カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

石の神殿と聖霊の神殿 ー 教会論(6)

2020-01-06 12:35:04 | 教会

 岩島師による教会論「新約聖書における教会の自己理解」の続きである。師によると、教会論とは教会の自己理解の展開の歴史のことである。新約聖書における教会の自己理解は主に4福音書、使徒言行録、パウロの書簡のなかに見いだされる。この自己理解には、①神の民 ②キリストの体 ③聖霊の神殿 という3つの理解の仕方があるという。新約聖書の教会観には3種類あるといってよい。今回はこの第三の教会論、聖霊の神殿 という理解の仕方の特徴をみてみよう。

 

 

 岩島師の説明に入る前に、お弟子さんの増田祐志師の説明と、フランシスコ教皇の説明を見ておきたい。そうすることで、岩島師の説明の特徴がはっきりしてくると思われるからだ。

 増田師は神学的な教会論よりも歴史のなかの教会を重視する。フランシスコ教皇は旧約の教会論(石の神殿)と新約の教会論(聖霊の神殿)を対比的に説明している。

 まず、増田師は、岩島師と異なって、「神の民」「キリストの体」「聖霊の神殿」という教会論は、「超越的次元を含む神学的考察の対象」であり、教会の自己理解の展開としての歴史の考察とは異なると主張している(1)。師はそれを「教会のシンボル機能」と呼んでいる。教会を現代でも理解可能にするためにイメージやシンボルを用いて教会を表現するのだという。教会観の議論はシンボル論だというわけだ。これはこれで興味深い議論だが、「秘跡」も「シンボル」だというのは言い過ぎの気もするがどうだろうか。増田師はシンボル分析よりは歴史分析を強調する。つまり、神学的な聖霊の神殿論はほとんど展開されていない。

 増田師の教会論の特徴は、教会は「人間集団という社会的現実であると同時に神という超越的存在と結びついている神学的現実が共存する統合された一つの共同体」(2)だという点にある。つまり教会は「二重構造」を持った存在として捉えている点にある。教会を共同体と定義しながら、同時にそれが二重構造を持つという指摘は、増田師の教会論の特徴と思われる。

 従ってかれが分析する際に使う方法論は、「社会学的・歴史的アプローチと神学的アプローチの両方」の二つだ。教会をプラトン的な「イデア的実在」とみなすのではなく、「具体的な歴史のなかに存在するもの」として把握しようとすると、この二つが必要となるという。 そして分析する際の「観点」として、「自己理解の展開としての歴史」と「秘跡性というシンボル機能」の2点が指摘される。

 つまり、教会論を教会の自己理解の展開の歴史として捉えるところに増田師の特徴がある。これは増田師が岩島師から受けついだ「観点」であろうが、同時に発展も見られる。。師はこの観点を「アイデンティティー論」をベースに展開するのである(3)。「自己理解やアイデンティティは常に他者との関係性のなかで確認され、必要な修正が施される」とし、この「アイデンティティを深化させるために採用・吸収し(典礼や位階制)、別のあるものはアイデンティティを危機にさらすものとして拒否した(異端思想)」という。教会はこうして「自己同一性を保持してきた」という。こういうアイデンティティー論に基づいた教会論は珍しい。

 では、その自己理解の展開としての歴史とはなにか。師の著作『カトリック教会論への招き』の大半(1章から6章まで)は、この歴史論である。

 増田師によると、新約聖書の編集がほぼ終わって教会が成長する教父時代までは、つまり、二世紀から五世紀までの教会観は多様化した。様々な教会論が登場した。結局はアウグスティヌスの教会論として完成し、ニカイア公会議(325)を経て「ニカイア・コンスタンチノポリス信仰宣言」で教会は「一・聖・普遍・使徒継承」であると宣言された。この教えは現在まで変わらず続いている。だがこういう教会観はやがて「教皇制の増大」という結果をもたらす。教皇権が強化されてくる。7世紀初頭、レオ1世・グレゴリウス1世は「大教皇」と呼ばれるようになる。教皇が教会のシンボルとなり、これは現代でも変わらない。

 中世から近代にかけては、つまり、6世紀から宗教改革の16世紀までは、キリスト教世界の形成・確立・変貌の時代であり、教会観は分裂する。まず、叙任権闘争を巡って教皇と皇帝が対立し、「カノッサの屈辱」に勝利したグレゴリウス7世は改革を断行していく。教皇首位権が確立する。このグレゴリウス改革はやがて異端運動を誘発し、同時に托鉢修道会が盛んになる。やがてスコラ学派(トマス・アクィナス)の教会論が確立する。他方、東西の教会が分裂し(1054)、カトリック教会も「アビィニヨンの捕囚」を含む「教会大分裂」(1378~1417)を経験し、宗教改革の前史が始まる。

 教会論から見れば、近代は宗教改革から始まり、対抗宗教改革としてのトリエント公会議で「制度としての教会論」が定着する。啓蒙思想の時代、革命の時代(フランス革命・産業革命)を経て第一バチカン公会議まで教会は近代主義(4)と対抗するのに精一杯で教会論は発展しなかった(5)。20世紀前半に入って第一バチカン公会議が開かれるとやっと「キリストの神秘体」(キリストの体)という新たな教会論が登場してくる。そして、保守からの脱皮を目指した第二バチカン公会議は「新しい神の民」教会論を提示してくる(6)。

 このように増田師は聖霊の神殿としての教会というテーマには直接的には触れてこない。では師は、教会と聖霊との関係をどう捉えているのか。
 師によると、教会はたんなる人の集まりや共同体ではない。それでは社会集団の一つに過ぎない。また、階等制をもつ組織だけでもない。それでは企業と変わらない。いわば信徒と司祭だけでは教会は成立しない。教会は聖霊の存在を必要とする。

 教会の誕生は「聖霊降臨」(ペンエコステ)(使徒言行録第二章)の時からとされてきた。イエスの弟子たちはイエスの死をみてバラバラに分解してしまったが、イエスの復活を体験して、根本的に変わる。この復活体験が弟子たちを使徒に変えていく。聖霊は教会の「超越的性格」をあらわす。この聖霊はなにか魔術的なものではなく、人間一人一人に内在する「働き」である。こういう聖霊の超越性と内在性によって弟子たちはふたたび集められ、派遣されたと思った。教会は「イエスの霊において形成された共同体」であり、「イエスの霊のイニシアティブによる神の被造物」だという(7)。増田師の歴史的教会論はここまでで、「聖霊の神殿」論にはふみこまない。それはシンボル論だという位置づけのようだ。

 次に、フランシスコ教皇の聖霊の神殿論をみてみたい。これは教皇さまの一般謁見演説らしく、わかりやすい教会論だ。フランシスコ教皇は、教会は「神の家」だとし、その特徴を旧約の「生きた石の神殿」と新約の「聖霊の神殿」を対比させて説明している(8)。長くなるので要約は控えるが、「注」に転載しておいたので、興味のある方は、原文を直接お読みいただきたい。

 そこで、元に戻って、岩島師の聖霊の神殿論を次回みてみよう。岩島師の特徴がくっきりと浮かび上がってくる。


1 増田祐志『カトリック教会論への招き』2015 63頁
2 同上 24頁
3 私はかって若い頃エリクソンを翻訳してアイデンティティー論を日本に紹介したことがある。増田師がエリクソンを読んでいたかどうかはわからないが、かれのアイデンティティー概念の理解は妥当だと思う。E・H・エリクソン 『アイデンティティーー青年と危機ー』 金沢文庫 1973年
4 実際には教会には公会議を開く力がなかったのかもしれない。トリエント公会議(1545~63)から第一バチカン公会議(1869~70)まで約300年間かかっている。
5 「近代主義」とは曖昧な表現だが、ここでは、1910年にピウス10世によって出された自発教令「サクロールム・アンティスティトゥム Sacrorumu Antistitum」(「反近代主義者の誓約」)を思い出してみよう。これは第二バチカン公会議後の1967年に廃止されるが、20世紀前半の教会論の基盤になっていたようだ。この「誓約」は、現在はなかなか手に入りにくいが、探せばどこかで見つかるだろう。ここでは近代主義思想が6項目にわたって批判されている。基礎になっているのは「相対主義」批判のようだ。
 カントなどを考えれば近代主義哲学の中核を相対主義に置くことには躊躇するが、教会論では相対主義批判は強かった。今でも強いと言って良いだろう。相対主義とは、ものの見方は相互に相対的で相互依存的であり、思想の歴史的・文化的被拘束性を強調する。認識論で言えば主観主義を導きやすい。他方、真理は歴史的・文化的文脈には依存しないで存在するという考え方は絶対主義と呼ばれる。宗教的排他主義は絶対主義の傾向が強いが、現在のキリスト教思想は他宗教との対話の必要性や宗教的寛容が重視されており、絶対主義と親和的だとは言えない。とはいえ救済の普遍性への信仰はキリスト教の根幹であり、神学における相対主義との闘いはこれからも途切れることはないだろう。
 社会科学から見ればこういう絶対主義か相対主義かという哲学的な問いは実証性の土俵に乗ってこないのであまり説得力のある議論には聞こえてこない。この角度からの近代主義批判の限界のように思える。
6 増田師は第二バチカン公会議を肯定的に評価していたようだ。「教会はこの公会議で新たな一歩をすでに踏み出したのである。その歩みを止めることは誰にも出来ない」(208頁)。第二バチカン公会議の精神を認めない議論が頻出する現在、故増田師のこの言葉は重い。
7 増田師はさらに、この「教会は神の被造物」という教会観は、教会共同体の「不可謬性 infallibilitt 」の教えの根本だという。不可謬性の教えは三位一体の神への信仰から派生する教えだという(64頁)。ここは増田師には珍しく丁寧さを欠く説明だ。教会は聖霊の保証を受けているから福音の真理から逸脱することはないという不可謬説は、教会は誤ることはないという意味ではなく、教会は神の啓示を委ねられているという意味だと理解したい。
8 フランシスコ 教皇文書 諸文書 一般謁見演説(2013/06/26)

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、教会の神秘を説明する助けとなる、もう一つのイメージについて簡単にお話ししたいと思います。すなわち、聖霊の神殿です(第二バチカン公会議『教会に関する教義憲章』6参照)。
 わたしたちは神殿ということばを聞いて何を思い浮かべるでしょうか。わたしたちは一つの建物、建築を思い浮かべます。とくに多くの人は、旧約で語られるイスラエルの民の物語のことを考えます。エルサレムにおいて、偉大なソロモンの神殿は祈りのうちに神と出会う場所でした。神殿の内部には、民のただ中に神が現存することを表すしるしである、契約の箱が置かれていました。箱の中には、律法の板とマナとアロンの杖が安置されていました。それは、神がご自分の民の歴史の中につねにおられ、民とともに歩み、その歩みを導いたことを思い起こさせるものでした。神殿はこの歴史を思い起こさせます。わたしたちも神殿に赴く際に、この歴史を思い起こさなければなりません。わたしたちには皆、それぞれ自分の歴史があります。イエスがどのようにわたしと出会ってくださったか。イエスがどのようにわたしとともに歩んでくださったか。イエスがどのようにわたしを愛し、祝福してくださったかという歴史です。
 さて、旧約の神殿であらかじめ表されたものは、教会において聖霊の力によって実現されました。教会は「神の家」です。神の現存の場です。わたしたちはそこで主を見いだし、主と出会うことができます。教会は聖霊が住まわれる神殿です。聖霊はこの神殿を動かし、導き、支えます。わたしたちはどこで神と出会うことができるのか。どこでキリストを通して神と交わりをもつことができるのか。どこでわたしたちの人生を照らす聖霊の光を見いだすことができるのか。この問いに対する答えはこれです。それは、神の民であるわたしたちのうちにおいてです。わたしたちは教会だからです。わたしたちはこの教会において、イエスと聖霊と御父と出会います。
 旧約の神殿は人の手で建てられました。人々は神のために「家を建てる」ことを望みました。それは、民のただ中に神が現存することを表す、目に見えるしるしを手にするためです。神の子の受肉により、ダビデ王に対するナタンの預言が成就します(サムエル記下7・1-29参照)。「神のために家を建てる」のは、王でもわたしたちでもありません。神ご自身が「ご自分の家を建てる」のです。それは、聖ヨハネが福音の中で述べたとおり、来て、わたしたちのただ中に宿るためです(ヨハネ1・14参照)。キリストは御父の生ける神殿です。そしてキリストご自身がご自分の「霊的な家」である教会を建てられます。この教会は、物質的な石ではなく、「生きた石」、すなわちわたしたちからできています。使徒パウロはエフェソのキリスト者に向けてこう述べます。あなたがたは「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2・20-22)。なんとすばらしいことでしょうか。わたしたちは、キリストと深く結び合わされた、神の建物の生きた石です。キリストは土台の石であり、それもわたしたちのただ中にある土台です。それはこういうことです。神殿とはわたしたちです。わたしたちが生きた教会です。生きた神殿です。そして、わたしたちがともにいるとき、聖霊もともにいてくださいます。そして、わたしたちが教会として成長するのを助けてくださいます。わたしたちは独りきりではありません。むしろわたしたちは神の民です。これこそが教会です。
 さらに聖霊は、ご自身のさまざまなたまものをもって、教会が多様であることを望みます。このことは重要です。聖霊はわたしたちの中で何をなさるのでしょうか。聖霊は、わたしたちが多様であることを望みます。多様性は教会の豊かさだからです。また聖霊は、すべてのもの、すべての人を一つに結びつけて、霊的な神殿を築かせます。この神殿の中で、わたしたちは物質的ないけにえではなく、わたしたち自身を、すなわちわたしたちの生活をささげます(一ペトロ2・4-5参照)。教会は、物や利害の組み合わせではなく、聖霊の神殿です。神がその中で働く神殿です。この神殿の中で、わたしたち一人ひとりは、洗礼のたまものによって、生きた石となります。そこから次のことがいえます。教会の中で無用の人などだれもいません。だれかが他の人に「帰りなさい。あなたは無用です」というようなことがあれば、それは真実ではありません。すべての人がこの神殿を建てるために必要です。どうでもよい人などだれもいません。教会の中でもっとも重要な人もいません。わたしたちは皆、神の目から見て平等です。あなたがたのうちでこういう人がいるかもしれません。「教皇様、あなたはわたしたちと同等ではありません」。いいえ、わたしも皆様と同等です。わたしたちは皆、平等です。わたしたちは兄弟です。無名の人など、だれもいません。わたしたち皆が、教会を構成し、築くのです。これは次のことも考えさせてくれます。わたしたちのキリスト教的生活の煉瓦(れんが)が欠けていれば、教会の美にも何かが欠けていることになります。だれかが「わたしは教会と関係がない」というなら、この美しい神殿から一つの生活の煉瓦が抜け落ちたことになります。だれも教会から出て行ってはなりません。わたしたちは皆、自分の生活と、心と、愛と、思考と、労働を、教会にもたらさなければなりません。わたしはともにそうしなければなりません。
 そこでわたしたちは自らに問いかけたいと思います。わたしたちは自分が教会であることをどのように生きているでしょうか。わたしたちは生きた石となっているでしょうか。それとも、いわば疲れた石、退屈した石、無関心な石となっているでしょうか。疲れた、退屈した、無関心なキリスト信者は、見苦しくはないでしょうか。このようなキリスト信者となっていけません。キリスト信者は生き生きとしていなければなりません。キリスト信者であることを喜んでいなければなりません。教会という、神の民の一部であることのすばらしさを生きなければなりません。わたしたちは、聖霊のわざに心を開き、自分の共同体の活発な部分となっているでしょうか。それとも、「わたしにはやることがたくさんあります。それがわたしの仕事でしょうか」と言って、自分のうちに閉じこもっているでしょうか。
 主がわたしたち皆にご自身の恵みと力を与えてくださいますように。こうしてわたしたちが、わたしたちの生活と、教会生活全体のかなめ石、支柱、土台の石であるキリストと深く結ばれることができますように。祈りたいと思います。わたしたちが主の霊に促されて、つねに主の教会の生きた石となることができますように。

 

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