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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

西大寺-(3) (岡山)

2021年05月06日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】西大寺は、日本三大奇祭の一つに数えられる有名な「会陽(裸祭り)」で知られる。 開山安隆上人が奈良東大寺から伝えた修二会(会陽・毎年2月の第3土曜日)がまわしを絞めた裸の男衆が宝木を奪い合う姿になったのは、室町時代の永正七年(1510)で、僧忠阿が修正会の結願の日に、守護札が欲しくて殺到した参詣者の頭上に守護札を投与したため、身体の自由を守るため裸になって守護札を奪い合ったことに始まるとされる。

◆5本の定規筋が入ったクリーム色の築地塀の間に、軒の出が深く威厳に満ちた鐘楼門が建つ。 上層の四方は格子壁で、正面の脇間に会陽の祝主と福男の名が書された大きな聯が掲げられ、中央間の開口部から天井に吊り下げられている梵鐘が見える。 「招福の鐘」と呼ばれる梵鐘は、高麗時代前期(10~11世紀)に朝鮮半島で鋳造された銅鐘で、日本に現存する朝鮮鐘の中で最大規模のものとのこと。
鐘楼門をくぐると、宝篋印塔や石燈籠が佇む静謐な庭があり、木々の奥に建つ横長の裳腰付き客殿は、壁や軒下を漆喰塗籠めとした白壁の身舎に大きな花頭窓がずらりと並んでいて優美だ。
客殿の左手に西大寺の末寺として唯一残った千手院の千手堂が建つが、大正時代の再建で正面の白壁に縦長の3つの花頭窓がある。 堂内に入ると正面に千手観音菩薩坐像が鎮座、両脇には千手観音を守護するように愛染明王坐像と不動明王立像の仏画が掛けられている。 千手観音菩薩坐像と仏画の上一面に大きな飛天の仏画、天井には龍や動物や花が描かれたカラフルで鮮やかな198枚の天井絵が配されている。
千手院を出て、境内のほぼ南に鎮座する福寿増長と厄難消除のご利益がある北向き地蔵尊と、その近くの恵比寿神社に参拝して西大寺を離れた。

△入母屋造本瓦葺の鐘楼門(国重文)....建立は仁王門や大師堂と同時期の延宝年間(1673~1681)と推測されている....両側に延びる築地塀に5本の定規筋が入っている

△軒の出が深い鐘楼門の二階に、会陽の祝主・福男の名が記された聯が掲げられている

△二階の回縁は組高欄付き切目縁で、縁を支える腰組は出組

△軒廻りは二軒繁垂木、台輪上の組物は拳鼻付き出組で中備は撥束、支輪がある

△二階側面の格子壁の中に花頭窓....中に「招福の鐘」と呼ばれる銅製の梵鐘が吊られている/梵鐘は「龍鐘」と呼ばれる朝鮮鐘で、高麗時代前期(10~11世紀)に朝鮮半島で鋳造....日本に現存する朝鮮鐘の中で最大の規模....もとは石門に吊られていたが明治に鐘楼門に移された

△客殿前に広がる庭に宝篋印塔や石燈籠などが佇んでいる

△裳腰を設けた入母屋破風の客殿の玄関

△入母屋造本瓦葺で身舎に裳腰を設けた客殿

△身舎に大きな花頭窓が並ぶ....裳腰は腰高格子戸と格子窓

△壁や軒下は漆喰塗籠め....大棟端と隅降棟端そして裳腰に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は白壁の素式

△客殿前庭に佇む苔生した笠に草が繁った石燈籠/大きな隅飾突起が反りかえり大きくひらいている....塔身四面の輪郭をつけた中に梵字を彫っている/縦長の笠、大きな蓮弁を施した中台が特徴の石燈籠

△入母屋造本瓦葺の千手院(千手堂)....大正十四年(1925)の再建で、11あった末寺の内で唯一残ったもの....屋根に千鳥破風を乗せている(NETから拝借)

△唐破風の千手院の玄関....梁の上に棟を支える雲文様彫刻がある笈形/千鳥破風は獅子口を乗せ、拝は蕪懸魚....鬼板を乗せた唐破風の兎毛通は松の彫刻

△千手堂の内陣に鎮座する千手観音菩薩坐像....左右に愛染明王と不動明王、上に飛天の仏画が配されている

△頂上に十一面をいただく千手観音菩薩坐像(像高2.5メートル)/天井にカラフルで鮮やかな天井絵198枚が張られている

△紅焔に燃える赤い日輪を背負って蓮華坐に鎮座する忿怒の形相の愛染明王坐像/猛炎を背負って瑟瑟座に鎮座する忿怒の形相の不動明王坐像

△切妻造桟瓦葺の北向地蔵堂....地蔵菩薩と舟光背形千手観音が合祀されている

△赤い帽子を被り前掛けをした北向き地蔵尊像と普陀山から奉納された西大寺本尊の御影を模した千手観音像....周囲の壁に三十三観音が祀られている

△北向き地蔵堂の南側(第一駐車場近く)に鎮座している恵比寿神社

△大きな石造り明神鳥居を構えた恵比寿神社

△千鳥破風を乗せた切妻造銅板葺の社殿....擬宝珠高欄付き縁を設けている/大棟端と千鳥破風にそれぞれ外削ぎの千木と堅魚木を乗せている

△社頭に鎮座する狛犬(右の阿形)            境内に立つ石燈籠は宝暦十年(1760)の造立
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西大寺-(2) (岡山)

2021年05月01日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】仙人(龍神)の霊告を受けた開山安隆上人は、犀角を鎮めた聖地に堂宇を建立し寺号を「犀戴寺」と称したが、後年、後鳥羽上皇の祈願文から賜って「西大寺」に改称した。
幾度か罹災して多くの文献を失ったが、室町時代永正四年(1507)作の『金陵山古本縁起』に依ると、鎌倉時代の正安元年(1299)に消失した記録の中に、本堂、常行堂、三重塔、鐘楼、経蔵、仁王門等を構えていた地方屈指の大寺であったことが記されている。 また古文書の中に、堂塔伽藍を護持する塔頭として成光寺、清平寺等の僧坊が散見し、後に観音坊と称する一宇が建ち、この坊舎がいつの頃にか西大寺一山の本坊となり、現在の観音院に変革した。

◆龍鐘楼と称する白亜の大きな石門は竜宮造りなので、竜宮城への入り口を思わせる。石門をくぐると、門前に石造りの明神鳥居が立ち、その先に身代り水垢離観音菩薩が鎮座している垢離取場がある。垢離取場では、裸祭りの2週間前から当日まで、心身を清める垢離取り修行が行われるようだ。
石門から大きな屋根の本堂に向かう。 本堂はどっしりとした重量感を漂わせる仏堂だが、前面の二間が広めの吹き放しの外陣になっているので、TV放映された激しい「裸祭り」の映像を思い起こすと、少し小さめの建物に感じた。
本堂の右手に外陣に向かって鎮座する普陀南海観音像に合掌して、牛玉所殿と奥殿が鎮座する境内に進む。 石燈籠が立つ境内の入口に聳える「活力の楠」と呼ばれる巨木が大きく枝を広げている。 鎮守の牛玉所大権現と金毘羅大権現を本尊として祀っている牛玉所殿は、拝殿・釣殿・本殿・奥殿からなる複合建築とされるが、奥殿は本殿の北側に独立して建っている。 後方に回って本殿の軒廻りと組物を拝観....二軒垂木なれど、地垂木が繁垂木で飛檐垂木が扇垂木となっていてわが国ではここだけに見られる珍しい軒だそうだ。 また組物は二手目が尾垂木の二手先で、組物間には禅宗様の詰組が配されている。
本殿北側に少し離れて建つ鎮守社の奥殿には、本尊の牛玉所大権現のご本体が祀られているが、社殿にしては極めて珍しい露盤宝珠を乗せた宝形造りで興味を引く。 また鎮守社の社頭には、眷属を従えた水かけ誓願不動明王像が鎮座していてここはパワースポットらしい。
牛玉所殿に向かって左側に、御神輿堂、薬師慈光殿、絵馬堂が建ち並んでいる。 絵馬堂の左隣の鎮座する水子地蔵に合掌してから千手院・客殿がある鐘楼門に向かった。

△水垢離行が行われる石門前の垢離取場からみた石門と石造り明神鳥居

△垢離取場に石門に向かって鎮座する身代り水垢離観音菩薩像/石門前に立つ石燈籠....安政三年(1856)の造立

△明神鳥居を通して眺めた石門は白亜の竜宮門

△下階は石造、二階は木造で、軒廻りは一軒扇垂木、周囲に格子入りの花頭窓、漆喰塗籠め、朱塗りの擬宝珠高欄付き縁を巡らす/二階側面に3つの変形花頭風の窓

△石門を通して眺めた三重塔

△正面五間側面六間の豪壮な本堂は総ケヤキ造りで、屋根は県下で最大級の大きさ....堂内に会陽(修二会)で「宝木」を投する御福窓が設けられている

△入母屋造本瓦葺の本堂....文久三年(1863)の再建

△本堂越しに眺めた三重塔と仁王門

△三間の広い向拝の水引虹梁の中央に大きな龍の彫刻が配されている

△軒廻りは二軒繁垂木、粽付き円柱上に粽を据え、組物は出組で中備なし、軒支輪がある/身舎の外の柱は粽付き円形柱

△大棟端に獅子口、拝は蕪懸魚、妻飾は大きな龍の彫刻を配した二重虹梁大瓶束/虹梁を出組で支え、支輪を設けていて珍しい

△本堂正面二間は板敷で吹き放しの外陣

△外陣の格天井に施された天井絵は四季の草花か?

△吹き放しの広い外陣....東側に観音菩薩像が鎮座、その後方は吉井川の堤防

△本堂外陣に向かって鎮座する普陀南海観音立像

△牛玉所殿・奥殿が鎮座する境内....境内に聳える薬の木と称される巨木「活力の楠」の左奥に稲荷社が鎮座

△牛玉所殿境内に聳える巨木「活力の楠」越しに眺めた稲荷社

△流造銅板葺の稲荷社....唐破風の向拝を設け、屋根に千鳥破風を乗せている/兎毛通は蕪懸魚、水引虹梁の上に2つの出三斗と蟇股が乗る....擬宝珠高欄付回縁の正面神使の狐が鎮座して守護している

△明治十三年(1880)建立の牛玉所殿....石燈籠は天明四年(178)の造立で、石燈籠前に百度石が佇む

△入母屋造本瓦葺の牛玉所殿

△唐破風の向拝は三間で、中央間の上に「牛玉所大権現」「金毘羅大権現」の扁額が掲げられている

△屋根に獅子口を乗せた千鳥破風、拝は蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束(と思う)/軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備なし、支輪と軒天井がある

△牛玉所殿後方(本殿?)の軒廻りは二軒垂木だが、地垂木が繁垂木で飛檐垂木が扇疎垂木という珍しい組合せ....組物は二手目が尾垂木の二手先、組物間に詰組、軒支輪がある

△牛玉所殿は拝殿・釣殿・本殿・奥殿で構成された複合建築(NETより拝借)

△宝形造本瓦葺の奥殿(鎮守社)....左奥に2本の楠が寄り添い立つ「和合の楠」が聳える....石燈籠は天保八年(1837)の造立

△奥殿には牛玉所大権現を祀る/水かけ誓願不動明王像...眷属の矜羯羅童子と制吒迦童子を従える(ここはパワースポットらしい)

△牛玉所殿に向かって左側に建つ奥から御神輿堂(牛玉所第権現&金毘羅大権現)、薬師慈光殿そして絵馬堂

△絵馬堂の左隣に鎮座する水子地蔵(子安地蔵)/絵馬堂に鎮座する神馬/薬師慈光殿(薬師堂)に鎮座する薬師如来坐像






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西大寺-(1) (岡山)

2021年04月27日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】寺伝では、奈良時代の天平勝宝三年(751)、周防国玖珂庄(今の山口県岩国市)に住んでいた藤原皆足姫が観音菩薩の妙縁を感じて金岡の郷に草庵を開基し、千手観音像を安置したのが始まり。
宝亀八年(777)、大和長谷寺で修行していた安隆上人が「備前金岡庄の観音堂を修築せよ」と夢にお告げを受けて、現在地に堂宇を建立したとされる。 お告げを受けた安隆上人は、藤原皆足姫の擁護のもとに海路を船で金岡の庄に向かうが、児島の槌戸ノ浦にさしかかった時、犀角を持った仙人(龍神)が現れて『この角を持って観音大師影向の聖地に御堂を移せ』との霊告を受けたとされる。
宗旨は高野山真言宗(別格本山)で、本尊は千手観世音菩薩像。 中国三十三観音霊場第一番札所、百八観音霊場(中国観音霊場、四国三十三観音霊場、九州西国霊場の3霊場の連携体)では第一番(本堂)・第二番(境内の南海観音)札所。

◆JR赤穂線の西大寺駅から観音院通りを南下し、途中から「会陽わっしょい通り」を東に進むと、路面に「はだかまつりのまち西大寺」と意匠されたマンホールの蓋を見つけた。 そこから狭い参道の奥に楼門が見える。
門前に擬宝珠欄干付き石造り太鼓橋を構えた三間一戸の仁王門で、両側の金剛柵の奥に金剛力士像が鎮座している。 県下最大級とされる仁王門は和様と禅宗様とを併用した造りで、珍しい四手先の腰組など組物を多用、台輪上の組物間の中備彫刻、回縁の逆蓮頭親柱、上端に粽を設けた柱、そして屋根上の渦巻状の鳥衾付き鬼瓦など装飾性があって大いに興味を引いた。
仁王門をくぐると緑が少ない本堂の境内が広がり、仁王門の傍に三重塔、高祖堂そして六角経蔵が建ち、正面には西面の仁王門に対し南面で豪壮な本堂が建つ。 本堂で参拝した後、仁王門に戻り、手水舎、高祖堂、三重塔そして経蔵を拝観。
三重塔は塔身と相輪のバランスがよく、均衡のとれた古式な塔で、安定したプロポーションを見せている。 組物は三層いずれも三手先だが、三手目の突き出た尾垂木がよく目立つ。 初層の中央間と脇間は、本堂側のみが格子窓と花頭窓で、他の三方は桟唐戸と連子窓だ。
白壁の六角造りの経蔵に入ると、江戸後期作の八注造りの回転式書架「輪蔵」が安置されている。 案内にしたがって輪蔵を時計回りにゆっくり廻し、廻しながら世の安寧を祈願してから吉井川の堤防沿いに建っている石門に向かった。

△仁王門参道の路面にある「はだかまつりのまち西大寺」と意匠されたマンホールの蓋....参道奥に仁王門が見える

△仁王門の門前に石造り擬宝珠欄干付太鼓橋と石造り擬宝珠付き透かし塀がある....太鼓橋は享和元年(1801)の造立....外観から石造り透かし塀も同時期の造立と推

△入母屋造本瓦葺で楼門の仁王門....元文五年(1740)の建立(伝)....和様と禅宗様を併用した県下最大級の楼門

△中央間の梁上に大瓶束、台輪上の組物間の中備に十二支の装飾彫刻が施されている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、親柱に逆蓮頭を乗せた高欄を支える腰組は四手先....全周の台輪上に精緻な彫刻が施されている

△正面中央に詰組があり、組物間の中備は脚間に十二支の彫刻を配した本蟇股、軒支輪がある

△大棟端に鯱、平降棟端と隅降棟端に鳥衾付き鬼瓦...鳥衾は長く伸び渦巻状の形/丸柱の頭部に粽を設けている

△金剛柵奥の小さな網目の金網の中に伽藍を守護する一対の金剛力士像が鎮座

△仁王門の右奥は祖師堂、左隣に手水舎がある

△切妻造本瓦葺の手身舎....右三つ巴が彫られた軒丸瓦が異様に大きい/口から清水を吐く龍の水口

△宝形造本瓦葺の高祖堂(御影堂・大師堂)....延宝年間(1673~1681)の建立で、延宝三年(1675)作の木造弘法大師像を祀る

△三間四方で軒の出が深い高祖堂....正面中央間は腰高の格子窓で脇間から入る扉は舞良戸

△扁額「高祖堂」は高僧・佐々南谷の書/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は彫刻を施した本蟇股....支輪全てに精緻な彫刻を施している

△仁王門越しに眺めた三重塔と石門

△本瓦藁の三重塔....延宝六年(1678)の再建で、塔内に胎蔵界大日如来を安置

△塔身と相輪のバランスがいい三重塔.....和様を基調としながら一部に禅宗様を取り入れている

△初層に擬宝珠高欄付き切目縁、二層三層に組高欄を巡らす

△初層は三面(南・北・西側)の中央間が桟唐戸で脇間は連子窓だが、本堂側(東側)は中央間に格子窓で脇間は花頭窓

△初層の軒廻りは二軒繁垂木で軒支輪と軒天井がある、組物は三手目が尾垂木の三手先....台輪上の中備は中央間が彫刻を施した本蟇

△二層三層の軒廻りはいずれも三手目が尾垂木の三手先、中央間にのみ蓑束の中備....組高欄付き縁を支える腰組は雲肘木(と思う)

△初層の本堂側(東側)は中央間が格子窓、両脇間は花頭窓

△六注造本瓦葺の経蔵....嘉永七年(1854)の建立で、中に膨大な経典を納める八面形回転式書架がある

△八注造りの輪蔵(回転式書架)....文化二年(1805)の造立、軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、2つの詰組がある

△回縁を支える腰組は四手先....回縁に突き出た突起部を押して左回転(時計回り)させながら祈願する




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備中国総社宮-(3) (総社)

2021年02月26日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・総社市】総社宮は明治五年(1872)に近代社格制度における県社に列せられ、終戦までは県の保護を受けた。 社格が廃止された戦後、神社は氏子崇敬者により維持され、各国の総社が衰退する中で原型がよく残っている。
境内社・大神神社の創建年は不詳だが、奈良大神神社より古くより勧請されて祀られた神社で、式内社の沼田神社と同格の扱いとされる。 前庭の三島式庭園(神池)は古代の様式を今に伝えており、岡山後楽園を造園する際に参考にされたともいわれる。

◆清正公神社右手に、金属製の柵に囲まれて大きな兜巾角錐型の「忠魂碑」が立つ。 「忠魂碑」と社殿との間に、神宮寺跡に御堂風の建物、猿田彦命等3柱を祀る荒神社、神輿庫、石造り瑞垣に囲まれた大神神社が総社宮の社殿と同じ東面で鎮座している。 神輿庫の入口は大きな唐破風屋根で、虹梁上に亀、兎毛通しに鶴の彫刻が施されている。
大神神社社殿の向拝で興味深い蟇股を見つけた。それは虹梁上に配された変形の蟇股で、大きな波の上に2つの岩島があり、岩島の間に張った注連縄の奥に太陽を配した彫刻で珍しい。 大神神社の右隣の石造り瑞垣の中に横長の寄宮が南面で鎮座しているが、瑞垣の上半分が珍しい意匠になっていて面白い。 本殿前の幣殿の脇に「招霊の木」と呼ばれる1本の老木が立っている。 トキワコブシという名前で、古来から神霊を招く御神木として用いられるそうだ。 瑞垣越しに総社宮の本殿をじっくり拝観した後、社務所側の回廊を進み、本殿右奥の北西に鎮座する木野山神社・稲荷神社に向かう。
「木野山神社」の額が掲げられた石造り鳥居をくぐって境内に....奥に2社が並んで南面で鎮座している。 木野山神社前に犬のような狛犬が鎮座しているが、この神社の鎮守神は狼とのことなので神使の狼の像だと思う。

△神宮寺跡に建つ三間四方御堂造りの建物....正面と側面一軒に切目縁を設けている

△神宮寺跡に建つ入母屋造本瓦葺の建物....正面は腰高風格子戸

△軒廻りは一軒疎垂木で組物は舟肘木、長押の上は全て白壁の小壁

△左から神宮寺跡の建物、荒神社そして神輿庫....神宮寺跡の建物の大棟端に鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は全面白壁の素式

△一間社流造銅板葺の荒神社の社殿....祭神は三柱(猿田彦命、火産霊神、大土神)を祀る/神宮寺跡の後方の建物傍にある「力石」群....弘化四年(1847)に奉納されたもので、山田屋石蔵・長尾屋勘吉・馬持柳五郎の名が刻

△入母屋造本瓦葺の神輿庫

△神輿庫の唐破風向拝は、兎毛通が鶴、虹梁上の蟇股は亀の軒の精緻な彫刻

△標柱を構えた大神神社....奈良県大神神社より古くより勧請された祭神・大物主神(大国主神)を祀る

△一間社流造銅板葺の大神神社の社殿/向拝の虹梁上の蟇股は波、注連縄を張った2つの岩島、岩島の間に彫られた太陽で構成

△大神神社は式内社の沼田神社と同格に扱われている

△大神神社と惣社本殿の間に横長の寄宮が鎮座....右隣に大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた総社宮本殿が建つ

△本殿南脇の珍しい意匠の瑞垣の中に鎮座する切妻造銅板葺で横長の寄宮(幾つかの小社を合祀した神社)

△入母屋造銅板葺の本殿....大棟端に鳥衾付き鬼板、拝は猪の目懸魚(妻飾は失念)

△正面五間で中央間に板唐戸、脇間は横羽目板....側面四間は全て横羽目板

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は平三斗、中央間の長押上に脚間に彫刻を配した本蟇股

△擬宝珠高欄付き回縁を設け、正面垂木から釣燈籠が下がる/幣殿の脇に植えられた「招霊の木」....トキワコブシの木で古来から神霊を招く御神木として用いられる

△社殿の北側から眺めた幣殿と本殿....幣殿は切妻造桟瓦葺屋根の本殿側に入母屋造りを重ねたような構造....入母屋屋根の拝に蕪懸魚,妻飾は狐格子

△木野山神社境内から眺めた本殿の側面と背面

△木野山神社の石造り明神鳥居....額束に石造りの「木野山神社」の額

△並んで鎮座する木野山神社(左)(右は稲荷神社)....木野山神社は高梁市木野山神社より勧請され、祭神四柱(大山祇神・豊玉彦命・高龗神・大己貴命)を祀る

△一間社流造銅板葺の木野山神社の社殿(左)....大棟には外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

△木野山神社の社頭に鎮座する阿形吽形の神使の像は狼(と思う)....理由は狼が守護神とされている

△一間社流造銅板葺の稲荷神社(右)....稲荷神社は京都伏見稲荷大社から勧請され、祭神三柱(倉稲魂神・佐田彦神・大宮能売神)を祀る....向拝に神使の白い狐像が鎮座

△宝暦五年(1755)造立の石燈籠越しに眺めた木野山神社・稲荷神社境内....右奥の3つの社殿の神社名は不詳/石燈籠前に置かれた手水鉢....奥の社は池上鎮守

△木野山神社と稲荷神社などが鎮座する境内
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備中国総社宮-(2) (総社)

2021年02月21日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・総社市】室町時代に戦火(福山の戦い)に遭って焼失したが、室町時代応永三十三年(1426)に管領細川家の尽力で社殿が再建され、三年後の正長二年(1429)に総社宮が再建された。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)の兵火で再び焼失したが、江戸初期の元和元年(1615)に本殿が再建された。
貞享四年(1687)、水谷伊勢守により材木の寄進をうけて総社宮が再建され、翌五年に彩色二四孝の絵馬が奉納されたことで商家の信仰が増し、豪商の西戎屋等により京都の一流画家の描いた絵馬が奉納されるなどして社頭も繁栄した。

◆拝殿前から南に延びる回廊を進んで、南参道口の大鳥居に向かう。 長い回廊の途中に随身門が建ち、両側の金網が張られた格子の中に、彩色された随身像が鎮座しているが....(撮影に失敗)。 随身門は御門神社と呼ばれ、守護神の随身像は豊石窓神・櫛石窓神として祀られている。
随身門からさらに回廊を進むと、回廊が切れて両側に石燈籠や標柱が佇む切石敷の参道が続く。 南参道口に石造りの大鳥居が立ち、その傍らに「懸社総社神社」・「式内沼田神社」と彫られた2つの社号標石がある。 総社宮の本殿は東面で建つが、社号標石がある南参道がいわゆる表参道のようだ。
南参道の東側の神池の南側辺に、石造り鳥居を構え、池を背にして沼田天満宮が鎮座している。 鳥居の額束に「沼田神社 天満神社」の額が掲げられているが、沼田神社は延喜式神名帳に掲載されているようで、この地域で最古の神社だそうだ。 沼田天満宮の右手に笑主神社が、さらにその右に自然石型の「地神」がそれぞれ鎮座している。
南参道の西側に進むと、琴平神社より勧請された琴平神社、愛媛県宇和島より勧請された和霊神社、そして加藤清正公を祀る清正公神社のそれぞれ一間社流造の社殿が東面で建ち並んでいる。

△南参道に延びる本瓦葺の長い南回廊

△拝殿前から眺めた南回廊

△社殿側回廊から見た随身門と大鳥居側回廊....少し湾曲した梁が使われている

△南回廊の途中に随身門が建つ....随身門は天保二年(1831)の再建....随身門は御門神社として祭神随身二柱(豊石窓神、櫛石窓神)を祀る

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は出三斗で中備は蟇股/左右脇間の格子の中に彩色された随身像が鎮座....随身像の撮影に失敗した

△沼田神社近くから神池越しに眺めた南回廊と随身門

△南回廊近くに佇む宝暦四年(1754)造立の石燈籠/随身門の大鳥居側の回廊は入母屋造本瓦葺の造り

△大鳥居から眺めた大きな標柱が立つ南参道と奥に南回廊

△南参道の入り口に立つ大鳥居と社号標柱、瑞垣傍に佇む豪壮な石燈籠

△額束に「総社」の額が掲げられた石造り明神鳥居

△南参道に佇む正徳四年(1714)造立の石燈籠/瑞垣の傍に佇む文化七年(1810)造立の豪壮な石燈籠

△神池の南岸辺に鎮座する石造り明神鳥居を構えた沼田天満宮....祭神・大年皇神 御年皇神そして菅原道真を祀る....延喜式神名帳に掲載の備中国18社の1社で近辺では最古の神社

△天満宮は江戸中期に合祀された....石造り明神鳥居に張られた注連縄の「しめのこ」は中ほどで装飾リボンのようなもので結ばれ上半分は縄状にひねられている/石造り明神鳥居の額束に「沼田神社 天満神社」の額

△標柱を構えた沼田八幡宮の一間社流造銅板葺の社殿

△一軒繁垂木、大棟端に鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束....向拝に海老虹梁がある

△沼田天満宮に向かって右隣りに鎮座する笑主神社....祭神・蛭児大神(伊弉諾命・伊弉美命の長男)を祀る

△一間社流造銅板葺の笑主神社の社殿/笑主神社の右手に鎮座する自然石型の「地神」

△南回廊の西側に鎮座する琴平神社の石造り明神鳥居と手前に手水鉢/水口がない手水鉢

△標柱と石燈籠の奥に拝殿を構えた琴平神社(金毘羅神社)....祭神・大物主命(大国主命の別名)を祀る....香川県琴平神社より勧請され、御神像は江戸中期の作

△切妻造本瓦葺の拝殿....吹き放しの簡素な造り

△拝殿を通して眺めた琴平神社の社殿

△琴平神社と忠魂碑の間に東面で鎮座する和霊神社(左)と清正公神社(右)

△愛媛県宇和島の和霊神社より勧請された和霊神社....一間社流造銅板葺の社殿に祭神・山家清平衛の神霊を祀る/一間社流造銅板葺の清正公神社の社殿....祭神・加藤清正を祀り、御神像は天保六年(1835)の作
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備中国総社宮-(1) (総社)

2021年02月16日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・総社市】応神天皇(記紀で第25代)妃の兄の子孫が、この地に野俣神社(現 境内社の沼田神社)を創建して周辺一帯の総社としたのが始まりとされる。 平安時代の延喜五年(905)に編集された「延喜式神名帳」には、式内社して「備中国賀夜郡 野俣神社」の記載がある(論社の可能性も)。
古来(大化期から平安末期)より律令政治の地方官である国司は、国中のすべての神社を一宮から順に参拝することを義務づけられていたが、全てを巡拝するのが困難であるため国府の近くに国中の神々を合祀する総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
備中国の総社は、平安時代末期に赴任してきた国司が、備中国内の神社三百二十四社を勧請し、奉斎して備中国の総社(備中国総社宮)とした。 なお、境内の案内板には「当社は大化年間の創建」とある。
主祭神は大名持命(大国主神)、須世理姫命(大名持命の妻)。 相殿神は御霊鎮八神及び備中国内三百四社の神々。 摂社は沼田神社、大神神社などの古祀末社十二社。 備中国内三百四社の神々とは、「延喜式神名帳」に記載の官社十八社と「国司神名帳」に記載の田社二百八十六社をいう。

◆JR桃太郎線の東総社駅から国道180号線を東に進み、「総社小前」交差点を右折して間も無く、東参道口に立つ石造りの大鳥居の前に着く。 鳥居には「惣社」の額が掲げられ、傍らに鎮座する玉乗り狛犬の獅子に迎えられる。
境内に入ると左手に広がる神池がまず目に入る。 神社の庭園としては優雅で規模が大きく、池中に神島三島を配していて「三島式庭園」と呼ばれている。 3つの神島には石橋が架かり、それぞれの島に祇園神社、厳島神社そして四阿がある。
正面に鎮座する社殿に向かって進むと、石燈籠と狛犬を構えた東回廊が建ち、奥に唐破風向拝に太い注連縄が張られた拝殿がある。 注連縄の上の水引虹梁の上一面に龍の彫刻が配されているが、さほど精緻ではないが生きているようなリアルさがある。 その上の虹梁に、脚間に菊の花を配した棟柱を支える本蟇股が配され、拝の兎毛通は鳳凰とみられる大きな彫刻がある。
拝殿の前で東回廊と南参道側に延びている南回廊とが交差しているが、交差する所の建物の欄間には奉納された「 備中神楽諸神」、「天ノ岩戸開き神々」そして「七福神」のお面が、参拝者見守るように並んでいる。

△総社宮の東参道に立つ大鳥居....瑞垣の傍らい佇む大正四年(1916)造立の石燈籠

△石造り明神鳥居....額束に「惣社」の額が掲げられている

△鳥居傍の四脚台座に鎮座する安政六年(1860)造立の獅子の玉乗り狛犬

△平成十二年(2001)造立の石燈籠越しに眺めた境内

△東参道に立つ注連柱の正面奥に東回廊と社殿とが重なって見える

△境内東参道と南参道(南回廊)の間に広がる庭園は心字池の神池と三つの島(左の建物は神島に建つ四阿)....庭園は上古、渡来人により作庭された「三島式庭園」....奥は南回廊

△東参道から眺めた正面に東回廊と社殿とが重なり、その左奥に南回廊、神池の左手には祇園神社の拝所がある

△小さな石造り反橋(奥)が架かる神島に鎮座する祭神・素戔嗚命を祀る祇園神社

△祇園神社は慶長十九年(1615)に京都八坂神社より勧請され、弘化三年(1846)に再建された

△切妻造本瓦葺の拝所を通して眺めた社殿

△一間社流造銅板葺の祇園神社の社殿

△石造り反橋が架かる神島に鎮座する祭神3柱(市杵姫命、湍津姫命、田心姫命)を祀る厳島神社(創建年不詳)

△「厳島神社」の額が掲げられた石造り明神鳥居....飛び石の参道の周りに石を配している/厳島神社の一間社流造銅板葺の社殿

△標柱が立つ東参道の木立の奥に、回廊と拝殿と本殿の屋根が重なって見える

△東回廊の前に狛犬が鎮座し石燈籠が佇む

△東回廊前に鎮座する獅子の阿形吽形狛犬

△切妻造本瓦葺の東回廊....大棟暗に鬼板、拝はなく、妻飾りは斜めに格子を配した狐格子

△一軒疎垂木の化粧屋根裏天井

△拝殿の唐破風向拝....中央間は腰高格子戸、脇間は格子窓で腰壁は縦羽目板....水引虹梁に紙垂としめのこを下げた太い注連縄が張られている

△水引虹梁と梁の間に生きているような龍の彫刻、梁の上には脚間に菊を配した本蟇股が棟柱を支え、兎毛通は鳳凰(と思う)の彫刻を設けている

△拝殿前で東回廊と南北回廊とが交差している....右奥が南回廊、左手が東回廊、手前左が北回廊

△回廊が交差した所の建物の欄間に奉納された「 備中神楽の諸神」「天ノ岩戸開き神々」のお面が並ぶ

△北回廊側に掲げられた「七福神の面」....北側回廊の奥に社務所がある/南回廊側に掲げられた「備中神楽の面」

△東回廊の北側傍に建つ流造銅板葺の手水舎....基台上に太い柱で堅牢に造られている

△手水鉢と口から清水を吐き出す龍像の水口/勇ましい祥龍の吐水口

△神池側境内から眺めた本殿の屋根と回廊交差部の入母屋造本瓦葺の建物






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阿智神社-(2) (倉敷)

2020年10月09日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・倉敷市】室町時代末期、現観龍寺の地に倉敷村の鎮守として妙見宮(現在の阿智神社)が祀られ、安土桃山時代の文禄三年(1594)に現在地(鶴形山の山頂)に遷座した。 慶長~元和(1596~1624)の頃から、当地の有力者・木綿襷組により交代で祭祀が行われ、江戸時代の寛永元年(1624)、観龍寺が妙見宮の別当となった。 神仏混淆にて明治に至ったが、明治維新の神仏判然令により妙見宮が分離され、社号が阿智神社に改称された。
鶴形山の南麓は門前町さらに港町として栄え、江戸時代には倉敷代官所が置かれたため陣屋町としても賑わい、多くの商家が建ち並んだ。 そのため裕福な氏子が増え、旧倉敷村の総鎮守として市内でも有数の大社に発展して現在に至る。

古代庭園から時計回りで本殿後方に鎮座する境内社をめぐる。 荒神社、戎大黒火産霊社、城山稲荷社、菅原神社、祖神天照皇大神社そして約3,400名の英霊を祀る護国神社を参拝。 護国神社から、なまこ壁のある3棟の白壁の神庫や珍しい造りの屋根の社務所を横目に、社殿を向いて建つ能舞台に。 能舞台は神楽殿なのだが本格的な能舞台の造りで、正面奥の鏡板に1本の大きな老松、切り戸口の側面の鏡板には竹が描かれている。
能舞台から倉敷の街が一望できる絵馬殿に。 絵馬殿は延宝二年(1682)に拝殿が新築された際に移築された旧拝殿だが、旧拝殿の面影は全くなく、見晴らしのいい懸造りの展望台だ。 絵馬殿に入り天井を見上げると、鮮やかな彩色を施した干支恵方盤が目を引く。 絵馬殿傍の石造基壇の上に、「高燈籠」と呼ばれる高さ約5メートルの燈籠が立つ。 露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の笠で、四方が格子の火袋の下は珍しい羽目板袴腰になっていて趣がある。

△祈祷殿の向かいに南面で鎮座する荒神社

△石造り明神鳥居と狛犬を構え、玉垣に囲まれた荒神社....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁

△荒神社の狛犬は江戸末期天保十一年(1839)の造立

△流造銅板葺の荒神社....祭神は素戔嗚尊など4柱を祀る

△大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る荒神社....石燈籠は文化六年(1809)の造立

△荒神社の右手の基壇上に鎮座する切妻造銅板葺の戎大黒火産霊社....祭神は大国主命、事代主命そして火神竈神である火産霊神を祀る

△切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する城山稲荷と石造り明神鳥居を構えた菅原神社

△流造檜皮葺の城山稲荷....食物を司る倉稲魂命を祀る/流造檜皮葺の城山稲荷....食物を司る倉稲魂命を祀る

△東方遥拝所....日本の国の象徴である太陽並びに伊勢神宮、皇居を遥拝する

△祖神天照皇大神....注連縄を巻かれた盤座は天照皇大神の信仰対象

△石造り明神鳥居を構えた護国神社

△護国神社には国を護るために戦死された倉敷地区3216名の霊魂を祀る/切妻造銅板葺の護国神社....大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る

△境内の東側に建ち並ぶ3棟の神庫....いずれも切妻造本瓦葺で、なまこ壁を設けた白壁

△入母屋造風の銅板葺の社務所

△拝殿の向かい側で、随神門と社務所の間に建つ入母屋造本瓦葺の能舞台(神楽殿)....屋根に千鳥破風を乗せている

△能舞台の後方の鏡板に大きい1本の老松、切り戸口側の鏡板に竹が描かれている....舞台右手に桟瓦庇で手摺りを設けた地謡座がある

△随身門から眺めた能舞台、奥に3棟の白壁の神庫が見える

△随身門から眺めた絵馬殿....手前に百度石が立つ

△入母屋造本瓦葺の絵馬殿....延宝二年(1682)に拝殿を新築した際、旧拝殿を移築して絵馬殿とした建物

△絵馬殿から倉敷の街を一望できる/絵馬殿の天井に設けられた彩色を施した干支恵方盤

△絵馬殿からは倉敷の街が一望できる....絵馬殿と羽目板腰袴の高燈籠の間に小さな祠が鎮座

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺笠の高燈籠....高さ約5メートルで、かつては倉敷川の中橋辺りにあったとの説あり/陶器製の祠とみられる金刀比羅宮遥拝所

△西参道から見上げた懸造りの絵馬殿



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阿智神社-(1) (倉敷)

2020年10月05日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・倉敷市】奈良時代の歴史書『日本書紀』の応神記(4世紀)に、朝鮮半島から漢の霊帝の曾孫・阿知使主の一族が渡来し、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていたこの地に住み着き、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を広めて大いに栄えたとあり、これにより「阿知」の地名が生まれ、また社号の由来と伝えられている。
古来この一帯は吉備の穴海と呼ばれた海域で、その当時は窪屋郡阿智郷(現在の鶴形山周辺)と称する海上交通の要衝であったため、航海の安全を見守る神である宗像三女神を奉斎したと伝えられている。 また、社記には、応神天皇の母后である神功皇后が三韓征伐の途中、暗闇で航路を見失った際、海の守護神・宗像三女神に祈願した時、三振りの剣が雷鳴と共に天空からこの地に降ってきて航路を照らしたので難を逃れたとされ、応神天皇の御代に妙剣宮と称してこれを祀ったと記されている。
主祭神は宗像三女神と称する紀理毘売命・多岐都比売命・市寸嶋比売命の3柱。

観龍寺から鶴形山を上り、西参道を通って阿智神社に....。 大きな石造り鳥居をくぐって少し進むと、石段の南参道との合流地点に手水舎があり、そこから山頂に続く狛犬が鎮座する石段の上に随身門が南面で建つ。 鎮座する狛犬は、左は頭に一角があるので狛犬、したがい右の阿形は獅子だろう。
随身門の両側に随身像が鎮座するが、格子の真ん中に張られたガラスに太陽光が反射して拝観できずだ。 梁の上にウサギの彫刻がある戸口を通って社殿境内に....向拝に太い注連縄を張った横長の拝殿が正面に建つ。
拝殿の左脇を進んで後方の本殿に向かう。 拝殿から両側に透塀を立てた参道の先の基壇の上に檜皮葺の平唐門が立ち、玉垣に囲まれて入母屋造檜皮葺の本殿が鎮座している。 約400年前の江戸初期に建てられた本殿は、古色蒼然とした佇まいで趣があり、海の守護神である宗像三女神を祀っている。
本殿の西側に、日本最古で「天津磐境」と呼ばれる鶴亀組石様式の古代庭園があり、注連縄が張られた鶴亀の巨石の磐座がある。 ここは神が降臨する神聖な空間なのだが、西日がかなり傾いてきたこともあって足早に通過してしまった。

△裏参道である西参道に立つ石造り明神鳥居

△参道から見上げた随身門と懸造りの絵馬殿(左)

△切妻造銅板葺の手水舎....随神門の石段の下の境内に建つ....右手の手摺りは石段の南参道

△手水舎がある石段下から見上げた随身門

△石段下の左右に鎮座する狛犬....左の吽形は角があるので狛犬、したがい右の阿形は獅子

△入母屋造本瓦葺の随身門....両側の金剛柵の奥の格子の中に随身像が鎮座

△軒周りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央のみに脚間に鶯と梅の彫刻を配した蟇股....戸口の虹梁の上の真ん中に兎の彫刻がある(後方の虹梁にも)

△文化八年(1811)造立の石燈籠越しに見た随身門

△入母屋造本瓦葺の拝殿

△軒周りは一軒繁垂木で組物は舟肘木....正面と側面に切目縁を巡らす

△向拝に取付けた太い竹に下がる紙垂としめのこを付けた注連縄は、2つの注連縄を絡めた造り/正面中央間は両折両開の桟唐戸

△拝殿は正面七間側面二間、正面中央間に桟唐戸、脇間に小脇羽目と格子窓

△大棟に鳥衾付鬼板、拝に猪の目懸魚、妻飾は笈形付虹梁大瓶束....拝殿後方に幣殿とみられる建物が連なる

△拝殿後方の基壇上に玉垣に囲まれた鎮座する本殿....手前の石燈籠は宝暦十三年(1763)の造立

△拝殿脇から眺めた本殿....手前の飾手水鉢は文化五年(1808)の造立

△本殿前の檜皮葺の唐門は両側部に唐破風がある平唐門....唐門傍の石燈籠は宝暦十三年(1763)の造立/本殿左手の石燈籠は寛政年間(1789~1801)の造立

△入母屋造檜皮葺で一間四方の本殿....元和年間(1620年頃)の建立で、宗像三女神を祀る

△大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る....周囲に跳高欄付切目縁、向拝に大きな曲線の海老虹梁

△軒周りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、詰組そして支輪を設けている....正面は透かし彫り彫刻を入れた桟唐戸と小さな小脇羽目

△本殿の西側に日本最古の鶴亀組石様式の古代庭園がある

△古代庭園は「天津磐境」と呼ばれ、注連縄を張られた鶴亀の巨石の磐座がある....磐座は約1600年前からこの地にあった石で、後方に亀石組(亀頭石と亀甲石)があるらしいが失念

△入母屋造銅板葺で妻入の祈祷殿....軒周りは一軒繁垂木で組物は舟肘木

△祈祷殿の正面は中央に板扉、両脇間に格子窓....大棟端に鬼板、拝に三ツ花懸魚、妻飾は狐格子


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観龍寺 (倉敷)

2020年10月01日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・倉敷市】平安時代の寛和元年(985)、尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創され、当初は北斗山宝積院と称した。 室町時代に鶴形山の麓(現在の駐車場)に移転、江戸初期の寛永元年(1624)に現在地に再移転し、同年、宝寿山観龍寺に改称された。
江戸時代中期(1740年代)に二度にわたって堂宇を焼失したが、本堂が寛延二年(1749)に再建されて以降徐々に伽藍が整備され、現在に至る。 室町時代の末期、現在の観龍寺の地に倉敷村の鎮守として「妙見宮」(現在の阿智神社)が祀られ、安土桃山時代の文禄三年(1594)に現在地(鶴形山の山頂)に移転した。
観龍寺は寛永元年(1624)に妙見宮別当となったが、明治維新の神仏判然令により妙見宮が分離され、社号が阿智神社に改称された。 宗旨は真言宗(御室派)で、寺格は別格本山。 本尊は大日如来像。 備中西国三十三所観音霊場第29番札所。

白壁と瓦屋根が印象的な建物が軒を連ねる「倉敷美観地区」を散策した後、観龍寺と阿智神社が鎮座する鶴形山に向かった。 観龍寺の階の下に着くと、「當國巡礼廿九番 寶壽山観龍寺」と刻まれた寺号標石が立ち、石垣と築地塀に囲まれた石段の上に山門が見える。 階の左側の築地塀の奥は駐車場で、駐車場側の築地塀傍に小さな墓所があり、江戸時代後期造立の30基ほどの笠付墓石などがひっそりと佇んでいる。
石段を上り、「別格本山観龍寺」の聯が掛けられた山門の袖塀の潜り戸をくぐって伽藍境内に....。 潜り門には、幕末に倉敷代官所を襲撃した長州藩配下の奇兵隊(脱走兵)が、観龍寺に陣を張った際につけた槍の傷跡があるが....失念した。
鶴形山の麓に広がる境内には、本堂・開山堂・客殿・妙見堂などの堂宇が「倉敷美観地区」を見守るようにすべて南面で鎮座している。 また、南側の白壁の築地塀の傍には、薬師堂・観音堂・地蔵堂・鐘楼などの堂宇、大日如来や閻魔などの丸彫りの石像や石造り供養塔そして仙掌庵が建ち並んでいる。 境内の東側に石造りの明神鳥居を構えた妙見堂があるが、鳥居があることから妙見堂が鎮守社「妙見宮」の名残であることがわかる。 本堂は約270年前の江戸中期の再建で伽藍で最も古い建物だが、深い軒を支える支柱が正面と側面の切目縁の外側に立てられていて珍しく、趣が感じられる。
伽藍を拝観した後、仙掌庵で一息つきながら美観地区の美しい町並をしばし眺め、それから鶴形山山頂に鎮座する阿智神社に向かった。

△駐車場側の築地塀傍に鎮座する墓碑群....文政十三年など江戸期造立の笠付墓石が多いようだ....築地米の向こう側が山門への階

△寄棟屋根を乗せた石造り覆屋の中に墓碑が置かれている/五輪塔の墓碑....突き出た空輪、軒が大きく反り返った火輪から江戸時代の造立と推察

△石段下に立つ寺号標石に「當國巡礼廿九番 寶壽山観龍寺」の刻....左の築地塀の裏側に先の墓石群がある

△切妻造本瓦葺の山門....柱に「別格本山観龍寺」の聯、両側にくぐり戸を設けた本瓦葺で白壁の袖塀....大棟端に鯱,桃の装飾の留蓋瓦が乗る

△山門は薬医門で、拝の懸魚は鶴の彫刻....奥の築地塀の外(境内外)に建つ寛保二年(1742)造立の「鶴形山の鐘楼」(観龍寺の所有ではない)

△境内の南側の築地塀傍に建つ鐘楼と美観地区の町並が一望できる寄棟造本瓦葺の仙掌庵

△入母屋造本瓦葺の鐘楼....昭和期末の再建で、大棟に鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子、四本柱の転びが大きいので安定感がある....梵鐘は昭和期の鋳造

△入母屋造銅板葺の妙見堂....御堂は神仏判然令後の建立で,北極星を神格化した妙見菩薩を祀る....鳥居があるのは妙見宮(現阿智神社)を管理していた時の名残

△深い軒の妙見堂....向拝の唐破風には鳥衾付き鬼板が乗り、兎毛通は鷹の彫刻(と思う)....中央間に連子と格狭間を入れた桟唐戸、脇間に格子窓

△唐破風天井から下がる鰐口、水引虹梁の上に右三つ巴が入った蟇股風の彫刻/身舎の組物は台輪上に出三斗、中備は撥束

△妙見堂の鳥居前から眺めた右から大玄関、大師堂、本堂....大師堂後方2棟の屋根は客殿と位牌堂(奥)

△入母屋造本瓦葺で庇を設けた庫裡....左側に連なる大玄関

△大師堂と本堂が並んで建つが、いずれも江戸時代に2度の火災で焼失....大師堂は享和年間(1801~1804)の再建

△宝形造本瓦葺の大師堂....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗(と思う)で中備は蟇股、軒支輪がある

△中央間は両折両開の格子入り桟唐戸、脇間は引き戸の桟唐戸、正面に切目縁....水引虹梁の上に龍の彫刻がある

△入母屋造本瓦葺の本堂....寛延二年(1749)の再建で、正面と側面の切目縁の外側に支柱を立てて深い軒を支えている

△唐破風向拝の水引虹梁上の中央に牡丹彫刻の蟇股、その両側に蓑束を配す....正面は全面が桟唐戸で、中央間は蜜と粗い連子を入れた両折両開、脇間は全て粗い連子を入れた引き戸

△軒周りは一軒繁垂木、組物や中備がなく、長押の上の壁は全て小壁

△本堂左手に鎮座する入母屋造本瓦葺の稲荷堂・淡嶋堂

△石造り明神鳥居の前に2基の百度石が立っている/堂前の石燈籠は寛政四年(1792)か文化四年(1807)の造立とみられる

△南側の築地塀傍に鎮座する右から石造角塔婆形の供養塔群、薬師堂、観音堂、地蔵堂、閻魔大王像、地蔵像など

△左から切妻造桟瓦葺の地蔵堂、観音堂、そして宝形造本瓦葺の薬師堂

△地蔵堂に鎮座する丸彫りの石造地蔵尊像/観音堂に鎮座する浮彫りの千手観世音菩薩像/薬師堂に鎮座する舟光背型薬師如来坐像

△冠を被り道服を着て笏をもって鎮座する閻魔大王像/大師堂を向いて鎮座する赤い前垂れをした丸彫りの地蔵石仏

△智拳印を結ぶ明和四年(1767)造立の大日如来坐像....多くの獅子が担ぐ蓮華座に鎮座....輪郭を巻いた台座に「佛頂尊勝・金輪聖王」の刻/隅飾突起が大きく反り返りひらいているので江戸期の造立の宝篋印塔と推....塔身に金剛界四仏、基礎正面に宝篋印陀羅尼経の各種子が刻

△築地塀傍に鎮座する石鎚蔵王大権現と宝篋印塔....真ん中は昭和二十六年(1951)造立の「石鎚蔵王大権現」と刻まれた石碑と扇形に彫られた飾手水鉢

△石鎚蔵王大権現を祀る流造屋根の石祠/寛政四年(1792)造立の宝篋印塔....塔身に金剛界四方仏、基礎正面に宝篋印陀羅尼経の各種子が刻

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吉備津彦神社-(3) (岡山)

2020年07月21日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】昭和五年(1930)、不慮の火災により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失した。 その後、昭和十一年(1936)、飛鳥時代の社寺建築の粋を集めて荘厳華麗な社殿が再建され、現在に至っている。
東面で鎮座していて、夏至の日には、朝日が正面鳥居から昇り、その光が社殿内に差し込み、祭文殿の御鏡に入るように建てられていることから「朝日の宮」とも称されてきた。 これは太陽を神と崇めた古代太陽信仰を示し、自然に対して畏敬の念を抱き、五穀豊穣や日本民族の安寧を願う神社として創建されたといえる。

本殿と渡殿が建つ一段高い境内や、社殿の南西側と北側の樹林の中に多くの境内社が鎮座する。
本殿・渡殿境内の周囲四隅に、本殿を護るように配祀されている尺御崎神社二社と楽御崎神社二社を低い透塀越しに眺める。 本殿を向いて鎮座するこの四社には、大吉備津彦命が吉備国を平定する際に活躍した四人の従者を祀っている。
中山の山腹に鎮座する稲荷神社に向かう。 社殿南側の築地塀に沿って立ち並ぶ朱塗りの鳥居を抜けると、傾斜地に稲荷神社の境内が広がり、その裾に石造り明神鳥居と四社の末社が東面で鎮座。 その中で目を引くのが、大棟に外削ぎの千木と4本の堅魚木を乗せた温羅神社で、桃太郎伝説で鬼とされるが吉備国に様々な文化をもたらした温羅命の和魂を祀っている。
石造りの鳥居をくぐって石段を上りつめると、樹林に囲まれて珍しい本瓦葺の稲荷神社が建つ。 この地方で最も古く稲荷神を祀った社だそうだ。
社殿北側に鎮座する摂社・子安神社に向かう。 参道の中ほどに石造りの明神鳥居が立ち、直ぐ右隣に、太宰府に左遷される道中この神社に立ち寄った菅原道真を祀る天満宮が鎮座。 鳥居を通して、石段の上に子安神社の拝殿が見える。 石段を上ると朱塗りの子安神社が東面で建ち、その右手に7つの末社が整然と並んでいる。 子安神社は江戸時代初期の新築で、檜皮葺の拝殿と透塀に囲まれた檜皮葺の本殿が鎮座....子授け、安産の神様として崇敬を集めていて、特に若い人の参拝が増えているようだ。

△祭文殿の南側に建つ入母屋造銅板葺の神饌所....神饌所は神様の御食を調理するところ

△正面五間は飾金具を入れた板扉、三間は連子窓、一軒は羽目板
 
△渡殿・本殿境内の周囲四隅に、本殿を向いて尺御崎神社(2社)と楽御崎神社(2社)などが鎮座 (写真は右手奥隅に鎮座する尺御崎神社)....祀られているのは大吉備津彦命が吉備国を平定する際に活躍した従者/右手奥に鎮座する流造銅板葺の尺御崎神社....夜目山主命を祀る

△左手前隅の築地塀傍に鎮座する流造銅板葺の楽御崎神社(楽々与理彦命を祀る)、右隣に石造り切妻造の岩山神社(建目方別命を祀る)

△稲荷神社への参道に立ち並ぶ朱塗りの明神鳥居....石燈籠は享保十三年(1728)の造立

△朱塗りの鳥居を通り抜けると、稲荷参道の南側に境内社4社(末社)が鎮座....右から温羅神社、十柱神社、牛馬神社そして祖霊社(左端)

△千木と堅魚木を乗せた流造銅板葺の温羅神社(右端、温羅命之和魂を祀る)と十柱神社(吉備海部直祖など10柱を祀る)....温羅命之和魂は吉備国に製鉄技術をなどをもたらした

△流造銅板葺の祖霊社(左端)と牛馬神社....祖霊社は社家の祖霊、牛馬神社は保食神を祀る
 
△稲荷神社への石段参道前に立つ石造り明神鳥居....手前に「百度石」、鳥居を通して奥の傾斜地に鎮座するト方神社が見える/稲荷神社境内の傾斜地に鎮座する流造銅板葺のト方神社....池田信輝公と池田輝政公の霊神・輝武命と火星照命を祀る....奥の高台に鎮座するのは稲荷神社

△流造本瓦葺の稲荷神社....倉稲魂命を祀り、この地方で最も古く稲荷神を祀った社とされる

△石燈籠を備えた子安神社、天満宮、末社(7社)への参道入口

△石段参道前に立つ石造り明神鳥居....石段上に子安神社、鳥居右手に天満宮が鎮座

△明神鳥居の右手に鎮座する流造銅板葺の天満宮....平成十七年(2005)の再建で、延喜元年(901)に太宰府に左遷される道中、吉備津彦神社に立ち寄った菅原道真を祀る

△明神鳥居の左手を進むと吉備津彦神社の社殿境内に....

△摂社・子安神社....古より祀られる子安神社を慶長十四年(1609)、姫路藩2代藩主池田利隆(照直)が光政誕生を祝って新築....伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命を祀る

△入母屋造檜皮葺の拝殿....中央間は引き戸の腰高格子戸、両脇間は菱格子窓、側面二軒は菱格子窓....軒廻りは一軒疎垂木、組物は唐草模様を入れた絵様肘木で中備無し

△拝殿を通して眺めた本殿....上に花狭間、下に格狭間を入れた桟唐戸で、両脇に小脇羽目、擬宝珠高欄付き廻縁で縁奥に脇障子がある

△流造檜皮葺の本殿(一間社流造り)....大棟端に「五七桐」の紋を入れた鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾りは虹梁大瓶束

△子安神社の北側に整然と鎮座する流造銅板葺の境内社(末社7社)

△境内社の奥から社殿方向に眺めた末社群

△子安神社の北側隣に鎮座する下宮(倭比賣命を祀る)
  
△伊勢宮(天照大神を祀る)/幸神社(猿田彦命を祀る)/鯉喰神社(楽々森彦命荒魂を祀る)
  
△矢喰神社(吉備津彦命御矢を祀る)/坂樹神社(吉備津彦命御矢を祀る)/祓神社(祓戸神を祀る)
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吉備津彦神社-(2) (岡山)

2020年07月17日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】戦国時代の永禄五年(1562)、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭って古代の社殿を焼失した。 その後、慶長二年(1597)に宇喜多秀家、慶長六年(1601)に小早川秀秋が再建に着手して同九年(1604)に51宇を復元した。
慶長八年(1603)、姫路藩主池田輝政の次男忠継が岡山の地に入封し、江戸期の大名・池田家の治世が始まり、吉備津彦神社に対する崇敬厚く、延宝五年(1677)に300石の社領を寄進した。 岡山藩初代藩主(池田家宗家3代)池田光政は、神社に佛教的建築があるのを嫌って51宇及び御釜殿を廃除し、現在の地に昔の熱田神宮様式の社殿の建築に着手。 長男の2代藩主綱政の治世の元禄十年(1697)、本殿、渡殿、釣殿、祭文殿、拝殿と連なった社殿が完成した。

石段を上ると、吉備の山中を背にして荘厳な空気が漂う静謐な社殿境内が広がる。 石段上の両側に、軒先に釣燈籠がずらりと吊り下げられた廻廊が建ち、参拝者のお休み処になっている。 廻廊前には樹齢千年以上とされるご神木で、「平安杉」と呼ばれる枝ぶりが寂しい老杉が聳え立つ。
正面に、広い向拝の拝殿が基壇上に建ち、雨が当たらない向拝の軒下に備前焼とみられる狛犬が鎮座。 拝殿後方に連なって祭文殿と渡殿、そして本殿が中山を背にして建ち並んでいる。 拝殿と祭文殿と渡殿は昭和十一年(1936)の再建だが、いずれも古社を感じさせる造りで趣がある。
周囲に透塀を設けた一段高くなった境内に渡殿と本殿が鎮座。 本殿は、正面に檜皮葺の平唐門を設けた透塀に護られている。 約320年前の元禄時代に建てられた檜皮葺の本殿は「三間社流造り」で、荘厳で品格ある趣なのだが、手前の透塀からの拝観のみで、近づいての細部意匠が見られず残念。

△随身門境内から眺めた上段の境内に建つ拝殿と左右の廻廊....石段下の石燈籠は元禄十年(1697)の造立....上段境内に聳え立つご神木の「平安杉」は樹齢千年以上とされる

△石段下から見上げた拝殿....向拝に紙垂としめのこをつけた長い注連縄が張られている

△石燈籠が並ぶ乱積の石垣の上に建つ廻廊(石段の左)....切妻造銅板葺で前面に連子窓が並ぶ....廻廊は参拝者のお休み処になっている
 
△石段上右側の短い玉垣....廻廊の連子窓前にずらりと吊り下がる釣燈籠/右側の石垣下に佇む石造物....古い石塔のようだが

△切妻造銅板葺の廻廊(石段上の右手)....大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝は猪目懸魚、境内側にも釣燈籠が下がる

△入母屋造銅板葺の拝殿....昭和十一年(1936)の再建、壇上積風の基壇に建ち正面は七間
 
△向拝屋根の下に鎮座する狛犬....備前焼と思うが、随身門前の表面が滑らかな姿の狛犬とは異なる?

△身舎柱は円柱なのに対し向拝柱は面取方柱

△中央間三間の扉は飾金具を配した両折両開の板扉....「一品一宮 吉備津宮」の大きな扁額がある

△拝殿を通して眺めた祭文殿....社頭に3本の御幣(紙垂は金箔?)が立てられている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備は中央間三間のみに脚間に彫刻を施した本蟇股

△側面は変則の五間で、中央間に飾金具を施した板扉、両脇間は格子窓と幅の狭い小脇羽目板....基壇上に組高欄付き廻縁を設けている

△拝殿側面の扉から眺めた祭典や御祈祷を斉行する祭文殿

△拝殿後方に連なる祭文殿、その後方に渡殿と本殿が鎮座....祭文殿は亀腹上の石板台座上に建ち、台座周囲に組高欄を設けている

△切妻造銅板葺の祭文殿....昭和十一年(1936)の再建、本殿を向いた流造で軒廻りは二軒繁垂木、組物は不明....拝殿側は七間(と思う)で中央に板扉、両脇間三間には二間の連子窓と小脇羽目板

△側面五間は小脇羽板三間、飾金具を施した両折両開の腰高格子戸そして連子窓....格子戸と小脇羽目板二間に庇を設けている....大棟に鳥衾を乗せ「十六菊」の紋を入れた鬼板、拝は猪目懸魚、妻飾は豕扠首....

△透塀で囲まれた一段高い境内に建つ渡殿と本殿....手前の石燈籠は元禄十一年((1696)の造立

△入母屋造銅板葺の渡殿....昭和十一年(1936)の再建、正面五間・側面三間で周囲に組高欄付き切目縁があるが本殿側が少し高くなっている....大棟に鳥衾を乗せ「十六菊」の紋を入れた鬼板、拝は猪目懸魚、妻飾は豕扠首

△正面中央間は飾金具を施した板扉、脇間二軒は飾金具を施した蔀戸....側面は飾金具を施した板扉、飾金具を施した蔀戸そして横羽目板

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は蓑束....蛇腹支輪が設けられている

△流造檜皮葺の本殿....「三間社流造り」で、元禄十年(1697)に岡山藩主・池田綱政による再建(造営着手は寛文八年(1668)に父池田光政)

△正面に檜皮葺の平唐門を挟んだ透塀に囲まれて鎮座する本殿....大棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△軒廻りは二軒繁垂木、軒支輪がある....大棟・鬼板・懸魚などに「十六菊」の紋章....胡粉を施した組物の種類や中備は不明....手前に笠が異常に小さく寸胴型の珍しい石燈籠が立つ

△背後の吉備の中山に向かって拝殿、祭文殿、渡殿、神門(平唐門)を介して本殿が建ち並ぶ
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吉備津彦神社-(1) (岡山)

2020年07月13日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】社伝では推古天皇(第33代)の御代の創建とされる。 備前国と備中国の境にある吉備の中山(標高175m)は、古来より神体山と仰がれ、神の依代とされる巨大な磐座や神域を示す巨石群の磐境がいまも残っている。 崇神天皇(記紀で第10代)の御代、大和朝廷の命により四方に派遣された四道将軍の一人で西道に遣わされた大吉備津彦命が、神体山である中山に祈願し、吉備国を平定したことで現人神として崇められた。 吉備国を深く愛した大吉備津彦命が永住した中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが、社の起源とされる。
吉備国が備前、備中、備後、美作に分割された後は「備前国一宮」と呼ばれ、備前国の総氏神として信仰されてきた。 祭神の大吉備津彦命は、昔話「桃太郎」のモデルだった。

”吉備の中山みち”に面した参道入口に、石造りの明神鳥居がそびえ、珍しい備前焼の魔除けの狛犬が鎮座している。 鳥居をくぐり、松並木の切石敷の参道を進むと両側に神池が広がり、池に浮かんでいる鶴島には住吉神を祀る鶴島神社、亀島には宗像神を祀る亀島神社が鎮座している。
8枚の板石を張った幅の広い反橋を渡ると、「奉祝天皇陛下御即位三十年」の幕が張られた随身門にぐ~んと近づく。 随身門は約330年前の元禄時代の建立で、荘厳なたたずまいだ。 大きな目をした随身像が鎮座する随身門をくぐると、左右に大きな石燈籠が聳え立つ。
「大燈籠」と呼ばれる石燈籠は、基礎~火袋までが一石造りで、高さ約12メートル、笠石八畳の大きさで東洋一とされる。 見上げるほどの巨大な石灯籠だが、随身門の屋根よりも高いのでうなずけた。

△”吉備の中山みち”に面して参道入口に聳える石造りの明神鳥居、傍に大きな狛犬が控える

△石造りの明神鳥居(額束に神号の額なし)....社号標石は昭和八年(1933)の造立で、「備前一宮 吉備津彦神社」の刻
 
△明神鳥居の前の磐座に鎮座する備前焼の狛犬(造立年は不詳)/狛犬の後方の石燈籠は大正十三年(1924)の造立

△朱塗りの木燈籠が建ち並ぶ松並木の切石敷参道....参道の左右に広がる神池には亀島(左)と鶴島(右)がある
 
△参道右側に広がる神池に浮かぶ鶴島....鶴島には鶴島神社が鎮座/鶴島に佇む石燈籠は明治十七年(1884)の造立

△鶴島に鎮座する鶴島神社への参道に架かる3枚板石の反橋

△流造銅板葺の鶴島神社....住吉神など4柱を祀る....境内には正岡子規に師事した高浜虚子の句碑や服部忠志の歌碑がある

△参道左側に広がる神池に浮かぶ亀島....亀島には亀島神社が鎮座
 
△宗像神を祀る亀島神社....祭神は海上交通の守護神の女神/流造銅板葺の亀島神社....周囲に擬宝珠高欄付き廻縁、向拝階段下に浜床

△神池に架かる8枚の板石を張った幅広の反橋(太鼓橋).....建造年は不詳

△石造りの反橋から眺めた随身門

△朱塗りの家型木燈籠(据燈籠)が立ち並ぶ参道から眺めた随身門

△「奉祝天皇陛下御即位三十年」の幕が張られた随身門、左右に立つ大きな石燈籠は門より高い

△切妻造本瓦葺の随身門....元禄十年(1697)池田綱政による造営
 
△随身門左右の金剛柵の奥の格子の中に随身姿の守護神像を安置/左側の随身「豊磐窓命」だったと思う

△随身門の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は平三斗、妻飾は虹梁蟇股

△随身門を通して眺めた石段上の拝殿
 
△随身門境内に建つ手水舎と2基の大石燈籠/手水舎の近くにある古井戸

△切妻造銅板葺の手水舎....元禄十年(1697)の建立で、石台の上に柱が立つ....手前の石燈籠は元禄十年(1697)の造立
 
△手水鉢は有名な石工・河内屋治兵衛の造営により奉納/大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝に猪目懸魚、梁上に棟木を支える大きな笈形付き大瓶束

△随身門境内に聳え立つ安政六年(1859)造立の大石燈籠(2基)....石段には1670余名の奉納者名が刻
 
△一辺8メートルの基壇上、五段の石段の上に立つ大石燈籠....高さ11.5メートル、笠石八畳の大きさで東洋一とされる






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豊原北島神社 (瀬戸内)

2019年11月09日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・瀬戸内市】飛鳥時代の舒明天皇六年(634)頃、豊前国宇佐より勧請し、神社の東の磐座に藁を敷いて奉祀したのが起源とされる。 豊原荘北島に鎮座する延喜式外の古社郷社で、従五位上豊原北嶋明神や上八幡大菩薩などともいわれ、平安時代には近衛天皇(第76代)の勅願所豊原荘また白河・後鳥羽院領の鎮守神として栄えた。
平安時代末期の源平合戦の兵火で焼失したが、領家・領主・氏子により造営・神領の寄進が行われ再建された。 神社を中心にして両側に寺坊が建ち並んでいて、平安時代の神仏習合の伝統的な名残を今に留めている。 江戸初期の寛文六年(1666)、閑谷学校を創建した備前岡山藩主池田光政によって神仏分離が行われた。
明治三年(1870)に社号を豊原北嶋神社と改め、明治四年(1871)に郷社に、明治四十一年(1908)に神饌幣帛料供進神社となった。 主祭神は応神天皇、神功皇后、比咩大神、豊原北島神、品陀和気命。

餘慶寺拝観後、境内の東側に隣接する豊原北島神社の参道入り口に鎮座する狛犬に迎えられ、少し先の明神鳥居をくぐって境内に。 参道の両側に茂る木々の間から拝殿が見える。 進むと左右の脇に手水舎と四阿が建ち、親柱に擬宝珠を乗せた玉垣に囲まれた一段高い位置に社殿が建っている。
石段を上がると、直ぐ左手のシイノキ(確か)の傍に「力石」が....案内板には重さ150kgで、江戸時代末期に持ち上げられたとある。 試しに手を掛けた....が、びくともしない。 当たり前か。
社頭から拝殿を眺める....近代的な造りで妻入りの簡素な構えの拝殿だ。 参拝して拝殿内に目を向けると、事務机の上に3本の御幣が立ててあり、前に「神拝のことば」があるので、自分で御幣を打ち振ってお祓いをしていいようだ。
拝殿の左手を進んで後方の本殿に....玉垣に囲まれた中の一段高い位置に、両側面に唐破風を設けた平唐門と流造の本殿が鎮座している。 本殿の正面三間はいずれも桟唐戸だが、、中央間の桟唐戸には五三桐の紋を入れている。
本殿の左手に転びのある柱の神明鳥居を構えた天神社が鎮座....南北朝時代の建武年間の勧請とされる。 拝殿の右手に石造りの明神鳥居が立ち、石段上の基壇に小さな流造の稲荷社が祀られている。 稲荷社の向拝柱に繋がれた神使の白い狐の像が、倉稲魂神を守っている。

餘慶寺山内の真ん中に伸びる広い参道の突き当りに鎮座する豊原北嶋神社
 
参道入り口に鎮座する安政七年(1860)造立の阿形吽形の狛犬....後方は餘慶寺の三重塔で、平安時代の神仏習合(本地垂迹)の形態を留めている

額束に「豊原北嶋神社」の額が掲げられた石造り明神鳥居....しめのこと紙垂を付けた注連縄が下がる

明神鳥居を通して眺めた拝殿
 
一段高い社殿境内への石段前の参道脇に建つ切妻造銅板葺の手水舎と対面に簡素な四阿

親柱に擬宝珠を乗せた玉垣と築地塀に囲まれた境内に建つ社殿(拝殿)
  
石段上の参道脇に立つ百度石/石段上の両側に立つ寛政三年(1791)造立の石燈籠/力石は安政五年(1858)、寺元多三郎が持ち上げたもので四拾貫(150kg)ある

入母屋造銅板葺で妻入りの拝殿....平成十八年(2006)の再建、大棟端に鳥衾を乗せ五三桐の紋を入れた鬼板、拝に蕪懸魚、飾金具を施した破風板、妻飾は狐格子
 
正面三軒で広い中央間は格子引戸、脇間に格子窓....礎盤上の向拝柱は几帳面(だったかな)の方柱/金属製の事務机の上に3本の御幣が供われている....神拝の際に自身で打振してお祓いしていいようだ

軒廻りは一軒疎垂木で、組物は長い束の舟肘木....側面八間で五間に格子窓

拝殿後方の玉垣に囲まれて鎮座する本殿....左側に鎮座するのは転びがある神明鳥居を構えた天神社

流造銅板葺の本殿....大正八年(1919)改築....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木、端に獅子口が乗る

4基の石燈籠を構えた神門は銅板葺の平唐門....袖塀は連子子を配した透き塀

趣がある平唐門....扉は連子を入れた桟唐戸、大棟端に五三桐の紋を入れた鬼板、兎毛通は猪目懸魚

本殿の向拝階段下に板張りの浜床、4本の方形向拝柱、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁

流造の本殿の大棟端に五三桐の紋入り獅子口、拝に蕪懸魚

本殿は正面三間側面二間で、正面はいずれも桟唐戸....中央間のみ五三桐の紋入り、側面は羽目板の中に舞良戸風の扉

南北朝時代の建武年間(1334~1338)頃の鎮座とされる天神社....亀腹上に転びのある柱の神明鳥居

流造銅板葺の天神社....社殿は江戸末期に改修された....後方に白壁の築地塀がある

稲荷社の石造り明神鳥居と石段上の基壇に社殿、社殿後方は社務所....明神鳥居は文久四年(1864)の造立で額束に「正一位稲荷大明神」の額
 
稲荷社には祭神・倉稲魂神を祀る....もとは倉にある稲の神霊を祀ったのが始まり/流造銅板葺の稲荷社社殿....向拝柱に神使の狐像がひもで固定されている

裏参道の入り口に立つ石造りの冠木門....くぐって直ぐ右手に稲荷社が鎮座
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餘慶寺-(2) (瀬戸内)

2019年11月05日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・瀬戸内市】江戸時代には岡山藩主池田氏の庇護のもとで栄え、興隆期には7院13坊を擁した。 江戸時代に再建された堂塔が建ち並び、現在6つの支院(恵亮院・本乗院・吉祥院・定光院・明王院・圓乗院)を擁する。 山内は豊原北島神社とも隣接し、平安時代より発展した神仏習合の姿を遺存している。

本堂の北側に三重塔、その右奥に南面で薬師堂が建っている。 三重塔は江戸後期の再建だが、風格があり、バランスのとれた美しい塔だ。 三重塔の周りには平成二十五年に造営された蓮池に石組みを配した「遊慶の庭」があり、蓮の花が咲く頃はまさに三重塔に花を添えることだろう。
薬師堂の前には、石組を配した枯山水風の庭がある。 薬師堂は江戸中期の再々建だが、中世仏堂の古い様式を備えているうえに、桃山時代末期の創建からの経緯がはっきりしている仏堂だそうだ。 身舎の正面は簡素な造りで、前二間の吹き放しの外陣と奥の内陣とは格子で間仕切られ、格子上の欄間に「醫王窟」の扁額が掲げられている。 格子の隙間から中を覗くと、厨子に鎮座する薬師如来座像が見えるが、厨子の前面に磨りガラスが張ってあり、宝珠形の透明な部分を通して薬師如来様を拝観するようになっている....合掌。
薬師堂の左手に、流造りの愛宕社と日吉社が鎮座しているが、愛宕社には本地仏として勝軍地蔵菩薩像を祀っているそうな。 本堂前の参道を挟んだ向かい側に祇園牛頭天王堂の境内があり、祇園牛頭天王堂に隠れるように直ぐ後ろに祇園社が鎮座。 また境内には、宝暦十年(1760)に造立され、写経を納めた宝塔「法華塔」が立っている。

本堂の北側に位置する三重塔

三重塔の総高は20.6メートル、右奥は薬師堂

本瓦葺の三重塔....文化十二年(1815)の再建で、旧三重塔は源平合戦の時に焼失した
 
各重は中央間に桟唐戸、脇間は連子窓....廻縁は切目縁で初重が擬宝珠高欄、二重&三重は組高欄....二重&三重の廻縁を支える腰組は平三斗

軒廻りは二重が二軒繁垂木で三重は二軒繁垂木....軒廻り以外は同じ造り、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は裾広がり間斗束、軒支輪と軒天井がある

初重の軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先で中備は裾広がり間斗束、軒支輪と軒天井がある

三重塔の北側に薬師堂、その左に愛宕社と日吉社が南面で鎮座

三重塔の傍の「遊慶の庭」と称される蓮池の石組み

入母屋造本瓦葺の薬師堂.....享保十九年(1734)再々建の3代目(創建は桃山時代慶長元年(1596)、江戸時代万治二年(1659)に再建)

薬師堂は桁行五間、梁間六間で、前二間は吹き放し....周囲に切目縁を巡らす

軒廻りは一軒疎垂木、組物は長い束の舟肘木で中備無し
 
内陣と外陣は格子で間仕切られ、仕切りの欄間に「醫王窟」の扁額が掲げられている

ガラス張りの内陣に鎮座する平安時代前期の一木造りの薬師如来坐像(重文)....左右に聖観音立像(平安前期作、国重文)と十一面観音立像(平安後期作)

薬師堂は中世仏堂の古い建築様式を残し、創建以来の経緯が分かっている稀な古建築とされる....堂前は石組を配した枯山水風の庭

薬師堂の左手に石造り明神鳥居を構えて鎮座する愛宕社(左)と日吉社

左の愛宕社は古来から火難を防ぐ神また勝利の神とされる、右の日吉社は餘慶寺の鎮守

流造銅板葺の愛宕社(左)と日吉社....愛宕社には本地仏として勝軍地蔵菩薩を祀る

愛宕社と日吉社前の石燈籠は天明四年(1784)の造立

六注造桟瓦葺の六角堂と右に切妻造桟瓦葺の十三佛堂と回廊

格天井には花の絵が六角堂に祀る奈良時代の僧・報恩大師
  
堂内に鎮座する合掌姿の7体の地蔵石仏/堂内に天台宗の根本経典「妙法蓮華経(8巻)」の巻数と同じ8個の摩尼車/六角堂に隣接する十三佛堂の入口

宝塔の法華塔と切妻造桟瓦葺の祇園牛頭天王堂

宝暦十年(1760)造立の法華塔....旧三重塔焼失後の跡地に造立されたが、現三重塔再建時にこの地に移設....周囲の石柵は寛政八年(1796)の造立
 
法華塔は宝塔で塔内に写経を納めている/宝暦十一年(1761)造立の石燈籠

切妻造桟瓦葺の祇園牛頭天王堂....園牛頭天王は東方浄瑠璃世界の薬師如来の垂迹で、行疫神の中で最高の霊力を持つ神
 
祇園牛頭天王堂の後方に鎮座する流造銅板葺の祇園社/祇園牛頭天王堂前にある三角型の手水鉢




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餘慶寺-(1) (瀬戸内)

2019年11月01日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・瀬戸内市】奈良時代の天平勝宝元年(749)に報恩大師によって開山され、当初は日輪寺と称したとされる。 報恩大師は孝謙天皇(記紀で第8代)の勅許を得て備前四十八ヶ寺を整備、餘慶寺はその一つとして栄えたと伝える。 一時衰退したが、平安時代になって天台宗中興の祖・慈覚大師円仁が再興して寺号を本覚寺と改め、本尊に千手観世音菩薩を奉祀 し、七堂伽藍が整えられて興隆を極めた。
平安時代末期、近衛天皇(第76代)の勅願所となって国家の安泰と五穀豊穣を祈願した。 この頃、寺号が餘慶寺に改められた。 宗旨は天台宗で、本尊は千手観世音菩薩像。 中国三十三観音霊場第二番札所。

吉井川に架かる雄川橋を渡った先、60mほどの小高い丘の上に広い境内が広がっている。
境内の真ん中を北に伸びる参道を進むと、左手に古色蒼然とした佇まいの堂塔が整然と建ち並ぶ。 参道突き当りに餘慶寺の守護社である豊原北島神社の明神鳥居が立ち、参道を挟んだ本堂の向かい側の弁天池の中の島に、本堂を向いて弁天社が鎮座している。
伽藍の西端に建つ袴腰の鐘楼堂から拝観を始めた。 鐘楼堂は、大棟両端に鯱と鬼瓦とを乗せ、両平面側に軒唐破風を設けた豪華で重厚な造りだ。 右隣りは白壁の地蔵堂で、平成元年に旧十王堂を建て替えたもの。 
地蔵堂の右に、国の重要文化財に指定されている観音堂と呼ばれる本堂が堂々と建つ。 簡素な造りの本堂だが、軒がかなり深く、緩やかに反り上がっていて優美さが感じられ、まるで羽根を大きく広げて飛び上がろうとしている鳥のようだ。 唐破風向拝の兎毛通や虹梁上に精緻で大きな彫刻が配されていて、見ごたえがある。 興味を引いたのは水引虹梁の獅子の木鼻で、前足がかなり長く、勇ましく駆け出しているような恰好で面白い。

餘慶寺の全景....右に隣接するのは餘慶寺の守護神を祀る豊原北嶋神社
 
石組護岸の弁天池の「中の島」に鎮座する弁天社          流造銅板葺の弁天社

東面で鐘楼堂、地蔵堂、本堂が並び立ち、奥に南面の三重塔....寺号標石に「中国観音霊場第二番札所」の刻

伽藍の西端に建つ豪華な造りの鐘楼堂

入母屋造本瓦葺で袴腰付き鐘楼堂....嘉永三年(1850)の再建....桃山後期から江戸初期の様式なので、旧鐘楼はその頃の創建のようだ

屋根の両平面に軒唐破風を設けた重厚な鐘楼堂
 
大棟端に鬼瓦と鯱、拝に三つ花懸魚、妻飾は虹梁蟇股/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は妻側二間に蟇股、平側の中央に蟇股、左右に間斗束、軒支輪を設けている
 
組高欄付き廻縁の縁を支える腰組は二手先で中備は間斗束/青銅製の梵鐘は戦国時代元亀二年(1571)頃の鋳造

寄棟造桟瓦葺の地蔵堂....平成元年(1989)の再建(旧十王堂で、十王は地蔵菩薩の化身とされる)

鳥衾付鬼瓦を乗せた切妻破風の玄関....正面中央間は腰高格子戸、脇間は白壁の小脇羽目に花頭窓
 
地蔵堂の右手に建つ本堂(観音堂)、奥に三重塔/本堂への参道脇に建つ切妻造銅板葺の手水舎
 
文化十四年(1830)造立の石燈籠          本堂右前に鎮座する向き観音石造

入母屋造本瓦葺の本堂(国重文)....正徳四年(1714)再建で本尊の千手観世音菩薩像を祀る(本堂の創建は戦国時代の永禄十三年(157))

正面五間側面四間の本堂....中央三間は両開き腰高格子戸で脇間は羽目板

唐破風の向拝の兎毛通や虹梁の上に大きな彫刻....水引虹梁の木鼻の獅子は長い前足付き
 
大棟端に迫力のある鬼瓦、拝に三つ花懸魚、妻飾は二重虹梁大瓶束/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は蓑束
 
唐破風の輪垂木は疎垂木....身舎と向拝柱を結ぶ虹梁の上に脚間に彫刻を施した蟇股/中央三間の扉は簡素な両開の腰高格子戸

内陣と外陣が仕切られ、間仕切りの菱格子欄間に「観音堂」の扁額が掲げられている

正面と側面に切目縁、側面四間で全て羽目板のような板扉
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