カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『使徒信条を詠む』(3)(神学講座)

2017-09-05 10:26:53 | 神学


 第一部の第5・6・7講は、「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の比較なので、別の投稿記事としてまとめてみたい。

第5講は「『使徒信条』と『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』について」と題されている。内容は両信条の特徴の比較だ。

 「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の形成の背景の違いとして阿部師は3点指摘している。

 まず第一はその歴史的背景の違いだ。「信条」とはミサで用いられる信仰告白の祈りのことをいう。ギリシャ語で口伝えで伝えられていた使徒信条の源は、使徒時代の「使徒たちから受けついだ教えをまとめた信条」、そこから発展して2~3世紀に練り直された「古ローマ信条」の二つだという。現在の使徒信条の形になったのは8世紀だという。古ローマ信条は3世紀には文字化されているようで、洗礼志願者が洗礼式の際に自らの信仰を宣言するために作成されたという。このため、使徒信条は「洗礼信条」とも呼ばれるようだ。

 他方、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、381年の第一回コンスタンティノポリス公会議で制定されたもので、325年のニカイア公会議で決定された「ニカイア信条」を洗練させたものだという。なぜ単に「コンスタンティノポリス信条」と呼ばないのか、阿部師は325年に制定されたのは「原ニカイア信条」と呼ばれ、それと区別するためだとしているが、公会議で制定された点を強調するためのようだ。このため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は「公会議信条」とも呼ばれるようだ。

 また、使徒信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条は、生成の背景がことなるという。使徒信条は、外的迫害の中で生み出され、いわば迫害に対抗するための性格を強く持っていた。他方、ニカイア・コンスタンティノポリス信条は、教会の内部分裂を解決するために一致の基準を確定するために制定されたという。キリスト教がローマ帝国で認定されたのが313年だから、その後の環境の変化が二つの信条を作っていったのであろう。

 第二点は、両信条の翻訳問題だ。もともと、使徒信条は「私は信じます」と単数形で文章がつづられ、ニカイア・コンスタンティノポリス信条のギリシャ語原文は「私たちは信じます」と複数形で文章が綴られていたという。単数形と複数形。個人の信仰告白と、教会の公的な態度表明。性格の違いは明らかだったらしい。ところが、8世紀にギリシャ語で書かれた「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」がラテン語に翻訳される際に、「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の「私たちは信じます」は「私は信じます」(Credo)の単数形に「改変」されたという。阿部師は「改変」という言葉を使っているが、この改変が神学的にどういう意味を持つのかは詳しい説明はなされていない(67頁)。だが、この改変は歴史的には大きな意味を持つという。つまり、この頃のキリスト教は東ローマ帝国のギリシャ語の世界で発展していた。神学はギリシャ教父の作品だった。古代の公会議はみなギリシャ地域で開催されていた。つまり、今で言えば東方教会こそキリスト教の信仰や神学が整えられていた世界だった。ところが、この使徒信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条の制定に関しては、主導権は、東方教会ではなく、ローマに、西方教会にあった。使徒信条は西方教会のなかで鍛えられてきたという。これは驚くべき出来事だという。

 第三点は、従って、使徒信条は「構造」を持つようになったという。使徒信条は[
12の言葉]でできているだけではなく、それらが「構造」をもっており、構造があるからこそ歴史的試練に耐えることができるということであろう。

 使徒信条はまず、二つの「部分」からなっているという。第一は三位一体の神への信仰告白、つまり讃美と感謝の祈りの部分。第二は教会共同体への同意の部分、だという。カトリック信仰が結局は三位一体の神への信仰、教会への信仰の二点に収斂すると言われるのはこういう意味なのであろう。少しこの構造の中身をみてみよう。

三位一体の神への信仰告白
1 私は信じます 天地の創造主、全能の神である父を。
2 私は信じます 神の独り子、私たちの主イエス=キリストを。

[①主は聖霊によってやどり、②おとめマリアから生まれ、③ポンティオ・ピラ トのもとで苦しみを受け、④十字架につけられて死に、⑤葬られ、⑥陰府に下り 、⑦三日目に復活し、⑧天に昇って、⑨全能の父である神の右の座に着き、⑩生 者と死者を裁くために来られます。]

3 私は信じます 聖霊を。

教会共同体的な愛のあかし
4 私は信じます ①聖なる普遍の教会、②聖徒の交わり、③罪のゆるし、④から だの復活、⑤永遠のいのち

使徒信条の構造がこういう風に解き明かされ、説明されると、なるほどと感嘆せざるを得ない。

 第6講はカテキズム論である。阿部師はカテキズムを「教理書」、「要理書」、「信仰教育書」と訳されている。昔風にいえば公教要理書ということであろう。阿部師は、カテキズムは使徒信条とニケア・コンスタンティノポリス信条の意味を説き明かす書物だという。
 現在、日本で我々がもっているカテキズムの本は、①『カトリック教会のカテキズム』(邦語版2002) ②『カトリック教会のカテキズム要約』(邦語版2010)の二冊である。前者は839頁におよび、なかなか一気に読み通すわけにはいかない。日本の場合は、司教団から『カトリック教会の教え』が新要理書として2003年に出されている。だが、これも534頁もあり、付録の「日本の教会の歴史と制度」は便利とは言え、日常的に手元に置いて参照するものでもない。結局、『カテキズム要約』が使いやすく、おそらく多くの公教要理の勉強会(入門講座)で用いられているのではないだろうか。阿部師もこの要約を使って三位一体論の説明を展開していく。
 『要約』は『カトリック教会のカテキズム』の精髄を598の問答形式で要約している。「問答形式」の説明は慣れないと取っつきにくいだろうが、長い歴史的伝統もあり、教理の説明に便利である。

 二冊のカテキズム書(教理書)はどちらも大きく見て二つの部分からなっている。一つは「原理的な理念の解説」部分で第一編の「信仰宣言」だ。もう一つは「具体的な実践の方途」を示している部分で、第二編の「秘跡」、第三編の「倫理」、第四編は「祈り」、という構成だ。つまり、全体は「4編」からなっていて、構造化している。相互に連動していて、切り離すことはできないという。問答数でいうと一番多いのは、第二編の「七つの秘跡」につづく「イエス=キリストと教会」の部分、250番から356番まで、総計107の問答からなる。次は「十戒」(434番~533番)で総計100の問答という。教会と十戒、これがカテキズムでは重要視されているようだ。

 『要約』の第一編が「信仰宣言」を主題としており、三位一体の神への祈りのかたちをとってまとめられているのは、三位一体論が確立した4世紀の教父たちの影響だという。阿部師は特に[カッパドキアの3教父」を高く評価し、紹介している。カッパドキアの3教父とは、修道制を確立したバシレイオス(330-379)、神秘主義者のナジアンゾスのグレゴリオス(325-390)、優れた説教者で(バシレイオスの弟の)ニュッサのグレゴリオスのことで、特に聖霊の神性を強調し、三位一体論の確立に寄与したという。なお、カッパドキアとは現在のトルコ東部の高原地帯で、4世紀頃は東ローマ帝国の東端にあたる地域であったという。

 第7講は「カテケージス」の説明である。阿部師はカテケージスを教理講話、教理教育、信仰教育などと訳している。つまり、使徒信条に代表されるカテキズムの源流がカテケージスだという。本格的なカテキズムは16世になって多数作成されるようになったが、その源流であるカテケージスは、4世紀にさかのぼるという。つまり、アレクサンドレイア学派のキリスト教思想家達がカテキズムの基礎を築いたという。師は、エルサレムのキュリロス(315-386)、ニュッサのグレゴリオス(335-394)、アレクサンドレイアのディディモス(310-398)をあげている。313年のミラノ勅令のあと40年後くらい経ってから急速に信仰教育の必要性が高まったようだ。この時期、教会はアレイオス主義に反対し、「ホモウシオス」(父と子の同一本質)説を確立してくる。つまり、「カテケージス、およびカテキズムの発達と三位一体論の確立とは連動している」(80頁)という。

  他方,この時期は、キリスト教の理論や理屈よりも、「救いの実感」を求める動きが活発化したという。祈りの重視だ。観想へと向かう神の経験・体験が求められた。こういう考え方は、5世紀のアウグスチヌスに始まり現代までローマ・カトリック教会の立場として大切にされている。神は論ずるものではなく、讃美と感謝をささげるものだ、という考え方だ。こういう考え方は典礼儀式の充実をうながし、さらには神秘主義神学を生み出してくる。阿部師は、こういう考え方は十字架の聖ヨハネの『愛の賛歌』やイグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』にも影響を及ぼしていると述べている。ちなみに、阿部師によると、「祈り」には三つの段階または種類があるという。①口祷 ②黙想 ③観想 だ。口祷は心の思いを唱えること、黙想(meditation)は聖書の各節を味わって祈ること、そして観想(contemplation)とは神と対話しながら祈ることだという(注1)。阿部師は観想こそ「愛の探求の眺め」であり、究極の祈りであるという。阿部師の三位一体論の射程がこういう神秘主義神学にまで及んでいることに驚きを禁じ得ない。

注1
 カト研の皆さんもよくご存知のように、ジョンストン師もmeditationとcontemplationの区別を力説しておられた。かれはmeditationには「黙想」より「瞑想」という訳語をあてることを好んだようだが、これは当時の禅キリスト教の影響を受けた司祭達の好みだったようだ。(W.ジョンストン 『愛する』2004 南窓社)

 

 

 

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『使徒信条を詠む』(2)(神学講座)

2017-09-04 13:09:11 | 神学


 神学講座では9月から、阿部仲麻呂『使徒信条を詠むーキリスト教信仰の意味と展望ー』 2014 教友社)を読む予定であったが、神父様が今日講義をお休みになられたので、自分で読んだ読後感を少しまとめておきたい。

 本書は全体が4部から成っており、第一部は「前提・主題と方法論・背景」と題され、第二部は「使徒信条の解釈ー三位一体の神とである人間の救い」、第三部は「現代的可能性ー使徒信条を生きる」、第四部は「番外編ーキリスト教信仰を理解し直す」、となっている。

 第一部は次のような章立てである。

第一部 前提・主題と方法論・背景ー「信仰年」に「使徒信条」を理解し直す

第1講 キリスト者の心構えと生き方ー「信仰年」によせて
第2講 前提ー聖母マリアに支えられて前進する教会共同体
第3講 主題と方法論ー三位一体の神への賛美頌栄という教父の姿勢
第4講 背景ー三位一体の神の実感とカテケージス(信仰教育)そしてドグマ(信仰の正 しい理解を体得すること)
第5講 「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」について
第6講 二つの信条の意味を理解して生きるー「カテキズム」(信仰教育書)の方向性
第7講 二つの信条の意味を理解して生きるー承前

 本来は一章ずつ(一講義ずつ)要約すべきだろうが、ここでは無理を承知で、第一部全体の要点を整理しておきたい。なお、第5・6・7講は、「使徒信条」と「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」の比較なので、別の投稿記事としてまとめてみたい。

 この第一部を読んだ後、強く残った印象が三点ある。
一つは、著者阿部師がベネディクト16世に強く影響を受けていると思われることだ。講義の内容はラッチンガー神学の響きが強い。ラッチンガー神学と言っても、初期の若き神学者ラッチンガーか、教理省長官時代のラッチンガーか、ベネディクト16世としてのラッチンガーか、区別して論じなければならないのだろうが、その識別は私の理解を超える。が、阿部師へのラッチンガー神学の影響は大きいようだ。本書または本講義のきっかけは、2012~13年の「信仰年」にあると阿部師は述べている(ベネディクト16世は1927年生まれで、教皇在位は2005~2013年)。2012年は阿部師の受洗30周年なのだという。1968年生まれで、サレジオ学院で中学2年の時に洗礼を受けたという。今が脂ののりきった年齢と言えそうだ。

 第二の強い印象は、阿部師の「バランス感覚」だ。教義の原理原則を強調しながらも、原理原則の過度な強調はよくないと師は繰り返し述べる。師は「バランスの悪さ」という表現を使う。
例えば、師はラッチンガーにならって、現代社会の危機として、①個人主義②世俗主義③相対主義 の三つをあげ、批判していく。現代社会論である。どれももっともな指摘である。だが、それらの危機を批判することと、それらを否定することとは、同じではない。例をあげれば、師は、「行き過ぎた個人主義は人間関係を壊す原因となる」と批判するが、「個人のプライベートな領域を確保することは健全な精神状態を保つ上で必要です」とも述べる(41頁)。個人主義は批判すればそれで良い、というものではないと言っているわけだ。こういうバランス感覚は私の好みだ。神学者としてのラッチンガーはどちらかというと白黒をつけたがるが(例えばピオ十世会批判など)、阿部師のスタンスはもう少し穏やかといえようか。阿部師のこういうバランス感覚は日本の神学者のなかでは貴重な資質のように思える。

 第三の強い印象は、阿部師の深い「マリア崇敬」の念だ。多くのカトリック信者のとってはそれほど違和感はないだろうが、阿部師のマリア論は、一部のカトリック信者、カトリック以外のクリスチャン、未信者(あまりいい言葉ではないが、ほかに言葉が浮かんでこない)には、なぜそこまで強調するか、と思わせなくもない。カトリックを「マリア崇拝」と誤って批判する人が多いが、カトリック教会はマリアを「崇敬」しても「崇拝」していないと繰り返し主張してきた。マリアは神ではない。しかしそう誤解される理由が無いわけでもない。阿部師のマリア論重視は慎重に見ていく必要がある。このマリア論はあとで改めて考えてみたい。

 さて、少し順を追ってみてみよう。

第2講では、使徒信条を論じる「前提」が述べられる。師が提示するこの前提は興味深い。これらの前提を共有しないと使徒信条は論じられない、ということなのだろうか。前提として3点あげられている。
第一は、使徒信条は「教会」と切り離しては論じることはできない、という主張だ。つまり、使徒信条は、教会共同体(エクレーシア)の典礼儀式における祈りが次第に整備されて、キリスト者の信仰基準となったものだ。信条は学者が作ったものではなく、キリスト者の祈りが言葉になったものだからだ。
 第二は教会はマリアによって支えられているという主張だ。この教会は二千年前の聖霊降臨から始まった出来事であるから、「聖母マリアの誠意がなければ教会は誕生することはなかった」という(38頁)。これは、カトリック神学ではマリア論は教会論の一部に位置づけられている理由の一つなのかもしれない。師は、「現代の教会共同体はマリアに支えられている」という考えを繰り返し強調する。師のマリアへの思い入れは深いようだ。
 第三は、師の現代社会論だ。それはほぼラッチンガーの現代社会論だ。阿部師は、神への信頼を揺るがす現代の危機として、①個人主義②世俗主義③相対主義 の3点を指摘している。論じ出せば切りの無いテーマだが、師は詳論はさけ、これらの危機を乗り越えるヒントとして「マリアにならって」三つの方法を提示し、説明する。①個人主義には「関係性」を、②世俗主義には「聖性」を、③相対主義には「一貫性」を、「対抗させれば済むことです」(42頁)という。聖母マリアに従えば現代の危機を乗り越えることができる、というのが阿部師の考えらしい。これはこれで面白い議論だが、このマリア論にもとづく現代社会論はもう少し丁寧な整理と説明が必要だろう。

 マリアを巡る議論の焦点は、神学的には大きく見て二点ある。一つは「無原罪のおん宿り」(処女懐胎)論だ。これは1854年ピオ9世の回勅によって教義とされた。もう一つは「マリアの被昇天」論だ。マリアは「最後の審判を待たずに」昇天されたという考えだ。これも結局1950年ピオ12世によって教義となる。共に、歴史的には使徒や教父の時代から言われ続けてきた考え方のようだが、教義(ドグマ)となると話は別だ。教会はMariolatory(マリア崇拝)を禁じている。宗教社会学者たちはキリスト教のマリア観に、大地母神としての女神信仰、母性信仰、再生信仰などの影響を語ることが多い。といっても、マリア崇敬の念ははカトリック教会、東方教会、聖公会に強く残っている。キリスト教に残存する多神教的要素をどう評価するかで、マリア論は分かれてくる。現在のカトリック教会の信者の中にも強いマリア崇敬心を持つ方と、ほとんど関心を示さない人もいる。カト研では、ジョンストン師がマリア論にほとんど目を向けなかったためか、あまり関心を示す人はいなかったように思う。かれの神秘主義神学の中にマリアはいない。また、エキュメニズム(教会一致)のためにはマリア論は避けて通れない問題だろう。こういう問題状況の中に阿部師のマリア論を置いてみると、それが特異な位置を占めているように思える。

 第3・4講では本書の主題、方法、背景が取り上げられる。
「主題」とは、一言で言えば、「三位一体の神への讃美頌栄」という意味での使徒信条だ。「頌栄」または「栄唱」とはdoxologyの訳だという。なぜこのように訳し分けるのか、ごミサで使われる「詠唱」という表現とどこが異なるのか、私にはわからない。岩波キリスト教辞典によると、カトリックでは「栄唱」というが、プロテスタントでは「頌栄」または「栄頌」というとあるが、はたしてどこまで定着した使い分けだろうか。いずれにせよ、どれも神に栄光を帰する祈りのことで、事実上、三位一体の神への信仰告白のことだ。
 そして、「方法」としては教父たちの議論を使う。ギリシャ教父であるナジアンゾスのグレゴリオスや、ラテン教父のアウグスティヌスの議論が援用される。
 そして、使徒信条の「背景」として、信条、カテケージス、ドグマ、の意味が説明される。まず、「信条」とは二世紀から四世紀の間にキリスト者(こういう言葉がいつどのようにして生まれたかはまた別の問題)が口頭で伝承していたもの、教会共同体(エクレーシア)で洗礼式などで口ずさんでいたものが「文字化」されたものだと説明される。信条とはギリシャ語やラテン語の文字として表現された「割り符」または「契約のしるし」なのだという。このため、「使徒信条」は別名「洗礼信条」と呼ばれ、おもに洗礼式で唱えられていたようだ。
 「ドグマ」とは教義のことだ。ドグマという言葉は、現在の日本では、なにか「思弁的で形式的な理屈」「教条主義的な冷たい理念」という意味で用いられることが多い。悪い意味で使われる。これに対して阿部師は、ドグマの正しい意味は、「信仰の正しい理解・見解」のことであり、「信仰生活の本来的なあり方を体得すること」のことだと強調する。ドグマという言葉の使われ方を正したいという阿部師の心意気が伝わってくる(注1)そして、ドグマの中心は三位一体の神への信仰だとする。ここからかなり詳しく三位一体論が展開されるが、これは第二部の主要テーマなので、ここでは要約は省きたい。
 つぎに「カテケージス」の説明がなされる。カテキージスとは信仰教育のことで、洗礼志願者は信条の言葉を手がかりに神と自分との関わりや共同体の連携について学ぶ。この過程をカテケージスと呼ぶのだという。カテケージスを通して教会共同体が正しい方向に進むことができる、という。かなり微妙な表現だが、「神への祈り」(信条)は「信仰内容の確認」(カテケージス)とつねに連動している、というのが阿部師の考えのようだ。

注1
 「ドグマ」という言葉と同じように、「イデオロギー」という言葉も注意して用いたい。現在、日本では、イデオロギーという言葉は、虚偽意識とか階級意識とかと同一視されたり、場合によっては単なる嘘と同じ意味で使われたりする。いつもなにか悪い意味で使われる。K.マンハイムによれば、啓蒙思想家たちが使っていた「思想」「真理」という意味内容はナポレオンによって換骨奪胎され、現在のような、相手を批判するときに使う言葉(「敵の虚偽性を暴露する」)に堕してしまった。「存在に拘束された社会意識」という普通の価値中立的な意味に戻ることはないのだろうか。「宗教はイデオロギーである」、「科学はイデオロギーである」、「デモクラシーはイデオロギーである」。この三つの言説の違いをカト研の皆さんは識別できますでしょうか。また、使徒信条はドグマです、といわれてすんなりとうなずかれるでしょうか。言葉(用語)のなかみとそれが指し示すものは時代と共に変わっていくものなのであろう。

 

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