怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

南直哉「前向きに生きることに疲れたら読む本」

2022-09-29 07:06:47 | 
南直哉さんは永平寺で20年近く修行して、今は恐山菩提寺の院代(住職代理)をしているとか。
先日「ブラタモリ」を見ていたら「恐山」に行っていて、恐山菩提寺の院代と言うことで、その南直哉さんが出演していました。


ブラタモリではとくに当たり前ですけど宗教的なこととか人生訓的なことを話すわけでなく、恐山のツアーガイドのような役割をタモリと掛け合いながら愛想よくこなしていました。
恐山というのは山域の総称で恐山という山がある訳ではないそうです。独特の景観は火山活動によるもので、火山としてはまだ生きているから温泉が湧き(お寺の境内に共同浴場がある)硫黄ガスが噴出しているので電化製品はすぐに壊れるとか。
その南さんの書いたほぼ正方形というちょっと変形の本が家にあったので読んでみました。

読んでみると、ちょっとシニカルな見方で単純に前向きに生きていこうという気分をアゲアゲにする本ではありません。
仏教本来の考え方に忠実なのでしょうが、何でもありの日本では仏教が世俗化していく中で神道を包含し儒教的要素を取り込み本来の形とは大きく異なってしまい、釈迦の考え方に忠実にあろうとすると異端な感じがしてしまいます。
私という存在は「記憶」と「人とのかかわり」で成り立っている存在にすぎない。人はこの世にたまたま生まれ、他人から自分にさせられた。自分で望んだわけでもないのに生まれて来て、何の根拠もない人生を生きていかなければならない、そのやるせなさや悲しさを抱えて生きていく。う~ん、理屈っぽいけど釈迦が言っていそうです。
「なりたい自分」になるとは、記憶と他人の承認の中を彷徨いながら「自分はこれでいいのだろうか」と葛藤しているだけ。人は根本的には受け身で生まれてきているので、無理することはなくたいていのことはやり過ごしてもいいのでは。死ぬ間際になれば、対s他ことは残っていなくて、今ジタバタしている問題について、思い出したりもしないと言われると楽に生きられそうです。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉には思わず笑ってしまっている。置かれた場所というのはたまたま置かれたに過ぎない場所なので、自分がどんな場所に置かれ、どんな状況にあろうと、それは一時的な状況と捉えるのが仏教の視点。置かれた場所がつらければ別の場所を探せばいいと。
夢や希望は持たなくても大丈夫、周りに夢や希望をかなえて理想の人生を生きている人が何人いる?そんなもの叶えなくてもみんな十分元気に生きている!
思考や感情の波が渦巻いている時は、体から感情の流れをクールダウンして切ることが必要で、僧侶としては座禅をお勧め。座禅でなくても自分なりに合った方法を探して準備しておけばいい。そのためには物理的に一人になり、あまり動かずに出来ることが押さえる点だそうです。
人が怒るのは「自分が正しい」と信じているからなのだが、怒った時点で、もう一度本当に自分が正しいのか再検討の余地あり。当座の怒りを鎮めるには、怒りの相手から物理的には慣れ床に直接座てしまうことが効果的とか。
自分の生き方やありかたを決定づける人間関係はそう多くはない。本来、人が生きていくのに必要な人間関係はごく限られていて、多すぎる友達は心を疲弊させ精神的な健康を害するだけ。友達はいらないと言っています。自分自身のやるべきことだと思うことをやっていて、それが本当にやるべきことであれば、必ず人は集まってくる。
釈迦は、死後については「無記」の姿勢をつらぬいている。「死後の世界があるかどうかは分からない、どうなるかも分からない」と言い残しているだけ。すべてはそこで無意味になる。なぜなら「意味」は生きている人間が生きている間に考えることだから。これは今の「葬式仏教」ではタブーでは。
あの世の心配など暇つぶしにすればよいだけ。死はどうせ分からないから、それくらい気楽に考えればいい話だと。こんな話は葬式の時に和尚さんは絶対に話さないと思います。
肩ひじ張らずに気楽に生きましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする