対話とモノローグ

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跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 1

2014-12-06 | 跳ぶのか、踊るのか。
跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 1

 1 saltaは「踊れ」

 「踊るのか、跳ぶのか。」を書いたあと、ある記事が気になった。その記事は、MIA: Encyclopedia of Marxism: Glossary of Terms にあったものである。イソップが「法螺吹」で伝えていた「ロドス」は、島の名前ではなく、棒高跳びで使うポールだったというのである。ギリシア語のrodosやラテン語のrodusはもともと棒を意味していたが、ある古代の翻訳者が偶然にRhodosと大文字で綴りはじめたため、人々は島の名前を指すと考えるようになったというのである。わたしは「ロドスとポールとバラ」で誤訳が発生した理由を述べた箇所を引用して、その記事へのリンクを張った。

 興味がわき真偽のほどを確かめようと図書館で辞書や関連するような文献をみたが、記事が指摘していた単語は見当たらなかった。もしあるとすれば、もっと専門的なギリシア語やラテン語の語源を研究するような文献だろうと思ったが、行き止まりであった。これが2007年である。

 2011年に、「ロドスとポールとバラ」のリンクをたどってみたら、記事は違っていた。まずタイトルが、Hic Rhodus , hic salta! から、Hic Rhodus, hic saltus!に 変わっていた。つぎに、ロドスはもともと島ではなく棒だとする箇所がすべて削除されていた。
 記事には、saltus = jump [noun], salta = dance [imperative]と明記されていた(saltus = 跳躍 [名詞], salta = 踊れ [命令形])。Hic Rhodus, hic salta! は、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」なのであった。
 しかし、私は、saltus が「跳ぶ」、salta が「踊る」ではなく、「跳ぶ・踊る」の意味をもつsalto が原形で、その名詞の対格が saltus 、その動詞の命令形が salta と考えていたので、salta は「踊る」ではなく「跳ぶ」と訳すのが妥当なのだとこれまでの考え方に疑いをもたなかった。そして、この記事もタイトルを変えることによって、ロドスでは「跳ぶ」ことを選んでいると思った。むしろ、ロドスはもともと島でなく棒であるという説の方が気になってきた。ありえないのか。このときも調べたが結果は同じだった。そんななか、「タ メタ タ ポーネーティカ」というサイトを見つけた。これは、古典ギリシア語と日本語を中心に置き、さまざまな言語について考察しているサイトである。それを運営されているユミヤらくと氏に、思いきって、疑問を述べ、教えを請うた。

 返事をいただいたが、うろたえてしまった。

 小文字が成立したのはアレクサンドロスと無関係であること、「棒」という意味をもつ ΡΟΔΟΣ というギリシア語はないこと、ラテン語の rodus (= raudus)にも棒という意味はないこと、英語の rodから連想された作り話ではないか、ようするに、ロドスを「島」でなく「棒」とみる根拠はまったくないことが指摘されていた。

 もしかしたら、という気持ちがあったが、作り話だったのである。しかし、本当にうろたえたのは、これではなかった。

 『世界の名著 44 ヘーゲル』の注は正確であると指摘されたのである。つまり、saltus は「跳ぶこと」で、salta は「踊れ」である。saltus は salto の名詞ではなくて、salio (跳ぶ)の名詞である。salta の訳は「踊れ」が正しく、「跳べ」の方が間違っている。
 アイソーポスの物語(ここがロドスだ、ここで跳べ)とあわないのは、「salta」ということばが使われているからである。アイソーポスの原文は、「 ΠΗΔΗΜΑ (跳ぶこと)」という名詞が使われていて、原文に忠実な訳は、Hic Rhodus, hic saltus!である。また、エラスムスの『格言集』(Adagia 3.3.28)でも Hic Rhodus, hic saltus!である。
 
  saltusが salta に変わったのは、いつの間にか salta に変化したか、マルクスがヘーゲルの tanze と対応させ 、一瞬でsalta に変えたのか、二つの可能性がある。

 Hic Rhodus, hic salta! の訳は「ここがロドスだ、ここで踊れ」が適切なのである。

 また、saltus はギリシア語の原文とおなじように単数・主格の「サルトゥス」が適切で、複数・対格の「サルトゥース」と考える必要はない。Hic..., hic... という対句で、どちらにも主格の名詞が使われた考える方が素直な読み方である。

 ようするに、「踊るのか、跳ぶのか。」を書いた私の語学的な根拠は真っ向から否定されたのである。

 ユミヤらくと氏は、その後、Hic Rhodus, hic salta! はマルクスの作文であることを確信された。氏とは違った見解を示している辞書やサイト、また私自身の推測を提示し見ていただいたが、ことごとく反駁された。「踊るのか、跳ぶのか。」の語学的な根拠はまったくなくなってしまったのである。

 しばらくして、「タ メタ タ ポーネーティカ」に「ムーンサルト、サルトプス」という記事が出た。おそらく、私とのやり取りからお考えになったことをまとめられたのだと思う。

 Hic Rhodus, hic saltus! に関係するところを、引用しておこう。
イタリア語の salto [サルト]は「とびはねること、ジャンプ、飛躍、急激な変化」っていう意味があって、ラテン語の saltus [サルトゥス](とびはねること、急激な変化)が変化してこれになった(厳密にいうと対格の saltum が salto になったっていわなきゃいけないんだろうけど)。

エラスムスの『格言集』(Adagia III, 3, 28)に Hic Rhodus, hic saltus! [ヒーク ロドス、ヒーク サルトゥス](ここがロドスだ、ここで とんでみろ)っていうのがあるけど、ここに saltus がでてくる。これはアイソーポス(イソップ)の「ほらふき」にでてくることばをラテン語に訳したものなんだけど、この格言はヘーゲルが引用して、さらにそれをうけてマルクスが引用したことで有名になったらしい。ただしマルクスの引用だと最後のことばは salta [サルター](おどれ)になってる。

saltus は salio [サリオー](とびはねる)っていう動詞の動作名詞なんだけど、salto [サルトー](おどる)っていう動詞からつくられた名詞だってまちがえられやすい。マルクスの引用にある salta はこの salto の命令形だ。saltus は動詞の語幹からつくられる第4変化の抽象名詞で、完了受動分詞とか目的分詞(supinum)とおんなじ語幹になる(っていうかこの抽象名詞の対格形が目的分詞になったんだけど)。salio の目的分詞は saltum だから、saltus とおんなじ語幹なのはすぐわかるだろう。ところが salio の反復をあらわす強調形 salito [サリトー](「とびはねる」の反復が「おどる」になるんだろう)が salto になったもんだから、まぎらわしくなった。

 salio(サリオー)跳ぶ、 salto (サルトー)踊る、Hic Rhodus, hic saltus! (ヒーク ロドス、ヒーク サルトゥス)ここがロドスだ、ここで跳べ。ラテン語の読みがついているのがうれしい。

 「踊るのか、跳ぶのか。」を読み直してみると、私の間違いの原因がわかる。

 フォイエルバッハの「ここがアテナイだ、ここで考えろ!」という表現をラテン語に翻訳するとき、Hic Rhodus,hic salta!を参考にした。そのとき「salta」が「salto」の命令形であること知った。このときの学習がそもそも間違いだった。「cogita」は、奇跡的に、考える「cogito」の命令形であった。

 次に、saltus" と "salta" の違いについて説明する森田信也(東洋大教授)の見解を見つけたことである。これは「salta」が「salto」の命令形という私の記憶を支持していたのである。この森田氏の見解は私の最初の間違いを覆い隠したのである。

 堀江忠男は、Hic Rhodus, hic salta! を、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と主張していた。私は違和感を覚えるのであった。「踊る」と「跳ぶ」の違いは、ヘーゲルとマルクスの違いと思っていたからである。いったい、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」などという訳はありえるのだろうか。これが「踊るのか、跳ぶのか。」のモチーフだった。調べていくと、踊れと訳しているのは、堀江忠男だけではなかったのである。

 『唯心論と唯物論』(フォイエルバッハ)の二人の訳者も「ここがロドスだ、ここで踊れ!」だったのである。私は次のように述べている。

 いったい、船山信一も桝田啓三郎も、どんな理由で「跳ぶ」ではなく、「踊る」と訳したのだろう。堀江忠男と同じなのだろうか。違う理由があるのだろうか。岩波文庫の初版は1955年である。角川文庫の初版も1955年である。そのころは、「踊る」が主流だったのだろうか。

 恥ずかしいかぎりだ。ラテン語に忠実ならば、「踊る」でよかったのである。「跳ぶ」ではないのである。

 私は、「踊る」を「老いたるもの」の立場、「跳ぶ」を「若者」の立場と対応させて理解してきた。いいかえば、「踊る」は肯定的理性、「跳ぶ」は否定的理性と関連させ、ハムレットの表現をかりれば、「踊る」は「to be」(このままでいい)、「跳ぶ」は「not to be」(このままではいけない)と対応すると考えてきた。saltaが「跳べ」ではなく「踊れ」なら、この考えは修正する必要があるだろう。

 しかし、やはり、ロドスでは踊らないのである。ロドスでは跳ぶのである。「踊る」のは薔薇、「跳ぶ」のはロドスである。saltaに「跳ぶ」の可能性がまったくないという条件のもとで、私は自分の考えをつらぬくことができるのだろうか。

   Hic Athenae, hic cogita! (ここがアテナイだ、ここで考えろ!)

        踊るのか、跳ぶのか。
 

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