何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

普現寺 (臼杵)

2020年07月29日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】鎌倉時代の永仁二年(1294)、大友氏第2代当主で幕府の御家人・大友親秀の五男・親直(野津五郎頼宗)が白象に乗った金色の普賢菩薩の霊夢を見たことが縁で、覚庵禅師を開山として創建された。
安土桃山時代の天正六年(1578)、島津氏の豊後侵攻で敗れた後に荒廃したが、江戸時代の正保四年(1647)、月桂寺四世大安和尚を開山として現在地に再興された。 寺号は「普賢」に同音の「普現」を当てたものとされる。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は釈迦如来像。
普現寺は、大分県に伝承される”とんち話”の主人公「きっちょむ(吉四六)」のモデルとされる初代廣田吉右衛門の菩提寺で、墓所に吉右衛門や女房「おへま」さんらのお墓があり、寺内に位牌を安置している。 

紅葉が残る鬱蒼とした樹林の中に続く参道を上っていくと右手に墓所が広がり、「廣田吉右衛門之墓所」の標石が立つ覆屋に、初代吉四六さんこと初代吉右衛門を含めた4基の墓石が並んでいる。
参道を上りつめると、苔生した城壁のような高い石垣があり、まるで山城のような雰囲気の門前に着く。 静謐な空気が満ちている門前に続く緩やかな切石敷の参道を進んで山門に。
屋根に鯱を乗せた山門をくぐると、落ち着いた佇まいの境内が広がり、向拝がない古民家風の本堂が南面で建つ。 山門の直ぐ左手に谷積の高い台座があり、その上に牙のある象の背に乗った普賢菩薩坐像が本堂を向いて鎮座している。 普賢菩薩は瞑想しているようなお顔だ。
渡り廊下で本堂と連なる庫裡の前に、苔生した石造りの反橋が架かる放生池があり、その奥は一面苔に覆われた庭園になっている。 庭園の中に、笠が苔生した五層の石造り塔燈籠、丸彫りの石仏そして三間四方のお堂が建っている。 塔燈籠は頂部が欠落しているが、傍の地面に相輪が置かれているのでこれが塔燈籠の頂部か。 また、塔燈籠の脚間に合掌する小さな如来石仏が鎮座しているのが印象に残った。

△寺号標石越しに眺めた門前の参道....寺号標石は昭和七年(1932)の造立

△苔で覆われた城壁のような石垣、そして石垣に沿って続く緩やかな石段の奥に山門が建つ

△僅かに紅葉が残る深閑とした門前

△切妻造本瓦葺で山門....大棟端に鯱を乗せ、両側に桟瓦葺で板張りの小さな袖塀を設けている

△山門は四脚門で、唐草彫刻を施した梁の上いっぱいに精緻な龍の彫物がある

△山門の傍に建つ入母屋造本瓦葺の鐘楼

△鐘楼の軒廻りは吹寄垂木、大棟端に「三つ木」の紋を入れた獅子口、拝は蕪懸魚

△入母屋造本瓦葺の本堂....向拝がなく、身舎右側に大玄関がある....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は白壁の素式

△本堂の正面は全面が腰高格子戸で古民家風の造り

△軒廻りは二軒繁垂木で組物は舟肘木....向拝はないが切目縁の真ん中の前に石段が置かれ、鴨居に山号を記した扁額がある

△本堂の右端に設けられた唐破風の大玄関....隣接する建物は庫裡

△本瓦葺の唐破風大玄関....獅子口を乗せ、兎毛通は変形の猪目懸魚(と思う)、妻飾は虹梁大瓶束
 
△大玄関前に置かれた自然石を利用した飾手水鉢と石燈籠/本堂境内の隅に佇む弘化二年(1845)造立の石燈籠

△入母屋造桟瓦葺で妻入の庫裡....周囲に桟瓦葺の庇を設け、二階正面に高欄を設けた縁がある珍しい造り

△谷積の高い台座の上に本堂を向いて鎮座する普賢菩薩坐像
 
△牙のある象の背に鎮座する普賢菩薩坐像/台座前の苔生した笠の石燈籠(造立年を失念)の竿に「無尽燈」の刻....基礎の下に四脚を設けている

△白壁の築地塀の傍に佇む石造物群....中に地蔵石仏が鎮座する屋根と笠付の石造り仏龕2基、また3体の石仏(地蔵菩薩?)が鎮座(2体は坐像)
 
△身体が苔に覆われ、摩耗が激しい地蔵菩薩立像....錫杖がないが頭頂から地蔵菩薩/唐破風笠付きの三界萬霊塔

△庫裡前の放生池に架かる苔生した石造の太鼓橋....手前に苔生した庭園が広がる

△苔に覆われた欄干付き反橋(太鼓橋)
 
△反橋から眺めた苔生した庭園            笠が苔生した五層の石造塔燈籠

△塔燈籠の脚間に鎮座する合掌如来石仏
 
△欠落した塔燈籠の相輪部が地面に置かれている/珍しい台座の上に鎮座する石仏像....右手の錫杖が消失しているが地蔵菩薩立像と思う

△庭園内に建つ入母屋造銅板葺で三間四方のお堂(堂名不詳)....中央間に格子戸で脇間は両開きの桟唐戸(と思う)

△側面は二間の腰高明障子と羽目板....一軒繁垂木、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子

△参道脇の覆屋に「廣田吉右衛門之墓所」(左端が初代吉四六さんの墓碑)....大分県の代表的な民話の豊後の奇人「吉四六」こと広田吉右衛門や妻「おへま」らの墓石が立つ(普現寺に位牌あり)....吉右衛門は代々小庄屋を務め、名字・帯刀を許された由緒ある家柄
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名古屋城の守り神「尾張四観音」

2020年07月25日 | ひとり言

【愛知・名古屋市&あま市】昨年(2019年)、名古屋を中心に愛知県の寺社をめぐったが、その中に「尾張四観音」と称される四寺院が含まれている。 「尾張四観音」は、徳川家康が名古屋城を築城する際、城の守り神として、鬼門の方角にある尾張国の四つの寺院を鎮護として定められたとされる。
名古屋市街を囲むように鎮座する四つの寺院は、、北東に位置する龍泉寺(龍泉寺観音)、南西に位置する観音寺(荒子観音)、南東に位置する笠覆寺(笠寺観音)、北西に位置する甚目寺(甚目寺観音)で、いずれも平安時代以前に創建された古刹だ。 ご本尊はいずれも平安時代造立とされる観音菩薩で、観音様の慈悲をもとめる民衆の信仰を集めた。
「尾張四観音」には趣のある楼門(仁王門)と多宝塔(または三重塔)が建ち、荘厳な堂宇が建ち並ぶ伽藍は歴史を感じさせる。

■龍泉寺(龍泉寺観音)  <名古屋城の北東/守山区>

延暦年間(782~806)、天台宗開祖の伝教大師最澄による創建と伝える。 江戸時代宝暦五年(1755)に記された古文書「龍泉寺記」では、「延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、龍の住む多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。
一方、弘法大師空海も熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺の地中に埋納して熱田神宮の奥の院としたことから、龍泉寺は伝教・弘法両大師の開基ともされている。 龍泉寺は庄内川を望む高台にあって濃尾平野を一望できるため、尾張の歴史上古くから軍事施設として使われた。 宗旨は天台宗で、本尊は馬頭観音菩薩像。

△入母屋造杮葺の仁王門(重文)....入母屋造柿葺の楼門、江戸時代慶長二年(1607)の建造

△入母屋造桟瓦葺で妻入の本堂....明治四十四年(1911)の再建 (前本堂は明治三十九(1906)の放火で焼失)

△本瓦葺の多宝塔....安土桃山時代の慶長三年(1598)から復興開始 (前多宝塔は長久手合戦で焼失)

■観音寺(荒子観音)  <名古屋城の南西/中川区>

奈良時代の天平元年(729)、修験道の僧・泰澄(山岳修験者)により草創され、泰澄の弟子の僧・自性により堂宇が整えられたとされる。 その後、興廃を繰り返したが詳細不明。
戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で、豊臣政権の五大老の一人だった前田利家が、天正四年(1576)に修造して再建し、自身の菩提寺とした。 加賀藩主前田氏の祖である前田利家は、荒子の土豪の家に生まれ、北陸に所領を与えられるまで観音寺近くに荒子城を構えていた。 利家が荒子城主の時、荒廃していた観音寺を修造した。 宗旨は天台宗で、本尊は聖観音菩薩像。

△入母屋造本瓦葺の山門(仁王門)....大正五年(1926)の建立で、延宝四年(1671)造像の仁王像は最大の円空仏

△入母屋造本瓦葺の本堂....安土桃山時代の天正四年(1576)、前田利家により再建

△檜皮葺の多宝塔(重文)....戦国時代の天文五年(1536)の再建....名古屋市内で現存する最古の建物

■笠覆寺(笠寺観音)  <名古屋城の南東/南区>

奈良時代の天平五年(733)(一部古文書では天平八年(736))、僧・禅光(善光)が浜に漂着した流木(霊木)で十一面観音菩薩像を刻み、像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりとされる。その後約二百年の歳月が流れて荒廃、お堂が壊れて本尊の観音像が風雨に晒された。
平安時代の延長八年(930)、公卿の藤原兼平がこの地に復興し、寺号を笠覆寺に改めた。宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は十一面観音像。

△入母屋造本瓦葺の仁王門....江戸時代後期文政三年(1820)の建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....江戸時代宝暦十三年(1763)の建造

△銅板葺の多宝塔....江戸時代初期の正保年間(1644~1648)の建立

■甚目寺(甚目寺観音) <名古屋城の北西/あま市>

創建及び開山は不詳だが、境内から奈良時代前期作とみられる古瓦が出土したことから、甚目寺は白鳳時代には存在していたようだ。 祀られている聖観音像は、百済から渡来したもので、敏達天皇十四年(585)(敏達天皇は記紀で第30代)、排仏を主張した物部守屋らの手によって海中に投じられた三尊仏の内の一尊とされる。 (他の二尊は、阿弥陀像が信州善光寺、勢至菩薩像は九州大宰府の安楽寺に安置)
大化の改新を断行した天智天皇(第38代)の病気平癒祈祷が縁で勅願寺となったのを契機に、大寺院へと発展した。 7世紀中頃に天智天皇より宝鏡が下賜され、続いて天武天皇七年(679)(天武天皇は記紀で第40代)、天武天皇から「鳳凰山」の額を勅賜した。 平安時代前期の仁寿三年(853)に堂宇が整えられたが、その後一時衰退した。
平安後期の康和五年(1103)、藤原連長や僧智能、大江重房らによって七堂伽藍が再興されて隆盛を極めたが、天治元年(1124)の大地震で甚大な被害を受けた。 鎌倉時代に入って建仁元年(1201)、聖観上人が勧進により再興をはかり、七堂伽藍が整えられた。 宗旨は真言宗(智山派)。 通称「甚目寺観音」と呼ばれている。

△入母屋造柿葺の南大門(仁王門、重文)....鎌倉時代建久七年(1196)の再建で、聖観上人寺再興の折、源頼朝の命で奉行梶原景時が建立

△入母屋造本瓦葺の本堂....平成四年(1992)の再建....創建時の本堂は安土桃山時代天正十三年(1585)の天正地震で被害を受けて再建したが、明治六年(1873)に焼失した、後は仮本堂に....

△本瓦葺の三重塔(重文)....江戸初期の寛永四年(1627)の再建
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吉備津彦神社-(3) (岡山)

2020年07月21日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】昭和五年(1930)、不慮の火災により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。 その後、昭和十一年(1936)、飛鳥時代の社寺建築の粋を集めて荘厳華麗な社殿が再建され、現在に至っている。
東面で鎮座していて、夏至の日には、朝日が正面鳥居から昇り、その光が社殿内に差し込み、祭文殿の御鏡に入るように建てられていることから「朝日の宮」とも称されてきた。 これは太陽を神と崇めた古代太陽信仰を示し、自然に対して畏敬の念を抱き、五穀豊穣や日本民族の安寧を願う神社として創建されたといえる。

本殿と渡殿が建つ一段高い境内や、社殿の南西側と北側の樹林の中に多くの境内社が鎮座する。
本殿・渡殿境内の周囲四隅に、本殿を護るように配祀されている尺御崎神社二社と楽御崎神社二社を低い透塀越しに眺める。 本殿を向いて鎮座するこの四社には、大吉備津彦命が吉備国を平定する際に活躍した四人の従者を祀っている。
中山の山腹に鎮座する稲荷神社に向かう。 社殿南側の築地塀に沿って立ち並ぶ朱塗りの鳥居を抜けると、傾斜地に稲荷神社の境内が広がり、その裾に石造り明神鳥居と四社の末社が東面で鎮座。 その中で目を引くのが、大棟に外削ぎの千木と4本の堅魚木を乗せた温羅神社で、桃太郎伝説で鬼とされるが吉備国に様々な文化をもたらした温羅命の和魂を祀っている。
石造りの鳥居をくぐって石段を上りつめると、樹林に囲まれて珍しい本瓦葺の稲荷神社が建つ。 この地方で最も古く稲荷神を祀った社だそうだ。
社殿北側に鎮座する摂社・子安神社に向かう。 参道の中ほどに石造りの明神鳥居が立ち、直ぐ右隣に、太宰府に左遷される道中この神社に立ち寄った菅原道真を祀る天満宮が鎮座。 鳥居を通して、石段の上に子安神社の拝殿が見える。 石段を上ると朱塗りの子安神社が東面で建ち、その右手に7つの末社が整然と並んでいる。 子安神社は江戸時代初期の新築で、檜皮葺の拝殿と透塀に囲まれた檜皮葺の本殿が鎮座....子授け、安産の神様として崇敬を集めていて、特に若い人の参拝が増えているようだ。

△祭文殿の南側に建つ入母屋造銅板葺の神饌所....神饌所は神様の御食を調理するところ

△正面五間は飾金具を入れた板扉、三間は連子窓、一軒は羽目板
 
△渡殿・本殿境内の周囲四隅に、本殿を向いて尺御崎神社(2社)と楽御崎神社(2社)などが鎮座 (写真は右手奥隅に鎮座する尺御崎神社)....祀られているのは大吉備津彦命が吉備国を平定する際に活躍した従者/右手奥に鎮座する流造銅板葺の尺御崎神社....夜目山主命を祀る

△左手前隅の築地塀傍に鎮座する流造銅板葺の楽御崎神社(楽々与理彦命を祀る)、右隣に石造り切妻造の岩山神社(建目方別命を祀る)

△稲荷神社への参道に立ち並ぶ朱塗りの明神鳥居....石燈籠は享保十三年(1728)の造立

△朱塗りの鳥居を通り抜けると、稲荷参道の南側に境内社4社(末社)が鎮座....右から温羅神社、十柱神社、牛馬神社そして祖霊社(左端)

△千木と堅魚木を乗せた流造銅板葺の温羅神社(右端、温羅命之和魂を祀る)と十柱神社(吉備海部直祖など10柱を祀る)....温羅命之和魂は吉備国に製鉄技術をなどをもたらした

△流造銅板葺の祖霊社(左端)と牛馬神社....祖霊社は社家の祖霊、牛馬神社は保食神を祀る
 
△稲荷神社への石段参道前に立つ石造り明神鳥居....手前に「百度石」、鳥居を通して奥の傾斜地に鎮座するト方神社が見える/稲荷神社境内の傾斜地に鎮座する流造銅板葺のト方神社....池田信輝公と池田輝政公の霊神・輝武命と火星照命を祀る....奥の高台に鎮座するのは稲荷神社

△流造本瓦葺の稲荷神社....倉稲魂命を祀り、この地方で最も古く稲荷神を祀った社とされる

△石燈籠を備えた子安神社、天満宮、末社(7社)への参道入口

△石段参道前に立つ石造り明神鳥居....石段上に子安神社、鳥居右手に天満宮が鎮座

△明神鳥居の右手に鎮座する流造銅板葺の天満宮....平成十七年(2005)の再建で、延喜元年(901)に太宰府に左遷される道中、吉備津彦神社に立ち寄った菅原道真を祀る

△明神鳥居の左手を進むと吉備津彦神社の社殿境内に....

△摂社・子安神社....古より祀られる子安神社を慶長十四年(1609)、姫路藩2代藩主池田利隆(照直)が光政誕生を祝って新築....伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命を祀る

△入母屋造檜皮葺の拝殿....中央間は引き戸の腰高格子戸、両脇間は菱格子窓、側面二軒は菱格子窓....軒廻りは一軒疎垂木、組物は唐草模様を入れた絵様肘木で中備無し

△拝殿を通して眺めた本殿....上に花狭間、下に格狭間を入れた桟唐戸で、両脇に小脇羽目、擬宝珠高欄付き廻縁で縁奥に脇障子がある

△流造檜皮葺の本殿(一間社流造り)....大棟端に「五七桐」の紋を入れた鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾りは虹梁大瓶束

△子安神社の北側に整然と鎮座する流造銅板葺の境内社(末社7社)

△境内社の奥から社殿方向に眺めた末社群

△子安神社の北側隣に鎮座する下宮(倭比賣命を祀る)
  
△伊勢宮(天照大神を祀る)/幸神社(猿田彦命を祀る)/鯉喰神社(楽々森彦命荒魂を祀る)
  
△矢喰神社(吉備津彦命御矢を祀る)/坂樹神社(吉備津彦命御矢を祀る)/祓神社(祓戸神を祀る)
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吉備津彦神社-(2) (岡山)

2020年07月17日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】戦国時代の永禄五年(1562)、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭って古代の社殿を焼失した。 その後、慶長二年(1597)に宇喜多秀家、慶長六年(1601)に小早川秀秋が再建に着手して同九年(1604)に51宇を復元した。
慶長八年(1603)、姫路藩主池田輝政の次男忠継が岡山の地に入封し、江戸期の大名・池田家の治世が始まり、吉備津彦神社に対する崇敬厚く、延宝五年(1677)に300石の社領を寄進した。 岡山藩初代藩主(池田家宗家3代)池田光政は、神社に佛教的建築があるのを嫌って51宇及び御釜殿を廃除し、現在の地に昔の熱田神宮様式の社殿の建築に着手。 長男の2代藩主綱政の治世の元禄十年(1697)、本殿、渡殿、釣殿、祭文殿、拝殿と連なった社殿が完成した。

石段を上ると、吉備の山中を背にして荘厳な空気が漂う静謐な社殿境内が広がる。 石段上の両側に、軒先に釣燈籠がずらりと吊り下げられた廻廊が建ち、参拝者のお休み処になっている。 廻廊前には樹齢千年以上とされるご神木で、「平安杉」と呼ばれる枝ぶりが寂しい老杉が聳え立つ。
正面に、広い向拝の拝殿が基壇上に建ち、雨が当たらない向拝の軒下に備前焼とみられる狛犬が鎮座。 拝殿後方に連なって祭文殿と渡殿、そして本殿が中山を背にして建ち並んでいる。 拝殿と祭文殿と渡殿は昭和十一年(1936)の再建だが、いずれも古社を感じさせる造りで趣がある。
周囲に透塀を設けた一段高くなった境内に渡殿と本殿が鎮座。 本殿は、正面に檜皮葺の平唐門を設けた透塀に護られている。 約320年前の元禄時代に建てられた檜皮葺の本殿は「三間社流造り」で、荘厳で品格ある趣なのだが、手前の透塀からの拝観のみで、近づいての細部意匠が見られず残念。

△随身門境内から眺めた上段の境内に建つ拝殿と左右の廻廊....石段下の石燈籠は元禄十年(1697)の造立....上段境内に聳え立つご神木の「平安杉」は樹齢千年以上とされる

△石段下から見上げた拝殿....向拝に紙垂としめのこをつけた長い注連縄が張られている

△石燈籠が並ぶ乱積の石垣の上に建つ廻廊(石段の左)....切妻造銅板葺で前面に連子窓が並ぶ....廻廊は参拝者のお休み処になっている
 
△石段上右側の短い玉垣....廻廊の連子窓前にずらりと吊り下がる釣燈籠/右側の石垣下に佇む石造物....古い石塔のようだが

△切妻造銅板葺の廻廊(石段上の右手)....大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝は猪目懸魚、境内側にも釣燈籠が下がる

△入母屋造銅板葺の拝殿....昭和十一年(1936)の再建、壇上積風の基壇に建ち正面は七間
 
△向拝屋根の下に鎮座する狛犬....備前焼と思うが、随身門前の表面が滑らかな姿の狛犬とは異なる?

△身舎柱は円柱なのに対し向拝柱は面取方柱

△中央間三間の扉は飾金具を配した両折両開の板扉....「一品一宮 吉備津宮」の大きな扁額がある

△拝殿を通して眺めた祭文殿....社頭に3本の御幣(紙垂は金箔?)が立てられている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備は中央間三間のみに脚間に彫刻を施した本蟇股

△側面は変則の五間で、中央間に飾金具を施した板扉、両脇間は格子窓と幅の狭い小脇羽目板....基壇上に組高欄付き廻縁を設けている

△拝殿側面の扉から眺めた祭典や御祈祷を斉行する祭文殿

△拝殿後方に連なる祭文殿、その後方に渡殿と本殿が鎮座....祭文殿は亀腹上の石板台座上に建ち、台座周囲に組高欄を設けている

△切妻造銅板葺の祭文殿....昭和十一年(1936)の再建、本殿を向いた流造で軒廻りは二軒繁垂木、組物は不明....拝殿側は七間(と思う)で中央に板扉、両脇間三間には二間の連子窓と小脇羽目板

△側面五間は小脇羽板三間、飾金具を施した両折両開の腰高格子戸そして連子窓....格子戸と小脇羽目板二間に庇を設けている....大棟に鳥衾を乗せ「十六菊」の紋を入れた鬼板、拝は猪目懸魚、妻飾は豕扠首....

△透塀で囲まれた一段高い境内に建つ渡殿と本殿....手前の石燈籠は元禄十一年((1696)の造立

△入母屋造銅板葺の渡殿....昭和十一年(1936)の再建、正面五間・側面三間で周囲に組高欄付き切目縁があるが本殿側が少し高くなっている....大棟に鳥衾を乗せ「十六菊」の紋を入れた鬼板、拝は猪目懸魚、妻飾は豕扠首

△正面中央間は飾金具を施した板扉、脇間二軒は飾金具を施した蔀戸....側面は飾金具を施した板扉、飾金具を施した蔀戸そして横羽目板

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蓑束....蛇腹支輪が設けられている

△流造檜皮葺の本殿....「三間社流造り」で、元禄十年(1697)に岡山藩主・池田綱政による再建(造営着手は寛文八年(1668)に父池田光政)

△正面に檜皮葺の平唐門を挟んだ透塀に囲まれて鎮座する本殿....大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△軒廻りは二軒繁垂木、軒支輪がある....大棟・鬼板・懸魚などに「十六菊」の紋章....胡粉を施した組物の種類や中備は不明....手前に笠が異常に小さく寸胴型の珍しい石燈籠が立つ

△背後の吉備の中山に向かって拝殿、祭文殿、渡殿、神門(平唐門)を介して本殿が建ち並ぶ
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吉備津彦神社-(1) (岡山)

2020年07月13日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】社伝では推古天皇(第33代)の御代の創建とされる。 備前国と備中国の境にある吉備の中山(標高175m)は、古来より神体山と仰がれ、神の依代とされる巨大な磐座や神域を示す巨石群の磐境がいまも残っている。 崇神天皇(記紀で第10代)の御代、大和朝廷の命により四方に派遣された四道将軍の一人で西道に遣わされた大吉備津彦命が、神体山である中山に祈願し、吉備国を平定したことで現人神として崇められた。 吉備国を深く愛した大吉備津彦命が永住した中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが、社の起源とされる。
吉備国が備前、備中、備後、美作に分割された後は「備前国一宮」と呼ばれ、備前国の総氏神として信仰されてきた。 祭神の大吉備津彦命は、昔話「桃太郎」のモデルだった。

”吉備の中山みち”に面した参道入口に、石造りの明神鳥居がそびえ、珍しい備前焼の魔除けの狛犬が鎮座している。 鳥居をくぐり、松並木の切石敷の参道を進むと両側に神池が広がり、池に浮かんでいる鶴島には住吉神を祀る鶴島神社、亀島には宗像神を祀る亀島神社が鎮座している。
8枚の板石を張った幅の広い反橋を渡ると、「奉祝天皇陛下御即位三十年」の幕が張られた随身門にぐ~んと近づく。 随身門は約330年前の元禄時代の建立で、荘厳なたたずまいだ。 大きな目をした随身像が鎮座する随身門をくぐると、左右に大きな石燈籠が聳え立つ。
「大燈籠」と呼ばれる石燈籠は、基礎~火袋までが一石造りで、高さ約12メートル、笠石八畳の大きさで東洋一とされる。 見上げるほどの巨大な石灯籠だが、随身門の屋根よりも高いのでうなずけた。

△”吉備の中山みち”に面して参道入口に聳える石造りの明神鳥居、傍に大きな狛犬が控える

△石造りの明神鳥居(額束に神号の額なし)....社号標石は昭和八年(1933)の造立で、「備前一宮 吉備津彦神社」の刻
 
△明神鳥居の前の磐座に鎮座する備前焼の狛犬(造立年は不詳)/狛犬の後方の石燈籠は大正十三年(1924)の造立

△朱塗りの木燈籠が建ち並ぶ松並木の切石敷参道....参道の左右に広がる神池には亀島(左)と鶴島(右)がある
 
△参道右側に広がる神池に浮かぶ鶴島....鶴島には鶴島神社が鎮座/鶴島に佇む石燈籠は明治十七年(1884)の造立

△鶴島に鎮座する鶴島神社への参道に架かる3枚板石の反橋

△流造銅板葺の鶴島神社....住吉神など4柱を祀る....境内には正岡子規に師事した高浜虚子の句碑や服部忠志の歌碑がある

△参道左側に広がる神池に浮かぶ亀島....亀島には亀島神社が鎮座
 
△宗像神を祀る亀島神社....祭神は海上交通の守護神の女神/流造銅板葺の亀島神社....周囲に擬宝珠高欄付き廻縁、向拝階段下に浜床

△神池に架かる8枚の板石を張った幅広の反橋(太鼓橋).....建造年は不詳

△石造りの反橋から眺めた随身門

△朱塗りの家型木燈籠(据燈籠)が立ち並ぶ参道から眺めた随身門

△「奉祝天皇陛下御即位三十年」の幕が張られた随身門、左右に立つ大きな石燈籠は門より高い

△切妻造本瓦葺の随身門....元禄十年(1697)池田綱政による造営
 
△随身門左右の金剛柵の奥の格子の中に随身姿の守護神像を安置/左側の随身「豊磐窓命」だったと思う

△随身門の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は平三斗、妻飾は虹梁蟇股

△随身門を通して眺めた石段上の拝殿
 
△随身門境内に建つ手水舎と2基の大石燈籠/手水舎の近くにある古井戸

△切妻造銅板葺の手水舎....元禄十年(1697)の建立で、石台の上に柱が立つ....手前の石燈籠は元禄十年(1697)の造立
 
△手水鉢は有名な石工・河内屋治兵衛の造営により奉納/大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝に猪目懸魚、梁上に棟木を支える大きな笈形付き大瓶束

△随身門境内に聳え立つ安政六年(1859)造立の大石燈籠(2基)....石段には1670余名の奉納者名が刻
 
△一辺8メートルの基壇上、五段の石段の上に立つ大石燈籠....高さ11.5メートル、笠石八畳の大きさで東洋一とされる






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和歌浦天満宮-(2) (和歌山)

2020年07月09日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】江戸初期、紀州藩主の浅野幸長が2年の歳月を掛けて天神山の中腹に社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊を再建して慶長十一年(1606)に再興、現在に至る。
浅野幸長は安土桃山時代の武将で、浅野長政の子。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に紀州に入国、また、はじめ父長政とともに豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦いには徳川方に属した。
本殿、楼門、末社2棟(多賀神社本殿・天照皇太神宮本殿&豊受大神宮本殿)が国の重要文化財に指定されている。

楼門から”和歌の浦”を眺望した後、幾つかの境内社が鎮座する境内の東側に向かう。 木立の中に16の神社が鎮座していて、その内の14社が覆屋の中だ。 まずは、社殿右奥の天照皇太神宮・豊受大神宮など3社が南面で鎮座する覆屋に....天照皇太神宮と豊受大神宮は一つの社(本殿)で、二柱を祀る社殿のため側面は一軒だが正面は二間としている。 天照皇太神宮・豊受大神宮と多賀神社の2社殿はいずれも、向拝と身舎の軒下の細部や側壁面などに鮮やかな色彩が施されていて、絢爛だ。
少し戻って西面で鎮座する境内社のエリアに。 珍しい形の朱塗りの宗忠鳥居二基を備えた高富稲荷神社が覆屋内に鎮座している。 流造檜皮葺の社殿は、大棟に外削ぎの千木と堅魚木5本を乗せ、殿前に奉納された四基の小さな明神鳥居が置かれている。 覆屋の前に4頭、社殿の左右にそれぞれ6頭の神使の狐が鎮座し、神社を守護している。 高富稲荷神社の左手に住吉神社、その左手の基壇上の横長の覆屋に9社の小さなお社が整然と並んでいる。 9社が鎮座する覆屋の前に、石造りの明神鳥居を構えた東面の神社があるが社号は不詳だ。 赤い前掛けをした獅子の狛犬と石造りの狐像が鎮座しているので、稲荷社だと思うが....。
帰り際、楼門から”和歌の浦”と”紀伊水道”を遠望したが、素晴らしい眺めに疲れが癒された。
 
△境内西側の山裾に鎮座する石造り明神鳥居を構えた白鳥神社....白鳥大明神を祀る/大棟に2つの堅魚木を乗せた流造鉄板葺の祠....阿形狛犬の後方に鳥居に掲げられていた扁額が置かれている
 
△境内東側の覆屋に南面で鎮座する天満神社他2神社....手前右に白藤竜王と白高大神を祀る祠がある/流造鉄板葺の祠....昭和十六年(1941)建立で白藤龍王と白高大神を祀る

△切妻造桟瓦葺で鉄板葺の庇を設けた覆屋に三つの神社が鎮座....真ん中は天照皇大神宮と豊受大神宮二柱の本殿

△左から多賀神社、天照皇大神宮・豊受大神宮、白山比賣神社

△末社の多賀神社(左)と天照皇大神宮・豊受大神宮はいずれも国指定重要文化財

△流造檜皮葺の天照皇大神宮・豊受大神宮....江戸初期慶長九年(1604)の建立で、天照大神と豊受大神を祀る
 
△二神を祀るので正面二間(側面一間)とした流造....丸桁、海老虹梁、向拝部の水引虹梁、組物、木鼻そして身舎の長押、組物、柱、欄間などや側面壁に絢爛な色彩が施されている

△春日造檜皮葺の多賀神社....江戸初期慶長九年(1604)の建立、方一間の「一間社春日造」....伊奘那岐命・伊奘那美命を祀る
 
△天照皇大神宮・豊受大神宮と同様に絢爛な色彩が施されている....正面欄間の蟇股も美しい

△右端が白山比賣神社....本山は石川県の白山信仰の神社で、白山比咩大神(菊理媛尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱)を祀る
 
△流造檜皮葺の白山比賣神社/正面と側面に擬宝珠高欄付き縁、側縁奥に脇障子、前縁に小さな鳥居が置かれている

△境内の東端に数社の境内社が西面で鎮座している

△二基の朱塗りの宗忠鳥居を構えた高富稲荷神社(右)、左隣は住吉神社

△流造檜皮葺の高富稲荷神社....大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る、殿前に小さな4基の明神鳥居が立つ
 
△切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する高富稲荷神社/切妻造銅板葺の住吉神社

△住吉神社の左隣に建つ切妻造銅板葺の長い覆屋に境内社九社が整然と鎮座

△長い覆屋に鎮座する境内社九社は、左奥から白太夫神社、鹿島神社&香取神社、春日神社、柿本神社、神集神社、八幡神社、産霊神社、天穂日神社、三宝竃神社

△長い覆屋に対面して東面で鎮座する境内社(神社名は不詳だが、狐像があるので稲荷社?)

△石造り明神鳥居と4基の石燈籠を構え、獅子の狛犬と狛狐が守護している

△切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する境内社
   
△赤い前掛けをした獅子の狛犬/赤い前垂れをした稲荷神の神使の石造り狐像....写真は左側の像で巻物を咥えている

△楼門を通して眺めた”和歌の浦”
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和歌浦天満宮-(1) (和歌山)

2020年07月05日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】平安時代の康保年間(964~968)、漢詩人で参議の橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦に立ち寄り、菅原道真追慕の念を深くし、この地に社殿を建てて道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。
道真は延喜元年(901)、左大臣藤原時平の讒言により筑前太宰権師に左遷され、大宰府に向かう途中、荒れる海を避けるため和歌浦に停泊した。 海が穏やかになって大宰府に向かう際、船上から和歌の浦を望みながら2首の歌を詠んだ。
橘直幹建立の社殿は、天正十三年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めの兵火で焼失した。 主祭神は学問の神・菅原道真。 和歌浦天満宮は通称で、正式社号は天満神社。

海岸通りのバス停「権現前」に着くと、眼前に天神山の麓に御手洗池公園が広がる。 御手洗池の中に島が浮かび、島の東西に朱塗りの擬宝珠欄干付き平橋が架かっている。 平橋の上や島からは、天神山山腹の樹林の中に鎮座する和歌浦天満宮が遠望できる。
石造り鳥居から境内を眺めると、まず、正面の古びた石垣と石段、その上に建つ楼門と廻廊に目がいく。 石垣と石段は約400年前の江戸初期の造営で、傾斜地に張ったものを含めた石垣は野良石積、そして各段が歪んでいる急峻な石段は、壊れはじめているようにみえる。 また、ズームアップした楼門の写真を見て驚いた。 楼門と廻廊の屋根の数か所の瓦が破損しており、楼門の瓦の一部が廻廊の屋根に落下していたのだ。 訪問は2018年11月だったが、多分、同年の台風21号の猛威で破損したのだろう。
急峻な石段を上って楼門へ。 一間一戸で丹塗りの楼門は、軒が少し深く、また禅宗様式を取り入れていて趣がある。
楼門を通して透塀に囲まれた社殿が見え、拝殿と本殿の大棟に右三巴の神紋を配した檜皮葺屋根とが重なっている。 拝殿は平唐門の造りで、紙垂と多くのしめのこをつけた注連縄が張られている。 透塀の隙間から本殿の撮影を試みたが、連子子の間隔が狭いため断念。 唯一拝殿を通して本殿を拝観したが、絢爛豪華に飾られた向拝と身舎の軒下が素晴らしい。
拝殿左の透塀前に奉納されているたくさんの学業成就・合格祈願の絵馬をみていて、道真が立ち寄った地であることを実感した。
 
△天神山の麓に広がる御手洗池....池と周囲は御手洗池公園になっている/池の中の島に架かる平橋から遠望した天神山中腹に鎮座する和歌浦天満宮

△天神山中腹に樹林を背にして鎮座する和歌浦天満宮

△鳥居を通して眺めた境内....石造りの明神鳥居は明治三年(1870)の造立

△鳥居から眺めた下段の境内....社務所と手水舎が建ち、神使の牛像が狛犬として鎮座

△江戸初期造立の石垣と急峻な石段の上に建つ楼門....石垣は傾斜地を含めて野良石積
  
△入母屋造桟瓦葺の手水舎/手水舎内に置かれた賽銭箱、自然石を用いて造られた手水鉢そして屋根の千木を乗せた小さな祠

△石垣と石段は紀州藩主浅野幸長が再興した慶長十一年(1606)に造営された

△入母屋造本瓦葺の楼門(国重文)....慶長十年(1605)の建立で、この種の楼門としては最大級の規模....楼門の一部の屋根瓦(大棟、平降棟、掛瓦、隅降棟の鬼瓦の鳥衾など)、廻廊では大棟の瓦の一部が破損

△一間一戸の丹塗の楼門の左右(東西)に一軒疎垂木の廻廊を附設....神社建築に禅宗様式を取り入れた最初の建物とされる

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で柱間に2つの詰組、腰組も三手先....上層の廻縁は親柱には逆蓮頭を乗せた高欄
 
△楼門の東西に附設された入母屋造本瓦葺の廻廊....楼門は大棟に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は三ツ花懸魚、妻飾は分からず....廻廊の拝に猪目懸魚、妻飾は板張りの素式/楼門前の手水鉢の脇で本殿を向いて鎮座する牛像

△楼門を通して眺めた拝殿、透塀そして本殿の屋根

△本殿境内は本瓦葺の透塀で囲まれて鎮座している
 
△切妻造檜皮葺の平唐門が拝殿になっている....本殿と拝殿の大棟などに右三つ巴の紋章を配している/唐破風の拝殿の兎毛通は猪目懸魚

△入母屋造檜皮葺で大きな千鳥破風を乗せた本殿(国重文)....慶長九年(1604)、紀伊藩主浅野幸長により再興された

△周囲に庇を設けた本殿は桁行五間・梁間二間で、装飾性の富んだ桃山建築

△大棟両端と千鳥破風に外削ぎの千木と千木傍に各1本の堅魚木が乗る
 
△拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、虹梁下に彩色された花の彫刻を配す/本殿境内に立つ石燈籠

.△拝殿を通して眺めた本殿の向拝、向拝柱は身舎の円柱に対し面取柱....向拝や身舎の梁や組物などが絢爛豪華に飾られている....写真では脚間に動物の彫刻を配した蟇股が素晴らしい

△東側の廻廊から眺めた社殿全景....拝殿西側の透塀前に奉納された多くの学業成就・合格祈願の絵馬

△西側の廻廊から眺めた拝殿と本殿....本殿後方に浅野幸長再興時の石垣が見える

△天満宮の社殿境内の奥(東側)に末社などの境内社が鎮座している
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エラワン・ミュージアム (タイ)

2020年07月01日 | 史跡探訪-タイ編

【タイ・バンコク】エラワン・ミュージアム(The Erawan Museum)は、2003年、ベンツトンローグループ財団によってバンコク東部のサムットプカーン県に建造された庭園博物館。
骨董品等の芸術作品を展示する美術館と寺院とを兼ねた博物館で、建物の上に聳え立つ3つの頭をもつ「エラワン象」と呼ばれる巨大象のモニュメントは、博物館のシンボル。 「エラワン」とは、ヒンドゥー教のインドラ神(帝釈天)に仕える男の名前で、男はインドラ神が外出する時に乗り物として巨大像に化身、宇宙を自由に駆け巡ることができる神象として天界の神々から「 エラワン象」と呼ばれた。
「 エラワン象」は高さ29メートルで、重量は250トン。 巨大象の内部は寺院(ダーウドゥン天上界)になっていて、仏舎利や様々な時代の仏像が祀られている。

完成した3年後に「エラワン・ミュージアム」を訪れたが、当時はまだ観光パンフには記載されていなかったと思う。 アーチ形の看板が設けられたゲートから、台座の上に聳える黒い巨大な象が見えるが、まるで白ずんだ空に浮かぶシルエットのようだ。
ピンク色の台座は、身舎にタイ特有の装飾を施した円柱状の建物で、寺院を兼ねた博物館。 館内に入ると、高さ約15メートルの吹き抜け空間が広がっていて、ドーム形の天井には世界地図と星座を描いた鮮やかなステンドグラスが一面に張られていて、まるで、ヨーロッパの教会の中にいるような感覚に。 正面の階段の上に守護神たちに護られたお堂が建ち、そこから左右に、お堂を取り囲むように蛇がうねるような階段が天界に伸びている。 エラワン象の後ろ脚の螺旋階段から象の体内に....天上界とされる体内は、須弥壇や壁などが鮮やかな青色に彩色された神秘的な寺院になっていて、幻想的な雰囲気の中に多くの仏像が安置されている。
建物の周りは庭園になっていて、幾つかの精霊像を配置した池の水辺で子ずれの見学者が涼んでいた。 庭園を散策してゲートに戻る途中、鮮やかな伝統衣装を着てタイ舞踊を練習する女の子たちがいたので、練習風景を撮影させていただいた。 いままでタイ舞踊の練習風景を見たことがないので、目を輝かして楽しそうに踊る女の子たちの撮影はラッキーだった。

△エラワン・ミュージアムの大きな正面ゲート

△建物の上に博物館のシンボルである「エラワン象」と呼ばれる巨大象のモニュメントが聳え立つ
 
△3つの頭を持つエラワン象は銅製で、像高は29メートル、重量は250トン....内部は空洞で寺院になっていて諸仏像を安置/エラワン象の右後ろ脚から頭部へ昇る螺旋階段があり、最上階は寺院になっていて仏舎利や様々な時代の仏像を展示

△エラワン象ははインド神話に登場するヒンドゥー教のインドラ神(帝釈天)の乗り物....宇宙を自由に駆け巡ることができる想像上の生物
 
△エラワン象を支える台座であるピンク色の円柱状建物は高さ約15メートルのドーム構造(写真はNETから拝借)/入口上の装飾部に水牛に乗った守護神像が配されている

△建物内は吹き抜けの高さ15メートルの空間が広がっていて、正面の階段の上に様々な守護神に護られたお堂が建つ....お堂を取り囲むように精緻な彫刻が施された蛇がうねるような階段が天井に伸びている
 
△建物の天井には世界地図と星座を描いたステンドグラスを張っている/仏教・ヒンドゥー教・キリスト教の3つの宗教を融合させた世界観が広がる
 
△お堂前の左右に鎮座して仏敵の侵入を防ぐ守護神像
 
△床から曲がりくねった螺旋階段傍に聳え立つ彫刻が施されたスズ(錫・ピューター)製の仏柱/仏柱にはタイ仏教の宗教画が彫られている
 
△エラワン象の内部(最上階)は幅12メートル、奥行き39メートルの寺院(ダーウドゥン天上界)....幻想的な空間に鎮座する釈迦如来立像の印相は、左手が施無畏印で右手は降魔印(と思う)

△博物館を囲むように池泉回遊式庭園があり、池の辺に精霊像などが配されていて入園者の憩いの場になっている

△キンナりー(緊那羅)という天に住む音楽好きの精霊
 
△如意棒のようなものを手にするこの像は何の精霊?/水を操る蛇の精霊(蛇神)「ナーク」(と思う)

△園内でタイの伝統舞踊を練習する女の子たち

△タイ舞踊の練習の合間に一休みしている踊り子たち....頭上のトンガリ帽子は仏塔を表す
 
△豪華絢爛な衣装で独特の美しさであらゆるものを表現するタイ舞踊....「指先の芸術」と言われ、頭の先からつま先にいたるまで身体全体で美しい曲線を描く
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