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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

天神社 (木津川)

2021年08月02日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】創建年は不明だが、伝承では役行者が飛鳥時代の675年頃、二神童を寺の鎮守社「 天神神社 」に祀ったとされる。 奈良時代には既に神童寺の鎮守社として鎮座していたようなので、白鳳時代の創建とみられる。 江戸時代には天神社前は伊賀からの「お伊勢参り」の街道であったので、交通の要所として賑わっていたとされる。
神社の森一帯が京都府の天神社文化財環境保全地区に指定されている境内に、割拝殿、拝殿そして京都府文化財に登録されている室町時代建立の本殿が鎮座する。
境内社は、社殿に向かって左側に恵比寿社と牛頭・太子・金精を一社に祀る祠、右側に子守勝手神社、左奥の中腹に2基の朱塗り明神鳥居を構えた総高神社がそれぞれ鎮座している。 また境内には、国の重要文化財に指定されている鎌倉時代建治三年(1277)造立の塔高約4メートルの十三重石塔がある。 神童寺縁起にでてくる神々が祀られているが、主祭神は天八百日命と天三下命の二柱。

◆神童寺から山側に少し進むと三差路に町石のような石柱が立つ。 そこから天神社への参道の奥に2つの明神鳥居が重なって見える。
石造りの一ノ鳥居の脇に、幾つもの波のような横筋がある自然石に「村社 天神社」と刻まれた社号標石がある。 その先の石段の上に立つ朱塗りの二ノ鳥居をくぐると直ぐ右手に手水鉢があるが、水口が水道の蛇口なので少し残念な気持ちに....。
鬱蒼とした樹林に囲まれた境内は深閑としている。 獅子の狛犬が鎮座する割拝殿の中央通路を通り、本殿前の簡素な拝殿で参拝。 本殿は室町時代建立で、瓦屋根付きの菱格子透き塀に囲まれて鎮座。 本殿大棟にかなり長い外削ぎの千木と2つの堅魚木が乗っている。
境内の西北端の中腹に総高神社が鎮座し、その少し下った木立の中に石造り瑞垣に囲まれて十三重石塔がりりしげに立っている。 初層軸部の挙身光形に堀り窪めた中に四方仏が浮き彫りされているが、鎌倉時代造立なので四方仏は顕教ではなく密教系の四仏だろう。 約750年前の古い石塔で、しかも風通しの良くない樹林の中に立つのだが、何故か苔生していないのが不思議に感じた。 上部の笠の一部が破損しているが、貴重な鎌倉遺構なので風化防止策が施されることを念じながら境内をでた。
後日、ネットで天神社について調べたら、木津川市観光ガイドに「正面に金刀比羅宮があり....」と記載されていた。 訪問時、境内社には全て社号が表記されていたが「金刀比羅宮」と表記された社はなく、正面に鎮座する本殿が金刀比羅宮なのかなと混乱した。

△参道の三叉路に立つ町石のような石柱....参道奥に一ノ鳥居と二ノ鳥居が見える

△石段の上と下に立つ2基の明神鳥居が立ち、手前の一ノ鳥居にはしめのこを付けた注連縄が張られている

△自然石に「村社 天神社」と刻まれた社号標石/石段上の朱塗りの二ノ鳥居の明神鳥居....額束下に小さな牛蒡注連とミカンが取付られている

△社殿側からみた二ノ鳥居....傍に手水鉢と反対側に紙垂付注連縄が巻かれた巨石がある

△明治十五年(1882)造立の手水鉢....水口は水道の蛇口/巨石越しに眺めた割拝殿

△中央が通路になっている切妻造桟瓦葺の割拝殿

△割拝殿の前に鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬....胴部に紙垂付き注連縄が巻かれている

△左に鎮座する吽形の狛犬           右側に鎮座する阿形の狛犬

△割拝殿。拝殿。本殿が並び、本殿両側に境内社が鎮座

△切妻造銅板葺で照り屋根の拝殿....瓦屋根の透塀に囲まれて本殿が建つ

△流造銅板葺の本殿....室町時代建立で、大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は舟肘木、大棟端に鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は豕扠首

△本殿右手の境内社は子守勝手大明神....春日造風社殿で屋根に外削ぎ千木と2本の堅魚木が乗る

△本殿左手の切妻造銅板葺の境内社....右は恵比寿社、左は牛頭・太子・金精を一社に祀る

△境内社の左手の山裾に佇む苔生した石造宝塔....鎌倉時代末期造立とされる/石造宝塔は笠に注連縄を巻き、塔身に法華経が刻まれ、基礎に輪郭を巻き、欠落した相輪部に五輪塔の受花と宝珠を乗せている

△切妻造桟瓦葺の社務所らしき建物の奥の境内に総高神社と十三重石塔が鎮座する

△2基の朱塗りの明神鳥居の奥に鎮座する総高神社/総高神社境内のある飾手水鉢

.△総高神社の左手下に石造り瑞垣に囲まれて十三重石塔が立つ

△鎌倉時代建治三年(1277)造立の高さ4.15メートルの十三重石塔(重文)

△十三重石塔は緩やかな軒反りで、軒下に薄い一軒の垂木部を設けている/九重以上(除く十二重)の笠の一部が破損している

△初層軸部に挙身光形に掘り窪めた中に浮き彫りされた四方仏....鎌倉時代造立なので密教系の四方仏だろう(薬師如来(東面)・阿弥陀如来(西面)・釈迦如来(南面)地蔵菩薩(北面))

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十輪寺 (木津川)

2021年05月12日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】創建時期や由緒は不詳だが、寺伝では、奈良時代の華厳宗の僧・良弁上人による開基とされるが衰退。 江戸時代の貞享二年(1685)、誓誉可清上人が念声山地蔵院十輪教寺として中興したとされる。 境内には鎌倉時代~安土桃山時代に造立された石造物が多くあることから古い寺院とみられるが、調べたが歴史や沿革は分からず。 宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は地蔵菩薩像。

◆JR奈良線棚倉駅から歩いて5~6分ほどで住宅地の外れにある十輪寺の門前に着く。 境内に木々が殆んどなく、周囲に生垣や塀がないので開放的な伽藍だ。 山門はなく、数段の石の階の上に、門柱の代わりなのだろうかしっかりと造られた基壇の上に石燈籠が置かれている。 そして境内右手に立つ古そうな十三重石塔がまず目を引く。 正面に建つ流向拝の本堂は、中央間は舞良戸で内側に腰高明障子を設け、脇間は白壁が多いので古民家を感じさせる趣だ。 本堂右手に小棟造りの小さな御堂が連なるが、真言宗寺院なので護摩堂なのかな。
砂利が敷かれた境内の東側に、柱部分がピンクで現代風の六注造りの舎利殿が建ち、その前に小さな御堂と最初に目に入った十三重石塔が立っている。 御堂の中を覗くと、右手に五鈷杵を持つ弘法大師空海像が窮屈そうに鎮座している。 十三重石塔は鎌倉時代のものだそうで、初層軸部には二重円光形に彫り窪めた中に顕教四仏が薄肉彫りされている。 石塔を見上げると相輪が欠落している。 また、石塔のプロポーションに少し違和感を感じたので観察すると、上層の笠4枚が少し小さいようなので多分後補で、逓減を考えずに少し小さい多層塔の笠を積み重ねたのでは....と勝手に想像してみた。
舎利殿の北側に、鎌倉中期の造立で笠を失った石造り笠塔婆や、江戸初期の造立で二条線のない板碑形青面金剛文字庚申塔などが佇んでいる。 さらに本堂の右脇を進んで後方に行くと、二基の宝篋印塔を囲むように石造物(石仏、板碑、宝篋印塔、五輪塔、無縫塔等)がコの字状に整然と並んでいる。 風化が激しい上に破損や摩滅があって造立年が分からないが、室町時代のものが多く貴重な遺物と思うが、何故かいずれの石造物も文化財に指定されていないようだ。

△数段の石の階の上の両側に石燈籠....門柱の代わりなのだろうかしっかりと造られた基壇の上に立つ

△石段の上から眺めた境内....切石敷参道に常香炉が置かれ、その奥に流向拝の本堂が建つ

△寄棟造桟瓦葺の本堂....他堂宇を含めで再建され、平成十六年(2004)に落慶

△向拝左側に脇障子のような白壁で一間分が仕切られていて縁がない

△向拝と身舎の右側に縁を設けている....本堂前に置かれた露盤宝珠を乗せた宝形造り屋根を設けた常香炉/賽銭箱の上に紐が下がるが鰐口だったか

△本堂右手に連なる小棟造りの御堂....中央間は舞良戸、脇間は白壁の小脇羽目

△寄棟造桟瓦葺の御堂は、真言宗寺院なので護摩堂かな?

△境内の東側に建つ建物は、柱部分がピンクで現代風の六注造りの舎利殿

△舎利殿前に小さな御堂と十三重石塔が立つ

△鎌倉時代後期造立の十三重石塔....相輪が欠落、上層屋根(十~十三重部)は後補とみられる/初層軸部には二重円光形を彫り窪めた中に顕教四仏を刻む(写真は北面の弥勒菩薩像だったか)

△十三重石塔の傍に建つ切妻造桟瓦葺の御堂/右手に五鈷杵を持つ弘法大師空海像が窮屈そうに鎮座

△庭に鎮座する赤と白の前垂れをした笑顔の地藏石仏坐像/安土桃山時代 慶長十一年(1606)造立の舟光背形地蔵菩薩立像

△江戸時代寛永元年(1624)造立の板碑型青面金剛文字庚申塔....頭部に二条線はなく全体が縁取りされ、瑞雲・日・半月、種子、「南無青面金剛」が彫られている/鎌倉時代文永十一年(1274)造立で笠塔婆(頂部に笠を接合した枘がある)....塔身上部に二重光背形に彫り窪めて阿弥陀坐像を半肉彫り、その下に阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻

△円形に彫り窪めた水穴の手水鉢

△本堂後方に二基の宝篋印塔を囲むように整然と並んでいる石造物群(宝篋印塔、石仏、板碑、無縫塔、五輪塔等)...室町時代造立の貴重な遺物が幾つかあるとのこと

△一部の隅飾突起が欠落した宝篋印塔....塔身四方の月輪に梵字が刻/宝篋印塔だが頂部の相輪が欠落したようで、代わりに五輪塔の宝珠と受花を乗せている

△宝珠が欠落しているが唐破風付き墓石(と思う)/板碑型の石碑/舟光背型五輪塔

△石柱に乗った五輪塔は一石造りかな?/舟光背型地蔵石仏....錫杖と宝珠を持つ/一石二仏や五輪塔などが少し埋められたように直置きされている

△本尊が地蔵菩薩像なので、石仏も地蔵尊像が多いようだ
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神童寺 (木津川)

2021年04月22日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】神童寺縁起によると、飛鳥時代(596年)に聖徳太子が開創し、自ら彫刻した千手観世音菩薩像を本尊として大観世音教寺と号していた。 その後、白鳳時代(676年頃)に役行者が入山して修行している中、現れた二人の神童の助力を得て蔵王権現像を刻み、蔵王堂を建てて本尊として安置し、寺号を神童寺に改称したと伝え、山岳修験の道場として栄えた。 また役行者は、自らの像を彫刻し、開山堂を建てて安置した。
奈良時代の養老六年(722)、泰澄大師が入山し、鷲峯山を北山上、北吉野山と名付けた。 一時衰退したが、興福寺願安大師により再興された。 平安末期の治承四年(1180)、平資盛の兵火により全山二十六坊の堂宇が悉く焼失。 鎌倉時代建久九年(1190)に源頼朝が再建したが、元弘元年(1331)の兵火で再び焼失した。
室町時代の応永十三年(1406)、興福寺官務懐乗越前公が蔵王堂を再建したのが現在の本堂。 藤原中期造立の仏像を多数有し、仏教美術の宝庫として知られる寺院。 宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は蔵王権現像。

◆JR奈良線棚倉駅から歩いて40分ほど東方の山中に向かうと門前に着く。 城壁のような石垣の間にある石段の下から見上げると、江戸中期建立の棟門式の山門が建つ。 表門とも称す山門は、左右に形が異なる石燈籠を構え、小さな本瓦葺屋根に鯱、鬼瓦、獅子の留蓋瓦を乗せていて趣がある。
山門をくぐると、白壁の築地塀に囲まれてこじんまりした伽藍があり、芝生の境内の正面に室町時代建立の本堂が建つ。 山門から本堂に延びる切石敷の参道を進み、「蔵王堂」と呼ばれる本堂に....内陣に祀られている役行者が刻んだとされる本尊の蔵王権現像に向かって合掌。
本堂の左手に、樹皮が苔生した大銀杏の老木が聳え、その少し奥に建つ小さな鎮守社の前に十三重層塔と石燈籠がひっそりと佇んでいる。 十三重層塔は鎌倉後期の造立で、初層軸部には二重円光形に顕教四仏が刻まれている。 山裾の岩肌に掘られた仏龕に小さな役行者像が、また、収蔵庫への石段の途中に建つ覆屋に室町時代造立の2体の舟光背形地蔵石仏が鎮座している。
苔生した石段を上って高台に建つ収蔵庫に....収蔵庫の中は厳かな空気に包まれていて、平安時代に造立された木造の不動明王立像・愛染明王坐像・阿弥陀如来坐像など多くの仏像が整然と鎮座している....合掌。

△伊賀街道に面し、城郭のような石垣上に伽藍境内がある

△切妻造本瓦葺で棟門様式の山門(表門)....江戸時代中期の建立で、二本の主柱に冠木(横木)を渡し、その上に切妻屋根を乗せている

△山門の屋根の大棟に鯱、降棟下端に鳥衾付き鬼瓦そして獅子の留蓋瓦が乗る....本瓦葺で片方が白壁、もう片方がくぐり戸の袖塀がある

△自然石で造立された寺号標石/門前の左右に佇む2基の石燈籠は、形が少し違うので造立時期が異なる(と思う)

△山門から眺めた境内の正面に蔵王堂と呼ばれる本堂(地域最古の建物)、後方右の高台に収蔵庫、右手に庫裡が建つ

△寄棟造本瓦葺の本堂(国重文)....室町時代の応永十三年(1406)の再建で、役行者が刻んだとされる本尊・蔵王権現像を安置

△本堂は方三間で、正面中央間は蔀戸で内側に引違の腰高明り障子戸、脇間は格子戸、両間の上に菱格子欄間がある

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は間斗束....正面に一間の吹き放しの広い切目縁

△本堂右手に廊下で繋がった護摩堂が建つ....護摩堂の手前の切妻造本瓦葺の鐘楼のような建物に半鐘が下がる

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の護摩堂...三間四方で正面中央間は板扉、脇間は蔀戸

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の経蔵(と思う)

△境内に佇む幾つかの石造物の部位を積み重ねて造られた石塔/水穴を円形に彫り窪めた手水鉢

△本堂左奥に佇む十三重層塔、石燈籠そして鎮守社....手前左の木は大銀杏

△十三重層塔は鎌倉時代後期の造立で笠石の一部と基礎石は後補....瓦葺の社は伽藍の鎮守社の天神神社

△十三重層塔の初層軸部には二重円光形に顕教四仏(金剛界四方仏)が刻まれている/享保十二年(1727)の銘がある石燈籠

△山裾の石垣の上に修験道の最高の崇拝対象である役行者像が鎮座/岩肌に掘られた仏龕の中に鎮座する修験道の開祖・役行者像

△収蔵庫への石段の途中に建つ地蔵石仏を安置する切妻造桟瓦葺の覆屋

△覆屋に鎮座する石仏群....大きな舟光背形地蔵石仏2体は室町時代の造立

△地蔵石仏2体はいずれも蓮華座に立ち、宝珠と錫杖を持つ

△石造物は宝篋印塔の笠を乗せた石柱/高台に建つ収蔵庫への本堂脇の苔生した石段....上の建造物は鐘楼

△収蔵庫の境内に建つ切妻造本瓦葺の鐘楼/梵鐘の池ノ間に飛天(天女?)らしき像が鋳出されている

△寄棟造桟瓦葺で妻入りの収蔵庫....昭和四十三年(1968)の建立で、藤原時代(平安時代の中期~後期)作の諸仏約10体(多くが国指定重要文化財)を安置

△憤怒の形相の本尊・蔵王権現像と、収蔵庫内に安置されている仏像群(いずれもNETから拝借)

△本堂前に立つ金属製燈籠は大正十四年(1925)の造立

△片側を寄棟造りとし、もう片側を入母屋造りとした桟瓦葺で裳腰を設けた庫裡


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実相院 (京都)

2021年04月01日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】鎌倉時代の寛喜元年(1229)、関白近衛基通の孫・静基僧正により柴野(北区)に開創された。 その後、現上京区実相院町に移転したが、応仁の乱(1467~1477)の戦火に遭ったため、所管となっていた大雲寺の一院・成金剛院の現在地・岩倉に移った。
室町時代末期までに多くの伽藍等が戦火で焼失した。 江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)に足利義昭の孫・義尊が入寺、母古市胤子が後陽成天皇の後宮となった関係で皇室と徳川第三代将軍家光から援助を受け、実相院を復興した。
寛文年間(1661~1673)、霊元天皇皇子義延法親王が入室して以来宮門跡が続いた。 義周法親王が門跡の時、京都御所から大宮御所「承秋門院(東山天皇の妃)の旧宮殿」の一部として山門、御車寄、客殿が下賜され移築された。実相院の南東に岩倉具視邸があるが、幕末に岩倉具視が一時実相院に住んでおり、当時の密談記録等が残されている。 宗派は単立(元天台宗寺門派)で、本尊は鎌倉時代作の木造不動明王立像。

◆2011年の京都寺社巡りで訪問した。 地下鉄烏丸線「国際会館駅」から岩倉実相院行きバスに乗車....実相院の門前に着く。 乱積石垣の上に、門跡寺院の最高格式を示す5本の定規筋が入った白壁の築地塀が延び、石造り階の上に落ち着いた雰囲気の山門が建つ。
門柱に「実相院門跡」の聯が掛けられた四脚門をくぐって伽藍境内に入ると、小石を敷いた参道の奥正面に入母屋破風で軒唐破風を設けた客殿の玄関がある。 山門から玄関までの参道右手に境内を仕切るように白壁の築地塀があり、築地塀の奥に玄関の屋根と同じ造りの入母屋破風がある。
客殿の玄関を入り、客殿の「つるの間」に進み、東側の縁側から築地塀で囲まれ枯山水庭園を暫し眺めた。 比叡山を借景とした石庭は「こころの庭」と呼ばれている。 北側の縁側からは、山裾に整然と並んで鎮座する多くの石仏や小さな五輪塔群が見える。 客殿西側のコの字に配された建物の間に池泉回遊式庭園が広がる。 赤い絨毯が敷かれた縁側から眺める山水庭園は、手前の日陰部分が薄っすらと雪化粧している。 山側に建つ茶室と雪化粧が残る苔生した庭の景色は、しみじみとした味わいがある。
趣の異なる2つの庭園はいずれも鮮やかな新緑と紅葉の見所になっていて、黒い床を朱色に染める「床もみじ」と緑に染める「床みどり」が有名…機会があればぜひ観賞したいものだ。

△乱積み石垣の上に建つ山門....左右に白壁の築地塀が続き、趣がある門前だ

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)は本瓦葺の白壁の袖塀を設けている....旧大宮御所の遺構の一つ

△山門の柱に「実相院門跡」の聯が掛けられている....白壁の築地塀に最高の格式を示す5本の定規筋が入っている

△山門を通して眺めた境内....正面は客殿の玄関
 
△袖塀傍から眺めた客殿(本堂)....南北に建つ本堂は入母屋造桟瓦葺/山門の大棟端に鳥衾を乗せた鬼板、拝に蕪懸魚....袖塀は鬼板と梅鉢懸魚

△山門から眺めた客殿の玄関と客殿(右).....いずれも江戸初期宝永五年(1708)建立の旧大宮御所の遺構で、享保年間(1716~1736)に移築された

△入母屋造桟瓦葺で妻入りの客殿玄関(御車寄?)....銅板葺で軒唐破風ある庇を設けている....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子

△築地塀奥の入母屋造桟瓦葺の客殿(東面)....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾りは狐格子

△軒唐破風に獅子口、兎毛通は変形の懸魚

△白壁の築地塀の北側(客殿の東側)に広がる枯山水庭園....園内に枝垂桜、築地塀の右奥は山門

△「つるの間」から眺めた枯山水の石庭は比叡山を借景としている....石庭は「心の庭」と呼ばれている

△支え柱を設けた客殿の東側に枯山水庭園が広がる

△支え柱がある客殿の北側....客殿の東側と北側に石塊を帯状に並べた雨落溝が設けられている

△.枯山水庭園の北側の隅に本堂(客殿)に向かって鎮座する石仏群

△客殿北側の山裾に整然と立ち並ぶ小さな五輪塔群

△客殿の部屋(西側)内から眺めた庭を中心に池泉を配した池泉回遊式庭園

△池泉回遊式庭園はコの字に配され、客殿・奥書院・茶室の間に広がる

△薄っすらと雪化粧した山水庭園....池泉に苔生した自然石の沢飛石があり、また、茶室側の前庭が苔に覆われていて風情がある
 
△客殿西側の縁側傍にある清水が張られた四角い蹲踞/茶室傍に数基の石燈籠が佇む

△一番西側に位置する茶室....切妻造桟瓦葺屋根の妻側に寄棟造屋根を足したような構造

△本堂から茶室への回廊の隅から眺めた山水庭園のほぼ全景

△回縁に赤い絨毯が敷かれた客殿の西側(庭園側)....格子戸、腰高格子戸の上は大きな格子欄間になっている

△山水庭園の裏山の山裾に鎮座する五輪塔群



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滝口寺 (京都)

2021年03月26日 | 寺社巡り-京都

【京都・右京区】平安時代末期、浄土宗の開祖法然の弟子・良鎮上人が創建した往生院の子院のひとつで三宝寺と称し、念仏道場として栄えた。 往生院の多くの子院や坊が山中に建ち並んでいたが、祇王寺と三宝寺のみが残り、室町時代末期の応仁の乱で荒廃したが、江戸時代末期まで細々と存続していた。
明治維新政府の「神仏判然令」による神道国教化政策により、仏教排斥運動(廃仏毀釈)が起こって廃寺となったが、昭和初期、祇王寺が再建されたのに続いて、三宝寺跡にも小堂が建てられて再興、その際「滝口寺」と命名され現在に至る。
「滝口」は、『平家物語』に描かれている滝口入道と横笛との悲恋物語に由来する。 滝口入道は御所の警護にあたった滝口の武士・斎藤時頼のことで、平清盛の二女・徳子(建礼門院)付きの侍女・横笛に一目ぼれし恋仲になったが、父に叱責されたため十九歳で往生院に入って出家した。 想い焦がれる横笛は入道の出家を聞いて往生院を訪ねるが、入道は修行の妨げになるとして会わなかった。 その後、入道は高野山浄院に入り後に高野聖に、一方、横笛の消息については諸説あるが、悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良法華寺に出家したともいわれる。
本堂には三宝寺の遺物である滝口入道と横笛の木像を安置している。 また境内には、鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞の首塚と妻の供養塔がある。 宗派は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

◆祇王寺を拝観した後、祇王寺案内板の右手に続く階を進む。 苔生した簡素な棟門があり、門をくぐると左側に受付があり、窓口に様々な案内の張り紙や写真がある。 その中に「滝はありません」の張り紙があり、つい口元がほころんだ。
受付から鬱蒼と木々が生い茂る狭い階を上っていくと、参道脇に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞公の首塚、その隣に妻の供養塔がひっそりとある。 更に狭い参道を上りつめると本堂の前庭に出る。 鮮やかな緑の樹林に囲まれた境内に、古民家風で風情がある茅葺の本堂がポツンと鎮座している。 境内は静寂につつまれていて野鳥の声だけが聞こえてくる。
本堂の柱に「飲食物の持込可」「建物の中で座るか縁側に腰かけてゆっくりして下さい」の張り紙があるので、部屋に上がらせて頂き、額縁風に緑の前庭をしばし鑑賞。 床の間のようなところに、水晶の目を持つ滝口入道(斎藤時頼)と横笛の坐像が安置されているが、撮影を失念した。
本堂に向かって左手に、竹柵を設けた少し屈曲した狭い参道があり、奥に滝口入道の主君・平重盛を祀る小松堂が建っている。 屋根瓦が苔生している小松堂は、瓦に少し破損がみられ手入れが必要のようだ。 それにしても、先に訪問した祇王寺と違って、人の気配が感じられない錆びた雰囲気だ。

△「滝口寺」の額が掲げられた切妻造板葺の山門....門前は深閑としていて趣がある

△簡素な造りの山門は棟門のようだ

△屋根の上は全面に苔生している....扉は木枠に竹を縦に張り付けた構造

△元弘三年=正慶二年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼした武将・新田義貞の首塚

△石造り瑞垣に囲まれた新田義貞公の首塚
 
△石造り門扉に新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」があしらわれている/田義貞首塚の左手に立つ三重石塔は新田義貞の妻・勾当内侍供養塔....最上段の塔身に四方仏の梵字が薬研彫り....正面の梵字はキリーク(阿弥陀如来)

△樹林の中に佇む古民家風の茅葺の本堂....本堂には出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を安置

△入母屋造茅葺の本堂....周囲に桟瓦葺の裳腰を設けている

△本堂周囲に巡らした半間の縁側は槫縁....畳部屋の周りは腰高明障子、欄間に障子を張った格子

△縁側の欄間全面に曇りガラス窓を配す....本堂内から眺めた鮮やかな緑の前庭

△本堂前の左手前にひっそりと佇む十三重石塔....滝口入道(斉藤時頼)と平家一門の供養塔
 
△塔身に金剛界五仏の梵字が刻まれているようだ....手前(南)は宝生如来の梵字と思う(塔身の中心部が大日如来を示す)/左が東の阿閦如来、右は北の不空成就如来の梵字

△陽光を受けて輝く青モミジに隠れるように聳え立つ十三重石塔

△小松堂への竹柵を設けた参道から眺めた本堂の側面....茶室の雰囲気を醸し出している

△本堂の左手奥に建つ宝形造桟瓦葺の小松堂

△小松堂にはた斎藤時頼の主君で小松内大臣の平重盛を祀る
 
△一間四方の小松堂の軒廻りは一軒繁垂木....側面と背面は白壁、正面は腰高格子戸
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妙満寺-(2) (京都)

2018年10月25日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】寺町二条に移転した以降、火災・宝永の大火・天明の大火・禁門の変(蛤御門の変/元治元年(1864))などによって伽藍の焼失・再建を繰り返した。
約280年間「寺町二条の妙満寺」として親しまれたが、明治の上知令などで寺域が狭くなったため、昭和四十三年(1968)、寺町二条から現在の岩倉の地に移転した。
顕本法華宗の開祖である日什は、比叡山で学んで天台宗の僧となり、玄妙という名で延暦寺の学頭になったが、66歳のとき日蓮の著書を読んで翌年日蓮宗に改宗、日什に改名した。 妙満寺が寺町二条から現在地に移転する際、塔頭・成就院に造営されていた枯山水の庭を本坊に移築した「雪の庭」が知られている。 比叡山を借景とした枯山水庭園は、成就院「雪・月・花の三名園」の一つとされる。

大きな「方丈」の額が掲げられた社務所に入り、本坊の前庭「雪の庭」に向かう。
本坊の中央に赤い絨毯が敷かれ、丸い座布団が整然と並んでいる。 奥の床の間に一幅の掛軸が掛けられているが、みると中央に赤鬼がユーモラスに描かれている。 面白い描写なので某TV局の「開運〇〇〇〇鑑定団」で価値を知りたくなった....欲深い性格がでたかな。
まずは、本坊の赤い絨毯から「雪の庭」を眺めるが、趣があり、まるで額縁の中の絵画のようで美しい。 吹き放しの広縁にでて、腰掛に座り、「雪の庭」をじっくりと鑑賞した。 比叡山を借景とした美しい枯山水の庭園は、流れる水のように白砂が敷かれ、石組と樹木を配して山水の風景を表現しているが、美しさ静けさが漂っていて心が癒される。 「雪の庭」の名の通り、冠雪の比叡山を借景としたときの眺望が最も美しいそうだ。

入母屋造桟瓦葺で妻入りの社務所....大棟に瓦屋根の煙出しを設けている

「方丈」の額が掲げられた社務所と右に玄関....社務所は一軒疎垂木で、柱上に舟肘木が乗る
 
棟端に獅子口が乗る唐破風の玄関              社務所の前にある「中川の井」

方丈と大唐破風の玄関....奥に本坊の屋根が見える

本坊は入母屋造桟瓦葺で、庭側に広縁を設けている
  
赤い絨毯に丸い座布団が整然と並ぶ....床の間に一幅の掛軸/掛軸の真ん中に赤鬼がユーモラスに描かれている....上方の木の上で鬼を見ている人物が....意味分からず

本坊から眺めた「雪の庭」....俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)が造営した枯山水の庭

成就院「雪・月・花の三名園」の一つとされる....他の2園は清水寺成就院本坊の「月の庭」と北野成就院(廃寺)の「花の庭」

本坊庭側に吹放しの広縁は切目縁
 
本坊の庭側の広縁は切目縁/「雪の庭」の北側に建つ大書院....大書院の左手に「安珍・清姫伝説ゆかりの鐘」が保管されている展示室がある

入母屋造本瓦葺の大書院....庭側に大きな入母屋破風屋根
 
本坊広縁の脇にある自然石で造立された蹲、何故か傍に石灯籠と石造りのカエル像が....

「雪の庭」は昭和四十三年(1968)に妙満寺が寺町二条からこの地に移転した際、塔頭・成就院の庭として造られていた庭で、造営当時の石組と植栽のまま本坊前庭として移築した

比叡山を借景とする枯山水庭園....広縁に立つと遠くにうっすらと比叡山が見える
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妙満寺-(1) (京都)

2018年10月21日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】室町時代の永徳三年(1383)、日蓮宗の僧・日什が六条坊門室町の富商・天王寺屋通妙の外護を得て屋敷内に法華堂を建立したのが草創とされる。 6年後の康応元年(1389)、伽藍を整備して妙満寺と号し、根本道場とした。
その後、火災や応仁の乱などの兵火に遭い、応仁の乱後は洛中の四条堀川に寺域を移して興隆したが、戦国時代の天文五年(1536)、比叡山僧徒による焼き討ち(天文法華の乱)で伽藍を焼失、妙満寺は泉州堺に避難した。 天文十一年(1542)、後奈良天皇(第105代)の法華宗帰洛の綸旨により旧地・四条堀川に再建されたが、安土桃山時代の天正十一年(1583)、豊臣秀吉の命により寺町二条に再移転した。 宗旨は顕本法華宗の総本山で、本尊は釈迦多宝仏。

山門前はツツジやスイレンなどが植えられた池泉庭園のような造りで、落ち着いた雰囲気が漂う。
池の真ん中に延びる切石敷の参道を歩み、山門をくぐると明るくて広い開放的な境内に聳える石造りの仏舎利大塔がまず目に飛び込む。
山門の直ぐ左手に鐘楼が建ち、吊り下がる梵鐘は有名な「安珍・清姫伝説ゆかりの鐘」だと思ってじっくり眺めたが、悲劇の伝説なのにそれが微塵も感じられない....当たり前?で、後で調べたら、その鐘は展示室に保管されていると分かった。
正面に向拝屋根がない大きな本堂が建つが、身舎と同じ幅の大きな階が本堂を一層大きく見せているようだ。 本堂の左手に巨大な石造りの仏舎利大塔が聳え建つ。 仏舎利大塔は約45年前、釈迦が悟りを開いた地であるブッダガヤ大菩提寺の大塔(高さ52メートル)を模して建てられ、高さ20メートルで5階建ての最上階には仏舎利を奉安しているそうだ。

寺号標石「総本山 妙満寺」越しに眺めた門前

門前の切石敷参道の両側に白と朱色の擬宝珠勾欄が設けられている、途中に池(放生池?)に石造り太鼓橋が架かり、朱塗り勾欄を設けている
 
初夏にはツツジ・スイセン・花しょうぶが咲き誇るようだ....山門両側に5本の定規筋が入った築地塀(筋塀)が延びる

切妻造本葺の山門(四脚門)....門柱の右に「顕本法華宗」、左に「妙塔学林」の聯

山門から眺めた境内....左手の筋塀の中に塔頭の四院(正行院、法光院、成就院、大慈院)がある

母屋造桟瓦葺の水屋....山門の直ぐ右手にあり、大きな丸い手水鉢を置く

切妻造本瓦葺で禅宗様の鐘楼....「安珍・清姫伝説ゆかりの鐘」で知られる梵鐘は展示室に保管されているのを後で知った

「安珍・清姫伝説ゆかりの鐘」とは紀州道成寺にあった鐘で、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣仙石権兵衛が道成寺の竹藪から掘り出し、妙満寺に奉納したとされる

鐘楼に下がる梵鐘は、展示室に保管されている「安珍・清姫伝説ゆかりの鐘」に類似しているのだろうか?....伝説の鐘は高さ1メートルで、正平十四年(1359)の銘がある

山門から眺めた境内....白砂が敷き詰められ中央に切石敷の参道が正面の本堂に延びる....左手の筋塀の中に塔頭の正行院と成就院、奥に仏舎利大塔、右手に方丈と玄関がある

入母屋造本瓦葺の本堂....正面11間で全て腰高格子戸

向拝屋根がなく正面一間は吹放造り....吹放前の柱は4本で虹梁で繋いでいる

軒廻りは二軒繁垂木、虹梁の中備に透蟇股、吹放前の柱上に実肘木を乗せた平三斗
  
大きな階に設けられた朱塗りの擬宝珠登勾欄/宝形造り屋根の常香炉の側部に「三つ橘」の京都妙満寺の寺紋/反花で縁取りされている仏足石

本堂身舎と同じ幅の大きな階は本堂にどっしりとした重量感を漂わせる

大塔傍に妙満寺16世日泰上人と27世日経上人の石碑が佇む
 
石造りの仏舎利大塔....岩倉移転後の昭和四十八年(1973)、檀信徒の寄進で建立/仏舎利大塔の基壇四隅に置かれている大塔最頂部と同じ形の「ストゥーパ」
 
仏教最高の聖地であるインドブッダガヤ大菩提寺の大塔(本堂で高さ52メートル)を模して建立された角柱状の仏舎利大塔....高さ20メートルの石造5階建てで、最上階に仏舎利を奉安、また初階に釈迦如来像を安置
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金戒光明寺-(2) (京都)

2018年10月19日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】豊臣秀頼は慶長十八年(1613)に、前年に焼失した御影堂も再建したが、その後、焼失と再建が繰り返され、現在の建物は昭和の再建。
金戒光明寺は法然上人が最初に浄土宗の布教を行った地であることから、後小松天皇(第100代)から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。 知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つ。
幕末の文久二年(1862)から会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を金戒光明寺におき、家臣1000人が境内に駐屯した。

阿弥陀堂は、江戸初期に豊臣秀吉の次男・秀頼が再建した寺内最古の建物なのだが、何故か重文に指定されていない。 訳をあれこれ考えながら、境内東南の墓所の高台に建つ三重塔に向かう。
墓所内の石段を上っていくと脇に弥陀定印を結んだ丸彫りの阿弥陀如来坐像2体が鎮座し、墓参者を迎えている。 墓所の一番高い所に、「日本三文殊髄一」の額が掲げられた黒々とした三重塔(重文)が聳え立つ。 江戸初期、徳川秀忠(第2代将軍)の菩提を弔うために建立された三重塔は「文殊搭」と呼ばれ、文殊菩薩の分身(浄鏡)が祀られている。
墓所の入口近くに秀忠の妻・江(崇源院)の供養塔の宝篋印塔があるが、訪問した時(2011年)はちょうどNHK大河ドラマで「江」の名が一躍知れ渡ったこともあって、多く方が参拝されていた。 実は、三重塔を拝観していた時、女優の賀来千香子さんがTVクルーらを引き連れて江の供養塔に参拝されに来られたので、急いで石段を下り、何枚か撮らせて頂いた。 いまも大事に保管している。

入母屋造本瓦葺の阿弥陀堂....慶長十年(1605)、豊臣秀頼の再建で寺内最古の建物

軒廻りは二軒繁垂木で組物は出組、中備には蓑束が配されている
 
中央間三間に桟唐戸(内側に明障子)、両脇間に花頭窓....堂内に恵心僧都作の本尊阿弥陀如来を祀る
 
本瓦葺の三重塔(文殊搭)(重文)....寛永十年(1633)の建立で、徳川秀忠の菩提を弔うために建てられた/初重に擬宝珠高欄、二重目と三重目に跳高欄....初重は桟唐戸に連子窓
 
軒廻りは三重いずれも二軒繁垂木で組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は初重のみにあり間斗束/高さ22mで二重目に「日本三文殊随一」の額が掲げられている

三重塔への石段参道脇に鎮座する2体の丸彫り阿弥陀如来坐像....それぞれの台座に「幽玄」(左)、「三界満霊」(右)と刻まれている

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の納骨堂(旧経蔵)....元禄二年(1689)建立で、納骨された骨で造立された阿弥陀如来「骨仏」を本尊として祀る
 
軒廻りは身舎・裳腰いずれも二軒繁垂木、中備は幅広の蓑束か(組物の確認を失念)/中央間に桟唐戸(内側に蔀戸と菱格子欄間)、両脇間に花頭窓

切妻造桟瓦葺の清和殿....安永八年(1779)建立、旧大庫裡で屋根に瓦葺の煙出しがある
 
露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の円光大師法然の御廟所/二軒繁垂木で組物は柱上に乗る繰り形の舟肘木か、中備は無し....正面中央間は蔀戸、脇間は舞良戸、周囲に組高欄付切目縁を巡らす
 
徳川二代将軍秀忠の正室・江の供養塔の宝篋印塔/塔身の月輪内に胎蔵界大日如来「ア」の種子が刻
 
擬宝珠勾欄を設けた石造り反橋は極楽橋..五色幕が張られた建物は山門/正面奥は阿弥陀堂
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金戒光明寺-(1) (京都)

2018年10月17日 | 寺社巡り-京都

【京都・左京区】平安時代の承安五年(1175)、比叡山の修行を終えた法然上人が、比叡山の寺領のこの地にあった白河禅房を師の叡空から譲り受けて念仏道場にしたのが始まり。
第5世恵凱の時に仏殿や御影堂などの堂宇を整え、法然の見た縁起にちなみ紫雲山光明寺と号した。 さらに、第8世運空が後光厳天皇(北朝第4代)に円頓戒を授け「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ぶようになったと伝わる。 その後荒廃したが、慶長十年(1605)、豊臣秀頼が方広寺の大仏殿建立の余材で阿弥陀堂を再建した。 宗旨は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。 法然上人二十五霊跡第二十四番札所。 洛陽三十三所観音霊場第六番札所。

上重の禅宗様高欄に五色幕が張られた豪壮な構えで、見上げるほどの二重門が迫ってくる。 上重に「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられていて、法然上人が開いた浄土宗の第1号の寺院であることを誇らしげに主張しているようだ。
二重門をくぐり、その奥の広い石段を上ると、正面に大殿と称される御影堂が威風堂々とした構えをみせる。 御影堂には法然上人75歳の坐像が安置されているが、年老いた法然が明障子を開けてひょっこりと姿を現すような雰囲気だ。
御影堂の右手に、富士山のような形に枝を広げた見事な松の木があり、立札に「熊谷直実 鎧掛けの松」とあり名前の由来が記してある。

入母屋造本瓦葺の二重門の山門..応永年間(1394~1428)創建だが応仁の乱で焼失、万延元年(1860)に再建された

五色幕が張られた上重正面に後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられている
 
上重の軒廻りは二軒扇垂木で組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、柱上台輪上に詰組....上重に逆蓮柱の禅宗様高欄/下重の軒廻りは二軒繁垂木で組物は二手先、柱上台輪上に詰組....虹梁に本蟇股が乗る

山門両側に設けられた切妻造本瓦葺の山廊...羽目板壁に花頭窓がある

山門を通して眺めた境内....石段上は大殿よ呼ばれる御影堂

広い石段の上に建つ御影堂(大殿)と鐘楼

切妻造本瓦葺の鐘楼
 
大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝みに蕪懸魚、貫に出三斗や透蟇股が乗る/鐘楼からの洛中の眺望がいい

入母屋造桟瓦葺の手水舎....隣に子育地蔵尊像が鎮座

入母屋造本瓦葺の御影堂(大殿)....昭和九年(1934)に焼失、昭和十九年(1944)に再建

正面7間、側面6間の御影堂....軒廻りは二軒繁垂木で、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は脚間に彫刻がある透蟇股(本蟇股)

正面は全て桟唐戸で内側に明障子と菱格子欄間....内陣に75歳時の宗祖法然上人坐像を奉安

本堂右手に大きく枝を広げる「熊谷直実の鎧掛けの松」....熊谷直実は源頼朝に仕えた御家人で着ていた鎧をこの松に掛けたと伝えるが、現在の松は平成二十六年(2014)植栽で3代目 <写真は平成二十三年(2011)撮影なので2代目の松>

入母屋造桟瓦葺の大方丈....昭和十九年(1944)の再建....門左右に5本の定規筋が入った本瓦葺の築地塀(筋塀)が延びる

獅子口を乗せた銅板葺の大唐破風の門....門扉は上部に吹寄菱格子欄間を設けた桟唐戸
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雨宝院 (京都)

2018年10月15日 | 寺社巡り-京都

【京都・上京区】平安時代の弘仁十二年(821)、嵯峨天皇(第52代)の病気平癒を祈願し、真言宗の開祖・弘法大師空海が6臂の象頭立像の大聖歓喜天像を安置した大聖歓喜寺が始まり。
最盛期、広大な境内は千本通五辻まであったといわれ、東寺真言宗の総本山の教王護国寺(東寺)とともに皇城鎮護の大伽藍として栄えたが、室町時代の応仁の乱(1467~1477)の兵火で荒廃した。
安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に雨宝院のみが現在地に再興されたが、江戸時代の天明八年(1788)の大火で再び焼失、その後再々興された。 宗旨は古義真言宗(泉涌寺派)で、本尊は西陣聖天十一面観世音菩薩(大聖歓喜天尊)像。
境内は時雨の松で覆われているが、幕末の頃、久邇宮朝彦親王(旧宮家の一つ「久邇宮」を創立した伏見宮邦家親王の第4王子)が参詣した折、樹下でにわか雨をしのいだと伝わる。 雨宝院は別名・西陣聖天宮とも称し、西陣界隈の人たちからは「西陣の聖天さん」と呼ばれ親しまれている。

「弘法大師」と刻まれた石柱が立つ山門をくぐって境内に....狭い境内の空は枝を広げた樹木に覆われ、まるで藤棚のような雰囲気が漂う。
切石敷の参道の奥に本堂が建っているが、向拝前に石造りの鳥居が立っていて社殿と勘違いしそうな不思議な感じがする。 前庭に珍しい形をした石塔の「千度石」があり、舟形に彫り窪められた塔身に十一面観音立像が浮き彫りされている。 狭い境内には幾つかの御堂がひしめくように鎮座し、堂名や軒先に下がる提灯に書かれた仏名から弘法大師・菩薩・明王・天など多くの諸仏を祀っていることが分かる。
境内には、今も清水が湧く「染殿ノ井」があり、かつて西陣の職人たちが重宝していたという。 また、「時雨の松」と呼ばれる松の木で覆われた境内には、珍しい桜を含めて12本の桜の木があり、隠れた桜の名所として知られているようだ。

切妻造本瓦葺の山門....平降棟先に鳥衾付で法輪を刻んだ鬼板と、隅に雨仕舞用の留蓋瓦とみられる獅子像
 
「大聖歓喜天」の提灯が下がる山門から眺めた境内/門前ニ立つ「洛陽廾一所第十六番 弘法大師」と刻まれた石柱

本堂前に石造明神鳥居が立ち、「歓喜桜」という八重の花が咲く桜が、また、境内は久邇宮朝彦親王参拝時に雨をしのいだという「時雨の松」に覆われている

寄棟造桟瓦葺の本堂....秘仏の本尊・歓喜天(聖天)像は象頭人身六臂の等身象を祀る
 
獅子口が乗る切妻破風の本堂向拝に照壁のような衝立が置かれている/向拝前に下がる提灯に「日本最古 大聖歓喜天」とある

向拝に大きな常香炉が置かれ、巨大な金属製釣灯籠が下がる
 
本堂前庭に佇む石塔の「千度石」....塔身正面の舟形に彫り窪めた中に十一面観音立像が半肉彫り/明神鳥居傍に佇む江戸末期天保造立の2基の石灯籠

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の大師堂....安置されている弘法大師像は口を開き、漆塗のかげんで汗をかいてみえるので「阿吽汗かき弘法大師像」といわれる

正面扉は腰高格子戸、両脇間に禅宗様の花頭窓....本堂の左側は庚申堂になっている

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の観音堂....平安時代作の千十観音立像(重文)を安置....檜の一木造りで貞観時代(859~877)の作風
 
正面に五色幕が張られ、扉は腰高格子戸、脇間は腰長押を設けて格子窓に

切妻造桟瓦葺の覆屋に護られた「染殿ノ井」そして弁財天が鎮座している

深さ12mの「染殿ノ井」は染物がよく染まるとして有名な井戸で西陣五名水の一つ

本堂の右側が不動堂になっている
 
不動堂前に「大聖不動明王」と書かれた提灯が下がる/朱塗りの明神鳥居の先の不動堂の右隣に「寶稲荷大明神」の提灯が下がる稲荷堂

牛蒡注連の注連縄が掛る明神鳥居の奥に流造銅板葺の三社が鎮座

左から提灯に「辨財天」「鎮宅方除神」「瘡神」と書かれている
 
切妻造銅板葺のり南門....柱に「雨宝院」と「西陣聖天宮」の札/提灯には安置する全ての神仏尊名が書かれているのかな?
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御霊神社 (木津川)

2018年06月22日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】社伝では、平安時代貞観十八年(876)の創建とされ、「木津の御霊」といわれ木津郷の産土神(氏神)として永く祀られてきた。 幾たびかの戦火に遭ってきたが、江戸時代の享保年間(1716~1736)に再建され、御霊神社に改称された。
現在の本殿は享保十五年(1730)の建立。 木津三社の一社(他は岡田国神社、田中神社)で、かつては大路村にあったが、木津ニュータウン開発に伴って社有地を売却し、昭和五十八年(1983)、現在地(木津宮ノ浦)に造営、整備された(三社いずれも移転)。 祭神は天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命。

安福寺から右隣に鎮座する御霊神社に向かっていると急に雨脚が強くなってきた。
土砂降りの中、道路に面して建つ大きな朱塗りの鳥居をくぐり、玉砂利を敷き詰めた広い境内に入る。
境内の中央に砂を円錐状に盛り上げた「立砂」があり、頂部に紙垂の付いた青竹が立てられている。 正面に唐破風向拝の拝殿、拝殿左右に吹き放ちで照り屋根の宮座、そして右側宮座の手前に身舎に裳腰を付けた社務所が建つ。
拝殿の右横を通って、後方の本殿に向かう。 15段ほどの石段を上がると、屋根のある小さな明神鳥居と小さな狛犬とを従えた流造の本殿が建つ。 近づこうとしたら急に雨が激しくなってびしょ濡れになったので、止む無く石段から少し遠目で本殿を撮り、急いで社務所に避難した。
インターネットで木津川市の「御霊神社」について調べると、この地域に同じ神号の神社が2つあり、歴史や由緒が混乱しているようで少し戸惑った。

道路から眺めた境内全景....正面に拝殿、拝殿の左右に氏子詰所の宮座、手前右に社務所が建つ

独特の字形の「御霊宮」の額が掲げられた鮮やかな朱塗りの明神鳥居
 
切妻造桟瓦葺の手水舎....屋根の留蓋瓦は鬼の顔だがユニークで、どことなくムツゴロウの顔のようだ!

玉砂利を敷き詰めた広い境内の中央に設けられた「立砂」....頂部に紙垂を付けた靑竹が立つ

基壇上に建つ切妻造銅板葺で照り屋根の拝殿...正面五間で朱塗りの組高欄付き廻縁
 
鬼板が乗る唐破風の向拝....正面の貫に大きな刳抜蟇股、虹梁の上に板蟇股、柱上に平三斗/脇間は全て蔀戸

流造銅板葺の本殿....殿前に屋根を設けた小さな朱塗りの明神鳥居が立つ
 
大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る....向拝の柱下に浜床/殿前に小さな狛犬が鎮座
  
ご神木の2本の老杉..手前の石碑は移転の顛末を記した造営碑の「昭和造営記録」/本殿左手に鎮座する外削ぎ千木と2本の堅魚木を乗せた社は摂社か?

拝殿の左右に切妻造銅板葺で照り屋根の宮座が建つ(写真は左手の宮座)....柱上に舟肘木

社務所の入口で雨宿りしながら眺めた拝殿

境内右奥に宮座....右隣に切妻造桟瓦葺で身舎に裳腰を設けた社務所
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安福寺 (木津川)

2018年06月20日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】平安時代の長保三年(1001)、「往生要集」を著した天台宗の僧・恵心僧都(源信)により創建された。 宗旨は法然の弟子の証空を祖とする西山派の浄土宗で、本尊は阿弥陀如来坐像。
阿弥陀如来坐像は、東大寺・興福寺を焼き打ちにした平重衡命終の引導仏と伝わる。
安福寺は平重衡が処刑された木津川畔に鎮座し、境内には平重衡の供養塔と伝わる「十三重石塔」がある。 平重衡は平清盛の五男で、東大寺や興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にしたが、寿永三年(1184)に一ノ谷の戦いで源氏に敗れて捕虜となり、翌年の文治元年(1185)、南都僧都の要求により木津川の河原で斬首された。 寺の近くに重衡の首を洗った池と伝わる直径約1.5mの「首洗池」と称する池がある。

降り続く雨の中、大智寺から国道24号線を横切り、さらにJR奈良線の踏切を渡って安福寺に着く。
境内を囲む白壁の築地塀の前に、桜の老木が大きく枝を広げている。 山門をくぐって境内へ....正面に「哀堂」と呼ばれる近年の建築とみられる本堂、右手に白壁の庚申堂、左手に庫裡が建つ。
山門を入った直ぐ左の四半敷の参道脇に「平重衡卿之墓」と刻まれた古びた標石があり、その奥の一郭に、檀上積の基壇上に平重衡の墓とされる十三重石塔が立つ。 十三重石塔が立っているのは、平重衡の胴体が埋葬された所だそうで....合掌。
十三重石塔の傍の塀際に、石仏と石造物が鎮座しているが、静かに平重衡を見守っているのだろう。

白壁の築地塀に囲まれた境内....門前に樹齢70年~80年のソメイヨシノの古木

切妻造桟瓦葺の山門は薬医門....袖塀に通用口

入母屋造桟瓦葺の本堂....平重衡の死を地域の人たちが哀れんだことから通称「哀堂(あわんどう)」とも呼ばれる

中央間は引戸の舞良戸、脇間に花頭窓、水引虹梁の中部に刳抜蟇股が乗る

周囲に擬宝珠高欄付切目縁を廻らす....大棟・平降棟・隅降棟・稚児棟の先に獅子口、流れ向拝屋根の隅に獅子の留蓋瓦

広くない境内に本堂、右手に庚申堂そして左手に庫裡が建つ

寄棟造桟瓦葺の庚申堂....大棟・隅降棟に鳥衾を乗せた鬼瓦....堂内に本尊靑面金剛明王像を安置

四半敷の短い参道の脇に「平重衡卿之墓」と刻まれた標石....奥に石造物と石仏が鎮座している
 
平重衡の首から下(胴体)が埋葬されていると伝える墓(供養塔)の十三重石塔/檀上積基壇の上に立つ十三重石塔....初層軸部に金剛界四仏の種子を薬研彫り

塀際にひっそりと佇む石仏と石造物
  
五輪塔の笠石を4つ重ねたとみられる石塔/丸彫りの地蔵菩薩尊像/舟形光背の石仏....左手で薬壷を持っているようにみえるので薬師如来像と思う
 
確か庫裡の脇に置かれた飾手水鉢(と思う)/何の石碑かな?

平重衡の供養塔越しに眺めた境内
 
小さな庭の石組と手前に飾手水鉢....三尊石を表しているにかな?/桟瓦葺屋根の庫裡
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大智寺 (木津川)

2018年06月18日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】鎌倉時代の弘安年間(1278~1288)、京都西大寺慈真和尚(縁起)を開基とし、西大寺中興の祖といわれる律宗の僧・叡尊によって創建された橋柱寺が前身。 西大寺の末寺。
その後衰退したが、江戸時代寛文九年(1669)、本寂和尚が東福門院和子(後水尾天皇の皇后)の下賜によって中興し、大智寺に改号された。 宗旨は真言律宗(西大寺派)で、本尊は文殊菩薩像。 文殊菩薩像(重文)は、鎌倉時代弘安年間(1278~1288)作で、高さ65.2cmの寄木造の像。 天平十三年(741)に高僧行基が泉川(現在の木津川)に架けた泉大橋が流れ落ちたが、鎌倉時代に至って、残っていた橋柱から叡尊和尚が刻みだし、橋柱寺を建立して安置されたとされる。

雨脚が少し強くなってきた中、泉橋寺から泉大橋を渡って対岸の集落にある大智寺に向かう。
門前に着いて直ぐ気になったのが塀の定規筋だ。 築地塀と山門袖塀はいずれも格式が高いことを示す筋塀だが、何故か定規筋の本数が異なるのだ。 山門屋根の鬼瓦と留蓋瓦を見る....留蓋瓦は衣を着た獣のように見えるが、何の像か分からず。
山門をくぐると、直ぐ左手に袴腰鐘楼、正面に本堂、右手の先に地蔵堂、そして山門から見えないが左手奥に庫裡が建つ。 本堂は三間四方で、寺域の規模に対してかなり小さいのに驚いた。 本堂前に佇む石燈籠の竿に「文殊堂燈籠」と刻まれているので、本堂は文殊堂が正式名のようだ。
本堂前の石燈籠は元禄初期(1691年)の造立だが、特に火袋の形がユニークで、全体に装飾性が高い造りに感心した。 境内には主に地蔵尊像の大小の石仏、隅飾突起が大きく反りかえった宝篋印塔、そして初層軸部に四方仏が彫られた十三重石塔がひっそりと鎮座している。
案内板に「現在も再興時の伽藍が残っており、南山城地方ではよく保存された寛文期の伽藍として貴重」とあり、本堂・庫裡・鐘楼・表門だけのお寺だが、筋塀を設けた門構え、本堂の棟木銘に奈良時代の木工名があるなどかなり歴史のあるお寺だと分かる。

築地塀の中にある袖塀を設けた山門....両塀はいずれも筋塀で格式が高いことを表すが、何故か定規筋の本数が異なる....袖塀の筋は5本で最高格式を表す

切妻造本瓦葺の山門の表門....大棟と隅棟に鳥衾を乗せた鬼瓦、切妻屋根の隅に留蓋瓦があるが衣を着た獣のようにみえる

山門から眺めた境内....正面に西面の本堂、右手に地蔵堂、左奥に庫裡が建つ

入母屋造本瓦葺で三間四方の本堂(文殊堂か)....棟木銘に奈良時代の大工名がある...鎌倉時代弘安年間(1278~1288)作の文殊菩薩坐像(重文)(寄木造、高さ65.2cm)を安置

大棟・平降棟・隅降棟・稚児棟の先に鳥衾を乗せた鬼瓦、流れ向拝屋根の隅に獅子とみられる留蓋瓦
 
中央間は両折両開の桟唐戸、脇間は蔀戸のようだが釣金具がない/向拝柱と身舎を繋ぐ虹梁がない、柱上に舟肘木が乗る....切目縁を巡らす

切妻造桟瓦葺の地蔵堂..貫の中備に刳形蟇股、禅宗様木鼻、鰐口が下がる
 
地蔵堂に鎮座する舟形光背地蔵石仏....周りに石龕仏などの小さな石仏が並ぶ/地蔵石仏は赤と白の前垂を重ねて着けている

塀際に建つ地蔵堂と宝篋印塔....地蔵堂に鎮座する2躯の石仏はいずれも地蔵尊坐像、右の像は円光を背負っている
 
古そうな宝篋印塔..隅飾突起が大きく反りかえって開いているので江戸期作か....塔身と基礎の月輪に四方仏の梵字を刻む/元禄四年(1691)造立の石燈籠....装飾性が高く、特に火袋の形がユニーク
 
地蔵堂脇の木立の中に佇む十三重石塔..初層軸部の舟形に彫り窪めた中に薄肉彫りの四方仏、基礎に格狭間を刻む

山門の直ぐ左手に鐘楼堂、左奥に南面の庫裡が建つ

切妻造本瓦葺の袴腰付鐘楼

入母屋造桟瓦葺の庫裏
 
境内に設けられた小さな門を配した築地塀の奥は庫裡と本堂を繋ぐ渡廊下があるようだ
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泉橋寺 (木津川)

2018年06月16日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】奈良時代の天平十二年(740)、泉川(現木津川)に架けられた泉大橋を守護・管理するため、高僧行基により創建された橋守寺院。 泉大橋は、聖武天皇による恭仁宮造営に関わって、平城京と恭仁宮とを繋ぐ交通の便を図る事を目的として架けられた。
泉橋寺は行基が造営した四十九院の一つで、創建時は泉橋院と呼ばれて寺勢を誇った。 平安末期の武将・平重衡の南都攻めの際の戦渦に依って伽藍を焼失したが、鎌倉時代、般若寺の僧・真円上人によって再興され、その時地蔵菩薩石仏の造立が発願された。
鎌倉時代徳治三年(1308)、地蔵石仏は13年の年月をかけて造立され、地蔵堂に鎮座した。 「山城大仏」と呼ばれる丈六の地蔵石仏は、高さ約4.58m。 室町時代の応仁の乱(1467~1477)の戦火で地蔵堂と共に焼かれて大きく損傷し、それ以来露座のままとなっている。 現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、損傷から約200年後の江戸時代元禄三年(1690)に補われたもの。

雨が降る中、JR木津駅から国道24号線を歩いて泉橋寺に向かった。 木津川に架かる長い泉大橋を渡っているときに何度も強い横風を受け、傘を持って歩くのに難儀した。
泉大橋を渡り切って堤防の上の道を進むと、集落の中に大きな石造地蔵像が見えてくる。 門前に着いた頃、雨が小降りになった。 まずは境内を拝観させて頂こうと、山門袖塀の通用口から入り、何度も声を掛けたが応答がない。 止むを得ず、山門に置かれた柵越しに境内を撮影させて頂いた。
門前左手の基壇の前に棟門のような簡素な門が建ち、檀上積の基壇の上に日本最大とされる丈六の地蔵石仏がどっしりと露座している。 基壇上に残る礎石の遺構から、当時は荘厳な地蔵堂に木津川を向いて鎮座し、渡河する人々の安全を静かに見守ってきたのだろう。 それにしても、応仁の乱の戦火で地蔵堂が焼かれて以来、540年以上もこうして露座しているお姿は少し悲しい....合掌。
 
門前に「泉橋寺地蔵尊像」が鎮座し、「泉橋寺」の寺号標石が立つ

門前に露座する大きな地蔵石仏と御堂と祠
 
切妻造桟瓦葺の辨財天を祀る祠            切妻造桟瓦葺の御堂

御堂に鎮座するのは獅子像が守る香炉(と思う)、側面に菩薩を示す「大慈尊」の刻

門前で大きく枝を広げている松の老木

切妻造本瓦葺の山門(薬医門)....袖塀を設け左側に通用口がある

山門から眺めた境内

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の仏堂
 
本堂前庭に石仏や石造物が佇む/木津川の土手から眺めた十三重石塔....初軸の月輪に梵字また基礎に格狭間
 
壇上積の基壇上に露座する大きな地蔵石仏....手前に棟門風の門と切妻造銅板葺の手水舎/「洗垢」と刻まれた手水鉢

地蔵石仏は鎌倉時代徳治三年(1308)の造立....永仁三年(1295)から石材の切り出しが始まり、13年後の地蔵堂上棟の時期に完成した

室町時代の文明三年(1471)、応仁の乱の戦火で地蔵堂が焼かれ、石仏も損傷を受けて露座になった
  
江戸時代元禄年間に頭部と両腕が補われた....右手に錫杖、左手に宝珠を持つ/地蔵石仏の前に佇む造立年不明の2基の石燈籠.....竿に「地蔵尊」の刻

基壇上の地蔵堂跡に礎石の遺構が並ぶ

蓮華座に整然と並べられた小さな薄肉彫りの石仏群

地蔵石仏前に置かれた石造りの常花(花瓶)と前机....前机下に線香炉

蓮華座上に整然と鎮座する石仏群
  
錫杖と宝珠を持つ舟形光背地蔵石仏/二尊石龕仏いずれも尊名は分からず

境内の石造物群....石仏が積上げられた千体仏塔や2基の五輪塔が見える....1基は重文に指定されているが、多分手前の大きな台座に立つ五輪塔と思う

木津川の土手から眺めた泉橋寺の全景
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涌出宮 (木津川)

2018年03月27日 | 寺社巡り-京都

【京都・木津川市】奈良時代の天平神護二年(766)、伊勢国渡会郡五十鈴川舟ヶ原より、天乃夫岐売神(天照大神の御魂)を勧請したのが起こりとされている。 後に伊勢より宗像三女神(田凝姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命)が勧請され併祀された。 山城の国祈雨神11社の1社、延喜式八十五座のひとつとして朝野の古代農耕民の崇敬を集めてきた。
平安時代、第56代清和天皇や第59代宇多天皇が奉幣使を立てて雨乞い祈願を行ったところ、霊験により降雨があったとされる。 中世の戦火で度々焼失したが、鎌倉時代(源頼朝)や室町時代(南北朝、戦国時代)に再建が繰り返された。 「涌出宮」は通称で、正式名は「和岐座天乃夫岐売神社」という。 主祭神は天乃夫岐賣命、田凝姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命。 なお、涌出森境内一帯は弥生時代の居住跡で、弥生式土器・石器等が出土し、竪穴式住居跡も確認された。

大きな社号標石がある一の鳥居をくぐり、鬱蒼と生茂る樹林の中に続く参道に入る。 清々しく静寂につつまれた参道を進むと、左に折れた直ぐの所に鮮やかな朱塗りの二の鳥居がある。 一の鳥居から神門までの参道両側に、江戸期造立の数基の石燈籠がひっそりと立ち並んでいる。
「郷社式内 和岐座天乃夫岐売神社」の石碑が建ち、両側に白壁の築地塀が延びる四脚門の神門をくぐって社殿境内に....正面に南北に前拝所と拝殿と本殿が並び、右手には社務所・神楽殿・休憩所が一体となった造りの建物がある。
前拝所後方に、趣きがある吹き放し造りの拝殿と流造の本殿が鎮座....いずれも元禄時代建立で歴史を感じさせる建物だ。 本殿の東側の2つの祠に熊野神社、天神社など5社、西側の2つの祠に春日神社、八幡宮など4社の境内社が鎮座している。
興味を持ったのは拝殿左右に鎮座する一対の狛犬で、社殿に向かって左側の子を踏みつけている狛犬は吽形で頭に角があり、右側の狛犬は阿形で角がない。 以前調べたことがあるが、本来、狛犬と獅子とは異なるようで、吽形で頭に角があるのが「牝の狛犬」、阿形で角がないのは「雄の獅子」とのことらしく面白い。

「涌出宮」の額が掲げられた一ノ鳥居の石造り明神鳥居と大きな社号標石が建つ..標石に「延喜式社 涌出宮」の刻
 
鬱蒼と木々が生い茂る一ノ鳥居の先の参道..両側に江戸初期造立の石燈籠が佇む/石燈籠の造立は元禄十二年(1699)
 
参道がL字に曲がったところに立つニノ鳥居..鳥居傍の石燈籠は文政四年(1821)造立/南向きで、大きな亀腹を設けた朱塗りの明神鳥居

参道の奥に建つ切妻造本瓦葺の神門(四脚門)..室町時代建立で、一部に室町期の材を使用

神門前の右手に佇む「郷社式内 和岐座天乃夫岐売神社」の石碑..「涌出宮」は通称で、正式名は「和伎坐天乃夫岐売神社」

神門から眺めた境内..正面は前拝所、右の長い建物は、社務所と神楽殿と休憩所..唐破風が神楽殿
 
神門の直ぐ左に建つ切妻造桟瓦葺の手水舎/火袋に彫刻が施された苔生した石燈籠(造立年は失念)

胴に「下り藤」の神紋を付けた神馬像

切妻造桟瓦葺の前拝所(居籠舎?)
 
前拝所とその前に佇む昭和五十八年(1983)造立の銅製の八角燈籠..火袋の各面に「下り藤」の神紋

前拝所の後方に建つ拝殿と流造の本殿..いずれも江戸時代元禄五年(1692)建立

切妻造桟瓦葺の拝殿..吹き放しの造りで、軒下に釣灯籠が下がる

流造銅板葺の本殿..縁に組高欄を設け、大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る

本殿の前面は格子戸、側面の縁に脇障子、拝みに猪目懸魚..組物や木鼻が彩色されている

拝殿横で参拝者に顔を向けて鎮座する狛犬と獅子
  
拝殿左右に鎮座する阿形吽形の狛犬..左は子を踏み吽形で角があるので牝の狛犬/右は阿形で角がないので雄の獅子..傍の石燈籠と同時期の造立か/本殿前に立つ四角の竿の石燈籠は正徳四年(1714)造立

本殿の東側(右側)に鎮座する錣屋根銅板葺の境内社..左は三神社(大国主神社、市許島神社、熊野神社)、右は天神社..真ん中の笠が苔生した石燈籠は元文三年(1738)造立で、四角の竿に「涌出森大明神」の刻

本殿の西側(左側)に鎮座する境内社..左は流造銅板葺の春日神社、右は三神社(八幡宮、日枝神社、都田神社)
 
本殿右側の樹林の中に鎮座する稲荷社/弥勒菩薩の化身とされる大小2体の布袋尊..右手に軍配団扇、左手に未開蓮(と思う)を持つ

拝殿前から眺めた唐破風屋根の神楽殿..前に組高欄を設けている

入母屋造桟瓦葺の建物は手前から社務所、神楽殿そして一番奥が休憩所で連なる
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