西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ジャン・シベリウス

2007-09-20 09:36:36 | 国民楽派
今日は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの亡くなった日です(1957年)。
大学生の頃だったか、テレビで團伊玖磨が出演するクラシック音楽家をめぐる旅の番組がありました。すこぶる良質の番組で、毎週楽しみにしてまた気に入った内容のものはビデオに撮ったりしました。その時、軽快なマーチ風の音楽がテーマ曲に流れていましたが、それがシベリウスのカレリア組曲の中の第3曲「行進曲」でした。今もその曲を聞いたのですが、曲の途中で團氏の声が出てきてしまうのですね。シベリウスとの出会いは、フィンランディアとこの行進曲ということになるでしょうか。さらに、その番組の後にできたのだったか、「オーケストラがやってくる」というこれも良い番組でよく見ていましたが、司会の山本直純が小学生くらいの子に、どんな曲が好き?と聞いたら、その子が「あまり知られてないけど、シベリウスの2番の交響曲」と言ったのを思い出します。その頃私はその曲を熟知していたのだろうか。今となっては自信を持って名曲と人に推せ、旋律は頭の中でいつでも鳴り響きますが。
今年は、シベリウスの没後50年で、同じ北欧の作曲家グリーグの没後100年でもあります。これから今年いっぱいいろいろこの2人に因んだ音楽会があるのではと思います。私はと言うと、今年この二人の記念CDが出たので躊躇することなく買ってしまいました。グリーグが21枚組、シベリウスが16枚組みです。シベリウスの方は作曲全体からするとやや少なめですが、いずれも地元北欧の奏者が中心となって録音された名演と思っています。これから秋、冬とこれら北欧の調べを聴いていきたいと思っています。




マーラー・交響曲第7番「夜の歌」

2007-09-19 09:54:50 | ロマン派
今日は、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」が初演された日です(1908年、プラハ)。
この曲の副題は、全5楽章中、第2と第4の2つの楽章で「夜の歌」と名付けられた楽章が用いられていることにより、命名されました。5楽章は、マーラーの交響曲では珍しくなく、他に第2番と第5番がそうである。通常の4楽章スタイルは、第1番・第4番・第6番・第9番の4つである。そして第3番は6楽章、第8番は2部構成である。ついでに言うと、「大地の歌」は6楽章、未完に終わった第10番は5楽章を予定していた。楽章の多さから言ってもマーラーの交響曲は、長大であることが予想される。時間はどうなのだろう。ショルティ・シカゴ響の全集で、記してみると、以下のようになる。分.秒と表す。
第1番 55.53
第2番 80.51
第3番 92.17
第4番 54.23
第5番 65.53
第6番 76.36
第7番 77.32
第8番 79.28
第9番 85.04
大地の歌 64.23
第1番と第4番が1時間以内に収まるが、それ以外は1時間を優に越えている。ハイドンやモーツァルトのシンフォニーが2つも3つも聴ける時間である。

さて、以前どこかで、9つの交響曲でラインナップ(打順)を組むとどうなるか、などという遊びがあったのを見たことがある。9つの交響曲を書いて亡くなった作曲家がベートーベンをはじめ結構いることに目をつけたものだろう。3・4・5番はクリーンアップトリオといって主力の4番を中心に重量級のバッターが置かれるだろう。遊びであるが、打順を組むことで、その人がどんな風にそれぞれの作品をとらえているか分かるようにも思う。例えば、ベートーベンだと、やはり第9が4番バッターだろう。DH制ではない、ピッチャーを入れた打順で並べると、
8・4・3・9・5・7・6・2・1
となるだろうか。ちょっとあれこれ迷いましたが。時間的長さだけではなく、内容もやはり考えました。もちろん打順に関する考え方もあることでしょう。他にも、シューベルト(実は一曲かけているので、その点困ってしまうが)、ドボルザーク、ブルックナー、ヴォーン・ウィリアムズ、とその楽しみを与えてくれる作曲家はたくさんいます。マーラーはどうなのだろうと考えると、これまた困ってしまいます。4番打者がたくさんいるのですね。セ・リーグのどこかの球団のようです。




ウィーン会議

2007-09-18 10:59:49 | 音楽一般
1814年の今日、ウィーン会議が開かれました。映画「会議は踊る」で有名な、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける秩序回復を目指した会議である。当時のヨーロッパ4大国、すなわちイギリス・オーストリア・ロシア・プロシアそれとナポレオン戦争の当事国フランスがそれぞれ自国の利益のみを考え、延々と駆け引きが行われた。主催国オーストリアの接待長リーニュ将軍の言葉、「会議は踊る、されど進まず」がそれをよく表している。そうこうしている間に、15年2月ナポレオンがエルバ島を脱出し再び帝位についた。この報に接し、各国は急いで妥協をはかり、6月にウィーン議定書が調印された。こうしてできた戦後秩序ウィーン体制はその後30年ほど続くことになるが、多くの歪みを生むことになる。一方、ナポレオンは、ワーテルローでウェリントン指揮下の英軍と再度戦い、プロシア軍が助太刀に入ったこともあり、敗北を喫し帝位を退いた。百日天下であった。
さて、「進まない会議」を前にして、主催国オーストリアは、領土問題などにおける対立感情を宥める為に歌劇や音楽会や舞踏会をたびたび催した。この時、このウィーン会議の序幕を飾ったのが、ベートーベンの歌劇「フィデリオ」であった。会議開始8日後の9月26日のことであった。歌劇「フィデリオ」は、幾度となく改訂が加えられたが、この年14年の5月23日にほぼ現在ある第3稿の形の初演が行われた。会議中に特別上演されたのは、もちろんこの最終版によるものだった。ベートーベンのあまり知られていない合唱曲にカンタータ「栄光の瞬間」と「連合王侯たちへの合唱」というのがあるが、これらはこのウィーン会議に参加した王侯たちを讃え作曲されたものだ。このカンタータ「栄光の瞬間」と2度ナポレオンを下したウェリントン将軍を讃えた別名「ウェリントンの勝利」と呼ばれる「戦争交響曲」が11月29日の大演奏会で演奏された。この時には、第7交響曲も演奏されている。外交団と6千人の聴衆たちを前にしたこの演奏会は、大喝采を浴び、ベートーベンは一躍時の人となったのであった。彼は手紙で「疲れと心配と愉快さと喜びでくたくたになった」と書いている。
ベートーベンは、これより前1811年に劇付随音楽「アテネの廃墟」と「シュテファン王」を作曲し、12年に初演されているが、これらの劇を書いたコッツェブーは1819年にロシアのスパイとの疑いをかけられ、学生に暗殺されてしまいます。かつてのウィーン会議の主催者メッテルニヒは、翌年カールスバードの会議で、言論・出版の制限、ブルシェンシャフト(学生組合)の解散、などを決議しウィーン会議後にドイツで起こった自由主義運動の抑圧に乗り出したのであった。先にも記したが、大国主義がこれらの原因をなしているように思う。現代政治にも言えることだろう。

フランチェスコ・ジェミニアーニ

2007-09-17 12:09:02 | バロック
今日は、イタリアの作曲家フランチェスコ・ジェミニアーニが亡くなった日です(1762年)。
ジェミニアーニは、コレリやA.スカルラッティに学んだ、イタリア・バロックの最後期の作曲家で、有名なヴィヴァルディとほぼ同時代に活躍しました。主にイギリスを活動場所としていて、バイオリン奏法の著作なども残しています。
私は、彼の師にあたるコレリをイタリア・バロック音楽の中では愛好し、エドゥアルト・メルクスの演奏による、有名な「ラ・フォリア」を含む12曲からなる作品5のソナタ集のレコードを所持していますが、一つ分からないことがありました。それは、本来ならば、コレリの作曲した形で全12曲録音すべき所、なぜか第7曲だけは他の作曲家による編曲版を用いているのです。その編曲をしたのがこのジェミニアーニでした。今、久しぶりにその第7曲を聴きましたが、コレリのよさはそのままに合奏協奏曲に移し変えられたといった印象を持ちました。
このジェミニアーニとマンフレディーニを最後に、イタリア・バロックは終焉を迎えるのであった。

マリア・カラス

2007-09-16 08:12:06 | 音楽一般
今日は、ソプラノ歌手マリア・カラスの亡くなった日です(1977年)。
マリア・カラス、この名前は我々にはとても印象深い名前です。カラスという響きはどうしても、空を飛ぶ鳥を思い出してしまいます。変わった名前だが、それほどの歌手なのか?全くその素晴らしさも何も分からなかった頃、ただその名前だけが奇妙な響き故に私には心に残っていた。しかし依然聴く機会は無いままだった。カラヤンがカラスと組んだオペラをいくつか購入し、やっとカラスの素晴らしさが分かりかけてきたが、彼女の特徴を漏れなく集めたようなレコードを待ちわびていた所に出たのが、画像にある「マリア・カラスの芸術」(上巻・下巻)の全6枚のLP集だった。その真骨頂は、ベッリーニやドニゼッティなのかも知れないが、私は曲の好みからか、ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」の中のボレロなども好ましく思われた。
カラスはギリシアの海運王と愛人関係になり、その愛人が有名政治家未亡人と結婚したなどのニュースも後に聞くことになり、どうも私にはソプラノ歌手としての名望以外のほうに気を取られてしまうのである。

ブルーノ・ワルター

2007-09-15 07:53:46 | 音楽一般
今日は、指揮者のブルーノ・ワルターの生誕日です(1876年)。高校生時代、私の友人でフルトヴェングラーやトスカニーニ、それにこのワルターをとても素晴らしいという人がいました。もちろんその通りなわけで、万人が認めるところだろう。しかし、私がクラシック音楽を好きになった頃には、もうすでに3人とも物故していたわけで、尻馬に乗って自分が本当にそう思うというまでにいかないのに、素晴らしいなどとは言えないので、今もってワルターについては人に絶対良いと薦める自信はないのです。もちろんワルターのベートーベンを聴かねばと思い、シンフォニーの全曲を購入しました。またモーツァルトやマーラーもワルターでなければという人もいるのは知っています。それらも是非聴いておかねばというものは購入しました。じっくりそのよさを味わうのはこれからでしょうか。
フルトヴェングラーについては、ワルター以上に尊崇していた人がいたように思います。私も是非その演奏を知らねばと思い、ずっと後に三十数枚からなるCDセットを買ってしまいました。ところがトスカニーニだけは私はごく一部を除いて彼の録音したものを所持していません。聞くところによると、彼は、楽団員に対し指揮棒を叩きつけ折るほど叱りつけることがあるようで、どうもそのようなことを聞くと反発してしまうのですね。素晴らしい演奏を聴き逃しているのだろうか。

画像は、レコード店で景品に貰ったものです。昔は、レコード店では購入金額により、演奏家のポスターとともに実にいろいろな景品をくれたものでした。



2007-09-14 08:34:44 | 音楽一般
秋に関する曲はどのくらいあるのだろうか。手元の辞典を見ると、「秋」が11曲ありました。「秋の歌」も11曲。他に、「秋の気配」「秋の夕べ」「「秋の涙」「秋の吐息」などが出ています。歌曲王シューベルトにも、「秋」と題するレルシュタープの詩によるものがあります。D.945で晩年の作品です。レルシュタープは、私の大好きな「セレナーデ」(白鳥の歌の第4曲)の作者でもあります。以前、オランダの名ソプラノ、エリー・アメリングが「四季の歌」と題するLPを出したことがありました。シューベルトのリートから、春夏秋冬それぞれ1曲ずつを取り上げた曲集です。面白い試みと思いました。その秋に取り上げられたのがこの曲です。多くの詩人が秋を歌っています。それを取り上げた音楽家もたくさんいます。これから深まりつつある秋の中、それらについてもっと知りたいと思っています。

エマニュエル・シャブリエ

2007-09-13 09:05:59 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家エマニュエル・シャブリエの亡くなった日です(1894年)。
シャブリエと言えば、狂詩曲「スペイン」を思い浮かべます。短い曲ながら、スペインをフランス風にアレンジしたような躍動感溢れるこの曲は、やはり傑作というべきでしょう。シャブリエは、アマチュア出身ということもあってか、曲数は限られていますが、近代フランス音楽史の中で欠かすことのできない作曲家です。ロシアの5人組の1人ボロディンなどと同じと言っていいでしょうか。ピアノ曲に注目が行きますが、そのうちのいくつかを管弦楽に編曲した「田園組曲」もよく取り上げられます。劇作品も残していて、「星」や曲中に「スラブ舞曲」を含む「いやいやながらの王様」などが有名です。晩年の作品に「ブリゼイス」があります。ギリシア神話に題材を取った劇作品ですが、死によって未完に終わりました。精神を病んでいたということです。スメタナなども晩年はその種の病気を患ったようですが、シャブリエにおける狂詩曲「スペイン」、スメタナにおける「我が祖国」などを聴くにつれ、Pourquoi?(=Why?)などと思ってしまいます。デュパルク、ウォルフ、シューマンなども同様の病気を患っていました。かといって、何でも病人にしてしまう評論家の言動には困ったものです。

マーラー・交響曲第8番「千人の交響曲」

2007-09-12 09:23:13 | 音楽一般
今日は、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」が初演された日です(1910年、ミュンヘン)。
この曲の副題を見た時、ただ大勢で演奏すればいいということではないだろう、などと思ったことがありました。別にベートーベンの弦楽四重奏曲の世界を素晴らしいものと思っていたからということでもなかったでしょう。1000人はあまりにも仰々しく思えたのです。しかし後になって、マーラーの交響曲を聴くようになり、その第1番「巨人」から第7番「夜の歌」までの道程を見るならば、このような大規模な交響曲が次に来るというのも故ないわけではなかったのでしょう。マーラーがその時表したかったことは、このような表現方法を取るのが、過ぎたことでは決してなかったのです。しかし、「大地の歌」を挟んで、第9番はまた、いや寧ろ室内楽的な規模の状態にまで抑えられた交響曲が生まれたのだった。これもまた必然であったのかも知れない。
この8番は、5番や4番など多く慣れ親しんだマーラーの交響曲に比べると、まだ十分に聴いているとは言えないところですが、「のだめ」で何回かこの交響曲が顔を見せた時がありました。その時、何かまだ気付いてなかったことに気付いたような気がしました。要するに、まだ自分の中で十分咀嚼するまでにはなっていなかったということです。
ゲーテの「ファウスト」が、音楽の世界でも大きな影響を及ぼしているということを書きましたが、この第2部にも出てきます。というよりもマーラーの思想の中核になっているように思います。第1部では、ラテン語、第2部ではドイツ語で歌われていますが、その歌詞もしっかり熟知したうえで、じっくりこの曲の持つ意味を考えたいと思っています。



フランソワ・クープラン

2007-09-11 11:30:05 | バロック
今日は、フランスの作曲家フランソワ・クープランの亡くなった日です(1733年)。
フランソワ・クープランは、ブルボン王朝の最盛期ルイ14世・15世時代に活躍しました。音楽史でいうと、後期(盛期)バロック時代にあたりますが、特にフランスにおいては、ロココ時代と言い慣わしていいように思います。ヴェイロン・ラクロワによる彼のクラブサン曲の演奏を聴けば、まさに優雅なその調べはロココ趣味にピッタリなように感じられるからです。
クープランの名は、その後の作品にも出てきます。同じフランスの作曲家ラヴェルの6曲からなるピアノ曲「クープランの墓」です。またこのうちの4曲は、管弦楽組曲にラヴェル自身により編曲されました。
ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスも「クープランのクラヴサン曲による舞踏組曲」を書いています。これは8曲からなるもので、歌劇「薔薇の騎士」に通じるような響きです。
クープランは、バッハと同じく一族が音楽家であった。ルイ・クープランもこの一族である。J.S.バッハが大バッハといわれているように、このフランソワ・クープランも大クープランと言われています。その作品の多さや後に与えた影響を見ると頷けるように思います。