カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

キリストの聖体の主日ー最後の非公開ミサ

2020-06-14 12:29:50 | 教会

今日6月14日は年間第11週のキリストの聖体の主日(A年)である。公開ミサの自粛が3ヶ月半続いて、6月10日に菊池大司教から
「6月21日からの、教会活動再開について」という発表がなされたあとの最初の主日である。この発表はやっと出たということで、
東京教区に限らず日本中の教会や信徒がホッとしたと思う。

 わたしの教会でも、昨日から分散ミサが始まった。わたしの組はしばらくは順番が回ってこないので、聖体拝領には与れない。
そこで関口教会の配信ミサにでる。関口教会では今日が最後の「非公開ミサ」なのだという。10時の動画配信ミサも
今日でおしまいのようだ。配信ミサははじめての試みだったのでわたしもあちこちの教会のミサを覗いてみたが、
関口教会の動画は安定していてよかった。準備された方々に感謝したい。

 菊池大司教のお説教も心なしが安堵感が感じられた。われわれは皆早く聖体拝領に与かりたいと思ってきたが、菊池司教は、
聖体拝領は「個人の霊的渇きを癒やす」だけではなく、「共同体の秘跡・・・祭儀です」と力説しておられた。

 キリストの聖体は移動主日なので今年は去年(C年)より早い。来年はB年なので6日でもっと早くなる。最近は聖体顕示台をかかげた
聖体行列を見る機会はなくなったが、来年は賑やかにお祝いしたいものだ。

(聖体行列)

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旅する教会ーエッセンス(7)

2020-06-12 11:07:48 | 教会

 第5章は「キリスト教の誕生」と題されている。4節からなるが、内容は歴史論ではない。秘跡論である。「秘跡」について詳しい説明が
なされる。入門講座だから、キリスト者になるとはどういうことなのか、小笠原師は福音宣教を教義に重点を置きながら説明していく。

1 キリスト教の誕生と福音宣教

 イエスの復活という出来事を通してキリスト教信仰が生まれてくる。イエスが「キリスト(救い主)」と告白される。
では、「救い」とはなにか。救われるとはどういうことなのか。

 師は、救いには2つの側面があるという。それは、「心」が、

①とらわれから自由(解放)になる
②確かなこと、変わらないことで満たされる

 つまり、「心の渇きが癒やされる」ことだという。師は、イエスのおいて示された救いの道を、「過ぎ越しの奥義」の視点から
詳しく説明していく(1)。

 師は、ヨハネ福音書17章を使って、救いとは永遠の命を得ることだが、それはどこか遠いところで手に入れるものではなく、今現在、
イエス・キリストと一致し、いつも共にいてくださると信じることだと繰り返し説明する。キリスト教信仰における救いとは、「共に
いてくださる神」を信じることだと言う(2)。

2 洗礼とキリスト信者

 ここでは洗礼の意味が説明される。洗礼者ヨハネは悔い改めのしるしとして「沐浴の儀式」(水による洗礼)をヨルダン川でしていたが、
イエスは「聖霊と火で授ける洗礼」をおこなう。つまり、「父と子と聖霊の名によって」授けられる洗礼をさす。師はここで「三位一体論」
を詳しく説明しだす(3)。

 バプティスマとは「水に浸す、沈める」という意味だったので、イエスの命令は、聖書の原文では、「あなたたちは沈めなさい かれらを
 名の中に 父と子と聖霊の」とある、つまり、「あなた達は父と子と聖霊の名の中に彼らをどっぷり浸しなさい」という(184頁)意味
だという。つまり、洗礼とは、洗い流すという意味での「禊ぎ」ではないことが強調される。

 イエスが「父と子と聖霊の名による洗礼」を弟子たちに命じたのは、人々を「過ぎ越しの奥義」に参入させるためだと言う。
なんのことか。師は、パウロの『ローマの信徒への手紙』第4章を読み解きながら、洗礼の意味を確認する。

①福音(神の支配の到来)を信じて生きよ
②イエスは福音の目的である過ぎ越しの奥義を十字架の死と復活を通して成し遂げ、人々をそこに加わるよう招いた
③人は自分の一度の人生を過ぎ越しの奥義にゆだねて生きることが許されている
④過ぎ越しの奥義への参入は洗礼を通してなされる
⑤洗礼は旧いいのちのあり方から新しいいのちのあり方へ変えられることである
⑥こういう「変化」をキリスト信者たちは「恵み」と理解した。自力で勝ち取るものではなく、イエスの贖いのわざによって
与えられるものだと理解した。

3 キリストの教会とキリスト信者

 聖霊降臨の主日は教会の誕生日とされている。『使徒言行録』は、復活したイエスが弟子たちと一緒にいた40日間、父から
「神の息吹き(聖霊)」を送ると約束していたと記している。実際、5旬節の日に聖霊が降臨した。このシーンを描くルカの
驚きが伝わってくる。

 実際には、すでにあちらこちらでキリスト信者たちは共同生活を送ったり、集まったりしていたであろう(4)。
聖霊降臨をもって教会が始まったというキリスト信者たちの確信は、同時に、聖霊が教会を導いているという確信をもたらす。教会は
こうして使徒によって導かれ、福音を告げることが使命となる。洗礼を受けるとはこういう教会に加入することを意味する。
ここはもうイエス論でも、聖霊論でもない。師は教会論を展開する。

 洗礼を受けたからと言って、人は迷い、罪をおかし、道を誤る。師は、一コリント12章、ローマ書15章をひきながら、
「信仰の旅」が「浄化の旅」でもあること示す。教会が自分を「旅する教会」と改めてきちんと自己規定するのは第二バチカン公会議の
あとだが(5)、師は、教会は時代から時代へと歩み続ける存在だと説く。

4 使徒継承の教会とミサ聖祭

 この節では様々なことが説明される。基本的に秘跡論だが(6)、ベースは『ディダケー』(12使徒の教訓)(7)だ。教会の位階制度、
感謝の祭儀(エウカリスチア)、ミサの構造、ゆるしの秘跡、マリア崇敬、などのテーマが取り上げられる。

 師はまず、使徒継承の教会を位階制度を持つ制度として説明する。入門講座は教会をこういう組織体として描き、パパ(教皇)が
「教会全体の要」だとして示すようだ。カトリックですよということなのであろう。

 洗礼はこういう使徒継承の教会が行う行為なので、教会の交わりとは、人間的な交流ではなく、「感謝の祭儀」(エウカリスチア)に
参加することだと説明される。ここから、ミサ(感謝の祭儀、パンを裂く式)の説明が始まる(8)。


(パンと盃)

 

 ミサは「み言葉の典礼」部分と「感謝の典礼」の2つの部分から構成されるが、特に後半の「コムニオン」が中心となる。
日本の教会では「聖体拝領」と呼ばれるが、師は、この訳語はコムニオンがもつ「交わり、一致」という語感を伝えないのが残念だと言う。

 師は続いて、ゆるしの秘跡の説明を加える(9)。使徒継承の中心は、イエスが使徒に「罪を赦す権能」が与えられたことだという。
また、教会と聖母マリアとの関係についても説明を加えている(9)。どれもあっさりした記述だ。神学的にも難しい部分だし、
入門講座の範囲を越えているのかもしれない。

 わたしはこの第5章をまとめるにあたって、「旅する教会」と呼んでみた。小笠原師が直接こういう表現でこの章を書いている
わけではない。師はむしろ教義面では伝統的説明を重視している印象を受ける。だが教会が日本文化や習俗へ適応していくことの重要性も
忘れずに指摘している。

 イエスの教えを後生大事にそのまま伝えていくことも大事だが、第二バチカン公会議が目指したのは、教会が時代と共に
変わらねばならないということだったと思う。我々カト研もむかしむかし大学祭で、「教会は博物館ではない」と訴えていた
ことを思い出す。だれか覚えている人がいるだろうか。教会は観光施設ではない。時間が止まった博物館ではない。
 だが、この第二バチカン公会議以後の半世紀、われわれはどういう道を旅してきたのだろうか。



1 師は過ぎ越しの奥義を「無化の姿」として説明していく(175頁)。「ケノーシス」kenosis の説明だ。ケノーシスはふつう、
「自己を無にすること」と説明されるが、小笠原師は、「無」や「空」の概念を検討したあと「無化」という訳語をあてる。
そして、「無化」は「無為」と理解すれば多少意味が通ずるだろうという。「他力」の姿勢を暗示しているという。師の無化の説明は、
2ページにわたる。
 ジョンストン師もケノーシスの説明は詳しい。The emptiness of Jesus と説明している。無をnothingness とも言っている
(『Mystical Theology』 1995 Ch.10 Wisdom and Emptiness)。日本語への訳者たちはこれを「イエスの空」(くう,
そら ではない)と訳している(250頁)。ケノーシスを「自己無化」と訳している場面も多い(『愛と英知の道』2018)。
2 こういう「同行二人」的な表現は師が好むもののようだ。神の超越性をあまり強調しないと視点ともいえ、師の神学の特徴のようだ。
3 師は三位一体論がどういう歴史的経過で確立したかという説明はしない。むしろ、神が三位一体であるという考え方は「人間には
全く想像もつかない」考え方であり、「イエスという存在を通してはじめて見えてきた」点を強調する。洗礼が聖霊の賜物だという点が
強調される。聖霊が父から遣わされるのか、父と子から遣わされるのかという古代からの論争などにはふれないのは賢明は判断だ。
4 日本語の「教会」という言葉には、「共同体」(人の集まり)というニュアンスと、「建物」というニュアンスの両方が含まれる。
師は、エクレーシア(ギリシャ語)は「集会」を意味し、キリアコス(ギリシャ語 主のものという意味 独英のKircheやchurch)は
建物(礼拝堂)を指すと説明している。日本語の教会という言葉は、両方の意味を持つので便利とも言えるが、誤解を招きやすいとも言える。
5 『教会憲章』 第5章「教会における聖性への普遍的召命について」 第7章「旅する教会の終末的性格」
とはいえ、師は、『信仰の神秘』(未刊)のなかで、現在の教会の中にはいわゆる「神父信者」「シスター信者」がたくさんいると
その存在を痛烈に批判している。わたしはもう少し肯定的に捉えてよいのではないかと思うが、どうだろうか。
また、神学院で師から講義を受けたかっての神学生に話を聞いたことがある。みな異口同音に師の授業は厳しいと言っていた。
特に成績評価が厳しいとぼやくひともいた。講義をしている師が思い浮かぶようだ。今の若い神学生にはそのくらいがいいのかもしれない。
6 「理解を深めるために」欄と「コラム」欄での秘跡(サクラメント)の説明は5ページにもわたる。小笠原師の説明は詳細を極める。
秘跡とは神の、目には見えない神秘を、具体的に目に見えるように「しるし」と「言葉」で表す行為だと言う。祈りにはしるしがともなう。
同時に言葉もともなう。秘跡は、奇妙なおまじないではなく、単なるシンボルでもなく、しるしと言葉によって引き起こされる
「生きた出来事」だという。秘跡には、洗礼・堅信・聖体・叙階・ゆるし・病者の塗油・結婚の7つがある。各々の説明には入門講座では
まだ入らないようだ。
7 『ディダケー』は「教え」という意味らしく、『12使徒の教訓』と訳されているらしい。1世紀末に書かれ、最初のカテキズムで、
洗礼と聖餐の教義がまとめられているという。師によると、洗礼を受けた後の教会生活のさまざまな規定が記されていると言う。
師は、教会の使徒継承性を強調する。同じキリスト教でも、プロテスタントは使徒継承性を持っていないとされ、聖公会も持っているとは
認められないという議論が強いようだ。正教会は当然持っているとされるが、当然なこととしてあまり強調しない。使徒継承性の強調は
カトリック教会に独特のようだ。
8 古代教会では、求道者は感謝の祭儀の前半部分(み言葉の部)が終わると、「ここで退席してください」と言われ、ラテン語の時代に
なると 「Ite misa est 解散です」と言われて追い出され、後半部分には参加できなかったと言う。ミサという言葉の語源、
そして主の食卓を囲むことの重要性が説明される。また、4世紀に入ると、日曜日はユダヤ教の安息日の慣習にならって労働を休む日
(主の日)となり、現在でも日曜日を公休日にする社会は多い。
9 「崇拝・礼拝 adoratio」と「崇敬 veneratio」との区別が言及されるが、日本語としては相変わらず区別が曖昧な印象がある。
「アヴェ・マリアの祈り」(天使祝詞)も詳しく説明されているので、イエスの母マリアがなぜ「神の母」と呼ばれるようになったかの
説明もほしいところだ。『信仰の神秘』を待ちたい。

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天国も三密ーエッセンス(6)

2020-06-10 09:18:09 | 教会

第4章は「イエスの死と復活」と題されている。
いよいよ復活論である。復活論には二つある。イエスの復活の話と、われわれの復活の話だ。これは区別しておかないと、話が混乱する。
イエスの復活はキリスト教信仰の原点だ。この出来事がなければキリスト教は生まれなかった。
本章は4節からなり、50頁余におよぶ。要約は無理なので、ポイントだけをふれる。神学の話も入るので、小笠原師の神学院での講義を
彷彿とさせる。人間の復活の話は第6章でとりあげられる。

1 イエスの宣教活動の終わり

 イエスは過ぎ越し祭(1)に合わせて日曜日に都エルサレムに入り、月曜日から水曜日まで神殿内でサンヘドリン(最高法院)と
論争する(2)。大雑把に言えば、木曜日(過越祭)の夕方に最後の晩餐をし(3)、捕まる。金曜日に処刑され、夕方に葬られる。
土曜日は安息日で、日曜日に復活する(一日は夕方日没から始まるので時間は目安)。

 師はここで、過ぎ越し祭の意味と、最後の晩餐でイエスが言い残したことを詳しく説明する。最後の晩餐でのイエスの言葉は、
各共観福音書ごとに細かい言葉遣いは少しずつ違っているという。パウロもコリント前書で記述しているが、こちらのほうがより
整備された表現になっていると言う。ポイントは、キリストの血によってなされた神との契約を「新約(新しい契約)」と呼び、
この「新約信仰」が「旧い契約(旧約)」を完成させたという点のようだ。
 我々が普段与るミサはこの最後の晩餐の再現であることを思い起こしたい。最後の晩餐に今でも日曜日ごとに与っているわけだ。

2 イエスの受難と十字架の死

 聖書はなぜこのような拷問だの十字架刑だのという身の毛もよだつ話を事細かに記しているのか。イエスは立派な人だったという
綺麗事を書き連ねないのか(4)。むしろ各福音書は「受難物語」にかなりの頁を割いて、事細かに述べている。なぜなのか。

 師はこの問いに直接は答えない。イエスは死刑の判決を受け、無残にもそのまま殺される。神は救けてはくれなかった。
イエスの最後の言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」(マルコ15:34)。

 十字架上で死去したイエスは近くの墓に「仮埋葬」される。安息日(土曜日)が迫る金曜日の午後は時間が限られている。正式な
埋葬は一日休んで安息日明けの日曜日の明け方まで待たねばならない。弟子たちはみな散りじりに逃げ去ってしまっている。
イエスの宣教はすべて虚しく終わってしまったかに見える。

3 イエスは復活された

 入門講座では最大の難問の復活論である。日本語の復活はどうしても「蘇生」を連想させるので、復活と蘇生は別のことだと説明する
ことが最初の課題となる。ましてや「からだの復活」と言われると、どうしても蘇生を、黄泉の国からこの世に戻ってくることを、
連想してしまう。だがそれは間違った解釈だ。

 細かいことは聖書学者に任せるとして、復活とは、原文では、「起き上がらされて」と「受動態」で表現されているようだ。イエスは
自分で立ち上がると言うよりは、誰かによって死から立ち上がらされた、と受け身形で表現されると言う。

 イエスの復活物語は2つの部分からなる。一つは「空の墓の物語」、もうひとつは「復活したイエスとの出会い物語」だ。イエスの
復活物語は、共観福音書では「宣教」が中心なので、信者相手の信仰の書であるヨハネ福音書とは描き方の強調点が異なるようだ。
ヨハネはイエスが「神の子キリスト」であることを強調する。ここでは、復活が受動態として、受け身の出来事として、表現されている点が
興味深い。

(復活のイエス・天国も三密か)


4 イエスの復活が意味すること

 イエスが受難と十字架刑にあうと、弟子たちは恐ろしくて逃げ去り、師を裏切る。だがかれらはイエスに再び出会い、赦され、大きく
変えられていく。ヨハネ福音書第21章は弟子たちの赦しを描く。その描写は感動的だ。小笠原師はこのイエスの復活の啓示を以下の6点に
整理している。

①イエスの復活は、救いの本当のあり方を告げる福音の目標だった
②イエスの復活は、イエスが救い主キリストであることを証ししている
③イエスの復活を体験した弟子たちは、最後の晩餐でイエスが言い残していったことの真意を理解した
④イエスの死と復活は、神の介入によってなされた救いをもたらす過ぎ越しの出来事であった
⑤イエスは過ぎ越しの出来事に自分自身をすべて差し出し、「新しい契約」を成し遂げた
⑥イエスにおいて示された「贖いの出来事」は、イエスが「父」と呼んだ神のの望みであった

 つまり、弟子たちはイエスの復活を体験することによって、イエスが私達の間に遣わされた「神の子」であることを悟った(5)。
復活論は説明も理解も難しい。復活はヨハネ福音書では「永遠のいのち」と呼ばれている。復活を直接論じるよりは、永遠のいのちのほうが
論じやすいのかもしれない(6)。



1 イスラエル民族の最大の祭りは過ぎ越し祭と呼ばれ、ユダヤ教の正月(ニサンの月)の15日から7日間(1週間となる)
おこなわれる。これは祖先たちのエジプトからの脱出(解放)を記念するお祝いだ。
2 神殿内で暴れまわるイエスの行動は驚きだ。おそらく聖書の中で暴力を振るうイエスの場面はここだけではないか。最高法院は
イエス殺害の決意を固める。
3 ヨハネ福音書は、最後の晩餐を「過ぎ越しの祭りの前」(13:1)としている。一日早めている。これだと水曜日になる。
聖書学者のあいだでは議論があるようだ。ヨハネ福音書は「洗足」を詳しく描くとか、ゲッセマネの祈りに触れないとか、
共観福音書とは異なるところがあるらしい。
4 イエスは自分では手紙など書き物を残していない。書いたかもしれないが見つかっていない。
5 小笠原師はさらに、この章の「理解を深めるために」欄で、多くの神学的概念の説明を重ね、自説を展開しておられる。「からだとは」、
「契約とは」、「聖書における神理解」、「死に打ち勝つとは」、「永遠のいのちとは」と題されている。難しい神学用語を、日本文化の脈絡の
なかにおいて説明しようとしている。例えば、「神理解」の説明の中で西行の和歌を引用して、「神体験/超越体験」の根本はこのような
ことだろうという。「なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」。日本文化の中で聖書的概念を説明しようとする
師の面目躍如である。
6 師は「永遠のいのち」の説明の中で、永遠とは「時間を超えた状態/超時間」と呼んでいる。「初めも終わりもない状態」とも言っている。
これはもう存在するのはみ言葉のみ(物質のみ)で、時間なるものは存在しないと言っているように聞こえる。だから、「いのち」も
「霊」「息吹き」であって、天国や極楽浄土のようななにか「場所」(空間)ではなく、「今、ここで生きている自分にかかわる
ダイナミックななにか」と述べている(159頁)。師の神学を支える哲学的基盤が浮かんでくる。

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愛と赦しの教え ー エッセンス(5)

2020-06-08 10:35:10 | 教会

第3章の後半部分である。主の祈りの説明が中心となる。

5 イエスが説く愛とは

 キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれる。なぜそう呼ばれるのか。それは、イエスが「神の支配の到来」を告げ、「神と隣人を愛しなさい」
と教えたからだ。ではその「愛」とはなんなのか。

 ここで小笠原師は、愛の根本を物語るエピソードをいくつか紹介する。興味深い説明の仕方である(1)。

まず、マルコ10:17-22が紹介される。「金持ちの若い男」の話だ(2)。若者がイエスに問う。「永遠の命を受け継ぐために、
私は何をすればよいのでしょうか」。次に続くイエスとこの青年とのやり取りが興味深い。長文なので引用する余裕はないが、要は、
イエスは、
①律法主義からの解放
②隣人への無関心からの解放
 の2つを求める。特に、助けを必要としている隣人への無関心から自分自身を解放すること、イエスが宣教のはじめに訴えたのは
こういう隣人愛であった(3)。こういう心の解放を「回心」と呼ぶ(4)。

 このエピソードが示しているのは、確かな「救いの道」は「隣人となる」ことだ。イエスが説く「愛」とは、相手に抱く好ましい思いや
感情のことではない。そうではなく、「相手を大事にすること、相手を尊重すること」だという。こういう愛を「アガペー」と呼ぶ。
よく知られた話ではあるが、キリシタン時代、この「アガペー」には「ご大切」という訳語が与えられていた。愛するとは、
「ひとを大切にする」という意味で理解されていた。師は、「まさに本質をつかんだ名訳であった」と評価している。

6 「ゆるし」を説くイエス

 イエスは「神の支配の到来」を告げた時、「愛する」ことの重要性と並んで、「赦す」ことの重要性を強く訴える。愛と赦しは、神の
支配の到来という福音の二本柱である。では「赦す」とはどういうことか。

 キリスト教で「赦し」の話の時必ず登場するたとえがある。「放蕩息子のたとえ」の話だ。この話を初めて聖書で読んだり、聞いたり
した人は、身勝手な弟より、真面目な兄に同情するだろう。聖書は、イエスは、父親は、なぜこの身勝手な弟をほめるのか。
このパラドックスがとけないと、キリスト教的な「赦し」の概念が理解できない。

(放蕩息子)

 

 このルカ福音書の譬え話には、前半部分(15:11-24)と後半部分(15:25-32)がある。前半部分に「赦し」という言葉は
一度も出てこないが(5)、父親は息子が戻ってきたことを手放しで喜び、祝宴をあげる話だ。なんで怒らないで喜ぶのか。息子は自分は
「お父さんと天に対して罪をおかしました」と言い、父親は「いなくなっていたのに見つかった」と大喜びする。
 後半部分では、怒る兄、許そうとしない兄を描く。父親はしきりに兄を諭すがなかなかわかってもらえない。何がわかって
もらえなかったのか。

 師によると、赦すとは、単なるヒューマニズムとか崇高な道徳的理念なのではない。正しい人が悪い人を許す、ということではない。
「それはわたしたちと神との根本的な関係の問題であり、人間の真の救いに関わる問題なのです」(103頁)。イエスは赦しと悔い改めを
繰り返し訴える。自分の罪が赦されることと、隣人を赦すことは切り離せない、というのがイエスのメッセージのようだ。

 実はこの譬え話は、ルカ福音書が描いている3つのたとえの最後のものだという

①「見失った羊」のたとえ(ルカ15:4-7)
②「無くした銀貨」のたとえ(ルカ15:8-10)
③「二人の息子」のたとえ(ルカ15:11-32)

 イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不平不満への答えとしてこれらの喩えを話されたようだ。「悔い改めなさい」がイエスの
メッセージだったようだ。

7 主の祈り

 イエスが言葉と行動を持って訴えた「神の国の到来」という福音は、結局、「愛する」こと、「赦す」こと、の二点にあることがわかった。
この二点は切り離すことができないというのが師の説明のポイントだ。ここから師は「主の祈り」を一行一行詳しく説明を
始める。

 主祷文は前半と後半の二部分にわかれている。前半は父よと呼びかけながら救いのわざを「賛美」する。後半は、わたしたちの救いを
「嘆願」する形になっている(6)。入門講座の中ではもっとも重要な箇所であろう。「祈り」なのでわたしがあれこれ言うのは
控えたい(7)。
 


1 師は、「コラム」において、キリスト教の愛の概念と仏教の愛の概念を比較検討し、仏教における「慈悲」概念はキリスト教の
「神の支配」の福音と通じるものがあるという。また、よく言われる「アガペー」と「エロース」、「フィリア」との違いにも言及している。
私なりにあえていえば、アガペーは「神愛」、エロースは「性愛」、フィリアは「友愛」とでも訳せようか。
2 このエピソードは、マタイ19:16、ルカ16:18-22にも出てくる。
3 我々も日常生活の中で、完璧主義を求めたり(ルールは必ずまもりますとか完全でないと気がすまないとか)、自分の生活水準の向上
にのみに関心を払う(マンモンの神にとらわれるとか)傾向がある。耳の痛い話だ。コロナ禍のただ中にあるわれわれはいま自分を守ること
に精一杯で、隣人愛とはどういう形をとるものなのかわからない。また語る人もいない。
4 「回心」も「改心」もconversionの訳語なので混用されやすい。回心(かいしん)は罪を認めて心を神に向け直すことを意味する。
これを「えしん」と読むと仏教用語になってしまう。また、改心(かいしん)とは単に反省することで、改悛と同義語であり、
日常よく使われる。『NHK新用字用語事典』には、「改心」は載っているが「回心」は載っていない。キリスト教の特殊用語と
みなされているようだ。逆に、『岩波キリスト教事典』には回心は載っていても、改心は載っていない。さすが『広辞苑』には
両方載っている。
5 師はここで、キリスト教の「罪」概念について丁寧に説明を重ねていく。「恥」概念との比較、親鸞の罪意識(悪人正機論)、正義の
愛と赦す愛、傲慢の罪の説明など、まるでミサで師のお説教を聞いているようだ。
6 主の祈りの解説・説明はたくさんあるが、吉池師の解説は絶妙だと私の周りでは評判が高い。読んでいて気持ちがほのぼのしてくる。
吉池好高著『ミサの鑑賞ー感謝の祭儀をささげるためにー』 オリエンス 2018。この本は、新しい『ローマ・ミサ典礼書』
ラテン語規範版の第3版(2002)の総則部分だけが2015年にやっと日本語訳が認証され、この新しい総則に基づいて書かれた
ミサの解説書だ。ミサの典礼はこれからも変更が加えられていくだろうが、しばらくはこの本がミサの手引書の標準となるだろう。
7 念の為に、英訳、日本語訳、キリシタン訳をのせておく。声を出して唱えると、違いを感じる(どれもカトリックでの訳)。

The Lord's Prayer

Our Father, who art in Heaven
 Hallowed be Thy name.
 Thy kingdom come,
 Thy will be done on earth as it is in Heaven

 Give us this day our daily bread.
 And forgive us our trespasses
 as we forgive those who trespass against us;
 And lead us not into temptation,
 But deliver us from evil;
 Amen

For the Kingdom, the power,
and the glory are Yours.
Now and forever.

(主の祈り)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
アーメン

国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。

キリシタン訳 (1592 年頃 ) 「どちり な ・きりしたん」 ( バチカン本 )  

てん ( 天 ) にましますわれらが 国おや ( おん 親 ), 御名 ( みな ) をたつとまれたまへ, 御代 ( みよ ) きたりたまへ 。 
てん ( 天 ) にお ひてご おんた一での  おぼしめす  ままなるごとく ち ( 地 ) におひてもあらせたまへ 。
われらが日々 ( にちにち ) の 御 ( おん ) やしなひを今日 ( こんにち ) われらにあたへたまへ 。
われら人にゆるし 申 ( も うす ) ごとく われらがとがをゆるしたまへ 。
われらをてんた さんに はなし 玉 ( たま ) ふ事なかれ。
我等を げぅあ く ( 凶悪 ) よりのがしたまへ 。 
あ めん。

 

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三位一体の主日 ー 関口教会

2020-06-07 13:05:15 | 教会

 年間第10週に入ったようだが、今日は三位一体の主日だ。私どもの教会では相変わらず公開ミサはおろか分散ミサも始まっていないので、
関口教会の動画配信ミサにでる。

 菊池大司教はお説教の中で、「教会はもはや灰の水曜日以前に戻ることはありません」と断言しておられた。言われてみれば、
2月26日の灰の水曜日のミサが最後の公開ミサであった。4旬節が始まってからもう3ヶ月以上ご聖体拝領をしていないことになる。

 司教は「ミサに集まれない教会は共同体と呼べるのか」と問い、なにが教会共同体を「繋げているのか」と問う。「on line のミサが
繋げているのではない・・・それは神の愛であり・・・私達が教会なのだ」と言われた。そのとおりだろう。だが、人が集まらなくて
どうして共同体などといえるのか。司教は「少し光が見えてきた・・・集まる準備を始めます」と言っておられた。コロナ禍は数年続く
のであろう。教会も、慎重に、しかし迅速に、これから数年にわたるミサの見取り図を描いてほしいものだ。


(関口教会)

 

 今日の「聖書と典礼」には山本和久氏が「三位一体の神秘」と題して短い解説を書いておられた。「他者との深い関係性の中でこそ、
真の自立性は存在する」という。なんのことだろう。
 神学的に言えば、関係性、自立性は三位一体論争の焦点のひとつであったようだ。三位一体 Trinity とは、「一にして三であり、
三にして一である」というアタナシオス信条によって定式化された(1)。はじめて聞く人には何のことを言っているのかさっぱり
わからない話、矛盾した話だ。
 三位一体論は古代教会におけるモナルキア・キリスト論(神は単一)に対抗したロゴス・キリスト論(神は三位一体)を基礎に持つ。
ギリシャ定式では、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神が、おのおの「自存者」(ヒュポタシス)で、かつ、一つの「実体」(ウーシア)
であるという教義だ。ラテン定式では3つの「位格」(ペルソナ)が一つの「本質」であるとされる。
つまり、三位一体は、内在的に説明すれば創造に先立つ永遠の中における父・子・聖霊の関係について述べようとし、外部的には
創造・和解・完成という神のわざから説明しようとする。簡単に言えば、受肉の根拠となる論(2)として展開されたようだ。

(三位一体)

1 アタナシオス(295−373)はアレクサンドリア司教。正統信仰の父とされる。キリスト論と三位一体論を確立する。
2 受肉によってはじめて子が存在するに至ったとして子の永遠性を否定する議論は「様態説」として否定された。イエスは
神に対する従順のゆえに神の子とされたという「養子説」とならんで古代教会を脅かした異端説だという。

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