西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ウィーン会議

2007-09-18 10:59:49 | 音楽一般
1814年の今日、ウィーン会議が開かれました。映画「会議は踊る」で有名な、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける秩序回復を目指した会議である。当時のヨーロッパ4大国、すなわちイギリス・オーストリア・ロシア・プロシアそれとナポレオン戦争の当事国フランスがそれぞれ自国の利益のみを考え、延々と駆け引きが行われた。主催国オーストリアの接待長リーニュ将軍の言葉、「会議は踊る、されど進まず」がそれをよく表している。そうこうしている間に、15年2月ナポレオンがエルバ島を脱出し再び帝位についた。この報に接し、各国は急いで妥協をはかり、6月にウィーン議定書が調印された。こうしてできた戦後秩序ウィーン体制はその後30年ほど続くことになるが、多くの歪みを生むことになる。一方、ナポレオンは、ワーテルローでウェリントン指揮下の英軍と再度戦い、プロシア軍が助太刀に入ったこともあり、敗北を喫し帝位を退いた。百日天下であった。
さて、「進まない会議」を前にして、主催国オーストリアは、領土問題などにおける対立感情を宥める為に歌劇や音楽会や舞踏会をたびたび催した。この時、このウィーン会議の序幕を飾ったのが、ベートーベンの歌劇「フィデリオ」であった。会議開始8日後の9月26日のことであった。歌劇「フィデリオ」は、幾度となく改訂が加えられたが、この年14年の5月23日にほぼ現在ある第3稿の形の初演が行われた。会議中に特別上演されたのは、もちろんこの最終版によるものだった。ベートーベンのあまり知られていない合唱曲にカンタータ「栄光の瞬間」と「連合王侯たちへの合唱」というのがあるが、これらはこのウィーン会議に参加した王侯たちを讃え作曲されたものだ。このカンタータ「栄光の瞬間」と2度ナポレオンを下したウェリントン将軍を讃えた別名「ウェリントンの勝利」と呼ばれる「戦争交響曲」が11月29日の大演奏会で演奏された。この時には、第7交響曲も演奏されている。外交団と6千人の聴衆たちを前にしたこの演奏会は、大喝采を浴び、ベートーベンは一躍時の人となったのであった。彼は手紙で「疲れと心配と愉快さと喜びでくたくたになった」と書いている。
ベートーベンは、これより前1811年に劇付随音楽「アテネの廃墟」と「シュテファン王」を作曲し、12年に初演されているが、これらの劇を書いたコッツェブーは1819年にロシアのスパイとの疑いをかけられ、学生に暗殺されてしまいます。かつてのウィーン会議の主催者メッテルニヒは、翌年カールスバードの会議で、言論・出版の制限、ブルシェンシャフト(学生組合)の解散、などを決議しウィーン会議後にドイツで起こった自由主義運動の抑圧に乗り出したのであった。先にも記したが、大国主義がこれらの原因をなしているように思う。現代政治にも言えることだろう。