カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

世界の難民中5人に1人がパレスチナ難民 ー イスラム教概論23(学び合いの会)

2021-11-25 12:38:01 | 神学

 パレスチナ難民は、1947年の「国連パレスチナ分割決議」に端を発して生まれたという。国連難民条約の適用を受けることもないので、常に軍事的脅威にさらされていると言われる。周辺国に逃れた難民は560万人近かったという。無国籍で、すでに第3,第4世代になっており、ほとんど難民キャンプで生活しているという。世界中の難民総数の5人に1人がパレスチナ難民だという(1)。
 中東和平問題は変化の兆しがあるが、難民問題は別でここ数年さらに深刻化しているとようだ。

 

(イスラエル警官隊とパレスチナ人)

 

 

 

3 パレスチナ難民問題

 パレスチナ難民とは誰なのか。それがどういう意味で「問題」なのか。そもそもパレスチナ人とはどういう民族なのか。そして「中東和平」問題とはなんのことなのか。詳しい話は専門書に任すとして、ここでは次のように理解しておきたい。

 パレスチナ難民とはイスラエルが国家を樹立した後パレスチナの地を追われて難民となった人々のことだ。特に第3次中東戦争(6日戦争)でイスラエルが広げた支配地域に住んでいた人々が難民となり、その子孫を含めると900万人以上という。約半数はヨルダンに住んでおり、これはヨルダン川西岸とガザ地域に住んでいるパレスチナ人と同じくらいの人数だという。

 パレスチナ人とは、もともとパレスチナ地方に住んでいたアラブ人のこと。民族的にはヘブライ人(ユダヤ人)やサマリア人の子孫が征服者であるアラブ人と混血し、宗教的にイスラム化し、言語的にアラブ化した民族らしい。

 現在のパレスチナとは、「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」からなる。ヨルダン川西岸とガザは1994年以来「パレスチナ自治区」とされ、「パレスチナ自治政府」は存在していたが、独立国家ではない(2)。人口は両地域を合わせて約455万人くらいで、過半数は子どもと言われる。人口規模は500万人規模の福岡県くらいか。面積はヨルダン川西岸地区は5,655平方kmというから愛媛県や千葉県程度の広さのようだ。
 現在、パレスチナに在住するパレスチナ人は約450万人強、ヨルダン在住の難民が300万人、その他の国への移民や難民を含めると約940万人くらいらしい(3)。

 中東和平問題という言葉には二つの意味があるらしい。一つはイスラエルとアラブ諸国との紛争対立のことで中東戦争はその例だ。もう一つはイスラエルと、ヨルダン川西岸とガザ地区に住むパレスチナ人との紛争のことを指すようだ。イスラエルと「パレスチナ自治政府」(PAまたはPNA)との和平協議などはその例のようだ。中東和平問題では日本政府は「2国家解決」という政策的立場をとっているようだ(4)。

歴史的経緯

①第一段階
 1947の国連のパレスチナ分割案承認の後、パレスチナは事実上の内乱状態になる。上流階層のアラブ人は一時的に待避したという。

②第二段階
 1948年5月 独立戦争により、都市の下層民と農民がパニックになり離散する。

③第三段階
 1948年9月ー11月 現地指揮官がアラブ人を追放。50万人のパレスチナのアラブ人が難民となり、ヨルダンとガザに流入した。

④第四段階
 1970年9月 「黒い9月事件」:ヨルダン首相暗殺 ヨルダンは難民を拒否
        ヨルダンとPLO が対立し、PLOはヨルダンからレバノンに移動
 1975年 レバノン内戦開始 難民流入でキリスト教とイスラム教の政治的バランスが崩れ、
     PLO とイスラム教左派、キリスト教右派が対立し内戦勃発 15年間続く
     このあとシリア軍侵攻、イスラエル軍侵攻、多国籍軍進出と内戦は泥沼化する。
 1982  イスラエル軍レバノン侵攻 ヒズボラ(シーア派 イスラム主義過激組織)活動開始
⑤第5段階
 2007 ヒズボラとレバノン軍の戦闘で難民キャンプ破壊される
 2011 内戦下のシリアからレバノンに難民流入 「二重難民」化


 パレスチナ難民(レバノンのシリア難民)

 

 

 

4 和平の試みと挫折

 中東和平は様々な試みがなされてきたが、パレスチナ紛争はいまだ終結の兆しはない。トランプ前大統領の和平案はあまりにイスラエルよりでパレスチナは受け入れなかった。バイデン現大統領は、ハマスをテロ組織とみなし、「2国家共存」策を唱えるが、関心は中東から中国に移っているようだ。
 現在のところスンニ派のアラブ諸国にとりシーア派のイランの脅威が増しているので、イランと敵対関係にあるイスラエルとの関係は改善の方向に向かっているようだ。つまりパレスチナ問題は相対的に重要性が下がっているようだが、難民問題は別で喫緊の国際的課題になっている。

①1970年代 イスラエルとアラブ諸国との間に和平の動きが始まる
②1974 イスラエルとエジプト、イスラエルとシリアの間に兵力引き離し協定が調印される
③1978 キャンプ・デービッド合意:アメリカによるイスラエルとエジプト間の和平合意成立
④1979 イスラエル・エジプト平和条約締結
⑤1982 イスラエルがレバノン侵攻
⑥1987 第一次インファータ(ガザ占領地区の民衆蜂起)(5)
⑦1993 オスロ合意(中東和平国際会議) これ以後しばらく小康状態が続く
⑧1994 イスラエル・ヨルダン平和条約締結
⑨2002 イスラエルがパレスチナ自治区へ侵入 オスロ合意は死文化する
⑩2005 イスラエルがガザ侵入
⑪2006 イスラエルがレバノン侵入
⑫2008-2009 ガザ紛争
⑬2018 アブラハム合意(イスラエルとUAEの国交正常化など、やがてバーレーンも)
⑭2021- ユダヤ人入植者団体による東エルサレムのパレスチナ人追放運動

 

 ガザを取り囲む壁(分離壁 Security Fence)



1 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所 UN High Commissioner for Refugees)によれば、2020年時点で紛争や迫害で退去を強制された人の数はトータルで8240万人という。そのうち国内避難民は4570万人、難民はベネズエラ難民を含めれば3000万人という。難民の最多出身国はシリアで660万人という。難民の5人に1人がパレスチナ難民という説は誇張ではないようだ。
2 パレスチナ自治政府とは Palestinian National Authority の訳語。1988年に「パレスチナ国」に改名し、2013年に正式に宣言した。ただし日本政府はパレスチナ国を承認していないためいまだPNAの呼称を用いている。日本のメディアや教科書もこれにならっているようだ。
3 難民とは移民の一部を指す。移民とは国境を越えて移動した人すべてをさすが、難民は紛争や迫害・災害などの理由で移動を余儀なくされた人をさすようだ(国連の国際移住機関の定義)。
4 要は、イスラエルの抹殺とか、パレスチナの消滅ではなく、イスラエル国とパレスチナ国の二つの国家の樹立と共存共栄を求めるという立場のことらしい。
5 インファータとは蜂起を意味するアラビア語だという。第二次インティファーダは2000-2005に起こる。

 

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イギリスの三枚舌と中東情勢 ーイスラム教概論22(学び合いの会)

2021-11-24 11:29:35 | 神学


 以下前回主要な要因として挙げた項目を順番に見ていきたい。

Ⅱ 中東問題の背景と経緯

【一】 オスマントルコ領の分割

 中世末から近世にかけて隆盛を誇り、ヨーロッパを圧倒したオスマン・トルコ帝国も18世紀には衰退した。第一次世界大戦では同盟国(ドイツ)側に加わり敗北する(1)。西欧列強はすでに大戦中にその領土の分割を図っていた。

①サイクス・ピコ秘密協定(Sykes-Picot Agreement)

 1916年5月、英仏露間で第一次世界大戦後のオスマン帝国の領土分割を約した秘密協定。サイクスはイギリスの、ピコはフランスの外交官の名前。3国それぞれの勢力範囲を定め、パレスチナを国際管理地域とした。この協定は、アラブ独立を約束したフサイン・マクマホン書簡、ユダヤ人国家の建設を黙認したバルフォア宣言と矛盾していた。やがてシリア・キルキア・メソポタミアが分割され、シリア・レバノンは仏の委任統治領、パレスチナ・トランスヨルダン・イラクが英委任統治領となる。


(サイクス・ピコ秘密協定)

 

②フサイン・マクマホン書簡(Husayn-MacMahon Correspondence)

 イギリスがアラブ独立を約束した協定。第一次大戦中、メッカの太守フサインはアラブ独立を条件にイギリス側につきオスマン帝国への軍事行動に同意した。イギリスに認めさせるため、エジプト高等弁務官マクマホンとの往復書簡(1915年7月~16年3月)を交わした。アラブ独立国家にはフサインはパレスチナを含むと考えたが、イギリスは含まないとした。さらにこの協定はサイクス・ピコ秘密協定におけるシリアにおけるフランスの権益に抵触した。

③バルフォア宣言 (Balfour Declaration)

 バルフォア英外相が1917年11月29日に在英ユダヤ人協会会長ロスチャイルド卿に当てた書簡形式の宣言。第一次世界大戦でイギリスはユダヤ人の財政援助に期待し、事実上ユダヤ人国家の建設を承認する内容の宣言だった。これはによるアラブ人国家の承認を含むフサイン・マクマホン書簡やサイクス・ピコ協定と矛盾するものであった。これはイギリスの「三枚舌」であり、以後イギリスの三枚舌外交と呼ばれるようになる(2)。


【二】 パレスチナ問題

 パレスチナ問題とは、パレスチナをめぐるユダヤ人とパレスチナ人との民族紛争のことをいう。
古代のユダヤ人によるローマへの二度にわたる反乱(ユダヤ戦争)により、2世紀前半にユダヤ人は国を失う。以後国を失ったユダヤ人にとり祖国復興は長年の念願だった。実に2000年近く世界中を流浪する。

1 イスラエル建国までの経緯

1881 シオニズム運動開始 ユダヤ植民開始 ロシア帝国でのポグロム(3)から逃れたユダヤ人がパレスチナに移民した
1897 ヘルツルが世界シオニスト会議を開催
1917 バルファオア宣言(ユダヤ人のナショナルホームつまり民族郷土の建設を英が了承)
1922 フサイン・マクマホン書簡で英はアラブ王国にパレスチナは含まれないとした
1939 マクドナルド白書(パレスチナ白書)で英はバルフォア宣言を事実上撤回する

 ここにイギリスはユダヤとアラブの両者に矛盾した約束をしたことで処理不能に陥り、第二次世界大戦後国際連合に処理を丸投げする

1947・11 国連総会はパレスチナ分割案を承認する アラブは拒否
1948・5 イスラエル国建国 翌日直ちにアラブ諸国はイスラエルに侵攻 中東戦争始まる(4)

 

(嘆きの壁で祈るフランシスコ教皇)


2 イスラエル建国と中東戦争

 中東戦争は大規模な戦争は4度戦われたとされている。

①第一次中東戦争(第一次パレスチナ戦争)
 イスラエルが独立宣言をした翌日、つまり、イギリスによるパレスチナ委任統治が終了した1948年5月15日、エジプト・シリア・トランスヨルダン・イラク・レバノンがイスラエルを侵攻。イスラエルが勝利する。

②第二次中東戦争(スエズ戦争)
 エジプトでは1952年に王政が倒れナセルが政権を掌握。ナセルは1956年スエズ運河会社国有化を宣言した。これに反発する英仏がイスラエルとともにエジプトを攻撃して戦争開始。米ソから批判されすぐに撤退。

③第三次中東戦争(六日戦争)
 1967年にナセルがティラン海峡封鎖を宣言。6月にイスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンを奇襲した。エジプトからシナイ半島、ガザ、シリアからゴラン高原、ヨルダンからヨルダン川西岸を奪う。イスラエルの国土面積は倍増した。

④第四次中東戦争(10月戦争)
 エジプトのサダト大統領は第3次中東戦争で失った領土回復を目指して1973年にイスラエルを奇襲攻撃する。イスラエルは結局反撃に成功する。アラブ諸国は石油戦略でエジプトを支持し、第一次オイルショックを引き起こした。

 イスラエルは建国以来常に周辺のアラブ諸国の軍事的圧力にさらされている。イスラエルは国土は狭く日本の四国程度で、人口は934万人(2021年現在 イスラエル中央統計局)で小国(5)。だが安全保障体制は常に臨戦体制で軍事力は中東随一といわれる。核も保有していると言われ、アラブ諸国に対する軍事的優位を保っている。男子32ヶ月・女子24ヶ月の国民皆兵制で正規軍は17万と言われる(6)。



1 13世紀に生まれたオスマン朝は前近代のイスラム史上最強の世界帝国。15世紀にはビザンチン帝国を滅ぼす。16世紀にはメッカとメディナを支配下に置き、イスラム教スンニ派の超大国となる。18世紀末から西洋化改革を始めたが西欧列強の圧力と民族独立運動の中で解体し始め、1922年にスルタン制廃止とともに消滅した。
2 この「三枚舌外交」という表現は世界史の教科書でも用いられているので、よく使われる普通の表現らしい(『もう一度読む山川世界史』2020)。
3 普通はロシアやウクライナでの反ユダヤ暴動またはユダヤ人大虐殺を指す。ドイツのホロコーストの先駆とも言われる。
4 中東戦争 Arab-Israel conflict は1948年から1979年までの4度の大規模な戦争をさす。和平協議で紛争が沈静化した後も(1979年エジプト・イスラエル平和条約締結)、PLO(Palestine Liberation Organaization パレスチナ解放機構 パレスチナを代表する機関として認められている)やハマス(Hamas ガザ地区を実効支配するイスラム組織)などの非政府組織とイスラエルとの軍事衝突は続いている。2020年9月にはイスラエルとUAE,バーレーンが国交を回復し、今年(2021年9月)にはイスラエル首相がエジプト大統領と会談している。1979年以降ほとんど動かなかった事態が急変しつつある。敵の敵は味方なのかもしれない。
5 民族はユダヤ人が74%、言語はヘブライ語、宗教はユダヤ教が74%、共和制国家である。
6 自衛隊は24万人くらいだが対人口比では主要国では最低水準だという。

 

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敵の敵は味方の中東情勢 ー イスラム教概論21(学び合いの会)

2021-11-23 09:13:34 | 神学


 学び合いの会でのイスラム教概論は今日で最後となる。コロナ禍の中で中断もあったが、1年あまりよく学んだ(1)。この間アフガニスタンでタリバンが政権を奪い、アメリカ軍が撤退し、タリバンとIS(イスラム国、IS-K)との対立が深まるなど、イスラム教についてのわれわれの勉強もなかなか追いつかない。
 今日はイスラム教と現在の中東情勢のとの関わりが紹介された(2)。複雑なテーマなのでどのような視点から、どのような枠組みで整理するかが問われれる。今日のS氏の整理は簡潔で時宜にかなったものであった。補足を加えながら要約してみたい。

Ⅰ 現在の中東情勢

1 混乱と不安定

 一言で言えば、現在の中東は「政治的な混乱、社会的な不安定性」という言葉で特徴づけられよう(3)。その原因をイスラム教という宗教にだけ求めることはできないが、イスラム教との関連で眺めるなら、その歴史的・文化的・民族的背景を理解しやすくなる。

2 中東の主な紛争地

 現在の中東の主な紛争地帯をあげてみる。提示の正確さよりその数の多さに驚く。

①パレスチナ・イスラエル紛争 ②イラン対米国・サウジ
③イエーメン(イランとサウジの代理戦争) ④シリア内戦
⑤レバノン ⑥イラク  ⑦クルド民族 ⑧アフガニスタン
⑨リビア  ⑩チェニジア ⑪スーダン ⑫アゼルバイジャン対アルメニア

3 混乱の主要な要因

 これらの混乱の要因はいろいろ挙げられるだろうが、政治的要因に絞って整理してみる。

①旧オスマントルコ領の列強による分割
②イスラエル共和国建国(1948・5)とパレスチナ問題
③イランのホメイニ革命(1979・1)
④ソ連のアフガニスタン侵攻(1979・12)
⑤イラクのサダム・フセインの野望(イラン・イラク戦争 1980、クエート侵入、湾岸戦争)
⑥アルカイダによるアメリカ同時多発テロ(2001・9・11)
⑦「アラブの春」の民主化運動
⑧「イスラム国」
⑨クルド民族問題
⑩域外大国(米・露)の介入

 これらの要因は個別の出来事ではなく、どれもが相互に関連している。中東問題の解決が難しいのはこの複雑性に起因しているようだ。以下上記の10要因について簡単に整理してみる。背景にあるのは、オスマン帝国の崩壊とイギリスの三枚舌外交、そしてホメイニ革命だ。この三点を見極めないと中東情勢は整理できない。

 

中東の範囲(出典 Wikipedia)

 



1 イスラムかイスラム教か、とか、イスラムかイスラームかとか、用語の使い方(表現の仕方)で立場性が問われたりするらしいので、ここでは難しい議論には入らない。
2 情勢という言葉も曖昧だが、situation の訳語と考えるなら、状況が固定しておらず変化しているという点を強調する言葉なのであろう。中東問題とは言うが、中東状況とはあまり言わない気がする。
3 中東 Middle East とはどの範囲を指すのかは時代とともに変わってきているらしい。地理的概念ではなく、地政学的・政治的概念とみた方が良いようだ。オスマン帝国の崩壊で生まれた地域を指す概念として登場したようだ。第二次世界大戦以前はイギリスの植民地地域(エジプト・シリア・イラクなど)を指していたようだ。インド・イラン・アフガニスタンを含まず、トルコは「近東」と考えられていたらしい。第二次世界大戦以後は、イラン・アフガニスタン・中央アジアをも含むようになる。現在はイスラム教が支配的な北アフリカ、西アジアを含めることもあるようだ。

 

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「また司祭とともに」から「またあなたとともに」へ

2021-11-21 16:50:54 | 教会


 今日のミサは「王たるキリスト」の祝日のミサだ。イグナチオ教会では堅信式が行われていたし、関口教会では「世界青年の日」が祝われ、また東京教区の「ミャンマーデー」のミサでもあった(1)。今年もいよいよ終わりである。来週から待降節が始まる。
 来年(正確には2022年11月27日待降節第一主日)から新しいミサの式次第が始まるという。つまり、ミサでの式文(お祈りの「ことば」)がかなり変わるようだ。私どもの教会ではまだ司祭からのお知らせや説明はないので、変更(修正)の経緯や規模はまだわからない(2)。

 カトリック中央協議会のホームページを参考に、典礼委員会発行の書籍『新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更箇所――2022年11月27日(待降節第1主日)からの実施に向けて』を購入し、読んで少し学んでみた(3)。

写真 ミサ式次第

 

 

 

 経緯としては、典礼秘跡省の認証が2021年5月23日、司教協議会での報告と説明が7月におこなわれ、来年2月に使用を正式に定める「教令」が公布され、2022年11月27日(待降節第一主日)から実施されるという。この大きな変更があと1年後ということになる。

 この新しい「ミサの式次第」をみて驚いた点がいくつかある。最も驚いたのは、司祭が「主はみなさんとともに」と唱えた後の会衆の応答が、「また司祭とともに」から「またあなたとともに」に変わる点だ。「また司祭とともにはおかしい」とはずっと言われていたことなのでこの変更は本当に良いと思う。英語ミサで言えば、 And also with you なのだ。

 そのほかにも変更箇所は多いが、特に印象深かったのは「拝領前の信仰告白」の部分だ。会衆の応答は「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」で、我々はいつもこのように唱えている。「あなたをおいてだれのところに行きましょう」はよく意味が通じない文言だ。ちなみに英語ミサでは、
Lord, I am not worthy to receive you, but only say the word and I shall be healed.
と唱える。これはこれで議論があるらしいが、「あなたをおいてだれのところに行きましょう」に対応する部分はどれなのだろうと思う。
この部分は次のように変わるようだ。

「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」。発声しやすい良い文言だと思う(4)。ラテン語原文にも近いのかもしれない。

 このほか、「兄弟のみなさん」が「兄弟姉妹のみなさん」に、「主よ、あわれみたまえ」が「主よ、いつくしみをわたしたちに」とか、「司祭の手を通しておささげするいけにえ」が「あなたの手を通しておささげするいけにえ」に変わるようだ。「主の祈りの副文」で「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」は「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」に変わるようだが、さすが主の祈りや使徒信条は変わらないようだ(5)。

 このコロナ禍の中で、各教区・小教区での説明や練習がどのように行われていくのか見当もつかないが、日本カトリック典礼委員会が示している「実施までの手順」は次のようになっている(6)。

写真 式次第手順

 



1 私の所属教会は分散ミサがまだ続いていて月に1回順番が回ってくるか来ないか位なので、私はテレビのYoutube でミサに出ている。
2 簡単言えば、日本の司教団はローマに『ミサ典礼書』の大幅な修正を望んでいたが、何年たってもなかなか全文の修正の許可が下りなかったようだ。時間ばかりたつので、とりあえずこの5月に教皇庁典礼秘跡省から認証された部分だけを実施することにしたらしい。
 現行の『ローマ・ミサ典礼書』日本語版は『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語規範版の日本語訳で、1978年に「暫定認可」されている。正式認可がないまま40年以上使われているわけだ。あまりに時間がかかるのでさらなる改訂作業が21世紀に入ってから(20年ほど前から)始まったようだ。2014年に「ミサ総則」改訂版がローマから認証を受けたが、その後に続く「ミサの式次第」は認証がでない。「ミサ総則」改訂版の一部の変更箇所は2015年以降実施されたようだが、今回やっと「ミサの式次第」の認証された部分だけが実施されるようだ。
3 文書はホームページからpdfでダウンロードできる。書籍はアマゾンでも買える。
4 この部分は、現行の『ミサ典礼書』の文言「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」を継続して使用しても良いことになっているらしい。議論がまとまらなかったのであろう。
5 よく使われるという意味では「めでたし」も変わるのだろうか。「使徒マリアへの祈り」になったり、「アヴェ・マリアの祈り」になったり、覚えきれないうちに変わるのも困る。典礼文が背面ミサから対面ミサに変わったとき(第二バチカン公会議以降)ほどの変化ではないにせよ、この半世紀ミサ式次第は何度か変わってきた。たとえば現在は、蝋燭は祭壇上に2本、主日には4本、司教司式は7本、開祭での表敬の仕方、「主に栄光」で額・口・胸に十字を切る、共同祈願の後は着席、聖体奉仕者の動作など、典礼係でなければなかなか気づかない変化があったようだ。時代が変わるのだから変化があるのは当然だが、今度の変更はミサ典礼書の大きな変更の一部なのかもしれない。
6 歌ミサの式次第はどうなるのだろう。現行『典礼聖歌』の201番(単声)202番(多声)の旋律の変更は聖歌隊にとっては大きな試練だし喜びでもあるだろう。どう変わるか楽しみだ。

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