭....不動堂の近くに表門が建つ

切妻造桟瓦葺の表門....左右に袖塀、左側には通用口がある
 
表門は薬医門/表門傍に建つ石碑....上部に阿弥陀三尊の梵字が刻まれている

表門前から赤門に向かう下り参道の本坊喜見院の南庭脇の部分は通行止....苔生した石段の参道を保護するため数10mが通行止めになっている
 
通行止になっている参道は一面が鮮やかな緑の苔に覆われていて美しい/表門前から眺めた本堂境内への石段の参道
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金剛輪寺-(3) (愛荘)

2018年08月17日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・愛知郡・愛荘町】明治維新により境内山林全てが上知(知行地の没収)に遭い、僧侶すべてが退山帰俗し、本坊明寿院一坊を残すのみとなった。 江戸末期に荒廃した境内は、その後、全国の観音信者らの後援などによって整備と堂宇復興が進められ、明治~昭和に本堂の大修理や三重塔の復元修理が行われ、湖東三山の雄として、古より今に国家安泰・万民豊楽を祈る道場として蘇った。
金剛輪寺本坊の明寿院は、昭和五十二年(1977)の火災で庫裡と書院を失したが、護摩堂と茶室「水雲閣」は難を逃れた。 庫裡と書院は翌年再建された。 本坊明寿院には国指定の名勝庭園があり、書院の南・東・北の三方を囲むように「桃山期の庭」「江戸初期の庭」「江戸中期の庭」からなる池泉回遊式・鑑賞式の庭園が広がる。

二天門から金剛輪寺本坊の明寿院の白門に戻る。 白門をくぐって少し進むと、正面に玄関の屋根が檜皮葺になっている瓦葺の玄関棟、右手に近江路随一とされる国指定の名勝庭園への門がある。
門をくぐると書院の南側で、桃山期に作庭された古庭がある。 「桃山期の庭」の心字池には苔生した石造りの優美な反橋が架かり、反橋の先の池辺に苔生した宝篋印塔が佇んでいて風情がある。
書院の東側に進むと、木立に隠れるように江戸期建立の護摩堂と茶室「水雲閣」とが連なって建つ。 茶室は高い位置から「江戸初期の庭」が眺められるよう懸造で建てられている。 「江戸初期の庭」は書院の東側の縁の直ぐ真近に造営された鑑賞式の主庭で、山を借景とし、池の周りの石組み、そして枯滝と石塔を配した庭は趣があり、初夏には池一面に睡蓮が花を咲かせるそうだ。
書院北側に広がる「江戸中期の庭」は、滝から池に水が流れる優雅な池泉回遊式の庭園で、池の中にまるで七福神の宝船のような形をした石造りの舟が浮かんでいる。
三庭の池は「心字池」として連なっていて、江戸中期の庭の滝から水が流れているはずだが、いずれの池も水が少し濁っているので意外だった。

切妻造桟瓦葺の明寿院の白門....地蔵尊像が佇む門前に「国、名勝庭園」の看板
 
白門には雲斗・雲肘木・木鼻や貫などに雲か波の文様をふんだんに施す....内法貫の木鼻は獅子/白門を通して眺めた明寿院の境内
 
明寿院の玄関棟....桟瓦葺の主屋に対して玄関の屋根は入母屋破風で檜皮葺/獅子口が乗る入母屋破風、拝みに蕪懸魚、妻飾は狐格子

玄関棟の右手奥に建つ切妻造桟瓦葺の庫裡....屋根に煙出しを設けている

庭園入口の切妻造桟瓦葺の門....「池泉回遊式庭園」の立て札には、桃山期・江戸初期・江戸中期の三庭園からなり、四季折々の変化を楽しめるとある
 
庭園の門を入ると直ぐ右手に2基の板碑型の「下馬」の碑が立つ

「下馬」の碑の前から眺めた玄関棟と書院

庭園内から眺めた入母屋造桟瓦葺の玄関棟....大棟端と稚児棟端に獅子口

関棟に連なる入母屋造桟瓦葺の書院....軒廻りは一軒疎垂木、柱上に船肘木、正面は吹寄舞良戸、小壁に連子欄間、切目縁を巡らし、大棟端に獅子口、拝みに蕪懸魚、妻飾は狐格子

庭園の門を入ると直ぐ前に最も古い「桃山期の庭」が広がる
 
「桃山期の庭」内の石段の奥に鎮守社らしき建物が見える/「桃山期の庭」の心字池に架かる苔生した石造りの反橋と鎌倉時代造立の宝篋印塔

「桃山期の庭」の前から眺めた書院(左)と木立の中に建つ白壁の護摩堂

宝形造檜皮葺の護摩堂....正徳元年(1711)建立、二軒疎垂木で組物なし

寄棟造檜皮葺の茶室「水雲閣」....安政年間(1854~1860-1860年)の建築、護摩堂と繋がっている....「水雲閣」は懸造で高い位置から庭園を眺められるようにしている

書院の東側に広がる「江戸初期の庭」....右手の建物は茶室「水雲閣」

東側の山を借景とし、池の周りに石組そして石塔を配した鑑賞式の造り
 
池に水が流れ落ちるように石を配した枯滝

書院の縁越しに眺めた「江戸初期の庭」....趣のある雰囲気が漂う
 
書院の縁の板戸に描かれた二頭の龍

書院の北側に広がる池泉回遊式の「江戸中期の庭」

「江戸中期の庭」は滝から水が池に流れ込む....池の中に浮かぶ石造りの舟
 
三庭の池は「心字池」として連なっていて水が流れているはずだが、どの池も水が少し濁っている
 
「江戸中期の庭」の中に建つ切妻造桟瓦葺で土壁の建物はかなり古そうだ
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金剛輪寺-(2) (愛荘)

2018年08月15日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・愛知郡・愛荘町】鎌倉時代の弘安十一年(1288)、近江守護役頼綱が本堂大悲閣などを再興したが、現在の本堂大悲閣がそれで、七百年を超える歴史を持つ。 戦国時代末期の天正元年(1573)、織田信長の焼き討ちに遭って火を放たれられたが、僧侶の機転で本堂・三重塔・二天門などがその難を逃れた。
その後、徳川家康による諸課税免除地三十石の寄進が復興の基となり、井伊直孝や黒衣の宰相天野僧正の助力を受けて復興した。 江戸時代の寛永九年(1632)、正親町天皇(第106代)の孫・良恕親王が山内に静仙院を建立して仏道を修業した。 明和の頃(1764年頃)には明寿院他十二坊、末寺二ケ寺を有し、僧侶五十人余が仏法を学び農業を営んでいた。

二天門をくぐると前庭の樹木に隠れるように堂々とした本堂が建つ。 堂前が意外に狭く、また樹木が茂っていて建物全体が撮れない。 二天門に戻って中から撮影にトライしたが....。
「大悲閣」の扁額が掲げられた本堂は、正面に向拝がなく、桁行七間すべて蔀戸の風雅な和様建築だ。 左側面の板唐戸から堂内に入り、秘仏の本尊・聖観世音菩薩を修めた厨子が置かれた須弥壇に居並ぶ阿弥陀如来坐像、不動明王立像、毘沙門天立像、四天王像四軀などいずれも鎌倉初期造立の諸仏をじっくりと拝観させて頂いた。
本堂の前から、左手の山腹の鬱蒼と茂る緑樹の上から顔を出している檜皮葺の三重塔が見える。 織田信長の焼き討ちを免れた三重塔だが、江戸末期には老朽化による破損が進み、昭和に入って三重目が消失したものの、昭和五十三年(1978)、西明寺の三重塔などを参考して復元された。 山を上って三重塔へ....鮮やかな青紅葉に包まれるように建つので塔全体が撮れないが、特に初重の軒反りが美しくなかなか趣がある。

二天門を通して眺めた本堂....二天門に下がる大きな草鞋は「七難即滅」を願うという意味らしい

本堂は七間堂の大型建築なのと堂前に樹木があるので、二天門の中からでも全体を撮れない

入母屋造檜皮葺の本堂(国宝)....弘安十一年(1288)建立で「大悲閣」と呼ばれる

本堂は鎌倉時代の代表的な和様建造物(中世天台仏堂の代表作)

正面に向拝が無い、「大悲閣」の扁額が掲げられている....大棟の3つの菊の御紋がある
 
桁行七間、梁間七間で、正面は全て蔀戸....梁間七間は手前三間が礼堂、次の二間が内陣その奥の二間が後戸となっている/側面は三間が板唐戸で四間が白壁....正面と礼堂部分にのみ切目縁を設けている

軒周りは二軒並行垂木、組物は出組で中備は間斗束、通肘木と丸桁の間に蛇腹支輪、隅柱を少し高くした「隅延び」....側面は三間が板唐戸、四間が白壁
   
樹林の中に建つ檜皮葺の三重塔(重文)....寛元四年(1246)の建立で高さは22.15m/初重には勾欄のない切目縁を巡らす....見え難いが二重と三重には組高欄付廻縁

初重の組物は三手先で三手目は尾垂木、中備は間斗束、軒天井と蛇腹支輪....中央間は板唐戸で脇間は連子窓
 
軒廻りは各重いずれも二軒繁垂木/二重と三重の組物は三手先、疎組で中備なし

三重塔は江戸後期に破損が進み、昭和に入って三重目が消失したが、昭和五十三年(1978)に復元

切妻造桟瓦葺の鐘楼...棟端に寺紋らしき文様が入った獅子口が乗る、拝みに切懸魚
 
梵鐘(銅鐘)は鎌倉時代乾元二年(1303)の鋳造/柱上に肘木を乗せて梁を支える
  
本堂前にある宝形造銅板葺の常香炉と回向柱/常香炉の傍に佇む寛文十年(1670)造立の石燈籠/手水鉢....獅子の水口から清水が

堂宇境内から眺めた入母屋造檜皮葺の二天門(重文)....大棟端に鳥衾付鬼板、拝みに梅鉢懸魚、妻飾は狐格子
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金剛輪寺-(1) (愛荘)

2018年08月13日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・愛知郡・愛荘町】奈良時代の天平十三年(741)、大仏を造立した聖武天皇(第45代)の勅願寺として行基菩薩によって開山され、天下泰平の祈祷寺として栄えた。 湖東三山のひとつ。
平安時代前期の嘉祥年間(848~951年)、延暦寺の慈覚大師円仁が来山して中興し、集まった学問僧に密教修法と聖法阿弥陀仏の信仰を教化、以後、天台密教の道場として大寺院となった。
平安後期の寿永二年(1183)、源義経が木曽義仲(源義仲)討伐の必勝祈願のために十数日参籠し、太刀を寄進した。 宗旨は天台宗で、本尊は天平期作の聖観世音菩薩像(秘仏)。 聖観世音菩薩像は行基菩薩が一刀三礼で彫ったとされる。 近江西国三十三観音霊場第十五番札所、神仏霊場百三十五滋賀三番札所、近江湖東二十七名刹霊場第十番札所。

大きな「下馬」の石碑がある総門に着く。 本柱の真ん中に「聖観音」の提灯が下がる総門は黒門と呼ばれる「高麗門」だ。 黒門をくぐると、鮮やかな緑のトンネルの中に自然石を敷いた参道が続く。
木漏れ日が降り注ぐ参道を進むと、江戸期建立の西谷堂、意外な場所に建つ赤門、その先には国指定の名勝庭園を有す明寿院の白門がある。 黒門と白門は建物の色から理解できなくもないが、赤門は? 腰高袖塀の土壁が茶色だから赤門と称しているのかな?
白門前の参道脇に、桃山期造立とされる「一富士・二鷹・三茄」を表した小さな庭があるが....発想力の乏しい自分には難しい。 白門前からさらに参道を進んで山腹に建つ本堂に向かうが、途中に、地蔵堂、不動堂(護摩堂)、千体地蔵、阿弥陀如来石仏が樹林の中にひっそりと鎮座している。
白門から約400m先に建つ二天門に着く。 室町前期建立の二天門には大きな草鞋が下がり、鎮座する天部像は纏った甲の彫刻はかなりリアルで迫力がある。

切妻造桟瓦葺の山門....黒門(惣門)と呼ばれ右側だけに小さな袖塀を設けている....左右に連なる築地塀は、3本の定規筋が入った筋塀

門前に立つ「天台宗 金剛輪寺」の寺号標石....昭和十二年(1937)の造立
 
山門は本柱の上に切妻屋根、それと直角に本柱と控柱の間に切妻屋根がある高麗門

門前の「下馬」の碑

山門近くから眺めた緑に覆われた境内....自然石を敷いた参道が続く

参道脇に建つ入母屋造桟瓦葺の受付棟と正面奥に西谷堂

路盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の西谷堂....江戸時代建立で本尊阿弥陀如来像を安置
 
参道途中に建つ切妻造桟瓦葺の赤門....袖塀を設けた薬医門で板扉

国指定の名勝庭園を有す明寿院への切妻造桟瓦葺の白門

白門前の参道脇にある桃山時代造立の門前庭....「一富士、二鷹、三茄」と表記されている

樹林の中に佇む切妻造銅板葺で照り屋根の稲荷社
 
本堂境内への参道入口...参道途中にこのような柵が設けられているのは珍しい
 
参道両側に千余の地蔵石仏が二天門近くまで整然と鎮座している/樹林の中に鎮座する地蔵堂

宝形造銅板葺の地蔵堂....正面は両開桟唐戸、脇間は蔀戸
 
内陣の蓮華座に鎮座する地蔵尊坐像/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗、中備は間斗束...側面に連子窓と板扉

宝形造銅板葺の不動堂(護摩堂)....平成十八年(2006)の建立、正面入口は蔀戸

参道脇に鎮座する千躰地蔵群....十三重石塔が立つ下段の千躰地蔵群
 
上段の千躰地蔵群....奥の覆屋に阿弥陀如来石仏が鎮座

弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来石仏....摩滅しているが舟形光背に月輪に刻まれた5つの梵字が並ぶ

樹林に覆われた地蔵石仏が鎮座する長い参道の奥の石段の上に二天門が見える

入母屋造檜皮葺の二天門(重文)....室町時代前期の建立で、元来は楼門だったが勾欄付上層が失われた

軒廻りは一軒疎垂木、組物はもとの腰組の二手先(当初材を用い、出三斗の2つ重ね)、中備は撥束....金剛柵と格子の中に甲を纏った天部像が鎮座....大きな草鞋は「七難即滅」を願う意味らしい

憤怒の形相で仏敵の侵入を払う守護神の阿形・吽形の天部像....左側は右手に金剛杵を持つ阿形の持国天像

右側は吽形の増長天像....纏った甲の彫刻が極めてリアルだ
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西明寺-(2) (甲良)

2018年08月11日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・犬上郡・甲良町】戦国時代の元亀二年(1571)、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたが、近江国の比叡山傘下の天台寺院に対しても焼き討ちを命じたことで、西明寺もその運命にあった。 しかし、寺僧が機転をきかし、山門近くの房舎を激しく燃やして全山炎上のように見せかけたため、焼き討ちを逃れたという。 そのため、本堂・三重塔・二天門が火難を逃れ現存している。 本堂は鎌倉時代初期、三重塔は鎌倉後期そして二天門は室町時代中期の建立。
江戸時代には徳川家の庇護を受けて徐々に復興された。 鎌倉時代建立の本堂と三重塔は釘を使用していない純和様建築で、いずれも国宝に指定されている。檜皮葺の本堂は国宝の第一号指定。

「蓬莱庭」奥の鬱蒼とした樹林を抜けると、急に明るい本堂境内に出る。
正面奥の土壇の上に優美な姿の檜皮葺の三重塔、手前左に豪壮な檜皮葺の本堂が鎮座している。 本堂は切目縁を廻らしているが、側面の途中で切れている。 切れているのは内陣と外陣の境で、天台系密教寺院で内陣と外陣の床仕様が異なる例の名残とのこと。 また、和様建築の本堂だが、側面には連子窓でなく禅宗様の花頭窓が設けられている。 興味深いのは蟇股で、身舎の正面と側面の透蟇股が微妙に異なり、さらに向拝水引虹梁の透蟇股は中に彫刻を施したものだが、3種類の蟇股があるのは修築した時代の違いを示すようだ。
お寺の方から「本堂と三重塔は釘を使用しておりません」との説明があり、長期保存を考えた古の工人達の知恵とされる。
三重塔は、本堂南側の土壇の上に、鮮やかな緑に抱かれるように建つが、本堂より少し高い位置に建てられているのは、山岳寺院ならではの堂宇配置を意識してだろうか? 前庭が広いので明るい雰囲気の中で塔全体が眺められ、檜皮葺の大きな軒反りと高い初重の軸部から洗練された様式美が感じられる。
本堂前の杮葺の二天門に、仏敵の侵入を防ぐ天部像が鎮座している。 像高約2mで、精緻で力強い造りの天部像は増長天と持国天らしいが、どちらがどちらなのか分からないそうだ。 天部像に見送られた後、石段の参道を下る。

「蓬莱庭」の樹林から抜けると、正面奥に優美な姿の三重塔、左に豪壮な本堂が建つ

樹林に囲まれた明るい堂宇境内に本堂(瑠璃殿)、三重塔、二天門、観林坊、鐘楼そして手水舎が建つ

入母屋造檜皮葺の本堂(瑠璃殿)(国宝)....鎌倉初期建立の和様建築で釘を1本も使用していない

軒廻りは二軒平行垂木、組物は出三斗、中備は3種類の透蟇股....正面七間は全て蔀戸だが、中央一間は色が異なり新しいようだ
  
向拝水引虹梁と身舎の蟇股の意匠が異なるのは修築時代の違いのようだ....また身舎側面もこれらと異なる/三間の向拝に擬宝珠のない親柱の登高欄/本堂縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊者像

側面の切目縁が途中で切れている....天台系密教寺院の中に外陣が板敷床、内陣が土間(石間)構造の本堂があり、土間部分に縁を設けない名残らしい....正面と側面の蟇股の意匠の違いが分かる

大棟に鳥衾付鬼板、拝懸魚は猪目懸魚、妻飾は豕杈首....側面の窓は連子窓ではなく禅宗様の花頭窓

本堂右手(南側)の土壇に建つ檜皮葺の三重塔(国宝)....鎌倉後期建立で本堂と同じく釘を使用していない
 
軒廻りは各重いずれも二軒平行垂木、組物は三手先、蛇腹支輪、中備は間斗束だが二重目は中央間のみ、また三重目には無い....各重に板唐戸と連子窓、二重と三重に組高欄

高さ約20mで、逓減率が小さく、二重目・三重目の塔身の立ちが低いのが特徴

本堂の右手の高台に鎮座する流造銅板葺の鎮守社

石造り玉垣に囲まれた石造宝塔(重文)....鎌倉時代嘉元二年(1304)の造立....投身軸部に四方仏が彫られ、基礎輪郭を巻いて格狭間を入れ、中に何かの浮彫りがある

切妻造桟瓦葺の鐘楼

切妻造銅板葺の手水舎と観林坊....右手は本堂

入母屋造桟瓦葺の観林坊....「西國薬師第三十二番霊場」と書かれた聯が掲げられている
 
本堂正面に建つ二天門と手水舎                     手水鉢の龍の水口

二天門越しに眺めた三重塔

入母屋造杮葺で八脚門の二天門(重文)....室町時代応永十四年(1407)建立

軒廻りは二軒平行垂木、組物は二手先、蛇腹支輪、中備は間斗束
 
二天門左右の金剛柵の中に鎮座する阿形吽形の天部像(増長天と持国天らしいが)....正長二年(1429)造立で、仏師法印院尋の作/火焔を付けた輪光を背負う天部像....像高は両者とも195cmで寄木造り、左の像は右手に戟を持つ(右の像は消失か)

二天門前の石段脇に佇む石燈籠....文化三年(1806)の造立

石段参道脇に鎮座する伝教大師像
 
十一面観音菩薩像....左手に未開蓮を差した水瓶を持つ/「開山休息石」と刻まれた石碑....三修上人が腰掛けた石らしい
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西明寺-(1) (甲良)

2018年08月09日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・犬上郡・甲良町】平安時代の承和元年(834)、三修上人が仁明天皇(第54代)の勅願により開創された古刹。 「湖東三山」の一つ(他の二山は金剛輪寺、百済寺)。
承和三年(836)に仁明天皇の勅願寺となり、寺領が寄進され、諸堂が建築された。 その後、平安時代から室町時代を通じて、国家鎮護・五穀豊穣・病気平癒等の祈願道場として、また僧侶育成の修行道場として栄え、山内は十七の諸堂と僧坊三百を有す大伽藍だったといわれている。 源頼朝が、戦勝祈願のため西明寺を訪れたと伝える。
宗旨は天台宗で、本尊は平安時代作の薬師如来立像。 本尊は、比叡山延暦寺の根本中道の本尊薬師如来像と対面するように安置されている。 西国四十九所薬師霊場第三十二番札所、神仏霊場百三十六滋賀四番札所、近江湖東二十七名刹霊場第八番札所。

「下乗」の碑が立つ総門をくぐって境内に....直ぐ右手の木立の中に簡素な閻魔堂が建ち、腰高格子戸から覗くと中に前垂をした閻魔像が鎮座。 少し先の左手に建つ「不断桜」がある庭園への横長の門を入ると、簡素な竹塀で囲まれた老木の「不断桜」があり、案内板に「十一月満開」とある。
「不断桜」から、眩しいほどの深緑と苔に包まれ、自然石をゆったりと並べた緩やかな参道を進む。 鬱蒼とした樹林の中に続く参道の傾斜が徐々に厳しくなり、苔生した石段と山城のような石垣が山岳寺院の風情を感じさせる。
石段を上りつめると、左手に黄土色の築地塀に囲まれた本坊がある。 順路表示にしたがって、本坊の門から江戸初期に造営された「蓬莱庭」に向かう。 本坊前の小さな門をくぐって庭園に....手前に鶴島と亀島が浮く心字池が、その先には、山の傾斜を巧みに生かして薬師三尊や十二神将をあらわした石組を配した庭が広がる。 心字池の左奥に架かる石橋を渡って上の庭園に....美しい苔庭が広がり、樹林の中に飛石の参道が本堂境内まで続いている。

切妻造本瓦葺の惣門....二軒並行垂木で柱上に大斗肘木
 
惣門は白壁の袖塀を設けた四脚門....梁に板蟇股、柱上に大斗肘木が乗る/「下乗」の碑....「籠を下りる」の意で、境内への車馬の乗入れ禁止
 
切妻造桟瓦葺の閻魔堂....総門右手の木立の中に建つ/前垂をして瑟瑟座に鎮座する閻魔大王像

天然記念物「不断桜」がある庭園入口....切妻造桟瓦葺の横長の門

「不断桜」....樹齢250年の高山性の桜で、9月上旬から咲き始め11月に満開になるようだ

参道脇の木立の中にある古井戸....白い前垂を付けた数基の五輪塔などが置かれている

平安初期に造営された静寂に包まれた表参道....深緑と苔が山岳寺院の風情を醸し出している

鬱蒼とした参道には仏道世界の厳かな空気が漂っている
 
参道脇の石垣の下に佇む板碑形石仏と五輪塔/山岳寺院らしい雰囲気が漂う苔生した石段と山城のような石垣積

石段上の黄土色の築地塀の内側に本坊と名勝庭園の「蓬莱庭」がある

本坊の門前から眺めた本堂・三重塔へ続く石段....石段奥上の建物は二天門

拝観受付傍の切妻造桟瓦葺の本坊の門....門柱に「西國薬師第三十二番霊場」の聯

本坊と白壁の築地塀に囲まれた「蓬莱庭」(国指定文化財)への入口の桟瓦葺門

池泉観賞式の庭園「蓬莱庭」....江戸時代延宝元年(1673)、望月越中守友閑が復興記念として造営....斜面に薬師三尊と十二神将とその眷属を表す石組がある
 
「蓬莱庭」の入口から園内に敷かれた自然石の飛石....入口近くの築地塀傍に佇む八角石燈籠/鎌倉時代造立の八角石灯籠は石屋弥陀六作
 
池泉回遊式庭園....左手は室町時代作の石燈籠(と思う)       心字池の左奥に架かる石橋

上の庭園から眺めた心字池...池の中央に鶴島、右手に亀島がある
 
苔生した上の庭園....飛石の参道脇に地輪が苔に覆われた五輪塔が佇む

緑の絨毯を敷いたような上段の庭園
 
築山奥の杉木立の中に鎮座する龍神社/苔生した切妻造竹葺の覆屋に流造のお社が鎮座

「蓬莱庭」を抜けると本堂境内に出る
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圓成寺の春日堂・白山堂

2018年08月07日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・奈良市】現存する最古の春日造の社殿。
鎌倉時代の安貞二年(1228)の再建とされる。 安貞二年に行われた春日大社大造営の際、当時の春日大社の神主・藤原時定が、それまでの旧社殿の一間社春日造の春日社と白山社を圓成寺に寄進したものとも考えられているようだ。
平安時代の寛平元年(889)に創建(諸説あり)されたとされる圓成寺に鎮座する社殿で、国宝に指定されている。
春日堂と白山堂はもともと春日大明神・白山大権現を祀る春日社・白山社と呼ばれていた社殿だが、明治初期の神仏分離令によって起こった廃仏毀釈による破壊の嵐から免れるため、仏堂風に「堂」と称し、現在に至る。 春日堂と白山堂は、表は入母屋造、裏は切妻造の桧皮葺屋根で、大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る。 軒下は、中備蟇股、猪目懸魚、勾欄、斗栱などは鎌倉初期の社殿の特色を持つ。
白山堂の右隣に鎮座する一間社春日造の宇賀神本殿(重要文化財)は覆屋で保護されているのに、国宝である春日堂と白山堂が何故に露座なのか....凄く気になった。

鎮守社の春日堂・白山堂(いずれも国宝)....安貞二年(1228)の奈良春日大社造営の際、当時の大社神主藤原時定卿から寄進された旧社殿

檜皮葺屋根は切妻造で、妻入り母屋の前面に向拝を設けた形式....いずれも一間社春日造で棟木に外削ぎの反った千木と3本の堅魚木が乗る

拝に猪目懸魚、向拝柱上に平三斗、水引虹梁上に本蟇股が乗る....手前の石燈籠は享保十五年(1730)の造立

主屋と向拝はいずれも一軒繁垂木、正面に擬宝珠親柱の登勾欄と母屋に組勾欄と脇障子

白山堂右隣の覆屋に鎮座する一間社春日造の宇賀神本殿(重文)
 
向拝に鬼板を乗せた軒唐破風を設けて荘厳にしている/向拝柱上に貫のように十字に肘木を乗せ巻斗で水引虹梁と丸桁を支える

本堂前から眺めた鎮守社境内....左に春日堂・白山堂、右手には白壁の拝殿が建つ
 
入母屋造桧皮葺の春日堂・白山堂拝殿....江戸時代延宝三年(1675)建立で正面と側面に槫縁を巡らす
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淨眞寺の石仏

2018年08月05日 | 石仏巡り

【東京・世田谷区】浄眞寺では「参道脇」、「六地蔵尊エリア」、「観音堂の前」そして「仁王門の傍」の4ヶ所に多くの石仏が鎮座している。
総門前の参道脇に三界万霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石仏が鎮座し、参詣者を迎えている。 造立年不明が多いが、ひときわ大きな笠付文字庚申塔は江戸時代初期の造立で、三猿が浮き彫りされ「奉寄進庚申供養」と刻まれている。
総門をくぐって直ぐ右手の少し奥まった所に、しっかりした基壇と台座の上に、赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊像が鎮座....六地蔵尊像までの参道両側には参詣者を導くように多くの地蔵石仏が並んでいる。
開山堂境内に建つ三十三観音堂の前の低い石垣の土に、舟後光型観音石仏が横一列に整然と鎮座しているが、その光景は壮観だ。 三十三観音堂の直ぐ前には、右に舟後光型千手観音像、左に丸彫りの如意輪観音像が鎮座しているが、千手観音像は約300年前の元禄初期の造立。
豪壮な仁王門の右傍に、合掌する青面金剛像が浮き彫りされた4基の駒型庚申塔が仁王門を見守るように鎮座している。 造立年が分かる3基はいずれも江戸初期のもの。
境内にたたずむ多くの石仏は江戸初期の造立のものが多いようだ。

参道脇に佇む8基の石仏..その中に4基の庚申塔がある
 
右は延宝八年(1680)造立の笠付庚申供養塔(日月瑞雲、3猿)....左は風化が激しくて不詳だが庚申塔と思う/駒型青面金剛庚申塔(2鶏,3猿)....造立年不明

総門を入って直ぐ右手の境内に鎮座する地蔵尊像の石仏群
 
奥正面の基壇上の台座に鎮座する六地蔵尊像/六地蔵尊像に向かって右側に錫杖と如意宝珠を持つ、あるいは合掌する地蔵石仏7体が鎮座
  
円光を背負い右手に錫杖、左手に宝珠をもって蓮華座に鎮座する地蔵菩薩像/半跏踏下坐風に鎮座する地蔵石仏

三十三観音堂前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群....石仏に守られるように木立の中に三十三観音堂が建つ

三十三観音堂向拝前に鎮座する如意輪観音像と千手観音像
 
造立年不明の丸彫りの如意輪観音菩薩像/元禄四年(1691)造立の舟後光型千十観音像(千手千眼観自在菩薩像)

「紫雲楼」とも呼ばれる仁王門の右傍に4基の庚申塔が鎮座

仁王門を向いて佇む4基の駒型青面金剛庚申塔....画面にないが右に「玻璃摩権現」の刻の石柱が立つ
 
駒型靑面金剛庚申塔(日月瑞雲、3猿)....元禄三年(1690)造立/駒型青面金剛庚申塔(邪鬼、3猿)....享保四年(1719)造立
 
駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、3猿)..造立年不明/駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)....享保六年(1721)造立
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浄眞寺-(2) (東京)

2018年08月03日 | 寺社巡り-東京

【東京・世田谷区】浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって伽藍配置がなされ、西面する穢土(此岸)を表す本堂に対面して浄土(彼岸)の世界を表す三仏堂(中品堂・上品堂・下品堂)が横並びで建つ。 三仏堂にはぞれぞれ三体、計九体の印相の異なる丈六の阿弥陀如来像が祀られている。 このことから「九品仏」が浄真寺の通称となっている。 九体の阿弥陀如来像が鎮座する阿弥陀堂は京都の浄瑠璃寺にも見られる。

三十三観音堂から参道に戻って仁王門に進むと、金剛柵の奥に鎮座する仁王像が迎えてくれる。 「紫雲楼」と呼ばれる重厚な仁王門、そして仁王門近くに建つ約300年前建立の鐘楼、いずれも組物や精緻な彫刻が実に素晴らしい。
仁王門をくぐり、心を躍らせながら右手の本堂後方にある「サギ草園」に....柵から身を乗り出して「サギ草園」を覗き込んで、茫然自失! 可憐な白い花が咲き誇っているはずだったが....目を凝らして探して葉の中に二輪だけ見つけた。 説明板には「花期は7月中旬から9月上旬で、地域によって違う」とあるが、8月上旬なのに残念だった。
気を取り直して三仏堂に向かう。 三仏堂には三体ずつ、多くの化仏をつけた金色の舟形光背を背負う丈六の阿弥陀如来像が鎮座している。 阿弥陀如来像の螺髪はいずれも鮮やかな青色だが、中国の寺院では青い螺髪の如来像が鎮座していることが多いので、これが本来の如来像のお姿なのだろう。
三仏堂の上品堂と中品堂の間の少し奥まったところに「阿育王塔」という三重塔が鎮座....大きな軒反りと均整のとれた石塔は印象に残る素晴らしいものだが、殆どの参詣者は素通りなので少し寂しい気がした。

入母屋造銅板葺で三間一戸の仁王門(紫雲楼)....寛政五年(1793)建立で、上層に「紫雲楼」の扁額

軒廻りは二軒繁垂木、上層の組物は三手先(二手目と三手目は尾垂木)、中備なし、また上層には格狭間入り桟唐戸と連子窓があり、逆蓮頭親柱勾欄付廻縁を設けている
 
廻縁を支える腰組は三手先で中備あり....中備は頭貫上は脚間に彫刻がある/一戸の中央の虹梁に精緻な虎と龍の彫刻が乗る
 
楼門で凄みを効かせる阿形吽形の仁王像....楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩を安置している

仁王門の右脇に佇む4基の駒型青面金剛庚申塔....一番奥の石柱には「玻璃摩権現」と刻む

入母屋造銅板葺の鐘楼....宝永五年(1708)の建立

軒廻は二軒扇垂木、組物は三手先で中備は台輪上の中央に詰組と両側に蟇股

木鼻と飛貫に獅子・龍・兎・虎・鳥・花などの精緻な彫刻が施されている....梵鐘は深沢村の谷岡重頼が父母の菩提のために寄進したもの
 
本堂後方に造営されている「サギ草園」....浅い池に浮かぶ小島にサギ草が植えられている/「サギ草園」の傍にある「サギソウ(鷺草」の説明板

「サギ草園」の全景....手前の小島に白い花が二輪だけ咲いている
 
参道脇に佇む五重の塔燈籠....初層軸部は後補のようだ/前庭に佇む石灯籠....笠から上は古そうで、火袋から下は後補とみられる
 
本堂傍に聳える都天然記念物の「九品仏の銀杏」/本堂の擬宝珠勾欄付切目縁を支える縁束と床下の亀腹....縁束の陰影と青モミジの美しいコラボ

本堂前にある天保年間(1830~1844)造立の仏足石....中央に千福輪相(法輪)が刻

寄棟造銅板葺で小棟造りの本堂(龍護殿)....元禄十一年(1698)の建立

正面五間で中央間は両折両開で格狭間を入れた桟唐戸、内側に明障子....「龍護殿」の扁額
 
内陣に鎮座する法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像/本堂の回縁から眺めた庭園内に建つ宝形造銅板葺の五社殿

本堂に対面して南側に建つ寄棟造銅板葺の下品堂(左)....三仏堂はいずれも元禄十一年(1698)の建立

寄棟造銅板葺の上品堂(中)

上品堂に安置されている弥陀定印を結ぶ三体の阿弥陀如来坐像....多くの化仏をつけた金色の舟形光背を背負う

上品堂と中品堂の間に立つ三重層塔は「阿育王塔」
 
阿育王塔は天保年間(1830~1844)造立....阿育王は紀元前三世紀のインドの王で仏教を国教とし、慈悲の教えにより国を統治した

本堂に対面して北側に建つ寄棟造銅板葺の中品堂(右)

開山と歴代上人の御廟....正面の無縫塔は「珂碩上人之塔」
 
前庭の亀甲積基壇上に立つ石塔...宝塔(上部)と五輪塔(下部)を組み上げた形に見える/地蔵堂に鎮座する地蔵尊像....花頭曲線の入り口から拝観
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浄眞寺-(1) (東京)

2018年08月01日 | 寺社巡り-東京

【東京・世田谷区】江戸時代の延宝六年(1678)、越後国村上泰叟寺の高僧・珂碩上人を開山として創建された。 この地は、室町時代の16世紀中頃に世田谷吉良氏が築いた奥沢城があった場所で、豊臣秀吉による天正十八年(1590)の小田原城討伐後に廃城となった。 江戸時代の寛文五年(1675)、当地の名主七左衛門が奥沢城跡を寺地として貰い受けた。
浄土宗七大本山の一つの港区の増上寺の別院。 宗旨は浄土宗で、本尊は九品阿弥陀如来像。

某雑誌に「サギ草園」があるお寺として世田谷の浄眞寺が紹介されていて、7月末頃が見頃とあったので、2年前の8月上旬に訪問した。
東急大井町線九品仏駅から浄眞寺に向かうと、入り口に大きな「浄眞寺参道」と刻まれた標石が立つ松並木の参道に着く。 切石敷の参道を少し進むと「禁銃獵 警視廳」と刻まれた珍しい石碑が佇んでいる。 明治三十二年の銘があるので、この頃まで世田谷で猟銃による狩りが行われていたのだろう。
総門の少し手前の参道脇に庚申塔や供養塔など8基の石仏が整然と並んで参詣者を迎えている。
筋塀に挟まれて建つ重厚な総門は高麗門で、柱に「九品佛浄眞寺総門」の大きな聯が下がる。 総門をくぐって緑に覆われた境内に入ると空気が一変し、厳かな雰囲気に包まれている。 直ぐ右手に六地蔵尊像など多くの地蔵石仏が鎮座している。 その少し先の参道脇に建つ閻魔堂には、閻魔王とその妹の奪衣婆が憤怒の形相で鎮座しているが、地獄の王の閻魔王より奪衣婆の気迫に凄みがある。
緑に覆われた参道をさらに進むと丁字になっていて、右手に簡素な高麗門の東門、左手奥には木立の間に豪壮な楼門が聳えている。 楼門手前の右側は開山堂の境内で、門をくぐると正面に開山堂、その左手の鬱蒼とした木立の中に観音堂が鎮座している。 観音堂の前には三十三観音石仏が整然と佇み仏堂を守っている。 開山堂境内の手水舎に、真っ白いサギ草の花のオブジェの水口があり、「サギ草園」を鑑賞する楽しみが膨らんできた。
 
松並木の参道の入口に大きな「浄真寺参道」の標石が立つ/参道脇に立つ「禁銃獵 警視廳」の碑....明治三十二年(1899)の造立

参道の左手に佇む三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石仏
 
文政五年(1822)造立の笠付三界萬霊塔/左は明和六年(1769)造立の角柱供養塔で正面に「信濃善光寺四十八願〇」の刻...中央は文化十一年(1814)造立の笠付供養塔で正面に「善光寺百番供養」の刻...右は文化八年(1811)造立の文字庚申塔

落ち着いた雰囲気の門前..山門左右に伸びる本瓦葺屋根の築地塀は5本の筋が入った筋塀

通用口のある袖塀を設けた切妻造銅板葺の総門は江戸末期の建立....「般舟場」の扁額、大きな「九品佛浄眞寺総門」の聯が下がる

総門は本柱と控柱間に切妻屋根がある高麗門

総門から眺めた緑に覆われた境内....右手の建物は閻魔堂

総門を入って直ぐ右手に並んでいる地蔵石仏群....一番奥の基壇上に帽子を被り前垂を付けた六地蔵尊像が鎮座

入母屋造銅板葺の閻魔堂

閻魔堂に鎮座する憤怒の形相の閻魔王像と右手に妹の奪衣婆(葬頭河婆)像
 
地獄の王の閻魔王像                  三途の川で人の衣を剥ぐ鬼女の奪衣婆
 
閻魔堂の左手に鎮座する三界萬霊塔....塔上に地蔵尊像が沈砂し、台座に「十夜講」とある
 
切妻造桟瓦葺の東門....「九品佛淨眞寺東門」の札が掛かった東門/内側左右の控柱に銅板葺屋根を設けた高麗門

東門から眺めた境内....左は庭園内の石塔、正面奥に仁王門、右は開山堂境内の門

開山堂境内前の参道を挟んで佇む石造りの宝塔と石造り十三重塔
 
十三重塔は塔身に四方仏、基礎部に輪郭を巻いて格狭間を設けている/全体的に装飾性の高い石造宝塔....軸部四方に扉が刻まれている

開山堂と三十三観音堂がある境内の入口に建つ切妻造銅板葺の薬医門
 
切妻造銅板葺の手水舎....柱は大きな転びになっている/手水鉢に鷺草の花のオブジェが置かれている

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の開山堂..開山珂碩上人像を安置(万治元年(1658)上人自彫)

整然と鎮座する三十三観音石像に守られて後方の木立の中に建つ三十三観音堂
 
観音堂前に立つ霊場供養塔....明治十四年(1881)の造立で「西国三拾三番札所供養塔」の刻/三十三観音堂....二軒並行垂木、正面は中央間に桟唐戸、脇間に花頭窓、側面一間は蔀戸

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の三十三観音堂....江戸時代末期の建立
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