カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

足を洗ってもらった ー 洗足式にて

2019-04-18 23:05:19 | 教会

 今日は聖木曜日。聖週間も聖なる過越の三日間が始まった(1)。洗足式にお呼びがかかり、神父様に足を洗ってもらった。久しぶりの洗足式で印象深かった(2)。ミサもゆっくりしたものであった(3)。
 洗足式とは、最後の晩餐の時、イエスが弟たちの足を洗ったのにならい、司祭が12人の信徒の足を洗う儀式だ(4)。「愛」と「へりくだり」が主要なメッセージのようだ。
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」( ヨハネによる福音書13:14、聖書協会共同訳)(5)。

 実際の洗足式のやり方はいろいろあるようだが、われわれは、神父様に足をっ洗てもらうのだから、恐縮というか申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。

、今日は、われわれが、たらいに足を入れ そこに神父様が水差し(魔法瓶)から水(実際にはぬるいお湯)をかけ、神父様がぞうきんで拭かれた(6)。われわれは祭壇の前に置かれた椅子に聖櫃を後ろに前に向かって座る。水差しやぞうきんは侍者の子供たちが手伝ってくれた。

 洗足とは日本語としてはまだわかりにくい言葉でもある(7)。聖木曜日の意味の理解が広まれば、いずれ「洗足」とは、「足を洗う」とは、愛とへりくだりの行為のことだという意味が、日本語としても定着してくることであろう。

 聖木曜日のミサが印象深いのは、ミサの後、クロス、カリス、ろうそく、花など祭壇上のもがすべて別室(小聖堂など)に移されることだ。聖体安置というらしい。明日の聖金曜日・聖土曜日のためだ。過越の三日間をつよく印象づけられた。


注1 枝の主日から聖週間が始まるという。いつ頃から始まった典礼なのか詳しくは知らないが、中心はやはり聖なる三日間だろう。
注2 聖木曜日に洗足式をするのは、司祭の判断なのか、司教の判断なのかわからないが、私の所属教会の前任司祭は洗足式はされなかったので、今日の洗足式は10年ぶりということになる。新しい神父様の意向なのか、近年強まりつつある古いスタイルへの回帰の表れなのかはわからない。
注3 聖木曜日のミサは古代の古い伝統的ミサの形式を最も強く残しているといわれる。明日の聖金曜日にはミサはないので(式はある)、聖木曜日のミサは参加者も多い。今日もいつもの主日のミサの半数くらいは来られたのではないか。
注4 足を洗ってもらうのは男子12人。小さい教会では12人の男子をそろえるのも大変な場合もあるらしい。また、『ミサ典礼書』では男子とは限定されていないようだ。女性が足を洗ってもらうこともあるのかもしれない。
注5 このイエスが弟子の足を洗うという出来事はヨハネ福音書にしか書かれていない。共観福音書ではなぜ触れられていないのか、不思議といえば不思議だ。足を洗うのは当時は奴隷の仕事とされていて、イエスにはふさわしくないと思われたからだろうか。
注6 片方の足。右でも左でもよいようだ。ただ、靴を脱いで、ソックスはとらねばならない。タオルやぞうきんは全員で一枚のこともあるようだが、今日は一人一枚づつだった。イエスは腰に手ぬぐいをまとったという。
注7 「足を洗う」とは普通の日本語では別のことを意味する。「いやしい勤めを辞めて堅気になる」(広辞苑第7版)。つまり悪いことをやめて真面目になるという意味で使われる。また、地名の「洗足」は「千束」のことで、日蓮聖人伝説が入って「洗足」になったというが、「洗足」とはなにか紛らわしい表現ではある。

 

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