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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

万里の長城(八達嶺) (中国)

2022年10月14日 | 史跡探訪-中国編

【中国・北京市】現在の「万里の長城」は中国統一を果たした秦の始皇帝による建造で、匈奴(モンゴルを中心に活躍した遊牧騎馬民族)の侵略から領土を守るため、紀元前214年から建造を始めた。 現存する万里の長城の総延長は約7,300キロメートルで、西は嘉峪関の砂漠から東は渤海まで続いている。 「万里の長城」の中で、八達嶺長城は、北京市から約75km離れた北西部延慶区にある関所・「居庸関」の北に位置し、現在の遺構は明代に建設(改修)された。 八達嶺長城の全長は約3,700メ-トルで、高さは平均で7.8メートル、上面の幅は約5.8メートル、底面・側面(壁面)・上面は煉瓦造りで、内部は突き固めた土とのこと。 また、土台部分は重さ500kgの巨大な花崗岩で築かれているようだ。                            長城の頂面の両側に煉瓦積みの欄干が設けられているが、外側の欄干は匈奴からの防護のため内側よりも高くなっていて、さらに一定間隔で射撃や監視のための切込みが入っている。 北京に近い八達嶺長城は、首都防衛と同時に王朝の威厳を示す目的もあって特に堅牢に造られているらしい。

●八達嶺長城の登城口の入り口に、「国家重点風景名勝区」と大きな自然石に「八達嶺」と刻まれた標石がある。 登城口前からは稜線を這う龍の背のようにみえる長城が遠望でき、長城途中に設けられた幾つかの望楼が見える。                              登城口から南側の稜線に延びる長城を「男坂」、北側の稜線に延びる長城は「女坂」と呼ばれ、比較的緩やかな勾配の「女坂」を散策(南側の「男坂」は勾配が急らしい)。 長城の途中には「敵台」と呼ばれる望楼があり、登城口から「女坂」には北一楼、北二楼....と続く。

△バスの車窓から眺めた八達嶺の北側の万里の長城

△八達嶺長城の登城口前に設けられた「国家重点風景名勝区」と大きな自然石に「八達嶺」と刻まれた標石

△城楼の「居庸関」は古代の関所で、明代の弘治十八年(1505)の建造

△登城口前から眺めた女坂

△登城口の前の広場から眺めた女坂と呼ばれる長城

△登城口の上から望む八達嶺長城の女坂の楼閣....手前から北一楼~北四楼の楼(敵台)が続く

△手前から北一楼から北四楼....その奥にさらに幾つかの楼がみえる

●旅行社ツアーの参加で滞在時間に余裕がなく、北五楼付近まで行って戻ってきた。 最初は穏やかな上り坂の通路が続き、意外に幅があって馬5頭が並んで進める広さだそうだが、北四楼の近くからは狭くて急峻な石段になっていて馬ではとても無理だ。 北四楼は比較的高い位置に建つので見晴らしがよく、女坂のかなり先まで眺められる。 また南に目を向けると、眼下に登城口、その先の山々の稜線に延びる男坂が眺望できる。                         「万里の長城」は、宇宙から肉眼で見える唯一の人工物とされるが、長大さだけが強調されての言説だろう。 とはいえ、山々の稜線を這う龍のように造られた堅牢な長城は、素晴らしい遺構だ。

△北二楼から北三楼への通路....右側(内側)の壁は柵の役割だけだが、左側の一定間隔で切込み(銃眼?)を設けた壁は右側よりも高くして外敵の侵入を防ぐ防護壁の役割を担っている

△北一楼から眺めた北二楼、北三楼そして北四楼

△北三楼....まさに堅牢な砦を思わせる造り

△北三楼の敵台から眺めた北四楼/北二楼と北三楼の間から撮影した北四楼

△北三楼から眺めた北四楼

△北三楼から延びる北四楼への通路

△北四楼手前の通路は急峻な石段になっている

△北四楼直前の石段は狭く更に急峻で、真ん中に手摺りが設けられている

△北四楼直前の石段は更に狭く、かなり急峻な造り

△北四楼から眺めた登場口と南の稜線(左上)に延びる南坂

△北四楼から眺めた北五楼以降の楼(敵台)

△北四楼から北五楼への通路

△北五楼と左奥の山頂に建つ敵台は北九楼(と思う)

△北五楼~北七楼....右奥の高い位置に建つ楼は北九楼(と思う)

△北五楼から眺めた北六楼と北七楼

△北四楼から眺めた男坂(八達嶺の南側の万里の長城)

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頤和園-(2) (中国)

2022年08月07日 | 史跡探訪-中国編

【中国・北京市】前身の「清漪園」は、清朝の第8代皇帝道光帝の道光年間(1820~1850)以降は国力の衰退に伴って次第に荒廃し、第9代皇帝咸豊帝の咸豊十年(1860)、第二次アヘン戦争によって北京を占領した英仏連合軍によって破壊され廃墟と化した。
1875年に4歳で即位した第11代皇帝光緒帝の摂政として政治を掌握した西太后が、光緒十四年(1888)に「清漪園」を再建し、「頤養沖和(穏やかさを養う)」という言葉から取って「頤和園」と名づけた。 再建された頤和園は、光緒二十六年(1900)、義和団事件を支持した西太后による列強への宣戦布告により、8ヵ国連合軍の攻撃によって再び破壊されたが、2年後の1902年に再建された。

●楽寿堂から昆明湖の北岸に沿って西に延びる長廊の東の入口である彩色装飾が絢爛に施された邀月門をくぐって長廊に。 長廊に入って天井を見上げると、梁や桁に人物・花鳥風月などの山水・歴史・古典文学・神話などを題材にした鮮やかな絵が描かれている。 全長728メートルある長廊の梁などに14,000枚もの画があるらしい。
長廊の途中から、長廊に沿って続く参道を歩いて万寿山の中腹に建つ仏香閣に向かう。

△楽寿堂の西に建つ邀月門....この門は昆明湖に沿って西に延びる長さ728メートルの長廊の東入口

△入母屋造本瓦葺で豪華絢爛な邀月門....二軒繁垂木で下の地垂木は円垂木、途中にある四阿の軒廻りも同じで角垂木と円垂木

△乾隆帝の散歩道として知られる長廊....梁や桁に人物・花鳥風月など、山水、歴史、古典文学、神話などを題材に約1万4千点の絵が描かれている

△万寿山の南端から昆明湖に沿うように長廊が続き、全長は728メートル

△二軒繁垂木の東側長廊の前半は壁のない吹き放しの造り/長廊の途中にある最初の四阿の留佳亭....長廊には4つの四阿がある

△長廊から眺めた十七孔橋....橋の袂に建つ廓如亭が見える

△昆明湖に浮かぶ南湖島と十七孔橋の遠景

△南湖島に建つ涌虚堂と龍王廟

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた長廊(回廊)、無尽意軒、雲輝玉宇(と思う)そして仏香閣

△漆喰の壁に明り取りの二重ガラスでできた空窓のある長廊....昆明湖の秀逸な景色を眺める場所

△様々な形をしている空窓がある長廊の先の建物は、入母屋造瓦葺で妻側屋根のみ本瓦葺

△湖畔に建つ無尽意軒越しに眺めた南湖島

●東西に延びる長廊の真ん中の仏香閣の下の湖畔に建つ雲輝玉宇....その右隣の介寿堂まで行って、そこから仏香閣を暫し見上げた。 高さ20メートルの大きな基壇の上に建つ仏香閣は、高さ約41メートルの豪壮かつ壮麗な八角三層の塔で、まさに頤和園のシンボルだ。 仏香閣の傍まで行って拝観したかったが、ツアーのスケジュールの関係で叶わず、引き返した。

△仏香閣近くの湖畔に建つ入母屋造瓦葺の雲輝玉宇(と思う)....妻側屋根のみ本瓦葺

△排雲殿の右側に建つ介寿堂(と思う)...飲食ができる休憩所のようだ

△万寿山の中腹に建つ八角三層で瓦葺の仏香閣

△約20メートルの基壇の上に聳える仏香閣....塔高は約36.5メートル

△第9代皇帝咸豊帝の咸豊十年(1860)の第二次アヘン戦争で焼失、後に清朝末期の1902年西太后により再建....塔の内部には像高5メートルの千手観音菩薩像を安置/初層と二層目の周囲は一間吹き放しの造り

△万寿山に頂上に君臨する頤和園のシンボル仏香閣

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた仏香閣

△玉瀾堂後方の湖畔から眺めた右から長廊、無尽意軒、雲輝玉宇(と思う)そして仏香閣

△玉瀾堂近くの船橋から遠望した仏香閣と雲輝玉宇(と思う)

△楽寿堂から人造湖の昆明湖の辺にでて眺めた万寿山

△昆明湖と西胡を仕切る西提に架かる鏡橋(と思う)....丘陵に七重塔が建つ
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頤和園-(1) (中国)

2022年08月01日 | 史跡探訪-中国編

【中国・北京市】中国最後の王朝・清(1616~1911)の第6代皇帝乾隆帝(在位1735~1795)が、母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝うため、乾隆十五年(1750)に造営した庭園「清漪園」が前身。 乾隆二十九年(1764)に現在の規模に完成された。 「頤和園」という名称は、清国末期、「清漪園」を再建した西太后によって命名された。
「清漪園」は人工の湖の「昆明湖」と湖の掘削で発生した土砂で築いた人工の山「万寿山」とで構成された面積297ha(日本の皇居の約3倍)の広大な庭園で、周囲8kmの「昆明湖」の面積が全体の4分の3を占める。 乾隆帝の全盛期の「清漪園」は、昆明湖を中心に昆明湖畔に沿って仁寿殿、玉瀾堂、楽寿堂等さまざまな宮殿が立ち並び、万寿山には 頤和園のシンボルである仏香閣が聳えていた。 また、昆明湖の北岸に勤政区、生活区そして遊覧区があり、これらが「乾隆帝の散歩道」として知られる全長723メートルの回廊「長廊」によって繋がっていた。

●2009年5月に某旅行社のツアーに参加し、初めて北京市の史跡を巡った。 最初に訪れたのが頤和園だが、園内をどのような順路で巡ったかが分からず、頤和園図を見ながら撮った写真を並べてみた。 文昌閣の写真がないので、まずは文昌院の門の前を通って頤和園の東の正門である東宮門に向かったようだ。
東宮門の門前左右にそれぞれ子と鞠を踏む威厳に満ちた狛犬が鎮座しているが、両方とも口を開けた堂々たる姿の阿形像だ。 東宮門をくぐって少し進むと「仁寿門」の扁額が掲げられた仁寿門が建つ。 牌坊のような仁寿門は意外に簡素な造りで、門両脇に人の背ほどの高さの門当が置かれ、正面と裏面の側部に設けた支え棒に支えられて建っている。

△文昌院の門....混明胡の東側の宮殿区に建つ....門を通して見えるのは文昌閣と思う

△「頤和園」の額が掲げられた正門の入母屋造瓦葺の東宮門....「頤和園」の文字は光緒帝お直筆らしい

△門前に鎮座する威厳に満ちた狛犬は青銅製(と思う)獅子像
 
△左右の重厚な狛犬はいずれも口を開けた阿形像で、左は子を踏み右は鞠を踏んでいる

△東宮門の格天井、組物(出組)、梁などに施された彩色装飾

△牌坊のような形の切妻造瓦葺の簡素な仁寿門
 
△仁寿門に掲げられた額に梵字らしき文字と「仁寿門」が記されている/門両脇に彫り物が施された人の背ほどの高さの門当が置かれている

●仁寿門をくぐって仁寿殿の前庭にでると、太胡石とみられる奇岩が立ち、瑞獣である麒麟像が鎮座している。 全身が鱗で覆われている麒麟は想像上の獣で、龍の頭に鹿の角を乗せ、尾は獅子で蹄は牛という像容。
殿前の左右に、円柱状基壇の上に置かれた丸い二重笠を乗せた常香炉があり、胴部に「大清乾隆年造」と記されている。 また、殿前には青銅製の羽を閉じた鳳凰像と龍像が置かれ、龍像は常香炉になっていて腹の中で香を焚くと口から烟を吐く構造らしい。
仁寿殿の裏側に建つ玉瀾門を通して玉瀾堂が見える。 西太后の居室だった楽寿堂の前に、銅製の鹿、鶴の像そして大瓶が置かれているが、「鹿・鶴・大瓶」の漢語の発音が「六合太平」につながり、縁起がよいとされるようだ。 鶴は正面を向いているが、何故か鹿は振り返って楽寿堂を見ているのが少し気になった。

△切妻造風瓦葺の仁寿殿....前庭に置かれた岩は奇形の石灰岩の太湖石(と思う)は”寿星石”といわれる

△仁寿殿は政治区域の中心で、西太后や光緒帝が政務を執り行ったり外国の使節との会見など外交に使われた建物....前庭に瑞獣の麒麟像が基壇上に鎮座
 
△想像上の麒麟は、龍の頭に鹿の角、獅子の尾、蹄は馬で全身は鱗/殿前左右の円形基壇上に置かれた常香炉

△円形の二重笠を乗せ、胴部に「大清乾隆年造」の記がある
 
△仁寿殿の入口「大圓宝鏡」の扁額....殿内中央に西太后が使った宝座があり、周りに金屏風や衝立が置かれている/正面一間は吹き放しで、軒の組物の前に梵字らしき文字と仁寿殿と記された額が掲げられている
 
△仁寿殿前に置かれた鳳凰像...羽を閉じた姿で迫力に欠ける/仁寿殿前に置かれた龍像....青銅製香炉で、腹の中で香を焚くと口から烟を吐く構造らしい

△二軒繁垂木で、正面一間は吹き放し....鮮やかに彩色された組物、貫、梁、丸桁,持送など

△仁寿殿の裏側に建つ玉瀾門を通して眺めた玉瀾堂

△切妻造風瓦葺の玉瀾堂....光緒帝による再建で帝の寝宮

△瓦葺の楽寿堂....堂前に並んでいる銅製の鹿,鶴そして大瓶

△楽寿堂は西太后の居室
 
△銅製の一対の鹿と一対の鶴....正面を向く鶴に対し、鹿は振り返って楽寿堂を向いている
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郭庄 (中国)

2018年06月28日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】清代末の光緒三十三年(1907)、杭州のシルク商人・宋瑞甫氏によって造営された別荘で「端友別荘」と呼ばれた。 その後、汾陽県(山西省中部)の郭氏の所有となって「汾陽別荘」と改名されたが、人々から郭庄と呼ばれた。 典型的な江南庭園の代表作で、西湖に隣接し西湖の山水を借景した庭園として知られている。

両宜軒で仕切られたように浣池と鏡池という二つの池があり、池を囲むように建物が建つ。 鏡池側の入口から郭庄の中へ....まるでプールのような鏡池が広がり、正面に両宜軒、右手に長い翠迷廊と迎風映月亭がある。 両宜軒の脇を通って浣池へ....欄干付回廊から眺めはまさに中国庭園らしい雰囲気が漂う。深い緑に囲まれ、周りに太湖石が配された浣池に突き出るように両宜軒と六角亭が佇む景観は絵画のようで、蘇州の庭園を思い起こさせる。 西湖に面して景蘇閣が建ち、すぐ前の丸い仕切門を通して西湖に浮かぶ蘇堤が霞見える。

鏡池側の切妻造瓦葺の入口門

鏡池は両宜軒と翠迷廊と迎風映月亭に囲まれている

鏡池と後方の浣池との間に建つ两宜軒....両側の寄棟造を繋いだ中央に八注造を設けた構造

两宜軒には「郭庄茶室」があり、茶室から二つの池の眺めが楽しめる....向かって右手に翠迷廊がある
 
曲線的に造られた回廊の翠迷廊/翠迷廊の右端に建つ寄棟造瓦葺の迎風映月亭....扇型の空窓があり、池には二羽の白いガチョウが遊んでいる
 
迎風映月亭の近くの池で遊ぶのは、くちばしの上にこぶをもつ「シナガチョウ」か?

两宜軒に対面して建つ欄干付回廊....円形や方形の空窓がある
 
欄干付回廊の丸い空窓を通して眺めた两宜軒そして右手に六角亭と景蘇閣

回廊から眺めた浣池を囲む两宜軒(左)と六角亭と景蘇閣

浣池側から眺めた两宜軒....池の周りに太湖石が配されている

欄干付回廊から眺めた六角亭と切妻造瓦葺の景蘇閣

六角亭の先にある宝形造瓦葺の賞心悦目亭....太湖石の上に築かれている
 
賞心悦目亭からは鏡池と浣池そして西湖に浮かぶ蘇堤が望める絶景の場所だが、立ち入り禁止に

西湖に面した景蘇閣前の仕切門....門前はテラスになっている....西湖に直線的に延びている蘇堤

仕切り門越しに眺めた切妻造瓦葺の景蘇閣

景蘇閣....二階からは西湖の美しい風景が眺望できるだろうが....

景蘇閣の内部正面....彫刻が配された衝立のようなものがある
 
壁際に設けられた碑亭/郭庄の南側に建つ寄棟造瓦葺の乗風邀月軒....西湖に面したテラスの手前に建っている          
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西園 (中国)

2018年06月26日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】留園の西側に位置する戒幢律寺とその奥に併設されている西花園とを総称して「西園」という。
戒幢律寺は元代の創建で、もとは帰元寺と言われたが、明代嘉靖年間(1522~1566年)に留園を造った徐時泰が所有して庭園となり、西園と名付けられた。 その後、元徐時泰の子「徐溶」が再び以前の帰元寺に戻したが、1635年に住持となった茂林律師により戒幢律寺に改称された。
清代末期(1860年)の戦火で焼失したが、同治~光緒年間(1862~1908年)に再建され現在に至る。

太鼓橋の福徳橋を渡り、大きな牌坊を通り、「戒幢律寺」の扁額が掲げられた山門殿をくぐって境内に入る。 正面が3つのアーチ形入口だけの天王殿、手前の参道左右に三重層にみえる鼓楼と鐘楼が建つ。 鎮座する弥勒尊像・韋駄天像・四天王像に参拝しながら天王殿を抜けると、木立の葉陰の奥に鎮座する大雄宝殿が見える。 西側に立つ羅漢堂には金色に輝く500体の羅漢像が安置されている。 伽藍は他に蔵経堂・三宝楼があるが確か立ち入り禁止だった。
羅漢堂の奥には湖心亭が浮かぶ放生池を中心に西花園が広がり、回廊が巡らされている。 湖心亭はとがった屋根と跳ね上がった大きな軒反りが実に特徴的な六角重層の造りだ。 九曲橋を進んで湖心亭に....亭内には庭園を造営した徐時泰らしき像が鎮座。
九曲橋傍の台座にスッポン顔の亀像が横たえているが、この池には400年以上生きている亀が住んでいる....と、案内板に書かれているらしいが失念した。

水路(運河)に架かる福徳橋越しに眺めた西園の遠景....左手には照壁と福徳橋と同じ形の智慧橋が架かっている

石柱に瓦葺屋根の木製明楼を三段に乗せた牌坊....梁に「敕賜西園戒幢律寺」とあり、「〇國戒幢」の扁額が掲げられている(〇は?)

牌坊の山門側から眺めた照壁と水路に架かる福徳橋(左)と智慧橋(右)

戒幢律寺の山門殿....入母屋造瓦葺で三門式の門....大きな「戒幢律寺」の額が掲げられている

門前に霊獣(獅子)の力強い狛犬が鎮座する山門殿
 
天王殿前の参道の左右に建つ重厚な鼓楼(左手)と鐘楼(右手)

入母屋造瓦葺で裳腰を設けた天王殿....3つのアーチ形の入り口がある
 
天王殿の弥勒尊像(撮影を失念)の後ろに鎮座する韋駄天像/弥勒尊像を守護するように天王殿の左右に鎮座する四天王像のうちの2体

天王殿から眺めた大雄宝殿....木立は銀杏かな?

大雄宝殿境内に西の放生池に連なる水路があり、中央に太鼓橋風の石橋が架かる

水路に架かる石橋から望む大雄宝殿....石橋の床に縁起の良い双魚の文様が彫られている

入母屋造瓦葺で裳腰を設けた大雄宝殿....身舎と裳腰の大きく反った軒が美しい....脇間に連子子を入れた花頭窓と丸窓

大雄宝殿前に置かれた宝塔形常香炉....正面三間は花狭間を入れた両折両開きの桟唐戸か?下部に格狭間が彫られている

大雄宝殿の内陣に鎮座する三世仏....中央は弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像か?

三世仏を見守るように周囲に鎮座する種々尊像
  
大雄宝殿に向かって左手に建つ羅漢堂....堂内に金色に輝く千手観音や500体の羅漢像を安置(撮影を失念)/大雄宝殿に向かって右手に建つ観音殿....奥に経蔵堂がある/「吉祥」と表記された通路

放生池がある西花園の入口

西花園入口から眺めた池に浮かぶ湖心亭

池に浮かぶ湖心亭を中心に回廊が巡らされている

六角重層の湖心亭への九曲橋
  
観光客が涼んでいる湖心亭....とがった屋根と跳ね上がった大きな軒反りが美しい/湖心亭に鎮座するのは庭園を造った徐時泰像か?/九曲橋傍で横たえる長寿の縁起を担いだ亀像....池に400年以上生きている亀が住んでいるとか?

放生池の辺に建つ建物
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閶門遺址 (中国)

2018年06月24日 | 史跡探訪-中国編

【中国・江蘇省・蘇州市】蘇州市街の北西にある「西中市」という道路を跨いでいる巨大な水陸城門。 「閶門」は蘇州の街を護る8つの城門のひとつで、紀元前の春秋時代(前770~前403年)に建造された。 閶門がある西中市の一帯は、明代(1368~1644年)から清代(1636~1912年)に商業地として隆盛を極めた。
水路の発達した街らしく、閶門は水城門と陸城門とで構成されている。 陸城門には1934年に改築設置された3つのアーチ形通行口(中央は車道、両側は歩道)が設けられているが、元々あった頑強な扉は1958年から始まった「大躍進政策」の最中に取り除かれた。

△橋の上から眺めた重厚な閶門と上に重層の城楼

△紀元前の春秋時代に建築された城門....城門の上に建つ入母屋造瓦葺で裳腰付きの大きな閶門城楼は元代至正十一年(1351)の再建

△重層の水陸城門は高さ10m、幅156m、奥行き84mあるそうだ....手前は水城門
  
△閶門は水城門と陸城門で構成されていて、鉄壁の城門だったことが想像できる/門近くに露店が並ぶ水城門と陸城門の遠景

△改築整備された水城門と陸城門

△閭門のアーチ形通行口は1934年に改築設置された....中央が車道、両側が歩道

△建物の大きな軒反....大棟の両端に鯱が乗り、中央には円板に龍の彫り物
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大慈恩寺 (中国)

2018年05月01日 | 史跡探訪-中国編

【中国・陝西省・西安市】唐代貞観二十二年(648)、皇太子・李治(649年から第3代皇帝高宗)が亡母・文徳皇后への追善のため、隋代に大興城にあった廃寺(無漏寺)を再建して建立した。 当時は子院(塔頭)10数院を擁し、部屋数は1897間で僧侶300人という大規模の仏教寺院だったが、唐代末期の戦乱で多くを焼失し、十分の一の規模になった。
境内に聳える大雁塔は、645年にインドから帰った高僧・玄奘三蔵法師の要請と指揮によって永徽三年(652)に建てられたもので、楼閣式の塔は煉瓦造りで七層の四角錐、高さ64m。 大雁塔には、玄奘がインドから持ち帰った仏舎利、仏像そして玄獎三蔵翻訳の経典を収蔵している。
大雁塔は最初は五層の塔だったが、老朽化のため高宗の皇后で女帝・則天武后の時代(8世紀初め)に建て直されて十層に、その後戦火に遭って七層となり現在に至っている。 明代の嘉靖二十九年(1550)に現在の伽藍になった。
玄奘三蔵法師は唐代の高僧で、法相宗の開祖。 仏教の真義を究めるため貞観二年(628)に西安を発ち、度重もの苦難を経て西域・インドに入り、那爛寺の戒賢法師に師事。 インド各地の仏跡を訪ね、17年後の貞観十九年(645)に多くの仏像やサンスクリット経典を持って帰国....大慈恩寺の上座となり、翻経院で顕慶三年(658)まで仏典の漢訳に従事した。

白い獅子像が鎮座する大寺院にしては意外に小さい山門をくぐって境内に....大きな常香炉の先に、大雄宝殿と重厚な大雁塔とが重なって建つ。 中国独特の伝統建築様式塼塔の大雁塔は、楼閣式七重塔で、どっしりとした重量感があり歴史を感じさせる。 約1370年前建立と古く、かなり重量があるからだろうか塔が少し左に傾いているように見える....気のせいか?
大雁塔は、各層の四方にアーチ型の小さな窓が一つあるだけのシンプルな巨大な仏塔だが、インドのストゥーパ(舎利塔)を豪壮な規模の塔にしてより威厳を持たせたのだろう....と勝手に想像した。
大雄宝殿前境内の右手に、門当が置かれ石碑が立ち並ぶ一角があり、煉瓦を積み上げて造られた石塔がある....珍しい形だが墓塔だろうか?
訪問者が溢れていて喧騒な境内だが、「西遊記」に登場する三蔵法師として知られる玄奘三蔵法師がいたこの寺院にいま自分が立っていることに、感慨深いものを感じた。

寺院規模に対して意外に小さい入母屋造瓦葺の山門

狛犬越しに眺めた山門..「大慈恩寺」の扁額が掛かり、梁木鼻、組物に鮮やかな装飾がある

山門から眺めた重厚な大雁塔..唐代永徽三年(652)建立で中国独特の伝統建築様式
 
大雁塔には玄奘三蔵法師がインド・西域から持ち帰った仏像や経典を収蔵/常香炉の奥の正面に大雄宝殿が建ち大雁塔と重なる

大雁塔は底辺42.5x48.5m、高さ4.2mの煉瓦造りの基壇上に建つ

入母屋造瓦葺の大雄宝殿..本尊釈迦如来像を安置
 
宝珠を乗せた重制の六角の見事な六仏石幢..幢身だけでなく中台下の請花や竿にも半肉彫りの仏像が彫られている/大雄宝殿の石段脇で守護する真っ白な獅子の狛犬
 
質素な造りの大雄宝殿..儀式でもあるのかちょうど多くの僧が殿内に入っていくところだった

見上げた大雁塔..四方各層の中央にアーチ型の窓
 
大雁塔は七層の四角錘で高さ約64m/大雁塔は楼閣式でシンプルな構造..姿はまさに古代の塔といった感じだ!

大雁塔の左手に建つ瓦葺屋根に宝珠が乗る八角亭
 
八角亭                         半丸彫りの像は象に乗る半跏坐の普賢菩薩像(と思う)

光明堂、大遍覚堂、般若堂が建つ境内への中門

切妻造瓦葺の中門..連子窓が並ぶ
 
屋根に鴟尾を乗せた切妻造瓦葺の光明堂..堂前に珍しい形の石燈籠は立つ

大遍覚堂..正面に玄奘三蔵院が立つが撮影を失念

切妻造瓦葺の般若堂

大雄宝殿前の境内右手に立つ珍しい形の石塔は墓塔か..石碑が立ち、門当が置かれている
 
客堂手前の灰色の建物は鐘楼(対面には雲水堂と鼓楼が建つ)/大雄宝殿前境内の右手に建つ客堂
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秦始皇帝陵兵馬俑 (中国)

2018年04月29日 | 史跡探訪-中国編

【中国・陝西省・西安市】約2200年前、秦始皇帝陵(紀元前210年頃造営)から東へ1500mの地点に配置された始皇帝を守るための地下近衛軍団。
 秦始皇帝陵兵馬俑は「秦始皇兵馬俑博物館」と「銅車馬陳列館」から成り、兵馬俑博物館の中は発掘順に1号坑、2号坑そして3号坑に分かれていて、地下に眠る秦始皇帝を護るために作られた陶製の兵士と馬の人形が、発掘途中なれど、八千数百体あると推定されている。 兵士俑(俑=古代中国で殉死者の代わりに埋葬した人形)はほぼ等身大で、顔の表情や衣服などは全て違っているが、いずれも手に武器を持ち、秦代の製造技術の高さが分かる。
兵馬俑が発見されたのは1974年で、秦始皇陵東側の果樹園で井戸を掘っていた農民が、偶然、陶器の破片を見つけたのが切っ掛け。

10年前の訪問だが、世界遺産である兵馬俑に向かう道路事情に驚いた。 舗装道路だが整備がよくなかった記憶がある。 路面のあちこちに穴が開いていて、かなりバスに揺られながら着く。
バスを降りると巨大な秦始皇帝像が目に飛び込んできて、圧倒される。
秦始皇兵馬俑博物館に入るが、吃驚するほど国内外の観光客で溢れかえっている。 巨大な空間に1号坑が広がり、ものすごい数の兵士俑が整然と並んでいて圧倒される。
兵士俑の顔は同じものが二つとないとされるが、確かにそうでみな表情が違う。 全て敵国があった東を向いているが、どの兵士俑も武器を持っていない。 よく見ると、右の手のひらが刀を持つときのような形をしているので、木製の武器を持っていたのだろう....と勝手に想像した。
博物館2号坑には陶製の軍吏俑、騎兵俑、弓矢俑など、また、秦始皇銅車馬陳列館には始皇帝専用の銅馬車二号車などが展示されていて、当時の製造技術の高さを間近に感じることができる。 地下に眠る秦始皇帝を護るため地下に配置された八千数百体にのぼるとされる兵馬俑....「世界の考古学史上、20世紀最大の発見」とされるのは頷ける。
 
兵馬俑の正面入口に立つ巨大な秦始皇雕像

秦始皇兵馬俑は「秦始皇兵馬俑博物館(1号坑、2号抗、3号抗)」と「秦始皇銅車馬陳列館」で構成

秦始皇兵馬俑博物館の1号坑

兵馬俑1号坑の入口側..国内外の訪問客で溢れかえっている

最大な巨大1号坑には2000体の兵士像が整然と並んでいるそうだ

秦始皇兵馬俑博物館の1号坑

兵俑の顔は全て敵国があった東を向いている
  
兵士の顔の表情は同じものがふたつとなく、何かが伝わってくる感じだ!

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗(奥に3号抗が建つ)

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部..まだ発掘中のようで殆どの俑が倒れている
  
2号抗の倒れている俑群      2号坑に展示されている弓矢庸   高級軍吏俑(将軍俑)
  
2号坑に展示されている戦鉋武士俑    騎兵俑            中級軍吏俑(中級凱甲俑)

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部
  
秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の兵馬俑..まだ発掘中のようだ      彩絵甲衣与服飾の説明

秦始皇兵馬俑博物館の2号抗の内部

秦始皇銅車馬陳列館
 
銅馬車二号車は始皇帝専用車(温涼車というらしい)/訪問客が触れている展示物は何だったか..失念!
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虎跑泉 (中国)

2018年04月21日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】唐代元和十四年(819)に虎跑山の麓に高僧・性空禅師が建立した虎跑禅寺の敷地内に湧いている源泉で、天下第三名泉のひとつ(他は江蘇省鎮江の中冷泉、無錫の恵泉)と称される。 開山・性空禅師の夢枕に仙人が現れ、仙人が2頭の虎を使って泉を掘らせた伝説から「虎跑泉」の名がついた。 虎跑禅寺は廃寺となり、その跡地に幾つかの堂宇だけが残る。
敷地内には幾つかの茶館があり、ミネラルを豊富に含んだ名水で入れたお茶は「龍井茶」とよばれ、その味は格別といわれる。

「虎跑」の額が掲げられた門から、深い樹林に覆われた寺院跡らしい雰囲気が漂う境内に入る。 目指す「虎跑泉」は境内の一番奥にある。 まずは含暉亭をくぐり、泊云橋が架かる日月池を通ると、木立の間から石垣で囲まれた丸い形の鉢孟池と石垣の上に虎跑史話館が見える。
池畔奥に玉帯亭が建ち、玉帯池の脇の参道を進んで、虎跑泉のシンボルでもある梦(夢)虎に向かう。 梦虎は仙人と2頭の虎の彫刻で、1983年に造立されたもの。 泉を掘った虎を従えた仙人は、岩陰にまるで涅槃仏のように横たえている。 仙人は安らかに眠っているようで、寝息が聞こえてきそうだ。
名水が湧き出る虎跑泉に向かう。 彫刻が施された古い虎跑碑がある叠翠軒を通って虎跑泉エリアに入ると、叠翠軒、羅漢堂、碑廊、滴翆軒そして品泉閣に囲まれた真ん中に石造り勾欄を設けた四角い泉がある。 また、碑廊側の石垣に、「虎跑泉」と刻まれた石板が嵌め込まれた直ぐ傍にもガラスで覆われた小さな泉がある。 「虎跑泉」の源泉は、滴翆軒の奥にある虎跑夢泉池のようだが....。
虎跑泉を覗き込んでみたが、溜まっている水はとても湧き出た清水のようには見えなかった。 そういえば、源泉とされる虎跑夢泉池の水は比較的澄んではいたが、湧水のような流れがなかったように感じた。

虎跑泉の入場門

含暉亭と日月池..池に架かるのは泊云橋

入母屋造瓦葺の虎跑史話館..手前の池は鉢孟池(鉢孟は僧侶の飯器のこと)
 
樹林の中に建つ虎跑史話館と館内の展示物

玉帯池と軒が大きく反りかえった玉帯亭
 
木立の間から眺めた玉帯亭       参道の途中にある馬の石像..半丸彫りのような珍しい造立

寄棟造りの濟公塔院

梦虎雕塑手前の参道に建つ軒反りの大きな清音停

梦虎雕塑..1983年造立

性空禅師の夢に現れた仙人像と泉を掘った2頭の虎像
 
眠ったように横たえる仙人..2頭の虎が泉を掘るのを待っているのかな?
 
弘一法師舎利塔への参道に建つ仰止亭        弘一法師舎利塔

虎跑泉エリアへの参道に建つ照壁
 
虎跑泉エリアに建つ叠翠軒..奥の白い建物は茶楼          叠翠軒に鎮座する虎跑碑

羅漢堂..明代洪武年間(1368~1398)創建
 
羅漢堂入口に掲げられている「羅漢堂」の額/羅漢像が安置されている前のガラスにも羅漢堂が描かれている

羅漢堂脇から眺めた左に碑廊、右に連なる滴翆軒と品泉閣

碑廊とその前にある虎跑泉
 
石垣に嵌め込まれ「虎跑泉」の石板..手前の小さな四角の泉が本来の虎跑泉/碑廊の壁に貼り付けたように置かれた石碑群
 
滴翆軒の奥にある虎跑夢泉池..ここが虎跑夢泉源          虎の人形は余分な気がするが..
 
山泉居茶楼..虎跑泉の水で飲むお茶はまろやかで美味しいとか/山泉居茶楼内の円形の仕切り門
 
三重屋根瓦葺の鐘楼..下層に妙音菩薩らしき仏像が鎮座
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紫霄寺 (中国)

2016年11月10日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】唐代年間(618~907)、名僧妙応禅師により渭陽村の海抜550mの紫霄山(紫霄岩)の中腹に創建された。 当初は迎福寺(俗称は紫霄寺)と称されたが、後に迎福院に改名された。 現在の諸殿は清代年間(1636~1912)の再建。

巨石が積み重なるような岩山の急峻な石段を上り詰めると大雄宝殿と祥雲殿が建つ平地に着く。 「紫霄迎福寺」の額が掛かる山門をくぐると、道教建築様式のような古びた大雄宝殿が建ち、印相が異なる3体の釈迦如来坐像が鎮座。 祥雲殿後方に「紫霄岩」と称す巨大な自然岩があり、岩下には狭い天然石洞の堂羅漢洞が....。 岩山を下ると約400年前に建てられた天台殿があり、左の仕切り門の奥に石刻された幾つかの岩石が重なる。
 
案内板「莆田市渭陽紫霄怪石全景図」の絵から紫霄寺は岩山に建てられていることがわかる/参道入り口に立つ六角の迎福亭

切妻造瓦葺の山門..奥の建物は大雄宝殿

山門には「紫霄迎福寺」の額が掲げられ、門当がおかれている

切妻造瓦葺の大雄宝殿..2つの屋根が重なっているように見える

大雄宝殿の向拝..道教建築様式のような造り
 
大雄宝殿前の常香炉/大雄宝殿には釈迦如来像、観音菩薩、十八羅漢像などが鎮座

大雄宝殿の内陣に安置された印相が異なる3体の釈迦如来坐像
 
釈迦如来像の周りに羅漢像などが居並ぶ
  
大雄宝殿後方の放生池..上の境内に祥雲殿が建つ/境内の石段参道/壁に埋め込まれた石碑に「唐朝」の文字が刻まれている

大雄宝殿の後方に建つ祥雲殿..清代万歴年間(1573~1620)再建

「祥雲殿」の額が掲げられた祥雲殿の正面の常香炉
 
祥雲殿に祀られている玉皇帝像

祥雲殿後方岩に位置する巨大な自然岩の紫霄岩..岩下に天然石洞の羅漢洞がある

天台殿近くの「白獅」「榕華斗」と朱書された奇岩

天台殿

明代万歴年間(1573~1620)建立の天台殿

内陣に鎮座する玄天上帝像
 
壁面に諸神が描かれている

天台殿境内の左の仕切り門の奥に石刻された岩がある
 
石刻された小さな岩が重なるようにある

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石室岩寺-(2) (中国)

2016年11月08日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】凌雲別殿を入り、壁に掛け軸が下げられている廻廊の石段を上がって後方の霻霄宝殿に....。 霻霄宝殿の向拝柱に昇り龍と降り龍の彫刻が施され、荘厳さが漂う。 霻霄宝殿の内陣には黒い鬚を生やした3体の神像が鎮座....宝冠のようなものを被り、立派な衣装をまとって笏を持つ中央の一際大きな像は皇帝か。
霻霄宝殿から山裾沿いに、七層方形煉瓦塔と凌雲別殿傍に立つ七重層塔とを眺めながら北極寶殿に向かう。 北極寶殿には「玄天上帝爺」像が鎮座。 北極宝殿の名称は、北極星を天子の位としていることに由来か。 堂宇境内から少し離れた地蔵閣の近くの参道脇に、石柵を廻らした中に、笠の軒に蕨手を設けた石造りの六角四層の石塔が立っているが、四重塔なので違和感を感じた。

凌雲別殿から後方の霻霄宝殿への回廊に掲げられた掛け軸

荘厳さが漂う造りの霻霄宝殿..向拝柱の昇りと降り龍の彫刻が素晴らしい
 
霻霄宝殿の入口..内陣に鎮座する三神像(中央の笏を持つ像は皇帝か)
 
内陣の三神像                      通路に鎮座する神像..香炉置き台に「石室岩」とある

霻霄宝殿の入母屋造瓦葺屋根..下は裳腰の屋根

入母屋造り瓦葺の北極寶殿
 
閉じられた北極寶殿正面の入口の格子..側面の入り口から眺めた神像座

内陣に鎮座する立派な鬚を生やした「玄天上帝爺」像

北極寶殿の後方の「龍舌石」..上に乗風亭が建つ
 
石段上は「龍舌石」で、乗風亭が建つ

戯台(舞台)..右手は石室岩素菜館
 
戯台(舞台)                 戯台右手奥にある庫裡

大雄宝殿から数十メートル離れた参道に建つ地蔵閣

地蔵閣近くにある六角四層の石塔..墓と思うが何故か偶数層
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石室岩寺-(1) (中国)

2016年11月06日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・莆田市】唐代(618~907)初期、高僧・妙応禅師を開山として西郊外にある大象山の中腹に草庵を結び「伏虎岩」と称した。 北宋代紹聖年間(1094~1098年)、住持道静が岩前に寺を建立、「石室寺精舎」と称した。 北宋代崇寧五年(1106)、朝廷から「妙応寺」を額を賜り改名。 その後、元代と明代に災難に見舞われたがいずれも直ぐ再建された。
広大な境内に大雄宝殿、凌雲別殿、霻霄宝殿、北極寶殿、戯台(舞台)、石室岩素菜館、地蔵閣などが建つ。 大雄宝殿の後方に明代(1368~1644年)に建立された高さ30mの七層の方形煉瓦塔が立つ。 再建された塔のようだ。

大きな二重門をくぐって広い石段を上ると、途中に「禅」の文字が大書された照壁があり、更に石段を上り詰めると堂宇境内に....。 右手に改築中の大雄宝殿があり、撤去された仏像は傍の倉庫兼改築作業場に設けられた仮祭壇上に並べられていた。 大雄宝殿は板壁や屋根の吹き替えが行われていた。
大雄宝殿の後方に七層方形煉瓦塔が聳え立つが、風化が激しく、表面の壁が剥離して煉瓦が露出、積み上げた状況や構造がよくわかる。 大雄宝殿の左奥に、透かし彫りを施した丸窓で、門当が置かれた凌雲別殿があり、奥に「霻霄御極」の額が掲げられた霻霄宝殿がある。

巨大な二重門..両側は山廊かな
 
吹き放しの荘厳な二重門/広い石段参道の上に「禅」が大書された照壁がみえる

照壁の「禅」は淨空筆で、右の「自己認識」にハットさせられる

広大な境内だが殺風景だ

改築中の大雄寶殿..写真から入母屋造瓦葺で身舎に大きな庇を設けているようだ
 
大雄寶殿は現在「大殿」と呼ばれているが、改築後は「新観音殿」に改名するようだ

境内に掲示の大雄寶殿の写真を拝借
 
大雄寶殿の仏像は近くの建築資材置き倉庫内の仮祭壇上に安置/右側の観世音菩薩(左側には薬師琉璃光如来が鎮座)

凌雲別殿..明代から清代に掛けて建立(後方は霻霄宝殿)

凌雲別殿の中央は閉門..両側の通用門から出入りする..門当が置かれている
 
中央門の上に「凌雲別殿」の意思の額が掛かる/凌雲別殿越しに眺めた方形煉瓦塔

七層六角塔と珍しい七層方形煉瓦塔(高さ30m)
 
七層方形煉瓦塔..煉瓦を巧みに積み上げた明代建立の塔..隔層毎に塔内へ通じる入口があるようだ
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瑞岩寺 (中国)

2016年11月04日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市・福清市】北宋時代の宣和四年(1122)、瑞岩山の麓に建立された。
瑞岩山は巨石が積み重なった岩山で、岩洞の上に建てられた堂宇をいまにも押し潰すかのように巨大岩が迫っている。 境内に天王殿、大雄宝殿、文昌閣、圓通殿、蔵経閣、伽藍殿などの堂宇が建ち、大雄宝殿には舟形光背を背にして釈迦如来坐像が鎮座している。
高い塀で囲まれた狭い境内に堂宇が密集して建っているので、建物の写真がうまく撮れなかった。 先に投稿した瑞岩弥勒佛造像は、瑞岩寺の直ぐ西側に鎮座している。

巨大岩が堂宇に迫り、いまにも押し潰されそうで迫力がある光景
 
瑞岩山の麓の樹林の中に建つ瑞岩寺        高い塀で囲まれ境内から見た山門

天王殿..中央は弥勒尊像ではなく常香炉が置かれ、両側に四天王像が鎮座している

天王殿内から眺めた大雄宝殿
 
狭い大雄宝殿前に置かれた金色の常香炉..前面に飾り模様が施されている
 
大雄宝殿の須弥壇に鎮座する釈迦如来座坐像..与願印と施無畏印を結ぶ/釈迦如来像を見守るように周囲に金ピカの羅漢像が並ぶ
 
大雄宝殿の後方に建つ蔵経閣と九仙楼       圓通殿

狭い境内の廻廊
 
堂宇の直ぐ傍まで迫る積み重なった巨石群に圧倒される

大棟両端が鋭く尖った堂宇の屋根が連なる
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瑞岩弥勒佛造像 (中国)

2016年11月02日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市・福清市】市内海口镇の瑞岩山麓の瑞岩寺の傍に鎮座する中国最大の古代仏教の弥勒石佛坐像。 元代至正元年(1341)から明代洪武元年(1368)まで、27年の歳月をかけて石匠百人が自然岩を削って製作した。 石佛の像高は6.4mで、幅は8.9m。 洪武二十三年(1390)までは堂内に鎮座していたが、御堂が崩壊して露座となり、10本の柱が遺構として残っている。

衲衣を着た笑顔の弥勒仏像は足裏を合わせた格好で坐り、肩、胸そして臍まで腹を露出し、左手に数珠を持ち、右手で大きな太鼓腹を撫でている。 腹と膝と足元で小さな3体の羅漢像が戯れている。 巨大な石像だが、意外に精緻な彫りでかつ優美さが漂っている。
福清市に近い泉州市にも、一見に値する宋代造立の見事な石像「老君岩造像」がある。(投稿:2010年8月7日「老君岩造像」)

福清市の瑞岩山の麓に鎮座する弥勒石佛坐像

元代至正元年(1341)~明代洪武元年(1368)造立..右手の山腹に建つのは瑞岩寺

人の背丈と比べるとその大きさが分かる
 
瑞岩寺の傍に露座する中国最大の古代仏教の弥勒石仏..石柱は崩壊消失した御堂の遺構/弥勒石佛坐像の歴史を刻んだ石碑

石匠百人が自然岩を削って製作した石仏は像高6.4m、幅8.9m
 
弥勒石仏の膝と足元で小さな羅漢像が戯れている/右膝の衲衣の隙間から顔を出している羅漢像
 
何かを両手で持ちながら太鼓腹に腰掛けている笑顔の羅漢像/足元で笑っている羅漢像

衲衣から出した悪戯っぽい笑顔の羅漢像
 
弥勒石仏の頭部高さ2.3m、頭頂幅1.8m、耳の長さ1.3mといずれも巨大な弥勒石仏..奥の山上は瑞岩寺

満面に笑みをたたえる弥勒尊像に癒される
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法鏡寺 (中国)

2016年10月13日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】東晋代咸和三年(326)に天竺の高僧・慧理によって建立された翻経院で、佛教の経典を翻訳する場所だった。 同年に慧理が創建した禅宗寺院の霊隱寺の一部だったようだ。
唐代末に兵火で焼失したが、五代十国呉越時代の呉越王・銭鏐により再興された。
清代乾隆二十七年(1762)、乾隆帝より御題の額「法鏡寺」を賜り、法鏡寺と改名した。 霊隠寺の西側に位置し、「天竺三寺」の一つ下天竺寺と呼ばれた。
西湖周辺で最古の禅宗寺院で、境内には天王殿、園通宝殿、大殿、蔵経楼などが建ち、大殿には薬師如来を安置。 法鏡寺は杭州唯一の尼寺で、杭州の尼さんが修行している。

山門前に放生池があり石橋が架かる

入母屋造瓦葺の山門..「三天竺法鏡寺」の扁額が掲げられている

山門の後方に建つ天王殿..右手の建物は蔵経楼
 
天王殿..弥勒尊像と韋駄天像そして四天王像が鎮座/弥勒尊像の背面に鎮座する韋駄天像

斎堂苗の廻廊に禅宗の法具である魚鼓と雲板が下がる
 
彩色された魚鼓                            雲板中央に法鏡講寺の刻

天王殿の後方に建つ圓通寶殿と後方に大殿(大殿には薬師如来像を安置)

切妻造瓦葺の圓通寶殿
 
圓通寶殿の須弥壇に安置された仏像..如来像と思うが/圓通寶殿前に置かれた常香炉..屋根の軒先に風鐸が下がる(使われていない)
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