何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

松下村塾 (萩)

2017年10月28日 | 史跡探訪-日本編

【山口・萩市】江戸時代末期の天保十三年(1842)、吉田松陰の叔父の玉木文之進が長州萩城下の松本村(現萩市)の自宅の八畳一間で私塾を開いたのが始まり。 玉木文之進は私塾を「松下村塾」と名付け、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受入れ、少年だった松陰も入門した。
松陰の外伯父・久保五郎左衛門が継承した後の安政四年(1857)、萩(長州)藩の藩校明倫館の塾頭を務めていた松陰(28歳)が引き継ぎ、現存する塾舎で主宰した。 松陰が主宰した私塾は僅か1年余りだったが、明治維新の原動力となって活躍した多くの逸材を輩出し、近代日本国家の基礎を築いた。 

幕末建立の塾舎は松陰神社の境内にある。 裳腰付き切妻造瓦葺の木造平屋建ての建物で、八畳の講義室と十畳半の控えの間で構成。 十畳半の控えの間は、塾生が増えて手狭になったため、安政四年(1857)に松陰と塾生の共同作業によって増築されたもの。 塾舎は平成27年(2015)、吉田松陰幽因ノ旧宅とともに「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。
松下村塾の直ぐ傍に、松陰の生家・杉家の旧宅(吉田松陰幽因ノ旧宅)があり、その一角に松陰が幽因された三畳半の部屋がある。 また松陰神社は、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって請願し、萩城内の鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築、土蔵造りの本殿に改築されて明治四十年(1907)に創建された。

大きな基台上に石燈籠が置かれた松陰神社境内への入り口

2棟の切妻造瓦葺き木造平屋建てを連ねた造りの塾舎(約50平方m)
 
当初からあった8畳の講義室と後に松陰が増築した10畳半(4畳半,3畳2室)の控えの間で構成/簡素な棟門を設けている
 
増築された控えの間..明治維新の原動力となり明治新政府に活躍した門下生の写真が飾られている/塾舎の入口に「松下村塾」の木札が掛かる

創立当初からあった8畳の講義室..明り障子前に切目縁が設けられている

切妻造桟瓦葺で妻に桟瓦の裳腰を設けている

講義室には松陰の石膏像と床の間に肖像画の掛け軸が掛けられている

松陰の生家・杉家の家族が住んでいた「吉田松陰幽囚ノ旧宅」

生家の左側のこの部屋(三畳半)に密航に失敗した松陰が幽因されていた
 
参道に立つ松陰神社の神明鳥居                    境内に佇む石燈籠

松陰神社の社殿前に立つ明神鳥居..紙垂としめのこを付けた注連縄が掛けられている

入母屋造の拝殿..萩城内の鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築、土蔵造り本殿に改築..現社殿は昭和三十年(1955)竣功

拝殿内部..奥の本殿は明治四十年(1907)建立で、維新の先駆者・吉田松陰を祀る
  
拝殿前に鎮座する精悍な姿の獅子の阿形吽形狛犬/境内に立つ「明治維新胎動之地」の石碑..昭和四十三年(1968)造立

末社の松門神社(創建当時の松陰神社の土蔵造りの社殿を移築)..昭和三十一年(1956)創建で、松下村塾の塾生・門下生を祀る
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萩反射炉 (萩)

2017年10月25日 | 史跡探訪-日本編

【山口・萩市】江戸時代後期、萩藩が軍事力を強化するため西洋式鉄製大砲を鋳造する反射炉(金属溶解炉)の導入に取り組み、安政三年(1856)に築造した。
古文書から、雛型(試験炉)として築造して大砲鋳造を試みただけで、本格的な反射炉の築造には至らなかったとされる。 オランダの技術書(鉄製大砲鋳造法)によると反射炉は高さは約16メートルであることから、高さが10.5メートルしかない萩反射炉では1200度以上の高温を得るに必要な量の空気は送り込めず、本格的な稼働はできなかったとみられている。
現存する遺構は反射炉の煙突にあたる部分で、安山岩積み(上方一部煉瓦積み)で築造されている。 また、上方で二股に分かれている構造だが、それぞれ独立した2本の煙突になっている。
萩反射炉は「萩の産業化遺産群(5資産)」の一つで、かつ、日本に3か所(他に韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県))ある反射炉の遺構の一つであり、産業技術史上、非常に貴重な遺跡とされる。 平成27年7月、萩の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」は世界遺産に登録された。

岩石と煉瓦を積み上げた煙突の遺構を眺めていると、迫りくる西洋諸国に危機感を感じた萩藩(長州藩)が、西洋式鉄製大砲の鋳造に懸命に心血を注いでいる様子が浮かんでくるようだ。

入口に「祝世界遺産登録」の看板が置かれている

現在残っている遺構は萩反射炉の煙突にあたる部分

煙突の高さは10.5mで、基底部は前面5.45m、側面3.8m
 
長方形の煙突は独立した2本、下部に2つの煙道孔がある/煙道孔の周りの石積の状態から手前に燃焼室があったことが窺える
 
後部の2つの穴は溶解した鉄を取り出す「出湯口」(注孔)と「のぞき窓」があったところか/煙突は安山岩積みで、上方の茶色部は煉瓦積み
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錦帯橋 (岩国)

2017年10月22日 | 史跡探訪-日本編

【山口・岩国市】江戸時代初期の延宝元年(1673)、岩国藩3代藩主吉川広嘉によって創建された五連の木造橋。 中央3つのアーチ橋と両端の桁橋(反橋)を四つの橋台(橋脚)に連ねた構造で、力学的に優れているとされる。
初代藩主吉川広家が横山山頂に岩国城を築城して以来、岩国城と城下町を繋ぐ橋が川幅200メートルの錦川に架けられたが、洪水により度々流失していた。 3代藩主吉川広嘉は洪水に耐えられる橋を模索する中で、明の帰化僧から杭州の西湖に六連のアーチ橋があることを知り、これを参考にアーチ橋を基本構想とし橋脚を強固な石垣にして建造した。 翌年の延宝二年(1674)、洪水によって流失したが、3年後に橋脚の敷石を強化して再建され、その後は20年ごとに架け替えられてきた。
錦帯橋は昭和二十五年(1950)のキジア台風の洪水で橋脚を含めて完全に崩壊したが、それまでの276年間は流失せずにその姿が保たれた。 現在の橋は昭和二十八年(1953)に復元されたもので、長さは橋面に沿って210m(直線で193.3m)、幅は5m。

錦帯橋について事前に調べたら、現在の橋は自分が生まれた頃に再建されたものだと知って期待が少し薄れた。 しかし、美しい山水の中、ゆったりと流れる錦川の広い河原に立って錦帯橋を眺めたら、期待が一変した。 錦川に架かる錦帯橋....石垣の橋脚を跨いで5つのアーチ型の木造橋が連なる姿は実に美しく、遺構の趣きを感じさせる。 64年前再建の橋とはいえ、当時の姿がそのまま保たれていて往時を彷彿させ....橋を渡る武士や商人たちの姿が目に浮かんだ。

錦川の河原から眺めた5連の錦帯橋..川向こうの横山の山頂に建つのは岩国城

錦帯橋は木造で江戸時代延宝元年(1673)、岩国藩主吉川広嘉によって創建された

5連の錦帯橋は中央の3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋

強固な石垣で造られた4つの橋台(橋脚)..橋台の高さは6.64m
 
5連の木造橋の個々長さは中央3連のアーチ橋が35.1m、両端の桁橋は34.8m
 
アーチ橋の複雑な構造..頑丈な組木技法で橋上からの圧力で更に強度が増す仕組み/荷重を桁で支える城下町側の桁橋(反橋)

岩国城側の岸辺から眺めた錦帯橋..手前の松は「槍倒しの松」とよばれる

錦帯橋から眺めた錦川..奥の錦城橋との間で鵜飼が行われる..遊覧船が係留しているところは鵜飼公園
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安倍文殊院の石仏

2017年10月19日 | 石仏巡り

【奈良・桜井市】切石敷の参道の両側と、境内の数カ所に多くの石仏が鎮座している。
不動堂の後方には石仏エリアがあり、覆屋の雛壇には多くの石仏が整然と鎮座していて壮観だ。 この石仏群は、江戸時代にこの寺の安倍山境内にひらかれた四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所の各霊場の御本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものとのこと。
覆屋前には「法界」と刻まれた台座の上に凛とした修行姿の弘法大師像があり、覆屋と弘法大師像との間には諸仏の石仏を嵌め込んだ自然石型墓碑が一列に並んでいる。
殆どの石仏には白系の前垂がつけられている。 石仏は殆ど江戸時代の造立のようだが、前垂で隠れているのかもしれないが、どの石仏も造立年号が確認できないのが残念だった。

切石敷の参道の両側に鎮座して参詣者を迎える石仏たち
  
聖観音菩薩と地蔵菩薩/十一面観音菩薩(と思う)と地蔵菩薩/十一面観音菩薩(と思う)と地蔵菩薩
 
不動明王と地蔵菩薩        火焔光背を背負った不動明王

「閼伽井古墳」(東古墳)の入口の参道脇に佇む4体の石仏..上部が湾曲して手前にせり出している起舟後光型石仏

石仏エリアに鎮座する石仏群..江戸時代に安倍山境内に開かれた四国八十八ヶ所&西国三十三ヶ所の各霊場御本尊仏を安置
 
各霊場御本尊仏石への参道に鎮座する石仏..起舟後光型や板碑型など

弘法大師像後方の覆屋に鎮座する各霊場の御本尊とされる仏石群
 
凛とした修行姿の弘法大師像  覆屋の雛壇に鎮座する四国八十八ヶ所&西国三十三ヶ所各霊場の御本尊仏
  
右手の与願印と肉髻螺髪から丸彫りの釈迦如来立像か..台座に「法界」の刻/空海像とみられる石仏を嵌め込んだ自然石型墓碑/十一面観音像と見られる石仏を嵌め込んだ自然石型墓碑
  
自然石型墓碑..刻まれている種子は「諸仏一切結合」とみられる、月輪の中は菩薩像か/宝冠を乗せた菩薩像とみられる石仏を嵌め込んだ自然石型墓碑/円頂から地蔵菩薩像とみられる石仏を嵌め込んだ自然石型墓碑

確か東古墳背後の山上にあった歴代住持の墓所(と思う)..五輪搭、無縫塔、舟型石仏など様々な墓碑が並ぶ
  
墓所入口に佇む造立年不明の舟形地蔵石仏..上部に地蔵の種子、合掌する地蔵菩薩像が肉彫り/明歴四年(1658)造立の五輪塔を線刻した舟形光背型石仏/造立年不明の五輪塔を線刻した舟形光背型石仏..各輪に種子が刻まれている
  
櫛型の六字名号塔/「釋経善」と刻まれた櫛型石碑/円頂から左手に宝珠を持つ地蔵尊坐像と思う
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安部文殊院-(2) (桜井)

2017年10月16日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】室町時代後期の永禄八年(1565)、戦国大名・松平久秀の兵火で全山焼失するが、巨大な獅子に騎乗した文殊菩薩像とその脇侍は火災を逃れ、現在に法灯をつないでいる。 安部文殊院の文殊菩薩像は日本最大で、日本三文殊の一つに数えられる。
境内には飛鳥時代に造られた2つの東西古墳があり、西古墳は倉梯麻呂の墳墓とされ、切石積の玄室には不動明王像が祀られている。 東古墳は「閼伽井古墳」(「閼伽井の窟」)といわれ、巨石を組んだ石室には泉が湧き出ていて、 霊水「閼伽水」(別名智恵の水)と呼ばれる。
平安時代に陰陽師安倍晴明がこの地で陰陽道の修行をしたとされ、展望台には「安倍晴明公 天文観測の地」の石碑と安倍晴明堂がある。

西古墳から境内の東に進って進む....南側に大きな文殊池が広がり、水面に浮かぶように相輪を乗せた金色仕上げの六角堂が建つ。 安倍仲麻呂像や安倍晴明像などを祀る金閣浮御堂(仲麻呂堂)で、水面に逆対照で映る姿が美しい。
境内の東側には、不動明王を祀る不動堂、縁結びの神として知られる白山菊理姫を祀る室町後期建立の白山堂、霊水とされる「閼伽水」が湧き出ている「閼伽井の窟」といわれる東古墳などがある。
門の意味が分からない冠木門式の朱塗りの「合格門」をくぐって展望台に.....展望台は陰陽師安倍晴明が天文観測をしたとされる地で、安倍晴明堂が建つ。 展望台からは境内が一望でき、文殊池に浮かぶ安部文殊院のランドマークである金閣浮御堂の姿が美しい。

昭和六十年(1985)建立の金閣浮御堂(仲麻呂堂 )
 
文殊池に浮かぶ金閣浮御堂    安倍仲麻呂公や安倍晴明公など安倍一族を祀る

頂部に相輪を乗せた宝形造本瓦葺の六角堂

文殊池の東の畔に建つ不動堂..左奥は御供処

昭和六十二年(1987)建立の露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の不動堂..堂前に錫杖と石燈籠が佇む
 
昭和五十七年(1982)造立の十一面観音菩薩像/円光を背負い、左手に蓮花を差した水瓶を持つ

白山堂..鎮守社で白山菊理姫を主神として祀る..縁結びの神として知られる

白山堂は室町時代後期の建立(重要文化財)

美しい曲線を持つ流造柿葺屋根で、大きな唐破風向拝がある社殿
 
向拝前の明神鳥居には「白山大権現」の額がある/山裾の傾斜地の乱積石垣の上に鎮座する白山堂..丹色の瑞垣で囲まれている

飛鳥時代造成の閼伽井古墳(東古墳)..「閼伽井の窟」といわれ、湧き出る泉は「閼伽水」(別名智恵の水)と呼ばれる

切石積みの閼伽井古墳の中に白い前垂をした十一面観音と地蔵菩薩(と思う)の石仏が鎮座
  
古墳には何故か石仏の脇に狸像が置かれている/閼伽井古墳の脇にある石碑..左は墓碑のようだが右は判読できず不明

四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所の各霊場御本尊仏の石仏が一同に安置されている石仏エリア

展望台への参道入口に立つ合格門(冠木門か)..松で造られたこの門をくぐって合格を待つ(まつ)そうな!

昭和三十四年(1959)造立のウオーナー博士報恩供養塔..博士はハーバード大学出身の東洋芸術史家で、第二次世界大戦での米国日本本土空爆から京都や奈良を救った

平成十六年(2004)建立の安倍晴明堂..日本の占いの開祖安倍晴明の天文観測の地
 
朱塗りの覆屋に鎮座する切妻造で妻入りの安倍晴明堂/「安倍晴明公天文観測の地」の石碑..陰陽道の祖安倍晴明公がこの地で天文観測した

展望台から眺めた境内と花の広場(2017、酉の形、星形、合格の花畑)..文殊池に金閣浮御堂が浮かぶ

文殊池に流れ込む川に架かる清浄橋
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安部文殊院-(1) (桜井)

2017年10月13日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】飛鳥時代の大化元年(645)、大化の改新で左大臣として活躍した安倍倉梯麻呂が、安倍一族の氏寺として創建した安倍寺が前身。 当時の境内は今より300メートルほど南西に位置し、法隆寺式配置の大伽藍を誇ったが、妙楽寺(現在の談山神社)の襲撃などで失われた。
現在の境内は平安時代末に本山の別所として築かれ、鎌倉時代初期に本山と統合された。 平安時代に陰陽師として活躍した安部晴明が修行した本家寺ということで、諸願祈祷の寺として信仰を集めた。 正式名は文殊院。 宗派は華厳宗で、本尊の文殊菩薩像は鎌倉時代の快慶作とされる。

門前に大きな「下馬石」があり、門柱に「日本三文殊第1霊場」の札が下がる朱塗りの表山門に着く。
門をくぐると、右側にずらっと石燈籠が並ぶ切石敷の参道が延び、前方の土手に駒型の「文殊池」と刻まれた石碑が立つ。 「文殊池」石碑から左に折れて更に切石敷の参道が続き、右側に石燈籠が並び、両側に数メートルおきに鎮座する石仏に迎えられて堂宇境内に着く。
正面には三方を多くの絵馬に囲まれ「安倍山」の扁額が掲げられた舞台付きの礼堂がある。 礼堂後方に連なって本堂が建っているが、まるで本堂を隠すかのような造りだ。
礼堂前境内の右手に、1350年ほど前の飛鳥時代に造営された安倍倉梯麻呂の墳墓とされる「文殊院西古墳」がある。 見事に石を積み上げた古墳の中に入ると、切石積みの玄室の奥に、風化が進んだ半肉彫り石仏の「願掛け不動明王像」がひっそりと鎮座している。

切妻造本瓦葺の朱塗りの表山門は四脚門
 
寛保元年(1741)建立の石燈籠と「下馬」と刻まれた標石..門柱に「日本三文殊第1霊場」の札が下がる
 
表山門から眺めた右側に石燈籠が並ぶ切石敷の参道..奥の土手に立つ「文殊池」と刻まれた駒型石碑

「文殊池」石柱傍から眺めた切石敷の参道..右側に石燈籠、両側に2体づつ石仏が鎮座
  
参道両側には前垂をしたの舟形光背型石仏が鎮座..諸仏が参詣者を迎えている

参道の正面奥に建つ堂宇..正面は前に礼堂、後方に本堂が繋がって建っている
 
本堂前に付設された入母屋造本瓦葺の礼堂..「安倍山」の扁額が掲げられ、周りに多くの絵馬が掛けられている/切妻造本瓦葺の手水舎

礼堂後方の本堂は寛文五年(1665)再建で入母屋造本瓦葺

入母屋造本瓦葺屋根が十字に繋がった本堂と礼堂(手前)..礼堂の妻飾りは虹梁大瓶束で、拝みには趣のある懸魚は「三花懸魚」
 
本堂前に「国宝本尊文殊菩薩」の木札が掲げられている/本堂前で赤い前垂れをして鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊像

前と横に擬宝珠高欄を巡らした正面柱間三間、側面柱間一間の舞台造りの礼堂

入母屋造桟瓦葺で煙出しを乗せた本坊..入口屋根は本瓦で、入母屋破風には獅子口が乗り、妻飾は木連格子

入母屋造桟瓦葺で妻入りの客殿・五台閣..左右の入母屋破風の拝の懸魚は「蕪懸魚」

西古墳前から眺めた堂宇..本堂、奥に本坊、左に手水舎

飛鳥時代造営の「文殊院西古墳」(国指定特別史跡)..安倍寺創建の大化改新の左大臣・安倍倉梯麻呂の墳墓とされる
 
西古墳は切石積みの玄室で、弘法大師作と伝わる風化が進んだ半肉彫り石像の「願掛け不動明王像」を安置している

切妻造本瓦葺の鐘楼..梵鐘に寛永二十年(1643)の銘

稲荷社への参道..多くの石燈籠と丹色の明神鳥居が並ぶ
 
稲荷社の前に切妻造屋根で丹色の向拝を設けてある/大棟に千木と堅魚木を乗せた稲荷社の社殿
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聖林寺の石仏

2017年10月07日 | 石仏巡り

【奈良・桜井市】聖林寺への参道脇に古びた赤い前掛けをした7体の石仏が整然と並んでいる。 浮彫りの仏像があるのは1体のみ。 他は文字を刻んだ石仏で、その内の4体には月輪に種子が刻まれている。 いずれも墓碑だと思うが、造立年号や文字が確認できないほど摩滅が激しい。
聖林寺は城壁のような石垣の上に建つが、石垣の裾に4体、石垣の向かい側の御堂の前に8体の舟形光背型石仏が佇んでいる。 12体の石仏も赤い前掛けをしているが、前掛けには黒字で密教で用いる「光明真言」や大乗経典の「理趣経百字偈」が書かれている。 また、「南無大師遍照金剛」もある。
本堂前庭に、穏やかなお顔でいつくしみに溢れた十一面観音菩薩像が佇むが、仏果を示す頂上の化仏・阿弥陀如来の面が欠落している。

聖林寺駐車場傍に鎮座する7体の石仏..後方奥は聖林寺

墓碑とみられる石仏は摩滅が激しく造立年号や刻まれた文字の判読が難しい..左の3体の舟形光背型石仏は月輪に種子を刻んでいる
 
右の4体の舟形光背型石仏..左端は月輪に種子、右2体は文字が刻まれている/唯一仏像が薄肉彫りされた石仏..頭部が螺髪のようなので如来像か

野面石積の石垣の裾に佇む4体の舟形光背型石仏..菩薩石仏(と思う)
 
4体の石仏の赤い前掛には、密教で用いる「光明真言」や大乗経典の「理趣経百字偈」が書かれている

門前に建つ御堂の前に8体の舟形光背型石仏..上部が湾曲して少し手前にせり出している起型か
 
摩滅が激しく造立年号や刻まれた文字の判読が難しい..赤い前掛には「光明真言」「南無大師遍照金剛」などと書かれている
 
本堂前庭に佇む丸彫りの十一面観音菩薩像..右手が施無畏印、左手に蓮華を差した水瓶を持つ/頂上の一面(阿弥陀仏)が欠落している
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聖林寺 (桜井)

2017年10月03日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】寺の歴史については不明な部分が多いが、伝承では奈良時代の和銅五年(712)に藤原鎌足の長男定慧を開基に迎え、多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として安部嶋山の中腹に建立された。 鎌倉時代には慶円上人が、江戸時代には玄心上人が三輪山平等寺の遍照院を移して再興し、遍照院と称した。
江戸時代中期の享保年間(1716~1735)頃、寺号が遍照院から聖林寺に改称されたようで、この頃、文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵が祀られた。
明治初頭の神仏分離で談山・妙楽寺の伽藍がことごとく神社に改装され、支院が全て民家に還俗した中、聖林寺は唯一仏教寺院として残った。
観音堂に天平仏の最高傑作の一つとされる十一面観音立像(国宝)を安置。 十一面観音立像は奈良時代の天平宝字六年(762)~天平神護元年(769)の間の造立とされる。 十一面観音立像はもともと大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として祀られていたが、慶応四年(1868)すなわち明治元年、神仏分離による廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる気配が察せられ、避難のためこの寺に移された。 真言宗室生寺派で、本尊は丈六の大石仏・子安延命地蔵菩薩坐像。 大和北部八十八ヶ所霊場の第76番札所。

バスを降りて古びた石仏が点在する参道を進むと、やがて右手に城壁のような石垣の上に建つ聖林寺が見えてくる。 石段を上って山門に....門前からの眺望が素晴らしく、前方には三輪山が聳え、その左には邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳が見える。
山門をくぐると直ぐ本堂の前庭で、本堂の前に十三重石塔や石燈籠などがあり、静かな佇まいを醸し出している。 本堂に入って本尊の子安延命地蔵石仏と対面....白くて大きな尊顔、唇に僅かに紅を差した表情がユーモラスにみえ、ふっくらとした容姿に親しみを感じた。
本堂脇から階段を上って高所にある観音堂に....装飾が殆ど施されていない堂内に、左手に水瓶を持った十一面観音立像が鎮座、その流麗で均衡のとれた美しい像容に感動した。

城壁のような石垣の上に建つ聖林寺

落ち着いた雰囲気の門前..左手の白壁塀の中は鐘楼

切妻造本瓦葺の山門..左右に連なる白壁の築地塀と調和がとれた風情だ
 
山門前に佇む石燈籠(造立年不明)と舟形光背石仏/「大界外相」の石碑..江戸時代中期の真言宗の高僧・慈雲尊者の遺筆

山門前からの眺望..桜井市街と正面にそびえる三輪山、その左に見える前方後古円墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳

入母屋造本瓦葺で棟両端に鯱が乗る本堂

本堂内陣に江戸中期造立で丈六の大石仏の本尊子安延命地蔵坐像を祀る
 
向拝に下がる鰐口と釣灯籠..虹梁上に龍の彫り物の蟇股/脇間の梁上に置かれた天女のレリーフ

堂正面に「霊園山」の扁額が掲げられ、鰐口と五色幕が下がる

狭い本堂前庭に佇む十三重石塔と石燈籠
 
十三重石塔の初層軸部に四方仏の種子が刻まれている
 
傾きかけた夕日を浴びる前庭/前庭の塀際にひっそりと佇む丸彫りの十一面観音菩薩立像

本堂左手の倉の様な白い建物は経蔵かな
 
観音堂への階段から眺めた堂宇の甍の波/「大悲殿」の扁額が掲げられ国宝の十一面観音立像を安置した観音堂の正面..本堂脇から階段を上がった高所に建つ
 
切妻造本瓦葺の鐘楼                             鐘楼に下がる梵鐘
 
屋根に煙出しを設けた入母屋造桟瓦葺の庫裡            自然石型の石碑

石垣の上に建つ堂宇..煙出しのある入母屋造桟瓦葺は庫裏

門前参道石段の反対側に建つ切妻造り桟瓦葺の御堂..十一面観音像と地蔵菩薩像を安置しているよう

駐車場からの参道脇に佇む7体の石仏
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