【大阪・泉佐野市】慈眼院が位置する日根荘(日根野荘)は、五摂家の一つの九条家の家領荘園で、室町時代文亀元年(1501)から4年間、文明十一年(1514)に関白を辞した九条政基が和泉日根野荘に下向して荘園の経営にあたった。
安土桃山時代の天正十三年(1585)、豊臣秀吉の兵火に遭い、金堂と多宝塔を除いて焼失したが、江戸時代の慶長七年(1602)、秀吉の次男豊臣秀頼の命により再興された。 江戸時代の寛文年間(1661~1673)、岸和田藩藩主岡部氏の帰依を得て一山の大営繕が行われ、寛文五年(1665)、京都仁和寺の性承門跡から現在の院号「慈眼院」を賜り、仁和寺の末寺となり現在に至る。
慈眼院に隣接する日根神社の旧神宮寺だった。 日根神社は平安時代編纂の延喜式に記されている式内社。
金堂から苔の中に敷かれた踏石を進み、境内の奥に寂然と建つ多宝塔に向かう。 多宝塔に近づくにつれて清浄な空気が感じられ、小振りな塔だが優美な佇まいを見せている。 約750年前の鎌倉時代に建てられた慈眼院多宝塔は、我が国最小の塔で、石山寺多宝塔および高野山金剛三昧院多宝塔に次いで古く、また、これら三つの多宝塔は「日本三名塔」と称されているようだ。 少し気になったのが長い縁束で、基壇から床までの高さがありすぎのようで不安定さを感じた。
多宝塔の後方に弘法大師、如来、菩薩などの石仏がたくさん鎮座....まるで多宝塔を見守っているかのようで印象に残った。
慈眼院に隣接して日根神社という古社(慈眼院は日根神社の旧神宮寺)があり、多宝塔境内から少しだけ朱塗りの社殿が見える。 日根神社を拝観したかったが、次の訪問先への移動の関係で時間がなく、仕方なく駅に向かうバスに乗った。
金堂前から眺めた多宝塔
苔に覆われたこじんまりとした境内に建つ多宝塔....日本の多宝塔の三名塔の一つとされる(他の二つは近江石山寺と高野山金剛三昧院の多宝塔
檜皮葺の多宝塔(国宝)....鎌倉時代文永八年(1271)の再建で、塔内に智拳印を結ぶ本尊金剛界大日如来像を安置
高さ10.8mの慈眼院多宝塔は、木造多宝塔で国宝・重文に指定されている中で最小の塔/三間四方で中央間に板唐戸、脇間に連子窓、周囲に切目縁
上層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先、軒先の四隅に風鐸が下がる
裳腰の下層は二軒繁垂木、組物は二手先で中備は中央間のみに脚間に彫刻を施した本蟇股、軒天井と蛇腹の軒支輪がある
壊れかけた向唐破風の社と崩れかけた乱積基壇の上に並べられた舟光背型石仏....石仏は道標のようだ....後方は隣接するのは日根神社
多宝塔を見守るように後方に鎮座する石仏群
五鈷杵を持つ弘法大師と開蓮を持つ十一面観音の石仏像
錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩坐像の石仏/石仏は右から弘法大師像、九品印の阿弥陀如来坐像で左は尊名は分からず
頂上に十一面をいただく千手千眼観世音菩薩(大悲観音とも呼ばれる)の石仏
境内奥に鎮座する巨石群....慈眼院境内は「日根荘遺跡」として国史蹟に指定されているが、それに関連する史跡なのかな?
多宝塔がある境内の奥の石柵で囲まれた遺跡....奥の角柱形の石の正面に文字が刻まれているが....
角柱形の石の側面にも文字が刻....石柵の中に「弘法大師千百年御忌記念」の石碑が立つので弘法大師に関係する遺跡移籍かな?/遺跡がある木立の中から眺めた多宝塔、手前に飾手水鉢
苔に覆われた境内に寂然と建つ国宝の多宝塔と国重文の金堂