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ゲストハウス・プリ / Guest House Puli

日月潭、廬山温泉、合歓山(登山)等へ向かう拠点になる町≪埔里≫で生活する日本人オーナーの個人日記。

霧社事件の末裔(セデック族)が住む『川中島部落』へ行って来ました。

2021年10月22日 | 日記

【清流 仁愛鄉互助村】

日本統治時代には’川中島’と呼ばれていたです。
ここのお米、最高に美味しいです!


【霧社事件】
1930年、当時仁愛郷の霧社エリアには11個所の社(村)があり、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社の300人ほどが抗日蜂起、霧社各地の駐在所(警察署)や公学校の運動会を襲撃した。
結果日本人132人と和装の台湾人2人が惨殺された。
最終的に、日本側は大砲や機関銃、航空機などの兵器を投入し蜂起軍を制圧した。

【第二の霧社事件】
1931年(昭和6年)4月25日:蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃と呼ばれた)をタウツア社(日本側の原住民)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。
5月6日:【第二の霧社事件】で最終的に生存したセデック族の人たちは282人。彼らは北港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられました。

川中島に移住させられた保護蕃の人たちは、マラリアや疫病に苦しめられ、移住から1年で住民は210人まで減り、2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただしその後は近隣の他との交流も始まり持ち直した。

【清流橋 川中島の入口にある大きな橋】



橋を渡ると’川中島’の文字が。ここから清流が始まります。


私も十年以上通っていますが、だんだん人口が少なくなっている様に感じます。


ちょっと散策してみました。


霧社事件の記念館です。主に写真が多いのですが、当時使われていた衣装や農具、ライフルなんかまで展示されています。


公所(役所)の壁にも霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオが描かれています。
やはり今でもヒーロー的な存在なんですね。



清流の一番大きな通り。この辺りに住居が集中しています。



【友人が営む お土産屋?】


馬告。山椒とはちょっと味が違うのですが、とにかく強烈な香辛料です。(私は苦手)。

本日も私の為にたくさんの食材を準備してくれましたが、この後に山に入るので(荷物になるので)いただきませんでした。



清流の中心は比較的人も住んでいますが、少し離れると ’ 完全な山 ’ です。






川中島。凄く良い所ですよ。

埔里からはバスも出ているので、コロナ禍が終わったら是非遊びにいらして下さいね。






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