カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

現代のキリスト論 ー キリスト論の展開(7)

2019-06-26 21:36:39 | 神学


 20世紀以降のキリスト論は新しい段階を迎える。特に第二バチカン公会議をはさんで新しいキリスト論が続々と登場してくる。スコラ学から新スコラ神学へ、そしてさらに婚姻神秘主義へと、多様化が進んでいく(1)。

Ⅰ 新スコラ学から新しい神学への変化

 従来の教会の公式神学は新スコラ学または新トマス主義(ネオ・トミズム)であったが(2)、これを乗り越えようとする「新しい神学」形成の動きが出てくる。神学校ではトマス哲学が教えられていたが、どう考えてもトマス主義者とは呼べない神学者たちが登場してくる。
 このような動きの先駆けとしていつも名前が出てくるのが、ドイツのカール・アダム(1876-1966)とロマーノ・グアルディーニ(1885-1968)である。カール・アダムはイエスの人間性を強調して、史的イエス研究に好意的な立場をとっていたという(教会から告訴されたこともあったらしい)。グアルディーニも新スコラ主義に明確な批判的立場をとり、著作には回勅を引用しなかったりで、教会との関係では苦労したようだ。二人とも第二バチカン公会議には直接的にはかわわらなかったようだが(グアルディーニは公会議準備会の典礼委員会に少しいたようだ)、公会議に与えた影響は大きかったという。E・H・カーは、二人ともどの修道会にも属していなかったことを「単なる偶然ではない」と評している(『二十世紀のカトリック神学』21頁)。

Ⅱ カール・ラーナー(1904-1984)
 知らない人がいない20世紀最大のカトリック神学者。ドイツのイエズス会司祭。第二バチカン公会議の顧問神学者。人間論的キリスト論の影響力は大きい。「無名の(匿名の)キリスト者」論は第二バチカン公会議の革新的意義を表現している。もちろんキュンクらからの批判もあったが、この考えは現在でも生きているようだ。日本では、お弟子さんだった粕谷甲一師を通してのラーナーファンは多いようだ。

Ⅲ W.パネンベルク(1928-)
 ドイツのプロテスタント神学者。歴史神学者。啓示概念を歴史と結びつけ、救済史を未来から理解しようとする。救済を考える視点の転換をもたらした功績は大きい。といっても、プロテスタント神学では、イエス・キリストの生涯に歴史を見るバルト神学とはあまりにも対照的な終末論的議論なので、批判者もいるようだ。また、贖罪論を重視するカトリック側からも批判されたようだ。

Ⅳ J・モルトマン(1926-)
 ドイツのプロテスタント神学者。パネンベルクの同僚で、K・バルトの後継世代。収容所生活を背景として、終末における希望の重要性を説いた「希望の神学」を提唱したという。終末論から「十字架の神学」を再解釈したという。現在では、フェミニズム神学の嚆矢としても注目されているという。

Ⅴ J・B・メッツ(1928-)
 ドイツのカトリック司祭。K・ラーナーの弟子。政治神学の提唱者(3)。モルトマンとは親好があったようだ。教会が政治に積極的に関与すべきだと主張した。「解放の神学」へ影響を与えたようだ。しかし神学を政治に限定することは神学を矮小化するものだと批判する者も多いという(4)。
Ⅵ 解放の神学 liberation theology
 解放の神学と言っても、中南米のそれ、北米のそれ、フェミニスト神学、アウトカーストの神学など、その内容も範囲も広い。また、説明の仕方が解放の神学への立場性を表してしまうので紹介はなかなか難しい。キリスト教の「福音」の本質を非抑圧状況からの「解放」と考える神学とでもいえようか。信仰や価値観の変換だけではなく、社会構造の変換も求めるのが特徴といえそうだ(5)。
 中南米で言えば、グティエレス(ペルーの司祭)の『解放の神学』(1971 邦訳あり)が有名だし、北米では公民権運動を支えた黒人解放の神学、女性解放運動を支えたフェミニスト神学がある。

Ⅶ 諸宗教の神学 theology of religions
 あまり聞き慣れない言葉かもしれないが、宗教が複数形なのがポイントだ。これは第二バチカン公会議以降導入された新しい用語で、キリストの唯一性・絶対性を主張するキリスト教が、他宗教をどのように認識するか、ということを議論する神学だ。平たく言えば、キリスト教は仏教やイスラム教とどのようにすれば共存できるのですか、ということだ。
 教義学から言えば、キリスト教とは異なる宗教ー仏教やイスラム教ーにも通底するような、共通するような神学や教義を見いだすことは不可能だ。なぜなら、おのおのの宗教は自分たちの聖典、信仰箇条、教団組織、歴史を持っているからだ。しかし教義学ではなく、哲学的な神学の立場に立てば、固有のの歴史をもって発展してきた特定の宗教に拘束されないなにか普遍的な要素を探究したくなる。しかも、単に様々な宗教の抽象的な共通点を探すのではなく、宗教体験の共通性、超越者とのかかわり方の共通性を見いだしたいと思う。諸宗教の神学とはカトリック側からのそういう試みのひとつである。
 普通は、諸宗教の神学は、排他主義・包括主義・多元主義の比較が議論の中心となっている。よく知られている類型なので改めて紹介するまでもあるまい。

①排他主義 exclusivism
 古代以来の他宗教否定の思想。「教会の外に救いなし」(プロテスタントなら、「キリスト教の外に救いなし」)がスローガン。第二バチカン公会議では否定されたが、現在でも一部の信者は信奉している。
②包括主義 inclusivism
 異なる宗教の存在を認め、他の宗教の教えにも一定の価値があることを承認する思想。第二バチカン公会議以来の教会の公的立場である。
 教会憲章の第1章第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題され、以下のように書かれている。
「さらに、福音をまだ受け入れていない人々も、いろいろなしかたで神の民に秩序づけられている。・・・実際、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音並びにその教会を知らないとはいえ、誠実な心を持って神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神のみ心を、恵の働きのもとに行動によって実践しよう努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(24頁)

 つまり、カトリック教会の「外にも」本来キリストに属する成聖と真理の存在を認めている。また、救い主はイエス・キリストのみだが、救いは教会の外、全人類に及ぶとする。 K・ラーナーの「無名のキリスト者」の思想が反映されていることが分かる。キリストの救いは他の宗教にも隠された形で存在するという。よく言われることだが、キリスト以前に亡くなった人も、キリストを知らずに亡くなった人も、みな救われます、という宣言だ。

③多元主義 pluralism
 多様な宗教が同じ社会に同時に存在することを認め、お互いの価値を認めあいながら共存していこうとする思想。
 多元主義は社会科学ではメインの方法的立場だが、宗教的多元主義は排他主義や包括主義を前近代的なモデルとして批判することが一般的だ。現在、実際に諸宗教間の対話に努力している人々にはこの宗教的多元主義を基本的立場にしている人が多いようだ。さまざまな宗教の教えに優劣をつけられないという考え方をとるからだ。
 思想史的に見れば、宗教的多元主義は、啓蒙主義の影響、グローバリズムによる他宗教との接触の増大、エキュメニズム運動の普及、世俗主義の拡大などを背景に生まれてきたと言われる。司祭や神学者のなかにも多元主義に近い主張をする人も多いようだが、教会は多元主義には与しないようだ(6)。
 R・パニッカーという著名な神学者がいるという。インドの元司祭だという。かれは、「多元主義によって我々は我々自身の偶然性・有限性に気づく」という言葉でよく知られているという。宗教的多元主義は、絶対性の否定としての相対性、唯一性の否定としての多元性を基礎とするという。
 多元主義は相対主義に陥る危険性を常に持つが、宗教的多元主義においてもこの課題は乗り越えられてはいないように思われる(7)。

Ⅷ 結び
 かっては新スコラ主義一辺倒だったカトリック神学は、第二バチカン公会議をへて様々に開花した。多様なキリスト論が提唱されているのが現状である。

 S氏はこのように述べて、いろいろなキリスト論がありますと言われた。個々の神学についての個人的評価には入られなかった。質疑では包括主義について質問があったが、これはカトリック教会が昔から潜在的に持っていた思想で、たとえば望みの洗礼の秘跡もそのひとつだと言われた。興味深い議論の展開であった。



1 婚姻神秘主義とは nuptial mysticism のこと。神秘主義思想のひとつ。F・カー 『二十世紀のカトリック神学』(2007,邦訳2011,教文館)は、「新スコラ主義から婚姻神秘主義へ」という副題がつけられている。
2 新スコラ学と新トマス主義を同一視してよいのかどうかはわたしはわからない。辞書的に言えば、新スコラ学とは、19世紀後半から登場した、中世のスコラ学の復興を目指す運動をさす。トマス的なスコラ学の精神を継承しながらも、理性と信仰の統合、科学と形而上学の統合を図ろうとする。日本では、この運動が登場してきたころ、岩下壮一師が激しく批判していたことが知られている(『信仰の遺産』など)。
 新トマス主義は近代化の中で影響力を失いつつあったトマス・アクイナスの思想や哲学を復興させようとした19世紀後半以降の教会の試みを指す。例えば、トマス思想は「永遠の哲学」だからすべてのカトリック系の学校で『神学大全』の勉強が求められたという。哲学と科学、信仰と理性の総合を目指した。ラグランジュ、コンガール、カール・ラーナーらの名前が浮かんでくる。
 カト研の皆さんはよく覚えておられるでしょうが、ジョンストン師は自分が学んだ神学校が如何にスコラ哲学、トマス主義一辺倒だったか、B.ロナガンを初めて読んで天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたことなどを、よく語っていたものである(『Mystical Journey』 p.38)。1930年代から40年代のアイルランドでの話である。
3 政治神学とは何かはあまりはっきりしないが、政治神学というとまずC・シュミットの名前が挙がる。かれの『政治神学』(1922)は、近代の国家論の主要概念は世俗化された神学概念にすぎないとして国家論を展開した。しかし聖書神学の裏付けがない主張だったため神学者に与えた影響力は少ないようだ。かわりに影響力があったのがメッツのようだ。
4 E・H・カーはその著『20世紀のカトリック神学』の中では、メッツを独立した章としては扱っていない。考えてみればこれは不思議なことだ。ラッチンガー(ベネディクト16世名誉教皇さま)による政治神学批判の文脈でメッツが言及されるにすぎない。ラッチンガーは、メッツの、歴史を終末論にのみ基づく救済と考える議論を批判する。歴史は連続的なものであり、過去を排除すべきでないし、政治神学は存在論を無視していると批判している。
5 フランシスコ教皇さまは解放の神学に好意的だ、少なくとも否定的ではない、ということで、このアルゼンチン出身の教皇さまに批判的な眼を向ける人も多いようだ。昨年、中米エルサルバドルの故オスカル・ロメロ大司教が列聖された。フランシスコ教皇さまの大決断だ。第262代教皇、故パウロ6世と同時の列聖だったから、日本のメディアでも驚きをもって(または喜びをもって)報道されたことが記憶に新しい。日本では2018年10月14日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で菊池大司教さまの司式で列聖感謝ミサが捧げられている。
6 諸宗教の神学は、諸宗教の共存に関する議論をこのように整理して包括主義の立場をとるという。社会科学から見れば、これらの問題は諸宗教の共存に限定されず、言語やエスニシティをぬきに議論しても論争の決着はつかない。国家や民族の共存というテーマにまで関わってくる。
 エスニシティ論では、かっては文化的多元主義を説明するとき、同化論・るつぼ(melting pot)論との比較がよくおこなわれたが、最近のエスニシティ論では「統合主義」integrationism と呼ばれる新しいアプローチの議論もあるようだ。これも現実の移民問題や難民問題、Brexit問題と関連付けたとき、あらたな解決策とも言えないようだ。諸宗教の神学はこれからの発展がもっとも期待される神学の分野のように思える。
7 相対主義は近代哲学(カントなど)や現代哲学(プラグマティズムなど)を支える思想的基盤で一方的に批判することはできないが、宗教的多元主義の文脈におかれると奇妙な議論に結びついてくる。例えばどの宗教も平等だという文脈でよく使われる例で、富士山の登山口の話がある。富士山に登るには吉田口、須走口、御殿場口などいろいろなルートがある。だが、頂上は同じだ。だから、たどりつくところは同じだからどの宗教にも優劣はないという話になる。これはなんとなくわかりやすい話なのでよく使われる。だが考えてみるとこれは奇妙な譬え話だ。ちょっと考えると次のような疑問が湧いてくる。
①こういう一見耳障りのよい話は実は自分が聞きたいと思っている話であり、話の真偽にそれほど関心はない場合が多いのではないか。
②こういう説明をすることで自分の立場が強化される集団がある。例えば、オーム真理教もキリスト教や創価学会も同じだと言われると違和感を感じる。しかしキリスト教も生まれた当時はオームみたいに迫害されていたのではないの、と言われるとなんとなくそういう気になる。これは相対主義的思考のトラップなのではないか。
③吉田口も須走口も同じだというが、本当に同じなのだろうか。登りやすいルート、難しいルート、長いルート、短いルートというのがあるのではないか。
④頂上は同じだと言うが、吉田口と須走口がたどりつく頂上は本当に同じなのか。別の場所にたどりつくのではないのか。天国と涅槃は同じだというわけにはいかない。
 などなど、この譬え話は安易に使うととてもあぶないと思う。私はむしろこういう譬え話が現代の日本でのみ深く受け入れられている、戦前の日本では、外国ではほとんど聞かれない、という事実に興味を引かれる。これが何を意味するのか、もうすこし考えてみたい。

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