何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

秦始皇帝陵兵馬俑 (中国)

2018年04月29日 | 史跡探訪-中国編

【中国・陝西省・西安市】約2200年前、秦始皇帝陵(紀元前210年頃造営)から東へ1500mの地点に配置された始皇帝を守るための地下近衛軍団。
 秦始皇帝陵兵馬俑は「秦始皇兵馬俑博物館」と「銅車馬陳列館」から成り、兵馬俑博物館の中は発掘順に1号坑、2号坑そして3号坑に分かれていて、地下に眠る秦始皇帝を護るために作られた陶製の兵士と馬の人形が、発掘途中なれど、八千数百体あると推定されている。 兵士俑(俑=古代中国で殉死者の代わりに埋葬した人形)はほぼ等身大で、顔の表情や衣服などは全て違っているが、いずれも手に武器を持ち、秦代の製造技術の高さが分かる。
兵馬俑が発見されたのは1974年で、秦始皇陵東側の果樹園で井戸を掘っていた農民が、偶然、陶器の破片を見つけたのが切っ掛け。

10年前の訪問だが、世界遺産である兵馬俑に向かう道路事情に驚いた。 舗装道路だが整備がよくなかった記憶がある。 路面のあちこちに穴が開いていて、かなりバスに揺られながら着く。
バスを降りると巨大な秦始皇帝像が目に飛び込んできて、圧倒される。
秦始皇兵馬俑博物館に入るが、吃驚するほど国内外の観光客で溢れかえっている。 巨大な空間に1号坑が広がり、ものすごい数の兵士俑が整然と並んでいて圧倒される。
兵士俑の顔は同じものが二つとないとされるが、確かにそうでみな表情が違う。 全て敵国があった東を向いているが、どの兵士俑も武器を持っていない。 よく見ると、右の手のひらが刀を持つときのような形をしているので、木製の武器を持っていたのだろう....と勝手に想像した。
博物館2号坑には陶製の軍吏俑、騎兵俑、弓矢俑など、また、秦始皇銅車馬陳列館には始皇帝専用の銅馬車二号車などが展示されていて、当時の製造技術の高さを間近に感じることができる。 地下に眠る秦始皇帝を護るため地下に配置された八千数百体にのぼるとされる兵馬俑....「世界の考古学史上、20世紀最大の発見」とされるのは頷ける。
 
兵馬俑の正面入口に立つ巨大な秦始皇雕像

秦始皇兵馬俑は「秦始皇兵馬俑博物館(1号坑、2号抗、3号抗)」と「秦始皇銅車馬陳列館」で構成

秦始皇兵馬俑博物館の1号坑

兵馬俑1号坑の入口側..国内外の訪問客で溢れかえっている

最大な巨大1号坑には2000体の兵士像が整然と並んでいるそうだ

秦始皇兵馬俑博物館の1号坑

兵俑の顔は全て敵国があった東を向いている
  
兵士の顔の表情は同じものがふたつとなく、何かが伝わってくる感じだ!

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗(奥に3号抗が建つ)

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部..まだ発掘中のようで殆どの俑が倒れている
  
2号抗の倒れている俑群      2号坑に展示されている弓矢庸   高級軍吏俑(将軍俑)
  
2号坑に展示されている戦鉋武士俑    騎兵俑            中級軍吏俑(中級凱甲俑)

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部
  
秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の兵馬俑..まだ発掘中のようだ      彩絵甲衣与服飾の説明

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部

秦始皇銅車馬陳列館
 
銅馬車二号車は始皇帝専用車(温涼車というらしい)/訪問客が触れている展示物は何だったか..失念!
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虎跑泉 (中国)

2018年04月21日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】唐代元和十四年(819)に虎跑山の麓に高僧・性空禅師が建立した虎跑禅寺の敷地内に湧いている源泉で、天下第三名泉のひとつ(他は江蘇省鎮江の中冷泉、無錫の恵泉)と称される。 開山・性空禅師の夢枕に仙人が現れ、仙人が2頭の虎を使って泉を掘らせた伝説から「虎跑泉」の名がついた。 虎跑禅寺は廃寺となり、その跡地に幾つかの堂宇だけが残る。
敷地内には幾つかの茶館があり、ミネラルを豊富に含んだ名水で入れたお茶は「龍井茶」とよばれ、その味は格別といわれる。

「虎跑」の額が掲げられた門から、深い樹林に覆われた寺院跡らしい雰囲気が漂う境内に入る。 目指す「虎跑泉」は境内の一番奥にある。 まずは含暉亭をくぐり、泊云橋が架かる日月池を通ると、木立の間から石垣で囲まれた丸い形の鉢孟池と石垣の上に虎跑史話館が見える。
池畔奥に玉帯亭が建ち、玉帯池の脇の参道を進んで、虎跑泉のシンボルでもある梦(夢)虎に向かう。 梦虎は仙人と2頭の虎の彫刻で、1983年に造立されたもの。 泉を掘った虎を従えた仙人は、岩陰にまるで涅槃仏のように横たえている。 仙人は安らかに眠っているようで、寝息が聞こえてきそうだ。
名水が湧き出る虎跑泉に向かう。 彫刻が施された古い虎跑碑がある叠翠軒を通って虎跑泉エリアに入ると、叠翠軒、羅漢堂、碑廊、滴翆軒そして品泉閣に囲まれた真ん中に石造り勾欄を設けた四角い泉がある。 また、碑廊側の石垣に、「虎跑泉」と刻まれた石板が嵌め込まれた直ぐ傍にもガラスで覆われた小さな泉がある。 「虎跑泉」の源泉は、滴翆軒の奥にある虎跑夢泉池のようだが....。
虎跑泉を覗き込んでみたが、溜まっている水はとても湧き出た清水のようには見えなかった。 そういえば、源泉とされる虎跑夢泉池の水は比較的澄んではいたが、湧水のような流れがなかったように感じた。

虎跑泉の入場門

含暉亭と日月池..池に架かるのは泊云橋

入母屋造瓦葺の虎跑史話館..手前の池は鉢孟池(鉢孟は僧侶の飯器のこと)
 
樹林の中に建つ虎跑史話館と館内の展示物

玉帯池と軒が大きく反りかえった玉帯亭
 
木立の間から眺めた玉帯亭       参道の途中にある馬の石像..半丸彫りのような珍しい造立

寄棟造りの濟公塔院

梦虎雕塑手前の参道に建つ軒反りの大きな清音停

梦虎雕塑..1983年造立

性空禅師の夢に現れた仙人像と泉を掘った2頭の虎像
 
眠ったように横たえる仙人..2頭の虎が泉を掘るのを待っているのかな?
 
弘一法師舎利塔への参道に建つ仰止亭        弘一法師舎利塔

虎跑泉エリアへの参道に建つ照壁
 
虎跑泉エリアに建つ叠翠軒..奥の白い建物は茶楼          叠翠軒に鎮座する虎跑碑

羅漢堂..明代洪武年間(1368~1398)創建
 
羅漢堂入口に掲げられている「羅漢堂」の額/羅漢像が安置されている前のガラスにも羅漢堂が描かれている

羅漢堂脇から眺めた左に碑廊、右に連なる滴翆軒と品泉閣

碑廊とその前にある虎跑泉
 
石垣に嵌め込まれ「虎跑泉」の石板..手前の小さな四角の泉が本来の虎跑泉/碑廊の壁に貼り付けたように置かれた石碑群
 
滴翆軒の奥にある虎跑夢泉池..ここが虎跑夢泉源          虎の人形は余分な気がするが..
 
山泉居茶楼..虎跑泉の水で飲むお茶はまろやかで美味しいとか/山泉居茶楼内の円形の仕切り門
 
三重屋根瓦葺の鐘楼..下層に妙音菩薩らしき仏像が鎮座
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八坂神社 (国東)

2018年04月19日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】武蔵町手野に鎮座する八坂神社....調べたが創建や由緒などは分からず。

一対の大小の石燈籠を従えた大きな一の鳥居から道を挟んで石段参道の途中に二の鳥居が立つ。 いずれも力強い造りの石造りの台輪鳥居だ。
二の鳥居の傍に柱が朱塗りの簡素な手水舎がある。 手水鉢の水口は見事な龍の彫刻だが、よく見ると龍の目線の先の手水鉢の縁に虎が浮き彫りされていて、互いに睨み合っている面白い構図だ。
石段を上り詰めると、緑の絨毯を敷いたような苔生した切石敷の参道が社殿まで続いている。 がっちりした体型の狛犬に迎えられながら、しめのこを吊り下げた注連縄を張った向拝に。 苔生した数基の石燈籠が立つ拝殿は吹き放ちのような開放的な造りで、拝殿を通して幣殿や本殿が少しだけ見える。
幣殿は朱塗りの柱と白壁での造りで、側面に擬宝珠高欄を設け、蔀戸がある。 大きな覆屋に鎮座する本殿は屋根部がよく見えないが、組高欄を設けた側縁に脇障子があるので春日造とみられる。 本殿は幣殿と同じ朱塗りの柱と白壁、そして正面は全面が格子戸で質素な造りだ。
拝殿左の楽の間を通して朱塗りの摂社が見え、幣殿左手の基壇上に7基の石祠が鎮座している。
道路に面した境内の木立の中に、擬宝珠高欄付き台座に立つ大きな石碑、一対の石造り仁王像、古そうな台輪鳥居そして朱塗りの随身門がある。 随身門に鎮座しているとみられる衣冠束帯に剣と弓を身につけた武官姿の随身像を撮るのを失念した。 随身門の直ぐ後方で仲良く並んで鎮座する一対の仁王像は、いずれも肉付きがよく、まるで相撲力士のようだ。

大きな常夜燈越しに眺めた二基の石造り明神鳥居..薄い台輪を付けた一の鳥居、道を隔てた奥の石段の上に二の鳥居がある

石段の途中に立つ二の鳥居の台輪鳥居
 
石段途中にある柱が朱塗りの切妻造屋根の手水舎..自然石を利用した苔生した手水鉢/龍の彫刻の口から清水が出てくると思う..龍の目線の先の鉢の縁に虎の彫刻がある

石段を上り詰めたところから眺めた境内..緑の絨毯を敷いたような苔生した切石敷参道が拝殿まで続く

社殿は権現造で、拝殿の両側に楽の間がある..向拝にはしめのこを吊り下げた注連縄が張られている

狛犬越しに眺めた拝殿..向拝の梁の上に見事な龍の彫刻
 
境内の中央に立つご神木は途中で切断された銀杏の老木

拝殿前に苔生しあた6基の石燈籠が立つ..向拝前の2基は竿下の台座に4頭の獅子彫刻が施されている

拝殿から眺めた幣殿と本殿..賽銭箱の上の梁に「神霊幽顕」の額が掛かる

拝殿後方に朱塗りの入母屋造桟瓦葺の幣殿、その奥の切妻造桟瓦葺の覆屋の中に本殿が鎮座
 
拝殿の左の楽の間を通して眺めた本殿の左に鎮座する摂社/切妻造桟瓦葺の朱塗りの摂社

拝殿の左手の基壇上に7基の石祠が鎮座
 
境内の左奥に建つ切妻造桟瓦葺の神楽殿、奥に神輿庫そして手前に簡素な覆屋に古井戸がある

手水舎がある境内の道路脇に建つ朱塗りの随身門

切妻造桟瓦葺の随身門..鎮座している衣冠束帯に剣と弓を身につけた武官姿の随身像を撮るのを失念

随身門の後方に並んで佇む石造り仁王像と奥に立派な台座上に石碑

阿形・吽形の仁王像が並んで鎮座している..右側の仁王像は右手に金剛杵を持つ
 
石造りの擬宝珠高欄を設けた台座に立つ石碑..後方に表参道に立つ鳥居と手水舎がみえる/苔生した裏参道に立つ石造りの第輪鳥居と石燈籠
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西光寺 (国東)

2018年04月17日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】由来や開創年代は不詳だが、境内に佇む国東塔の造立元号(南北朝時代至徳四年(1387))以前の創建とみられる。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は藤原時代作(平安時代)の阿弥陀如来坐像。

枯れた芝生で覆われた僅かな段差しかない緩やかな階を進むと、山門の前に鎮座するしなやかなお姿の観音菩薩と少し笑みを浮かべた地蔵菩薩が迎えてくれる。
薬医門の山門をくぐると、すぐ目の前に民家風の本堂が建ち、左手の基壇上に国東塔や無縫塔などの石塔が並んで佇んでいる。 案内板では、国東塔は「西光寺石造宝塔」と呼ぶようで、塔身の四方に地蔵尊像が半肉彫りされ、格狭間が彫られた基礎に造立目的の銘文が刻まれていて珍しい。
境内を囲む白壁の築地塀の角隅に鐘楼があるが、説明が難しいほどに変わった建て方と構造なのに驚いた。 鐘楼の2辺が塀の一部になっていて、また、柱の間が花頭窓のようになるように羽目板が張られた造りで趣がある。
国東塔の後方の石段を上ると、小高い丘の上に「天満宮」の額が掛かるどっしりとした台輪鳥居が立ち、鳥居と拝殿を通して天満宮が見える。 天満宮は向拝柱が設けられた立派な石造りの祠で、木鼻や懸魚などの細部を施したその荘厳さに感心させられた。

宗旨&宗派・山号・寺号が刻まれた門柱から眺めた境内
 
芝生の参道が山門まで続く..境内は低い石垣上の白壁塀に囲まれている

袖塀を設けた切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)..袖塀前の両側に石仏が鎮座
 
救苦観世音菩薩像..持物は左手に水瓶、右手に羂索か?/延命地蔵尊像..二重反花座に立ち、左手に宝珠を持つ、右手は欠落している?

石積みの基壇上に建つ入母屋造本瓦葺の本堂
 
周囲に切目縁を巡らし、向拝のない質素な構えの本堂正面に「蓮臺山」の扁額が掛かる
 
本堂前左手に国東塔や無縫塔などが佇む、高台の上に天満宮の鳥居が見える

西光寺石造宝塔(国東塔)..南北朝時代至徳四年(1387)の造立..現世安隠後生善所のために造立された
 
国東塔は高さ3.21mで、基壇上に三重基礎を据え、最上重を二区分として輪郭を巻きその中に格狭間を刻、台座は蓮華座を欠き一重八弁の反花のみ/塔身四方に珍しい地蔵尊像が半肉彫りされ、格狭間に造立目的の銘文が刻

趣がある造りの入母屋造桟瓦葺の鐘楼

鐘楼門の1層部を取り払って基壇の上に置いたような姿だ!

白壁塀から擬宝珠高欄がはみ出している

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺のこの御堂は?
 
石の形から金精神か?/境内の片隅に佇む五輪塔と6基の無縫塔..一部に享保二年(1717)の元号
 
境内高台に鎮座する天満宮への石段         石段下に置かれた手水鉢
 
御神燈と刻まれた石燈籠と強固そうな石造り台輪鳥居

入母屋造桟瓦葺の拝殿と石造りの本殿
 
流造の天満宮本殿の石祠..妻に蕪懸魚
 
高台に鎮座する石造物/稲荷大明神..神使の狐がおらず、らしからずの稲荷神社

八満宮がある高台から眺めた鐘楼と山門
  
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照恩寺 (国東)

2018年04月15日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】室町時代の天文二年(1533)、証如上人により開創されたようだ。 南北朝時代、京都での戦いに敗れて西走して国東半島に上陸して足跡を残した足利尊氏の位牌や古文書を保管している。 宗旨は浄土真宗(本願寺派)で、本尊は阿弥陀如来像。
境内に佇む照恩寺国東塔(宝塔)は、鎌倉時代正和五年(1316)の造立。 明治二十二年(1889)に近くの椿八幡宮から移築されたもので、最も優れた国東塔の一つとして国の重要文化財に指定された。 この国東塔は明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈で倒され、椿八幡宮の池の中に放置されていた。

椿八幡宮拝観後、近くにある照恩寺を訪問すると、塀の外に「照恩寺国東塔」の看板が置かれている。 山門がなく門柱から境内に入る....直ぐ正面に、太い竿に「普照燈」と刻まれ、円板状の形をした笠の石燈籠を従えた本堂が建つ。 広くない境内に本堂・庫裡・経蔵・鐘楼が建つ。
鐘楼の脇に約700年前の鎌倉期に造立された「照恩寺国東塔」と呼ばれる宝塔が佇んでいる。 「照恩寺国東塔」は、数ある国東塔の中でトップを競う名品とされているようで、確かに均衡がとれた優美な姿をした宝塔であり、暫し見惚れてしまった。
鐘楼の傍に傷んだ幾つかの石造物が並べて置かれ、塀に「明治初年 廃仏稀釈の遺物」の看板が立てかけてある。 照恩寺国東塔も倒されて放置されていたものだが、廃仏稀釈の嵐で、どれほどの仏像や石造物が破壊されたのだろうかとあらためて想像させられた....合掌。

照恩寺の全景..門柱の両脇に葉を落とした銀杏が聳える

門柱前から眺めた境内..門柱から直ぐの所に本堂が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂..本堂新築記念碑があることから再建後間もないようだ
 
正面は白壁とガラス張りの腰高格子戸で古民家風..新しそうな擬宝珠高欄を設けた切目縁を巡らす/質素な造りの流れ向拝..縁に半鐘が下がる

本堂の左奥に建つ入母屋造桟瓦葺の庫裏

鐘楼の傍に佇む照恩寺国東塔(宝塔)..鎌倉時代正和五年(1316)造立で、明治二十二年(1889)に近くの椿八幡宮より移築された(明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈で倒されて放置されていた)
 
国東塔の総高(除く基壇)は252cm、基壇上に三重の基礎、最上の基礎の四面は二区分で輪郭を巻き格狭間を刻/台座は一重複弁の反花よりなえい、塔身は茶壺型で刻銘
 
笠は軒口二重で、四面二区分で輪郭を巻いた露盤上に太い相輪そして火焔宝珠が乗る/非常に均衡がとれた美しい形で、数ある国東塔の中でトップを競う名品とされる
 
入母屋造桟瓦葺の鐘楼..礎石がなく基壇上に直接柱が立っている/本堂右手に建つ経蔵か?..扉に西六条下り藤とみられる寺紋
  
文化二年(1805)造立の石燈籠..蓮花を刻んだ円形中台と円板状の笠/「明治初年 廃仏毀釈の遺物」とある破壊された石造物群/幾つかの石造物のパーツを積み上げたものと思う
 
円錐状の飾手水鉢          苔むした方形状の手水鉢

照恩寺の駐車場から眺めた全景
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東照寺 (横浜)

2018年04月13日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代の慶安二年(1649)、大曽根大乗寺の第3世生外意鉄大和尚によって創建されたとされる曹洞宗の寺院。 曹洞宗の本山は永平寺と総持寺で、九州鹿児島の薩摩藩主島津公の信仰が厚く、本堂正面に、島津斉宣公の筆による瑠璃光明界の額が掲げられている。 宗旨は曹洞宗(禅宗)、本尊は木造薬師如来坐像で、行基作と伝える。 武蔵都筑十二薬師霊場第11番札所。 由緒ある「横浜七福神」のひとつで布袋尊を祀っている。

門柱の傍に赤い前垂れをした駒型光背六地蔵尊像や正面合掌の青面金剛庚申塔が鎮座....本堂に向かって参道を進むと、眩しいほどに紅葉した枝を広げた1本の銀杏の古木が聳え、弥勒の化身とされる布袋尊が満面に笑みをたたえて迎えてくれる。
正面に鮮やかな緑青屋根の本堂が建つが、高い基壇の上にさらに高床式の造りに建てられていて、なにか上から目線のような威圧を感じさせる。 亀腹の大きさが気になったが、回縁下は全面が格子で覆われていてよく見えない。 登高欄のある階を上って本堂に....正面は古民家風で、白壁にガラス入り格子戸と格子窓とがあるだけの簡素な造りだ。 太い鎖樋が下がる向拝屋根があるものの、向拝は参拝するような雰囲気がない。
境内に2つの手水鉢が置かれているが、いずれも水口がないので飾手水鉢のようだ。 飾手水鉢の一つは初めて見る形で、ブロック状に石を組み合わせたような珍しい造り。
聖観世音菩薩像の台座を囲む擬宝珠を乗せた石柵の傍に、元禄や寛延の元号が刻まれている十数基の無縁墓塔が地面に並べられているが、置かれた状態から少し 粗末に扱われているようにみえる....気のせいかな、合掌。
  
門柱越しに眺めた境内/門柱の傍に佇む赤い前垂れをした駒型光背六地蔵尊像/門柱前でホウキをもって参詣者を迎える小坊主

門前から眺めた境内..銀杏の巨木と満面に笑顔をたたえる布袋尊像が目に入る
 
門柱近くの参道脇に鎮座する青面金剛庚申塔と赤い帽子と前垂をした地蔵尊像/正徳四年(1714)造立の駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)

参道から眺めた境内と本堂
 
本堂前境内の隅に鎮座する赤い帽子を被り前垂をした六地蔵尊像/昭和四十三年(1968)造立の布袋尊像..石碑に「港北七福神」とある

満面に笑みをたたえて参詣者を迎える布袋尊像

本堂前の切石敷参道に「薬師香」と刻まれた常香炉が置かれ、六地蔵尊像が線香を供える参詣者を見守っている

入母屋造銅板葺の本堂..大棟中央に桐紋、左右に文字紋
  
流れ向拝から鎖樋が蓮花形の天水桶に下がる/手前の石には彫像と文字が刻まれているが摩滅が激しく不鮮明/階上の向拝縁の両側に獅子の狛犬、右に小坊主像が鎮座

本堂正面は白壁と腰高ガラス格子戸..入り口に「東照禅寺」の扁額

擬宝珠柱を設けた登高欄の高い階

本堂左手の擬宝珠高欄付き縁に設けた小さな屋根下に釣り下がる半鐘
  
半鐘に「南無釈迦如来」の刻/昭和五十七年(1982)造立の聖観世音菩薩像/昭和五十七年(1982)造立の生物慰霊碑
 
文化元年(1804)造立の石坂敷石供養塔..上に舟光背型如意輪観音像が鎮座

聖観世音菩薩像を囲む柵傍に置かれた無縁墓塔群..板碑型、箱型、舟形光背型、起り舟形光背型、角柱型などに元禄や寛延の元号が刻まれている
 
境内に置かれた2つの飾手水鉢..手前は石を組み合わせたような珍しい造りだ/「灌浴」と刻まれた手水鉢越しに眺めた本堂
 
境内に聳える銀杏の巨木越しに眺めた本堂/境内に置かれた円形方孔形式銭貨の形をした石造物

本堂右手に建つ近代建築の庫裡
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塩谷寺 (横浜)

2018年04月11日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代仁寿元年(851)、第3世天台座主円仁(慈覚大師)が開山となって創建した天台宗の寺院。
寺伝によると、皇后の病や世継ぎの問題(子供3人)に悩んでいた第55代文徳天皇が、慈覚大師から横浜高田の地に湧き出でる霊験あらたかといわれる霊泉の献上を受け、霊泉を使って儀式を執り行わせると皇后の病が平癒し、子供に注いだ雫が輝いた三人目(後の第56代清和天皇)を世継にすることを決めたという。 このことから文徳天皇は、この霊泉の湧き出でる地にお寺を建立するよう命じたので、慈覚大師がこの地を再訪、桜の樹で一仏二菩薩を彫刻し、安置する伽藍を建立して塩谷寺と名付けられた。
その後衰退したが、この地の農業が盛んになるとお寺も徐々に復興され、江戸時代慶安二年(1649)年に幕府から5石4斗の寺領を賜った。 元禄年間(1688~1704)、農耕馬の供養のために客殿に馬頭観世音菩薩が祀られ、多くの参詣者から崇敬された。 それ以降、本尊がそれまでの薬師如来から馬頭観世音菩薩に変わり、檀信徒の篤い信仰により現在まで護られている。 宗旨は天台宗で、本尊は馬頭観世音菩薩像。 准秩父三十四観音霊場第28番(馬頭観世音菩薩)・29番(如意輪観音菩薩)、多摩七薬師霊場第1番、稲毛七薬師第1番の各札所。

道路から鬱蒼とした樹林の中に埋もれるように山門が見える。 中央が切石敷になった参道を進むと、両側に瓦屋根を乗せた羽目板の袖塀を設けた山門が建つ。 山門は四脚門で飾り気のない造り、門前は古刹の雰囲気を感じさせる。
山門をくぐると、直ぐ右手に鎮座する水子地蔵像と六地蔵尊とが参詣者を迎えてくれる。 境内は手入れが行き届いていて、気持ちがいい。 また、殆んど物が置かれていないので、正面から見る本堂はシンメトリック的な感じが漂う。 本堂の直ぐ左手に木立に囲まれた放生地があり、中島の植栽の中に、オレンジ色の屋根の弁財天を祀る社がひっそりと鎮座している。
なお、本堂の左側の先に仁王門があって、石段を上がると旧本堂の跡地で、そこに薬師堂が建っているらしいが失念した。

大きな寺号標石が立ち、木立に覆われた趣がある門前..寺号標石は昭和四十三年(1968)造立、道路から中央が切石敷の参道が続く

古刹を感じさせる雰囲気の門前..山門両側の袖塀は瓦屋根を乗せた簓子塀のようだ
 
切妻造桟瓦葺の山門は四脚門                      虹梁中備に透蟇股、獅子の木鼻

山門から眺めた境内..正面に本堂、右手に水子地蔵地蔵像や六地蔵尊像が鎮座

地蔵堂(覆屋?)に鎮座する六地蔵尊像、屋根だけの覆屋に鎮座する水子地蔵像
  
地蔵堂に鎮座する丸彫りの六地蔵尊像/屋根だけの覆屋下に鎮座する水子地蔵像..右手に未開蓮、左手で子供を抱く/切妻造桟瓦葺の手水舎..大正七年(1918)造立で、手水鉢に「洗心」の刻

入母屋造銅板葺の本堂

本堂正面に一切物が置かれていないこともあり、手入れが行き届いた境内であると感じられる
 
流れ向拝の水引虹梁中備に龍、木鼻に獅子の彫刻..本堂入口はガラス入り腰高格子戸と桟唐戸、脇間に小さな花頭窓/向拝に下がる鰐口、腰高格子戸の上に「塩谷寺」の扁額
 
本堂の周りに擬宝珠高欄のある切目縁を設けている..正面と側面の白壁の小壁には欄間のような装飾

落ち着いた雰囲気が漂う本堂..流れ向拝の軒から鎖樋が蓮花を模した天水桶に下がる
  
本堂前に立つ昭和四十五年(1970)造立の石燈籠..火袋に彫刻,笠に少し特徴がある/昭和五十三年(1978)造立の十五重石塔..初層軸部の月輪に合掌する四方仏、輪郭を巻いた基礎に格狭間/前庭に佇む石燈籠..笠部に特徴があり、特に蕨手が異形だ

本堂の左手にある放生池

放生池の中島に鎮座する弁財天
 
中島への石橋と中島に佇む切妻造鉄板葺の弁財天の社

本堂右手に続く庫裡の玄関
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蓮勝寺 (横浜)

2018年04月09日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】正確な創建年代は不詳だが、鎌倉時代正和四年(1315)の創建とされている。
山門前の大きな六字名号塔に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年記念」と銘刻され、また、円光大師法然上人が1212年(鎌倉時代建暦二年)の入寂から、この石塔の建立は1962年となり、これから蓮勝寺は600年前の1362年(南北朝時代の北朝貞治二年)に浄土宗第5祖の蓮勝上人が開山したことになる。 しかし、師良暁上人から宗脈相乗される五年前の正和四年の秋にこの地に草庵を結んだと伝えられ、また、正和四年(1315)銘刻の板碑が存在すること等を根拠として、鎌倉時代正和四年(1315)の創建となっている。
蓮勝寺は約700年の歳月を刻んだ歴史ある古刹だが、開創以来一度も焼失や倒壊などに遭っていない。 毘沙門堂には、鎌倉時代の仏師運慶の作とされる毘沙門天王を祀っており、「日本三毘沙門」の一つと伝えられている。 宗旨は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

道路に面した門前に大きな六字名号塔が立つ。 塔側面に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年」と刻まれていて、遠慮がちに古刹であることを主張しているようだ。 門を入ると陽が燦々とふりそそぐ明るい境内が広がる。
2段になった境内の下段には元禄時代創建の毘沙門堂が建ち、傍に「日本三毘沙門随一 毘沙門天王」と刻された石碑がたつ。 本堂境内への石段の下には、江戸中期作とみられる十三重塔、石燈籠、舟形光背石仏3体の石造物が佇む。
石段を上り詰めると、正面に箱棟を乗せた本堂、右手に書院・客殿、左手に鐘楼がある。 本堂は緑青が浮き出た起り屋根で、向拝を含めて簡素な造りだ。 書院・客殿の玄関前には「天上天下唯我独尊」と刻まれた台座の上に釈迦誕生仏が鎮座している。 鐘楼の傍に、石造り屋根の下に6体の浮き彫り地蔵尊石像が密に整然と鎮座しているが、まるで一石六地蔵像のように見える。

昭和三十七年(1962)頃造立の門前の六字名号塔..側面に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年」の刻

山門から眺めた明るい境内..石段の上に本堂の屋根が見える
 
毘沙門堂の右手の建物は?                毘沙門堂境内の塀際に佇む両手で笏を持つ石像

元禄三年(1690)創建の入母屋造桟瓦葺の毘沙門堂..石燈籠は昭和五十八年(1983)造立

毘沙門堂には鎌倉時代の仏師運慶の作とされる毘沙門天王を祀る
 
古い向拝柱、水引虹梁、組物、木鼻、蟇股などの材を用いて改修築されたようだ
  
「日本三毘沙門随一 毘沙門天王」と銘刻された石碑/切妻造板葺の簡素な地蔵堂に鎮座する宝暦八年(1758)造立の地蔵菩薩石仏

石段下に鎮座する2体の石仏、石造層塔そして2基の石燈籠
  
石段下左側に佇む石燈籠、十三重石塔、石仏..石燈籠は昭和四十一年(1966)造立/明和年間(1764~1772)造立とみられる十三重層搭..初層軸部に四方仏、輪郭を巻いた基礎に格狭間/造立年不詳の舟後光型聖観音石仏..右手は与願印、左手に未開蓮を持つ
  
石段下右側に佇む石燈籠と石仏/造立年不詳の舟後光型地蔵石仏..円光を背に、右手に錫杖、左手に未開蓮を持つ/石仏後方の木立の中に潜んでいた猿の石像

石段を上り詰めて眺めた本堂境内..正面に起り屋根の本堂、右に書院客殿、左に鐘楼がある

小棟造りで寄棟造銅板葺の本堂..正面は格子ガラス戸で、小さな脇間に花頭窓がある
  
小棟は寺紋を付けた箱棟になっている..寺紋は浄土宗から「月影杏葉」の変形か?/ガラスが入った寺紋付きの腰高格子戸/向拝軒下に置かれた蓮花を模した天水桶..鎖樋がなく桶だけ
 
本堂の左前庭にある仏足石

境内の左手に建つ鐘楼
 
切妻造銅板葺の鐘楼

鐘楼の脇に佇む六地蔵尊石仏..大きな石造屋根を乗せ、各石像を一石六地蔵のように密に並べている
 
本堂右手に建つ書院庫裏客殿の玄関脇に鎮座する釈迦誕生仏..台座に「天上天下唯我独尊」の刻
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幹に花が....!

2018年04月07日 | 街角スナップ-海外編

【中国・福建省・福州市】郊外のある寺院の境内で、植栽の中に鮮やかなピンク色の花が咲く木を見つけた。 近づいてよくみると、小さな花が幹に群がるようにかたまって咲いていて、遠目にはまるでピンクのマイタケのように見える。
多分初めて見る木だと思うが、第一印象は、珍しいというよりも不気味で「気味悪い!」だった。 調べたら、この木は「ハナズオウ(花蘇芳」という名前のようで、中国原産で元禄時代に渡来しているようだ。
とにかく、太い幹から直接花芽がでて、群生するように花が咲くので目を引く。
 
鮮やかなピンク色の花が幹に群がるように咲いている

ある意味、少し不気味な感じがする
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ワット・ポー (タイ)

2018年04月05日 | 史跡探訪-タイ編

【タイ・バンコク】ワット・ポー(Wat Pho)は、西暦1788年(仏歴2331年)にバンコク王朝のラーマ1世が建てたバンコク最古の王室寺院との説明が多いが、タイ国政府観光庁のHPではアユタヤ王朝末期のプラペートラチャ王時代(1688~1703年)の建立とある。
ワット・ポーとは「菩提の寺」の意で、ラーマ3世が17年の歳月を掛けて本堂、礼拝堂、仏塔、回廊など71基の堂塔を造立した。 境内にはラーマ1世から4世を祀る色鮮やかな大きな仏塔が聳え、仏塔は王によって緑・白・黄・青に色別されている。
本堂には金色の釈迦坐像が安置されているが、その台座にはラーマ1世の遺骨が納められている。 礼拝堂には黄金に輝く長さ46m、高さ15mの巨大な寝釈迦像を祀っていて、足裏にはバラモン教の宇宙観を表現した精緻な螺鈿細工画が描かれている。
境内はチェトゥポン通りで南北に分断されていて、堂塔は北側に集中、南側には僧坊がある。 なお、ワット・ポーは伝統的なタイ式マッサージの総本山で、北側の東隅に2ヶ所のマッサージ場がある。

ワット・ポーのシンボルは、何といっても、眩しいほどに輝く黄金の巨大寝釈迦像だ。 入口の直ぐ傍に建つ礼拝堂に入ると、大勢の観光客が溢れている。 目の前に右手で頭を支える寝釈迦の大きな横顔が迫って来る。 寝釈迦像はかなり窮屈そうに御堂いっぱいに横たわっていて、とにかくデッカい! 穏やかなお顔で横たえる寝釈迦像....まさに涅槃に達し悟りを開いた姿だ。
足裏の前に行くと群がるように多くの観光客がいて、身を乗り出すようにして足裏の精緻な螺鈿細工画に見入っていた。
境内に大小の仏塔が林立....国王を表す大きな仏塔4基は墓ではないが、小さな仏塔には遺骨が納められている。 以前は王族専用だったが、いまは寄進次第で誰でも納骨できるようだ。

境内には涅槃像を祀る御堂、仏塔群、釈迦坐像を祀る本堂などがある

境内に歴代国王(ラーマ1世~4世)を表す大仏塔とタイ風墓碑の小仏塔が林立

ラーマ王1世~4世を祀る仏塔..塔は色でラーマ王を表し、緑が1世、白が2世、黄色が3世、青が4世
 
ラーマ1、2、3世の大仏塔が並んで聳える..手前から黄色の3世、中の緑がラーマ1世、奥が白のラーマ2世の各仏塔/大仏塔は全面が繊細なタイル張りになっている
 
ラーマ1世が最初に建立した本堂..金箔で覆われた釈迦坐像が祀られ、台座にはラーマ1世の遺骨が納められている/本堂の8扉の一つで、「ラーマキエン」の要約が螺鈿で描かれている..訪問時はカバーで覆われていたが僅かに螺鈿が見える

高さ3m程の仏塔はタイ風墓碑..中に遺骨が納められれている

礼拝堂に安置されている黄金に輝く釈迦涅槃像
 
涅槃に達し悟りを開いた穏やかな顔
 
長さ5n、幅1.5mある巨大な偏平足の足裏には、バラモン教における宇宙観が描かれている

足裏にバラモン教の宇宙観が108面の螺鈿細工画で表現されている
 
足指の指紋               研磨した貝殻を嵌め込んだ螺鈿細工

本堂囲りの二重回廊..外回廊に244体、内回廊に150体の仏像が並んでいる
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ワット・アルン (タイ)

2018年04月03日 | 史跡探訪-タイ編

【タイ・バンコク】ワット・アルン(Wat Arun)の創建年は不詳だが、1350年に建国されたアユタヤ朝のペートラーチャー王時代にフランス軍人によって描かれたチャオプラヤー川流域の地図に載っていて、ワット・マコークという普通の寺院だった。
ビルマ軍の攻撃で1767年に崩壊したアユタヤ王朝後、前タイ王朝であるトンブりー王朝の王タークシンが修復し、新王都建設にあたってタイ宮寺院とした。 1782年に誕生した現チャクリー王朝のイッサラスントー親王(後のラーマ2世)により1820年、寺院はヒンドゥー教の暁神アルーナ王国の夜明けを願い、ワット・ジェーンと改名して王から現在の名称となり、ラーマ2世の菩提寺になった。

ワット・アルンのシンボルは、なんといっても中央に聳え立つ高さ75mの大仏塔で、ヒンドゥー教の破壊神シヴァが住む聖地カイラーサ山をかたどっているとされる。
独特な形の大仏塔の表面は砕いた陶器の破片で装飾されている。 傾斜している基壇の部分にはラーマキエン物語に登場するガルーダ、ハヌマーンの石像が無数飾り付けられているが、歯を食い縛って両手で仏塔を支える姿はユニークだ。 また、大仏塔の上部にはインドラ神がその乗り物である三つの頭を持つエラワン象の上に鎮座している。
大仏塔の中程まで登ることができるが、急峻な石段で危険この上ない。 とはいえ、大仏塔に登ると、眼下に広大なパノラマが展開....たくさんの船が浮かぶチャオプラヤー川と対岸の旧市街の宮殿や寺院、そして遠くにバンコク市街が一望でき、実に素晴らしい眺めだ。

ワット・ポー側の船着場から眺めたワット・アルンの遠景

船着場近くに建つ本堂..高さ2mの2体の鬼人像(ヤック)に守られている
  
武器を持つ漆喰製の魔除けの鬼人像(ヤック)..見上げると迫力がある/本堂はラーマ2世の命で建立され、本尊の台座の中にラーマ2世の遺体が納められている/ワット・プラケットにも佇んでいた中国風の石像(武官像かな)

本堂の回廊に120体の仏像が鎮座している
 
仏塔の正面に創建当時の旧本堂と礼拝堂が建つ(写真は旧本堂と思う)/旧本堂には29体の仏像を安置

旧本堂の周りには獅子等たくさんの石像が整然と並んで本堂を護っている

左が四天王像に警護されている礼拝堂と思う..礼拝堂には青銅製の仏塔と80体の仏像が祀られている

御堂から眺めた大仏塔..手前の屋根の棟端の先鋭突起物は「チョーファー」と呼ばれるタイ独自の装飾

周囲234mある台座に高さ75mの大仏塔そして周りに4基の低い仏塔が建つ
 
大仏塔の上部に三つの頭を持つエラワン象(神の乗り物)に乗るインドラ神が鎮座/インドラ神に最も近い位置で仏塔を支える穏やかな顔のハヌマーン
 
いろいろなハヌマーン像が仏塔を支えている..ハヌマーンとはヒンズー教の神猿らしい

穏やかな顔で仏塔を支えるハヌマーン

あまりの重さに悲鳴を上げながら仏塔を支えるハマヌーン
  
大仏塔は途中まで登れるが、石段は極めて急峻だ/上部では観光客は這うように石段を登っている

眼下に広大なパノラマが展開…チャオプラヤー川にたくさんの船が浮かぶ、手前の建物は旧本堂と礼拝堂
 
チャオプラヤー川の対岸の寺院はワット・ポー..遠くにバンコク市街を一望/仏塔の奥の対岸に王宮とワット・プラケオが見える
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ワット・プラケオ (タイ)

2018年04月01日 | 史跡探訪-タイ編

【タイ・バンコク】ワット・プラケオ(Wat Phra Kaeo)は、1782年、現チャクリー王朝の初代王・ラーマ1世がバンコクに遷都し、王宮の建造と同時に王朝の守護寺、護国寺として王宮の北側に建築が始まった。
境内南側に西面で大きな本堂が建ち、本尊のエメラルド色の仏像(ヒスイ製・高さ66cm)が安置されている。 この仏像は、1778年にチャクリー将軍(後のラーマ1世)率いる軍政がラオス侵攻での戦利品として持ち帰ったもので、16世紀中頃~18世紀後半迄の約200年間、ラオスの寺院「ワット・プラケオ」の本尊だった。

本堂北側の石造りのテラスの上に、形の異なる3種類の壮大な建物(仏舎利塔、経堂、王室専用御堂)が並んでいるが、中でも、黄金色に輝く仏舎利塔「プラ・シー・ラタナー・チュデイ」は特に人目を引き、まさにランドマークだ。 6カ所ある回廊の出入口には、ヤックと呼ばれる外敵の侵入を防ぐ漆喰製の鬼人像(厄除けの鬼)が、武器を携えて立つ。 また、回廊には「ラーマキエン」という多くの精緻な壁画が描かれているが、これはインドの叙事詩「ラーマーヤナ」という神話をタイ風に翻案したもので、ヒンズー教の経典に由来するものらしい。
本堂にエメラルド色の仏像を祀っていることから「エメラルド寺院」と呼ばれ、また三大寺院の一つで格式が高いことから、多くの参拝者や旅行者が訪れる寺院だ。

ワット・プラケオと王宮の遠景(中央の黄金の仏舎利塔の右側..屋根の棟端の先鋭突起物は「チョーファー」と呼ばれるタイ独自の装飾
 
ナー・プラ・ラーン通りの白壁の塀越しに眺めたワット・プラケオ..左の仏塔が立つ建物は王室専用御堂プラサート・プラ・テープビドーン/サナームチャイ通り側に一直線に立ち並ぶ8基の仏塔
 
武器を持つ漆喰製の魔除けの鬼人像(ヤック)..ラーマ3世時代の造立で、回廊の6カ所の出入口に立って外敵の侵入を防いでいる/金色に輝く仏舎利塔プラ・シー・ラタナー・チェデイー..ラーマ4世が建立

本堂北側の石造りテラス上に建つ3つの異質な建物..左から仏舎利塔プラ・シー・ラタナー・チェデイー、仏教経典を納めるプラ・モンドップ、十字型の建物の中心に仏塔が立つ王室専用御堂プラサート・プラ・テープビドーン

本堂側から眺めたテラス上の3つの建物
 
中国風の石像は武官像かな?/本堂の中央扉前の階段の左右に鎮座する青銅製の重厚な獅子像..カンボジアから運ばれてきた

ラーマ1世建立の仏教経典を納めるプラ・モンドップ、手前の建物は四阿のようで奥に王室専用御堂プラサート・プラ・テープビドーン(ラーマ4世建立)

本尊のエメラルド仏が祀られている本堂..エメラルド仏はヒスイ製で高さ66cm

全体を巡らす屋根付回廊には多くの壁画「ラーマキエン」が描かれている..インドの「ラーマーヤナ」という神話で、ヒンズー教の経典に由来するらしい
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