goo blog サービス終了のお知らせ 

何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

川越氷川神社-(2) (川越)

2020年04月09日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】江戸時代に入ってからも川越藩歴代藩主の崇敬を受け、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典が社殿の造営を行った。 特に、江戸彫りといわれる精緻な彫刻が施された本殿は、当時の城主松平斉典の寄進により7年の歳月を掛けて天保十三年(1842)に建立された。
氷川神社の摂社である八坂神社の本殿は、寛永十四年(1637)に建立された江戸城二の丸にあった東照宮を、明暦年間(1655~1658)に川越城内に三芳野神社の外宮として移築され、明治になって八坂神社の本殿として現在地に再移築された。

社務所の右隅に、薄っすらと苔生した狛犬に護られて柿本人麿神社が鎮座する。 狛犬は、阿吽両形いずれも巻毛が殆どなく、頭頂に窪みがある。 また、阿形が踏みつける玉に縦線が彫られているなど、興味深い狛犬だ。
境内の西側には東面で江戸期建立の舞殿、待合所、そして八坂神社の左手や奥の木立の中に21社の境内社が整然と並んでいて、まさに八百万の神々のご鎮座だ。
氷川神社の右手に釣燈籠が下がるL字型の回廊があり、回廊の北側に平成元年建立の平成殿そして護国神社が並んでいる。 護国神社は、神明鳥居と外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた神門の奥に鎮座。 狭い境内に「義勇奉公碑」が立ち、洒落た四脚台座に鎮座する勇ましい顔の狛犬に護られた明神造りの社殿には、西南ノ役以降の川越出身の英霊2970柱が祀られている。
境内の東側に「大鳥居」と呼ばれる巨大な朱塗りの明神鳥居が建つ。 木造の鳥居で15メートルの高さがあり、木造としては国内随一の規模らしい。 額束に掲げられた額の社号は勝海舟の直筆とのこと....感慨深い。

△社務所脇に鎮座する境内社の柿本人麿神社....柿本人麻呂を祭神とした旧武蔵国唯一の神社
 
△切妻造りの覆屋に鎮座する柿本人麿神社の社殿/切妻造(流造)柿葺で向拝に唐破風を設けた社殿....母屋柱は丸柱、向拝柱は面取角柱、逆蓮頭高欄を設け階の下には浜床
 
△柿本人麿神社前に鎮座する少し苔生している狛犬は享保三年(1718)の造立....阿形吽形いずれも頭頂に窪みがある/巻毛が殆どない古式な姿の狛犬....阿形の前左脚を乗せている玉に縦線が彫られている

△流造杉板葺(と思う)で、屋根に千鳥破風を乗せ軒唐破風を設けている....軒廻りは二軒繁垂木、向拝の水引虹梁上に4つの出組、中央に脚間に彫刻を配した本蟇股
 
△柿本人麿神社前の小さな坪庭に佇む石尾燈籠と飾手水鉢/山上憶良の歌碑

△入母屋造銅板葺の舞殿....宝永元年(1704)の建立で、御囃子や奉納芸能などが催される

△軒廻りは一軒繁垂木、拝は変形の蕪懸魚で妻飾は狐格子....正面と側面に擬宝珠高欄付き廻縁、側面奥に脇障子

△鏡板に1本の老松、脇障子には松や鶴などが描かれている

△切妻屋根の待合所....明治十六年(1883)に川越の文学愛好家らによる建立
△待合所の奥(西側隅)に整然と鎮座する境内社群....左から稲荷神社、日吉神社、加太栗島神社、菅原神社、松尾神社

△左から馬頭観音、八幡神社、小御嶽神社

△覆屋に鎮座する稲荷神社と春日神社....石灯籠は元禄九年(1696)の造立
 
△覆屋に沢山の神使の狐に守られて鎮座する稲荷神社/春日神社

△左から子ノ権現社、疱瘡神社、厳島神社、水神社、嶋姫神社、雷電神社
 
△入母屋造銅板葺の簡素な覆屋に鎮座する三峯神社(左)と蛇霊神社/三峯神社の社殿....主祭神は伊弉諾命と伊弉冉命で眷属は猿だが、何故か狐?
 
△御嶽神社、三笠山神社、一心晃炅神などが鎮座/琴平神社

△転びのある神明鳥居と外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた神門の奥に護国神社が鎮座

△流石に護国神社らしく、門前に奉納された幟旗のようなものを供えた武器

△明神造銅板葺で平入りの護国神社社殿....明治十四年(1881)、招魂社として建立、西南ノ役以降の川越出身の英霊2970柱を祀る
 
△社殿前に鎮座する勇ましい顔の狛犬(造立年不詳)....吽形は足元に立ち上がる子獅子/阿形は球を踏む....いずれも花の彫刻を施した洒落た四脚台座の上に鎮座
 
△護国神社境内に立つ「義勇奉公碑」        △大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る

△両妻に棟持柱、破風の拝み近くに計8本の小狭小舞(鞭掛)がある

△周囲に組高欄付き廻縁....側面と後方の壁は校倉造り

△境内の南側に鎮座する水神社と御神水と戌岩....御神水は境内地下の水脈から汲み上げている

△境内東側の氷川会館側に立つ木製の大鳥居(高さ15メートルで、木製鳥居では国内随一の規模)....明神鳥居で平成二年(1990)の造立で扁額の社号は勝海舟の直筆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川越氷川神社-(1) (川越)

2020年04月05日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】古墳時代の欽明天皇二年(541)の創建とされ、武蔵一宮である大宮氷川神社を分祠したことに始まると伝えられている。 室町時代の長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子が川越城を築城して以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代川越藩主(歴代川越城主)により篤く崇敬された。
主祭神は素盞嗚尊で、他に四柱(脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様、その娘で素盞嗚尊の妃神の奇稲田姫命、そして素盞嗚尊と奇稲田姫命の子とされる大己貴命)を祀る。

県道51号線に沿って繁る樹木の間に道に面して一ノ鳥居が立ち、直ぐ奥に二ノ鳥居が接近して立ち並ぶ。 いずれも石造りの神明鳥居だ。 二ノ鳥居をくぐると直ぐ左手に社務所、右手に何故か2つの手水舎が並んでいる。 一つは片流れ板葺屋根の簡素な手水舎で珍しいが、手水鉢に清水が張られ一個だが柄杓がおかれているのでこちらも禊に使われている。
直ぐ正面に拝殿があるが、殿前の左右に格子窓入り衝立を並べたような壁が設けられ、神々しい雰囲気が少し損なわれているようで残念だ。
平面T字型の拝殿の奥に、透き塀に囲まれて江戸後期建立の本殿が鎮座している。 本殿に近づいて唖然たる面持ちに....建物の全面が精緻な江戸彫り彫刻で埋め尽くされていて圧倒される。 調べると、本殿彫刻の特別見学会は年に一度の開催とあり、訪問した11月初旬の「七五三詣」祭りがその時期かな? また、本殿建立に7年の歳月を要したとのことだが、彫刻に時間を要した為と思われる。
本殿の右後方に2本のご神木が寄り添うように聳えるが、平成23年の台風で、約10メートルの幹を残して倒壊したとのこと。 幹の周りに敷かれた切石に乗って、ご神木の木肌にそっと耳をあてがい、古代の息吹を聞いてみた....。
氷川神社社殿と並んで西隣に八坂神社が鎮座する。 朱塗りの本殿は平面T字型構造で、江戸初期の建築で趣がある。 本殿内は黒漆塗りと極彩色仕上げの華やかな造りで、衣冠束帯を纏った武官姿の2体の随身像が鎮座しているそうだ。 神社を守る随身が、神門ではなく本殿内に鎮座するのは全国でも珍しいとされる....是非拝観したいものだ。

△道路に面して一ノ鳥居、少し中に額束に「氷川神社」の扁額が掲げられた二ノ鳥居が立ち並ぶ....いずれも石造りの神明鳥居

△切妻造銅板葺の手水舎....右に簡素な片流板葺屋根の手水舎が並んでいる
 
△手水舎屋根の拝に施された龍の彫刻....これも懸魚の一種かな/明治八年造立の手水鉢に清水を注ぐ龍の水口

△入母屋造銅板葺の拝殿....殿前の左右に格子窓を入れた衝立並べたような大きな壁が設けられている

△正面の中央間は板扉、脇間に引戸式の格子窓

△向拝柱上に連三斗、虹梁中央に脚間に彫刻を配した本蟇股

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は「三斗六枝掛」(だったと思う)

△拝殿平面はT字型で、本殿側のガラス張りの建物は幣殿とみられる

△本殿境内を囲む銅板葺屋根の透き塀の連子の間から眺めた本殿

△入母屋造本瓦風銅板葺の本殿....松平斉典の寄進で、寛永二年(1849)の建立....屋根に千鳥破風を乗せ、唐破風向拝の兎毛通は精緻な鳳凰の彫刻

△貴重な彫刻を保護するためか、本殿周囲に深い軒の庇を設けている
 
△本殿前に堂々たる風格で鎮座する狛犬....明治五年(1872)の造立/大きく渦巻く巻毛は気品があり優雅さを感じさせる....台座には細い縄で結わえた太い注連縄の彫刻、そして正面に神紋らしき紋が刻まれている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が彫刻が施された尾垂木の三手先....正面三間は中央間・脇間いずれも桟唐戸、側面二間は桟唐戸と彫刻

△建物全面が関東特有の精緻な江戸彫り彫刻で埋め尽くされている....彫刻は当時屈指の名工と謳われた島村源蔵(俊表)の作で、特徴は槻材の木目を活かした無彩色の江戸彫り

△右奥面(東面)は桟唐戸と彫刻は「源義家」を表す構図....脇障子、腰回り、尾垂木、木鼻、海老虹梁などにも見事な彫刻が施されている

△腰回り(組高欄付廻縁の下側)には、川越祭の氏子十ケ町の山車の人形を主題とした表情豊かな彫刻がぐるりと施されている

△本殿背部(北面)は「大羽目三枚続きの頼朝の図」で、右端は通称「鶴ケ岡」と呼ばれる構図、中心は頼朝が鶴岡八幡宮の祭礼「放生会」で千羽鶴を放つ姿らしい
 
△平成殿の背後に聳える樹齢約600年のご神木の2本の欅/本殿の後方に聳えるご神木の2本の欅....平成二十三年(2011)の台風で幹10メートルを残して倒壊した
 
△ご神木保護のため幹の周囲に切石角柱を敷いている/ご神木近くに佇む石燈籠は寛政三年(1791)の造立

△切妻造銅板葺の八坂神社(拝殿)....氷川神社の摂社で、本殿は寛永十四年(1637)、江戸城二之丸の東照宮として建立、空宮となった後の明暦二年(1656)に川越城内三芳野神社の外宮として移築....現在地への移築は明治五年(1872)

△拝殿の軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木、妻飾は豕扠首....正面三間、側面二間で、土足の廻縁を設けている

△入母屋造本瓦風銅板葺の八坂神社本殿....朱塗りの本殿の平面はT字型構造

△八坂神社本殿(側部)....蔀戸の建物は幣殿を兼ねているのかな(右手が拝殿)

△切妻造銅板葺の社務所

△八坂神社拝殿前におかれた真鯛を釣りあげて引く「一年安鯛みくじ」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙波東照宮 (川越) 

2020年02月25日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】元和二年(1616)に駿府城で亡くなった徳川家康の遺骸は一旦久能山に葬られたが、家康公の遺言により元和三年(1617)、第2代将軍秀忠が遺骸を日光山に移葬した。 その途中、喜多院に四日間逗留し、喜多院第27世住持の天海僧正(慈眼大師)が導師となって法要を営んだことから、喜多院(中院)境内に東照宮が創建され、寛永十年(1633)に社殿が造営された。
その後、寛永十五年(1638)の川越大火で延焼したが、徳川家光に造営奉行を命ぜられた川越藩主で老中の堀田加賀守正盛により寛永十七年(1640)に再建され、現在に至る。 社殿や神器等は全て江戸幕府の直轄、また、当初から独立した社格をもたず、日光・久能山の東照宮とともに日本三大東照宮の一つといわれている。 主祭神は徳川家康公。

喜多院の南側に鎮座する徳川家ゆかりの仙波東照宮....多院表門前に至る道路の脇に「国指定重要文化財 仙波東照宮入口」と書された箱型の看板が立つ。 入口から境内の木立の奥に建つ鮮やかな朱塗の随身門を眺める。
武官姿の守護神(随身像)が不在の随身門を通して、真っ直ぐ延びる参道に立つ注連縄が張られた鳥居が見える。 参道を進むと石造りの平橋があるが、調べると、この地に壕があって、それに架かっていたようだ。
平橋を渡って少し行くと、石造りの明神鳥居が参道を跨いでいる。 この鳥居は江戸初期の造立で「石鳥居」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。
石鳥居の先に社殿境内への石段があり、石段の上に三つ葉葵の紋を配した門がある。 門は金属製の扉で、しっかりと施錠されていて社殿境内に入れない。 調べたら、日曜や祝日そして祭事以外、つまり平日は立ち入ることができないとのこと。 門扉前から拝観できるのは、拝殿の他、狛犬や手水鉢そして歴代川越藩主が献燈した石燈籠群で、カメラを門扉の隙間から挿入して撮影した。 本瓦風銅葺で朱塗り拝殿....向拝の組物、三つ葉葵を配した梁、彫刻付き本蟇股、木鼻彫刻それぞれに鮮やかな彩色が施されている。 蛙のような姿をした狛犬そして龍の水口の手水鉢は、いずれも再建時に江戸城から移設されたそうだ。
ネットから本殿の写真を拝借して掲載したが、家康公像が祀られた風格漂う本殿....いつか是非とも拝観したいものだ。

△喜多院表門前に至る道路の脇に立つ「仙波東照宮入口」と書された目立つ箱型看板....奥に木立に囲まれて建つ随身門
 
△入口参道脇に佇む日光東照宮宮司さん造立の「楓樹」と刻まれた石碑/入口参道の奥に立つ表門の随身門....両側に桟瓦葺の袖塀が連なる

△切妻造銅板葺で鮮やかな朱塗の随身門(八脚門・重文)....以前は寛永十年(1633)に後水尾天皇(第108代)から下賜された勅額「東照大権現」が掲げられていた (現在は拝殿内に)
  
△妻面は柱上の平三斗で支えられた虹梁蟇股/二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央間に裾広がりの間斗束....金剛柵の中に守護神の随身像は不在

△随身門をとして眺めた境内....参道奥に石鳥居が立つ

△参道途中の壕に架かる石造りの平橋....奥に参道を跨ぐ石造りの明神鳥居 (「石鳥居」と呼ばれる)

△「石鳥居」(重文)は寛永十五年(1638)、造営奉行の川越城主堀田正盛が奉納
 
△「石鳥居」から眺めた石橋と随身門/「石鳥居」傍に聳える天海榊(と思う)

△「石鳥居」から眺めた石階段....石段下の左右に石碑が立つ

△石階段の上に三つ葉葵の紋を配した鉄製の扉(正門か)....左右に玉垣が延び、正門を通して拝殿の屋根が見える

△入母屋造本瓦風銅板葺で朱塗りの拝殿(重文)....埼玉最古とされる狛犬は寛永十七年(1640)の再建時に江戸城から移築された

△正面三間で中央間に格狭間を配した両折両開の桟唐戸、両脇間は蔀戸....向拝の柱上に連三斗、梁の中央に彫刻を配した本蟇股、木鼻は獏(と思う)でいずれも彩色が施されている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股

△拝殿左手の境内....石燈籠群は江戸幕府の重臣だった歴代川越城主により奉納されたもの

△拝殿右手の境内....手前の龍の水口の手水鉢は再建時に江戸城から移設された

△外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る切妻造本瓦風銅葺の本殿、本瓦風銅葺の平唐門の中門、屋根付き瑞垣(いずれも重文)....右上の軒は拝殿と繋がった幣殿 (写真はネットから拝借)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中院-(2) (川越)

2020年02月21日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】寛永九年(1632)に二十八世尊能によって中興され、翌十年(1633)、喜多院で徳川家康の大法要が営まれたことから、中院の境内に仙波東照宮が建立された。 嘉永十五年(1638)の川越大火で焼失したのを機に、翌十六年(1639)、200メートル南方の現在地(境内地内)に移転した。
昭和二十年(1845)に釈迦堂と薬師堂が焼失するも、前者は昭和五十八年(1983)、後者は平成二十四年(2012)に再建された。 南院は明治初期に廃院となり、現在、跡地に数十基の石塔婆や地蔵石仏が残っている。

境内南側ある釈迦堂への参道入口に向かう。 仕切り用の竹の垣に囲まれ、真ん中が切石敷の参道の奥に鐘楼門が見える。 参道を跨いで建つ鐘楼門は、上層・下層いずれも開放的で簡素な造りで、特に、下層は板扉を設けているものの殆ど柱だけの吹き放ちで趣がある。
鐘楼門をくぐると、直ぐ左手の覆屋に、赤い帽子と前垂れをして鎮座する六地蔵尊像が参詣者を迎えている。 参道を進むと、木立の中に、太い竿の石燈籠を構えた昭和後期再建の釈迦堂がひっそりと建つ。 釈迦堂の傍に「狭山茶発祥之地」と刻まれた大きな石碑がある。 調べたら、慈覚大師円仁和尚が開山時、京から茶の実を持参して薬用として境内で栽培したのが狭山茶の始まりらしい。
本堂境内と釈迦堂への参道の間に、生垣を挟んで歴代住持の墓所と「不染亭」がある。 入口に「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示された歴代住持墓所に無縫塔や石仏などの石造物が整然と並んでいる。 その中に、頭頂に石仏を載せた幾つかの墓石があり、鎮座する諸仏が瞑想する姿が印象的だ。 「不染亭」は、昭和の文豪・島崎藤村が茶道の師匠である夫人の母堂に贈った茶室だそうで、砂利を敷いた狭い敷地に飛び石が打たれ、生垣の傍に石燈籠と飾手水鉢が置かれていて味わいがある雰囲気。 本堂境内には、藤村書の「不染」と刻まれた石碑がある。
中院から少し北の道路脇に、石塔・石仏(地蔵尊)・墓石などの石造物群が鎮座している南院(多門院)跡がある。

△仕切り用の竹の垣に囲まれ、中央が切石敷の釈迦堂への参道....奥に参道を跨いで鐘楼門が建つ

△寄棟造(小棟造)桟瓦葺の鐘楼門

△下層は板扉と柱だけの吹き放ち、上層には擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△軒廻りは一軒疎垂木、西東方向に2本、南北方向に曲がった太い梁1本を設け、南北の梁の中央に梵鐘が下がる
  
△真下から眺めた梵鐘      △正面の柱に板扉が設けられている/△中から眺めた鐘楼門

△鐘楼門の傍で参詣者を迎える六地蔵尊像

△赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊像....切石敷の参道奥に釈迦堂が見える

△入母屋造銅板葺の釈迦堂....昭和五十八年(1983)の再建

△三間四方の釈迦堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央間に蟇股、脇間に間斗束を配す

△釈迦堂前に佇む石燈籠は昭和六十二年(1987)の造立

△正面中央間は格子入り両開の板扉、脇間は格子窓

△大棟に鳥衾付き鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、側面は羽目板と格子戸
 
△釈迦堂前に立つ仏足が刻まれた碑....「釋迦佛手字」&「釋迦如来雙跡靈相圖」の刻/「狭山茶発祥之地」の石碑....慈覚大師が開山時、京から持参した茶の実を薬用として境内で栽培したのが始まり
 
△本堂境内に立つ昭和五十五年(1980)造立の「敷石供養塔」と昭和の文豪・島崎藤村書の「不染」が刻まれた碑

△寄棟造桟瓦葺の不染亭....藤村が静子夫人の母堂(茶道の師匠)に贈った茶室で、新富町から移築

△民家風の造りの茶室「不染亭」
 
△縁側側は腰高格子戸....砂利を敷いた敷地に飛び石が打たれている....右の生垣の中は歴代住持の墓所/砂利の敷地に置かれた飾手水鉢(元は蹲踞手水鉢?)と下部が土に埋まった織部燈籠

△歴代住持の墓所で「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示

△無縫塔の変形とみられる円柱型墓標の上に鎮座する諸仏像

△南院(多門院)跡地に鎮座する石造物群(石塔・地蔵石仏・墓石など)
 
△地蔵石仏と石碑....石碑は昭和四年(1929)の造立で「閻魔堂記念碑」の刻/石塔・地蔵石仏・墓石....手前右の地蔵石仏を乗せた墓石は文化四年(1807)の造立


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中院-(1) (川越)

2020年02月17日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】平安時代の天長七年(830)、淳和天皇(第53代)の勅願により天台宗伝教大師最澄の弟子・慈覚大師円仁により創建された無量寿寺の3院(北院、中院、南院)の一つで、当初は無量寿寺仏地院と号した。
江戸初期の慶長四年(1599)に天海僧正(慈眼大師)が喜多院(北院)の住持になるまでは、仏地院(中院)が無量寿寺の中心的な役割を果たしていた。 元和二年(1616)に駿府城で没した徳川家康は久能山に葬られたが、翌三年(1617)、家康の遺骸を日光山へ運ぶ途中、喜多院で天海僧正を導師として大法要が営まれた。 宗旨は天台宗(別格本山)、本尊は阿弥陀如来像。

喜多院から南に約150メートルに仙波東照宮、更に、南に約250メートルの位置に無量寿寺の3院の一つである中院がある。 喜多院訪問の前にまずここを訪れた。
門前は落ち着いた雰囲気で、燦燦と朝日を浴びる2基の石燈籠と標石が門前に立つ。 左側の標石には「日蓮上人傳法灌頂之寺」と刻まれている。 山門をくぐって境内に....緑が茂る境内はひっそりとしていて、切石敷の参道が真っ直ぐ本堂に続く。 右手の植栽の中に、「無量寿園」という砂利を敷いた枯山水風の庭園が広がる。
参道奥に江戸中期に創建された寄棟造りの本堂が建つ。 「無量寿」の扁額の下の腰高格子戸に、ご丁寧に、本尊の写真が掲げられている。 写真の下に、横木を打った小窓を設けていて、多分、本尊を拝観するための覗き窓だとみられる。 本堂の右に、唐破風で花頭窓を設けた白壁の玄関、更に、傍に織部燈籠が佇む庫裡が連なる。 境内北側に朱塗りの通用門があり、袖塀に4本、築地塀に3本の定規筋が入っているが、山門の筋数(袖塀3本・築地塀2本)と異なる…何故かな?

△落ち着いた雰囲気の門前....袖塀には3本、築地塀に2本の定規筋が入っている筋塀

△切妻造桟瓦葺の山門....前方の親柱と控柱との間が狭い変形の四脚門

△寺号標石は昭和五十年(1975)、石灯籠は平成平成十八年(2006)の造立

△二軒繁垂木、拝に猪目懸魚....木口に胡粉が塗られている

△「天台宗別格本山」と「元関東八箇檀林」の聯が下がる山門を通して眺めた境内
 
△両側が庭園の切石敷の参道....右手前に「無量寿園」、左手の桜の木の傍に「中院御詠歌」の石碑が立つ/「無量寿園」の石碑
 
△「無量寿園」は枯山水風の庭園....砂利を敷いたところは元は池か?/庭園内に佇む雪見燈籠

△寄棟造桟瓦葺の本堂....享保十八年(1733)の再建

△三間の広い流れ向拝で、水引虹梁の上いっぱいに横たわる精緻な龍の彫刻
  
△向拝に掲げられた大きな「無量寿」の扁額....腰高格子戸の真ん中の細長い格子部に本尊の写真が掲げられ、また、本尊を拝観するためとみられる横木を打った小さな窓がある/小さな格子窓の上に掲げられたご本尊の写真/廻縁は擬宝珠高欄付き切目縁
 
△龍の彫刻を乗せた水引虹梁に紐のない鰐口が下がる/向拝軒下に下がる風鐸....水引虹梁の木鼻は獅子と像の彫刻....向拝と身舎を繋ぐ梁に大瓶束がのる

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、長押の上は小壁で一部に欄窓がある....隅降棟と稚児棟端に獅子口が乗る

△正面七間は中央間三間に腰高格子戸、両脇間四間はガラス戸

△前庭の植栽の中に未開蓮を持って鎮座する出世観音菩薩立像....奥に十三重石塔が立つ

△銅板葺唐破風の玄関と右手に庫裡

△玄関脇の白壁に設けられた花頭窓

△玄関脇の庭にある手水鉢と石燈籠
  
△棗形の手水鉢/△庫裏の前に佇む石燈籠は下部が土に埋まった織部燈籠/庭園に佇む装飾を施した石燈籠

△庫裡側の参道から眺めた「無量寿園」

△庫裡側参道脇に佇む「庚申園」の石碑....境内北側の一角に石燈籠1基あるだけの園?

△庫裏への参道の切妻造桟瓦葺の門(四脚門)....袖塀に4本、築地塀に3本の定規筋が入っているが、山門と異なる?
 
△軒下は簡素な構造....梁の上に大棟を支える大きな板蟇股/本柱に板扉


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜多院-(3) (川越)

2019年12月25日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】嘉永十六年(1639)、徳川三代将軍家光は、川越藩主から老中となった堀田加賀守正盛に喜多院や仙波東照宮の復興を命じ、数年の間に慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮などを再建。 その際、江戸城紅葉山(皇居)の御殿の一部を移築して、客殿、書院などに当てた。 そのため、客殿には家光専用の湯殿と厠がある家光誕生の間、書院には家光公の乳母・春日局が使用していた化粧の間がある。
「日本三大羅漢」の一つに数えられる「五百羅漢」は、天明二年(1782)から約50年の歳月をかけて造立されたもので、十大弟子・十六羅漢を含めた533体の尊者、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢両菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩などの石像群が鎮座している。

慈眼堂の石段を下って鐘楼門に....正面に連子入り桟唐戸がある瓦葺の透塀があり、透塀と玉垣で囲まれた袴腰の鐘楼門が建つ。 軒下と上層が丹塗りで、上層の正面と後方の中央間に花頭窓、両脇間一面に彩色された龍と花鳥の彫刻が配されている。
鐘楼門から「五百羅漢尊」の傍に建つ太子堂に....。 六注造銅板葺の太子堂を拝観した後、境内みやげ品店の脇から石塀に囲まれた「五百羅漢尊」境内に入ると、整然と並んだ精緻な石造りの羅漢像が現れる。 境内の中央に設けられた高座には、釈迦如来像や阿弥陀如来像などが羅漢尊を見守るように鎮座している。 羅漢尊のさまざまな表情やユーモラスな姿は、いずれも人間味にあふれていて、つい笑いを誘われた。 例の有名な「ひそひそ話をする2人の羅漢尊」を見つけ、なんとなく嬉しくなった。 羅漢像の中には何をしている姿なのか分からないものも多くあって、想像を掻き立てた。 明治初期の神仏分離令によって起こった廃仏毀釈の嵐に遭って多くの羅漢像が破壊されたが、修復後もその痕跡が残っているとのことだが、失念。

入母屋造本瓦葺で袴腰の鐘楼門(重文)....元禄十五年(1702)の建立....銅鐘も重文
 
正面三間側面二間の鐘楼門....正面に連子入の桟唐戸を設けた瓦葺の透塀....上層に組高欄付き廻縁

正面の上層は中央間に花頭窓、両脇間に彩色された龍の彫刻

軒廻りは二軒繁垂木、組物は虹梁鼻がでている出三斗で中備なし

後方の上層の中央間の花頭窓から鐘撞棒が出ている....両脇間に彩色された鳥と花の彫刻

上層の側面に2つの花頭窓....一つは連子子入り

「五百羅漢尊」傍に建つ六注造銅板葺の太子堂
 
正面は板扉で他の面は連子窓....軒廻りは一軒扇垂木で台輪上の中備は撥束

木立に囲まれた「五百羅漢」の境内.....門柱に「」天明二年建立 五百羅漢尊」の聯

天明二年(1762)から約50年かけて建立された「五百羅漢」....533体の尊者(十大弟子、十六羅漢を含む)と5体の諸仏を含めた538体が鎮座

中央高座に釈迦如来と脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左高座に阿弥陀如来、右高座に地蔵菩薩が蓮華座に鎮座
  
上品上生の弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来坐像/法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像/左手に宝珠を持つ地蔵菩薩坐像(右手の錫杖は消失)

境内みやげ品店脇の入口から眺めた五百羅漢境内

陽を浴びで眩しそうに鎮座する五百羅漢像群

整然と鎮座する様々な姿の五百羅漢像群

陽を浴びて穏やかに鎮座する五百羅漢像群
 
寺院紹介の様々な印刷物に載っているひそひそ話をする有名な羅漢二人/卍が刻まれた平らな石板を持つ羅漢....下半分の湾曲した彫刻は布製をあらわす?
 
修行が足りない羅漢に「不動明王石仏」を差し上げようとしている?/小さな合掌石仏を大事そうに持つ羅漢.....持仏かな?
 
左三つ巴をあしらった太鼓を打つ羅漢と隣で「太鼓の何が面白いのかの~」と顎に手をやり考え込む羅漢/自分の修行不足をひたすら反省している?
 
西瓜?を持って楽しそうに談笑する羅漢二人/行が足りない羅漢に経典を渡そうとしている?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜多院-(2) (川越)

2019年12月21日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】江戸初期の慶長四年(1599)、徳川家康の信任を受けていた天海僧正(慈眼大師)が第27世の法統を継ぎ、仏蔵院北院を喜多院に改称した。 幕府から厚い庇護を受け、川越藩主となった老中・酒井備後守忠利が喜多院の再興に当たった。 慶長十六年(1611)に川越を訪れた家康公に接見、また、慶長十八年(1613)には二代将軍秀忠の関東天台法度により関東天台総本山に定められ、寺領四万八千坪と五百石を賜って寺勢をふるった。
嘉永十五年(1638)の川越大火で、現存の山門と経蔵以外の堂宇が焼失した。

江戸初期に創建された多宝塔が、陽射しを燦燦と浴びて建っている。 バランスのとれた多宝塔は安定感があり、趣がある。 丹塗の木材と白壁が鮮やかな多宝塔はひと際目を引き、シンボル的な存在だ。 多宝塔はもともと、山門と少し離れた門前の日枝神社との間の古墳の上に建てられていたようで、三度目の移築で現在地に。
本堂前の直ぐ右手に大黒堂が建ち、三つ葉葵の紋を配し金色の装飾が施された厨子に、小さな大黒尊天が鎮座している。
本堂後方の「松平大和守家廟所」に向かうと、廟所前の門柱脇に石碑を失った亀跌がある。 廟所には川越で没した5人の川越城主が眠る。 石積の塀でL形に囲まれた廟所の真ん中に白壁の袖塀を設けた墓所門が建ち、多くの石燈籠が立ち並んだ北側の石造りの瑞垣と石扉に五三桐紋を入れた4つの石門で囲まれた墓所に4基の五輪塔、南側の墓所にも1基の五輪塔が佇んでいる。
「松平大和守家廟所」から慈眼大師天海像を安置している慈眼堂に。 慈眼堂は一段高いところに建っているが、そこは七世紀初頭の古墳の上だそうだ。 石の階を上ると、約370年前の江戸初期建立の古色蒼然とした慈眼堂が現れる....が、桟唐戸と連子窓の色合いが建物と異なっていて違和感があり、少し残念だ。 慈眼堂後方に歴代住持の墓所があり、中央に「南无慈眼大師」と刻まれた大きな石碑が立つ。 その左奥に、約670年前の南北朝時代に造立された2基の古い石板碑がある。 「暦応の古碑」と称される板石塔婆と「延文の板碑」と称される川越市最大の結衆板碑で、弥陀の種子キりークと、前者には歴代住持名、後者には60人の衆生名が刻まれている。

本堂前の境内に建つ照屋根の手水舎....右手後方には多宝塔
 
切妻造銅板葺の手水舎....手水鉢は昭和五十年(1975)の造立/剣に2頭の龍が巻き付いた水口....不動明王の剣に巻き付いた降魔の俱梨伽羅龍かな?

本瓦葺の多宝塔....寛永十六年(1639)の建立で、もとは白山神社と日枝神社の間にあったが、明治四十五年(1912)、道路新設の為、慈恵堂脇に移築され、その後解体復元が行われて昭和五十年(1975)に現在地に完成
 
中央間に連子子格狭間を入れた桟唐戸、両脇間は連子窓....下層に擬宝珠高欄付切目縁を巡らす....総高13メートルで、江戸初期の多宝塔の特徴を持つ

上層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は四手目が尾垂木の四手先....漆喰塗りの亀腹の上に平三斗で支えられた回高欄

下層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は中央に蟇股で両側に蓑束、軒支輪を設けている

案内板に「多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重な遺構で名塔に属す」とある

多宝塔に鎮座する法界定印を結ぶ釈迦如来像と合掌する多宝如来像

切妻造銅板葺で庇を付けた平入の大黒堂
 
妻飾りに三つ葉葵の紋を入れ、破風を設けた屋根付き厨子に鎮座する小さな大黒尊天像
 
境内の隅に円光を背負って鎮座する「苦ぬき地蔵尊」立像

本堂後方に、石を積み上げた塀に囲まれた「松平大和守家廟所」がある....門柱脇に石碑が無い亀跌
 
切妻造本瓦葺の墓所門....石塀に連なった白壁の築地塀の袖塀/墓所門の扉は連子風窓を設け飾金具を施した桟唐戸

瑞垣と石扉に五三桐紋を入れた4つの石門に囲まれた北側の墓所....4基の五輪塔の墓標が佇む

松平大和守家は家康公の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする後家門で、川越城主として明和四年(1767)から七代百年にわたって17万石を領し、川越で没した5人の殿様を埋葬している

南側の瑞垣の中に佇む1基の五輪塔の墓標

七世紀初頭の古墳の上に建つ慈眼堂....厨子に慈眼大師天海の木像を安置

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の慈眼堂(重文)....正保二年(1645)の建立

三間四方で、側面三間は前二間が蔀戸、後方一間は飾金具を施した桟唐戸....慈眼堂の後方は背面一間通庇付....後方に喜多院歴代住持墓所がある

正面の中央間は飾金具を施した桟唐戸、両脇間に連子窓

軒廻りは二軒繁垂木、組物は台輪の上に出三斗で中備は実肘木を乗せた蟇股

慈眼堂後方にある歴代住持の墓所....中央に「南无慈眼大師」と刻まれた駒形石碑、左奥にが2基の石板碑が立つ....小さな1基は石仏の左斜め後方の玉垣の傍
 
左奥の小さな板碑は「暦応の古碑」と称される板石塔婆....南北朝時代の暦応年間(1338~1342)の造立で、上部に弥陀の種子キりーク、その下に歴代住持名が刻まれている/「延文の板碑」と称される川越市最大の板碑(石仏の右隣)....南北朝時代延文三年(1358)の造立で、高さ276cm....上部に種子キリーク、下に60名が刻まれた結衆板碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜多院-(1) (川越)

2019年12月17日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】平安時代の天長七年(830)、淳和天皇(第53代)の勅願により天台宗の僧・慈覚大師円仁により創建された勅願所。 本尊阿弥陀如来像の他、不動明王像や毘沙門天造等を祀り、創建時の寺号は無量寿寺とされ、仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院で明治初期に廃院)の3院で構成されていた。
鎌倉時代の元久二年(1205)の兵火で炎上したが、永仁四年(1296)、伏見天皇(第92代)が尊海僧正に再興を命じ、そのとき慈慧大師良源(元三大師)を祀り、官田五十石を与えて関東天台宗の本山となった。 鎌倉後期の正安三年(1301)、後伏見天皇(第93代)が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇(第105代)が山号「星野山」の勅額を下した。 戦国時代の天文六年(1537)、喜多院は武蔵国征圧を画策していた早雲の子・北条氏綱と河越城の家督を継いで炎上した。 正式名は「星野山 無量寿寺 喜多院」。 宗旨は天台宗で、本尊は阿弥陀如来像。

門前右手に小さな庭園があり、植栽の中に白山権現と慈眼大師天海像が鎮座し、参詣者を迎えている。
山内最古の建造物である山門の右手に、珍しい建物がある。 袖塀に連なった起屋根の小規模の番所で、番所は、県内に残るだた1棟の遺構だそうだ。
山門をくぐると、正面奥の階段の上に軒下に五色幕が張られた慈恵堂が建つ。 慈恵堂は、美しく緑青が浮き出た銅板葺の屋根で、先鋭な軒先が大きく反り上がっている。 中央間一間だけに連子窓風飾付き桟唐戸が設けられ、両脇間八間全てが腰高格子戸となっていて威厳を感じさせる。
本堂で参拝した後、江戸城から移築された建造物を拝観するため庫裡の玄関に向かう。 庫裡に入ってまず、家光公の乳母・春日局の「化粧の間」だったとされる書院に。 釣燈篭が下がる書院の縁側から枯山水曲水の庭の「遠州流庭園」を眺める....砂の曲水に飛石がおかれ、白い玉砂利の植栽の中に石組を配していて風雅な趣がある。
庫裡と書院と客殿の間に設けられた石を配した簡素な坪庭を眺めながら客殿に。 「家光公誕生の間」だったとされる客殿の奥に家光専用の湯殿と厠があり、厠は二畳の畳部屋で、真ん中に手摺り付きの便器がポツンとある。
客殿から本堂に向かう….庫裡の玄関がある建物から、さらに本堂への渡り廊下から、趣のある杮葺の雅な客殿をじっくりと眺めた。

門前の風景....「星野山 喜多院」の寺号標石は昭和三十一年(1956)の造立
 
門前右手の庭園に鎮座する白山権現と江戸初期に喜多院を復興した天海大僧正像....天海僧正(慈眼大師)は第27世住持で、徳川家康に信頼され、108歳で遷化/白山権現は石造り明神鳥居を構えた流造銅板葺の社

切妻造本瓦葺で四脚門の山門(重文)....寛永九年(1632)、天海僧正による建立で山内最古の建造物

重厚な山門と右に接続して小建築の番屋が建つ
 
冠木の上の斗供には、表に龍と虎、裏に唐獅子の彫刻を配す....棟木を支える蟇股に寺紋を配す
 
山門の左右に築地塀の袖塀....番所側の袖塀に通用門がある/山門傍境内に佇む宝暦十一年(1761)造立の石燈籠

山門右手に接続して建つ切妻造桟瓦葺で起屋根の番所....一軒疎垂木、大棟に鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股

番所は間口八尺、奥行二間半の小建築で県内に残るだた1棟の遺構

入母屋造銅板葺の慈恵堂(本堂)....寛永十六年(1639)の建立で、慈恵大師と不動明王像を祀る

正面軒下に五色幕が張られた慈恵堂は前方一間の向拝に間仕切りされ、奥に三間の外陣と二間の内陣がある
 
中央間に両折両開の連子風窓飾り付き桟唐戸、上に「潮音殿」の扁額/宝形造銅板葺で四方に蕨手装飾を設けた覆屋に常香炉

正面九間、側面六間で、脇間は全て腰高格子戸
 
周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす....慈恵堂前には離れて舞台のような造りになっていて、橋で慈恵堂と繋がっている/前方一間の向拝(通路)に鎮座する賓頭盧尊者....十六羅漢の第一尊者

慈恵堂の左側面は前一間が腰高格子戸、他五間が板扉....左縁に格子の脇障子がある

大棟端に獅子口、拝に三ツ花懸魚、妻飾は虹梁笈形付大瓶束

慈恵堂と庫裏を結ぶ渡廊下から眺めた慈恵堂の右側面....軒廻りは二軒繁垂木、組物は刳り形舟肘木
 
入母屋造銅板葺の庫裡(重文)....左奥は庫裡と本堂への渡り廊下の間にある広い間口の玄関/庫裏の玄関前の植栽の中にある水琴窟と傍に佇む石燈籠

書院の西側に広がる「遠州流庭園」(枯山水曲水の庭)....書院(重文)は「春日の局化粧の間」と呼ばれる....寛永十六年(1639)の建立で、江戸城紅葉山御殿からの移築
 
客殿側から眺めた書院と客殿と庫裡の間にある石を配した坪庭....左奥の半鐘が下がる建物が書院、右手は庫裡
 
客殿の槫縁の縁側から眺めた南側の庭....右手に枝垂れ桜、その奥に紅葉山庭園が広がる/三代将軍徳川家光公お手植えの枝垂れ桜(二代目)

玄関から眺めた庫裡....寛永十五年(1638)の建立で、江戸城紅葉山の別殿が移築された

入母屋造杮葺の客殿(重文)....寛永十五年(1638)の建立で、江戸城紅葉山の別殿が移築された

桁行8間梁間5間で、12畳半が2部屋、17畳半が2部屋、10畳が2部屋あり、中に家光公専用の湯殿と厠とがある

桁行8間は全て引戸で、板戸と内側に腰高明障子、縁側は榑縁....庭園の木立の中に擬宝珠欄干を設けた丹塗りの太鼓橋(反橋)がある

客殿は三代将軍家光公が生まれた建物から「家光公誕生の間」と呼ばれる

「紅葉山庭園」越しに眺めた客殿

本堂後方の渡り廊下から眺めた庫裡と本堂を繋ぐ桟瓦葺の渡り廊下....少し高い建物には欄干付の腰掛があり「紅葉山庭園」や客殿を眺められる

本堂後方の渡り廊下に下がる半鐘越しに眺めた庫裡・寺務所







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金乗院-(3) (所沢)

2019年08月22日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】奥之院五重塔から少し下ると、雛壇式墓所を囲む龍を乗せた塀の外に南方仏教系の白亜の釈迦堂が建ち、正面のガラス張りの花頭窓の中にタイで拝観したことがあるエメラルド釈迦像が鎮座している。 雛壇式墓所に入ると、最上部にこれも白亜の玉佛殿が建つが、頂部に五重層塔を頂くドーム状屋根でチベット仏教のラマ塔のような造りだ。 玉佛殿にも花頭窓の中に釈迦像が鎮座するが、笑みを浮かべた白いお釈迦様は唇に赤い彩色が施され人間臭いお顔だ。 案内板には「日本で初めてビルマからのお釈迦様です」とある。
たくさんの地蔵石仏が鎮座する雛壇式墓所を下り、本堂に向かって左手に鎮座する七福神堂・開山堂に向かう。 周囲に龍を乗せた塀を巡らせた基壇上に、彩色された装飾彫刻を施した重層の七福神堂と簡素な開山堂が並んで建つ。 覆屋のような造りの七福神堂には厨子のような唐破風の御堂が置かれ、御堂内に主尊の布袋尊像、左右と後方には御堂を護るかのように七福神立像が鎮座している。
開山堂は、円光を背負った地蔵石仏が真ん中に置かれた台座に鎮座しているだけで、周囲の壁と天井に所狭しと.....千社札が張られている。 地蔵尊像のお顔が横を向いているが、「弘法大師入滅時に振り返って見送っている姿」とのこと。 気になったのが横を向いているお顔で、躰部と色目が違うので、多分、後補だろうと思う。
本堂境内から道を挟んで閻魔堂が建ち、腰高格子戸を通して中を覗くと、優しいお顔の閻魔様が白い歯を見せて鎮座している。 閻魔堂境内の一段高い所に鐘楼堂が建つが、2本の鐘撞棒が設けられていて、片方は朝夕6時に自動的に打つようになっているとのこと....鐘を撞くのはお坊さんの修行の一つと思うが、多忙なのかな?
古刹の金乗院に南伝仏教系の伽藍や仏像などがある不思議なお寺で、どのような繋がりがあるのかあれこれ想像しながら西武球場前駅に向かった。

奥之院五重塔から雛壇式墓所(水子霊場)に向かって少し下ると石燈籠と釈迦堂がある

雛壇式墓所を見下ろすように本堂に向かって南方仏教系の白亜の釈迦堂が建つ

屋根四面の入母屋破風の中の花頭窓にそれぞれ金色の釈迦像が鎮座....堂前の中国風の常香炉は本堂や五重塔前のものと同じ造りだ

釈迦堂正面の花頭窓の中に鎮座する釈迦像....タイで拝観したことがあるエメラルド釈迦像のようだ

雛壇式霊場を囲むように設けられた龍を乗せた塀越しに眺めた釈迦堂

雛壇式霊場に向かって左手の木立の中にある「合同句碑の丘」....昭和五十八年(1983)から句碑・歌碑が奉納された
 
雛壇式墓所内の最上部に鎮座するパコダ形式の玉佛堂/霊安堂の上に立つ仏塔と水子地蔵尊像

屋根がチベット仏教のラマ塔造りの白亜の玉佛殿

伏鉢形屋根に五重の相輪を立てた玉佛堂

日本で初めて南伝仏教の国のビルマ(現ミヤンマー)から来られた白いお釈迦様

本堂に向かって左手の龍を這わせた塀を設けた基壇上に鎮座する七福神堂(右)と開山堂

入母屋造本瓦葺風銅板葺で重層七福神堂....軒廻りは上層が一軒疎垂木で下層は二軒疎垂木....大棟に層塔と4頭の龍が乗る
 
慶長年間(1596~1615)に唐僧により招聘された布袋尊像を祀る正面前後が唐破風の御堂/梁と丸桁の間、木鼻、持送、柱などに彩色された絢爛な装飾彫刻が施されている

七福神堂の横と後方に鎮座する七福神像....後方の3像は中央が布袋尊、右が福禄寿、左が毘沙門天

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の開山堂....元禄年間(1688~1704)に高野山から引導地蔵が紹来された

開山堂の軒廻りは二軒吹寄垂木、四方の小長押の上と丸桁の下に彩色された彫刻が施されている

堂内の蓮華座に円光を背負い錫杖と宝珠を持って鎮座する地蔵尊坐像....顔が横を向いてるのは、弘法大師入滅時に振り返って見送る姿とされる

切妻造堂板葺で妻入の勢至堂(右)と天女稲荷大明神....真ん中に置かれた手水鉢は天明二年(17182)、石燈籠は天保四年(1833)の造立

文化三年(1806)鎮座の勢至堂(住吉大明神)の精緻な彫刻群....特に鳳凰の懸魚と水引虹梁の龍が見事

入母屋造銅板葺の閻魔堂....享保年間(1716~1736)の創建で、昭和三年(1928)に改築

宝暦十一年(1761)造立の石燈籠越しに眺めた閻魔堂....脇間の欄間に地蔵尊と観音菩薩の額絵馬が掲げられている
 
正面中央間は腰高格子戸で脇間は格子窓/閻魔堂内に鎮座する閻魔大王坐像

閻魔堂境内の一段高い所にある鐘楼堂

宝形造銅板葺の鐘楼堂....安永二年(1773)の建立、左側の鐘撞棒は朝夕6時に自動的に打つようになっている....石燈籠は宝暦十一年(1761)造立

格天井から吊り下げられた昭和四十九年(1974)鋳造の梵鐘....初代梵鐘は大戦末期に供出

仁王門前の道路を挟んだ向かい側の弁天池に鎮座する弁天堂....入口の石灯籠は正徳二年(1712)の造立

朱塗りの擬宝珠欄干付き反橋の奥に鎮座する弁天堂
 
切妻造銅板葺の弁天堂....寛政三年(1791)建立....向拝は鬼板を乗せた唐破風屋根、扉は桟唐戸で上小壁、左右に小脇羽目/弁天堂境内に佇む頂部に三面像を乗せた石柱
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金乗院-(2) (所沢)

2019年08月18日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】本堂に向かって右手に、築地塀で囲まれた本坊と大きなアーチ形屋根だけの建造物が並んで建つ。 アーチ形屋根の建造物は、法要殿前に設けられた駐車場のようだが、古刹にはまったく不似合いだ。 「山口観音金乗院本坊」の聯が掲げらられた門をくぐると、左右に小石を敷きつめた枯山水のような庭がある。
本堂の右側を奥に進むと、本堂後方に雛壇式の大きな墓所があり、多くの地蔵菩薩像が整然と鎮座、雛壇最上には樹林を背にして白いドーム屋根の南方仏教系の御堂がある。 更に進むと、樹林の中に燦燦と日を浴びている大日堂が建ち、堂前には「弘法大師の閼伽水」といわれる湧き水が湧いていて、赤子を抱く観音様が傍で閼伽水を護っている。 大日堂左手の奥之院への参道の脇に、石造り仏龕の中に鎮座する八体の干支の守護仏が鎮座....自分の守護仏である虚空蔵菩薩に合掌して先に進む。
守護仏の先に、奥之院への石段があり、石段下の真ん中に基礎に精緻な龍の彫刻を施した石燈籠が立つ。 石段の手摺りには、頭を下にした龍像を這わせていて、まるで奥之院から降りてくる下り龍が参詣者を迎えているようだ。
長い階を上っていくと、左上に朱塗りの五重塔が現れる。 境内の一番高い所に鎮座する奥之院八角五重塔は、中国風の塔容で、中国の古刹巡りで観た塔を思い起こさせる。 五重塔の傍に、入口に「西国三十三番札所 元禄三年開基」と刻まれた「仏国窟」があり、窟内に入ると、片側に浮き彫りされた諸仏の石仏がひっそりと鎮座。 反対側には諸仏と向かい合うように小さな修行僧像がたくさん並んでいるが、弘法大師空海だろう。
ひんやりした「仏国窟」を抜けると牌坊のような朱塗りの大きな門が立ち、門前は狭山湖と多摩湖の間を走る一般道だ。 奥ノ院は通常、境内の一番奥深い所に鎮座しているものだが、一般道に面し、しかも門を構えている奥之院は珍しいかも。

昭和五十四年(1979)建立の法要殿....元禄二年(1689)建立の通夜堂の跡地に建てられた....手前右の石燈籠は宝暦十一年(1761)の造立で増上寺から移築

本堂右手の2本の定規筋が入った築地塀に囲まれた本坊....入母屋造桟瓦葺で妻入(と思う)、大棟に鳥衾付き鬼瓦が乗る

唐破風の本坊玄関....屋根に「輪違い」の紋を入れた鬼板、兎毛通は変形の猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、水引虹梁上に掘り窪めた中に花の彫刻を施した大きな板蟇股が乗る

小石を敷き詰めた本坊の前庭
 
石や石燈籠を配した前庭は枯山水のようだ              錆びた鉄製のような雪見燈籠

本堂後方の龍が這う塀で囲まれた雛壇式墓所は水子霊場....舟光背型地蔵石仏の墓石群がずらりと鎮座、上部の白いドーム屋根の建物は玉佛堂

雛壇式墓所右手の木立の参道を進むと大日堂が建つ

宝形造銅板葺の大日堂....平成十一年(1999)の建立で、本尊大日如来像を祀る
 
観音菩薩像が鎮座している所の湧水は、弘仁年間(810~824)から「弘法大師の閼伽水」といわれる

大日堂境内に大日堂を向いて鎮座する八体守護仏....舟形に掘り窪めた中に諸仏が鎮座

干支の守護仏....12支の方向に8体の佛が鎮座.....一番手前は子年(北)の千手観音菩薩
 
大日堂境内から奥之院への石段....両側に下に頭がある下り龍のような手摺りを設けている/石段下に佇む大きな石燈籠....基礎に大きな龍像、中台に十二支、火袋に獅子像を施している

大日堂境内から奥之院への石段....両側に頭を下にした奥之院からの下り龍のような手摺りがある

龍の手摺り越しに眺めた八角五重塔

鉄筋コンクリート製の奥之院五重塔....平成十一年(1999)落慶(開基は嘉永元年(1848))
 
高さ2メートルの基壇上に建つ中国風の奥之院五重塔........塔内に千躰の観音菩薩像を安置されていて千体観音堂とも称す/五重塔前の中国風の常香炉は本堂前のものと酷似

五重塔の脇にある仏国窟....石造入口枠に「西国三十三番札所 元禄三年開基」の刻、手前に立つ「四国八十八ヶ所霊場 昭和五十年開基」の標石

仏国窟の中に鎮座する浮き彫りの諸石仏と沢山の小さな空海修行像(と思う)が対面している
 
宝珠光背型如意輪観音菩薩像2体と千手観音菩薩像

仏国窟の出口から見上げた五重塔....最上重の屋根の軒廻りは二軒繁垂木

奥之院に建つ牌坊のような棟門造りの朱塗りの門....門前の石燈籠は宝暦十一年(1761)の造立
 
貫の中央に釈迦像が鎮座する奥之院の門越しに眺めた五重塔/初重から四重は屋根と組高欄付き縁が一体化、各軸部に板唐戸と盲連子の窓が交互に設けられている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金乗院-(1) (所沢)

2019年08月14日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】寺伝では、平安時代の弘仁年間(810~824)、奈良の高僧・行基によって創建されたとされる。 正式な寺号は吾菴山金乗院放光寺で、この辺一帯の古い地名・山口から山口観音として崇高を集めた。
鎌倉時代末期、新田義貞が鎌倉を攻める際にこの寺に戦勝祈願をしたという。 また、鎌倉攻めにお供をした馬が、後生はこの地で余生を送ったとされる。 安土桃山時代の天正十九年(1591)、寺領10石の朱印状を拝領したとされる。 宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は千手観音像。 武蔵野三十三観音霊場13番札所、狭山三十三観音霊場初番札所など。

不動寺から、近くに鎮座する金乗院に向かう。 道を跨ぐ「山口千手観音」と朱書きされた白いゲートを通して遠望すると、少し霞んだ樹林から頭を出している五重塔がえる。
「増上寺」の刻がある大きな石灯籠が置かれた南北朝時代創建の仁王門に着くと、筋骨隆々だが少し腹が出ている感じの仁王像が迎えてくれる。 道を挟んだ門前には弁天様を祀る弁天池があるが、最後に拝観することにして仁王門をくぐる。
直ぐ後方の石段を上りつめると、道を挟んで義貞霊馬堂と手水舎が建ち、その奥に、丘陵に向かって堂宇境内が広がる。 義貞霊馬堂には、新田義貞の鎌倉攻めでお供した白馬像が祀られていて、正面に張られた五色幕の中に少し漫画チックな白馬が顔を見せている。 手水舎後方の石垣に沿って幾つかの石造物が並んでいるが、その中に笠を乗せた単制六面石幢があり、六面に六地蔵尊像が浮き彫りされていて興味深い。
十段ほどの階を上がると、「増上寺」刻の石灯籠と回向柱、そして回向柱の傍に龍の装飾を施した唐様の常香炉があるが、本堂から少し離れた所に置かれているのが少し気になった。
周囲に縁を巡らした小棟造りの本堂は丹塗りで荘厳さが漂うが、少しゴチャゴチャした感があって落ち着かない。 向拝の軒先に下がる鎖樋の下の天水桶の姿に驚いた。 石塊の中に十数本の石柱を縦に円状に並べただけの桶(?)で珍しい。 「圓通殿」と読める扁額が掲げられた中央間から堂内に....内陣と外陣は硝子入りの格子で仕切られ、「五七桐」と「輪違い」の紋を入れた幕が下がる格子から内陣を覗いたが、よく見えずだ。

入母屋造桟瓦葺の仁王門....南北朝時代貞治三年(正平十九年)(1364)の建立(昭和九年(1934)改築)
 
珍しい造りの軒下....突き出た梁に軒天井を設け、梁の先に丸桁を乗せている、また組物がない
 
仁王門脇間の格子の中に鎮座し、仏敵の侵入を防いでいる仁王像....少し腹が出ているが力強い姿だ
 
仁王門前の石燈籠は正徳二年(1712)の造立/仁王門後方の石段下の両脇に鎮座する六地蔵尊像....全て享保三年(1718)の造立

仁王門から40段ほどの新しい階を上り詰めると一般道を挟んで本堂境内がある

切妻造銅板葺の手水舎....大棟端には「卍」を入れ大きな鳥衾を乗せた鬼板
 
手水舎は二軒繁垂木で拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、組物は出組で中央に詰組、木鼻は江戸期の唐様

切妻造本瓦葺の義貞霊馬堂....建立年代不詳(平成十一年(1999)改築)
 
参詣者を迎える新田義貞の霊馬像....鎌倉攻め時にお供した馬で、後生はこの地で余生を送った

本堂境内の石垣の前に建ち並ぶ石碑・石仏などの石造物群
  
笠を乗せた単制六面石幢....文化七年(1810)造立で、六面に六地蔵尊像が浮き彫り/安永九年(1780)造立の丸彫りの地蔵尊石仏/元禄十一年(1698)造立の舟光背型地蔵石仏

10段の階を上ると直ぐ石燈籠と回向柱が立ち、正面に本堂が鎮座

小棟造りの寄棟造銅板葺の本堂....宝暦十二年(1762)の建立、本堂前の石燈籠は正徳二年(1712)造立で増上寺から移築されたもの
 
六注銅板屋根の唐様の常香炉....屋根に6頭、側部に2頭の龍像を施し、炉体と脚部に龍の顔が配されている (同様の常香炉が各堂宇の前に置かれている)/向拝の軒下に下がる鎖樋の下の天水桶は、石塊に十数本の石柱を縦に円状に並べた珍しい形

三間の向拝の方柱上に出三斗、水引虹梁上に格狭間風に彫り窪めた板蟇股が乗る....向拝に大きな鰐口が下がる
 
本堂内陣に行基作の本尊千手観音菩薩像を安置....扁額の書は「圓通殿」は?/外陣と内陣が格子で仕切られ、「五七桐」と「輪違い」の紋を入れた幕が下がる....欄間に大きな額絵馬が掲げられている

軒廻りは三軒繁垂木、組物は出組で中備は蟇股、黒塗りの軒支輪がある

大きな鰐口が下がる向拝から眺めた本堂前境内....建物は左が義貞霊馬堂で右は手水舎
 
参詣者から鰐口の大きさが分かる/本堂周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

本堂後方の欄間に多くの額絵馬、周囲の板壁にマニ車が取り付けられている.....中央に裏観音が鎮座
 
ネパール製のマニ車は「プレイグベル」(祈願用の鐘)と呼ばれ、本堂周囲に108個ある/本堂後方にある「裏観音の由来」の説明板....藤原時代作の本尊と同じ像容の観音菩薩像を祀っている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不動寺-(4) (所沢)

2019年08月10日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】羅漢堂から弁天堂への参道を進むと、右脇に聖観音立像が鎮座する鐘楼が建つ。 近づいて見ると、鐘撞棒側の左右の柱に詩歌を書した高札風の聯が下がっている。 平安後期の歌人でもある僧の寂然法師と西行法師の詩歌だそうだ。 鐘撞棒の反対側に小さな厨子が置かれていて、中に聖観音菩薩立像が鎮座....ガラス越しに鐘をつく参詣者を見守っている。
鐘楼の少し先に、赤い帽子と前垂れをした小さな地蔵像が立ち、周りに幾つかの古い石仏などが鎮座している....が、何故か、多くが下3分の1ほどが地中に埋もれている。
石仏群の少し先に、六注造本瓦葺の弁天堂が南面で建つ。 弁天堂は、江戸初期に滋賀県清凉寺山内に建てられた経蔵、また本尊の弁財天像は、上野不忍池弁天堂から遷座されたもの。
弁天堂から晴明閣と呼ばれる書院がある境内北側への参道を下る。 書院前の広い芝生の庭の片隅に、植栽に隠れるように石造りの宝塔がひっそりと佇む。 多宝如来像か法華経が納められていたはずの軸部の扉部が無残に壊され、扉部周囲の一部が破損している姿は、まるで放置されているようで残念。 宝塔から山中の窪地に建つ丁子門の屋根が見える。
本堂裏の北側の石段を下ると、三代将軍徳川家光が建てた丁子門が鉄柵に囲まれて建つ。 平唐門形式の丁子門は、唐様を基調とした造りで豪華な彩色装飾が施され、徳川家の家紋「三つ葉葵」が丸桁や頭貫、軒丸瓦や飾金具などに散りばめられている。 みると、丁子門の傍に一対の石人像が本堂を向いて鎮座している。 第二多宝塔の隣の康信寺が旧孔子廟で孔子他の聖像を安置していること、また像容から、石人像は孔子の弟子の翁仲とみられる....とはいえ、家光が建てた丁子門の傍に翁仲の石人像があるのは場違いなのではと思ったが....。

切妻造本瓦葺の鐘楼....京都高田寺からの移築(元は奈良興福寺に建立されたもの)
  
賽銭箱が置かれた鐘楼の柱に掲げられた寂然法師の詩歌....右側の柱には西行法師の詩歌が/六字名号、二頭の龍、飛天などが施された梵鐘/鐘楼内の厨子に鎮座する聖観音立像

弁天堂参道に佇む石燈籠越しに眺めた鐘楼と石仏群

像の下3分の1が地中に埋もれた石仏たち
  
舟光背型の如意輪観音石仏/如来石仏/蓮華座上の月輪に阿弥陀如来の種子が刻まれた板碑

石仏群の前から眺めた弁天堂

六注造本瓦葺の弁天堂....万治二年(1659)~元禄六年(1693)の間に滋賀県清涼寺山内に建てられた経蔵....本尊は上野不忍池弁天堂から遷座した弁財天像を祀る

周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らせた六角堂....長押の上に連子子を入れた欄間

扉は連子格狭間を入れた桟唐戸で内側に格子戸....「弁財天」の扁額が掲げられている

軒廻りは二軒扇垂木、組物は出組で組物間に禅宗様の詰組、また組物と詰組の間に脚間に彩色した彫刻を配した蟇股

切妻造桟瓦葺の書院(晴明閣)....創建後の昭和五十二年(19777)の建立....左手に大きな石灯籠が立つ

院(晴明閣)の広い芝生の庭隅に壇上積基壇に佇む宝塔
 
塔身の一部が開いているが、多宝如来像か法華経が納められていたとみられる

宝塔越しに見下ろすように眺めた平唐門形式の丁子門の屋根

切妻造本瓦風銅板葺の丁子門(国重文)....寛永九年(1632)、徳川三代将軍家光により崇源院霊牌所の通用門として建立

丁子門は切妻に唐破風を設けた平唐門

二軒繁垂木で唐様を基調とした造りと装飾....頭貫に「三つ葉葵」の紋を配す
 
両側面の花頭窓の窓枠に「三つ葉葵」を配した金具を施す、装飾を施した虹梁の上に大瓶束が乗る/扉は連子を入れ装飾金具を施した桟唐戸

正面頭貫の上に渦紋を入れ彩色された2つの蟇股が乗る....垂木先端や垂木を支える丸桁に三つ葉葵を配し、丸桁に精緻な装飾文様

境内の中から眺めた丁子門....正面の左手に一対の石人像が佇む
 
一対の石人像は、康信寺が旧孔子廟で孔子他の聖像を安置、また像様が唐様であることから孔子の弟子の翁仲とみられる(翁仲は文武両道兼ね備えた人物から文人像と武人像か)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不動寺-(3) (所沢)

2019年08月06日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】桜井門から第二多宝塔に戻り、第二多宝塔の斜め前の少し高い位置に鎮座する大黒堂に。 大黒堂は万葉集の代表的な歌人・柿本人麻呂ゆかりの地である元奈良極楽寺に建立されていた「歌塚堂」で、本尊の大黒天像は東京上野寛永寺(見明院)から遷座されたとのこと。
大黒堂の後方に見事な唐金燈籠が整然と立ち並ぶ羅漢堂の境内があるが、高い玉垣で囲まれていて立ち入り禁止だ。 羅漢堂は、明治の元老・井上馨が東大寺二月堂を模して屋敷内に建てたもの。 唐金燈籠は台徳院(徳川二代将軍秀忠公)の霊廟から移築されたものだが、全国の大名が徳川家に献納したもので、徳川家の権力の凄さをまざまざと見せつけられている感じがする。
シートのような黒い敷物が敷かれた羅漢堂境内には、まだ空きスペースがあり、ところどころにブロックが置かれているので、今後もさらに唐金燈籠が据え置かれるものとみられる。

第二多宝塔の前から眺めた大黒堂、左の参道奥に桜井門がある

入母屋造本瓦葺の大黒堂....本尊の大黒天像は東叡山寛永寺の見明院に安置されていた

大黒堂は歌聖柿本人麻呂ゆかりの地である元奈良極楽寺に建立されていた「歌塚堂」を昭和三十八年(1963)に移築

三面四方で正面は全て格子戸、周囲に切目縁を巡らす....長押の上は全て白い小壁
  
水引虹梁の中央の上に乗る本蟇股/大棟端に鳥衾付き鬼瓦、拝に独自の懸魚、妻飾は虹梁大瓶束/大黒堂前庭の植栽の中に佇む石燈籠

軒廻りは一軒繁垂木、組物は長い柱上に舟肘木で中備は正面中央間のみに本蟇股....側面二面に連子窓、他は全て白壁

大黒堂の向拝越しに眺めた第二多宝塔

切妻造銅板葺の羅漢堂山門....昭和二十九年(1954)、虎ノ門にあった生糸商人・田中平八郎邸から移築
 
羅漢堂山門の扉は「三つ葉葵」の紋を配した桟唐戸/山門は銅板の起り屋根で、支えの柱を設けた棟門

山門傍から眺めた南面で建つ羅漢堂の境内
 
唐破風の向拝は桜の文様を入れた鳥衾付き鬼板を乗せ、兎毛通は猪目縣魚....頭貫の真ん中に、脚間に龍の彫刻を施した本蟇股/虹梁の上には両側に絵様彫刻を配した大瓶束....大瓶束と結綿に彫刻が施されている

羅漢堂は明治の元勲・井上馨が東大寺二月堂を模して屋敷内に建てたものが寄贈され移築された

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺風銅板葺の羅漢堂....明治二十八年(1895)建立

羅漢堂は三間四方で、正面の中央間に桟唐戸、両脇間に花頭窓を配す

羅漢堂境内は高い玉垣で囲まれていて立ち入り禁止に

玉垣の間から眺めた羅漢堂の境内....境内には黒いシートのような敷物が敷かれている

羅漢堂の軒廻りは二軒繁垂木で組物は二手先

見事に立ち並ぶ唐金燈籠群....元東京芝の徳川家旧台徳院(徳川二代将軍秀忠公)の霊廟から移築(全国の大名から献納されたもの)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不動寺-(2) (所沢)

2019年08月02日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】芝増上寺の徳川家霊廟から約千基の石燈籠・唐金燈籠が西武所有地に運ばれ、暫くの間、野積みされていたが、不動寺建立時に境内に配置された。 また、石燈籠の一部は、西武球場建築時に希望者に配布されたようで、近くに鎮座する金乗院の境内でも見ることができる。
徳川家霊廟や参道を囲んでいた石灯籠は、諸藩主や家臣などにより寄進されたもので、寺号(増上寺)、法名(清揚院殿圓誉天安永和大居士等)、造立年(寛永年間や宝永年間のものが多い)などが刻まれている。

本堂の東側に、高槻市畠山神社から移築された戦国時代建立の多宝塔が建つ。 第一多宝塔と称され、細部意匠や装飾に桃山期の特徴を有するバランスのいい塔だ。 しかし、正面の板唐戸の施錠に今風の「南京錠」が用いられているのにはがっかりした。 貴重な遺構に対する配慮が欲しいものだ。
多宝塔の後方に隠れるかのように、相輪を失った青銅(唐金)製の宝塔がひっそりと佇んでいる。 この宝塔は、三代将軍徳川家光の側室で五代将軍綱吉の生母・桂昌院お玉の方の供養塔ということで感慨深い。
総門前の緩やかな登りの参道を進み、もう一つある多宝塔に向かう。 境内の西側に、緑樹に囲まれて康信寺と室町時代建立の第二多宝塔が東を向いて並んでいる。 康信寺は銅板葺の吹き放ちの裳腰と大きな唐破風の向拝を設けているが、桟瓦葺の身舎に対してなんとなく造りに違和感があり、異なる建物を合体させたものであろうと思われた。 腰高格子戸の格子の間から覗いて、来迎印を結んで鎮座する本尊阿弥陀如来立像を拝観した。 康信寺は旧孔子廟のため孔子・孟子・子思子の3聖像も安置しているらしいが、格子戸からは....。
緑樹を背にして建つ第二多宝塔も室町時代の建立で趣があるが、第一多宝塔と同じように桟唐戸が今風のワイヤー式の鍵で施錠されていて残念。 第二多宝塔前から北に延びる参道奥に桜井門が小さく見えるが、参道の両側に重厚な石燈籠が立ち並ぶ光景は実に壮観だ。

本瓦葺の第一多宝塔....戦国時代の弘治元年(1555)、美濃国林丹波守が高槻市梶原の畠山神社(神仏分離により元の梶原寺から分離し神社に)建てたと伝わる(上層屋根の隅木に慶長十二年(1607)の墨書がある)

増上寺から移築された石燈籠越しに眺めた第一多宝塔
 
左の本堂基壇傍に建ち並ぶ石燈籠群は寛永二年(1625)と七年(1630)および宝永二年(1705)と七年(1710)の造立/多宝塔前に佇む2基の石灯籠は寛永九年(1632)の造立

下層は中央間が板唐戸で、両脇間は盲連子窓、周囲に切目縁を巡らす

石燈籠越しに眺めた多宝塔....軒廻り上下層共二軒繁垂木

廻高欄付き縁がある上層の組物は四手目が尾垂木の四手先、支輪と軒天井がある

下層の組物は二手先で、中備は中央に脚間に彫刻を施した本蟇股、脇間に蓑束
 
第一多宝塔の後方にひっそりと佇む青銅製の宝塔

青銅(唐金)製の桂昌院お玉の方宝塔....桂昌院は江戸幕府3代将軍家光の側室で5代将軍綱吉の生母
 
三段基壇上に格狭間を入れた基礎、笠上の相輪は失われているようだ....軸部四方に扉型(但し、1つは開放され板でふさがれている)/斗型に牡丹のような花模様、首部に平三斗が並び首部上の斗型に蓮華な円形に並ぶ....軸部三方には法輪文様を配した桟唐戸

境内の西側に鎮座する第二多宝塔と康信寺

「忠孝」の石碑越しに眺めた康信寺(旧孔子廟)....寺号は西武グループ総帥の戒名「清浄院釈康信」から命名

入母屋造桟瓦葺の康信寺....正面と側面に吹き放しの裳腰を設け、大きな唐破風の向拝
 
獅子口が乗る銅板葺の唐破風の向拝....兎毛通は猪目懸魚、虹梁の上に大瓶束、水引虹梁の上に本蟇股が乗る....向拝天井は格天井/正面扉が腰高格子戸、両脇間に花頭窓

来迎印を結んで内陣に鎮座する阿弥陀如来立像....康信寺は旧孔子廟で孔子・孟子・子思子の3聖像を安置している

本瓦葺の第二多宝塔....室町時代の永享七年(1435)、播磨国守護赤松満男教康が兵庫県東條町天神の椅鹿寺に建立

細部にわたって室町中期の様式を伝える多宝塔....軒廻りは上層が二軒扇垂木で下層は二軒繁垂木
 
「忠孝」の石碑越しに眺めた第二多宝塔/第二多宝塔前庭に佇む火袋に「鷺」の文字が刻まれた石燈籠

下層の中央間は八双金具を施した板唐戸で両脇間は盲連子窓

下層の組物は二手目が尾垂木の二手先で中備なし、軒支輪がある
 
上層の組物は四手目が尾垂木の四手、軒天井がある/周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

櫻井門の参道に立ち並ぶ石燈籠は主に寛永七年(1630)造立のもの

切妻造本瓦葺の桜井門....奈良県十津川の桜井寺の山門....桜井寺の創建は天暦年間(947~957)
 
二軒繁垂木の透いた袖塀のある薬医門....本柱と控柱上に女木で支えられた男木を渡し、男木中央上の蟇股で虹梁を支え、虹梁の上の大瓶束で棟木を支えている


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不動寺-(1) (所沢)

2019年07月31日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・所沢市】昭和五十年(1975)、西武鉄道グループの元オーナー・堤義明が国有地を買収して造営した旧「ユネスコ村」の一角に、上野天台宗寺院・寛永寺の助力を得て建立した。
伽藍の堂宇は、本堂を除いて国内各地の寺社等から集められたものだが、特に、徳川家の菩提所である芝増上寺に隣接していた台徳院(第二代将軍徳川秀忠の霊廟)と崇源院(秀忠の妻・江の霊廟)から移築された三棟の霊廟門(勅額門・御成門・丁子門)は貴重な遺構。
台徳院・崇源院の堂宇は太平洋戦争で殆ど焼失したが、戦災を逃れた四棟の門の内の三棟(惣門は増上寺に残された)が徳川家墓所の改葬を機に移されもので、いずれも国指定の重要文化財。 宗旨は天台宗(別格本山)で、本尊は不動明王像。

終点の西武球場前駅から、小さな丘陵に鎮座する不動寺に向かう。 「別格本山 狭山山不動寺」と刻まれた寺号標石が立ち、門柱の奥に「台徳院」の扁額が掲げられた風格のある勅額門が建つ。 門の直ぐ右手には、御神木である銀杏の古木が聳える。
勅額門は、流石に徳川家旧台徳院の霊廟から移築された門らしく、至る所に三つ葉葵の紋が配されている。 頭貫・虹梁・組物などに彩色された彫刻が施され、中でも目を引くのが、本柱を繋ぐ貫の上の彩色された精緻な龍の彫刻だ。 勅額門を通して数十段ある石段の上に、煌びやかに装飾された御成門が見える。 この門も徳川家旧台徳院の霊廟から移築されたもので、珍しい妻入りで、金色の彫刻が施されていて勅額門を遥かに凌ぐ豪華絢爛な造りだ。 格天井の真ん中に設けられた丸い鏡天井に、二人の飛天が描かれていて印象に残った。
参道を進むと右手の階の上に大きな総門が建つが、威圧を感じさせるようで寺院に不釣合いの門だ。 この門は元長州藩主毛利家の江戸屋敷から移築されたものだが、関ヶ原の戦いで西軍について徳川家康の東軍と戦った毛利家の門が、徳川家旧台徳院の霊廟から移築された門などと同居しているのが面白い。
総門の先に、古建築らしさがない簡素な造りの本堂が建ち、本堂の基壇の周りに江戸初期に造られた太い竿の重厚な石燈籠が整然と並んでいて壮観だ。

県道55号線に架けられた陸橋から遠望した不動寺....左下に勅額門と御神木、途中に御成門、上に第一多宝塔と弁天堂の各屋根

勅額門の前に立つ「別格本山 狭山山不動寺」の寺号標石....案内板後方の瑞垣の中に聳える御神木は樹齢約500年の銀杏

門柱越しに眺めた勅額門....元東京芝の徳川家旧台徳院(徳川二代将軍秀忠公)の霊廟から移築

切妻造本瓦風銅板葺の勅額門(国重文)....寛永九年(1632)に徳川三代将軍家光が建立

二軒繁垂木、頭貫が2分割されそれぞれに出三斗が乗る....頭貫、内法貫、持送は刳り形が施されている

本柱の頭貫の上に彩色された精緻な龍の彫刻がある....後水尾天皇の筆とされる「台徳院」の扁額

彩色された彫刻が施された豪華絢爛な四脚門....垂木先端、丸桁、梁、組物、飾金具など至る所に三つ葉葵の紋が配されている

勅額門を通して眺めた急峻な石段の上に建つ御成門...元東京芝の徳川家旧台徳院(徳川二代将軍秀忠公)の霊廟から移築

切妻造本瓦葺で妻入の御成門(国重文)....寛永九年(1632)に徳川三代将軍家光が建立

多くの彫刻が施された絢爛豪華な御成門....軒廻りは二軒繁垂木で組物は出組
 
頭貫、台輪、梁の上に金色の花や煌びやかな飛天の精緻な彫刻が隙間なく配されている....全ての頭貫の下と全ての木鼻の下に刳り形の持送を設けている

破風板や懸魚や梁などに徳川家の三つ葉葵の紋が施されている

格天井の中央に飛天が描かれた丸い鏡天井が設けられている

花頭形の入口に飾金具を施した桟唐戸、両脇の壁には中央に丸に松と竹の文様を入れた花頭窓を設けている

切妻造本瓦風銅板葺の総門....元長州藩主毛利家の江戸屋敷から移築....武家屋敷の門にしては大きい
 
寺院の門とは構造がかなり異なる武家屋敷の門/門扉は隙間が広い連子を入れ、装飾金具を施した桟唐戸

総けやき造りで、案内板には「直線が巧みに組み合わされていて、いかにも武家屋敷の門に相応しく、清廉豪快で質素な中にも威風堂々としていて気品も高い」とある

宝形造銅板葺で鉄筋コンクリート製の本堂....平成十四年(2002)再建か....宝形造りだが頂部に露盤宝珠を乗せていない

宝永二年(1705)造立の石燈籠越しに眺めた本堂....京都東本願寺から移築された前の本堂(七間堂)は平成十三年(2001)の不審火で焼失
  
簡素な造りの向拝で、入口は硝子を入れた金属製の扉....入口に「狭山山不動寺」の扁額がある/内陣に鎮座する本尊の不動三尊像

仏画が描かれた屏風を背に鎮座する不動明王立像と眷属の2童子像

境内に立つ石燈籠は全て増上寺からの移築で、殆ど江戸初期に造立されたもの
 
本堂の基壇の周りに立ち並ぶ石灯籠は寛永二年(1625)と七年(1630)、および宝永二年(1705)と七年(1710)の造立
 
本堂前石段下にある擬宝珠を乗せた宝形造銅板葺覆屋の常香炉....側面の8つの膨らみを設け花文様の彫刻を入れた格狭間を配す/常香炉越しに眺めた第一多宝塔

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする