何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

上品蓮台寺 (京都)

2015年02月27日 | 寺社巡り-京都

【京都・北区】寺伝では飛鳥時代に聖徳太子が母の菩提寺として建立し、当初香隆寺と称した。
平安時代の天徳四年(960)、宇多法皇の勅願により、宇多法皇の弟子で灌頂を受けた寛空僧正が中興し、寺号を上品蓮台寺に改めた。 当時は広大な寺域に諸堂が立ち並ぶ壮大な伽藍であったが、室町時代の応仁の乱(1567~1577)の兵火で焼失した。
安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)、性盛上人が復興し、寺外に塔頭十二院を建立したので十二坊と称され、町名「紫野十二坊町」の由来に。 宗派は真言宗智山派で、本尊は延命地蔵菩薩像。

筋塀で囲まれた寺院で、袖塀に通用門を設けた薬医門の右手に珍しい番小屋がある。
山門から眺めた境内正面には本堂ではなく、千鳥破風屋根の客殿が鎮座し、客殿の左側に本堂そして右側に庫裡があってそれぞれ渡廊下で繋いだ構成だ。
山門をくぐって直ぐ左手に弘法大師(空海)像、その傍に大師堂があり、空海さんは本堂と客殿を見守るようにして立っている。

上品蓮台寺の門前..5本の白筋が入った筋塀
 
切妻造本瓦葺の山門(薬医門)..袖塀に通用口また山門の右側に番小屋がある

山門から眺めた境内..正面奥は客殿の玄関

入母屋造桟瓦葺の客殿..入口の屋根は大きな千鳥破風

境内に佇む宝篋印塔越しに眺めた入母屋造本瓦葺の本堂
 
本堂正面と質素な向拝..擬宝珠高欄を設けた回縁
 
本堂には本尊の延命地蔵菩薩像を安置/唐破風で質素な向拝              

本堂と客殿を結ぶ渡り廊下だったか..

本堂と客殿の間の庭園..七重の石塔が佇む

入母屋造桟瓦葺で妻入り大師堂
 
脇間に禅宗様の花頭窓が設けられた大師堂..周囲には回縁(切目縁)を設けている

客殿の右側に建つ切妻造桟瓦葺出妻入の庫裡

入口の上に高欄を設けている
  
境内に佇む宝篋印塔         古井戸か               境内を見守る弘法大師(空海)像

境内社への参道に立つ朱色の明神鳥居

仏堂を社殿として使っている建物と思う..右手に祠が並んでいる
 
手前の拝殿は桟瓦葺、奥の本殿は露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺だ/覆屋の下に小さな祠が並ぶが石仏が置かれている

見事な五輪塔群
 
境内に佇む宝篋印塔..奥には鐘楼 切妻造本瓦葺の屋根をのせた鐘楼

鐘楼に吊りさがる梵鐘
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三宝寺-(2) (京都)

2015年02月25日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】江戸時代初期の茶人・千家3世宗旦の弟子で宗徧流を起こした山田宗徧が塔頭の凉池院に住み、茶室「四方庵」を構えで茶道の研究に努めた。
幕末維新の変動等により一時衰微し荒廃したが、昭和四年(1929)、第124第・昭和天皇即位式の建物の一部が移築され本堂に。 その後、妙見堂の改築、大黒堂の再建により寺観を整え現在に至る。

奥の院ともいえる妙見堂への境内は神仏習合の名残りが漂う雰囲気で、石段の参道には明神鳥居が立ち両側には石燈籠が立ち並ぶ。
参道を進むと、千躰仏釈迦堂が建ち、そして「忍辱の鐘」と呼ばれる梵鐘が吊るされた鐘楼が。 更に進むと左右に三十番神堂、大黒堂、最上稲荷殿そして子宝犬像が鎮座....一番奥の石段の上に妙見堂が。
妙見堂は擬宝珠高欄を設けた回縁があるものの質素な造り....向拝には「妙見大菩薩」と大書された大きな提灯が下がっていて趣がある。

妙見堂への参道石段の途中に建つ鐘楼
 
「忍辱の鐘」で梵鐘は洛中本山本法寺開山鍋かむり日親上人作

妙見堂への参道..明神鳥居の額束に「満願妙見宮」の額

切妻造桟瓦葺の三十番神堂
 
三十番神堂..国と人々を守護する日本の代表的神々三十神を祀る

入母屋造桟瓦葺の大黒堂
 
大黒堂の正面...質素な向拝        大黒堂
 
妙見堂への参道の右手に鎮座する最上稲荷殿..大黒福寿尊天のけん属を祀る

妙見宮への参道石段
  
妙見宮への参道石段/子宝犬像..平成6年甲戌歳を迎える歳に建立/妙見大菩薩の提灯が下がる妙見堂

入母屋造桟瓦葺で妻入りの妙見堂
 
妙見堂..向拝の虹梁や木鼻の装飾か禅宗様と思う/「妙見宮」の扁額と大きな「妙見大菩薩」の提灯

回縁に擬宝珠高欄を設けた造りの仏堂
  
「縁結びの塔」は豊臣秀頼、国松丸、淀君の三方の供養塔(左)/境内に佇む石造り仏塔..立派な相輪が乗る(中)/この石造層塔は珍しいかな(右)
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三宝寺-(1) (京都)

2015年02月23日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】江戸時代初期の寛永六年(1629)、時の右大臣・今出川経季と中納言・今城為尚が中正院日護上人を開山に迎えて建立。 以後、両家の菩提寺として繁栄した。
寛永八年(1631)、第108第・後水尾天皇の内旨を受け、「金映山妙護院三宝寺」の号を贈られた。 後水尾天皇の勅願寺。 宗派は日蓮宗で、本尊は日護上人作と伝わる釈迦如来像。
江戸時代の最盛期には塔頭13院を擁する大寺院で鳴滝学派を形成、多くの学僧を輩出した。

5本の白筋が入った筋塀で囲まれた門前に着き、緩い石段を進んで冠木門をくぐる....参道の正面奥に鎮座する大黒天様が迎えてくれた。 少し右手に建つ本堂前に手水舎があるが、その貫の上に小さな達磨さんが並べられている。
手水舎の隣に建つ洗心殿に鎮座する観音菩薩立像に合掌....洗心?した後、明神鳥居が立つ少し苔生した石段を上って妙見宮に向かった。

筋塀に囲まれた門前
 
冠木門..筋塀は格式がある事を示す(後水尾天皇の勅願寺)
 
冠木門から眺めた境内..参道正面の大黒天様が迎えてくれる(右手に本堂、左手に庫裡が建つ)

切妻造桟瓦葺の手水舎と本堂(左手)
 
手水舎の下側の貫に並べられた達磨たち

切妻造桟瓦葺の本堂..日蓮・日朗・日像の三菩薩像などを安置
 
住宅のような雰囲気の本堂と簡素な向拝

本堂の左に建つ庫裡
 
切妻造桟瓦葺で妻入りの庫裡                   境内に佇む小さなお堂

宝形造桟瓦葺で露盤宝珠が乗る洗心殿(左は手水舎)
  
洗心殿に鎮座する観音菩薩立像/妙見宮への参道石段と明神鳥居..額束に「妙見宮」の額

妙見宮への参道石段の途中に建つ千躰仏釈迦堂
 
千躰仏釈迦堂..切妻造桟瓦葺で妻に向拝付/中世作といわれる半丈六の釈迦如来坐像を安置
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山塘街 (中国)

2015年02月21日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州】山塘街の歴史は唐代宝暦年間(885年)に遡る。
詩人「白居易」が蘇州知事を務めたときに築いた蘇州城と虎丘山とを結ぶ水路(約3.6Km)沿いに立ち並ぶ白壁の街並み。 蘇州旧市街でも昔ながらの水郷の風情がいまに残る地区のひとつ。 
虎丘から下りてきて遊覧船に乗ったが、平日だったこともあって乗船客は自分一人....雨も上がり、ゆったりと遊覧と撮影を楽しめた。
 
虎丘近くにある山塘街水路の遊覧船乗り場..「古城水上游」の案内板
 
虎丘から乗船..遊覧水路から別の水路への入口に架かる大きな石橋と橋上に設けられた2層屋根の大きな亭

水路に架かる石橋の桁越しに眺めたのどかな風景の山塘街

虎丘から寒山寺に至る水路沿って佇む白壁の美しい街並

水路に架かるアーチ形の石橋

街並みは昔ながらの雰囲気を残している

橋桁のアーチが水面に映り、まるでトンネルの中から眺めた風景のようで美しい

ひとりで乗った遊覧船の幌越しに眺めたのどかな山塘街

水路の脇で待機している遊覧船

白壁の家々に下がる赤い提灯は古の風情を漂わせる

水路の真ん中をゆっくり進む遊覧船

山塘街入口に建つ楼閣..右奥は山塘橋
  
八角二層の楼閣には庇が設けられている..楼閣傍の川辺は人々の憩いの場所のようで賑わっていた

山塘街入口を航行する観光船

山塘街入口に架かる山塘橋
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虎丘-(2) (中国)

2015年02月19日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州】剣を愛した闔閭のため、息子の夫差が埋葬時に墓の傍に愛剣3000本(副葬品)を埋めたとされ、秦の始皇帝や三国時代(229~252年)の孫権が探し求めたが見つからず....その時に掘られた穴に水が溜まって剣池に。
虎丘の背後に聳え立つ蘇州最古の雲岩寺塔(通称虎丘塔)は、宋代の建隆二年(961)に建立された高さ47.5m、八角七層で、中国で最も古い塔の一つ。 雲岩寺塔は400年前から地盤沈下で傾き始め、現在約4度傾いていて中国版「ピサの斜塔」(東洋の斜塔)と呼ばれている。 現在は鉄筋とコンクリートで固定して対策がとられているそうだが、遠い将来には倒壊するかも....と少し心配になった。
虎丘には中国で最大規模の盆栽庭園「万景山荘」があり、蘇式といわれる盆栽の名品が600余点ある。 【千人石⇒虎丘剣池⇒二仙亭⇒双吊桶⇒致爽閣⇒雲岩寺塔⇒御碑亭⇒望蘇台⇒千頃雲閣⇒五賢堂⇒大雄宝殿⇒五十三参】

千人石、虎丘剣池、二仙亭、悟石軒(右上)
  
千人石(平坦な一枚岩)/虎丘剣池(左の「剣池」は東晋代、右の「風壑雲泉」は北宋代の書)/二仙亭

千人石..秘密を守るため墓を建造した千人の工匠達が殺されて血に染まった巨岩(左は二仙亭)
 
剣池入口の壁に刻された「虎丘剣池」は唐代顔真卿の真跡、「剣池」(東晋代の書)、「風壑雲泉」(北宋代の書)、奥のアーチ形石橋は「双吊桶」

剣池から流れ込む白蓮池と畔畔に佇む石塔..石段(五十三参)の上に虎阜禅寺の大雄宝殿が建つ

致爽閣への入口..この中を通って雲岩寺塔に..(雲岩寺は清代末に焼失)
 
致爽閣                           致爽閣の右手の仕切り門の奥に雲岩寺塔が聳える

仕切り門から眺めた雲岩寺塔の下層部
  
聳え立つ雲岩寺塔..宋代建隆二年(961)建立の呉王闔閭の墓、煉瓦造り高さ47.5mで八角七層、中国最古の塔の一つ

現在雲岩寺塔は約4度傾いていて中国版「ピサの斜塔」と呼ばれる

御碑亭
 
御碑亭に立つ石碑..亀跌は無かったと思う/望蘇台だったか

頃雲閣への仕切り門

頃雲閣

五賢堂の内景

五賢堂から仕切り門越しに眺めた大雄宝殿..正面に梵鐘と太鼓が置かれている
 
大雄宝殿(再建)                           大雄宝殿の内陣に鎮座する阿弥陀三尊像

大雄宝殿前への石段「五十三参」
 
万景山荘..中国で最大規模の盆栽庭園/蘇式盆栽の名品が600余点ある
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虎丘-(1) (中国)

2015年02月17日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州】春秋戦国時代(前770~前221年)、蘇州を都とした呉王闔閭(呉王夫差の父)が越王との戦いに敗れて埋葬された、蘇州の城外西北に位置する標高約30mの小高い丘。
埋葬された3日後、白い猛虎が現れて墓の上に臥して護ったという伝説から「虎丘」と呼ばれるようになった。
虎丘はもともと、東晋代(317~420年)に建てられた別荘が寺になったもので、虎丘山寺と呼ばれていた。 その後、改修と改名が繰り返され、中国最後の王朝・清代(1636~1912年)に虎阜禅寺となり現在に至っている。
雨が降ったり止んだりする中、虎丘への参道の入口に建つ牌坊に着く。 牌坊から眺めると、参道の正面の遥か奥の小高い山の上に聳える虎丘のシンボル「虎丘塔」が雨に霞んで見える。 【頭山門⇒断梁殿⇒〇〇(敢の下に心、2文字)泉⇒試剣石⇒擁翆山庄⇒真娘墓⇒冷香閣⇒石観音殿⇒三寧亭⇒第三泉】
 
参道の入口に立つ頭山門(牌坊)..「呉中第一山」とある   参道に置かれた「司母方鼎」のようなレプリカ
 
虎阜禅寺の山門

断梁殿(国宝の山門)..入母屋造瓦葺で軒反りが大きく重厚感がある
 
〇〇(敢の下に心、2文字)泉..梁代(500年代)の高僧が掘った/試剣石..古代の刀工千将が鍛えた剣を呉王闔閭が試し切りで真っ二つに切れた石

擁翆山庄の入口
 
擁翆山庄の正面と内景
 
唐妓女真娘の高潔を偲ぶ「真娘墓」

冷香閣..古石観音殿の右側に隣接

古石観音殿..宋代の熙寧七年(1074)建立

入口から眺めた古石観音殿
 
右の建物は観音堂                          観音堂に掛る観世音菩薩画像
  
古石観音殿内の仕切り門と三寧亭                       第三泉への仕切り門

第三泉..茶経を書いた唐代の茶研究家陸羽が天下で三番目の良泉とした..「鉄華岩」の石刻がある

八角の孫武子亭..大きな軒反りが素晴らしい
  
孫武子亭の中心に立つ石碑                          東丘亭
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滄浪亭-(2) (中国)

2015年02月15日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】「滄浪亭」は他の庭園とはやや趣が異なり、外堀の疎水越しに美しい園を眺めることができる。(一般に蘇州の庭園は高い外壁に囲まれている) 園内は自然に近いシンプルな造りになっているのが特徴で、起伏に富んだ築山を中心として周囲に建物が配置され回廊でつながっている。 また、庭園前の池にはたくさんの蓮が生息している。 【翠玲瓏⇒仰止亭⇒五百名賢祠⇒清香館⇒歩碕亭⇒御碑亭⇒藕花〇(木偏に射)藕⇒鋤月軒】

竹林の中に建つ翠玲瓏
 
翠玲瓏の内景..装飾や家具に竹の装飾が施されている    翠玲瓏の内景

西側回廊に設けられた仰止亭

西側回廊の仰止亭
  
亭には文徴明の画像、南側の壁に蘇州名士の業績を讃える石刻がはめ込まれている/仰止亭からこの仕切り門をくぐると五百名賢祠が建つ

五百名賢祠
 
五百名賢祠の内景..蘇州に関係のある594人の名士の画像が陳列されている/五百名賢祠

清香館
 
清香館の内景..装飾品が並ぶ

半円形の小さな庭に沿って回廊も曲がっている

白壁の塀の装飾..風化し破損してるが飛龍の彫り物のようだが

歩碕亭..清香館の北側の小さな池の傍の回廊(西側)に立つ
 
御碑亭..西側回廊に立ち、康熙帝の詩を刻んだ碑がある

御碑亭からの眺め..右手回廊に歩碕亭が見える

藕花〇(木偏に射)藕
 
藕花〇(木偏に射)藕の正面                     藕花〇(木偏に射)藕近くの空間
 
藕花〇(木偏に射)藕から鋤月軒への回廊/奥が鋤月軒だと思うが撮影を失念
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滄浪亭-(1) (中国)

2015年02月13日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】五代年間(907~960)に呉越広陵王・銭元燎が屋敷として造園した蘇州で現存する最古の庭園のひとつ。 その後、北宋代の慶暦五年(1045)、官職を失った詩人・蘇舜欽が買い取り、別荘として改築して住んだ。
滄浪亭は蘇州四大名園の一つ。 「滄浪亭」の名は蘇舜欽が付けたもので、戦国時代の詩人「屈源」の詩「楚辞・漁夫」の「滄浪の水」という魚歌から採ったものといわれる。 【大門⇒面水軒⇒滄浪亭⇒観魚処⇒閑吟亭⇒聞妙香室⇒明道堂⇒瑶華境界⇒看山楼】
 
滄浪亭の北側の疎水に架かる石橋とその先の大門
 
面水軒の横に立つ石碑        面水軒..四面いずれも大きな窓で床近くまである

面水軒
 
園内側の回廊の右手の築山に滄浪亭

庭園中心の築山の上に立つ滄浪亭
 
複廊の園内側回廊..奥に観魚処への入口がある/複廊の園外側回廊から疎水に突き出た観魚処
  
観魚処                 東側回廊に設けられた閑吟亭   閑吟亭

聞妙香室
 
聞妙香室の内景                           聞妙香室の内景

明道堂..園内で一番大きな建物
 
明道堂                                 明道堂の内景
 
明道堂の後方に建つ瑶華境界

看山楼..大きな軒反り屋根の楼で園内を一望できる
 
看山楼の内景                              看山楼への石の階段
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旧真光寺 (臼杵)

2015年02月11日 | 史跡探訪-日本編

【大分・臼杵市】江戸時代の享保元年(1716)、旧臼杵藩士稲川小右衛門の長男宗適の開基により、浄土真宗本願寺派仁王山善正寺の塔頭(支院)として創建された。 昭和後期、真光寺の移転に伴って廃寺となったが、臼杵市が町並み散策の休憩拠点として整備し、平成3年から「お休処」に....。
旧真光寺を核とした切り通しのこの界隈は、城下町臼杵の町並みを代表する景観となっている。

狭い石畳の二王座歴史の道を散策している途中、「お休処 旧真光寺」で少し休息させて頂いた。
旧寺院だがお寺の面影はなく、中は意外にモダンな造りになっていて落ち着いた雰囲気が漂う。
一階の長椅子に腰を降ろし、持参したポットのコーヒーを飲み、一息ついてから二階へ....何といっても気に入ったのは二階の窓からの眺めで、城下町の情緒があふれる美しい街並みを存分に堪能できる。

旧真光寺のほぼ全景
 
簡素な造りの門(旧山門かな) 門前から中を眺める..直ぐ正面が元本堂か

門を入った右側の建物

門を入った左側の建物でここから建物内に中に入る
 
左側の建物の内部..土間だったか、竹簾の子が置かれた円筒は古井戸か

門の正面の部屋..左手は本堂の内陣だった所かも
  
廊下に置かれた三重塔の模型、とはいえ立派な相輪が乗る/門に向かって右側建物の2階への階段/門に向かって左側建物の2階への階段

2階からの眺めへのお誘い「2階から二王座の街並みが見えます」

門に向かって右側建物の2階の部屋..窓から町並みが見える

門に向かって左側建物の2階の窓から眺めた二王座の町並み
 
門に向かって左側建物の外観/門に向かって右側建物の外観
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深田の里 (臼杵)

2015年02月09日 | 史跡探訪-日本編

【大分・臼杵市】JR臼杵駅から市街を通り、臼杵川に沿って走る国道502号線を西へ約6km進むと、国道の左手に深田の里が広がる。 緑の山々に囲まれた明るい盆地で、凝灰岩の丘陵地帯に磨崖仏(国宝臼杵石仏)が鎮座する。
古くは真名原と呼ばれたこの地には、臼杵石仏に由来する「真名長者伝説」がある。 黄金鉱石を求めて渡来した百済人の子・真名長者(炭焼古五郎)と妻が、娘の海難の悲報に深く嘆き悲しんだことに端を発して仏教を深く信仰するようになり、娘の菩提を弔うためと仏教の教えを永く後世に伝えるため、万古不滅の磨崖仏を刻ませたと伝わる。
土の中に2メートルほど埋まった満月寺の仁王石像や深田の鳥居から、この里の一帯は地形の変化で少しずつ埋もれたようだ。
なお、炭焼古五郎が硅層土の中を堀りぬいて作ったとされる「炭ガマ跡」(製錬窯)の見学を失念した。

杉木立の間から眺めた小さな紅葉

五輪塔..ホキ石仏第一群の後方の山腹に鎮座、大小2基いずれも平安時代後期の造立

大きい方は嘉応2年(1170)、小さい方は承安2年(1172)作
  
大きい方は総高151cmで空輪と風輪の一部を欠損、小さい方は総高104cm
 
五輪塔..古園石仏の西側後方の山中に建つ日吉神社境内の近くに佇む(地輪が土中で銘文や梵字なく造立年号不明)

化粧の井戸..真名長者(炭焼古五郎)の妻・玉津姫(久我大臣の娘)ゆかりの井戸
 
真名長者の美人妻の体中の黒アザが治癒した井戸
 
臼杵石仏公園として整備され芝桜など四季折々の花が咲く..ハスの花畑傍の板の小道脇に佇む石仏

園内に佇む石碑..友好都市である中国敦煌市から贈られた石碑を設置

石碑には日中両国の偉人の言葉が刻まれている

ハスの花畑
 
満月寺境内の崖に彫られた真名長者夫妻と蓮城法師(真名長者夫妻に仏教を教え石仏を彫ったとされる)の石像
 
満月寺の入り口に鎮座する石彫の仁王像..膝下が地中に埋もれている(左:阿形仁王像,右:吽形仁王像)

深田の鳥居..石製で鎌倉時代~室町時代の造立らしい
 
柱脚が太く2本の石材を重ね繋いだ造り..日吉神社への参道に立っていたようだ
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国宝臼杵石仏-(2) (臼杵)

2015年02月07日 | 石仏巡り

【大分・臼杵市】臼杵石仏(磨崖仏)は1千有余年前に彫像されたが、確たる文献がないため誰が何の目的で造営したのかは分からず、多くの謎に包まれている。
臼杵石仏の由来のひとつに真名長者伝説があり、深田の里で炭焼を営みながら黄金鉱石を探していた百済からの渡来人・炭焼古五郎(真名長者)夫婦の悲運と関わりを持った中国人・蓮城法師が、中国から呼び寄せた建築僧と彫刻僧により紫雲山満月寺(五ヶ院六坊の総称)を建立し、百余体の石仏を刻ませたという。

ホキ石仏第二群から進んでホキ石仏第一群、山王山石仏、古園石仏群をゆっくり拝観した。
ホキ石仏第一群には如来像・菩薩像及び十王像の20数体の磨崖仏が整然と並んでいて壮観だ。
山王山石仏では、中尊の右側に鎮座する薬師如来坐像は、表面のコケ類等の除去のため紫外線が照射されていたが、初めて見る光景で興味深かった。
古園石仏は臼杵石仏の中心的存在....特に中尊の大日如来坐像のお姿は幽玄で神秘的な雰囲気を醸し出していて、時間を忘れるほどに拝観した。 尚、大日如来の仏頭が落ち、長い間仏体下の台座の上に安置されていたが、平成5年、一連の保存修復時に仏頭は昔日のお姿に復位された。

ホキ石仏第一群第3龕(中)と第4龕(右)..左奥は第2龕

ホキ石仏第一群第3龕..臼杵石仏群の中で小さく彫られた3体の如来尊坐像、中尊は大日如来坐像、右は釈迦如来坐像、左は阿弥陀如来坐像

ホキ石仏第一群第3龕..中尊の大日如来坐像は宝冠を頂き智拳印を結んでいる、台座は裳懸座で穴には願文や経文を納めた
 
ホキ石仏第一群第4龕..中尊に地蔵菩薩半跏像、両脇に地獄の十王像10体/中尊・地蔵菩薩半跏像は左手に宝珠、右手は施無畏印か

右下3体の十王像..冠をつけ道服を着て笏を持つ、しかし忿怒の形相ではなく穏やかな表情だ!

ホキ石仏第一群から山王山石仏に向かう

山王山石仏の覆屋

山王山石仏の3体の如来尊坐像..右の薬師如来坐像は表面のコケ類等の除去のため紫外線を照射中
  
阿弥陀如来坐像(左)         中尊の釈迦如来坐像        薬師如来坐像(右)..紫外線照射中

中尊釈迦如来坐像は童児のような純真無垢なお顔だ
  
古園石仏の覆屋/古園磨崖仏手前右手の岩壁に浮き彫りされている金剛杵を持った左手を高く上げた仁王像

中尊の大日如来坐像..両側に如来像、菩薩像、明王像、天像が曼荼羅式に彫られている

古園石仏..中尊の大日如来坐像を含め計13体の磨崖仏が鎮座
  
中尊の大日如来坐像は幽玄で神秘的な雰囲気を漂わせていて、日本全国の石仏の中でも最高傑作にひとつと言われる

古園石仏は臼杵石仏の中心的的存在で「古園十三仏」と言われる

大日如来坐像左手の6仏 (右から如来坐像2体、菩薩坐像2体、不動明王坐像、増長天立像)

大日如来坐像右手の6仏 (左から如来坐像2体、菩薩坐像2体、降三世明王坐像、多聞天立像)
 
中尊大日如来坐像の頭部は長い間下に安置されていた/平成5年に仏頭を復位した(掲示写真を拝借)
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国宝臼杵石仏-(1) (臼杵)

2015年02月05日 | 石仏巡り

【大分・臼杵市】深田の里の丘陵地帯に鎮座する臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫像された石仏群。 臼杵石仏は、規模、数、彫刻の質の高さいずれにおいても日本を代表するもので、平成七年(1995)、全国で数ある磨崖仏の中で唯一国宝(60余体中59体)に指定された。
磨崖仏は四群に分かれ、石仏が鎮座する地名によって「ホキ石仏第一群(堂ヶ迫群)」「ホキ石仏第二群」「山王山石仏」「古園石仏」と名付けられている。 (「ホキ」とは「岸險(がけ)」という意味の地名)

臼杵駅前からバスで臼杵川沿いを遡り、磨崖仏が鎮座する深田の里に向かった。
前日購入した「4施設共通券」で入場し、高く聳える杉木立の参道を進んでホキ石仏第二群に....。
まずは覆屋の前に湧きでている「観音の水」で清め、1千有余年の風雨に耐えて鎮座している石仏を参拝しながら、そのお姿をカメラに収め始めた。 磨崖仏でありながら丸彫りに近い精巧に彫像された石仏、そして僅かだが1千有余年前の色彩が今に残っていることに驚かされ、感動した。

参道から眺めたホキ石仏第二群の覆屋(平成6年落成)
 
ホキ石仏第二群の前に湧きでている「観音の水」

五輪塔越しに眺めたホキ石仏第二群の覆屋

ホキ石仏第二群第1龕の阿弥陀三尊像

ホキ石仏第二群第1龕の中尊は阿弥陀如来坐像、右は観世音菩薩立像で左は勢至菩薩立像
  
ホキ石仏第二群第1龕の中尊・阿弥陀如来坐像..最も優れたほぼ丸彫りのひとつ/礎石(磨崖仏に掛けられていた建物の礎石の1つ)

ホキ石仏第二群第1龕「阿弥陀三尊像」..奥に第2龕の「九品の弥陀像」

ホキ石仏第二群第2龕..中尊は阿弥陀如来坐像で定印を結ぶ
 
ホキ石仏第二群第2龕の「九品の弥陀像」..3体が破損し現存は10体/「九品の弥陀像」の右に立つのは右手に三鈷剣を持つ不動明王像か?
 
ホキ石仏第二群第2龕..9体の阿弥陀如来像が鎮座(中尊の左右の各4体は通印相を結ぶ)

ホキ石仏第二群第2龕..阿弥陀如来立像3体と観世音菩薩立像

ホキ石仏第一群の覆屋(平成6年落成)

ホキ石仏第一群(堂ヶ迫)..4つの龕からなる

ホキ石仏第一群第1龕..右から観世音菩薩立像、阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像、薬師如来坐像、勢至菩薩立像(破損)

ホキ石仏第一群第1龕..如来坐像3体と菩薩立像2体

ホキ石仏第一群第2龕(3体の如来尊像)..過去現在未来の三世仏
  
ホキ石仏第一群第2龕..中尊は阿弥陀如来坐像、右は釈迦如来坐像えで左は薬師如来坐像
 
中尊の阿弥陀如来坐像..1千有余年前の色が今も残っている
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神護寺-(2) (京都)

2015年02月03日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】平安時代の仁安三年(1168)、空海を慕った文覚上人が草堂を建てて復興に着手、元暦二年(1185)に四十五箇条起請文を作成して復興協力を後白河上皇に要請して勅許を得、更に源頼朝の援助もあって復興した。
南北朝の動乱、室町時代の応仁の乱(1467~1477)で諸堂が焼失して衰退した。 その後、江戸時代元和九年(1623)、龍厳上人のときに金堂(現毘沙門堂)・五大堂・宝塔院などがの堂宇が建立されて復興したが、明治維新に再び衰退、現在の伽藍の大半はその後に整備された。

金堂を拝観して振り返って見下ろすと、入母屋造銅板葺の五大堂と毘沙門堂の屋根が連なる。
毘沙門堂の少し先に住宅風で柿葺の大師堂があるが、ここは住持を務めた弘法大師・空海の住坊....空海さんがおられた所にいま自分が足っていることに感慨無量の面持ちになった。
後で知ったことだが、教科書でお馴染みの源頼朝の肖像画はこの神護寺に収蔵されているものとか。

金堂の向拝部から眺めた五大堂(手前)と毘沙門堂(後)

五大堂..江戸時代元和9年(1623)頃の再建で、当初は平安時代天長年間(824~834)建立

入母屋造銅板葺の五大堂..五大明王像,不動明王像などを祀る
  
五大堂..周囲には切目縁を設けている/扉は板唐戸に明り障子だったか、脇間には蔀戸

毘沙門堂の脇から眺めた五大堂

毘沙門堂..江戸時代元和9年(1623)頃建立
 
入母屋造銅板葺の毘沙門堂..周囲の切目縁に擬宝珠高欄を設けている

毘沙門堂の厨子内に毘沙門天立像を安置

大師堂..安土桃山時代建立、入母屋造柿葺妻入り、鎌倉末期作の弘法大師坐像を安置
 
大師堂は元は納凉坊と呼ぶ空海の高雄山寺時代の住坊/大師堂前に立つ石造転法輪..「南無阿弥陀仏」を1回転させながら唱えると、念仏6万遍の功徳があるとか

多宝塔..昭和9年(1934)建立
 
多宝塔..神願寺から移された木造五大虚空蔵菩薩坐像を安置

閉ざされた門の隙間から見た多宝塔の正面入口

地蔵院..宝形造桟瓦葺,頂部に露盤宝珠が乗る
  
脇間に連子窓、中央間の扉は桟唐戸/扁額の両側に初めて見る装飾/桟唐戸の上部は「花狭間」かな
 
このお堂の名前は?         「かわらけ投げ」から眺めた雨霧に浮かぶ尾根の松の木々     
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神護寺-(1) (京都)

2015年02月01日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】創建は古いが不詳。 平安京造営に功績のあった高級官僚・和気清麻呂が、宇佐八幡宮の神託で奈良時代延暦元年(782)に建立した河内国神願寺と天応元年(781)にこの地に建立した高雄山寺とを合併し、平安時代天長元年(824)に開いたのが神護寺(正式名は神護国祚真言寺)とされる。
平安時代の大同四年(809)に唐から帰朝した空海が入山し、東寺に去るまで14年間住持を務め、宗教活動を行った。 空海の跡を継いだ真済が一重塔を建立するなどして真言宗寺院の寺観を整えたが、平安時代久安五年(1149)、火災によって伽藍を焼失、以後、衰微し荒廃。
宗派は高野山真言宗で、本尊は合併の際に神願寺から移された薬師如来像。

小雨降る中、清滝川に架かる朱塗りの高雄橋を渡って長い参道の石段を上り切ると、お寺を護る持国天像と増長天像が鎮座する楼門に着く。 楼門の右手に筋塀で囲まれた本坊がある。
楼門の中から境内を眺めたが本堂等の仏堂が見えない....が、楼門をくぐると右手に書院、和気公霊廟そして龍王堂があり、霊廟の後方の林の中に大きな鐘楼が見える。
境内に入って直ぐ気になったのは筋塀の筋数で、楼門と書院門の袖塀の筋が5本なのに対し、本坊や書院の周りの塀は3本で異なることだ。 小雨が降り続ける中、筋塀の筋数を気にしながら、境内の奥の乱積の基壇の上に鎮座する豪壮な金堂に向かった。
 
清滝川に架かる高雄橋..1927年架橋(1982年再架橋)/参道脇にある「硯石」(空海ゆかりの石)
 
参道石段の上に建つ楼門(山門)..江戸時代寛永6年(1629)建立..袖塀に5本の筋が入っている

楼門の右手奥に建つ本坊..塀には3本の筋が入っている

入母屋造桟瓦葺の重厚な楼門..上層に和様の組高欄
  
楼門に鎮座して守護する持国天像(左)と増長天像(右)/楼門から眺めた堂宇が見えないみ広大な境内

境内から見た楼門..組物が素晴らしい

境内に入って直ぐ右手の筋塀(筋3本)の中に建つ入母屋造桟瓦葺の書院(右手は本坊)

書院の門..袖塀は5本の筋が入った筋塀

和気清麻呂公霊廟..後方は鐘楼

和気清麻呂公霊廟..昭和9年(1934)建立
  
切妻造檜皮葺の霊廟/「和気公墓道」の石標..墓は山の中腹にある/鐘楼への参道石段

鐘楼..江戸時代元和年間(1615~1624)建立、梵鐘は平安時代貞観17年(875)鋳造
  
入母屋造柿葺袴腰付の鐘楼(逆蓮頭の高欄?)/組物が素晴らしい/鐘楼近くに鎮座する不動明王像

龍王堂..右手奥は鐘楼
 
寄棟造桟瓦葺の龍王堂..正面三間は蔀戸か?

金堂..昭和9年(1934)建立、本尊の薬師如来像の他多くの仏像を祀る
 
入母屋造本瓦葺の金堂..周囲に擬宝珠高欄の縁を設けている
 
朱塗りで格天井の金堂..向拝の軒がなく、扉は板唐戸のようだ
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