【山口・萩市】江戸時代末期の天保十三年(1842)、吉田松陰の叔父の玉木文之進が長州萩城下の松本村(現萩市)の自宅の八畳一間で私塾を開いたのが始まり。 玉木文之進は私塾を「松下村塾」と名付け、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受入れ、少年だった松陰も入門した。
松陰の外伯父・久保五郎左衛門が継承した後の安政四年(1857)、萩(長州)藩の藩校明倫館の塾頭を務めていた松陰(28歳)が引き継ぎ、現存する塾舎で主宰した。 松陰が主宰した私塾は僅か1年余りだったが、明治維新の原動力となって活躍した多くの逸材を輩出し、近代日本国家の基礎を築いた。
幕末建立の塾舎は松陰神社の境内にある。 裳腰付き切妻造瓦葺の木造平屋建ての建物で、八畳の講義室と十畳半の控えの間で構成。 十畳半の控えの間は、塾生が増えて手狭になったため、安政四年(1857)に松陰と塾生の共同作業によって増築されたもの。 塾舎は平成27年(2015)、吉田松陰幽因ノ旧宅とともに「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。
松下村塾の直ぐ傍に、松陰の生家・杉家の旧宅(吉田松陰幽因ノ旧宅)があり、その一角に松陰が幽因された三畳半の部屋がある。 また松陰神社は、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって請願し、萩城内の鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築、土蔵造りの本殿に改築されて明治四十年(1907)に創建された。
大きな基台上に石燈籠が置かれた松陰神社境内への入り口
2棟の切妻造瓦葺き木造平屋建てを連ねた造りの塾舎(約50平方m)
当初からあった8畳の講義室と後に松陰が増築した10畳半(4畳半,3畳2室)の控えの間で構成/簡素な棟門を設けている
増築された控えの間..明治維新の原動力となり明治新政府に活躍した門下生の写真が飾られている/塾舎の入口に「松下村塾」の木札が掛かる
創立当初からあった8畳の講義室..明り障子前に切目縁が設けられている
切妻造桟瓦葺で妻に桟瓦の裳腰を設けている
講義室には松陰の石膏像と床の間に肖像画の掛け軸が掛けられている
松陰の生家・杉家の家族が住んでいた「吉田松陰幽囚ノ旧宅」
生家の左側のこの部屋(三畳半)に密航に失敗した松陰が幽因されていた
参道に立つ松陰神社の神明鳥居 境内に佇む石燈籠
松陰神社の社殿前に立つ明神鳥居..紙垂としめのこを付けた注連縄が掛けられている
入母屋造の拝殿..萩城内の鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築、土蔵造り本殿に改築..現社殿は昭和三十年(1955)竣功
拝殿内部..奥の本殿は明治四十年(1907)建立で、維新の先駆者・吉田松陰を祀る
拝殿前に鎮座する精悍な姿の獅子の阿形吽形狛犬/境内に立つ「明治維新胎動之地」の石碑..昭和四十三年(1968)造立
末社の松門神社(創建当時の松陰神社の土蔵造りの社殿を移築)..昭和三十一年(1956)創建で、松下村塾の塾生・門下生を祀る