カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教義は輪廻と空 ー 仏教論(3)

2022-10-27 17:32:07 | 神学


 第2章は「仏教の教義」と題されている。仏教にはいわゆる共通の教義はないとよく言われる。これは褒め言葉で使われる場合と、蔑称だったり、また自ら卑下して使われる場合もある。教義を教理とは区別された概念とするなら(1)、仏教のすべての宗派に共通の教義はないと言えそうだ。
 教理として考えるなら、仏教の各宗派(原始・大乗・小乗・浄土・密教・禅など)ごとに議論せざるを得なくなる。我々が目にする仏教の解説書はほとんど各宗派の教理論であり、その比較であるといえそうだ。
 ここではあえて、宗派にとらわれずに、小乗の「輪廻」論、大乗の「空」論を教義に近いものとして考えてみる(2)。シーダルタ(シャカ)輪廻論(縁起論)からナーガールジュナへという展開の中で仏教の教義の変化・発展を無理矢理整理してみる。

1 輪廻説をシーダルタの教えの中核だと言うとき,具体的には「六道輪廻」のことを言っているらしい。命あるものは六道の世界のどこかに生まれ変わり(転生し)、これを繰り返すというわけだ。六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道なのだという。
 では輪廻しないところ(場所)、ものはなんなのか。どこにあるのか。それは、涅槃とか、解脱と呼ばれるようだ。だから覚るとは輪廻から脱出して(解脱して)涅槃に至るということのようだ。
 では誰が,何が解脱するのか。どうすれば解脱できるのか。仏教ではこういう風に、解脱する人・もの、つまり主体のような物を想定すること自体が覚りの境地に達していないとされるようだ。ここにキリスト教的な予定説を読み取る人もいるようだが、普通は曹洞宗的な瞑想(只管打坐)か臨済宗的な問答(公案)を通して覚りの境地に至ると説明されるようだ。これは禅宗的なアプローチなので仏教の専門家はもちろんそういう言い方はしないのだろうが、それにしてもシャカの数多くの教えの中で輪廻説がそれほど重要なのかどうかはよくわからない。輪廻という考え方は仏教誕生よりもずっと古い考え方のようだ。また、現代日本人は自分が死後輪廻するなんて本気で考えてはいないのではないか。日本仏教では輪廻説は教義としては弱い気がする。

2 空の思想はナーガールジュナ(龍樹)の『中論』での展開が重要らしい(3)。ナーガールジュナの思想はまず「八不中道」論、または単に「中道」論と呼ばれるようだ。「およそ縁起であるもの、それをわれわれは中道と呼ぶ」と『中論頌』に書かれているという(4)。空の思想の解釈は多種多様でわれわれが口を挟むことは出来ないが、空とは無自性のことであるとは言えそうだ。シャカの言う縁起は結局は因果関係のことだから、すべての現象はそれ自体で存在する実体ではない(4)、つまり「自性」ではない。つまり「無自性」である。一切は縁起であり、無自性であり、空である、というのはこういうことを言うらしい。つまり、この無自性のことを空と呼ぶようだ。中道論には「四諦」説や「八正道」説などがあるようだが、これについてはすでに2018年のブログで紹介している。結局、この空の思想の中心は「二諦説」と呼ばれ、釈迦の教えなどは世俗諦であるが、第一義諦こそ究極の真理であると考えるようだ(5)。

3 このように仏教の教義を輪廻説、空の思想と特徴付けたとしても、どちらも現在の視点からはなかなかピンと来ない。キリスト教の教義、使徒信条とか、三位一体説とかの持つ圧倒的な力強さと比べるとなにか説得力に欠ける。そこで結局は、仏教の教義は、密教の唯識論に集約されてくると考えてみよう。
 もちろん大乗仏教の世界での話だが、この世の現象はすべて空であり、輪廻するだけだというのなら、一体何が輪廻するのか。霊魂か、肉体か。仏教は霊魂も肉体もその存在を認めない。では何が輪廻するのか。どうもそれを「」と呼んでいるようだ。現代風に言えば潜在意識みたいなものらしい。詳しい説明は専門書に任せるとして、唯識論の特徴はこの識を、意識を、いくつかの「層」に分けて考えているようだ。まず上の層に「五識」があり、その下に「七識」があり「末那識」(マナ識)と呼ばれる。現代心理学で言えば潜在意識みたいなものらしい(5)。さらにその下に「八識」があるという。この八識が「阿頼耶識」(アラヤ識)とよばれ、最もわかりずらい。そして最も重要な識らしい。主観でも客観でもない最も根本的なものらしく、普通は「色即是空」と呼ばれているようだ(色(つまり存在)は空であり、実体はない)。

 わかったようでわからない議論だが、仏教の教義を唯識論に求めるのは無理かもしれない。なぜなら普通唯識論は法相宗が支える思想だとされているからだ。識とはという意味だ。7世紀に三蔵法師がインドから中国に持ち帰った経典は唯識論の経典だったという。法隆寺や薬師寺は法相宗だ。法相宗は現在でも奈良仏教の中心として残っているという(6)。S氏は唯識論は法相宗の教義だと限定的に説明しておられたが、致し方ないのかもしれない。他方、橋爪・大澤氏は「唯識論は現代的だ」と評価している(7)。唯識論はキリスト教の神秘主義と同じようにもっと注目を浴びてもよい議論かもしれない。

 

【唯識(八識説)】

 


1 教理は各宗教の始祖・開祖の言説を整理したもので、教義は各宗教の共通の会議で公に承認されたものと理解してみる。カトリックで言えば、使徒信条は教義であり、カテキズム(『カトリック教会のカテキズム』や『カトリック要理』など)は教理と呼べそうだ。教義をドグマと言い換えると、その宗教の教えの体系化されたものというニュアンスがでてくる。
2 輪廻説には歴史的背景として縁起説と煩悩論があるようだ。縁起説が煩悩論と結びつくことでシャカの輪廻思想が生まれたとも考えられるようだ。
3 ナーガールジュナ 150~250頃。中観派の祖。広く大乗仏教の祖とも言われる。キリスト教で言えばパウロのような位置づけの印象を受ける。
4 縁起説は、すべてはなにか固定的な実体ではなく、他との関係の中でのみ存在すると考える。現代哲学で言えば相関主義とでも呼べそうだ。真理は、実体ではなく関係なので、「般若」によってのみ獲得可能だという。つまり、般若心経を唱えて知恵(般若)をつければ真理を覚れます、と言っているのだろうか。
4 瓜生中『お経読本』 16頁 2014
5 第一義諦と世俗諦の違いの説明は他書に譲る。要は、真理を言語や概念で把握・表現できるのかどうかということらしい。中観派の中観とは存在と非存在の中間という意味らしく、キリスト教の否定神学との類似性がしばしば言及される。これはこれで興味深い論点だが別稿にゆずりたい。
 ちなみに、否定神学とは、神の存在証明を「神は~ではない」という否定的表現でしか語れないと主張する神学的立場のことだ。。神秘主義神学が代表例だ。正統派の肯定神学と並立している。ジョンストン師は否定神学を高く評価しながらも、肯定神学(カタファティック神学とも呼ばれる)を見過ごしてはならないと警告している(『愛と英知の道』46頁)。
6 五識とは眼耳鼻舌身でそれに意識を付け加える。
7 南都仏教・奈良仏教は檀家を持たず、葬儀も挙げない、法要もないので財政面はどうしているのだろう。自教団の僧侶の葬儀も他宗にあげてもらっているという。南都6宗は今は南都3宗になってしまっているようだ。
7 橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』 第5章 2013

 

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