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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

伊太祁曽神社-(2) (和歌山)

2023年01月19日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】「日本書紀」には、御祭神・五十猛命が父神・素盞鳴尊の命を受けて日本国土に木種を播いて青山と成した植樹神と記されている。 このことから五十猛命は「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、やがて「紀伊国」と成った。 平安後期に28年に渡って院政を敷いた鳥羽上皇が山東荘を新義真言宗の根来寺に寄進したことから根来寺と深い関係を築いた。
安土桃山時代の天正年間(1573~1592)、織田信長と羽柴秀吉の紀州征伐での根来攻めにより、伊太祁曽神社も戦禍に巻き込まれて被災したが、後に豊臣秀吉の異父弟・羽柴秀長により社殿が再建が成された。

■拝殿から社殿を眺めると、正面中央に檜皮葺、左右に銅板葺の3つの神門が連なって建つ。 神門の左手の奥に鎮座する蛭子神社と氣生神社を先に拝観。 蛭子神社の社頭に「霊石 おさる石」と木造の「龍神」像があるが、精緻な「龍神」像はチェンソーで制作とあり驚いた。 三方を木製玉垣で囲んだ中に鎮座する氣生神社には、祭神「五十猛命 荒御魂」が祀られている。 氣生神社から神門に戻る。中央の神門の石段下に、国学者の本居宣長と本居大平の歌碑がある。

△右の翼廊から眺めた社殿境内前の菱格子を入れた3つの神門....左奥に蛭子神社が鎮座

△切妻造銅板葺の蛭子神社....明治政府の合祀令によって近隣の神社を合祀した

△蛭子神社前に鎮座する猿の顔に見える「霊石 おさる石」と木造「龍神」/木造「竜神」はチェンソーカービング制作

△社殿に向かって左側に鎮座する氣生神社(摂社)....祭神「五十猛命 荒御魂」を祀る

△氣生神社本殿は大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木を乗せた一間社春日造銅板葺(切妻造、照屋根、妻入り)/母屋と庇の軒はいずれも二軒繁垂木....庇に唐派風を設け、擬宝珠高欄付き切目縁そして側縁の奥に板張りの脇障子

△塀越しに眺めた大棟に外削ぎの千木と堅魚木4本を乗せた主祭神本殿と外削ぎの千木と堅魚木3本を乗せた都麻津比賣命社殿

△乱積みの石垣の上に連なって建つ3つの神門

△中央は主祭神の神門、向かって右隣は左配神・大屋都比賣命、左隣は右配神都麻津比賣命の各神門

△中央神門の石段下の石垣の前に置かれた本居宣長と居大平の歌碑....本居大平は宣長の養子となった江戸後期の国学者/伊太祁曽神社を詠んだ本居大平の歌碑....本居大平は宣長の祖述に務め、宣長の実子の本居春庭失明後に家督を継ぎ、紀州徳川家に仕えた

■連なる3つの神門の全ての門扉と壁には菱格子が入っていて、格子の隙間からいずれも流造りの主祭神の本殿と2配神の相殿が見える。 相殿を拝観していて千木が気になった。 配神は素戔嗚尊の二人の妹だが、女神は内削ぎの千木なのだが本殿と同じ外削ぎになっていたからだ。 社殿を拝観していたら、祈願祈祷を受ける親子とみられる二人の黒服姿の女性が神主とともに左脇殿の神門の横から社殿境内に..…。
社殿の右隣に神饌所、少し離れて古民家風造りの有功殿、そして北側の参道の先の境内に小さな窓しかない建物が建つ。 小さな窓しかない建物は宝庫とみられるが、牛蒡注連縄が張られた入口に「萬歳壽而康」の木札が掛かっているので違うかな?

△主祭神の神門は切妻造檜皮葺....両側の配神の神門は銅板葺

△主祭神の神門の扉は飾金具を施した両折両開の腰高菱格子戸

△東面で建つ本殿....側縁奥に板張りの脇障子

△流造檜皮葺の本殿....三間の中央間に板扉、脇間は蔀風の窓....軒廻りは二軒繁垂木、組高欄付き切目縁

△右配神・都麻津比賣命を祀る脇殿前の流造銅板葺の神門

△都麻津比賣命を祀る流造檜皮葺の相殿

△左配神・大屋都比賣命を祀る脇殿前の流造銅板葺の神門

△大屋都比賣命を祀る流造銅板葺の相殿

△神饌所への石段の前から眺めた神門前の境内....左は吹き放しの割拝殿

△大屋都比賣命を祀る脇殿前の門横から社殿内に入る祈願祈祷を受ける参詣者/脇殿前の神門の拝は蕪懸魚、妻飾は豕扠首

△社殿に向かって右側に建つ入母屋造銅板葺の神饌所(確か)

△簡素な造りの神饌所....建物の前に雪見燈籠が佇む

△入母屋造本瓦葺の有功殿....入口の庇を設けるため屋根の一部を欠け落としている

△古民家風の造りの有功殿....正面は格子窓、腰高格子戸、切目縁で一部に連子欄間を設けている

△割拝殿前境内から北側の境内への参道

△入母屋造本瓦葺の建物は小さな窓しかないので宝庫とみられる?

△牛蒡注連縄が張られた入口に、長生きで健康であることの意味の「萬歳壽而康」の木札が掛けられている







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伊太祁曽神社-(1) (和歌山)

2023年01月13日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】創建時期については明らかでないが、平安時代の延暦十年(797)に成立した歴史書「続日本紀」の文武天皇大宝二年(702)の記事が初見になる。 社伝では、古くは現在の市内秋月に鎮座する紀伊国一宮の日前神宮&國懸神宮の地に祀が、垂仁天皇(記紀で第11代天皇)の御代の垂仁天皇十六年に日前神・国懸神が同地に祀られることになったので、その地を明けられていた渡したと伝える。
平安時代延長五年(905)成立の「延喜式」の神名帳では名神大社に列し、紀伊国一宮とされる。 主祭神は素戔嗚尊の息子の五十猛命で、配神は素戔嗚尊の妹の大屋津姫命・都麻津姫命。 旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

■伊太祁曽駅から数分歩き、和田川に架かる常盤橋を渡った直ぐ先に大きな木造の一ノ鳥居が建つ。 その少し先の境内の入口に、柱の根元に亀腹と藁座を設けた木造の二ノ鳥居が東面で建ち、鳥居を通して朱塗りの神橋と奥に割拝殿が見える。 鳥居をくぐり神橋を渡ると、直ぐ左手に手水舎、右手に百度石が立つ。

△和田川に架かる丹色欄干を設けた平橋の常盤橋の先に建つ一ノ鳥居

△大鳥居と呼ばれる一ノ鳥居は木造の明神鳥居....右手に「紀伊國一之宮伊太祁曽神社」の社号標石が立つ

△鳥居の両脇に立つ4基の石燈籠....手前の石燈籠は安永八年(1779)の造立/後方の石燈籠は文政九年(1826)の造立

△境内の入り口に建つ二ノ鳥居は木造の明神鳥居

△柱の根元に大きな亀腹と藁座を設けた二ノ鳥居....鳥居を通して神橋と割拝殿が見える

△二ノ鳥居前に鎮座する一対の狛犬

△鳥居の傍に佇む石燈籠は天保十三年(1842)の造立/神池の畔に佇む石燈籠は天保七年(1836)の造立

△社殿前に広がる神池と池に架かる神橋

△朱塗りの木造擬宝珠欄干を設けた神橋は太鼓橋

△曲線に削られた大きな板石を敷いた神橋

△境内側から眺めた手水鉢と神橋....神橋の社殿側の袂に「百度石」が立つ

■割拝殿奥の社殿境内に行く前に、境内の南側の木立ちの中に鎮座する素戔嗚尊等3柱を祀る祇園神社に向かう。 入口に木造の明神鳥居が建つ石段の参道脇に、注連縄を張った「磐座」がある。 磐座は奥出雲の鳥上峯の磐で、五十猛命が父神と共に降り立ったと伝えられ、ここから彼の地を遥拝するようだ。 木造玉垣に囲まれて鎮座する祇園神社を参拝してから割拝殿に向かう。 乱積みの石垣の上に建つ割拝殿の石段を上り、格天井の馬道を通って社殿境内に。左右5間の翼廊の片側にはチェンソーカービングで制作され奉納された木彫りの十二支像、反対側には「木俣くぐり」と呼ばれる標木が置かれている。 木の俣をくぐると厄難除のご利益があるとのことでくぐったが…いまだご利益は....。

△「洗心」の額が掲げられた切妻造本瓦葺の手水舎....後方は社務所と御神木

△入母屋造桟瓦葺で二階建妻入の常盤殿(兼社務所)....周囲は白壁の小壁と格子窓のみとし、上層に擬宝珠高欄付切目縁を巡らす

△軒廻りは一軒繁垂木、丸桁を支える組物は舟肘木....大棟端に獅子口、拝に異形の蕪懸魚、妻飾は狐格子

△常盤殿左側にお休み処が建ち、その左奥の木立の中に「磐」と「祇園神社」が鎮座

△切妻造桟瓦葺のお休み処「木もれび」

△祇園神社の石段参道に入り口に建つ木造り明神鳥居....傍に社号標石がある/祇園神社参道脇に鎮座する「磐座」....案内板に「奥出雲の鳥上峯(船通山)の磐をここ祇園神社の社前に神祀りし彼の地を遥に拝む縁」とある

△石積み基壇の上に木造玉垣に囲まれて鎮座する祇園神社....祭神五十猛命の父神・素盞鳴尊等3柱を祀る/流造銅板葺の祇園神社本殿....大棟に外削ぎの千木、3本の堅魚木が乗る

△常盤殿の前から眺めた御神木と割拝殿....御神木は昭和三十七年(1962)の落雷で燃えて枯れ、高さ3メートルの幹の根元が残る

△入母屋造銅板葺(と思う)の割拝殿....正面11間で、中央の馬道と左右に翼廊

△乱積みの石垣の上に建つ割拝殿....周囲は全て白壁の小壁....手前に古井戸/割拝殿前に佇む石燈籠....手前は天保十三年(1842)、左奥は明治四十年(1907)の造立

△中央の馬道を通して眺めた拝殿....軒廻りは一軒疎垂木、組物は長方形の舟肘木....馬道は格天井

△正面から向かって右側の翼廊に奉納された木彫りの十二支像群....チェンソーカービングで彫刻されたもの/平成二十一年(2009)に奉納された木彫りの「躍虎」

△正面から向かって左側の翼廊に置かれた「木俣くぐり」木俣くぐりの神話が記された標木(厄難除)....古事記神話の実体験とあり、この木の俣をくぐると難を逃れられる(厄除け)ようだ


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日前神宮・國懸神宮-(2) (和歌山)

2021年09月19日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜った。 両社とも平安時代延長五(927)に成立した「延喜式」の神名帳では名神大社に列せられ、古くから紀伊國一之宮として人々の崇敬をあつめた。
安土桃山時代天正十三年(1585)の豊臣秀吉の天正の兵乱によって社領が没収され、社殿が取り壊されて境内が荒廃した。 江戸時代に入り紀州藩初代藩主徳川頼宣が入国されるや社殿が再興されたが社領は縮小され、現在、最盛期の5分の1の広さになった。
明治四年(1871)の太政官缶告によって両神社とも官幣大社に列せられた。 大正八年(1919)に、国費による改修によって境内の社殿はすべて一新され、大正十五年(1926)に完成し、現在の左右対称の姿になった。 昭和二十一年(1946)、神社の国家管理と社格制度が廃止され、現在は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっている。

◆参道を進んで瑞垣に囲まれで鎮座する日前神宮に。 正面に構える鳥居は一見すると亀腹があり明神鳥居に見えるが、笠木と島木に反りが無く水平なので春日鳥居ではないかと思う。 鳥居のすぐ先に照り屋根で吹き放しの拝殿が建ち、拝殿を通して奥に神門の金色の飾り金具を施した連子入り桟唐戸が見える。
瑞垣の東側に設けられた通用口から社殿境内を眺めると、神門と連子入り透塀に囲まれて日前神宮の本殿が鎮座。 透塀の銅板葺屋根の上に顔を出している本殿の屋根には、外削ぎの千木と7本の堅魚木が乗っている。 入母屋造銅板葺屋根の大棟には、外削ぎの千木と7本の堅魚木が乗っている。
日前神宮から来た参道を戻り、中央参道の東側に鎮座する國懸神宮に向かう。 参道の北側に明神鳥居を構えた摂社の中言神社が鎮座。 名草姫命と名草彦命の二柱を祀る中言神社は、瑞垣に囲まれて2つの春日造銅板葺の社殿が建ち、いずれも大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗っているが、千木と堅魚木に少し違和感を感じた。 例外はあるが、一般に、千木は女神は内削ぎで男神が外削ぎ、また、堅魚木は女神が偶数で男神は奇数なのだが、女神と男神を祀る中言神社の2つの社殿は同じ千木、同数の堅魚木なのだ。
中言神社前の参道を挟んで対面に末社の松尾神社と市戎神社とが鎮座、いずれも流造りの社殿で、松尾神社の大棟には中言神社と同じ外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る。 ほどなく國懸神宮に着くが、日前神宮に戻ったのかと錯覚するような社殿が厳かに鎮座している。

△正面の参道から眺めた瑞垣に囲まれて鎮座する日前神宮....正面の瑞垣左側に通用口がある

△日前神宮の正面参道の脇に立つ貞享元年(1684)造立の石燈籠/日前神宮....祭神・日前大神と相殿に思兼命、石凝姥命を祀る

△瑞垣で囲まれた日前神宮の社殿境内

△春日鳥居(と思う)と切妻造銅板葺で照り屋根の拝殿が重なっている

△鳥居は亀腹(饅頭)があって明神鳥居風だが、笠木・島木が水平なので春日鳥居と思う

△基壇の上に鎮座する正面三間側面二間の拝殿

△拝殿は一軒繁垂木で、柱上に舟肘木を置いて屋根を支えている....拝殿を通して飾り金具を配した神門の扉が見える

△照り屋根の拝殿は柱間に壁がない吹き放しの造り....屋根裏垂木が見える化粧屋根裏天井

△拝殿奥に建つ切妻造銅板葺で四脚門の神門....扉は連子を入れた桟唐戸

△東側の瑞垣にある通用口から眺めた鳥居と拝殿と神門

△連子入り透塀の間に建つ神門

△入母屋造銅板葺の日前神宮本殿...大棟に外削ぎの千木と7本の堅魚木が乗る

△日前神宮と國懸神宮を結ぶ國懸神宮境内の参道北側に鎮座する中言神社

△明神鳥居を構え、瑞垣に囲まれて鎮座する摂社の中言神社....祭神・名草姫命と名草彦命とを祀る

△切妻造銅板葺の神門、扉は連子入れた桟唐戸....4枚の紙垂を配した注連縄が下がる

△中言神社の2社殿はいずれも春日造銅板葺で大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△2社いずれも春日造だが脇障子や登高欄がない....千木・堅魚木・破風板に飾り金具が施されている

△中言神社の参道を挟んで対面に鎮座する末社の松尾神社(左)と市戎神社(右)

△松尾神社には祭神・大山咋神と中津島姫命を祀る/流造銅板葺の松尾神社社殿....大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△林立する赤い幟の奥に鎮座する市戎神社には祭神・蛭子神を祀る...社頭に立つ石燈籠は宝永二年(1705)の造立/流造銅板葺の市戎神社社殿

△瑞垣に囲まれて鎮座する國懸神宮の社殿境内

△境内に建ち並ぶ右から拝殿、神門と連子入り透塀その奥に本殿

△入母屋造銅板葺の國懸神宮本殿....大棟に外削ぎの千木と7本の堅魚木が乗る

△國懸神宮....祭神・國懸大神と相殿に玉祖命、明立天御影命、鈿女命を祀る

△鳥居は日前神宮と同じ春日鳥居と思う

△拝殿は一軒繁垂木で、柱上に舟肘木を置いて屋根を支えている....屋根裏垂木が見える化粧屋根裏天井

△國懸神宮の瑞垣の正面右側に通用口がある

△國懸神宮の正面参道....正徳四年(1714)造立の石燈籠越しに眺めた國懸神宮....國懸神宮に向かって参道左側に末社3社があったようだが消失

△國懸神宮に向かって参道右側に末社3社と遥拝所があったが消失?....左の基壇は焼失した末社跡/遥拝所跡

△正面参道の入口脇に立つ安永十年(1781)造立の石燈籠越しに眺めた國懸神宮
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日前神宮・國懸神宮-(1) (和歌山)

2021年09月13日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】創祀年代は不詳。 社伝では、神武東征の後の神武天皇二年、古代氏族の紀伊国造家(紀氏)の祖神の天道根命が紀伊国造りとして名草郡毛見郷浜宮に祀られたのが始まり。 その後、崇神天皇五十一年に名草郡浜ノ宮に遷宮、さらに垂仁天皇十六年に現在地である名草郡萬代宮に遷座したと伝える。
天道根命が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日前神宮は日像鏡を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡を御神体として國懸大神を奉祀している。
紀伊国造家(紀氏)は歴代、日前・國懸両宮の祭祀を司った。 日前神宮は主祭神が日前大神で、相殿は思兼命・石凝姥命の2神、國懸神宮は主祭神が國懸大神で、相殿は玉祖命・明立天御影命・鈿女命の3神。 紀伊国一宮。

◆和歌山電鐵貴志川線日前宮駅から県道138号線に出て少し歩くと、県道に沿って設けられた堀に架かる太鼓橋に着く。 太鼓橋の袂に官幣大社と彫られた両神宮の社号標石があり、境内に樹林を背にして大きな白い一ノ鳥居が立つ。 一ノ鳥居は、柱頭に台輪を乗せた稲荷鳥居だ。
一ノ鳥居をくぐると、中央参道の左手に絵馬殿と神楽殿をT形に一体構造とした建物が建つ。 真北に延びる中央参道を進み、突き当りを左(西)に折れて日前神宮への参道を進む。 右(東)に折れると國懸神宮への参道。 日前神宮への参道の北側に摂社の天道根神社、南側に末社の邦安神社と深草神社が並んで鎮座している。 神明鳥居を構え瑞垣に囲まれて鎮座する天道根神社は神明造りの社殿で、大棟に外削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る。
日前神宮の前を左(南)に折れて、ひとまず日前神宮正面に延びる広い参道の入口に。 参道入口に約300年前に造立された石燈籠がひっそりと立ち、左右が木々に覆われ、厳かな空気に包まれた参道の奥に日前神宮が見える。 参道の左側に3社、右側に2社の末社が石燈籠を構えて鎮座しているが、いずれも切妻造板葺の社だが、石造りの基壇や木造の瑞垣を含めて傷みが激しいようだ。 右側には元々3社が鎮座していたが、1社が消失したことからもこれを裏付ける。 各末社の板葺屋根に散った落ち葉が、少しだが古色蒼然たるたたずまいを感じさせる。

△県道138号線に沿って設けられ堀に架かる石造りの太鼓橋

△太鼓橋の袂に立つ官幣大社と彫られた2社の社号標石

△擬宝珠欄干を設けた石造り太鼓橋から眺めた一ノ鳥居....鳥居は柱頭に台輪を乗せた稲荷鳥居(台輪鳥居)

△三段基壇の上に立つ天明四年(1784)造立の石燈籠....竿部は四脚の造りで装飾性が高い/石燈籠越しに眺めた一ノ鳥居

△一ノ鳥居の内側の直ぐ脇に立つ天保十年(1839)造立の石燈籠/切妻造銅板葺の手水舎

△一体構造の絵馬殿(左側)と神楽殿

△入母屋造桟瓦葺の絵馬殿....軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木/大棟端に鳥衾付き鬼瓦,拝に変形の三つ花懸魚(と思う)、妻飾は豕扠首

△入母屋造桟瓦葺の神楽殿....正面に明り障子と舞良戸、周囲に組高欄付き縁

△神楽殿の後方から眺めた神楽殿&絵馬殿

△入母屋造桟瓦葺の社務所....大きな唐破風の玄関に、6枚の紙垂と7つのしめのこを付した注連縄

△中央参道の入口に立つ寛延二三年(1749)造立の石燈籠越しに眺めた中央参道....立ち並ぶ石灯籠は享保~天明期の造立が多い

△中央参道の突き当りから左に折れると日前神宮への参道....中央参道の左右曲がり角に立つ一対の石燈籠は天保二十年(1841)の造立....日前神宮への参道の北側に立つ神明鳥居は天道根神社

△中央参道の突き当りから右に折れると國懸神宮への参道....國懸神宮への参道の北側に立つ明神鳥居は中宮神社

△日前神宮境内に鎮座する摂社の天道根神社....石燈籠は享保五年(1720)の造立

△神明鳥居を構え瑞垣に囲まれて鎮座する天道根神社....切妻造銅板葺の神門と社殿が重なっている

△祭神天道根命を祀る神明造堂板葺の天道根神社社殿....大棟に外削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る

△天道神社の参道を挟んで南側に鎮座する末社の左・邦安神社、右・深草神社

△祭神松平頼雄命を祀る邦安神社....石灯籠は文政四年(1821)造立/流造銅板葺の社殿

△祭神・野槌神を祀る深草神社....石燈籠は左が宝永三年(1706)、右は正徳二年(1712)の造立/流造銅板葺の社殿

△日前神宮の正面参道の入り口に立つ享保七年(1722)造立の石燈籠/石燈籠越しに眺めた日前神宮

△日前神宮への正面参道....日前神宮に向かって左側に3社、右側に2社の末社が鎮座

△日前神宮正面参道の左側に鎮座する切妻造板葺の末社3社....いずれも傷みが激しい社(祭神は不詳)

△真ん中の末社....石燈籠は天明二年(1782)造立/右端の末社....石燈籠は宝暦十四年(1764)造立....社頭の瑞垣の基壇が壊れかけている

△日前神宮正面参道の右脇に鎮座する切妻造板葺の末社2社....元々3社が並んでいたが右端の1社が消失?

△並んで鎮座する2社(末社)の社殿はいずれも傷みが激しい(祭神は不詳)
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紀州東照宮-(2) (和歌山)

2020年09月21日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】紀州東照宮創建時、天海大僧正(慈眼大師)を開山として建立された天台宗寺院・天曜寺が、明治初期の維新政府による神仏判然令(神仏分離)まで紀州東照宮の別当寺だったが廃寺に。 天曜寺跡地に紀州藩初代藩主・徳川頼宣を祭神とする南龍神社が創建されたが、大正六年(1917)に紀州東照宮に合祀された。
社殿は本殿と拝殿を一体化し、間に一段低い”石の間”を設けた「権現造」という神社建築様式で、桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な建造物。 極彩色が施された豪華絢爛な本殿と拝殿から「紀州の日光」とも称されている。 なお、かつては社殿の左右に薬師堂と三重塔が建っていたが、神仏判然令により寺坊に関する建造物はすべて廃止されたようだ。

朱塗りの楼門をくぐって社殿境内に....正面に高さ約2メートルの石垣の上に丹塗りの唐門があり、その左右に菱格子を入れた透塀が連なる。 唐門と拝殿の屋根が重なっているが、いずれも檜皮葺で荘厳さを感じさせる。 唐門は両側に唐破風を設けた平唐門で、柱上の出三斗や棟木(棟桁)や梁に鮮やかな彩色文様が施されている。
社殿は「権現造」で、桃山時代の遺風を伝える江戸初期の創建当時の建造物だが、拝殿・石の間・本殿いずれも透塀・瑞塀と樹木にすっかり囲まれ、境内から外観が全く見えず残念。 ネットで拝殿と見られる写真を見つけたが、全てに極彩色が施されていてまさに豪華絢爛な社殿だ。
唐門を通して拝殿が見えるが、金色の紙垂の2本の御幣が供えられ、大きな金色の「三つ葉葵」の家紋が奥の幕に配されていて、威厳を放っている。

△楼門から眺めた唐門と拝殿と透き塀....社頭に1基の銅燈籠が立つ

△唐門の左右に連なる菱格子を入れた檜皮葺の透塀....東西(側面)には瑞垣(重文)を設けている

△社殿は「権現造」と称する桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な建造物で、拝殿・石の間・本殿を一つにまとめた造り

△切妻造檜皮葺の唐門(重文)は、両側に唐破風がある平唐門....社頭に立つ銅燈籠の笠の各面に3つの「三つ葉葵」の紋を入れている
 
△社頭両側に立つ石燈籠は明治十八年(1885)の造立....笠の各面に「三つ葉葵」の紋が彫られている

△丹塗の唐門は1軒疎垂木、柱上に彩色された文様の出三斗....棟木(棟桁)や梁にも彩色文様が施されている

△入母屋造檜皮葺の拝殿は屋根しか見えない....本殿の外観は全く見えない

△かつては社殿の右に三重塔、左に薬師堂が建っていたが、神仏判然令により廃止されたようだ

△拝殿の大棟、千鳥破風そして唐門の棟はいずれも「三つ葉葵」の紋を入れた銅板葺き
 
△拝殿の千鳥破風の銅板葺の棟に「三つ葉葵」の紋を入れた獅子口、拝に金色の猪目懸魚、妻飾は笈形付き虹梁大瓶束(とみられる)/破風板に金色の「三つ葉葵」の紋と飾金具が施されている

△唐門を通して眺めた拝殿....紙垂が金色の2本の御幣が供えられ、奥の幕の中心に大きな「三つ葉葵」の紋が施されている

△唐門前の燈籠越しに眺めた神輿蔵

△入母屋造本瓦葺の神輿蔵....正面五間で脇間は全て蔀戸

△入母屋破風で本瓦葺の神輿蔵....棟に鬼板、拝に梅鉢懸魚、妻飾は豕扠首

△入母屋造本瓦葺の社務所....入り口は棟に鳥衾付き鬼板を乗せた切妻造り起り屋根、拝は蕪懸魚、妻飾は真ん中に束を入れた白壁の素式

△社務所玄関に置かれた「三つ葉葵」の紋を入れた屏風....図柄は金色の瑞雲の上に輝く太陽として描かれている?

△極彩色が施された豪華絢爛な拝殿(と思う) (写真はNETから拝借)

△拝殿(と思う)奥に金色の狛犬,「三つ葉葵」の紋そして2本の御幣が供えられている  (写真はNETから拝借)
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紀州東照宮-(1) (和歌山)

2020年09月17日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】江戸初期の元和七年(1621)、紀州藩初代藩主・徳川頼宣(家康の十男で紀伊徳川家の祖)により南海道の総鎮護として、東照大権現(徳川家康)を祀る東照社として創建された。 創建時、徳川家康に重んじられ政務にも参加した天台宗の僧・慈眼大師天海が導師となり、江戸から衆僧60余人を率いて天台神道による御鎮座の式典を斎行したとされる。
当初は東照大権現の他、日吉山王権現・摩陀羅神の三座が奉祀されていた。 東照大権現は、薬師如来が神として顕現し、病気を平癒し、諸願一切を成就するという信仰があることから、徳川家康は薬師如来の生まれ代わりという伝承により、正保二年(1645)、宮号の宣下によって東照大権現が東照宮と改められた。 祭神は東照大権現(徳川家康)と南龍大神(徳川頼宣)の2柱。

和歌浦天満宮を拝観した後、御手洗池の畔を歩いて海岸通りに戻って天満宮の東側に鎮座する紀州東照宮に向かった。
海岸通りから眺めると、3基の明神鳥居が参道を跨いでいる。 二の鳥居である真ん中は一見石造りのように見えるが、5年前に造立されたステンレス製で、外観は石造り風に加工されたものらしい。 三の鳥居は亀腹(饅頭)が二重反花となっていて格式を感じさせる。
三の鳥居から樹林の中に、青石を敷きつめた石畳の参道が続く。 両側に亀甲積風の低い石垣の上に朱塗りの玉垣を設けた参道には、徳川家の家臣が寄進した江戸初期から後期にかけて造立された石灯籠が整然と並んでいる。 石畳の参道の突き当りに急峻な石段があり、その前の沢のような所に高い橋脚の石造り反橋が架かっている。 反橋から右側の少し深い沢を覗くと、少し水が残る沢底に弁財天社が鎮座している。
急峻な石段は「侍坂」と呼ばれ、煩悩の数と同じ108段だそうだ。 参詣者はほとんど高齢の方だったが、あまりの急勾配に、みな手摺りにしっかり摑まりながら上っていた。 両側に家臣が寄進した石燈籠が立ち並ぶ石段を上りつめると、段上に「天満宮」の扁額が掲げられた朱塗りの楼門が鎮座。 楼門は約400年前の江戸初期の建立で、組物・貫・梁等に鮮やかな極彩色の文様が施されていて見事だ。 楼門の戸口内の左右の格子の中に、弓と刀を持つ衣冠束帯姿の随神像が鎮座しているが、随身の胸に大きな金色に輝く「三つ葉葵」の紋を入れていて、いかにも徳川家ゆかりの神社らしい。
 
△鉄筋コンクリート造りの入母屋造銅板葺の東照宮会館/参道を跨ぐ3基の石造り明神鳥居....真ん中の新しい二の鳥居は平成二十七年(2015)造立のステンレス製で、外観は石造り風に加工されているらしい

△樹林前の参道に立つ石造り明神鳥居(三の鳥居か)....ここから青石を敷きつめた石畳の参道が続く

△二重反花の亀腹(饅頭)の明神鳥居....「懸社東照宮」と彫られた社号標石は大正九年(1920)の造立
 
△三の鳥居の額束に「東照宮」の額/石畳参道の両側に立ち並ぶ石燈籠は、徳川家の家臣達の寄進....江戸時代初期から後期(元和・慶安・寛文・文化・天保・元治などの元号)の造立

△亀甲積風の低い石垣の上に朱塗りの玉垣を設けた参道を進むと石造りの反橋があり、手前の左に稲荷大明神が鎮座
 
△参道左わきの茂みの中に鎮座する稲荷大明神/稲荷大明神境内の切妻造銅板葺の手水舎

△御神木越しに眺めた稲荷大明神の境内に、4基の朱塗りの明神鳥居が不規則に立つ

△乱積み基壇の上に建つ切妻造銅板葺の覆屋の中に鎮座する稲荷大明神
  
△鎮座する流造銅板葺の稲荷社....建屋正面に小さな朱塗りの鳥居がある/稲荷社境内に鎮座する吉光大神と日之出大神

△石造り反橋の先の急峻な階は煩悩の数と同じ108石段で、「侍坂」と称される

△参道の石橋から眺めた右手下の僅かに水が残る沢の底に鎮座する弁財天社....権現山を護る神様として天満宮創建時に鎮座
 
△弁財天社への石段参道に木製の明神鳥居が立つ/高い石造り反橋の橋脚....床石と橋脚の石質や色から石造り勾欄は後補のようだ

△変形の入母屋造銅板葺の弁財天社....拝が猪目懸魚で妻飾が狐格子の千鳥破風を乗せた屋根の向拝に更に銅板葺の庇を設けている

△急勾配の石段の両側に徳川家の家臣たちが寄進した石燈籠が立ち並ぶ

△入母屋造本瓦葺で朱塗りの楼門(重文)....江戸初期元和七年(1621)の建立で、両脇に切妻造本瓦葺の廻廊が連なる

△「東照宮」の扁額が掲げられた上層に、組高欄付き切目縁を支える腰組は三手先で中備は間斗束....上層の中央間に板唐戸、両脇間に連子窓

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は間斗束、軒支輪と軒天井をがある....組物・貫・梁等に鮮やかな極彩色の文様が施されている

△戸口内の左右の連子壁の上の格子の中に随神像が鎮座
 
△楼門(随身門)の両脇に弓と刀を持って鎮座する随身像....衣冠束帯の胸に大きな「三つ葉葵」の紋を入れている

△社殿境内側から眺めた楼門と東脇の廻廊(重文)....回廊横の切妻造本瓦葺の建物は手水舎
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和歌浦天満宮-(2) (和歌山)

2020年07月09日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】江戸初期、紀州藩主の浅野幸長が2年の歳月を掛けて天神山の中腹に社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊を再建して慶長十一年(1606)に再興、現在に至る。
浅野幸長は安土桃山時代の武将で、浅野長政の子。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に紀州に入国、また、はじめ父長政とともに豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦いには徳川方に属した。
本殿、楼門、末社2棟(多賀神社本殿・天照皇太神宮本殿&豊受大神宮本殿)が国の重要文化財に指定されている。

楼門から”和歌の浦”を眺望した後、幾つかの境内社が鎮座する境内の東側に向かう。 木立の中に16の神社が鎮座していて、その内の14社が覆屋の中だ。 まずは、社殿右奥の天照皇太神宮・豊受大神宮など3社が南面で鎮座する覆屋に....天照皇太神宮と豊受大神宮は一つの社(本殿)で、二柱を祀る社殿のため側面は一軒だが正面は二間としている。 天照皇太神宮・豊受大神宮と多賀神社の2社殿はいずれも、向拝と身舎の軒下の細部や側壁面などに鮮やかな色彩が施されていて、絢爛だ。
少し戻って西面で鎮座する境内社のエリアに。 珍しい形の朱塗りの宗忠鳥居二基を備えた高富稲荷神社が覆屋内に鎮座している。 流造檜皮葺の社殿は、大棟に外削ぎの千木と堅魚木5本を乗せ、殿前に奉納された四基の小さな明神鳥居が置かれている。 覆屋の前に4頭、社殿の左右にそれぞれ6頭の神使の狐が鎮座し、神社を守護している。 高富稲荷神社の左手に住吉神社、その左手の基壇上の横長の覆屋に9社の小さなお社が整然と並んでいる。 9社が鎮座する覆屋の前に、石造りの明神鳥居を構えた東面の神社があるが社号は不詳だ。 赤い前掛けをした獅子の狛犬と石造りの狐像が鎮座しているので、稲荷社だと思うが....。
帰り際、楼門から”和歌の浦”と”紀伊水道”を遠望したが、素晴らしい眺めに疲れが癒された。
 
△境内西側の山裾に鎮座する石造り明神鳥居を構えた白鳥神社....白鳥大明神を祀る/大棟に2つの堅魚木を乗せた流造鉄板葺の祠....阿形狛犬の後方に鳥居に掲げられていた扁額が置かれている
 
△境内東側の覆屋に南面で鎮座する天満神社他2神社....手前右に白藤竜王と白高大神を祀る祠がある/流造鉄板葺の祠....昭和十六年(1941)建立で白藤龍王と白高大神を祀る

△切妻造桟瓦葺で鉄板葺の庇を設けた覆屋に三つの神社が鎮座....真ん中は天照皇大神宮と豊受大神宮二柱の本殿

△左から多賀神社、天照皇大神宮・豊受大神宮、白山比賣神社

△末社の多賀神社(左)と天照皇大神宮・豊受大神宮はいずれも国指定重要文化財

△流造檜皮葺の天照皇大神宮・豊受大神宮....江戸初期慶長九年(1604)の建立で、天照大神と豊受大神を祀る
 
△二神を祀るので正面二間(側面一間)とした流造....丸桁、海老虹梁、向拝部の水引虹梁、組物、木鼻そして身舎の長押、組物、柱、欄間などや側面壁に絢爛な色彩が施されている

△春日造檜皮葺の多賀神社....江戸初期慶長九年(1604)の建立、方一間の「一間社春日造」....伊奘那岐命・伊奘那美命を祀る
 
△天照皇大神宮・豊受大神宮と同様に絢爛な色彩が施されている....正面欄間の蟇股も美しい

△右端が白山比賣神社....本山は石川県の白山信仰の神社で、白山比咩大神(菊理媛尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱)を祀る
 
△流造檜皮葺の白山比賣神社/正面と側面に擬宝珠高欄付き縁、側縁奥に脇障子、前縁に小さな鳥居が置かれている

△境内の東端に数社の境内社が西面で鎮座している

△二基の朱塗りの宗忠鳥居を構えた高富稲荷神社(右)、左隣は住吉神社

△流造檜皮葺の高富稲荷神社....大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る、殿前に小さな4基の明神鳥居が立つ
 
△切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する高富稲荷神社/切妻造銅板葺の住吉神社

△住吉神社の左隣に建つ切妻造銅板葺の長い覆屋に境内社九社が整然と鎮座

△長い覆屋に鎮座する境内社九社は、左奥から白太夫神社、鹿島神社&香取神社、春日神社、柿本神社、神集神社、八幡神社、産霊神社、天穂日神社、三宝竃神社

△長い覆屋に対面して東面で鎮座する境内社(神社名は不詳だが、狐像があるので稲荷社?)

△石造り明神鳥居と4基の石燈籠を構え、獅子の狛犬と狛狐が守護している

△切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する境内社
   
△赤い前掛けをした獅子の狛犬/赤い前垂れをした稲荷神の神使の石造り狐像....写真は左側の像で巻物を咥えている

△楼門を通して眺めた”和歌の浦”
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和歌浦天満宮-(1) (和歌山)

2020年07月05日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】平安時代の康保年間(964~968)、漢詩人で参議の橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦に立ち寄り、菅原道真追慕の念を深くし、この地に社殿を建てて道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。
道真は延喜元年(901)、左大臣藤原時平の讒言により筑前太宰権師に左遷され、大宰府に向かう途中、荒れる海を避けるため和歌浦に停泊した。 海が穏やかになって大宰府に向かう際、船上から和歌の浦を望みながら2首の歌を詠んだ。
橘直幹建立の社殿は、天正十三年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めの兵火で焼失した。 主祭神は学問の神・菅原道真。 和歌浦天満宮は通称で、正式社号は天満神社。

海岸通りのバス停「権現前」に着くと、眼前に天神山の麓に御手洗池公園が広がる。 御手洗池の中に島が浮かび、島の東西に朱塗りの擬宝珠欄干付き平橋が架かっている。 平橋の上や島からは、天神山山腹の樹林の中に鎮座する和歌浦天満宮が遠望できる。
石造り鳥居から境内を眺めると、まず、正面の古びた石垣と石段、その上に建つ楼門と廻廊に目がいく。 石垣と石段は約400年前の江戸初期の造営で、傾斜地に張ったものを含めた石垣は野良石積、そして各段が歪んでいる急峻な石段は、壊れはじめているようにみえる。 また、ズームアップした楼門の写真を見て驚いた。 楼門と廻廊の屋根の数か所の瓦が破損しており、楼門の瓦の一部が廻廊の屋根に落下していたのだ。 訪問は2018年11月だったが、多分、同年の台風21号の猛威で破損したのだろう。
急峻な石段を上って楼門へ。 一間一戸で丹塗りの楼門は、軒が少し深く、また禅宗様式を取り入れていて趣がある。
楼門を通して透塀に囲まれた社殿が見え、拝殿と本殿の大棟に右三巴の神紋を配した檜皮葺屋根とが重なっている。 拝殿は平唐門の造りで、紙垂と多くのしめのこをつけた注連縄が張られている。 透塀の隙間から本殿の撮影を試みたが、連子子の間隔が狭いため断念。 唯一拝殿を通して本殿を拝観したが、絢爛豪華に飾られた向拝と身舎の軒下が素晴らしい。
拝殿左の透塀前に奉納されているたくさんの学業成就・合格祈願の絵馬をみていて、道真が立ち寄った地であることを実感した。
 
△天神山の麓に広がる御手洗池....池と周囲は御手洗池公園になっている/池の中の島に架かる平橋から遠望した天神山中腹に鎮座する和歌浦天満宮

△天神山中腹に樹林を背にして鎮座する和歌浦天満宮

△鳥居を通して眺めた境内....石造りの明神鳥居は明治三年(1870)の造立

△鳥居から眺めた下段の境内....社務所と手水舎が建ち、神使の牛像が狛犬として鎮座

△江戸初期造立の石垣と急峻な石段の上に建つ楼門....石垣は傾斜地を含めて野良石積
  
△入母屋造桟瓦葺の手水舎/手水舎内に置かれた賽銭箱、自然石を用いて造られた手水鉢そして屋根の千木を乗せた小さな祠

△石垣と石段は紀州藩主浅野幸長が再興した慶長十一年(1606)に造営された

△入母屋造本瓦葺の楼門(国重文)....慶長十年(1605)の建立で、この種の楼門としては最大級の規模....楼門の一部の屋根瓦(大棟、平降棟、掛瓦、隅降棟の鬼瓦の鳥衾など)、廻廊では大棟の瓦の一部が破損

△一間一戸の丹塗の楼門の左右(東西)に一軒疎垂木の廻廊を附設....神社建築に禅宗様式を取り入れた最初の建物とされる

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で柱間に2つの詰組、腰組も三手先....上層の廻縁は親柱には逆蓮頭を乗せた高欄
 
△楼門の東西に附設された入母屋造本瓦葺の廻廊....楼門は大棟に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は三ツ花懸魚、妻飾は分からず....廻廊の拝に猪目懸魚、妻飾は板張りの素式/楼門前の手水鉢の脇で本殿を向いて鎮座する牛像

△楼門を通して眺めた拝殿、透塀そして本殿の屋根

△本殿境内は本瓦葺の透塀で囲まれて鎮座している
 
△切妻造檜皮葺の平唐門が拝殿になっている....本殿と拝殿の大棟などに右三つ巴の紋章を配している/唐破風の拝殿の兎毛通は猪目懸魚

△入母屋造檜皮葺で大きな千鳥破風を乗せた本殿(国重文)....慶長九年(1604)、紀伊藩主浅野幸長により再興された

△周囲に庇を設けた本殿は桁行五間・梁間二間で、装飾性の富んだ桃山建築

△大棟両端と千鳥破風に外削ぎの千木と千木傍に各1本の堅魚木が乗る
 
△拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、虹梁下に彩色された花の彫刻を配す/本殿境内に立つ石燈籠

.△拝殿を通して眺めた本殿の向拝、向拝柱は身舎の円柱に対し面取柱....向拝や身舎の梁や組物などが絢爛豪華に飾られている....写真では脚間に動物の彫刻を配した蟇股が素晴らしい

△東側の廻廊から眺めた社殿全景....拝殿西側の透塀前に奉納された多くの学業成就・合格祈願の絵馬

△西側の廻廊から眺めた拝殿と本殿....本殿後方に浅野幸長再興時の石垣が見える

△天満宮の社殿境内の奥(東側)に末社などの境内社が鎮座している
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興国寺-(2) (日高)

2020年04月01日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・日高郡】南北朝時代に入って興国元年(1340)、後村上天皇(第97代)より「興国寺」の寺号を賜り、以降、時の権力者の庇護を受けながら興隆し、名刹として発展した。
安土桃山時代の天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州征伐によって末寺を含めた伽藍の大半が破壊され焼失したが、江戸初期の慶長六年(1601)、紀州藩主・浅野幸長によって法堂・禅堂・方丈・庫院・書院・鐘楼などが再建されて再興し、現在に至る。 昭和三十一年(1956)、臨済宗妙心寺派から独立して臨済宗法燈派大本山になったが、昭和六十一年(1986)に妙心寺派に復帰した。

禅堂後方の高台に江戸後期建立の奥之院・開山堂があり、斜めに建てられた本瓦葺の渡り廊下が禅堂と開山堂を結んでいる。 開山堂には法燈国師覚心の像を安置。 開山堂境内に歴代住持の墓碑・無縫塔が立ち並ぶ墓所があり、傍に慧日観音像が鎮座して眠っている住持たちを見守っている。
開山堂の境内から書院の庭園が見下ろせる。 築地塀の上に目一杯腕を伸ばして庭を撮らせてもらったが、撮った写真を見ると、緑に囲まれ池の周りに石組を配した美しい池泉回遊式庭園だ。 本堂の東側には、白壁の築地塀で囲まれて方丈、書院、玄関など、そして「庫院」の額が掲げられた庫裡が連なって建ち並ぶ。
庫裡から天狗堂に向かう。 天狗堂は現代の建立で、堂内には日本で2番目に大きい巨大な天狗面が鎮座している。 天狗堂の祭壇前に数億年前の水を閉じ込めているとされる「天狗命根石」が置かれているが、失念した。
本堂の西側には、渡り廊下で本堂と繋がった位牌堂、浴室そして袴腰鐘楼が建つが、袴腰鐘楼の廻縁には親柱に珍しい逆蓮頭を乗せた高欄を設けている。

△奥之院の開山堂が建つ高台への斜めの本瓦葺の渡り廊下

△露盤宝珠が乗る宝形造本瓦葺の開山堂....文政六年(1823)の再建で、開山覚心(法燈国師)の像(重文)を安置

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蟇股....方三間で中央間は上部に格狭間を入れた桟唐戸、脇間は連子窓、支輪がある....側面と背面に擬宝珠高欄付切目縁
 
△開山堂境内の歴代住持墓所に鎮座する慧日観音像/歴代住持墓所傍に並ぶ石造物....ばらばらに崩れかけている五輪塔だと思う

△開山堂境内から見下ろした書院庭園....奥に書院や庫裡の屋根が連なる

.△築地塀越しに撮影した書院庭園

△寄棟造本瓦葺の位牌堂....本瓦葺の渡り廊下で本堂と繋がる...右手に鎮座するのは子守地蔵尊立像

△位牌堂の須弥壇には中央に本尊聖観音菩薩、左右に多くの位牌が祀られている

△法堂の右手に建ち並ぶ方丈(と思う)、書院(と思う)、玄関そして庫裡

△入母屋造桟瓦葺の方丈(と思う)....大棟端に鬼瓦、拝に猪目懸魚、妻飾は大きな狐格子

△寄棟造本瓦葺の書院と本瓦葺唐破風の玄関....玄関に「傳衣」の額が掲げられている

△白壁の築地塀で囲まれた書院と切妻造本瓦葺の門(勅使門?)....扉は笹竜胆の紋を入れた桟唐戸

△切妻造桟瓦葺で妻入の庫裡....大棟に鬼瓦、切妻破風の拝に蕪懸魚....庇の上に「庫院」の額がある

△入母屋造風銅板葺の天狗堂....昭和四十八年(1973)の建立で、妻入りだが寄棟造屋根の上に切妻造屋根が乗ったような造り

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木....正面三間の中央間に引き戸と重なる花頭曲線の窓、脇間は格子窓で両窓下に縦腰羽目板

△横から見た天狗堂.....小棟の寄棟造の上に切妻造屋根を乗せた珍しい構造 (写真はNETから拝借)

△天狗堂内に鎮座する巨大な天狗面....祭壇前に数億年前の水を閉じ込めている「天狗命根石」が置かれているが撮影を失念
 
△天狗面は昭和四十一年(1966)作で寄進された....高さ2.4メートル、幅2.7メートルで日本で2番目に大きい/天狗堂の左手の守護社への参道口に立つ朱塗りの明神鳥居

△山腹い建つ切妻造杉板葺(と思う)の覆屋に鎮座する守護社(と思う)

△覆屋に鎮座する2社....右は小さな幟から稲荷社だが左は?

△境内の西側に建ち並ぶ袴腰鐘楼と浴室(右奥は位牌堂)

△入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼....廻縁は親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付き切目縁

..△二軒繁垂木、組物は出組で柱間に詰組と蟇股を配す、腰組は変形の出組

△入母屋造本瓦葺で三間四方の浴室....中央間は連子を入れた桟唐戸、脇間は小脇羽目

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は雲斗栱(と思う)、中備は正面の虹梁上に蟇股....側面は全面白壁(小壁)で宝珠風の丸窓1つがあるだけ
 
△位牌堂と浴室の間に鎮座する4基の石祠/切妻造の妻に唐破風を設けた石祠

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興国寺-(1) (日高)

2020年03月29日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・日高郡】建保七年(1219)に暗殺された鎌倉幕府3代将軍・源実朝の菩提を弔うため、安貞元年(1227)、家臣の葛山景倫が創建した真言宗寺院「西方寺」が始まり。
景倫は博多で宋への渡航を準備していたが、実朝暗殺の報を受けたことで取りやめ、剃髪して「願性」と称して高野山に入った。 この出家を知った実朝の生母・北条政子から日高郡の由良荘の地頭職を任命された景倫は、荘内に西方寺を創建した。 その後、願生は正嘉二年(1258)、宋から帰国した親交のあった臨済宗の僧・心地覚心を西方寺の住持として迎え、開山とした。
覚心は臨済宗に改宗して禅宗寺院とし、「関南第一禅林」として多くの高名な僧を輩出し、末寺143カ寺を有す臨済宗法燈派の大本山として興隆した。 覚心は永仁六年(1298)に示寂、その後、諡号「法燈国師」を授かった。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は釈迦如来坐像。 紀伊之国十三仏霊場第8番札所。

門前の道路脇に寺号標石が立ち、道路を挟んだ向かいの民家の山茶花の生垣越しに大門を眺める。 大門をくぐると、両側に縁石がある石畳の参道が樹林の中に消えるように真っ直ぐ延びている。
緩い勾配の参道を上っていくとほどなく砂利敷となり、脇に、岩倉具視の欧米視察団の一員として渡航した由良守應の墓標と顕彰碑、八大龍王を祀る龍王社、そして散在していた無縁墓碑を集めたとみられる墓所があり、たくさんの宝篋印塔・五輪塔・板碑などの様々な形の古墓石が整然と並んでいる。
洗心池に架かる幅の広い石橋を渡ると、少し先に、堂宇境内への石段があり、その左右に高い石垣がありまるで城壁のようだ。 石段の上に立派な袖塀を設けた山門が建ち、門前の紅葉が山門を引きたてている。 石段を上りつめると、山門を通して豪壮な構えの法堂が見えるが、まるで額に入れた絵のようだ。
山門をくぐって森閑とした境内に....日高の山々に囲まれるように古色蒼然とした伽藍が建ち並ぶ光景は、「関南第一禅林」の威厳をいまに誇っている。 正面には、圧倒的な存在感がある法堂(本堂)が鎮座。 千鳥破風を乗せた禅宗様式の法堂は、威厳に満ちていて、堂々たる偉容を放っている。 内陣の須弥壇には諸仏が鎮座....中央の金色の釈迦如来坐像は本尊で、左右の四天王像に守られている。
法堂後方に、吹き放ちの渡り廊下で繋がった禅堂が建ち、窓のない正面の柱に雲版が下がっている。 真ん中が摩耗して木地が見える雲版を見ていると、薄暗い禅堂で、雲版を叩く合図で修行を始める雲水の姿が目に浮かんでくる。
 
△門前の道脇に立つ「鷲峰山興國禅寺」と刻まれた寺号標石/門前の民家の生垣の山茶花越しに眺めた大門

△樹林を背にして建つ大門....山門後方の樹林の中に消えるように石畳の参道がある

△切妻造本瓦葺で二軒繁垂木の大門(四脚門)

△虹梁と側面の頭貫の木鼻はいずれも精緻な牡丹の彫刻

△彫刻が施された虹梁、中央の上に精緻な龍の彫刻....境内側の虹梁に「関南第一禅林」の扁額
 
△由良守應の墓所に立つ「由良守應翁顕彰碑」....案内板に「陸上交通の先駆者」で「幕末の志士で,明治新政府に仕え、岩倉具視の欧米視察団の一員として渡航」とある/参道脇に鎮座する龍王社....雨乞い、農業神の八大龍王を祀っているが創建は不詳....江戸時代の文化四年(1807)の「興国寺古文書」に記載されているとか

△色づいた木々が残る砂利の参道が続く

△石橋手前の参道の左側にある墓所....散在していた無縁墓碑をこの地に集めたものと思う

△多くの宝篋印塔、五輪塔、板碑、石仏そして様々な形の墓石が整然と並んでいる

△風化が進んでいる宝篋印塔や五輪塔が寄り添うように並んでいる

△洗心池に架かる石造り反橋の廣度橋....その先の切石敷参道の奥に堂宇境内への石段がある

△堂宇境内への石段の左右は、城壁のような高い石垣になっている

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)....昭和後半の建立

△軒廻りは二軒繁垂木、垂木、組物、木鼻などに胡粉が施されている....左右の袖塀は本瓦葺きで白壁の築地塀

△山門を通して眺めた法堂(本堂)....親柱上の梁に山号「鷲峰山」の扁額がある

△堂宇境内....法堂の右側に庫裡、玄関、方丈そして書院が建ち並ぶ

△山門から眺めた境内....正面は荘厳な法堂(本堂)、渡り廊下で繋がる右手に書院、左手に位牌堂

△入母屋造本瓦葺で裳腰付の法堂(本堂)....寛政九年(1797)の再建で、身舎は三間四方、裳腰を加えると五間四方

△軒廻りは身舎・裳腰いずれも二軒繁垂木だが、組物は身舎が出組、裳腰は出三斗で、中備はいずれも詰組
 
△身舎の屋根に千鳥破風と軒唐破風がある....身舎に「関南第一禅林」の扁額が掲げられている/法堂須弥壇に祀られている古舟形挙身光を背負う本尊釈迦如来坐像と左右に四天王

△裳腰正面の中央三間は両折両開の桟唐戸、両脇間は花頭窓、側面は桟唐戸と3つの花頭窓そして小脇羽目

△法堂後方に禅堂そして一段高い位置に開山堂が建つ

△法堂(右)と禅堂とを繋ぐ本瓦葺で吹き放ちの渡り廊下

△入母屋造本瓦葺の禅堂....二軒繁垂木で組物は舟肘木....僧侶や雲水が坐禅修行する御堂で、壁の柱に雲版が下がる

△禅堂後方の斜めの渡り廊下の上に開山堂が建つ

△T字形構造の禅堂....正面は連子を入れた桟唐戸のみで側面に1つの花頭窓と2つの連子窓があるだけ






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藤白神社-(2) (海南)

2020年03月25日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】平安時代から鎌倉時代にかけて熊野信仰が高まる中、熊野一の鳥居として熊野九十九王子中最も格式の高い五躰王子の一となり、熊野聖域への入口として祓戸王子(「王子」は熊野詣の礼拝所)を鳥居の近くに設けた。 また、熊野聖域への入口に柳屋旅館跡があるが、小栗街道と称したこの地には数軒の宿や茶屋が並び、熊野詣する人たちで賑わっていた。
戦国時代の兵乱で本殿や神宮寺を失ったが、寛文六年(1666)、江戸初期の紀州藩初代藩主徳川頼宜(徳川家康の十男)により社殿が造営されて再建され、現在までその姿を留めている。
藤白神社が「鈴木姓発祥の地」とされる由縁は、屋敷を構えて代々神官を務めた熊野三党(榎本、宇井、鈴木)のひとつ藤白鈴木氏の発祥の地による。 境内に鎮座する有間皇子神社は、大化の改新を行った孝徳天皇(第36代)の皇子・有間皇子を祀るが、皇子は政敵だった中大兄皇子の罠に掛って捕えられ、謀反を図ったとされて藤白坂で処刑された。

境内には樹齢1000年以上とされる大楠が数本聳える。 その中でひときわ巨大な楠には熊野の神様が籠っているとされ、「籠り⇒子守」から傍に「子守楠神社」が鎮座する。
旧社務所に対面するように白壁の築地塀と門に囲まれた一角に「聖皇三代重石」がある。 門の格子戸から中を覗くと、大楠の根元に風化がかなり進んだ2基の石塔(重石)が立つ。 宇多・花山・白河の三上皇の熊野御幸を祈念して平安時代に造立されたものだが、1基は消失したようだ。 境内の中央に湧き出ている清水は「宮水」で紫の水と呼ばれ、地元では酒醸造に利用されているとか。
拝殿の右手奥に進むと、熊野路で唯一、熊野三所権現等の本地仏を祀る藤白王子権現本堂が建つ。 扉の隙間から覗くと、内陣にいずれも平安時代末に造立された六躰の仏像が鎮座。 中央に鎮座する舟形光背を背にした金色に輝く三体の坐像は熊野三所権現の本地仏で、薬師如来像像(速玉)、阿弥陀如来像(本宮)、千手観音像(那智)だ。 これらの仏像は、「藤代五躰王子」の神宮寺だった中道寺に祀られていたもので、神仏習合の名残を現代に留めている。
境内の藤白坂側に有間皇子神社がひっそりと鎮座....皇位継承をめぐる複雑な争いの中、この地で、19歳という若さで散った悲運の皇子にそっと手を合わせた。

△熊野の神(熊野杼樟日命)が藤白の大楠に籠る(子守る)「子守楠神社」

△入母屋造(前方)と切妻造(後方)をT字型に組んだ桟瓦葺の拝殿....本殿は切妻造板葺
 
△拝殿前に家型笠の石燈籠と「宗忠鳥居」風の鳥居を構える....「宗忠鳥居」は鹿島鳥居に額束をつけ貫に楔を打ち込んだ形/樹齢1000年以上とされる楠の巨木が境内に数本あり、神様が宿るご神木

△白壁の築地塀で囲まれた中に「聖皇三代重石」が鎮座

△重石は平安朝時代、宇多・花山・白河三上皇の熊野御幸を祈念して造立された(現存2塔のみ?)
 
△「聖皇三代重石」前には、狛犬と石碑「〇園社拝〇」「建仁行幸 御歌塚」が....後者には鎌倉時代建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が収められている
 
△「後鳥羽上皇院宸筆」と記された歌碑....建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙を収納/芭蕉翁藤塚

△境内の中央に木の柵で囲まれた「宮水」は紫の水と呼ばれる
 
△湧き出る清水は宮水の源泉と称される/清水が注がれる手水鉢

△拝殿前の右手の熊野聖域への入口に立つ石造り明神鳥居

△寄棟造本瓦葺の藤白王子権現本堂....熊野古道九十九王子の中で神仏分離令を免れて仏像が残ったのは藤白神社のみ

△本堂には「藤代五躰王子」の神宮寺だった中道寺の熊野三所権現の本地仏と藤代若一王子の本地仏の十一面観音菩薩立像(右の柱に隠れている)、他に明王像などが鎮座

△中央三躰は熊野三所権現の本地仏....平安末造立で央の三躰は本地仏、左から熊野那智の千手観音坐像、熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像

△小棟造りの本堂の正面は格子戸で脇間に窓がなく小壁と羽目板の造り、大棟に鯱が乗る....向拝は大きな唐破風
 
△向拝に「藤巴」紋入りの幕が張られ、「藤白王子権現」と書された提灯が下がる/向拝の唐破風屋根に龍像を施した鬼瓦,兎毛通は鳳凰(と思う)の彫刻

△明神鳥居を構えた有間皇子神社....祭神・有間皇子は19歳の若さで藤白坂で処刑された悲運の万葉の貴公子

△石燈籠越しに眺めた切妻造で簡素な拝殿と奥に鎮座する有間皇子神社
 
△切妻造銅板葺の有間皇子神社社殿/有間皇子神社前の石燈籠は享和二年(1802)の造立

△熊野聖域への入口に立つ「熊野古道」標石....この地は藤白坂の麓で、平安時代から鎌倉時代に盛んだった熊野三山詣巡礼路の入口
 
△昭和五十三年(1978)造立の「熊野古道」標石/.「熊野古道」標石の向かい側の空き地は熊野三山参詣者の宿泊した柳屋旅館の跡


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藤白神社-(1) (海南)

2020年03月21日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】記紀で、日本武尊の父の景行天皇(第12代)時代の景行天皇五年の鎮座に始まり、女帝・斉明天皇(第37代)が斉明天皇四年(658)に牟婁の温湯(現在の白浜温泉)に行幸した際に創建されたと伝える。
奈良時代の神亀元年(724)、聖武天皇(第45代)が玉津島行幸に際し、僧・行基(百済系の渡来人)を藤白神社に詣らせ、熊野三山に皇子誕生を祈らせたところ高野皇女が誕生。 これにより光明皇后は神域を広め整え、熊野三山の御祭神を勧請し、藤白神社を末代皇妃夫人の熊野遥拝所と定めた。
聖武天皇の第2皇女である孝謙天皇(第46代)が玉津島行幸の際、供養した熊野広浜が藤白神社に詣でて「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号した。 以来、「藤白王子」あるいは「藤白若一王子権現社」と呼ばれて、篤い信仰を集めた。 主祭神は櫛玉饒速日命(配祀神、藤白鈴木氏の氏神)。 神仏霊場巡拝の道第7番(和歌山第7番)。

紀勢本線の高架下を通る道路を進むと、直ぐの道路脇に「鈴木姓のふるさと海南」の幟が立つ急な石段がある。 上っていくと踊り場から石造の一ノ鳥居が見える。 一ノ鳥居をくぐると、一の鳥居境内と社殿境内の間を一般道が横切っていて、境内を分断している。
玉垣に囲まれた社殿境内の入り口に、笠木の上に銅葺屋根を設けた木造の二ノ鳥居が立つ。 鳥居をくぐると、低い台座に鎮座する愛嬌のある顔の狛犬が迎えてくれる。 正面に真ん中に社殿への通路を設けた旧社務所が建ち、その奥の一段高い所に樹林を背にして社殿が鎮座。 拝殿は桟瓦葺だが、向拝は本瓦を葺いた大きな唐破風だ。 拝殿前には江戸中期造立の珍しい家型石燈籠が佇む。
社殿前を左に進むと、それぞれ玉垣に囲まれた境内社2社と、長屋風の覆屋に末社4社そして神馬が横一列に並んで鎮座している。
 
△「鈴木姓のふるさと海南」の幟が立つ急な石段参道/石段の踊り場から見上げた一ノ鳥居の明神鳥居

△天保年間(1830~1844)造立とみられる石燈籠越しに眺めた境内

△一ノ鳥居の石造り明神鳥居....右側は社務所か? 石燈籠は天保八年(1837)の造立

△一ノ鳥居から一般道を挟んだ一段高い位置にある藤白神社境内

△笠木の上に銅葺の屋根を設けた二ノ鳥居の木造明神鳥居
 
△小さな台座の上に、低い姿勢で鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬

△入母屋造本瓦葺の旧社務所....真ん中は本殿への通路になっている....手前に「宮水」紫の水が湧き出ている

△旧社務所後方の一段高い位置に鎮座する社殿

△入母屋造桟瓦葺で簡素な造りの拝殿....一軒疎垂木で組物は舟肘木、中央間は格子戸で、脇間も大きな格子の硝子入り格子戸

△本瓦葺で大きな唐破風の向拝....水引虹梁の上に蟇股、その上の梁に笈形付き大瓶束
  
△「藤巴」の神紋が入った獅子口、兎毛通は空飛ぶ鶴の彫刻のようだ/延享年間(1744~1748)造立とみられる石燈籠/寛延四年(1751)造立の家型石燈籠
 
△樹林の中に隠れるように鎮座する本殿.....流造銅板葺の社殿ようで、三間の向拝、組高欄付縁の側縁の奥に彫刻を施した脇障子

△本殿の左手に玉垣に囲まれて鎮座する恵比寿神社(右)と已神社
 
△切妻造板葺(と思う)の覆屋に鎮座する恵比寿神社/流造銅板葺の恵比寿神社の社殿
 
△切妻造銅板葺の已神社...「藤巴」の神紋を入れた幕が下がる/已神社境内に鎮座する「円座石」(亀石とも)....昔、藤白浜のあったもので、藤白王子の御旅所といわれていたようだ

△左右に瓦屋根がある長屋風板葺の覆屋に4つの末社が鎮座

△左から塩竈神社、住吉神社、秋葉神社そして祇園神社
 
△切妻造板葺の塩竈神社....妻に庇を付けて向拝を設けている/流造板葺の住吉神社...大棟からキT字型に棟を伸ばして大きな千鳥破風を設けている

△流造銅板葺(と思う)の秋葉神社....屋根に小さな千鳥破風を設けている....左の乗馬する甲冑武士は?

△秋葉神社の右手の鎮座する木造の神馬と後方に流造板葺の社殿

△流造板葺の祇園神社...住吉神社と同じ造りだが、脇障子がない
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浄妙寺 (有田)

2020年02月29日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・有田市】寺伝では、平安時代の大同元年(806)、平城天皇(第51代)の国母乙牟漏皇太后の勅願により創建され、開山は奈良唐招提寺第四世の唐僧如宝律師とされる。 創建時は七堂伽藍の大きな寺院で、平安後期の嘉応元年(1169)、箕島に城を構えた宮崎定範から70石の寺領を受けた。
戦国時代(安土桃山時代)の天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州討伐に遭い、兵火により僧房や縁起文書などの殆んどが灰燼に帰したが、深い樹林の中の奥の院に在った薬師堂と多宝塔は難を逃れた。
その後永らく荒廃していたが、江戸時代初期の正保四年(1647)、紀州徳川家の初代藩主頼宣(南龍院殿)によって再興された。 頼宣公は、薬師堂・多宝塔に大修理を加え、和歌山吹上寺開山瑞禅師を中興開山として招き、禅刹として現在に至る。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は木造薬師如来坐像。 薬師如来像の他に木造の脇侍と十二神将立像(6躯)を安置しているが、いずれも鎌倉時代の造立。 十二神将立像が6躯なのは、平成六年(1994)に6躯が盗難に遭ったため。

参道入り口に立つ「醫王山 浄妙寺」の寺号標石から、高い石垣の裾に沿って続く参道を上っていくと、左手に山の中腹にある境内への石段がある。 両側に手入れの行き届いた植栽がある石段を上りつめると、正面に山を背にして小棟造りの本堂の薬師堂が鎮座している。 薬師堂は鎌倉時代の建立で江戸時代に改築されたものだが、古色蒼然たる風情を色濃く残している佇まいだ。
境内の北側に、左半分が工事用テントで覆われた多宝塔が南面で建つ。 2018年11月の訪問だったが、お寺の方によると「今年の台風21号の猛烈な風雨で損傷した」とのこと。 調べたら、和歌山市では1940年以来観測史上1位の最大瞬間風速57.4メートルが観測されたようだ。
工事用足場とテントを避けるようにして多宝塔を撮影していたら、お寺の方が近づいてきて、薬師堂・多宝塔の写真と浄妙寺由来記が記されたパンフ「醫王山 浄妙寺」を呉れ、「足場の上から撮ってもいいよ」と言って上まで案内してくれたのには、非常に吃驚した。 国の重要文化財に指定されている風格漂う浄妙寺多宝塔....少し興奮しながら直ぐ間近で拝観でき、通常では絶対撮れないアングルでの撮影は感無量だった。 ちなみに、確認できた損傷は白色漆喰の亀腹で、表層の一部が剥離していた。
薬師堂の右手に方丈・唐破風の玄関・庫裡が連なって建つが、多宝塔拝観後に玄関に案内され、閉まっていた明障子戸を開けて正面の白壁に設けられた大きな丸窓を見せてくれた。 裏庭の木々が眺められる丸窓は近年の作で、嬉しそうに自慢されていた。 多宝塔を超間近で撮影するという貴重な体験をさせて頂いたお寺の方に御礼を言って、帰路に....合掌!
 
△参道入り口に立つ山号「醫王山」が刻まれた寺号標石....左の高い石垣の上は浄妙寺の境内/参道から境内への石段....両側に手入れが行き届いた植栽

△両側に石垣がある石段の上部

△石段を上がった境内正面に建つ本堂....薬師堂とも称し、鎌倉時代造立の本尊・木造薬師如来の他、脇侍と十二神将(6躯)を安置

△境内の左手に様を背にして多宝塔、弁天堂、大師堂が建つ

△寄棟造本瓦葺の本堂(重文)....鎌倉時代の創建で江戸時代に改築....本尊薬師如来立像、その他に脇侍や十二神将を安置

△一間向拝の礎盤に立つ面取方柱の上部に粽がある....柱上部に連三斗,水引虹梁の中備に脚間に虎(と思う)の彫刻を施した本蟇股

△正面三間の中央間に飾金具を配した両折両開の桟唐戸、内側に格子戸、脇間に花頭窓と羽目板....手挟は牡丹の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、太い軒支輪がある....側面三面は板扉、花頭窓、羽目板

△切妻造銅板葺で丹塗りの弁天堂....右後方は本堂の薬師堂
 
△宝形造桟瓦葺の大師堂....左隣に赤い帽子を被り前垂れをした7体の地蔵尊石像が鎮座/大師堂に鎮座する石造りの弘法大師空海坐像

△本瓦葺の多宝塔(重文)....鎌倉時代中期の創建で、江戸時代に改修....2018年の台風21号で被害を受け、修復中
 
△塔高は相輪先端まで12.95メートルで、塔内の須弥壇に五智如来像を安置

△三間四方の周囲に擬宝珠高欄付き切目縁....中央間に板扉、脇間に盲連子窓と羽目板

△上層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先....廻縁を支える腰組は平三斗

△下層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は出組で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股、軒支輪がある

△足場が組まれた修復中の多宝塔....お寺の方のサポートで、足場に上って撮影させていただいた

△間近で見る下層の軒下....この角度で拝観するのは始めてだ!
 
△足場を通して眺めた上層と最上部の足場から見た相輪

△亀腹の漆喰が一部剥がれている

△上層の見事な組物....下から見えなかったが、円形の塔身に小さな装飾窓が施されている

△足場の上から眺めた手前から本堂(薬師堂)、方丈そして庫裡

△生垣に囲まれた芝生の境内に建つ方丈と鐘楼
△入母屋造本瓦葺の方丈....江戸時代初期の建築、正面に切目縁、全面ガラス戸だが古民家風の佇まい
 
△切妻造本瓦葺の鐘楼                          梵鐘

△方丈と庫裡の間にある唐破風本瓦葺の玄関.....右に連なって入母屋造本瓦葺の庫裡

△玄関を入った正面の白壁の丸窓

△お寺の方から頂いた薬師堂・多宝塔の写真と浄妙寺由来記が記されたパンフ「醫王山 浄妙寺」

△写真のような優雅な多宝塔を見たかったが、足場を上って間近で撮影できたので、よしとしたい!
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粉河産土神社 (紀の川)

2019年10月28日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】奈良時代後期の宝亀元年(770)、紀伊国那賀郡に住む 猟師・大伴孔子古が粉河寺を創建し、大伴孔子古の子の船主が延暦二年(783)に上丹生谷村の氏神の丹生神社を勧請して境内に祀ったのに始まる。
平安・鎌倉以来朝家公郷の信仰厚く、諸公郷に推されて粉河寺鎮守となり、現在は粉河郷の総社でもある。 大正元年(1912)に旧長田村松井の丹生神社と粉河町東毛の大神社を合祀し、大正八年(1920)に粉河町粉河天福神社を境内社として合併した。 境内には、天福神社、熊野神社、白山神社など境内社9社が鎮座する。 祭神は丹生津比賣命と天忍穂耳命の2柱。

粉河寺拝観後、本堂と千手堂の間の奥の階の上に鎮座する粉河産土神社に....。 石段の階の上に立つ大きな朱塗りの明神鳥居をくぐると、直ぐ左手の社務所の前に、丹生大明神の蒙古軍撃退伝説に由来する「おんどり石」が鎮座。 その対面には棟門のような造りの手水舎、その前に「百度石」がある。
正面の一段高い所に、柱や扉が朱塗りで白壁の拝殿が建つ。 中央間の一間奥にくぼんだ所が参拝所で、そこから彫刻と鮮やかな彩色が施された春日造りの本殿二棟が少しだけ見える。 二殿の間に置かれた祭壇に、真ん中に御幣、両側に土器が載った三宝が置かれていて、神聖な空間を醸し出している。
拝殿の右に菱格子の透かし塀が連なり、天福神社の神門がある。 門扉の格子の間から、外削ぎの千木と3本の堅魚木を乗せた春日造りの天福神社を拝観。 天福神社の右手は裏参道で、五社神社、護國神社、白山神社、稲荷神社の境内社が南面横並びで鎮座している。

粉河寺の本堂(右)と千手堂(左)の間から眺めた階の上に鎮座する粉河産土神社

階上に立つ朱塗りの金属製の明神鳥居....直ぐ左手は切妻造桟瓦葺の社務所
  
社務所脇に鎮座する「おんどり石」....鎌倉時代の元寇の際、祭神丹生大明神が鶏に乗って現地に赴き、神力による神風で襲来した蒙古軍を撃退、その後、鶏は石になってこの地に/切妻造銅板葺の手水舎/手水舎傍にある「百度石」と自然石で造られた飾手水鉢

入母屋造銅板葺の拝殿....正面には擬宝珠高欄付き切目を設け、縁の両端に羽目板の脇障子がある

脇間は真ん中に両折両開の桟唐戸で両側に小脇羽目の小壁
 
拝殿前石段下に鎮座する阿形吽形の狛犬....右は玉を抑えた「玉取り」の獅子で、左は子を踏む「子取り」の狛犬かな

中央間の奥にへこんだ格天井の一間が参拝所....虹梁の上に脚間に左三つ巴の紋を配した蟇股

奥に一間社隅木入り春日造銅板葺の本殿第一殿と本殿第二殿が鎮座....江戸時代中期の建立で、華やかな彫刻や彩色が施されている....祭神「丹生都姫命」「天忍穂耳命」を祀る

拝殿の軒廻りは一軒繁垂木、組物は長い束の舟肘木で中備なし....大棟端に鳥衾を乗せた鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾は豕扠首

拝殿の右手の菱格子の透かし塀の中に天福神社が鎮座
  
天降大明神を祀る天福神社の神門/門前石段下に鎮座する獅子の狛犬

切妻造銅板葺の天福神社神門....扉は菱格子入りの桟唐戸

春日造銅板葺の天福神社社殿....享保十二年(1727)建立で、大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

粉河産土神社の裏参道に鎮座する3基の丹塗りの鳥居を構える粉河稲荷神社
 
狛犬は稲荷神の神使の狐                春日造銅板葺の稲荷神社

木鼻付き明神鳥居を構えた白山神社(右)と粉河護國神社が並んで鎮座
 
春日造銅板葺白山神社....白山神社大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る/白山神社前に細い参道があり、沢山の朱塗りの鳥居が立つ

粉河護國神社....切妻造銅板葺の覆屋の中に鎮座、妻面の庇の下に木鼻付き神明鳥居が立つ
 
大きな覆屋の真ん中に鎮座する粉河護國神社のお社/流造銅板葺の粉河護國神社....大棟に外削ぎの千木と4本の堅魚木が乗る

切妻造銅板葺の五社神社(左から楠神社(祭神楠木正成)、一言神社、多賀神社、日吉神社、北野神社(祭神菅原道真))

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十禅律院 (紀の川)

2019年10月24日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・紀の川市】平安時代の正暦元年(990)、石崇上人により粉河寺境内の北東に塔頭・十禅院として創建された。 安土桃山時代の天正十三年(1585)、豊臣秀吉による紀州攻めによって粉河寺もろとも全山焼失して、一時衰退する。
江戸時代に入り、紀州徳川家の寄進により再建し、寛政十二年(1800)、紀州藩10代藩主徳川治宝の命により天台宗に改宗し、比叡山安楽律院(安楽律法院流総本山)に属して寺号を十禅律院とし、粉河寺から独立した。 宗旨は天台宗(安楽律院派)で、本尊は阿弥陀如来像。

粉河寺の薬師堂を拝観した後、境内の北東に位置して竜宮門を構える十禅律に向かう。 自然石で囲むように並べた緩やかな石段の参道の奥に、朝陽を浴びた漆喰塗の竜宮門が建つ。眩しいほどに白い漆喰の門の深い軒下に、「宝鐸墜」の扁額が掲げられている。
アーチ型の通路を通って境内に....自然石の氷紋敷参道の正面奥に、生垣に囲まれるように本堂、左手に護摩堂、右手に庫裡が建ち、それぞれ回廊で繋がっている。 堂宇はいずれも江戸時代後期の建物だが、外壁などに傷みが見られるので少し心配だ。
本堂の向拝の軒下、菱格子窓の下、通肘木の上などに精緻な彫刻がたくさん施されていて素晴らしい。 中央間の桟唐戸と内側の格子戸が開いていたので、そこから弥陀定印を結んで内陣に鎮座する阿弥陀如来坐像を拝観....合掌。 本堂と庫裡を結ぶ回廊の曲がり角に、白壁に大きな花頭窓を設けたお堂があるが鐘楼堂かな。
修復中の表示が下がる護摩堂を拝観した後、本堂や枯山水石組庭園の「洗心庭」を観たいので、庫裏玄関で何度も声を掛けた....が、残念ながら応答がなく、断念した。

参道入り口に立つ寛政十二年造立の寺号標石と文化元年(1804)造立の石燈籠

緩やかな石段の参道の奥に建つ竜宮門

参道奥に建つ竜宮門形式の山門....左右に白壁の袖塀、下部は漆喰塗でアーチ型の通路を有す

入母屋造本瓦葺で大棟端に鯱を乗せた竜宮門....文政八年(18255)の建立
 
竜宮門の扁額「宝鐸墜」は紀州十代藩主徳川治宝の直筆/門の傍に立つ「禁葷酒」と刻された戒壇石
 
右の築地塀に切妻造桟瓦葺の通用門が設けられている/通用門の奥は入母屋造本瓦葺の庫裏で、大棟端に獅子口、拝に三つ花懸魚、妻飾は狐格子

自然石の氷紋敷参道の正面に本堂、左に護摩堂、右は江戸後期建立の庫裡....庫裡の玄関は切妻破風と軒唐破風が重なる造り

大きな切妻破風を乗せ、唐破風向拝の本堂と左手に護摩堂
 
金銅製とみられる宝塔/境内に聳える樹高25メートルの「十禅院のイブキ(伊吹)」(柏槇)

入母屋造本瓦葺の本堂....文政十二年(1829)建立で総欅造り

正面五間の三軒に装飾金具を施した菊紋入りの桟唐戸だが、中央は両折両開で左右に両開....脇間に菱格子窓

獅子口を乗せた向拝の唐破風...兎毛通は鳳凰の彫刻

水引虹梁に精緻な龍の彫刻、上の梁には3人像の彫刻

軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は花の彫刻を施した蟇股....獅子口を乗せた千鳥破風は、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

正面に擬宝珠高欄付き切目縁....菱格子窓下に彫刻
 
手挟は菊と牡丹の透かし彫り/左右の脇間の菱格子窓下に獅子と牡丹の彫刻を配している
 
本堂の扁額「薦福殿」は徳川治宝直筆....通肘木上にも彫刻が施されている/弥陀定印(上品上生)を結んで内陣に鎮座する阿弥陀如来坐像
 
本堂と庫裡を結ぶ回廊の曲がり角に建つ小さな寄棟造桟瓦葺の御堂は鐘撞堂か?/白壁に大きな花頭窓が設けられている

庫裏の玄関先から眺めた本堂と護摩堂は回廊で繋がっている

宝形造本瓦葺の護摩堂(修復中)....文政元年(1818)の建立....中央間に腰高格子戸、脇間は連子窓と小壁

軒廻りは一軒繁垂木、組物は舟肘木で中備なし....正面と側面に切目縁....手前の六角二段の石造物は護摩を焚く炉か?

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