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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

浦賀湊周辺の庚申塔-(5)

2016年11月26日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】久里浜から西浦賀方面に戻り、東浦賀の北側に広がる鴨居に向かった。 鴨居港や多々良浜に面した地域そして我が国最初の洋式灯台「観音崎灯台」がある鴨居地区では、寺社境内や路傍などに佇む庚申塔を巡った。 鴨居の庚申塔は、掲載する写真の枚数が多いので、2回に分けて投稿する。 最初は、鴨居港に面して建つ寺社の境内や路傍に佇む庚申塔。

■脇方の路傍■

鴨居港に面した脇方の山間へ続く小道の崖裾に、4基の庚申塔がコンクリート台の上に鎮座している。 庚申塔にはぞれぞれ背高泡立草が供えられていた。 宝暦十一年造立の庚申塔では、青面金剛に踏まれている邪鬼が胡坐をかき、牙を出し、両膝に腕を立てて踏ん張っている姿が面白い。

背高泡立草が供えられた駒型1基と笠付型3基の庚申塔
 
明治七年(1874)造立の駒型青面金剛文字庚申塔(3猿)
 
宝暦十一年(1761)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)
 
安政十年(1798)造立の青面金剛庚申塔(1鬼、2猿)
 
宝暦十二年(1762)造立の青面金剛庚申塔(1鬼、2猿)

宝暦十一年庚申塔の邪鬼と三猿..両肘を立て牙を出して踏ん張る邪鬼

宝暦十二年庚申塔の邪鬼と三猿..三猿が比較的くっきりと浮き彫りされている

■満能寺■

満能寺は室町時代明応六年(1497)の創建。 脇方から住宅地を進むと満能寺への参道があり、参道脇のコンクリート壁を背にして、1基の笠付型青面金剛庚申塔がポツンと立っている。 庚申塔には榊と菊などの花が供えられ、正面から陽が燦々とふりそそいでいた。 境内の薬師堂の脇に立つ「木食観正」と刻まれた珍しい石塔をみつけた....満能寺を訪れた僧・観正が米食を絶ち、木食にて修行したのだろう。
 
安永二年(1773)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)
 
「木食観正」と刻まれた珍しい石塔(文政三年(1820)造立)..僧・観正がこの地で木食修行したのだろう..上部月輪に種子かな/二段基礎の反花上基礎の段級上に高欄を設けた見事な宝篋印塔(造立年号失念)..塔身の月輪内に四方仏の種子が刻

■西徳寺■

西徳寺は室町時代永禄三年(1560)の創建で、鎌倉光明寺の末寺。 鴨居港に面した鴨居八幡神社の近くにあり、石段を上った直ぐのところに7基の石塔が並んでいる。 その内の本堂側2基が庚申塔で、一基は自然石を平らに削って「青面金剛」と刻まれた文字庚申塔。

7基の石塔の内、右側2基が庚申塔..左側は供養塔2基と六字名号塔
 
右側(本堂側)の2基の庚申塔/文政六年(1823)造立の自然石の青面金剛文字塔
 
宝暦十四年(1764)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)

■亀崎権現社■

亀崎権現社は江戸時代元禄元年(1688)の創建だが、鴨居八幡神社に合祀されいまは無格社。 岩窟にすっぽり納まった社殿の左脇の崖の土壁に埋もれるように2基の庚申塔がある。 右側の青面金剛は、合掌する女性の髪の毛を左手でつかんでぶら下げている。

土に埋もれるように2基の庚申塔が佇む
 
享保六年(1721)造立の板状型青面金剛庚申塔(1鬼)..猿が確認できない、左手で合掌する女性の髪の毛をつかんでぶら下げている
 
造立年号不明の板状型の青面金剛庚申塔(3猿)..風化しているが足下に邪鬼が彫られているような気がする

享保六年庚申塔の邪鬼..土中に埋もれているが邪鬼の下に3猿が彫られている思う
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浦賀湊周辺の庚申塔-(4)

2016年11月25日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】西浦賀から久里浜に向かった。 浦賀は来航したペリーが浦賀奉行と交渉した「黒船来航」の地であるのに対し、久里浜はペリーが上陸した地である。 三浦半島最長の平作川が久里浜港に注ぎ、ペリー上陸記念碑や東京湾フェリー乗り場がある久里浜地区では、神社境内と路傍に佇む庚申塔を巡った。

■八幡神社■

久里浜の八幡神社は奈良時代養老四年(720)の創建(伝)。 社殿右手の少し奥に、四段に積み重ねられた高い台座の上に「猿田彦大神」と刻まれた1基の文字庚申塔が立っている。
 
万延元年(1860)造立の駒型猿田彦大神文字庚申塔

■天神社■

天神社は江戸時代万治三年(1660)の創建。 社殿右手の木立の下に、柱状型猿田彦庚申塔1基と笠付型青面金剛庚申塔8基の9基が社殿に向かって一列に佇んでいる。 その中で、猿田彦大神が刻像されている猿田彦庚申塔は興味深い。 天神社の庚申塔については、2016年11月1日に「天神社の庚申塔」として投稿したので、本稿では詳細を省く。
 
珍しい猿田彦大神像が彫られた万延元年(1860)造立の柱状型猿田彦庚申塔/天神社で最も古い寛保三年(1743)造立の青面金剛庚申塔..青面金剛が邪鬼を踏み人の髪の毛を掴んでぶら下げている

■住吉神社■

住吉神社の創建は不詳だが、古書から約千年前の建立。 社殿下の境内の左手の覆屋に5基の庚申塔が佇む。 笠付型の猿田彦文字庚申塔4基と青面金剛とみられる庚申塔1基。 青面金剛とみられる庚申塔は激しく風化していて、刻像がまるでメルトしたようだ。

覆屋に佇む笠付型猿田彦大神文字庚申塔4基と青面金剛庚申塔1基
 
左端の青面金剛庚申塔は風化が激しくメルトしたようだ/注連縄が張られた覆屋に佇む庚申塔
 
笠付型猿田彦大神文字庚申塔4基..左から嘉永七年(1854)造立(3猿)、宝暦七年(1757)造立(3猿)/文政九年(1826)造立(3猿)、文政十三年(1830)造立(3猿)

■くりはま花の国プール近くの路傍■

住吉神社からほど近い”くりはま花の国プール”の脇の道を山手の方に進むと、左側の崖裾に6基の庚申塔が佇む。 この庚申塔は、東京電力横須賀火力発電所の建設が開始された昭和三十二年(1957)に、奥の小高い草むらにあったものが現在地に移されたもの。 最古のものは元禄十年(1697)に造立された駒型青面金剛庚申塔だ。

崖裾に佇む6基の庚申塔

左側の3基の青面金剛庚申塔
 
安永八年(1779)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼)
 
文政十二年(1829)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)
 
元禄十年(1697)造立の駒形青面金剛庚申塔(3猿)

右側の3基は猿田彦大神文字庚申塔1基と青面金剛庚申塔2基..左は明治七年(1874)造立の猿田彦大神文字庚申塔、中は寛政十二年(1800)造立の駒形青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)
 
造立年号不明の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)
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浦賀湊周辺の庚申塔-(3)

2016年11月24日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】西浦賀の庚申塔....その2である。
丘陵にある高坂小学校近くの路傍に佇む石塔の中に、三面六臂の馬頭観音坐像の刻像があり、珍しい像容に少し興奮した。

■高坂小学校近くの路傍■

高坂小学校の下の道を吉井に向かって進むと分岐路の坂道の途中に6基の石塔が浦賀湊に向かって佇み、その中の1基のみが庚申塔。 庚申塔以外に、2基の馬頭観音、石燈炉、御霊前と刻印された石塔などが佇む。 三面六臂の刻像は馬頭観音坐像で江戸中期造立。(「とおりすがり」さんから三面像は青面金剛ではなく馬頭観音との指摘を頂いたので訂正。2017年1月18日)

鎮座する6基の石仏&石塔..左から2番目と3番目が庚申塔
 
寛延二年(1749)造立の駒型文字庚申供養塔(3猿)
 
享保十五年(1730)造立の馬頭観音坐像、宝冠の正面に頂いた像が崩れているが馬頭とのこと

左の石塔は不明、中央は馬頭観音塔..左の石塔は笠石(火輪)を失った五輪塔かな、塔身(水輪)に梵字とみられる刻
  
左端の石塔..「石燈炉」の刻  右端から2つ目の馬頭観音   右端の石塔..「御霊前」の刻

■常福寺■

常福寺は室町時代文明年間(1469~1487)の創建で、浦賀奉行所設置後、御用寺院を担った。 参道石段下の左脇に7基の石塔が佇み、その内の6基が庚申塔。 庚申塔台座から数10センチメートル先は個人駐車場になっていて、訪問時、台座ぎりぎりのところまで車があって撮影に難儀した。 台座上に整然と佇んでいるが、全体に劣化が進んでいるようで心配だ。 珍しい板碑型三猿庚申塔が1基あり、中央に3つの梵字が刻まれているが、風化で殆ど消えかけている。

鎮座する7基の石仏&石塔..右端以外の6基が庚申塔
 
寛政五年(1793)造立の板碑型三猿庚申塔
 
天保九年(1838)造立の舟型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)

天保九年庚申塔の邪鬼と3猿..邪鬼の左に鶏が彫られているように見えるが..
 
宝暦十二年(1762)造立で輪郭を巻いた舟型庚申塔(3猿)..中央に「南無庚申」の刻
 
造立年号不明の板状型青面金剛庚申塔(2鶏、1鬼、3猿)

造立年号不明板状型青面金剛庚申塔の邪鬼と3猿と2鶏
  
天保九年(1838)造立の駒型青面金剛文字庚申塔/造立元号不明の駒型庚申塔..像容などが剥落している/笠付型の供養塔で「百番観音神〇」の刻..上に「西国、坂東、秩父」、中ほど左右に「三浦及び四国八十八」が刻まれているので観音巡礼などの信仰をまとめた供養塔か
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浦賀湊周辺の庚申塔-(2)

2016年11月22日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】”ポンポン船”の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルとなっている渡船が運行している浦賀湊。 その西側に位置し、浦賀奉行所跡や燈明堂などの史跡がある西浦賀地区では、寺社境内や路傍などに佇む庚申塔を巡った。 西浦賀地区の庚申塔は、掲載する写真の枚数が多いので2回に分けて投稿する。

■西叶神社■

西叶神社は平安時代養和元年(1181)の創建。 社殿左手奥の崖崩落防護壁の裾に無造作に立てかけられたように6基の石塔が並び、その内の4基が庚申塔。 その中の江戸末期造立の青面金剛は、久々にみる珍しい八臂像で、大きくふっくらした顔とずんぐりした像容がすごく印象的だ。
残念ながら、青面金剛の1基は胸から上の部分が欠損、もう1基は中央からひび割れしていて悲しい姿に。 これ以上ひび割れや傷みが進まないよう祈るのみだ。

崩落防止壁に斜めに立てかけられた6基の石仏

中の4基が庚申塔だが、1基は上部が欠損、もう1基は真ん中にひび割れがある
 
造立年号不明の丸肩青面金剛庚申塔(1鬼)
 
嘉永二年(1849)造立の舟型青面金剛庚申塔(1鬼)..脇手が六臂の八臂像で、正面の両手で何か丸いものを持つ..ふっくらした大きな顔
 
造立年号(明和?)不明の笠付型(笠消失)青面金剛庚申塔(1鶏、1鬼、3猿)..真ん中が横にひび割れが
 
造立年号不明の青面金剛庚申塔(2鶏、1鬼、3猿)..胸から上部が欠損/上部が欠損した青面金剛庚申塔の鶏と邪鬼と三猿
 
左端は丸彫りの仏像、右端の石塔は不明/地蔵菩薩のような像容だが、右手の持物が三鈷のようなので観音像かも..

■東福寺■

東福寺の創建は不詳。 石段を上り山門をくぐると、直ぐ右脇に4体の石仏が鎮座、右端が青面金剛庚申塔。 庚申塔はまるで化粧をしたかのように赤い鉄錆びのような色に染まっている。 そこから少し先の本堂への急峻な石段の下に、高さ約2メートルの「庚申塚」が陽を浴びて立っていた。

山門の直ぐ脇に鎮座する4体の石仏..右端が庚申塔
 
造立年号不明の駒型青面金剛庚申塔(3猿)
 
左2体の石仏は頭光(円光)を背負い、錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩坐像/庚申塔の左隣の石仏は像容から合掌する地蔵菩薩立像と思う
 
本土への急峻な石段下に佇む「庚申塚」..大正八年(1919)造立で高さ約2メートル

■石平石材店の車庫内■

屋根付きのオープン車庫の中に使われていない古井戸があり、金属製の蓋の上に1基の青面金剛庚申塔が鎮座。 近づいて驚いた....庚申塔前に三方が置かれ、土器に榊が供えられていたのだ。 こんなにも丁寧に祀られている庚申塔を見るのは初めてだ。 (拝観前に店内に声をかけたが応答がないので、無断で撮影させて頂いた)
 
天保十年(1839)造立の笠付型(笠無し)青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)..三方上の土器に榊が供えられている

■長瀬トンネルの西浦賀口■

西浦賀から長瀬に抜ける旧道の「長瀬トンネル」の西浦賀側口のコンクリート壁に埋め込まれた龕の中に10基の石塔が佇む。 石塔は龕内の雛壇に3列に並び、前列の3基は笠付型庚申塔だが、龕内が狭くて暗いので全て庚申塔なのかは分からず、また造立年号も確認できずだ。

前列に3基の笠付型青面金剛庚申塔、中列に3基、後列は4基で駒型3基と舟型1基
 
前列右の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)..左手で人の髪の毛を掴んでぶら下げている
 
前列中央の笠付型青面金剛庚申塔..左手で人の髪の毛を掴んでぶら下げている(風化が激しいが1鬼3猿が彫られているように見える)
   
前列左の笠付型青面金剛庚申塔(風化が激しく、足下の像容は不明)/中列左の駒型青面金剛庚申塔(風化が激しく像容不明)/中列中央の駒型青面金剛庚申塔(足下の風化が激しいが、1鬼3猿が感じられる)
 
後列の4基中の3基(駒型1基、舟型1基)だが風化が激しい/祭壇に置かれた不思議な像..右腕で何かを担ぎ、左腕で何かを抱えているようだ
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浦賀湊周辺の庚申塔-(1)

2016年11月21日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】日本全国に広く分布している庚申塔は、殆んどが悪疫を調伏する青面金剛や道案内にかかわる猿田彦大神を主尊とする刻像塔か文字塔のようだ。
三浦半島にも比較的多くの庚申塔があるされ、既に半島内の寺社及び石仏巡りの中で多くの庚申塔を見てきたが、市内に約千基あるとされる”開国の街”・横須賀の浦賀湊周辺の庚申塔めぐりをしてみた。 浦賀は東京湾の湾口部の浦賀水道に面し、ペリーが黒船で来航した歴史をもつ地だ。
鎌倉時代から天然の良港として知られ、また幕末に勝海舟が咸臨丸で米国に向けて出港した浦賀湊....両岸の狭い平地と丘陵の上まで東浦賀と西浦賀の街並みが広がる。 はじめは、浦賀奉行所の与力中島三郎助の墓や勝海舟断食跡などの史跡がある東浦賀地区の寺社境内に佇む庚申塔を巡った。

■津守稲荷神社■

津守稲荷神社は江戸時代文政九年(1826)の創建。 路地を入って急峻な階段を上ると、小さな社殿の直ぐ右手に1基の駒型青面金剛庚申塔が佇む。 寛政三年(1791)造立なので225年の間強い海風や雨に曝されてきたはずだが、傷みや風化は少ないようで、側面に刻まれた造立年号がハッキリ判る。 右隣に石塔の台座らしきものがあるが....。

駒型青面金剛塔と地面に石塔の台座(笠?)が並ぶ..台座は多分もう1基あった庚申塔のものと思われる
 
寛政三年(1791)造立の駒型青面金剛塔(3猿)

■顕正寺■

顕正寺は室町時代天正元年(1573)の創建(草庵)。 本堂前の境内に6基の庚申塔が並んでいる。 その中の1基が笠付型青面金剛庚申塔だが、青面金剛の頭部の左右にドクロと蛇が浮き彫りされていて非常に興味深い。 それと、左端に小さな自然石に「猿田彦大神」と刻まれただけの庚申塔が佇むが、素朴で実にいい。

6基の庚申塔は笠付型青面金剛庚申塔1基、駒型文字庚申塔3基それと自然石庚申塔2基
 
天保十三年(1842)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼、3猿)..青面金剛が人の髪の毛を つかんでぶら下げている

天保十三年庚申塔の青面金剛像の左右にドクロと蛇が彫られている

青面金剛に踏まれている邪鬼..踏まれる苦しさからか舌を出しているユニークな顔だ
  
自然石に「猿田彦大」と刻まれた庚申塔..造立年不明/明治四十一年(1908)造立の板状駒型猿田彦大神文字庚申塔(3猿)/天保十年(1839)造立の自然石で造られた庚申塚
  
板状駒型青面金剛庚申塔(と思う)..浮き彫りされた青面金剛や3猿は消失しているが跡が残る/明治五年(1872)造立の庚申塔..風化が激しく浮彫りが脱落/右端の石碑?..「〇英日観」の刻
  
十三重層塔越しに眺めた境内..右手山裾に墓石や舟形光背石仏などが鎮座/十三重層塔..基礎に輪郭を巻いて、塔身に初層軸部に月輪を彫り窪め、草木を浮き彫りしている/文化十一年(1814)造立の手水鉢

■東叶神社■

東叶神社は平安時代養和元年(1181)の創建で、江戸時代正保元年(1644)に西叶神社(本社)御祭神を分霊して奉祀。 広い石段の上に建つ社殿の右手の崖裾に1基の青面金剛庚申塔が佇んでいるが、風化が激しく、青面金剛の刻像がほとんど失われている。

拝殿脇に佇む1基の庚申塔と石祠と石碑
 
嘉永七年(1854)造立の笠付型青面金剛庚申塔(1鬼)/風化が激しいが邪鬼の手が確認できる
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香林寺 (小田原)

2016年11月20日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・小田原市】室町時代の文明十六年(1484)、大樹乗慶禅師が開山となって創建された。 往時早川の海蔵寺、久野総世寺と共に曹洞宗の小田原三寺と称され、末寺12寺を擁していた中本寺格の寺院。 戦国時代の武将で北条早雲の子・北条氏綱の正室・養珠院が香林寺に葬られた際、堂宇の寄進を受けたことから養珠院が中興開基とされる。 宗派は曹洞宗で、本尊は薬師如来像。

門前に鎮座する赤い帽子を被り涎掛けをした六地蔵尊像に迎えられて山門をくぐって境内に。 正面奥の本堂まで続く明るい参道…右手の低い石垣の上に数十cm間隔で様々な一尊石仏が横一列に鎮座していて壮観だ。 参道途中の一角に、「三界満霊平等」と刻まれた板碑形石塔、そして初層軸部にアーチ型に彫り窪めた中に四方仏が浮き彫りされた石造七重層塔などが鎮座している。
本堂の前には、上部に五輪塔を表す4つの刻みを入れた回向柱と思われる角柱が立つ。
境内に建つ結界門をくぐると、中心に立つ釈迦牟尼仏を表す石造三層仏塔を囲むように十二支守護尊が鎮座....自分の十二支守護尊の前で合掌した。
本堂裏の竹藪の中の崖裾に最乗寺第2世韶陽以達禅師が修行したとされる韶陽窟があり、窟内奥の龕の舟形に彫り窪めた中に韶陽禅師像が安置されていて、まるで今まさに韶陽禅師が修行しているかのような臨場感を醸し出している。

香林寺の門前..右手に六地蔵尊像が鎮座

覆屋に佇む六地蔵尊像越しに眺めた山門

切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)..江戸時代元禄十一年(1698)再建
 
山門から眺めた参道両側に等間隔で鎮座する石仏や石塔などの石造物

参道の両側に鎮座し参拝者を迎える石造物群
 
頭光(円光)を背にした丸彫りの石造地蔵像     一石六地蔵尊像

参道脇に佇む石造物群..「三界満霊平等」と刻まれた板碑形石塔や七重層塔などが鎮座

境内参道の正面奥に建つ本堂

入母屋造銅板葺の本堂
 
本堂は江戸時代文化元年(1804)再建、本尊は薬師如来像..堂前の柱は回向柱かな

多層塔(十三重層塔)越しに眺めた本堂

境内に建つ弁天堂(右)と鐘楼堂
 
弁天堂..江の島弁天を勧請し鎮守として祀る(昭和五十三年(1978)再建)..側面に大きな花頭窓
 
鐘楼堂..江戸時代安政六年(1859)再建、梵鐘は昭和五十一年再鋳(寛文四年(1664)鋳造の梵鐘は戦時供出)

結界門..鬼瓦は平成十三年、本堂の銅板葺替えの際に取り外したもの

三層仏塔(中央)と十二支守護尊..三層仏塔は釈迦牟尼仏を表す

本堂の裏の竹藪の中にある韶陽窟
 
韶陽窟..大雄山最乗寺第2世韶陽以達禅師が応永年間(1394~1428)に修行した洞窟
 
韶陽窟前に佇む家門付墓石..元禄、元文、寛延、宝暦等の元号銘がある
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御塔生福寺 (小田原)

2016年11月18日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・小田原市】大正時代の初期、小田原板橋富士山中腹にあった象鼻山御塔妙福寺と現在地にあった浄水山蓮生寺とが合寺して御塔生福寺となった。 御塔妙福寺は鎌倉時代元亨二年(1322)に九老僧朗慶上人が建立、また、蓮生寺は室町時代永正二年(1505)に日周の開山により創建された。
明治八年(1875)に火災に遭って御堂を焼失したが、同年再建された。

墓所内の参道を進むと、合掌する日蓮上人立像に迎えられる。 正面に身舎の高さに比べて大きな屋根の本堂が建ち、入口に「象鼻山」の扁額が掲げられている。 向拝の直ぐ左手に赤い鳥居を従えた稲荷社があるのは珍しい。 境内左手の石台の上に、光沢がある黒い宝塔、初層軸部に宗祖日蓮大聖人と刻まれた十三重層塔、江戸期寛文時代に造立された笠付墓石などの石塔が一列に並んでいる。 境内の右手には、「御塔生福寺」の額が掲げられた庫裡があり、前庭には宝塔を思わせるような造りで竿や笠の形が珍しい重厚な石燈籠が佇む。
 
参詣者を迎える日蓮聖人像と堂宇境内に聳える古い巨木/前庭に佇む石燈籠の基礎に龍が浮き彫りされている

入母屋造銅板葺の本堂

本堂の屋根は身舎の高さに比べて大きい造りだ
 
本堂前に鎮座する稲荷社..向拝右手の壁柱に小さな半梵鐘が下がる/柱が長く転びが大きい朱塗りの明神鳥居

本堂向拝に「象鼻山」の扁額が掲げられ、向拝の梁の上に像や海の生き物などの彫り物がある

境内左手の石台上に立つ石塔群
  
十三重層塔は基礎に輪郭を巻いて格狭間を、軸部に宗祖日蓮大聖人の刻..左は宝塔/寛文五年(1665)と寛文六年造立の笠を乗せた墓石..笠に宝珠が乗っていたものとみられる
 
「御塔生福寺」の額が掛る庫裡/庫裡前に立つ重厚な石燈籠..宝塔を思わせるような造りで竿や笠の形が珍しい

静かな佇まいの庫裡前

境内参道脇に鎮座する石仏..造立年号は不明
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紀伊神社 (小田原)

2016年11月17日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・小田原市】社伝縁起では平安時代貞観年間(859~877)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)。 案内板には「惟喬親王は天安二年(858)に京都を追われて伊豆(河津)に流罪となった....」と書かれているが、調べたが伊豆に流罪になった情報はなく、惟喬親王は天安二年(858)に大宰師、その後弾正伊、常陸太守、貞観14年(872)に上野太守を歴任したのち病を得て出家し、比叡山の麓の小野に隠棲したとあり、何故か違っている。
往古は「木宮大権現」のちに「紀伊宮大権現」と呼ばれていたが、明治維新後「紀伊神社」に改名された。

生活道に面して立つ白い明神鳥居の傍に「小田原市指定文化財 小田原(早川)の道祖神」の案内柱が立つ。 ふつう道祖神は路傍に露座しているが、ここの道祖神は立派なお社の中に鎮座しているようだ。 また、鳥居の近くには風化した青面金剛庚申塔が佇み、石で囲まれた「水準点」がある。
参道を進みJR東海道本線の高架下をくぐると、神社境内への石段がある。 山間の傾斜地に造られた境内は3段になっていて、下段に手水舎、中段に摂社2棟と神楽殿、上段に社殿が建つ。 神楽殿の後方に御神木である楠の老木が聳えている。 社殿への石段下で金網で保護された陶製の獅子の狛犬が迎えてくれるが、狛犬が少し可愛そうに思えた。
社殿は濃い樹林に囲まれてひっそりと建つが、後方に本殿らしき建物が見当たらないので、拝殿と本殿を兼ねた造りなのかな?

参道入口に立つ明神鳥居..脇に道祖神を祀る祠がある
 
祠に祀られている道祖神は珍しい           道祖神の前に佇む風化した青面金剛庚申塔
 
鳥居近くに国土交通省国土地理院設置の「水準点」がある  社殿境内への石段

斜面を利用した境内は3段になっていて、下段にある入母屋造銅板葺の手水舎
 
中段の境内には摂社2棟と金網で守られた狛犬が鎮座    中段の右奥に佇む忠魂碑

境内左手に建つ2棟の摂社..手前の摂社は狛犬に守られている
 
駒形社、龍宮社、牛頭社を祀る切妻造銅板葺の摂社/切妻造桟瓦葺の聖徳太子社
 
神楽殿                           神楽殿の傍に聳える御神木の楠..市内最大級の老木
 
大正十一年(1922)造立の陶製の獅子の狛犬..金網でシッカリ守られている

上段の樹林に囲まれて建つ社殿

切妻造銅板葺の拝殿..大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る
 
後方に本殿らしき建物がないので、拝殿と本殿を兼ねているようだ
 
右手の白い建物は神輿庫かな?  社殿
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秋葉山神社 (小田原)

2016年11月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・小田原市】秋葉山量覚院の境内にある神社。(秋葉神社が正式名?) 秋葉山量覚院は本山修験宗の末寺(総本山は京都聖護院)で修験道(山伏)の寺院。
安土桃山時代の天正18年(1590)、徳川家康が小田原城主大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印によって遠州の秋葉山大権現を新しい所領の小田原に奉遷して創建されたので、秋葉山神社は同時代の建立だろう。 秋葉山量覚院の本尊である「秋葉山大権現」の本地仏は観音菩薩で、神仏習合の神として祀られている。

「秋葉大権現」と刻まれた大きな石標が立つ山門をくぐって境内に....。 直ぐ左手に量覚院の庫裡と秋葉山神社の社務所とを兼ねた建物があり、入口の菱格子欄間に赤い天狗の面が掛けられている。
お寺の雰囲気が感じられないまま参道を進むと、秋葉山の額を掲げた鳥居と石造九重層塔が立ち、石段を上り詰めると獅子の狛犬が迎えてくれる。 正面奥の木立の中に、コンクリート製の白い社殿が建つが、入口上に掲げられた額が「秋葉山」ではなく「大徳山」なのが少々気になった。
とにかく、お寺の境内に神社があり、神仏習合と廃仏毀釈が渾然とした佇まいのお寺と神社という感じだ。

秋葉山量覚院の山門と思うが注連縄が掛る..門前左に「秋葉大権現.大聖歓喜天」の石標が立つ
 
切妻造り銅板葺の山門(棟門だったか)..「秋葉山」の額が掛る/境内参道の奥に神明鳥居が見える
 
山門を入って直ぐ左手に量覚院の庫裏と秋葉山神社の社務所を兼ねた建物..「秋葉総〇殿」とあり、入口の菱格子欄間に山伏の修験に関連する天狗の面が掛かる
 
宝暦四年(1754)造立の供養庚申塔/延宝八年(1680)造立の笠付型庚申塔(1猿)..上に複弁の反花を表した石台

珍しい駒型の一石六地蔵尊像
 
石座上に鎮座する三鈷剣と羂索を持つ不動明王像/光背の火焔に少し赤い色が残る

社殿への参道石段下に立つ神明鳥居..左に石造の九重層塔が立つ
  
石塔の初層軸部と基礎に輪郭を巻き、軸部に四方仏を刻む/朱色屋根の木造の祠/珍しい形をした笠の石燈籠

石段から眺めた社殿がある境内の全景
 
境内社                切妻造銅板葺の手水舎

木立の奥に建つ社殿

コンクリート製の白い社殿は珍しいかも
 
現代的で簡素な向拝..梁上に龍の彫刻の大きな蟇股がある/秋葉山」ではなく「大徳山」の額が掲げられている

社殿境内に建つ建物(社務所ではないようだが)
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伝福寺の石仏

2016年11月14日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】傳福寺は室町時代創建の古刹だ。 手入れが行き届いた前庭や墓所等に、多くの石仏・石塔(墓石)が整然と並べられている。
前庭の植木の傍に舟形光背に浮き彫りされた9体の石仏が鎮座しているが、奥の如来像と2体の観音像を守るように前に六地蔵尊像(立像・坐像各3体)が一列に並んでいる。 六地蔵尊像の中に興味深い1体があり、それは錫杖を左手で持って左肩で担いでいる姿で、珍しい地蔵石仏だと思う。
庭内にある覆屋風の建物に、赤い帽子と涎掛けをつけた六地蔵尊像と、真ん中で瞑想に耽っているお顔のひときわ大きい延命地蔵(とみられる)が鎮座。 本堂左の芝生の奥の「當寺開山代々上人」と刻まれた無縫塔の傍に、弥陀定印(上品上生)を結んだ丸彫りの阿弥陀如来坐像と、来迎印を結んだ大きな舟形光背の2体の阿弥陀如来立像が墓石を守るように鎮座している。
墓所の塀際に整然と並んだ多くの板碑型や唐破風笠付型の墓石と宝篋印塔があり、まるでスポットライトのようにそこだけに傾いた陽が注いでいて印象的だった。

本堂の前庭に鎮座する舟型光背の石仏群

後列に観音像と如来像、前列に6体の地蔵像が並ぶ

後列に鎮座する左から如意輪観音像、聖観音菩薩像、釈迦如来像
 
寛文八年(1668)造立の如意輪菩薩像/寛文七年(1667)造立の聖観音菩薩立像..右手は与願印、左手に蓮華を持つ
 
延宝二年(1674)造立の釈迦如来立像..右手は施無畏印、右手は与願印を結ぶ/蓋付き四脚香炉だろうか..浅く輪郭を入れて蓮の花を刻,蓋にも反花のような刻

六地蔵菩薩像の右側の3体..右は東念佛講建立で光背に仏塔らしきを刻、中は西念佛講中建立で光背に浅い層塔を刻、左は左肩で錫杖を担いでいる珍しい像容

六地蔵菩薩像の左側の3体..右は延享二年(1745)造立、中は念佛講建立で左手に宝珠を、左は寛延二年(1749)造立で右手に錫杖と左手に宝珠を持つ

切妻造桟瓦葺の地蔵堂に鎮座する数体の石仏

赤い帽子と涎掛けをした六地蔵と中央は延命地蔵尊像か
 
瞑想に耽っているお顔の延命地蔵尊像/元禄七年(1694)造立で来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像..光背上部に阿弥陀三尊の種子が刻
 
与願印と施無畏印を結んだ結跏趺坐の釈迦如来坐像(と思う)/地蔵堂の右隅に鎮座する3体の石仏(地蔵菩薩、不動明王等)
 
本堂前に鎮座する観世音菩薩像/「當寺開山代々上人」と刻まれた無縫塔の傍に鎮座する弥陀定印を結んだ丸彫りの阿弥陀如来坐像
 
無縫塔の傍に鎮座する来迎印を結んだ舟形光背の2体の阿弥陀如来立像..左は宝永元年(1704)、右は貞享四年(1687)の造立
 
墓所の塀際に並んだ板碑型と笠付型の墓石群そして3基の宝篋印塔..ここだけに傾いた陽が当たっていた..殆ど江戸期の元号が確認される
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伝福寺 (横須賀)

2016年11月12日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】室町時代の天文二年(1533)、鎌倉安養院の第15世・昌誉誉能公により創建された、安養院の末寺。 宗派は浄土宗、本尊は中世の金銅仏阿弥陀三尊像。 千手観音像や地蔵菩薩像が祀られ、三浦三十三観音第十二番札所、また三浦地蔵第七番札所になっている。
千手観音像は南北朝期作といわれる像高35.5cmで、千手観音としては珍しい銅造。地蔵堂には半跏趺座の地蔵菩薩像が祀られ、像高124cmは三浦半島最大のもので、室町時代末から江戸初期にかけての作のようだ。

傳福寺の投稿は5年振りで2度目だ。 久里浜の東京湾フェリー乗り場近くの住吉神社から、くりはま花の国のプールに向かって少し奥まった住宅地の中にある。
狭い路地に面して立つ門柱から境内に....緑の中に「慰霊碑」が立ち、一段高くなった堂宇境内には大きな石燈籠を従えた本堂、直ぐ左には禅宗様建築の特徴を持つ地蔵堂、右に六地蔵尊像等が鎮座する覆屋風の建物が建つ。
本堂前の石燈籠は、白くて大きく、まるで本堂から主役を奪うかのように目立っている。 本堂に向かって境内右半分は樹木に覆われた庭になっていて、本堂前脇に大きな観世音菩薩像、植木の傍に9体の石仏がひっそりと鎮座している。
地蔵堂後方の墓所の塀際に、たくさんの板碑型や唐破風笠付型の墓石や宝篋印塔が本堂に向かって並んでいる光景はなかなか壮観だ。 本堂左に広がる芝生の奥の壁際に多くの石仏が数列に並び、その先に大きな3体の石仏に守られて「當寺開山代々上人」と刻まれ威厳を感じさせる無縫塔が立つ。

住宅地の路地に面して立つ門柱

緑に覆われた境内..右に慰霊碑、正面奥に白い石燈籠と本堂が見える
 
境内参道の右手に立つ太平洋戦争戦死者の慰霊碑/板碑形の「慰霊碑建設発起人」塔

境内参道の途中に立つ門柱から眺めた本堂境内

入母屋造本瓦葺の本堂
 
本堂向拝に置かれた常香炉..香炉に宝珠が乗る蓋がある

虹梁上の龍の彫刻や獏と獅子の木鼻が素晴らしい

本堂前庭に佇む白い観世音菩薩立像
 
本堂前の観世音菩薩立像/基礎、竿、中台、火袋、笠下部に龍などの彫刻が施された大きな石燈籠

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の地蔵堂..三浦半島最大の半跏趺座の地蔵菩薩像を安置
 
花頭窓、桟唐戸、弓欄間など禅宗様造りの地蔵堂/葵の紋がある金銅八角燈籠

切妻造桟瓦葺の地蔵堂..赤い帽子と涎掛けをした六地蔵と中央は延命地蔵尊像(と思う)
  
蓮華座に結跏趺坐で鎮座する釈迦如来像(と思う)/堂内の延命地蔵尊像と思う/元禄七年(1694)造立の釈迦如来立像と思うが、光背上部には阿弥陀三尊の種子を刻

本堂右手に建つ宝形造桟瓦葺の庫裡

本堂前庭に鎮座する舟型光背の石仏群..観音、如来、地蔵の各像(別途投稿)
 
中央の無縫塔には「當寺開山代々上人」の刻/光背型石仏は宝永元年(1705)造立の釈迦如来立像
 
本堂に向かって居並ぶ江渡時代造立の光背型石仏群など

墓所後方の塀際に並べられた墓石群..板碑型墓石、唐破風付墓石、宝篋印塔等
 
江戸時代の年号が刻まれた板碑型墓石群..貞享、元禄、宝永、明和等の江戸期年号が刻/3基の宝篋印塔(造立年不詳)..手前2基は異形かな

5基の唐破風付墓石..元禄や宝暦等の年号が刻
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紫霄寺 (中国)

2016年11月10日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】唐代年間(618~907)、名僧妙応禅師により渭陽村の海抜550mの紫霄山(紫霄岩)の中腹に創建された。 当初は迎福寺(俗称は紫霄寺)と称されたが、後に迎福院に改名された。 現在の諸殿は清代年間(1636~1912)の再建。

巨石が積み重なるような岩山の急峻な石段を上り詰めると大雄宝殿と祥雲殿が建つ平地に着く。 「紫霄迎福寺」の額が掛かる山門をくぐると、道教建築様式のような古びた大雄宝殿が建ち、印相が異なる3体の釈迦如来坐像が鎮座。 祥雲殿後方に「紫霄岩」と称す巨大な自然岩があり、岩下には狭い天然石洞の堂羅漢洞が....。 岩山を下ると約400年前に建てられた天台殿があり、左の仕切り門の奥に石刻された幾つかの岩石が重なる。
 
案内板「莆田市渭陽紫霄怪石全景図」の絵から紫霄寺は岩山に建てられていることがわかる/参道入り口に立つ六角の迎福亭

切妻造瓦葺の山門..奥の建物は大雄宝殿

山門には「紫霄迎福寺」の額が掲げられ、門当がおかれている

切妻造瓦葺の大雄宝殿..2つの屋根が重なっているように見える

大雄宝殿の向拝..道教建築様式のような造り
 
大雄宝殿前の常香炉/大雄宝殿には釈迦如来像、観音菩薩、十八羅漢像などが鎮座

大雄宝殿の内陣に安置された印相が異なる3体の釈迦如来坐像
 
釈迦如来像の周りに羅漢像などが居並ぶ
  
大雄宝殿後方の放生池..上の境内に祥雲殿が建つ/境内の石段参道/壁に埋め込まれた石碑に「唐朝」の文字が刻まれている

大雄宝殿の後方に建つ祥雲殿..清代万歴年間(1573~1620)再建

「祥雲殿」の額が掲げられた祥雲殿の正面の常香炉
 
祥雲殿に祀られている玉皇帝像

祥雲殿後方岩に位置する巨大な自然岩の紫霄岩..岩下に天然石洞の羅漢洞がある

天台殿近くの「白獅」「榕華斗」と朱書された奇岩

天台殿

明代万歴年間(1573~1620)建立の天台殿

内陣に鎮座する玄天上帝像
 
壁面に諸神が描かれている

天台殿境内の左の仕切り門の奥に石刻された岩がある
 
石刻された小さな岩が重なるようにある

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石室岩寺-(2) (中国)

2016年11月08日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】凌雲別殿を入り、壁に掛け軸が下げられている廻廊の石段を上がって後方の霻霄宝殿に....。 霻霄宝殿の向拝柱に昇り龍と降り龍の彫刻が施され、荘厳さが漂う。 霻霄宝殿の内陣には黒い鬚を生やした3体の神像が鎮座....宝冠のようなものを被り、立派な衣装をまとって笏を持つ中央の一際大きな像は皇帝か。
霻霄宝殿から山裾沿いに、七層方形煉瓦塔と凌雲別殿傍に立つ七重層塔とを眺めながら北極寶殿に向かう。 北極寶殿には「玄天上帝爺」像が鎮座。 北極宝殿の名称は、北極星を天子の位としていることに由来か。 堂宇境内から少し離れた地蔵閣の近くの参道脇に、石柵を廻らした中に、笠の軒に蕨手を設けた石造りの六角四層の石塔が立っているが、四重塔なので違和感を感じた。

凌雲別殿から後方の霻霄宝殿への回廊に掲げられた掛け軸

荘厳さが漂う造りの霻霄宝殿..向拝柱の昇りと降り龍の彫刻が素晴らしい
 
霻霄宝殿の入口..内陣に鎮座する三神像(中央の笏を持つ像は皇帝か)
 
内陣の三神像                      通路に鎮座する神像..香炉置き台に「石室岩」とある

霻霄宝殿の入母屋造瓦葺屋根..下は裳腰の屋根

入母屋造り瓦葺の北極寶殿
 
閉じられた北極寶殿正面の入口の格子..側面の入り口から眺めた神像座

内陣に鎮座する立派な鬚を生やした「玄天上帝爺」像

北極寶殿の後方の「龍舌石」..上に乗風亭が建つ
 
石段上は「龍舌石」で、乗風亭が建つ

戯台(舞台)..右手は石室岩素菜館
 
戯台(舞台)                 戯台右手奥にある庫裡

大雄宝殿から数十メートル離れた参道に建つ地蔵閣

地蔵閣近くにある六角四層の石塔..墓と思うが何故か偶数層
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石室岩寺-(1) (中国)

2016年11月06日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】唐代(618~907)初期、高僧・妙応禅師を開山として西郊外にある大象山の中腹に草庵を結び「伏虎岩」と称した。 北宋代紹聖年間(1094~1098年)、住持道静が岩前に寺を建立、「石室寺精舎」と称した。 北宋代崇寧五年(1106)、朝廷から「妙応寺」を額を賜り改名。 その後、元代と明代に災難に見舞われたがいずれも直ぐ再建された。
広大な境内に大雄宝殿、凌雲別殿、霻霄宝殿、北極寶殿、戯台(舞台)、石室岩素菜館、地蔵閣などが建つ。 大雄宝殿の後方に明代(1368~1644年)に建立された高さ30mの七層の方形煉瓦塔が立つ。 再建された塔のようだ。

大きな二重門をくぐって広い石段を上ると、途中に「禅」の文字が大書された照壁があり、更に石段を上り詰めると堂宇境内に....。 右手に改築中の大雄宝殿があり、撤去された仏像は傍の倉庫兼改築作業場に設けられた仮祭壇上に並べられていた。 大雄宝殿は板壁や屋根の吹き替えが行われていた。
大雄宝殿の後方に七層方形煉瓦塔が聳え立つが、風化が激しく、表面の壁が剥離して煉瓦が露出、積み上げた状況や構造がよくわかる。 大雄宝殿の左奥に、透かし彫りを施した丸窓で、門当が置かれた凌雲別殿があり、奥に「霻霄御極」の額が掲げられた霻霄宝殿がある。

巨大な二重門..両側は山廊かな
 
吹き放しの荘厳な二重門/広い石段参道の上に「禅」が大書された照壁がみえる

照壁の「禅」は淨空筆で、右の「自己認識」にハットさせられる

広大な境内だが殺風景だ

改築中の大雄寶殿..写真から入母屋造瓦葺で身舎に大きな庇を設けているようだ
 
大雄寶殿は現在「大殿」と呼ばれているが、改築後は「新観音殿」に改名するようだ

境内に掲示の大雄寶殿の写真を拝借
 
大雄寶殿の仏像は近くの建築資材置き倉庫内の仮祭壇上に安置/右側の観世音菩薩(左側には薬師琉璃光如来が鎮座)

凌雲別殿..明代から清代に掛けて建立(後方は霻霄宝殿)

凌雲別殿の中央は閉門..両側の通用門から出入りする..門当が置かれている
 
中央門の上に「凌雲別殿」の意思の額が掛かる/凌雲別殿越しに眺めた方形煉瓦塔

七層六角塔と珍しい七層方形煉瓦塔(高さ30m)
 
七層方形煉瓦塔..煉瓦を巧みに積み上げた明代建立の塔..隔層毎に塔内へ通じる入口があるようだ
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瑞岩寺 (中国)

2016年11月04日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市・福清市】北宋時代の宣和四年(1122)、瑞岩山の麓に建立された。
瑞岩山は巨石が積み重なった岩山で、岩洞の上に建てられた堂宇をいまにも押し潰すかのように巨大岩が迫っている。 境内に天王殿、大雄宝殿、文昌閣、圓通殿、蔵経閣、伽藍殿などの堂宇が建ち、大雄宝殿には舟形光背を背にして釈迦如来坐像が鎮座している。
高い塀で囲まれた狭い境内に堂宇が密集して建っているので、建物の写真がうまく撮れなかった。 先に投稿した瑞岩弥勒佛造像は、瑞岩寺の直ぐ西側に鎮座している。

巨大岩が堂宇に迫り、いまにも押し潰されそうで迫力がある光景
 
瑞岩山の麓の樹林の中に建つ瑞岩寺        高い塀で囲まれ境内から見た山門

天王殿..中央は弥勒尊像ではなく常香炉が置かれ、両側に四天王像が鎮座している

天王殿内から眺めた大雄宝殿
 
狭い大雄宝殿前に置かれた金色の常香炉..前面に飾り模様が施されている
 
大雄宝殿の須弥壇に鎮座する釈迦如来座坐像..与願印と施無畏印を結ぶ/釈迦如来像を見守るように周囲に金ピカの羅漢像が並ぶ
 
大雄宝殿の後方に建つ蔵経閣と九仙楼       圓通殿

狭い境内の廻廊
 
堂宇の直ぐ傍まで迫る積み重なった巨石群に圧倒される

大棟両端が鋭く尖った堂宇の屋根が連なる
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