
定年間近い頃から始めた寺社巡りで、仏堂や社殿などで多くの龍像や龍画を拝観してきた。 最初は全く気にしていなかったが、京都東福寺の仏殿(本堂)の天井に描かれた天井画(蒼龍)を見ていて、龍の爪が3本しかないのが気になった。 その後、寺社向拝の水引虹梁の上の彫刻や天井画、襖絵、手水鉢の水口などで多くの龍を見てきたが、4本爪や5本爪もあるが、多くは3本爪だ。
以前、NET等で龍の由来や爪の数について調べたことがあるが、日本の多くの龍の爪が何故3本なのか腑に落ちる情報がなかったが、最近、古書店で見つけた本に、日本の龍の爪が3本である理由が記されていて目から鱗が落ちた。 その本によると、中国の華夷秩序のもとで属国とならなかった日本は、「夷狄」として蔑まされ、いちばん下に置かれていたため、3本爪の龍しか許されなかったとのことだ。 一方、属国として次の序列にあった朝鮮やベトナムなどの龍は、1本足りない4本の爪を用いることが許されていたとのこと。
再度NETで龍の爪の数について調べてみた。 古代中国では宋代までは龍の爪数は明確に定まっていなかったが、日本の鎌倉時代末期にあたる元代の延祐元年(1314)に「五爪二角」の龍文が皇帝専用の文様となり、以降、中国では皇帝以外の者による5本爪の龍の使用が禁止され、階級によって4本爪あるいは3本爪の龍が使用された。 室町時代以降、日本の注文を受けて中国から運ばれてきた龍の画や置物は、日本は3本爪という決まりだったので爪は3本しかなかった。 なお、奈良時代から鎌倉時代までは、時代によって少し違うが5本、4本、3本いずれの爪の龍がいた。
本を読んだ後、寺社巡りで撮り溜めた写真の中から龍に関するものを少し探してみた。 予想はしていたが、やはり仏堂や社殿の向拝の水引虹梁の上に配された龍の彫刻の写真が圧倒的に多い。 また、先日の産経新聞の社会面の『首里城の復元資料発見』という記事に、首里城正殿の玉座の背後を飾った龍の彫刻の下絵の写真が載っていたが、爪の数は4本だ。 調べたら、独立した王国として存在していた琉球王国は、日中両国と朝貢外交を行っていて、日本との外交では中央集権に使節を送り、薩摩藩に朝貢を行っていた。 他方、中国とは明王朝(元代の次の王朝/1368~1644)に朝貢外交を行って見返りに貿易が認められ、また皇帝から冊封を受けていたことから高い序列の4本爪の龍が許されたようで、興味深い。

△中国清王朝(1636~1912)の乾隆帝時代(1711~1799)造立の紫禁城(故宮)の九龍壁(北京市)....龍の爪は5本


△鎌倉時代嘉禎二年(1236)創建の東福寺(京都市東山区)の仏堂の天井画(冒頭写真の雲龍図)....「蒼龍」と呼ばれる龍の爪は3本

△鎌倉時代建仁二年(1202)創建の建仁寺(京都市東山区)の法堂の天井画(双龍図)....龍の爪は5本 <現双龍図は創建800年記念として小泉淳作画伯により描かれ、平成十四年(2002)に完成>

△鎌倉時代正応四年(1291)創建の南禅寺(京都市左京区)の法堂の天井画....龍の爪は3本

△鎌倉時代末期~南北朝時代初期の間に創建された宝福寺(岡山県総社市)の仏殿の天井画....江戸時代宝暦年間(1751~1764)の作で、龍の爪は3本


△室町時代天文四年(1535)創建の大樹寺(愛知県岡崎市)の手水鉢の水口....龍の爪は3本/古墳時代欽明天皇元年(540)創建の津島神社(愛知県津島市)の手水鉢の水口....龍の爪は3本

△室町時代応永十七年(1410)創建の国土安穏寺(東京都足立区)の仁王門の天井画....昭和以降の作で、龍の爪は5本

△平安時代弘仁年間(810~824)創建と伝える金乗院(埼玉県所沢市)の塀の上を這う龍....近年の造立だが何故か龍の爪は5本ではなく4本

△平安時代以前創建の船橋大神宮の摂社・大島神社の水引虹梁上の龍の彫刻....龍の爪は3本

△中国元代(1271~1368)創建の南山禅寺(中国福州市琅岐鎮)の六字名号が書された壁の上から飛び降りようとしている2頭の龍....龍の爪は4本

△南山禅寺の左側壁の龍

△南山禅寺の右側壁の龍


△創建不詳のドラゴン寺(Wat Samphran、タイバンコク)の僧坊に巻き付く龍....十七階(高さ約80メートル)のドラゴンタワーは1991年の建設で、龍の爪は5本 <左の写真は車窓から撮影、右はNETから拝借>
ご説明有難うございました。
建仁寺双龍図の制作時期の明記を失念しました。
鎌倉時代創建のお寺ですので、当時の双龍図を参考にして(模して?)制作されたため5つ爪で描かれたものではと思いますが。