カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

松本教会へのご聖体訪問

2018-10-13 10:29:58 | 教会


 先日長野県松本市にドライブ観光に行った。ついでと言ってはなんだが、松本城の真向かいに松本教会があるので聖体訪問に訪れた。木曜日だったのに偶然10時からのごミサにあずかれた。なぜ木曜日の朝10時にごミサがあったのかはわからなかったが、ことによったら初金の替わりかもしれない。M神父様が司式しておられた。主任司祭はH神父様のようだが、M神父様はアメリカ留学から帰られたばかりで協力司祭とのことであった。
 ミサ答えもいないのに、元気で若い神父様のごミサは力溢れるものであった。特にお説教に心を打たれた。こういう若くて元気な神父様が横浜教区に多くおられることをわたしは忘れていた。こういう方々が次の時代の教会を担って行かれることに気づき、力づけられた。
 このごミサに出ておられたのは30人ほどだったろうか。多いのか少ないのかは分からなかったが、わたしの所属教会とは違うところもあって興味深かった。ベールをかぶった方もおられたし、聖変化で跪いておられた方もおられた。そもそもベンチには跪き台がついていた。この20日には荘厳司教ミサがまた関口教会であるようだが、それとはまた異なるなにか懐かしい雰囲気のミサであった。
 ミサの後、信徒会館で婦人会の方々としばらく歓談する機会があり、いろいろ教えていただいた。松本教会はなんと明治13年献堂で約140年の歴史を持つという。旧司祭館は長野県最古の洋館で、現在は旧開智学校の隣に移設され、公開されていることはよく知られているようだ。現在の松本教会は名簿上は600人くらいの信徒がおり、土日のミサには100人くらいが集まるという。松本市のような地方の大都市の福音宣教の課題をいろいろ教えていただいた。また、集会祭儀も試験的に試みたことがあったとのことで、問題点のいくつかを教えていただいた。集会祭儀はどの教会でも試行がしばらく続きそうである。
 元気な神父様、立派なお聖堂、伝統的なごミサ、とわたしにはなにか巡礼気分であった。

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福音宣教とメディアの役割

2018-10-08 22:15:45 | 教会


 体育の日に開かれた講演会から今帰宅したところである。忘れないうちに印象を書き記しておきたい。テーマは「福音宣教とメディアの役割」、主催は「栄光同窓カトリックの会」で、開催場所はカトリック雪の下教会。パネリストは、松谷信司(キリスト新聞社社長)、南条俊二(元読売新聞副論説委員長)、土屋至(元清泉女子学院中高教諭)の三氏で、三氏がこのテーマで自説を展開するという流れであった。松谷氏はプロテスタント、南条・土屋氏はカトリックである。カトリック教会のメディアを使った福音宣教が「カトリック新聞」と「心のともしび」(ラジオ番組)にほぼ限定され、、少子高齢化のなかで販売部数や聴取者数が減少する中で、どうしたら活性化できるのか、昨年大きなリニューアルをしてあらたな挑戦を始めた「キリスト新聞」の経験から学びたい、というのが趣旨のように聞こえた。まるでカトリック司教団の機関誌みたいで影響力の低下した「カトリック新聞」だのみのメディア福音宣教からどうしたら脱皮できるのか、が主催者側の問題意識のように思えた。
 三者に共通していたのは、ネット社会に対応した福音宣教のあり方の模索のようだ。

 松谷氏の話は興味深かった。まずデータの紹介があり、信仰はなくとも神・仏の存在を信ずる日本人が多いこと、SNSの利用率は世代別格差が大きく、高齢者には「ネットはあぶない」という幻想が支配していることを強調していた。だからキリスト教のメディア宣教はことごとく失敗してきたが、実際には「信じるつもりはないが知りたい」という「にわかファン」が存在しており、この人たちも宣教の対象になるという。こういう状況下、「キリスト新聞」は紙媒体だけでは生き残れないと判断して数年前に紙面をリニューアルし、ネット対応化したという。この戦略は成功しつつあるようだ。そして新しい福音宣教の「カタチ」の例として、「坊主バー」やtwitterの「上馬キリスト教会」などを紹介された。「キリスト新聞」「カトリック新聞」「クリスチャントゥデイ」をキリスト教系三大新聞と言うらしいが、どうもネット社会への対応に遅れているのはカトリック新聞のようである。


 南條氏の講演は、ネットマガジン「カトリック・あい」の紹介が中心であった。「カトリック・あい」は、ネットマガジンらしく、教皇のことば、バチカンの動き、世界・アジア・日本のカトリック教会の動きなどを報道しているという。創刊からわずか2年余で月間閲覧者数が1万を超えているというから驚きである。氏の講演は「カトリック新聞」の編集方針批判が中心であったが、要はカトリック新聞が「メディアの要件」を満たしていないからだという。氏が言うメディアの要件とは、①報道の目標②ニュース・センス③企画力とスタッフ④財政的裏付け⑤オーナー(カトリック新聞なら司教協議会)の明確な編集方針 の五つだという(注1)。氏は、紙媒体を拒否してインターネット・メディアを奨励するというより、カトリック新聞の編集方針に納得していないようだ。氏はレジュメの中で、「現在のカトリック新聞がつまらないのはまず、中央協議会の”機関誌”となり、「不都合な真実」は原則として扱わず、本音が出ていない・・・機関誌なら機関誌に徹し、赤旗や聖教新聞なみに徹底すべき」とまで言っている。元編集記者にここまで言わせるのだから、カトリック教会のメディア戦略は危機に瀕しているようだ。

 土屋氏の講演は、司教団サイドからの話であった。氏は、司教団の「カトリック新聞将来ビジョン策定会議」の委員として、カトリック新聞のデジタルメディアへの重点の移行を答申した一人だという。司教団はこの答申を受けて、紙媒体のカトリック新聞は存続させるが、福音宣教のための「ITメディア」を作ろうと決め、この夏から作業チームが動き始めたという。それが具体的にはどのような形をとるのかはわからないが、今後の推移を見守りたい。
 土屋氏はシグニス(SIGNIS)の一員で、その活動を説明された。具体例として ウエブマガジン「AMOR-陽だまりの丘」を詳しく紹介された。シグニスとは2001年に教皇庁から公認された一種の「メディア協議会」で、NGOだという。また、AMORとは、詳しくはネットでお調べいただきたいが、キリスト教系のメディアとしてはエキメニュカルな性格が特徴だという。

 報告の後、かなりの質疑応答があった。具体化し始めつつある学校教育における道徳と宗教の科目の関係、少子高齢化のメディアへの影響、キリスト教メディアが対象として読者・視聴者は誰か、など興味深い質問があり、三氏の応答があった。どの応答も個性溢れるもので学ぶことが多かった。
 有意義な体育の日の一日であった。

注1 メディアの要件というと、原寿雄『ジャーナリズムの思想』(1997)を思い出す。この新書はかってはジャーナリズム関係者には大きな影響力を持っていた。原氏は「ジャーナリズムとは、時事的な事実の報道や論評を伝達する社会的活動」と定義し、報道・論評を強調する。20年前の議論とはいえインターネット社会の到来を想定した議論は現在でも色あせていない。現在、日本の新聞は社説や署名記事の名の下に党派性を明確化させてきていて、「不偏不党」や「政治的公平」はスローガンにすらならない。トランプ大統領のフェイク・ニュース説(偽情報説)は社会の分断を固定化させ、アジェンダ・セッティングの議論は遠い昔の話になってしまっている。南條氏のこの要件論は、マクルーハンの「メディアはメッセージ」説が現在でも説明力を持っていることを示しているようだ。

 

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