カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

奉献文は何種類あるか ー 第39回横浜教区典礼研修会に出る

2020-02-12 12:17:48 | 教会

 2月11日の建国記念日に藤沢教会で開かれた典礼研修会なるものに出てきた。典礼委員からお声がかかったので今年も出てみた。色々考えさせられたので忘れないうちに書き留めておきたい。

 テーマは、「ミサは、あずかるもの? ささげるもの? 参加するもの?ーその2 感謝の典礼・閉祭(派遣)ー」というもので、昨年の続きで、後半の第二部ということになる。全体として「奉献文」の意味を理解することに重点があったように思う。

 参加者は昨年度に較べるとかなり少なかった印象だ。それでも500人収容のお聖堂がほぼ一杯なのだからかなりの人数だったのであろう。横浜教区は大教区で信徒数はざっと5.5万人。月定献金を納めている人が2割として1万。それで500人が集まるのだから重要な集会のようだ。

 午前中は梶が谷教会のKさんによる、昨年度講演のレビュー。ついで、K師による講演で、演題は「ミサはどうやってできているの?」。ミサの構造論の説明だ。午後はO師による奉献文の説明と全員での朗読。そして共同司式のミサを挙げて解散という流れだった。
 説明は講演ではなく、クイズ形式というか質問形式というか、テレビのショーみたいに赤と青の色紙で賛成か反対かを問われたのには閉口した。場を和やかにするための工夫なのだろうが少し回数が多すぎた嫌いがある(1)。

 Kさんによる昨年のまとめはよく出来ていた。ミサが「構造」を持っていること。「神の言葉の食卓」(開祭ことばの典礼)と「キリストの体の食卓」(感謝の典礼と閉祭)だ。「開祭」には「準備」が必要で、この準備には「個人の準備」と「共同体の準備」がある。ミサに主体的に「与る」には、共同体としての準備は誰がしているのかを知っておく必要がある(奉仕者や侍者)ことを強調されていた。

 K師による講演は、「ミサはどうやってできているの? ー ミサのそれぞれの部分について -」というタイトルで、中身は「感謝の典礼」、特に奉献文と交わりの儀の説明だった。中心は『総則』の説明と実際に各教会のミサでおこなわれている典礼との「ズレ」が指摘された。教区の典礼委員会としてはできるだけ『総則』に戻したいという気持ちがあるのかもしれないと感じた(2)。

Ⅰ 「感謝の典礼」の理解

①供え物の準備

 質問は「この時会衆は立っていますか、座っていますか(総則43,139)」だ(3)。こういう質問がいくつか続く。総則に則った説明が「答え」ということになる。これは典礼委員には必要な知識なのか、それとも信徒は皆知っていなければならないのだろうか。私みたいにただ習慣的にまわりにならって立ったり座ったりしていてはダメだと言うことのようだ。

②奉献文

 奉献文は「いつ始まりますか」、と聞かれる。対話句からか(4)、叙唱からか、それとも感謝の賛歌からか、という質問だ。私なんかは奉献文は感謝の賛歌が終わった後から始まると思っていたが、かならずしもそうでもないらしい。
 奉献文は「いつ終わりますか」と聞かれる。主の祈りの前なのだろうが、「いつ」といわれてもわからない。
 ということで、総則79が説明される。

a) 聖別のエピクレーシス(聖霊の働きを願う祈り) 「いま、聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください」
b)制定の叙述と聖別のことば(すべての奉献文に共通)
 「主イエズスは進んで受難に向かう前に・・・・」
 「皆、これを取って食べなさい・・・・」
 「食事の終わりに・・・」
 「皆、これを受けて飲みなさい・・・」
c)対話句 「信仰の神秘/主の死を思い・・・」
d)記念(アナムネシス)と奉献
e)交わりのエピクレシス : 共同体の一致を聖霊に願う祈り 「・・・聖霊によって一つに結ばれますように」
f)取り次ぎの祈り
g)栄唱・アーメン

 続いて難問が出された。「奉献文はいくつありますか」。普通は「四つ」と答えたいところだが、神学を少しでもかじったことがある人は答えようがない(5)。

③交わりの儀

 ここも難問が続出する。
「主の祈りは、聖体拝領(コムニオ)の準備として、どのような意味を持っていますか」
ここはどうも、コムニオの訳語としての「聖体拝領」ということばはあまりふさわしくないということのようだ。聖体拝領という訳語はなにか個人の行為を指す印象を与えるが、コムニオとはもっと集団性を強調する言葉なのだという。コムニオは集団的行為だということらしい。

「平和の挨拶は、誰と誰が交わすものですか」 ここも『総則』154,181を使って説明される。
「互いに平和の挨拶を交わしましょう」ではなく、「互いに平和の挨拶を交わしてください」がより原文に近いのだという。神学的には意味の違いがあるのであろう(6)。

 このあと「パンを裂く式は何のためにありますか」など、典礼と言うよりは神学的な問いもあり、説明も難しかった。紹介は私の手に余るので省きたい。

Ⅱ 閉祭(派遣)について

 ここは "Ite Missa Est" (イテ ミサ エスト)の説明だ。K師の説明は熱が入っていた。要は、閉祭の挨拶は「派遣の挨拶」なのだから、「派遣しました」の意味をくみ取るようにとのことらしい。「感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに」ではその含意が十分に表現できていないということらしい。「今週のお知らせ」など教会の連絡事項をここに組み込むところもあるが、これは「派遣の意味を活かすため」であって、ホーレンソー(報告・連絡・相談)のためではないということらしい。考えさせられた指摘だった。


1 知識を問う質問も多く、典礼委員とは言え『総則』など読んだことのない人もいるのではないか。わたしには質問の主旨が解らないちんぷんかんぷんな問いかけもあった。また、賛否の挙手をさせていたが集計結果を知らせてくれるのでもなく、問いかけの意味がわからなかった。
2 総則とは、『ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)』(2004)のことのようだ。新しい日本語版『ミサ典礼書』はほぼ完成したが、まだ発表されていないようだ。暫定版は94頁にわたる大部なものだが、インターネットでも容易に読むことが出来る。
3 「総則43,139」といわれてもピンとこない人も多いだろう。たとえば、ミサで跪いたらいけないのか、聖体拝領は舌ではいけないのか、など第二バチカン公会議以前からの慣習をめぐる問いが繰り返しだされ、問答が繰り返される。結局はこの総則をどう読むかだ。そして翻訳の問題もある。なかなか白黒がつけられない、賛否が断定できない領域だけに、K師の説明も慎重だった。
4 対話句とは、「主は皆さんとともに/また司祭とともに 心をこめて神を仰ぎ/賛美と感謝を捧げましょう」のこと。叙唱前句のことらしい。
5 『ミサ典礼書』や『キリストと我等のミサ』などには4つ(第一・第二・第三・第四)と記載されている。だが、実際には日本では6ヶくらい用いられているようだ。これも第二バチカン公会議以降の話で、それ以前は一つだった。また、歴史的に見ればいろいろなことが言われているようだ。当初の使徒や教父たちは好きなように奉献文を唱えていて、これと言って統一されたものがあったわけでもなさそうだ。やがていくつかに統合・整理されてくる。東方教会などが分離すれば異なった奉献文が作られていく。あれやこれやあわせれば、正確な数は解らないにせよ、K師によれば300を超えるのではないかという。現在の司祭は第3奉献文を「好む」人が多いようだし、昔のローマ的な第一を好む司祭もいれば、聖人の祝日などは東方教会風の第4を好む司祭もいるようだ。バチカン公会議以降導入された奉献文の特徴は、エピクレシス Epiclese が二つ入ったことだという。聖別のエピクレシスと交わりのエピクレシスだ。奉献文は司祭が唱えるものである。信徒が唱えるものではない。だが、今日は、第三と第4奉献文が全員によって唱えられ、比較された。
6 司祭が「主は皆さんとともに」と言い、「主は私たちとともに」とは決して言わないことと同じなのかもしれない。司祭は信徒と区別されている。平和の挨拶は、われわれは、今、日本では、手を合わせて挨拶するが、お辞儀だけの人もいるらしい。国によっては握手したり、ハグしたりするところもあるようだ。こういう所作の違いは文化の反映なので一律化はなかなか難しいのだろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別展「出雲と大和」から学ぶ

2020-02-06 10:12:35 | 観光

 昨日は思いたって東京国立博物館に「出雲と大和」特別展を見に行った。平日の午前中にもかかわらず、マスクをした歴史愛好家・美術愛好家で混雑していた。
 今年は『日本書紀』が編纂されて(720)ちょうど1300年の記念すべき年なのだという。この特別展は出雲を「幽」とし、大和を「顕」と表して、両者の特徴を対照的に示している。幽とは祭祀、顕とは政治を指すらしい。「幽と顕」という区別は『日本書紀』にあるのだという。

 この特別展は近年の様々な発掘、研究の進展を丁寧に紹介している。昔の中学生程度の知識しか無いわたしは、出雲は大和に征服されたとかの話しか覚えていない。最近でも山川出版の『詳説日本史研究』(2009)にはヤマト政権の詳しい説明はあっても、出雲への言及はない(索引すらない)。他方最近は、出雲が大和を攻めたのだというような説もあるようで、歴史音痴の私には、ただただ驚くだけの展示だった。「音声ガイド」を借りないと、弥生時代・古墳時代・奈良天平・平安時代にわたる時代の変化はとてもフォロー出来なかった。音声ガイドの語りは橋爪功さん(俳優)で、なかなかのものだった。

 最初にまず『日本書紀』の神代巻下と巻二が目に入る。立派な写本らしく、目を奪われる。デジタル表示もよかった。考えてみれば今は小学校の教科書でも日本の神話は出てこないらしい。イザナキ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、ヤマタノオロチ、大国主命と国譲りなどの話はマンガやアニメで伝承されているのだろうか。

 展示の目次(部屋割り)は以下のようになっていた。

第1章 巨大本殿 出雲大社
第2章 出雲 古代祭祀の源流
第3章 大和 王権誕生の地
第4章 仏と政

 第1章では、まず、圧巻の本殿の「宇豆柱 うづばしら」と「心御柱 しんのみはしら」に対面する。2000年に発見・発掘された3本の大木を束ねた柱で、直径は何と3メートルという。支えていた出雲大社本殿の高さは48メートルという。16階建てのビルの高さということになる。本殿の10分の1の復元モデルも展示されていた。


 

(出典は東京国立博物館)


 第2章の出雲では、銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土した荒神谷遺跡(1984年)、銅鐸39個が出土した加茂岩倉遺跡(1996年)、そして大和の前方後円墳とは全く異なる「四隅突出型墳丘墓」などが目を引く。出雲が大和とは全く異なった勢力だったことが力説される。

 第3章の大和では、前方後円墳の副葬品や埴輪など古墳時代から説明される。カメラが許されているのは2箇所のみだが、この黄金色の埴輪はまぶしかった。圧巻は国宝「七支刀」だろう。石上神宮に伝わり、樹木のように左右に三本枝分かれしている剣だ。百済との交流が説明される。「交流」には親好から征服・朝貢までいろいろな意味がこめられていることが暗示される。

 第4章は仏像の展示だ。日本への仏教の伝来(「公伝」というらしい)は古墳時代後期(教科書風に言えば552年)のようだが、ここでは奈良・平安時代の国宝級の仏像がずらりとならぶ。仏像だけだと宗教性はあまり感じず、説明では「鎮護国家」が強調されていたが、東京でこれだけのものを見られるのだから仏像好きにはたまらない展示だろう。

 私には印象をまとめるほどの知識はないが、出雲と大和を平等に取り扱っているのが印象的であった。展示はどこでもそうだが、説明の文字は小さすぎて年寄りには読むのがつらい。
 説明といえば、ナショナリズムを妙にくすぐるものではなく、アカデミックな展示とまとめかたをしているという印象を受けた。たとえば、卑弥呼の墓と言われる「箸墓古墳」への「ミューオン」(素粒子)による調査でなにか「空間」らしきものが発見されたというビデオ映像は印象的であった。
 そうじて、日本文化の源流を目に見える形で確認させてくれるよき展示であった。特別展の名に恥じない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリスト教のヘレニズム化 ー オリゲネス ー 

2020-02-02 13:26:37 | 神学

 神学講座2020(3)である。すばらしい冬晴れの日の神学講座であった。とりあげる二人目は「オリゲネス Origenes 」である。哲学に関心があれば知っている人は知っているが、オリゲネスって誰だと言う人も多いだろう。中世の神学者としてアウグスティヌスやトマス・アクィナスは誰でも知っている。ではオリゲネスは?(1)

 第2章は「オリゲネス ー古代とキリスト教精神の偉大な統合ー」と題されている。オリゲネスはギリシャ教父の一人である。代表者といってもよいかもしれない。ギリシャ教父といってもたくさんいるのになぜオリゲネスなのか。オリゲネスがどういう意味で「時代を代表する偉大な思想家」と呼ばれるのか。

 

 ミラノ勅令(313)以前の2・3世紀のキリスト教徒は何をしていたのか。ただじっと迫害に耐えていただけなのだろうか。パウロのように犠牲になった者もいたが、ローマ帝国とキリスト教は互いの生死をかけた戦いをしていた(ローマ帝国は395年に東西に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅亡する)。キリスト教は、武力だけではなく、ローマの多神教に対抗しうる哲学的・神学的基盤を必要としていた。オリゲネス(185-251)はそういう時代に生きた。

 キュンクによるとオリゲネスの価値を発見したのはバルタザールやリュバックだった。かれらは1920~30年代にオリゲネスを使ってカトリック教会内の新スコラ主義を「無効」にし(64頁)、第二バチカン公会議への途を少しずつ開いていったという。

Ⅰ 新しい挑戦

 オリゲネスは紀元185年生まれだが、この頃キリスト教はローマ帝国ではまだ「ごく小さな勢力」にすぎなかったという。学問の街エジプトはアレクサンドリア生まれである。この町ではギリシャ哲学の最後の形態が学派の形をとって発展し始めていた。プロティノス(205-270)の新プラトン主義である(2)。オリゲネスとプロティノスは相互に面識はなかったようだが、同門の兄弟だったようだ。

Ⅱ 妨害された殉教者

 オリゲネスも迫害を受けたが、迫害の終息後に教理学校を再開し、熱心な宗教的・精神的指導者となった。禁欲的生活をしたが神秘主義者だったわけではなさそうだ。「禁欲的修道院制度の模範」となったという。

Ⅲ 学問的神学の最初のモデル

 オリゲネスは、すでにパウロによって始まっていた異邦人キリスト教的・ヘレニズム的パラダイムを神学的に完成させた。『諸原理について』という本は学問的な神学の最初のモデルだという。オリゲネスにおいてキリスト教とギリシャ世界が和解に達したという。

Ⅳ キリスト教とギリシャ世界の和解

 オリゲネスにとって、ロゴス・聖霊・霊的実在などの理解は、プラトン的な「下降と再上昇」というグノーシス主義的なものではなく、ひとつの有機的な全体をなしていて、それは「巨大な総合」だったという。

Ⅴ オリゲネスの聖書の読み方

 聖書は旧約も新約も素朴で非哲学的だ。オリゲネスは聖書のテキスト批評と釈義に新しい方法を導入した。「寓喩的聖書解釈」だ。聖書を、歴史的にではなく、比喩として、象徴的に、霊的(プネウマ的)に解釈したという。キリストの中に、すでに最初から神とともにある永遠のロゴスを直観するのだという。

Ⅵ キリスト教的普遍主義

 この普遍主義とは、キリスト教的護教論のことである。オリゲネスは、ユダヤ教、異教の哲学者たち、異端派の神学者たちと論争し、キリスト教を守った。守るために神学を彫琢した。『ケルソス駁論』という本はそういう護教的な文書だという。

Ⅶ 新しい迫害とキリスト教の成功

 235年頃からローマ帝国ではいわゆる「軍人皇帝」時代が始まる。東からササン朝ペルシャ、北からゲルマン人が侵入して、ローマ帝国は解体の危機を迎える。帝国全土に渡るキリスト教の迫害が始まる。オリゲネスは拷問は生き延びるがやがて死亡する。彼の死後10年も立たないうちに迫害はおさまり、キリスト教は事実上容認されるようになる。この比較的平和な時代こそ神学が発展した時期だった。キリスト論のパラダイム変換が起こった。オリゲネスは鍵となる役割を果たした。やがてアウグスティヌスが登場してくる。  だが、オリゲネスの評価は現在でも不安定だ。東方教会は否定に近い。ローマ教会でも確定しているとは言えない。なぜか?

Ⅷ 福音の展開か堕落か

 この時代にはユダヤ人キリスト教も生きていた。だがオリゲネスのヘレニズム化されたキリスト教はあまりにも「モダン」で、ユダヤ人キリスト教からはかけ離れてしまった。キュンクはその特徴を4点あげている。 ①聖書正典の完結 ②教会の信仰の伝統 ③君主的な司教職 ④聖書解釈へのプラトン哲学的思考の適用  こういう視点からの聖書解釈は斬新ではあり、アレキサンドリア学派はアンティオケイア学派(3)に勝利していくが、他方、聖書テキストの内容の理解を変質させてしまったともいえる。  これはつまり、ユダヤ教から受け継がれた黙示的なメシア待望論から、ヘレニズム的な救済史論(キリストは時の中心、世界史の中心)への転換だ。ルカの世界(ルカ福音書と使徒言行録)が正面に出たきたということだ。  キリスト教はヘレニズムの世界で土着化された。この土着化はギリシャ的な、新プラトン主義的なカテゴリーと象徴でしか表現できなかった。キュンクは、これは福音の堕落ではないという。では、福音のさらなる展開だと肯定的に評価してよいのか。疑問は残る。このようなヘレニズム的パラダイム変換のなかで、元来のキリスト教的使信である「福音」の意味が変質してしまったのではないか。キュンクはなんと考えているのだろうか。

Ⅸ 問題の残る重心移動

 キュンクはこういうパラダイム変換を堕落とも展開とも捉えない。それは「重心移動」だという。キリスト教神学の中心はイエスの十字架と復活である。だがヘレニズムの影響のもとに中心は「受肉」に移ってしまう。「神的ロゴスの永遠の先在とその受肉」が中心になる。イエスの前に、神はロゴスとしてすでに存在していたことが強調されてしまうのだ。黙示的・時間的な救済図式から宇宙的・空間的な救済図式への転換だ。または、「高挙のキリスト論・上昇のキリスト論」から「受肉のキリスト論・下降のキリスト論」への転換と言ってもよい。御子の誕生・洗礼・高挙よりも、キリストのペルソナ・ヒュポスタシス・本質・本性などが重要視されてくる。三位一体論が論争の焦点になってくる。

Ⅹ 正統信仰をめぐる戦い

 信仰告白の周辺にあったテーマが今や中心に移動した。キリスト教は、三位一体論を巡って、正統信仰問題、異端者争い、異端排除の方向へ進んでしまう。キリスト論におけるこのパラダイム変換の意味が十分理解されないから、キリスト教とユダヤ教のメシア信仰が離れてしまい、西方教会と東方教会が分裂し、東方教会内部でもさらなる分裂が生まれたのではないのか、とキュンクは問う。

ⅩⅠ

 将来を視野に入れてのキリスト教の自己批判  総括的にいえば、神学の主要な関心は、すでに初期ギリシャ教父の時代に、イスラエル民族とイエスの具体的な救済史から、巨大な救済論的システム論へと移動してしまった。オリゲネスによれば、「単純な信仰者は現世的なものや十字架につけられた方にすがりつく。しかしもっと進歩した霊性のある者たちは、超越的なロゴスと神的な教師へと登っていかねばならない」(97頁)という。この神的教師(キリスト)と神との関係が神学の関心事になる。

 だが、これはもともとの福音の問いだったのだろうか。福音書や書簡はそんなことを言っていたのか。そうではあるまい。「信仰に残るべき中心」は、パウロもヨハネも一致するもの、マタイ・マルコ・ルカ・すべての新約聖書の証人たちが一致するもの、すなわち、人間ナザレのイエス、神はイエスが父と呼んだ方、そして神ご自身の霊を、信ずること、ではなかったのか。

 キュンクによれば、三位一体を論ずるのは良い。でもそれは、オリゲネスのように新プラトン主義的なヒュポスタシス論を用いる必要はないという。だが、オリゲネスが彼の時代のなかでそれを試みたことは偉大であったと、キュンクは言う。オリゲネスは単なるロゴス論者だと一蹴する神学者もいるようだ。だがキュンクのオリゲネス評価はどちらかと言えば肯定的である。

1 たとえば増田祐志『カトリック教会論への招き」』(2015)はオリゲネスをとりあげてない。使徒教父の前期としてローマのクレメンス(30-101 第3代(または第4代)教皇 オリゲネスにならぶアレキサンドリアのクレメンスとは別人)、アンティオキアのイグナティオス(35-110)には言及している。2~5世紀の教会論のなかではユスティノス(100-165)、エイレナイオス(130-202)、ヒッポリュトス(170-235)、キプリアヌス(?-258)は取り上げているが、オリゲネスはでてこない。岩島忠彦師『キリストの教会を問う』(1987)も同じである。理由はわからないが、推測するに、オリゲネスは死後300年経ってから553年に異端宣告されたからだろうか。小高毅はかれの三位一体論がキリスト従属説にやや傾いているからだと解釈している(岩波キリスト教辞典)。

2 新プラトン主義とは何かは専門家にまかせるとして、プラトン自身のの思想と後代のプラトン主義者が発展させた思想を区別するための用語らしい。19世紀半ばに作られた造語だという。基本的にはヘレニズム時代の哲学諸派の支配的思潮のことを指すらしい。プロティノスは「一者・知性・魂」が「三階層の実在」を構成すると主張したようだ。この「一者」概念が持つ「超越性」概念が、キリスト教の神の超越性を論ずる思弁的根拠になっていったという。

3 アレキサンドリア学派が基本的にプラトンに依拠したのに対し、アンティオケイア(アンティオキア)学派はアリストテレスに依拠したらしい。両派ともキリストをロゴスとみなしていてこの点は共通だが、アンティオケイア学派はキリストの人間性・身体性を強調したという(岩波哲学・思想事典)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする