年間第10週に入ったようだが、今日は三位一体の主日だ。私どもの教会では相変わらず公開ミサはおろか分散ミサも始まっていないので、
関口教会の動画配信ミサにでる。
菊池大司教はお説教の中で、「教会はもはや灰の水曜日以前に戻ることはありません」と断言しておられた。言われてみれば、
2月26日の灰の水曜日のミサが最後の公開ミサであった。4旬節が始まってからもう3ヶ月以上ご聖体拝領をしていないことになる。
司教は「ミサに集まれない教会は共同体と呼べるのか」と問い、なにが教会共同体を「繋げているのか」と問う。「on line のミサが
繋げているのではない・・・それは神の愛であり・・・私達が教会なのだ」と言われた。そのとおりだろう。だが、人が集まらなくて
どうして共同体などといえるのか。司教は「少し光が見えてきた・・・集まる準備を始めます」と言っておられた。コロナ禍は数年続く
のであろう。教会も、慎重に、しかし迅速に、これから数年にわたるミサの見取り図を描いてほしいものだ。
(関口教会)
今日の「聖書と典礼」には山本和久氏が「三位一体の神秘」と題して短い解説を書いておられた。「他者との深い関係性の中でこそ、
真の自立性は存在する」という。なんのことだろう。
神学的に言えば、関係性、自立性は三位一体論争の焦点のひとつであったようだ。三位一体 Trinity とは、「一にして三であり、
三にして一である」というアタナシオス信条によって定式化された(1)。はじめて聞く人には何のことを言っているのかさっぱり
わからない話、矛盾した話だ。
三位一体論は古代教会におけるモナルキア・キリスト論(神は単一)に対抗したロゴス・キリスト論(神は三位一体)を基礎に持つ。
ギリシャ定式では、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神が、おのおの「自存者」(ヒュポタシス)で、かつ、一つの「実体」(ウーシア)
であるという教義だ。ラテン定式では3つの「位格」(ペルソナ)が一つの「本質」であるとされる。
つまり、三位一体は、内在的に説明すれば創造に先立つ永遠の中における父・子・聖霊の関係について述べようとし、外部的には
創造・和解・完成という神のわざから説明しようとする。簡単に言えば、受肉の根拠となる論(2)として展開されたようだ。
(三位一体)
1 アタナシオス(295−373)はアレクサンドリア司教。正統信仰の父とされる。キリスト論と三位一体論を確立する。
2 受肉によってはじめて子が存在するに至ったとして子の永遠性を否定する議論は「様態説」として否定された。イエスは
神に対する従順のゆえに神の子とされたという「養子説」とならんで古代教会を脅かした異端説だという。