2月11日の建国記念日に藤沢教会で開かれた典礼研修会なるものに出てきた。典礼委員からお声がかかったので今年も出てみた。色々考えさせられたので忘れないうちに書き留めておきたい。
テーマは、「ミサは、あずかるもの? ささげるもの? 参加するもの?ーその2 感謝の典礼・閉祭(派遣)ー」というもので、昨年の続きで、後半の第二部ということになる。全体として「奉献文」の意味を理解することに重点があったように思う。
参加者は昨年度に較べるとかなり少なかった印象だ。それでも500人収容のお聖堂がほぼ一杯なのだからかなりの人数だったのであろう。横浜教区は大教区で信徒数はざっと5.5万人。月定献金を納めている人が2割として1万。それで500人が集まるのだから重要な集会のようだ。
午前中は梶が谷教会のKさんによる、昨年度講演のレビュー。ついで、K師による講演で、演題は「ミサはどうやってできているの?」。ミサの構造論の説明だ。午後はO師による奉献文の説明と全員での朗読。そして共同司式のミサを挙げて解散という流れだった。
説明は講演ではなく、クイズ形式というか質問形式というか、テレビのショーみたいに赤と青の色紙で賛成か反対かを問われたのには閉口した。場を和やかにするための工夫なのだろうが少し回数が多すぎた嫌いがある(1)。
Kさんによる昨年のまとめはよく出来ていた。ミサが「構造」を持っていること。「神の言葉の食卓」(開祭ことばの典礼)と「キリストの体の食卓」(感謝の典礼と閉祭)だ。「開祭」には「準備」が必要で、この準備には「個人の準備」と「共同体の準備」がある。ミサに主体的に「与る」には、共同体としての準備は誰がしているのかを知っておく必要がある(奉仕者や侍者)ことを強調されていた。
K師による講演は、「ミサはどうやってできているの? ー ミサのそれぞれの部分について -」というタイトルで、中身は「感謝の典礼」、特に奉献文と交わりの儀の説明だった。中心は『総則』の説明と実際に各教会のミサでおこなわれている典礼との「ズレ」が指摘された。教区の典礼委員会としてはできるだけ『総則』に戻したいという気持ちがあるのかもしれないと感じた(2)。
Ⅰ 「感謝の典礼」の理解
①供え物の準備
質問は「この時会衆は立っていますか、座っていますか(総則43,139)」だ(3)。こういう質問がいくつか続く。総則に則った説明が「答え」ということになる。これは典礼委員には必要な知識なのか、それとも信徒は皆知っていなければならないのだろうか。私みたいにただ習慣的にまわりにならって立ったり座ったりしていてはダメだと言うことのようだ。
②奉献文
奉献文は「いつ始まりますか」、と聞かれる。対話句からか(4)、叙唱からか、それとも感謝の賛歌からか、という質問だ。私なんかは奉献文は感謝の賛歌が終わった後から始まると思っていたが、かならずしもそうでもないらしい。
奉献文は「いつ終わりますか」と聞かれる。主の祈りの前なのだろうが、「いつ」といわれてもわからない。
ということで、総則79が説明される。
a) 聖別のエピクレーシス(聖霊の働きを願う祈り) 「いま、聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください」
b)制定の叙述と聖別のことば(すべての奉献文に共通)
「主イエズスは進んで受難に向かう前に・・・・」
「皆、これを取って食べなさい・・・・」
「食事の終わりに・・・」
「皆、これを受けて飲みなさい・・・」
c)対話句 「信仰の神秘/主の死を思い・・・」
d)記念(アナムネシス)と奉献
e)交わりのエピクレシス : 共同体の一致を聖霊に願う祈り 「・・・聖霊によって一つに結ばれますように」
f)取り次ぎの祈り
g)栄唱・アーメン
続いて難問が出された。「奉献文はいくつありますか」。普通は「四つ」と答えたいところだが、神学を少しでもかじったことがある人は答えようがない(5)。
③交わりの儀
ここも難問が続出する。
「主の祈りは、聖体拝領(コムニオ)の準備として、どのような意味を持っていますか」
ここはどうも、コムニオの訳語としての「聖体拝領」ということばはあまりふさわしくないということのようだ。聖体拝領という訳語はなにか個人の行為を指す印象を与えるが、コムニオとはもっと集団性を強調する言葉なのだという。コムニオは集団的行為だということらしい。
「平和の挨拶は、誰と誰が交わすものですか」 ここも『総則』154,181を使って説明される。
「互いに平和の挨拶を交わしましょう」ではなく、「互いに平和の挨拶を交わしてください」がより原文に近いのだという。神学的には意味の違いがあるのであろう(6)。
このあと「パンを裂く式は何のためにありますか」など、典礼と言うよりは神学的な問いもあり、説明も難しかった。紹介は私の手に余るので省きたい。
Ⅱ 閉祭(派遣)について
ここは "Ite Missa Est" (イテ ミサ エスト)の説明だ。K師の説明は熱が入っていた。要は、閉祭の挨拶は「派遣の挨拶」なのだから、「派遣しました」の意味をくみ取るようにとのことらしい。「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」ではその含意が十分に表現できていないということらしい。「今週のお知らせ」など教会の連絡事項をここに組み込むところもあるが、これは「派遣の意味を活かすため」であって、ホーレンソー(報告・連絡・相談)のためではないということらしい。考えさせられた指摘だった。
注
1 知識を問う質問も多く、典礼委員とは言え『総則』など読んだことのない人もいるのではないか。わたしには質問の主旨が解らないちんぷんかんぷんな問いかけもあった。また、賛否の挙手をさせていたが集計結果を知らせてくれるのでもなく、問いかけの意味がわからなかった。
2 総則とは、『ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)』(2004)のことのようだ。新しい日本語版『ミサ典礼書』はほぼ完成したが、まだ発表されていないようだ。暫定版は94頁にわたる大部なものだが、インターネットでも容易に読むことが出来る。
3 「総則43,139」といわれてもピンとこない人も多いだろう。たとえば、ミサで跪いたらいけないのか、聖体拝領は舌ではいけないのか、など第二バチカン公会議以前からの慣習をめぐる問いが繰り返しだされ、問答が繰り返される。結局はこの総則をどう読むかだ。そして翻訳の問題もある。なかなか白黒がつけられない、賛否が断定できない領域だけに、K師の説明も慎重だった。
4 対話句とは、「主は皆さんとともに/また司祭とともに 心をこめて神を仰ぎ/賛美と感謝を捧げましょう」のこと。叙唱前句のことらしい。
5 『ミサ典礼書』や『キリストと我等のミサ』などには4つ(第一・第二・第三・第四)と記載されている。だが、実際には日本では6ヶくらい用いられているようだ。これも第二バチカン公会議以降の話で、それ以前は一つだった。また、歴史的に見ればいろいろなことが言われているようだ。当初の使徒や教父たちは好きなように奉献文を唱えていて、これと言って統一されたものがあったわけでもなさそうだ。やがていくつかに統合・整理されてくる。東方教会などが分離すれば異なった奉献文が作られていく。あれやこれやあわせれば、正確な数は解らないにせよ、K師によれば300を超えるのではないかという。現在の司祭は第3奉献文を「好む」人が多いようだし、昔のローマ的な第一を好む司祭もいれば、聖人の祝日などは東方教会風の第4を好む司祭もいるようだ。バチカン公会議以降導入された奉献文の特徴は、エピクレシス Epiclese が二つ入ったことだという。聖別のエピクレシスと交わりのエピクレシスだ。奉献文は司祭が唱えるものである。信徒が唱えるものではない。だが、今日は、第三と第4奉献文が全員によって唱えられ、比較された。
6 司祭が「主は皆さんとともに」と言い、「主は私たちとともに」とは決して言わないことと同じなのかもしれない。司祭は信徒と区別されている。平和の挨拶は、われわれは、今、日本では、手を合わせて挨拶するが、お辞儀だけの人もいるらしい。国によっては握手したり、ハグしたりするところもあるようだ。こういう所作の違いは文化の反映なので一律化はなかなか難しいのだろう。