西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ベートーベン「バイオリン・ソナタ第10番」

2007-12-29 10:24:27 | 古典派
今日は、ベートーベンの「バイオリン・ソナタ第10番」が初演された日です(1812年)。
ベートーベンは10曲のバイオリン・ソナタを書いていてその最後のものということになります。10曲中、5番の「スプリング」と9番の「クロイツェル」がとりわけ有名ですが、ニックネームは付いていませんが、この10番も内容豊かな優れた作品だと思います。
10番は、9番の「クロイツェル」の9年後に書かれた、バイオリン・ソナタのなかでは一作だけ孤立した存在となっている。9番「クロイツェル」は、ベートーベンの創作を3期に分けた場合の2期に当たっていますが、10番は3期への過渡期という捉え方がされています(2期に含まれるとする考え方もあります)。私はいつも、バイオリン・ソナタ群を見ると、その半分の数の5曲作曲しているチェロ・ソナタ群の4番と5番が第3期の作品(その入り口に当たるというべきか。3期への過渡期の作品と考える人もいます。私は単一楽章でできた第4番のソナタには第3期の弦楽四重奏曲群に見られる自由な発想が見られ、4番と5番の2曲は第3期に属するとみたいと思っています。)であることを考え、バイオリン・ソナタにも第3期に属する作品があればなどと思ってしまいます。「大公」トリオでピアノ三重奏曲を終わりとしたように、これらの組合せでは自分の考える所を表すには限界を感じたということだろうか。
ベートーベンは、10番のバイオリン・ソナタが初演された頃、大きな生活上の転機を迎えていました。それはこの年の11月2日に年金支給者の一人であるキンスキー侯爵が落馬により死去し年金が出なくなってしまったのであった。12月30日付で未亡人に手紙を書き、年金支給を要請したが、報われなかった。この年金支給はその3年以上前に結ばれた契約に基づくものだった。ベートーベンは、ウィーンの3人の貴族、すなわちルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵が、それぞれ1500グルデン、700グルデン、1800グルデンの合わせて4000グルデンの年金を支給するという契約書を、1809年3月1日付で結んでいたのだった。なぜこのような契約が結ばれたのかというと、その前年1808年10月にヴェストファーレン国王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)から首都カッセルの宮廷楽長に招請を受けていたことが理由である。その契約は、年俸600ドゥカーテンを一生支給するほか、宮廷楽団の演奏をする以外は、自由に作曲に時間を当ててよいとするものだった。このような時、12月22日の項で述べた演奏会の失敗に見舞われ、ウィーンに愛想を尽かし、09年の1月にはベートーベンは「ウィーンを去ることにしました」との手紙を書くほどになった。これを聞いた、エルデディー伯爵夫人は、あわててウィーンの有力貴族たちに相談を持ちかけ、ベートーベンをウィーンに引き止めるためにできたのが、先の契約ということである。キンスキー侯爵の年金不払いを書いたが、実はその前にもう一つの事件が起こっていた。年金支給契約者の一人、ロプコヴィッツ侯爵が1811年夏に破産し、9月から年金支給ができなくなるというものだった。ルドルフ大公を除く2人が年金支給不能となってしまったのである。これに対し、ベートーベンは13年6月に契約違反を訴える訴訟を起こした。ベートーベンにも「年金問題」が発生していたということである。これは2年後の15年1月18日にベートーベンの勝訴となって決着が付いた。ベートーベンは、この間カッセル宮廷楽長の地位を引き受けていればと思ったことだろう。しかし恵まれた中で、あの崇高な第3期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲の傑作群が生まれただろうかなどとも考えてしまうし、またさらに多くの傑作が誕生したかも知れない。事実は、この後、ベートーベンはウィーンにとどまり、あのような人類史における芸術上の傑作群を残してくれたと言うことだ。
バイオリン・ソナタ第10番は、なぜかその契約違反者のうちの一人ロプコヴィッツ侯爵邸で行われ、この時ピアノはベートーベンの弟子でもあった年金支給者ルドルフ大公が担当したということである。

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