カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

旅する教会ーエッセンス(7)

2020-06-12 11:07:48 | 教会

 第5章は「キリスト教の誕生」と題されている。4節からなるが、内容は歴史論ではない。秘跡論である。「秘跡」について詳しい説明が
なされる。入門講座だから、キリスト者になるとはどういうことなのか、小笠原師は福音宣教を教義に重点を置きながら説明していく。

1 キリスト教の誕生と福音宣教

 イエスの復活という出来事を通してキリスト教信仰が生まれてくる。イエスが「キリスト(救い主)」と告白される。
では、「救い」とはなにか。救われるとはどういうことなのか。

 師は、救いには2つの側面があるという。それは、「心」が、

①とらわれから自由(解放)になる
②確かなこと、変わらないことで満たされる

 つまり、「心の渇きが癒やされる」ことだという。師は、イエスのおいて示された救いの道を、「過ぎ越しの奥義」の視点から
詳しく説明していく(1)。

 師は、ヨハネ福音書17章を使って、救いとは永遠の命を得ることだが、それはどこか遠いところで手に入れるものではなく、今現在、
イエス・キリストと一致し、いつも共にいてくださると信じることだと繰り返し説明する。キリスト教信仰における救いとは、「共に
いてくださる神」を信じることだと言う(2)。

2 洗礼とキリスト信者

 ここでは洗礼の意味が説明される。洗礼者ヨハネは悔い改めのしるしとして「沐浴の儀式」(水による洗礼)をヨルダン川でしていたが、
イエスは「聖霊と火で授ける洗礼」をおこなう。つまり、「父と子と聖霊の名によって」授けられる洗礼をさす。師はここで「三位一体論」
を詳しく説明しだす(3)。

 バプティスマとは「水に浸す、沈める」という意味だったので、イエスの命令は、聖書の原文では、「あなたたちは沈めなさい かれらを
 名の中に 父と子と聖霊の」とある、つまり、「あなた達は父と子と聖霊の名の中に彼らをどっぷり浸しなさい」という(184頁)意味
だという。つまり、洗礼とは、洗い流すという意味での「禊ぎ」ではないことが強調される。

 イエスが「父と子と聖霊の名による洗礼」を弟子たちに命じたのは、人々を「過ぎ越しの奥義」に参入させるためだと言う。
なんのことか。師は、パウロの『ローマの信徒への手紙』第4章を読み解きながら、洗礼の意味を確認する。

①福音(神の支配の到来)を信じて生きよ
②イエスは福音の目的である過ぎ越しの奥義を十字架の死と復活を通して成し遂げ、人々をそこに加わるよう招いた
③人は自分の一度の人生を過ぎ越しの奥義にゆだねて生きることが許されている
④過ぎ越しの奥義への参入は洗礼を通してなされる
⑤洗礼は旧いいのちのあり方から新しいいのちのあり方へ変えられることである
⑥こういう「変化」をキリスト信者たちは「恵み」と理解した。自力で勝ち取るものではなく、イエスの贖いのわざによって
与えられるものだと理解した。

3 キリストの教会とキリスト信者

 聖霊降臨の主日は教会の誕生日とされている。『使徒言行録』は、復活したイエスが弟子たちと一緒にいた40日間、父から
「神の息吹き(聖霊)」を送ると約束していたと記している。実際、5旬節の日に聖霊が降臨した。このシーンを描くルカの
驚きが伝わってくる。

 実際には、すでにあちらこちらでキリスト信者たちは共同生活を送ったり、集まったりしていたであろう(4)。
聖霊降臨をもって教会が始まったというキリスト信者たちの確信は、同時に、聖霊が教会を導いているという確信をもたらす。教会は
こうして使徒によって導かれ、福音を告げることが使命となる。洗礼を受けるとはこういう教会に加入することを意味する。
ここはもうイエス論でも、聖霊論でもない。師は教会論を展開する。

 洗礼を受けたからと言って、人は迷い、罪をおかし、道を誤る。師は、一コリント12章、ローマ書15章をひきながら、
「信仰の旅」が「浄化の旅」でもあること示す。教会が自分を「旅する教会」と改めてきちんと自己規定するのは第二バチカン公会議の
あとだが(5)、師は、教会は時代から時代へと歩み続ける存在だと説く。

4 使徒継承の教会とミサ聖祭

 この節では様々なことが説明される。基本的に秘跡論だが(6)、ベースは『ディダケー』(12使徒の教訓)(7)だ。教会の位階制度、
感謝の祭儀(エウカリスチア)、ミサの構造、ゆるしの秘跡、マリア崇敬、などのテーマが取り上げられる。

 師はまず、使徒継承の教会を位階制度を持つ制度として説明する。入門講座は教会をこういう組織体として描き、パパ(教皇)が
「教会全体の要」だとして示すようだ。カトリックですよということなのであろう。

 洗礼はこういう使徒継承の教会が行う行為なので、教会の交わりとは、人間的な交流ではなく、「感謝の祭儀」(エウカリスチア)に
参加することだと説明される。ここから、ミサ(感謝の祭儀、パンを裂く式)の説明が始まる(8)。


(パンと盃)

 

 ミサは「み言葉の典礼」部分と「感謝の典礼」の2つの部分から構成されるが、特に後半の「コムニオン」が中心となる。
日本の教会では「聖体拝領」と呼ばれるが、師は、この訳語はコムニオンがもつ「交わり、一致」という語感を伝えないのが残念だと言う。

 師は続いて、ゆるしの秘跡の説明を加える(9)。使徒継承の中心は、イエスが使徒に「罪を赦す権能」が与えられたことだという。
また、教会と聖母マリアとの関係についても説明を加えている(9)。どれもあっさりした記述だ。神学的にも難しい部分だし、
入門講座の範囲を越えているのかもしれない。

 わたしはこの第5章をまとめるにあたって、「旅する教会」と呼んでみた。小笠原師が直接こういう表現でこの章を書いている
わけではない。師はむしろ教義面では伝統的説明を重視している印象を受ける。だが教会が日本文化や習俗へ適応していくことの重要性も
忘れずに指摘している。

 イエスの教えを後生大事にそのまま伝えていくことも大事だが、第二バチカン公会議が目指したのは、教会が時代と共に
変わらねばならないということだったと思う。我々カト研もむかしむかし大学祭で、「教会は博物館ではない」と訴えていた
ことを思い出す。だれか覚えている人がいるだろうか。教会は観光施設ではない。時間が止まった博物館ではない。
 だが、この第二バチカン公会議以後の半世紀、われわれはどういう道を旅してきたのだろうか。



1 師は過ぎ越しの奥義を「無化の姿」として説明していく(175頁)。「ケノーシス」kenosis の説明だ。ケノーシスはふつう、
「自己を無にすること」と説明されるが、小笠原師は、「無」や「空」の概念を検討したあと「無化」という訳語をあてる。
そして、「無化」は「無為」と理解すれば多少意味が通ずるだろうという。「他力」の姿勢を暗示しているという。師の無化の説明は、
2ページにわたる。
 ジョンストン師もケノーシスの説明は詳しい。The emptiness of Jesus と説明している。無をnothingness とも言っている
(『Mystical Theology』 1995 Ch.10 Wisdom and Emptiness)。日本語への訳者たちはこれを「イエスの空」(くう,
そら ではない)と訳している(250頁)。ケノーシスを「自己無化」と訳している場面も多い(『愛と英知の道』2018)。
2 こういう「同行二人」的な表現は師が好むもののようだ。神の超越性をあまり強調しないと視点ともいえ、師の神学の特徴のようだ。
3 師は三位一体論がどういう歴史的経過で確立したかという説明はしない。むしろ、神が三位一体であるという考え方は「人間には
全く想像もつかない」考え方であり、「イエスという存在を通してはじめて見えてきた」点を強調する。洗礼が聖霊の賜物だという点が
強調される。聖霊が父から遣わされるのか、父と子から遣わされるのかという古代からの論争などにはふれないのは賢明は判断だ。
4 日本語の「教会」という言葉には、「共同体」(人の集まり)というニュアンスと、「建物」というニュアンスの両方が含まれる。
師は、エクレーシア(ギリシャ語)は「集会」を意味し、キリアコス(ギリシャ語 主のものという意味 独英のKircheやchurch)は
建物(礼拝堂)を指すと説明している。日本語の教会という言葉は、両方の意味を持つので便利とも言えるが、誤解を招きやすいとも言える。
5 『教会憲章』 第5章「教会における聖性への普遍的召命について」 第7章「旅する教会の終末的性格」
とはいえ、師は、『信仰の神秘』(未刊)のなかで、現在の教会の中にはいわゆる「神父信者」「シスター信者」がたくさんいると
その存在を痛烈に批判している。わたしはもう少し肯定的に捉えてよいのではないかと思うが、どうだろうか。
また、神学院で師から講義を受けたかっての神学生に話を聞いたことがある。みな異口同音に師の授業は厳しいと言っていた。
特に成績評価が厳しいとぼやくひともいた。講義をしている師が思い浮かぶようだ。今の若い神学生にはそのくらいがいいのかもしれない。
6 「理解を深めるために」欄と「コラム」欄での秘跡(サクラメント)の説明は5ページにもわたる。小笠原師の説明は詳細を極める。
秘跡とは神の、目には見えない神秘を、具体的に目に見えるように「しるし」と「言葉」で表す行為だと言う。祈りにはしるしがともなう。
同時に言葉もともなう。秘跡は、奇妙なおまじないではなく、単なるシンボルでもなく、しるしと言葉によって引き起こされる
「生きた出来事」だという。秘跡には、洗礼・堅信・聖体・叙階・ゆるし・病者の塗油・結婚の7つがある。各々の説明には入門講座では
まだ入らないようだ。
7 『ディダケー』は「教え」という意味らしく、『12使徒の教訓』と訳されているらしい。1世紀末に書かれ、最初のカテキズムで、
洗礼と聖餐の教義がまとめられているという。師によると、洗礼を受けた後の教会生活のさまざまな規定が記されていると言う。
師は、教会の使徒継承性を強調する。同じキリスト教でも、プロテスタントは使徒継承性を持っていないとされ、聖公会も持っているとは
認められないという議論が強いようだ。正教会は当然持っているとされるが、当然なこととしてあまり強調しない。使徒継承性の強調は
カトリック教会に独特のようだ。
8 古代教会では、求道者は感謝の祭儀の前半部分(み言葉の部)が終わると、「ここで退席してください」と言われ、ラテン語の時代に
なると 「Ite misa est 解散です」と言われて追い出され、後半部分には参加できなかったと言う。ミサという言葉の語源、
そして主の食卓を囲むことの重要性が説明される。また、4世紀に入ると、日曜日はユダヤ教の安息日の慣習にならって労働を休む日
(主の日)となり、現在でも日曜日を公休日にする社会は多い。
9 「崇拝・礼拝 adoratio」と「崇敬 veneratio」との区別が言及されるが、日本語としては相変わらず区別が曖昧な印象がある。
「アヴェ・マリアの祈り」(天使祝詞)も詳しく説明されているので、イエスの母マリアがなぜ「神の母」と呼ばれるようになったかの
説明もほしいところだ。『信仰の神秘』を待ちたい。

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