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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

浦賀の幸保邸 (その2)

2025年05月01日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】幸保邸を再訪したら、幸運にも、前回の訪問時には閉じていた主屋の一階と二階の雨戸が開いていた。 主屋の外観を撮影していたら、近所の方(男性)から声をかけられ、建物と内部について少し説明してくれた。 そんな中、建物から顔をだされた幸保邸を所有されている幸保様(講師として邸で味噌作りワークショプを主催されている)から「中を見られますか?」との嬉しいお声掛けがあり、まだ正式に公開されていない邸内を隅々まで丁寧に案内してくださった。

◆下屋の屋根が石蔵まで延びていたのでてっきり主屋と石蔵とは繋がっているものと思っていたが、今回の訪問で、独立していることを知った。 両建物の狭い間から入ると、左手に主屋の勝手口、右手に石蔵の入口がある。 まずは勝手口から主屋の店頭である玄関に。 部屋側は全て”上がり”になっていて、勝手口側と奥は板床の上がりで、真ん中に少し広い畳敷の上がり(取次台?)があって、米倉商の店頭らしい佇まいだ。 畳敷きの上がりは店の人が座して接客するところで、先ほどの近所の方によると、畳敷き上がりの直ぐ左手に米と秤が置かれていたとのこと。

△主屋は妻入りで、一階の玄関は4枚引違いのガラス入り腰高格子戸

△主屋二階の高欄付き窓....建具は4枚引違いの腰高明障子

△主屋玄関の下屋の屋根が右手の石蔵まで延びているので、両建物が連なっているように見える....石蔵側の下屋の下に狭い入り口があり、ここから中に入る/入口から見た主屋と石蔵の間の狭い通路....両建物は連なっておらず、左に主屋の勝手口、右に石蔵の入り口がある

△右手の勝手口側には板床の上がりがあり、手前には接客の際に店の人が座る畳敷の上がり(取次台が正しい?)がある/店頭の左手には秤と米が置かれていたとのこと....商品の米が置かれた板床に立てかけられた「浦賀米商組合」の木札

◆主屋の一階は店頭と住居部屋(二間)で構成され、上がりと住居部屋は4枚引き違い腰高格子戸で仕切られている。 店頭から部屋内部が丸見えにならないよう目隠し効果を狙って格子の間隔を狭くしているが、閉塞感は感じられない。 店頭側の8畳間には仏龕があり、小壁に神棚を収納する棚が設けられている。 奥の6畳間の畳の中に”小さな畳”が嵌め込まれているが、冬季に「炉」を設ける所だと思う。 また、6畳間には二階への階段があるが、襖で隠れるように工夫されている。
二階への階段は急で、踏み面が狭く、蹴上が少し高いので、のぼる際に踏み面の角に”向こう脛”を何度もぶつけた。 階段の上の二階に、階段に明かりを取り入れるための腰高明障子窓を部屋内に建て付けている。 二階の間取りは一階と同じで、南面の街路側には手摺を設けた4枚引違いの腰高明障子の窓がある。 また、腰高明障子の腰部がガラス張りになっていて珍しく、興味を引いた。 西側には床の間と襖があり、襖の長押の上に「雪照三千界」の額が掛かっている。 「雪明りがこの世のすべてを照らす」という意味だろうか....。

△上がり(&取次台?)と部屋(住居)とを仕切る4枚引き違いの腰高格子戸....格子の隙間がかなり狭くて珍しい、腰は板張り

△畳敷の2部屋か連なり、手前の部屋には仏龕と神棚用の棚がある....手前は8畳で、奥は6畳(だったと思う)

△8畳部屋の仏龕と神棚....腰部は全て引き違い戸の棚で、神棚の下は二段棚

△小壁に設けられた神棚を収納する棚....神棚に叶神社の御札が納められている

△奥の6畳間....左の襖の奥に階段、畳の中の嵌め込まれた小さな畳は「炉」を設ける所(と思う)

△襖で隠された(?)二階への階段       急峻な階段で、踏み面が狭く蹴上が少し高い

△階段を上がった二階入り口  階段に明かりを取り込むため部屋内に設けられた腰高明障子窓

△二階8畳間の街路側(表側)に手摺を設けた窓があり、4枚引違いの腰高明障子が建て付けられている

△腰高明障子の腰部には透明ガラスが張られている

△部屋の西側に床の間と襖がある....東側の窓は表側と同じ腰部がガラス張り腰高明障子

△8畳間の西側に設けられた床の間と襖....襖の長押の上に「雪照三千界」の額が掛かる

◆一階にもどって石蔵へ。 石蔵の扉は土蔵のような観音開きではなく片引きだが、分厚くて頑丈な造りだ。 扉には漆喰の装飾が施されているが、長い歳月で風化が進み、一部が破損・剥落していて残念な状況だ。 扉の内側の戸は3区分されていて固定されている。 現在出入りする中央部分の戸は新しいので、近年追加されたものと思う。 左は金網が張られた腰高格子戸で、右は框の中に横に数本の桟をわたした板戸だが、説明では内戸はスライド式なので、蔵内に新鮮な空気を取り入れる場合には金網が張られた腰高格子戸を扉の前にスライドさせるとのこと。 石蔵一階の壁には、木骨に粗造りの多数の木材が縦に張りつけられている。 積み上げた米俵に傷がつかないための工夫とのことだが、他に、米俵が石壁に密着して通気性が悪くなるのを防ぐためとも思う。 ”けこみ板”がない狭くて急な階段を上ると、二階には箪笥2棹と行李が置かれている。 屋根を支える桁に墨書があるとの説明を受け、目をやると「大正四年八月拾七日 新築 幸保金蔵」とあり、ちょうど110年前に書かれた墨書に少し感動。 二階の壁、木骨、天井や窓などを見ていると、”木骨石造建築”の造りや土蔵との違いがよく分かる。

△主屋と石蔵の間の入り口....右が石蔵の入り口で、扉は分厚く片引きの造り/10cm以上の厚みがある頑強な片引き扉....表面に漆喰の装飾が施されているが、風化により一部が破損・剥落している

△石蔵扉の内側に3区分され固定された内戸(中央は新規追加と推)....本来はスライド式なので左右の戸を移動して使用していた/金網を張った左の腰高格子戸は蔵内に新鮮な空気を取り入れる場合に扉前にスライドさせる

△石蔵一階の壁の木骨に多くの粗造りの材木が縦に張られている....積み上げた米俵に傷がつかないための工夫とのこと

△石蔵二階への”けこみ板”がない狭くて急峻な階段/二階から見下ろした階段と金網を張った腰高格子戸

△木骨を利用して建て付けられた二階の堅牢そうな窓/閉じた状態の窓

△石蔵二階の北側壁の前に2棹の桐造り(と思う)箪笥が置かれている

△東側壁の前に置かれた大きな木製の行李

△行李上方の屋根を支える桁に110年前の墨書がある/墨書は「大正四年八月拾七日 新築 幸保金蔵」の書

△二階の西側の壁....石の表面には立方体に切り出す際の削り跡がある

△屋根と石積壁の間に白色の漆喰らしきものを詰め込んで密閉している

△天井の梁組には茅葺古民家のように曲がった梁が使われている

◆情報紙の記事によると、幸保様は将来、自家製味噌を使った朝食提供の”和カフェ”を計画されているとのことだが、早いオープンを願いたい。 また、国登録有形文化財への登録は素晴らしいことだが、全体に老朽化が進んでいて一部に傷みがあるので、登録の有無に関わらず、貴重な遺構である”幸保邸”への市の支援(管理・修繕の費用など)を切望したい。

△情報紙(出典「タウンニュース」)に掲載された2件の幸保邸紹介記事....今回、右の記事の写真の真ん中の白服の方(味噌作りを指導中)に案内していただいた






        





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浦賀の幸保邸 (その1)

2025年04月11日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】浦賀湾の東浦賀側の街路沿いに建つ幸保邸は、大正時代の商家の主屋と石蔵。令和七年(2025)3月、国の文化審議会から国登録有形文化財として登録するよう文部科学大臣に答申された。 幸保邸の主屋は、江戸時代創業の米倉商の幸保家が大正十四年(1925)に建てたもので、住居と店舗を兼ねた二階建ての建物。 寄棟造桟瓦葺で、正面に下屋があり、二階部分の窓に手摺が設けられている。 主屋に連なる石蔵は外壁全面が石(房州石)を積み上げた木骨石造建築で、主屋より10年早い大正四年(1915)に建てられた。なお、幸保邸では平成の終わり頃まで米販売店が営まれていたが、以後、空き屋の状態に。

【再訪】先日、幸保邸を再訪する機会があり、そのとき、前回の訪問時には閉じていた主屋の一階と二階の雨戸が開いていた。 再訪時、 建物を所有されている方の案内で主屋と石蔵の内部を撮影させていただいたので、当ブログを「(その1)」とし、続編として「(その2)」を近日中に投稿する。 (未公開中の内部の写真のブログ投稿については、口頭だが所有者の方の了解を得た)

◆三浦半島で発行されている某情報紙で浦賀の「幸保邸」について知ったので、早速訪問し外観を見学した。 浦賀はかつて東国唯一の貿易港、また干鰯問屋など商業地として栄えた歴史があり、当時の面影を今に伝える建造物が大切に保存されている。 東浦賀に建つ幸保邸はその一つだが、浦賀港を挟んだ東浦賀と西浦賀のどちらの街路沿いにも幸保邸に似た建物や石蔵(15棟前後)がそのままの形で点在し、当時の港町の街並みと風情とを想像させる。 印象に残ったのは、主屋二階の窓に取り付けられた木製の手摺で、手摺に片腕を乗せた遊女が道行く人を眺めて客の品定めをしている光景が浮かび、花町を連想させる。 

△大正時代の商家の主屋と石蔵....国登録有形文化財に登録される予定(答申中)

△窓が無い主屋の左側外壁には金属製の波板が張られているようだが、有形文化財登録の指定に支障は?/.正面に下屋(裳腰?)を設けているが、屋根材はスレートか?

△寄棟造桟瓦葺で二階建ての幸保邸主屋....大正十四年(1925)の建築で、江戸時代に創業した米穀商の幸保家が所有している

△二階の窓に木製の手摺が設けられていて、花町の風情を感じさせる

△二階の窓に設けられた手摺....屋根の大棟中央に鬼板が乗っていて寄棟屋根には見えないので、超短い棟の「小棟造り」なのだと思うが.…その後の再訪で、「小棟造り」ではなく寄棟造りで妻入りであることを確認した。

△一階店舗の間口の建具は4枚(5枚?)の板戸....右に板戸の通用口

△主屋に連なって建つ石蔵

△切妻造桟瓦葺の石蔵は大正四年(1915)の建築

△石蔵は外壁全面が石(房州石)を積み上げた木骨石造建築....石壁の所どころに折釘(L形の金具)が取り付けられている

△大棟端に「水」を入れた鬼板が乗る....下壁に小さな換気口、上壁に庇を設けた窓がある
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旧奥津邸-(3) (横浜)

2025年02月26日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・緑区】平成十三年(2001)、それまで住んでいた奥津家から家屋敷と緑地が横浜市へ寄贈されたことを機に、「新治里山公園・にいはる里山交流センタ-」が造営された。 旧奥津邸は主屋、長屋門、土蔵、納屋、釜屋で構成されるが、現在の建物の建築年代は....主屋=平成六年(1994)、長屋門=江戸時代天保九年(1838)、土蔵=大正十五年(1926)、納屋=不詳、釜屋=平成十八年(2006)。

◆乱積み石垣の上の植栽に囲まれた主屋が、燦燦と陽を浴びて建つ。 主屋前には手入れが行き届いた芝生の庭が広がっていて、清々しい。 寄棟造銅板葺き二階建ての主屋は平成の再建だが、寺院建築風工法で建てられていて、なんと釘を使わず継手や仕口などで組み立てられているそうだ。 石階段を上って玄関に。主屋周りの植栽にそって芝生が敷かれていて心地よい。

△長屋門近くから眺めた乱積み石垣の上に建つ主屋....旧建物は裏山の崖崩れで全壊したようだ(屋内に古い写真掲示)

△芝生の庭にあしらわれた石敷参道の奥から眺めた長屋門

△芝生の庭の奥から眺めた長屋門と主屋

△手入れが行き届いた主屋前の芝生の庭園

△寄棟造銅板葺で二階建の主屋....平成六年(1994)建立で新しいが、間取りや書院造りなど古い豪農の古民家の面影を残している

△主屋は寺院建築風工法で建てられ、釘を使わず継手や仕口などで組み立てられている....国産の銘木をふんだんに使っている

△庭の一段高いところに建つ主屋の玄関前から眺めた長屋門....芝生と植栽が清々しい

△主屋正面の西側は縁側で、縁前に沓脱石がある/主屋正面の東側には茶の間や勝手の窓や勝手口

◆玄関に入ると、なんとなく木の香りが漂ってくる気がする。 直ぐ左側は広縁で日が燦燦と差し込んでいる。 真ん中に南北に広い廊下があり、廊下を境に左は座敷と奥座敷がある客間、右は生活の場とした造りだ。 座敷の欅の大黒柱や大黒柱から3方向に突き出た差し鴨居、幅広の床などに国産の銘木を贅沢に使っているそうだ。 奥座敷には床の間、天袋と地袋がある違い棚、仏龕そして付書院がある。 廊下の突き当りの外に穂垣で囲まれた坪庭があり、織部灯籠とみられる石燈籠と地面に埋め込んだ富士形の蹲踞手水鉢、そして鉢前に前石や飛石などの役石が置かれている。 ちょっとした庭園だが客間から見えない。

△玄関から見た広縁、座敷と右奥に奥座敷....2つの座敷に面して西側に広縁がある

△主屋中央の廊下と左手に座敷と奥座敷....欅の大黒柱や差鴨居、幅広の床など国産の銘木を贅沢に使っている....差し鴨居端が大黒柱から突き出ている

△広縁から見た玄関....太い松の曲がり梁が使われている

△手前の座敷から眺めた奥座敷....境の鴨居は高い背で幅広差し鴨居、上に縦格子入りの欄間

△奥座敷の北側に配された違い棚,床の間そして木目文様の扉の仏龕

△奥座敷のくれ縁側に付書院....上部が湾曲した窓枠に明障子、細かい模様を入れた格子欄間

△奥座敷のくれ縁側に付書院....上部が湾曲した窓枠に明障子、細かい模様を入れた格子欄間/木目文様を利用した扉を開けた状態の仏龕....上に鳳凰の彫刻が施されている

△座敷から眺めた奥座敷と中央の廊下....太い欅の大黒柱に3方向から差鴨居が貫いている

△中央廊下の右側は台所などの生活エリア....廊下の突き当りの外に坪庭がある

△穂垣で囲まれた石灯籠と手水鉢を配した坪庭

△石灯籠は竿の頭が膨らんだ織部灯籠(と思う)、手水鉢は地面に埋め込まれたように置かれた富士形の蹲踞手水鉢....鉢前に役石が置かれている

△玄関を上がって右側の引き違い戸(板戸)の奥は茶の間(だと思う)

△茶の間と奥に勝手(と思う)

△茶の間の北面は収納棚と右の引き違い戸(板戸)は台所への入り口

△南側に勝手口があるので土間の勝手と思う....様々なものが展示されているが、中でも珍しい薪ストーブは特注品だったらしく、いまはオブジェとして展示中
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旧奥津邸-(2) (横浜)

2025年02月21日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・緑区】主屋は30年前の平成初期の建築だが、昔ながらの木造建築の作り方を忠実に再現されていて、釘を1本も使わずに継手(つぎて)や仕口(しくち)で組み立てられている。 建材は、太い松の曲がり梁、欅の大黒柱、幅の広い床板、木製の建具な ど、国産の銘木を贅沢に使っている。

◆長屋門の板張り軒天の出桁(軒桁)を、平側は5本、妻側は2本の突き出た腕(梁)で支えている。 長屋門の北側に下屋があり、北面に面格子付の2つの窓そして沓脱石が置かれた出入口がある。 長屋門の東脇に置屋根切妻造りの二階建て土蔵が建つ。 外壁は眩しいほどの漆喰塗り白壁と石積の腰壁で、漆喰塗り壁には数本の折釘が突き出ている。 僅かな隙間から中を覗くと、農具や生活用品が所狭しと置かれている。

△長屋門は桁行十間、梁間三間の造りだが、柱間の幅が狭い....外壁は白壁と腰壁は縦に桟を入れた下見板張り

△平側の出桁を支える梁は5本、妻側は2本の梁が突きでている....軒天は板張り

△長屋門の北側に付設された銅板葺きの下屋がある

△軒下に疎垂木、面格子を設けた2つの窓そして板戸がある/横格子3本のうちの上下2本を曲げた洒落た造り

△沓脱石が置かれ、床下換気のための連子状の換気口を設けている

△土蔵傍から眺めた長屋門の西側と北側(正面)

△堅牢な造りの長屋門

△長屋門の東隣に建つ土蔵

△置屋根切妻造銅板葺で二階建ての土蔵....大正十五年(1926)の建立

△外壁は漆喰塗り壁と石積(洗い出し)の腰壁....正面に銅板葺きの庇を設け、分厚い扉は格子策で保護されている

△漆喰塗り壁に突き出た数本の折釘        金属製雨樋の集水器に飾金具を取り付けている

△土蔵の内扉の腰高格子戸の格子の隙間から除いた蔵内....農機具などが保管されている

△長屋門の前から見た土蔵....二階に庇付き窓、北側壁に配された折釘がない

◆長屋門北側の敷地の隅に、大棟に瓦葺き煙出しを乗せた釜屋が建つ。 平成の築で鉄筋コンクリート造りだが、総下見板張りの外壁で正面に下屋があり、昔ながらの外観と設備をもつとのことなので、当時の釜屋を想像できる。 長屋門をくぐって直ぐ左手に、穂垣風の隠し塀で隠された古いトイレがあり、左の扉付個室は大便用で和式便器、右は小便用で大きな壺が土中に埋め込まれている。 和式便器は明治時代後期に造られた青色花柄文様染付の陶器製(当ブログ「旧藤本家住宅(横浜市)」参照)だ。 それにしても、青色花柄文様染付の和式便器と地面に埋め込まれた壺の小便器....この落差は何かな?

△土蔵の下屋から眺めた釜屋

△切妻造産瓦葺きで鉄筋コンクリート造りの釜屋....平成十八年(2006)の新築で釜屋とトイレの2部屋からなる

△大棟に瓦葺き煙出しを乗せ、正面の銅板葺庇に下屋を設けている....右側の裳腰風銅板葺屋根はトイレ

△外壁は下見板張り,

△鉄筋コンクリート造りに見えないリアルな古建築風建物....内壁は土塗り左官仕上げ

△釜屋にある昔ながらの大釜と”へっつい”(竃)

△長屋門を入ったすぐ左手に建つ展示用のトイレ

△穂垣風の隠し塀で隠された波板葺の旧トイレ

△左の扉付個室は大便用で和式便器、右は小便用で大きな壺が土中に埋め込まれている

△鮮やかな青色文様の染付古便器....明治時代後期の陶器製大便器/地面に埋め込まれた小便器の壺







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旧奥津邸-(1) (横浜)

2025年02月16日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・緑区】奥津家は江戸時代初期この地に入植し、江戸時代を通じて村方三役(名主、組頭、百姓代)を務めていた。 建物は数回の建て替えが行われ、江戸時代後期には現在の姿に近い名主役宅の構えが形成されたと考えられている。 天保九年(1838)に茅葺きの主屋をはじめ、土蔵などを新築したと伝える。旧奥津邸には主屋、長屋門、土蔵、納屋、釜屋などの建物があり、主屋は平成六年(1994)に同じ位置に建てられたが、屋根の形や土間を持つ間取りは、古い農家の面影を残している。

◆バス停「杉沢」で下車し、6分ほど歩くと”新治里山公園・にいはる里山交流センタ-”に着く。 園内を東西に走る一般道の北側に旧奥津邸があり、園道入り口から納屋と長屋門そして土蔵の屋根が見える。 園道を進み、まずは門前の園道脇に建つ納屋に。 納屋に繋がれた藁で作られた馬が、訪問者を迎えている。 植栽の間の石段を上って長屋門に。
長屋門は約185年前に建てられたものだが、流石は村方三役を務めた屋敷の長屋門で、趣がある。 柱の少し高い所に打ち付けられた小さな金属製ステッカーを見つけた。 ステッカーに「雷・稲妻模様」、「1155」、「新治村」と標記されているが、調べたら新治村は昭和十四年(1939)に横浜市に編入されて新治町になったので、85年以上前の古いものだと分かった。

△旧奥津邸への園道入り口から眺めた長屋門などの建物

△門前の園道脇に建つ納屋....薪小屋として使われていた

△切妻造トタン波板葺で下屋付きの納屋....建築年代不詳で、平成十八年(2006)に解体修理され、古い建材が再利用された

△納屋の正面は隙間を空けた板壁で風通しが良い造り/側面は全面が下見板張り壁....上に窓その下に裄らしきものが突出している

△納屋に展示されている農機具等....千刃こき、唐蓑、縄ない機、背負子&背中当てなど

△正面と左側に庇を設けた下屋がある

△石段下から見上げた門前....右の木立に隠れた建物は土蔵

△寄棟造銅板葺で二階建の長屋門....江戸時代天保九年(1838)の建立(推)、長屋門形式の表門で当時は茅葺屋根で、北側が切妻で南側が寄棟となっていた

△重厚な造りの長屋門....外壁は漆喰塗りの小壁と下見板張りの腰壁....平成四年(1992)に半解体修理、平成二十年(2008)に耐震改修工事で現在の姿に

△長屋門の正面の左側             長屋門の正面の右側....半間の格子窓がある

△左側の反った本瓦風の屋根を設けた一間幅の格子窓

△扉門を通して眺めた庭と主屋の一部

△長屋門の扉口に設けられた板戸/板戸に乳金具(釘隠)と八双金具を施して門の風格を高めている

△長屋門の柱に打ち付けられた84年以上前の古い金属製ステッカー....かつては「新治村で昭和十四年(1939)に横浜市に編入され「新治町」に/「雷・稲妻」「1155」「新治村」と表記されている

◆長屋門をくぐって屋敷が建つ敷地内に。 戸口の両側に部屋があり、南側の部屋には沓脱石が置かれた土間で、商談部屋のような雰囲気だ。 北側の部屋は入り口に庇を設け、室内には二階への階段がある。 二階に上がると広い空間に3つの部屋が南北に連なる。 二階は意外にしっかりした造りで、しかも一番奥(南側)の部屋のみが畳敷きなので、使用人の部屋だったのではと思う。

△長屋門の扉口の両側に部屋がある

△長屋門の南側の部屋

△土間に沓脱ぎ石、板床で東と北に窓がある

△長屋門の北側の部屋....入り口に銅板葺き庇を設け、二階への階段がある

△一階の部屋に飾られているたくさんの”つるし飾り”など

△二階への階段         階段の途中から眺めた長屋門の二階の部屋

△長屋門の二階は3部屋に区分され、戸口の上は一段高くなっている....手前(北側)と真ん中の部屋は板床

△真ん中の部屋の南北に換気と明り取りの窓を設けている

△一番奥(南側)の部屋は畳敷(と思う)/梁の配置から屋根が寄棟造りと分かる





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旧長崎家住宅主屋-(2) (東京)

2025年01月16日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】主屋は昭和五十二年(1977)に解体・保管された。 復元工事は昭和五十四年(1979)5月に着工されたが、工事半ばの同年10月、主屋は大型台風20号によって倒壊。 復元は昭和五十五年(1980)3月、江戸期代後期の典型的な農家としての屋敷構えで完成した。 岡本公園民家園には旧長崎家住宅主屋の他に旧浦野家住宅土蔵と旧横尾家住宅椀木門も移築・復元され、江戸後期の農家の家屋を再現している。 昭和五十五年(1980)に開園した岡本公園民家園は、区の有形文化財第1号に指定された。

◆座敷と居間(出居)は南西面に腰高明障子を建てつけたいずれも十畳敷の部屋で、縁側はなく外に置縁が置かれている。 居間に北面に黒漆を施した床の間と上下二段の引違戸の戸棚があり、上戸棚を仏龕にしている。 西面には明障子窓と菱格子欄間を設けた付書院がある。 外に出て建物の西側に回ると、軒下に足踏脱穀や唐箕など様々な農機具が置かれている。

△十畳敷の座敷から見た十二畳敷のデイ(出居・居間)

△出居は客間で、北側に黒漆を施した床の間と上下二段の引違戸の戸棚そして西側に付書院....上戸棚を仏龕にしている

△床の間と戸棚の奥の壁はいずれも黒漆を施した縦羽目板張り

△明障子窓の小さな付書院....上に菱格子欄間   古風な行燈

△主屋の西側に置かれた農機具

△納屋がないためか軒下に様々な農機具が置かれている

△「足踏脱穀」         穀粒を選別する「唐箕」

△右から「脱穀機」、「籾摺機」、「縄綯機」

△主屋の東隣の木立の中に建つ水屋

△切妻造桟瓦葺の水屋....外壁は土壁と下見板張りの腰壁....平面と両妻面に木皮葺とみられる庇

△右半分は部屋で左は作業場のようだ

◆岡本八幡神社の参道に面した場所に椀木門が建つ。 大正時代建築の数寄屋風の造りで、農家の門としては不釣り合いなので神社参道側に裏門として移築されたそうだ。 民家園の敷地の南東に、江戸末期建築の旧浦野家住宅の土蔵が建つ。 漆喰壁で置屋根の土蔵は瓦葺きだが、当時としては瓦葺きの土蔵は珍しい。 蔵戸前の瓦葺きの庇の梁の上に簡素な”田舟”が保管されているが、当時は周囲に水田が広がり、田舟にのって田んぼを手入れしている光景が浮かぶ。

△切妻造銅板葺の旧横尾家住宅椀木門(腕木門?)....大正十三年(1924)に区内桜に建てられた数寄屋風の門....農家の門とは形式が異なるので、裏門として岡本八幡神社の参道に面した場所に移築された

△門扉の上の漆喰壁に珍しい格子欄間/割竹を張った袖塀を備え、左の袖塀に潜り戸がある

△旧浦野家住宅の土蔵....江戸時代末期に区内喜多見に建っていた....桁行三間、梁行二.五間

△置屋根両切妻造瓦葺の外倉は穀蔵....蔵戸前に瓦葺の庇

△外蔵の窓は格子窓に観音開きの分厚い掛子三段の扉....外壁は漆喰仕上げと下見板張りの腰壁/漆喰塗り壁に突き出た数本の折釘と「つぶ」....漆喰壁上部の線が入った上は鉢巻

△扉は漆喰塗りで観音開きの分厚い開き戸

△扉保護のため木枠が張られた蔵戸前/庇の梁上に保管されている平底で簡素な作りの田舟

△穀蔵前の庇に取り付けられた竹製の雨樋




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旧長崎家住宅主屋-(1) (東京)

2025年01月11日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】旧長崎家住宅主屋は「岡本公園民家園」に建つ古民家で、江戸時代中期(18世紀中頃~後半)に建てられたと推定されている。 世田谷区瀬田の世田谷崖線の上に建っていた長崎家屋敷の主屋を、世田谷崖線の下に位置する岡本公園民家園内に移築・復元された。
長崎家は、文政期(1818~1830)から村の民政を司る村方三役の一つである”百姓代”を務めていた。 江戸中期の主屋創建時は”広間型形式”の間取りだったが、、江戸後期に現在復玄された”食違い四間形式”に増改築されたと考えられている。

◆丸子川に架かる橋を渡って岡本八幡神社への参道に....直ぐ左側の岡本公園の駐車場から園内に。 管理棟の前を通り、割竹垣で囲まれた民家園の正門に着く。 中に入ると江戸後期の茅葺屋根の建物が燦燦と陽を浴びて建っている。 左右の妻の軒の形が違っていて、向かって右側の軒は下部を切り落とした兜造りだ。 土間の戸口の上の柱に烏団扇が打ち付けられている。 烏団扇には五穀豊穣・悪疫防除・厄除けに御利益があるようだ。

△割竹垣で囲まれた岡本公園民家園の正門

△区内瀬田にあった旧長崎家住宅主屋は昭和五十二年(1977)に解体保管され、同五十五年(1980)に岡本公園内に移築復元された

△寄棟造茅葺の旧長崎家住宅主屋....現主屋は江戸時代後期文政十年(1827)頃の建物(世田谷区指定有形文化財第1号)

△規模は桁行六間、梁行四間....創建当時は広間型間取り((推)百姓代に喰違い間取りに増改築)

△向かって右側の妻側軒下部を切り落とした兜造り

△外壁は全て土壁で腰壁がない

△戸口の上の柱に掛けられた烏団扇....五穀豊穣・悪疫防除・厄除けの御利益がある

△正面の左側の腰高明障子の部屋の前に濡れ縁や沓脱石がなく、置縁が置かれている

△正面の二部屋は右がザシキ(座敷)で左がデイ(居間)

◆土間にはオオガマとヘッツイの他、東面の壁に農具が展示されている。 間取りは四ッ間型で、大黒柱の右側は座り流しがある台所と上り口に置縁が置かれた茶の間で、奥に納戸がある。 左側の板張りの衝立が置かれた差し鴨居の部屋は座敷で奥に居間がある。 茶の間には囲炉裏があり煙が上がっているが、「生きている古民家」が民家園のテーマということで毎日火が焚かれているそうだ。 座敷の差し鴨居に牛蒡注連を張った大きな厨子棚が据えられていて、中に神棚が鎮座している。

△主屋の戸口から見た土間のダイドコロ(台所)....上り口の奥に座り流し、米俵が置かれた所は置縁、左奥はチャノマ(茶の間)

△台所に設けられたヘッツイと展示されている草履や鍬などの農具

△二基のヘッツイ....資料では右の大きい方を「オオガマ」と表記/右端は「藁たたき石」

△台所の上の黒ずんだ梁組と化粧屋根裏天井

△上り口の窓側に設えた座り流し....窓は無双窓か/座り流しの外側....窓に面格子を設けている

△上がり口から見た囲炉裏があるチャノマ(茶の間)

△大黒柱を挟んで右に茶の間、左に座敷....大黒柱から座敷側は差し鴨居

△土間から見た衝立が置かれた座敷、奥は居間

△座敷から見た板床の茶の間....座敷の差鴨居に据えられた牛蒡注連を張った厨子棚の中に神棚が鎮座

△神棚の左手の差し鴨居に供えられた「粟穂稗穂」....「民間暦・小正月にニワトコを粟と稗に見立てて一年の豊作を願って供える」とある

△茶の間にあるの戸棚....奥は座り流し      茶の間の火が焚かれている囲炉裏

△茶の間の牛蒡注連を張った神棚は恵比寿大黒を祀る....右はナンド(納戸)の入口/茶の間の西奥にある板床の納戸




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旧安藤家住宅-(3) (東京)

2024年12月06日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】平成五年(1993)から解体され、移築・復元は平成十年(1998)に竣工した。 復元されたのは、主屋・内倉(元の外倉を転用)・薬医門形式の表門(新築)・中門・板塀。 外倉は文政十三年(1830)頃に建てられた旧秋山家の土蔵(穀倉)を移築・復元されたもの。

★主屋の西側に一般農家の2倍の広さの土間があり、西壁際にヘッツイや農具などが置かれている。 台所から土間に張り出した板の間は炊事や食事の場で、座り流しと置きヘッツイなどがある。 土間の天井を見上げると、屋根裏や梁組が見事に黒光りしていて歴史を感じさせる。 土間の北側には、切妻造木皮葺覆屋の井戸と木造神明鳥居を構えた祠が鎮座している。

△主屋西側の広い土間(一般農家の2倍)....「台所」から張り出た板の間があり、西面壁際にヘッツイがある

△「土間」から見た長い式台を設けた右が「広間」で左が「台所」

△「台所」」に張り出た板の間に座り流しや置きヘッツイなどが置かれ、戸棚や無双窓がある

△板の間に置かれた置きヘッツイと「土間」に設けられたヘッツイ

△「土間」北側の西面壁際に設けられたヘッツイと神棚....西面に「味噌部屋」への入り口がある

△「土間」の「糸場」側の西面壁際に置かれた農具等

△「土間」の黒ずんだ天井と太くて曲がった梁組

△主屋の北側に隣接して建つ「内倉」は「外倉」を転用....瓦葺きの置屋根が乗る二階建て

△主屋の北側のエリアにある切妻造木皮葺の覆屋の井戸と祠

△転びが大きい木造り神明鳥居を構え基壇に鎮座する祠/祠は切妻造銅板葺で照り屋根

★主屋に西側に2つの下屋があり、一つは保存食を貯える窓がない味噌部屋、もう一つはマユを煮て生糸を紡いでいた面格子付無双窓がある糸場。 糸場では糸紡ぎの実演が行われていたが....見学者は私一人だけ。 下屋から表門の東側に建つ外倉へ....江戸時代後期に建てられた旧秋山家の土蔵を移築復原したものだが、置屋根両妻兜造り茅葺で、正面上の白壁に「〇に紋の一文字」の紋が…旧秋山家の家紋と思うが....。

△主屋の西側の「土間」....大戸口は幅一間の大きな板戸に潜り戸付き....左側に張り出た3つの下屋は奥に「味噌部屋」,庇付き入り口がある手前は「糸場」

△主屋西面に張り出した下屋の窓のない「味噌部屋」と軒下に置かれた農機具....味噌部屋では味噌・醤油・漬物など保存食を蓄えていた

△主屋西面に大きく張り出した下屋の「糸場」(右)....面格子を設けた無双窓が並ぶ

△「糸場」ではマユを煮て生糸を紡いだ....糸紡ぐみ作業の実演が行われていた

△表門の東脇に建つ「外倉」

△穀蔵として配置された「外倉」は文政十三年(1830)頃に建てられた旧秋山家の土蔵

△二階建ての「外倉」の分厚い扉と内部     二階への階段がある内部の壁は羽目板か?

△置屋根両妻兜造り茅葺の外倉は穀蔵で、外壁は全て漆喰仕上げ

△妻面の漆喰壁に配された「丸に紋」は旧秋山家の一文字家紋か?

△「外倉」前から眺めた旧安藤家住宅主屋と内庭を囲む板塀





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旧安藤家住宅-(2) (東京)

2024年12月01日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】安藤家は旧大蔵村字本村のほぼ中央に位置し、明治七年(1974)に奉納された古絵図『板絵着色大蔵氷川神社不能絵図』から、黒板塀で囲まれた屋敷の北側には氷川神社が鎮座し、南側に次大夫堀が流れていた。 安藤家住宅は、次大夫堀に面して門を構え、中心に主屋、庭に2棟の土蔵、さらに2棟(納屋?)が建っていた。

★玄関部屋の後方(北側)に仏間、主屋の東側、玄関部屋の右手に内庭に面した3つの畳敷座敷の役宅がある。 玄関部屋の隣は主に名主が執務した場所で、その隣と奥の畳縁付畳が敷かれた十二畳と八畳敷の座敷は役人などの接待の場。 特に奥の八畳敷は書院造りの上座敷で、天袋がある違い棚・畳敷の床の間・付書院を構えた本床形式を備えている。

△「玄関部屋」から見た役宅側の3つの座敷の内の2つ

△畳縁がない畳が敷かれた「十畳敷座敷」....奥は「十二畳敷座敷」

△「十畳敷座敷」に設けられた戸棚と踏込床

△「十畳敷座敷」は主に名主の執務部屋(推)....左手の「玄関部屋」の北隣に「仏間」がある

△「玄関部屋」の後方(北側)にある四畳敷の「仏間」/一間の壁に仏壇と戸棚が埋め込まれている

△「十畳敷座敷」の東隣に、畳縁がある畳が敷かれた「十二畳敷座敷」と奥に「八畳敷座敷」はいずれも役人などの接客の場

△内庭に面した「十二畳敷座敷の南東に腰高明障子を配す

△主屋の東側に造営された石組護岸の池

△十二畳敷きと奥の八畳敷の両座敷を板戸で仕切り、上の小壁に菱格子欄間が立て込まれている

△「八畳敷座敷」は上座敷とし、天袋がある違い棚、畳を敷いた床の間、内縁側に付書院を設けた本床形式の書院造り

△欄間を含めデザイン性の高い格子模様の明障子を配した付書院

△「八畳敷座敷」の付書院の外の内縁奥に厠がある

★内庭に面した役宅の3つの畳敷座敷には榑縁の内縁がある。 内庭を一望できる十二畳敷座敷の東側には池、南側の縁前に沓沓脱石が置かれているので、時には、役人などの上客が中門を通って直接十二畳敷座敷に上がったのだろう想像できる。
中央北側に板床の大小2つの納戸が連ねる。 大きい方の納戸にはかなり古い4台の箪笥(多分桐ダンス)が置かれているが、3台にはダイヤルや鍵穴があり、そのうちの1台には”丸に違い鷹の羽”の家紋を入れた飾り金具が施されていて趣がある。 主屋の西側は日常生活の場で、板床の台所と広間そして土間で構成。囲炉裏がある台所の北側に、隣接して建つ内倉への蔵前がある。

△「十二畳敷座敷」の内縁から見た中門と板塀

△主屋北側に東西に連なる2つの「納戸」の内の少し小さい東側の納戸

△西側の「納戸」に4つの箪笥(桐箪笥?)が置かれ、中二階への階段がある....廊下の向かい(北側)の下見板張りの壁は内倉

△年季が入った箪笥は桐ダンスか....各引き出しの真ん中の大きな丸い飾り金具の裏側に鍵穴がある/箪笥の各引き出しにそれぞれ小さなダイヤルと鍵穴がある

△納戸の階段下に配置されている年季の入った2つの箪笥....左は鍵がなく、右はダイヤルと鍵穴があって厳重な構造

△上の観音開き戸には家紋”丸に違い鷹の羽”入りの飾り金具が施され、3つのダイヤルと鍵穴、下の引き出しの格狭間風の飾り金具にダイヤルと鍵穴がある/使用人の寝室がある中二階への急な階段

△囲炉裏がある十八畳ほどの広さの板敷の「台所」....長火鉢が置かれ北側に戸棚がある

△「台所の」格子戸は土間との間仕切り、左手に「広間」がある....奥右の土間に張り出した板の間は流し・置きベッツイを置いた炊事や食事の場

△「台所」の北面に戸棚と鴨居の上に神棚を配す....明障子戸は縁側/主屋の北側にある蔵前....奥の右手に「内倉」が建つ

△主屋北側の縁側から見た「内倉」....土蔵造り二階建てで瓦葺きの置き屋根がのる、外壁は漆喰仕上げで腰部は下見板張り

△板敷きの「広間」....北面の鴨居上に牛蒡注連を張った神棚と札額、北面と東面に押板を配す....展示物は機織機など








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旧安藤家住宅-(1) (東京)

2024年11月26日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】旧安藤家住宅は「次大夫堀公園民家園」に建つ古民家で、江戸時代後期に建てられた旧大蔵村の名主屋敷。 安藤家の前身の六右衛門家が、旧大蔵村の名主だった石井家から名主職を引き継いだ天保五年(1834)頃から家・屋敷ともに順次整備されたと推定されている。 二代にわたって名主を務めた後、明治四年(1871)から戸長(行政事務をつかさどった役人)を勤め、村の中心として活躍した。 明治中期の安藤家は、農業の他、養蚕、製糸、水車渡世などを経営していた。

★住宅敷地の南面は板塀と表門で固められ、袖塀を備えた薬医門形式の表門は、格式の高さを感じさせる。 表門に向かって右脇に3つの高札が立ち並ぶ珍しい高札場があるが、戸長だった頃の名残として再現されたものか? 表門をくぐると、大棟に2つの煙出しを乗せた豪壮な主屋が正面に建つ。 茅葺屋根の軒先の一部を切り落として瓦葺庇を設けた玄関がある。 玄関に向かって左側の外縁がある部屋と土壁と腰壁が下見板張りの部分は日常生活の場で、中門と板塀に隠れて見えない右側が役宅になっている。

△旧安藤家住宅の敷地の南面に建つ表門、板塀そして高札場....左奥の建物は納屋

△切妻造桟瓦葺の表門....左右に瓦葺の袖塀を設け、向かって右側袖塀に潜り戸、その右手に高札場がある

△薬医門形式の表門....門構えは家格を示す重要な建物....両袖塀には潜り戸がある

△表門の規模は親柱間が2.35mで、控え柱間は1.48m/両開き門扉は板戸

△両本柱と両控柱の上にそれぞれ冠木を乗せ、両冠木の男木を渡している

△表門の右手に建つ高札場

△高札場....三つの高札が立つ

△南面で建つ寄棟造茅葺の旧安藤家住宅主屋

△間取りは八間取りを基本とした9室で構成、一部中二階付き....屋根上の2つの煙出し櫓は、関東大震災で壊れた養蚕のためのものが復元時に取り付けられた

△玄関の式台を境に西側は日常生活の場,東側は役宅....「式台」の左側は「ひろま」その左は「どま」

△正面中央の軒先を一部切り落とした玄関に「式台」、左側の外縁を設けた腰高明障子の部屋は「ひろま」

△玄関左隣の「ひろま」の榑縁の外縁....その左奥は「どま」の入り口

★玄関前の直ぐ右手に内庭を隠すように板塀と中門を設えている。 中門の扉が開いている中門だが、通行止めの柵があって....主屋の中から拝観できるが、とりあえず、中門からと主屋と板壁の隙間から内庭と役宅を少し見てから玄関に。
式台がある大きな玄関は、役人などの上客を迎えるのに相応しい構えだ。 式台を上がると六畳敷きの玄関部屋があり、引き違い襖のような衝立が置かれていて興味深い。

△式台のある玄関、右手に内庭への中門が建つ....式台は役人など上客を迎える所

△客を迎えるのは式台がある玄関だが、「十二畳敷座敷」の内縁前に沓脱石が置かれているので中門からも直接座敷に招き入れたと考えられる

△広場と内庭を仕切る切妻造瓦葺風銅板葺の中門と屋根を乗せた板塀

△中門は二本の主柱の上に切妻屋根を乗せた棟門の造り

△中門を通してみた「十二畳敷座敷」と沓脱石が置かれた縁側(内縁)

△内庭に面した周囲に榑縁の内縁がある「十畳敷座敷」と「十二畳敷座敷」

△茅葺屋根を兜造りに切り取り、桟瓦の庇を設けた式台がある玄関

△式台を上がったところの六畳敷きの「玄関部屋」....後方に「仏間」がある

△畳縁のない畳が敷かれた「玄関部屋」の正面に引違襖のような衝立が置かれている.....鴨居の上に並ぶ黒い箱には提灯が収納されているとか





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旧城田家住宅 (東京)

2024年11月21日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】旧城田家住宅主屋は「次大夫堀公園民家園」に建つ古民家。 江戸後期の弘化三年(1846)以前の建立で、喜多見の東側の登戸道と北側の筏道が交わったところに建っていた城田家の屋敷から移築・復原された。 復原は昭和六十三年(1988)に完了。 住宅主屋は当初から店造り形式で建てられていて、城田家は「さかや」という屋号を持ち、本業の農業の他に酒屋を営む半農半商だった。

★寄棟造屋根の片方の妻は兜造りで、舟枻造りによって軒をだして店構えを造っている。 店の常口の三間に腰高明障子を入れ、兜造りの軒下の二階の壁には、面格子のある明障子格子窓がほぼ全面に設けられている。 常口から入ると直ぐ土間で、土間に板床を広く張り出して店棚としている。 土間に大きな酒樽が並び、板床に貧乏徳利や角樽などが置かれていて、ここで酒の商いが行われていた雰囲気を演出している。

△寄棟造茅葺の旧城田家住宅主屋....江戸時代後期弘化三年(1846)以前の建立で、主屋は喜多見にある城田家の屋敷から移築

△城田家は本業の農業の他に酒屋を商っていた半農半商(昭和六十三年に復元完了)....桁行6.5間(下屋1間付)、梁行5間で総高8.72m

△主屋屋根の東側(妻側)は厨子二階を設けるため屋根の下部を切り落とした兜造り

△東側(妻側)の軒下は舟枻造りによって軒(下屋1間)を出し、側面に無双窓を設けている

△東側が店の常口で三間に腰高明障子を入れている....厨子二階の壁に明障子の格子窓が並んでいる

△寄棟造り屋根の東側は厨子二階を設けるため兜造り

△主屋北側の土壁....下屋の土壁に簡素な格子窓がある/外壁に突き出た座り流しの排水口

△主屋の間取りは「ドマ(土間)」の他「ザシキ(座敷)」、「ナンド(納戸)」、「ヒロマ(広間)」、「ダイドコロ(台所)」の四室から構成された「喰い違い四ツ間取り」と呼ばれる形式

△土間に板床を広く張り出して店棚とした....「ドマ(ミセ)」に置かれた酒ガメと置きへッツイ

★鉄瓶を乗せた長火鉢が置かれた台所に上がる。 土間境に立つ柱に「荒神棚」が設けられていて、火の神・竈の神とされる荒神様を祀っている。座り流しと無双窓がある台所に設置された急な階段を上り、ミセの上に設けられた厨子二階へ....。 中二階の厨子二階は町屋に多く見られる造りで、店の客が休息する場所だったようだ。
一階に下り、梁行中ほどの部屋境が通っていない喰違四間取りの各部屋を見学。 囲炉裏を設けたヒロマの差し鴨居の上に牛蒡注連縄を張った神棚があり、直ぐ傍に仏壇が配されている。 ヒロマの西隣は唯一の畳部屋のザシキで、書院造り風で床の間が設けられ、南と西側の周囲に榑縁の内縁がある。

△板床に鉄瓶を乗せた長火鉢、厨子二階への階段下に貧乏徳利や角樽などが置かれている

△台所北側にある戸棚の右手の土間境に立つ柱に火の神、竈の神とされる荒神を祀る「荒神棚」、その下に「燈明皿」が設けられている

△戸棚の左に座り流しがあり、上に2つの無双窓(と思う)がある

△胴に黒漆塗りの竹を巻き付けた角樽      厨子二階(中二階)への急峻な階段

△「ドマ(店)」の上部に設けられた厨子二階(中二階)....町屋に多く見られる形式....窓は面格子を設けた明障子の格子窓

△厨子二階(中二階)は店の客が休息する場だったとされる

△厨子二階の天井は化粧屋根裏天井

△間取りは喰違四間取りで、「ザシキ・ナンド・ヒロマ・ダイドコロ」の四室からなる....「ヒロマ」の北側の部屋(ダイドコロ)から見た長火鉢が置かれた張り出した板床の「ダイドコロ」と「ヒロマ」(右)

△奥の「ダイドコロ」からら見た囲炉裏のある「ヒロマ」....右奥は「ザシキ」

△「ドマ」から見た「ヒロマ」と奥に「ダイドコロ」

△囲炉裏には常に火が焚かれている         「ヒロマ」の北西側の差し鴨居の上に配された牛蒡注連を張った神棚と仏壇

△書院造り風で床の間がある十畳の「ザシキ」....日常生活の他に接客の場として使用

△榑縁の内縁がある「ザシキ」の南側と西側は腰高明障子で囲んでいる/「ザシキ」の隅に置かれた行燈

△「ダイドコロ」の西側(板戸の引違い戸)に寝室として使用していた「ナンド」がある




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旧谷岡家住宅表門 (東京)

2024年11月16日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】旧谷岡家住宅表門は世田谷区喜多見にある「次大夫堀公園民家園」に建つ長屋門。 天保九年(1838)の建立で、区内深沢にある谷岡家屋敷から移築・復原された。 両脇の二間四方の床板張りの穀倉と土間の納屋は元は別々の建物だったが、両建物をあわせ、中央に門を構えて長屋門にしたもの。 次大夫堀公園民家園は、昭和六十三年(1988)11月に世田谷区喜多見に開園した民家園で、江戸後期から明治初期にかけての建造物を移築・復原し、昭和初期頃までの農村風景を再現した公園で、用水の次大夫堀や水田とあわせて、名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などがある。 訪問時、旧加藤家住宅主屋は茅葺屋根の葺き替え工事中で拝観できず。

★バス停「次大夫堀公園前」で下車し、木立の緑の中に続く園道を進み「次大夫堀公園民家園」の正門に着く。 正門前に野川から取水して造られた次大夫堀が流れ、数羽の鴨が羽を休めている。 堀傍に正門を向いた正座姿の石像があるが、摩滅が激しく像容がわからない。 正門を入ると直ぐ左手に茅葺の表門が建つ。 長屋門形式の表門の外壁は殆どが縦羽目板張りなのだが、何故か、正面に向かって右側の窓がある壁だけが下見板張りになっている。

△正門前に野川から取水して園内に造られた石組護岸の「次大夫堀」....堀の辺に正座した合掌石像があり、堀に数羽の鴨が羽を休めている

△「次大夫堀公園 民家園」の正門....正面に建つのは旧谷岡家住宅表門

△旧谷岡家住宅表門....天保九年(1838)の建立で、区内深沢から移築された

△寄棟造茅葺の表門....桁行6.7間、梁行2間で、外壁は殆ど縦羽目板張りで一部が下見板張り

△扉口の左右に部屋を設けた表門....両部屋は元々別棟だったが、天保九年(1838)に門構えを加えて1棟の長屋門とした

△扉口に八双や釘隠し金具を施した両開きの扉.....正面の向かって右手は納屋で、下見板張りの壁に窓を設けている/扉の右脇に設けられた潜り戸

★堅牢そうな板扉を備えた門をくぐると、左側は床板張りの穀蔵で結い樽や杵・角せいろ(と思う)などが展示されている。 右側の窓がある土間は納屋で、石臼や様々な農機具が展示されている。 納屋の天井裏や梁を見ようと顔をあげると、曲がった梁の上に平底の小さな舟が乗っている。 初めてみるものなので調べてみた。弥生時代から用いられている「田舟」というもので、深田に浮かべて、肥料や刈り取った稲(田植え期の苗も)を押し運ぶのに用いるそうだ。

△表門の左右の床板張りの穀倉(右)と土間の納屋(左)

△床板張りの穀倉....結い樽、杵、角せいろ(と思う)などが展示されている

△窓がある土間の納屋....石臼、唐箕、千歯扱き、万石とおし等の農機具が展示されている

△低い屋根だが門の扉口の上に中二階がある

△納屋の天井裏と曲がった梁

△梁の上に乗る平底で簡素な作りの「田舟」

★正門を入って直ぐのところが広場になっていて、脇に消防展示小屋と半鐘が下がる火の見櫓が建つ。 広場中央の芝生に覆い屋があり、悪疫を調伏する青面金剛の庚申塔が消防展示小屋に向かって鎮座している。

△正門を入って直ぐのところの広場....消防展示小屋、火の見櫓が建ち、芝生に建つ覆い屋に青面金剛庚申塔が鎮座

△消防展示小屋と火の見櫓....各村々で組織されていた消防組の組員詰所として再現されたもの

△切妻造桟瓦葺の消防展示小屋

△火の見櫓に下がる半鐘はかつて宇奈根地区で使われていたもの/消防小屋の展示物

△消防小屋に向かって鎮座する悪疫を調伏する青面金剛の庚申塔/青面金剛像は摩滅が激しいが邪鬼を踏み、左手で合掌する女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げている....下部に青面金剛の神使の猿(謹慎態度を示す三猿)

△正門近くに佇む石像....両手で開蓮をもっている像容だが像名は不明/広場脇にある丸い水穴の手水鉢と多分提灯を置く石台(と思う)





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旧小池邸-(2) (藤沢)

2024年10月11日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・藤沢市】屋敷は寄棟造、茅葺屋根、土壁、岩基礎という風格のある建物で、規模は桁行18.7m、梁間10.9m。 床上部は典型的な「六ツ間型民家」の格式高い造り。 中ノ間に中二階への箱階段が置かれ、中ノ間と納戸の上の中二階は女中部屋として使用されていた。

★主屋の裏口から飛び石が敷かれた先の覆屋に”つるべ井戸”がある。 裏口から土間に入ると、足踏み脱穀機や唐蓑などの農機具や長くて曲がった梁などが置かれている。 梁はベンチを兼ねた展示のようだ。 床上部は立入禁止なので、土間から各部屋を眺める。 土間に面して板床の居間と畳敷きの表ノ間があり、居間には囲炉裏があるが、巨大なフックに自在鉤が吊り下がり横木は大きなコイの彫刻だ。 表ノ間を通して奥に仏間とその先の奥ノ間が見える。

△井戸がある主屋の裏手(東側)....手前の腰高明障子戸部分は居間の内縁

△主屋の裏口傍にある切妻屋根覆屋のつるべ井戸....板状に加工した石を敷いた趣がある飛石

△滑車やテコの原理を用い、2つの桶を吊り下げてシーソのようにして水を汲むつるべ井戸(はねつるべ?)

△主屋の裏口(東側)

△裏口から見た土間....長くて曲がった梁が展示(ベンチの替り)、右側は居間(手前)と表の間

△土間の黒ずんだ天井と梁組

△主屋の表口の近くに置かれた農機具

△風力を利用して主に穀類を選別する唐蓑(と思う)/手前は足踏み脱穀機で、奥は唐蓑か?

△土間にあるへっつい(竃)          土間に置かれた石臼

△移築復原直後の土間(「小池邸解体移築工事報告書」より拝借)

△土間から見た板床の居間....奥に中ノ間と納戸がある

△珍しい形の自在鉤....横木を吊るすロープで高さを調節する造りのようだ(もしくは吊るし鉤)/巨大なフックに大きなコイの横木が下がる

△土間から見た板床の居間(「小池邸解体移築工事報告書」より拝借)

土間から眺めた四方に差し鴨居を配した表ノ間....奥に仏間と奥ノ間がある

★土間を出て正面からじっくりと各部屋を見学....まずは式台がある表ノ間。 表ノ間を囲む戸は、式台側以外の三方のうち二方が板戸で居間側が腰高格子戸....いずれも黒ずんでいて年季を感じさせる。 仏間には仏壇や厨子を納める仏龕がない。 仏間の北隣が奥ノ間で、北面に床ノ間と天袋・地袋と違い棚の脇床がある。 また、縁側に明障子窓の付書院とみられる建具が設けられている。 帰り際、管理の方に間取り等の資料がないかを尋ねたところ「小池邸解体移築工事報告書」という冊子を見せてくれ、撮影OKとのことなので図面や説明箇所をカメラに納めた。

△表ノ間を通してみた土間(右)と囲炉裏がある居間

△外から眺めた十畳敷の表ノ間....奥の居間との間仕切りは腰高格子戸(引き違い戸)

△表ノ間から見た仏間、中ノ間と奥の間....隣の仏間との間仕切り引き違い板戸

△仏間から見た表ノ間(右)と階段がある中ノ間

△六畳敷の仏間....奥は中ノ間、左は奥ノ間で、間仕切りはいずれも襖(?)....奥ノ間側に格子欄間がある

△仏間を通してみた中二階への階段がある中ノ間

△八畳敷の奥ノ間....北面に床ノ間と脇床がある

△脇床には天袋・地袋がある違い棚....縁側の壁に明障子窓があるが付書院か?

△主屋東側の杉皮葺き庇を設けた納屋(右)と中ノ間(左)の内縁の格子戸

△納戸側の格子戸の間から見た納戸(手前)と奥ノ間

△中ノ間側の格子戸の間から見た中ノ間と中二階への箱階段/箱階段の下は全て物入で引違い板戸や引き出しがある

△中ノ間と納戸の上にある中二階の女中部屋(「小池邸解体移築工事報告書」より拝借)








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旧小池邸-(1) (藤沢)

2024年10月06日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・藤沢市】旧小池邸の主屋は天保十二年(1841)に建てられたもので、昭和五十八年(1983)に新林公園内に移築・復元された。 小池家は江戸時代に名主役を務めた柄沢村で有力な農家で、第二次大戦後に行われた農地改革(昭和二十一年)では、市域内で三番目に多くの農地を解放したほどの大地主だった。 小池家の祖先「旧家八郎右衛門」(「風土記」に記録)は足利尊氏に仕えていたようだ。

★旧福原家長屋門から南に隣接する芝生広場に入る。 梅の花が咲き始めた広場は、幼子の親子連れや犬と散歩する人達で賑わっていた。 広場の東に深い樹林を背にして旧小池邸の門と主屋の茅葺屋根とが重なって見える。 長い袖塀を備えた門の前に石組護岸の排水溝があり、袖塀の下から排水口が延びている。 排水溝に架かる橋を渡り、薬医門風の門くぐって敷地内に。
広い芝生の前庭に門から主屋に向かって飛石が敷かれている。 堂々たる構えの主屋は、風格があって名主の民家らしい印象を感じさせる。 茅葺屋根の南側の妻は兜造りで、正面軒下は船枻造りだ。 瓦葺の大棟の端に水神の使徒を示す「龍」の字が配されていて、火災から家を護っている。

△梅の花が咲いている芝生広場から眺めた旧小池邸

△旧小池邸は新林公園の東側の山裾に西面で建つ

△切妻造銅板葺の門....左右に長い袖塀を設けている

△向かって左側の袖塀....上部に菱格子を配した銅板葺の透塀、前に袖塀から延びる排水口と石組護岸の排水溝がある

△向かって右側の袖塀....前横に袖塀から延びる排水口と石組護岸の排水溝がある

△門は一軒繁垂木で薬医門形式の造り

△広い敷地内に西面で建つ寄棟造茅葺の旧小池邸主屋

△向かって右の下見板張り腰壁の部分が土間、その左が床上部....床上部は典型的な六ツ間型民家の造りで、各面とも縁付き

△主屋の入口前から眺めた敷地内の飛石と門

△南西側の庭から眺めた主屋....手前の土壁と腰壁が下見板張りの部分は土間

△主屋の南側の屋根は兜造り

△大棟端に「龍」の字が配されている....龍は水神様の使徒といわれ,龍神として家を火災から護っている/四方の軒先はセガイ(船枻)造りで軒を深くしている

△表側(西面)は右から入口がある土間、表ノ間、仏間、奥ノ間が並ぶ

★建物の南端に入口がある土間があり、表側は北に向かって表ノ間、仏間、奥ノ間が並んでいる。 正面軒下には、土間と表ノ間の間と表ノ間と仏間の間に仕切り壁を設けていて格式を感じさせる。 表ノ間には式台があり、縁側がある仏間と縁前に沓脱石が置かれた奥ノ間の縁床下に換気口を設けている。
土壁と下見板張りの腰壁の土間側から建物の後方に回る。 裏側は土間から北に向って居間、中ノ間そして納戸が並ぶ。 土間と居間の軒先だけを長く延ばしているので、中ノ間と納戸の軒先を切り落としたような造り。 中ノ間と納戸の上の中二階が女中部屋になっていて、軒下に小さな窓がある。

△表面(西面)の土間部分の壁は白い土壁と腰壁は下見板張り

△一間半の式台がある表ノ間

△縁側がある仏間と奥ノ間....縁床下に換気口を設けている

△縁前に沓脱台が置かれた奥ノ間/仏間だが仏壇が設置された場所は不明

△主屋の北側面(左)は土壁と下見板張りの腰壁....庇を設けた突出部は大小便所

△主屋の北側側(便所側) (「小池邸解体移築工事報告書」より拝借)

△主屋の南側面....土壁と下見板張りの腰壁

△主屋の裏側(東面)....左の苔生した庇の部分は物入....土間と居間の軒は表側より長く延ばしている

△主屋の裏側(東面)....左の苔生した庇の部分は物入....土間と居間

△腰高明障子が入った所は居間....居間の右端から屋根の軒先を切り落とした造り

△軒先を切り落とし庇を設けた部分は中ノ間と納戸....内縁に格子雨戸、上の窓は中二階で女中部屋

△格子雨戸前に沓脱石が置かれていてここから出入りできたようだ










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旧福原家長屋門 (藤沢)

2024年10月01日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・藤沢市】旧福原家長屋門は江戸時代後半に建てられた建物で、平成二十年(2008)に新林公園内に移築・復元されたものだが、当時の建築様式と状態をよく残している貴重な遺構。 江戸時代の末頃から長屋門は、上層農家の格式を示す建物として屋敷の入り口に建てられた。 旧福原家長屋門は正面間口15.39m、奥行4.24mで、神奈川県下でも比較的規模が大きいとされる。 福原家は藤沢市渡内でも有数の旧家で、江戸時代には渡内村の名主を務めた。

★藤沢駅から市街地を通り、境川に架かる奥田橋を渡ると間もなく新林公園に着く。 ”新林公園”と彫られた標石がある入り口から少しだけ旧福原家長屋門の茅葺屋根が見える。 緑の中に入って直ぐの所に、植栽に囲まれて長屋門1棟だけがポツンと建っている。 建築当初の姿に復元された長屋門は、真っ白な土壁(漆喰壁?)と羽目板の腰壁が洗練された構えを感じさせる。 扉口の両側に長屋があるが閉扉されていて残念。 扉口部分は名主を務めた旧家の長屋門らしい格式ある堅牢な造りで趣がある。

△寄棟造茅葺の長屋門....規模は正面間口15.39メートル、奥行4.24メートル

△長屋門内側(屋敷敷地内側)の外観

△四方の壁は土壁と腰壁は縦羽目板

△軒下は突き出た横木に軒桁を乗せている構造なので船枻造り(と思う)

△扉口の左右に設けられた長屋....扉口の右側には空気口があり、その上に板戸があるので使用人の部屋?

△向かって右側の長屋の腰高の引き戸

△長屋門内側の扉口

△八双金具と乳金具を配した板扉/扉上の桁柱に4本の太い梁柱が外側に突き出ている...左側の長屋に窓がある

△長屋門外側の扉口....脇の仕切り板壁に八双金具と乳金具を配した潜り板戸


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