カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マリア神学は教皇至上主義の支柱か ー 聖母マリア(7)(学びあいの会)

2022-03-30 11:17:01 | 神学


2 マリア論の展開

 マリア論とは教義神学の一つで、マリアへの信仰や崇敬を対象として教義神学の中に位置づけようとする。歴史的経緯から実践神学としては教会論の中に位置づけられ(1)、また、教皇至上主義を擁護する議論として考えられてきたようだ(2)。
 マリア論 Mariologia という用語は、17世紀初めのニジド著『マリア論大全』(1602)で最初に使われ、19世紀には定着して用いられるようになったという。
 とはいえ、古代中世にもマリアを扱った著作は多い。たとえば、トマスなど中世のスコラ学者たちはマリアを受肉論のなかで扱い、中世の神学者スワレスも『キリストの生涯の秘跡』(1592)のなかでマリア論を展開していたという。おなじく、ペトロ・カニージオも『無比なる乙女マリア』(1577)のなかでマリアを論じているという。
 19世紀以降は、二つの教義宣言(1854年の無原罪の御宿り、19050年の聖母被昇天)に代表されるようにマリア信心が強調され、マリア論は頂点を迎えた。第二バチカン公会議(1962~65)以降今日に至るまでどちらかといえば抑制的アプローチが支配的である。
 第二バチカン公会議以降しばらくはマリア論に目立った進展はなかったが、1970年代以降、解放の神学とフェミニズム神学の登場により、マリア論は復活の兆しを見せ始めた。これらの議論は、従来のマリア論とは異なり、マリアの「人格的側面」に光を当てている。
 解放の神学は、長い間家父長制のもとで男性に従属していた女性の意識の目覚め・解放という観点からマリア論を展開している。マリアを、抑圧的家父長制社会に忍従した女性としてのみ描くのではなく、福音への希望に生きた人間として描いている。
 フェミニズム神学のマリア論は、神概念における男性イメージに対し、神の女性的特質を強調することでマリア論を展開している。ある意味で、伝統的キリスト教批判、聖書批判の傾向を持つようだ。この神学的立場では、マリアは抑圧された女性の代表でありながら、神の召し出しに答え、神によって解放された人間として描かれる。

3 マリア神学における諸教義

 この項は、すでに紹介した光延一郎師によるK・ラーナーのマリア論の理解にもとづいている(3)。ラーナーのマリア論の紹介といっても、光延師の解釈が色濃く反映されている印象を受ける

 光延師によれば、マリア神学の個々の教義(神の母・処女懐胎・終生処女・無原罪の御宿り・被昇天)をバラバラに見ていけば、現代人にはどれも荒唐無稽の話に聞こえよう。だが、これらの教義の成り立ちを追っていけば、全体を貫く統一的な意味が見えてくる。

3-1 神の母 (ラーナーの第5章)

 神の母マリアという思想は古くからある思想で、古代教会においてはキリストの受肉の意味をめぐる大論争に巻き込まれた(4)。「神の母」の意味はイエスの受肉がもたらす救いのの神秘にもとづく。すなわち、人間と神との間に立つ仲介者であるキリストは、神性と人性の両性を身につけることが要求され、そこにマリアの使命がある。マリアは受肉の秘儀にキリストの最も身近で最も深く関わった方である。それは神への絶対的従順の結果である。
 マリアの生涯は聖書には詳細には書かれていない。しかしルカはマリアの神への従順に着目して、すべての婦人の中で最も祝福された方と記している。マリアが神の母となられたことは、単なる肉体上の出来事ではなく、自由になされた人格的な出来事で、恵みに満ちた信仰上の行為として語られる。マリアは神と人類との対話の歴史である救済史上の役割を担っている。その意味ではわたしたちに関わるものである。
 「神の母マリア」はマリアに関するすべての教義の基本をなすものであり、そこから各教義が必然的に導き出されるのである。
 このような神の母マリアという教義は、キリスト論と救済論(5)との関わりを持ってくる。

3-2 乙女なるマリア (ラーナーの第6章)

 マリアの処女性はマリアが神の母であることの帰結である(6)。この考えは、旧約の「イスラエルの処女」「シオンの娘」の思想を引き継いだ古代の「使徒信条」のなかに見いだされる。最古の使徒信条では、マリアの神母性への信仰を「乙女なるマリアから生まれ ex Maria virgine )とはっきりと表明している。
 聖母は母であり処女である。なぜイエスは地上の父親を持たなかったのか。なぜみ言葉は人間の父親を持たずに生まれたのか。答えは、み言葉は神の子であるから。神の受肉は神の意志による。人間からの働きかけはあり得ない。それゆえ、人となった御子が人間の父親を持つことをお望みにならなかった。御子は神からのもので、この世からのものではない(7)。
 マリアはこの神の行為に自らを供された。主はこの世からの人ではなく、上からのものであるが故にマリアは処女である。マリアはその存在すべてを挙げて主の母であることを全うされた。ゆえに乙女であった。
 これは主の降誕以降も同様である。最古の信仰箇条に「三重の処女性」と呼ばれるものがある。

①出産前の処女性 Virginitas ante parpante
②出産時の処女性 Virginitas in partu
③出産後の処女性 Viriginitas post partam

 こうして、「永遠の処女性」 aei-partenos  の観念は、3世紀初めに東方で起こり、4世紀には西方教会にも広がり、5世紀には全教会の伝承となっていく(第二コンスタンティのポリス公会議 553年)
 この「永生の・永遠の処女性」という考え方は、受胎と誕生においてだけではなく、イエスの誕生後のマリアの生涯は常に「聖霊の働き」の下にあったと考えの基づいている。
 だが、批判や苦情は当初から会ったようだ。「イエスには兄弟がいた」(マルコ:31)事実と矛盾しているという批判だ。2世紀のヤコブの原福音書(外典)はこの点について、ヨハネは年長で前妻との間に子どもがいたがマリアと再婚したとの物語を作ることによって、イエスの兄弟問題を解決しようとした。また、ヒエロニムス(420年没)は、「イエスの兄弟姉妹」は文字通りに受け取るのではなく、聖書の言葉使いではいとこ同士のような親戚関係も兄弟姉妹と呼ばれたと説明して、この解釈は広く受け入れられたという。歴史的には、イエスに肉親上の兄弟姉妹がいたかどうかは不明とされている。
 この「永遠の処女性」が強調された意味は、実は「神の母マリア」の教義を拡大することにあった。永遠の処女性という教義は、歴史的に見れば、キリスト教では修道生活における童貞は結婚生活に勝ると考えられていたので、かれらからは婚姻の問題はそれほど関心を引かなかった。修道生活における「伴侶」とは神であったからだ。
 とはいえ、マリアの処女母性の思想は、ラーナーが強調しているように、結婚生活の価値を引き下げるものではない。旧約における「イスラエルの処女」「シオンの娘」は神との契約に忠実なイスラエルを表し、それは新約では「教会」に受け継がれているとされる。

 

乙女なるマリアのメダイ

 

 マリアの無原罪の御宿りと被昇天の教義に関するラーナー説は次回に回したい。

 


1 つまり、キリスト論の下位部門でも神学的人間論の下位部門でもない、という意味だ。もちろん実践神学だから教義的にはそれらと密接な関係にあるのはいうまでもない。というより、密接な関係にあることがマリア論の特徴でもあるようだ。だが、教義神学として一つの自立した部門を構成するほどではないようだ。
2 マリア信仰は、歴史的には、教皇の力が弱まった時(公会議の力が強まったとき)、より強く復活が叫ばれるようだ。公会議至上主義者はあまりマリア信仰を強調しないようだ。これはわたしの個人的印象で、S氏の主張ではない。
3 光延一郎編著 『主の母マリア ー カール・ラーナーに学ぶカトリック・マリア神学』(教友社 2021)
4 代表的なのは、キリスト論論争だろう。アタナシオスに代表される教会は、キリストは真の人間性を持たないという仮現説と対抗し、同時にアレイオスの異端説(仮現説とは逆にキリストは神性をもたない単なる被造物だという主張)とも対抗し、テオトコス論(神の母論)を整備していく。
5 救済論 soteriology とは、キリストによる全人類の救いの業を論じる神学の一部門。伝統的には、キリストによる救いの業と、成就した救いの業への人間の参与を区別して、前者を救済論、後者を秘跡論(恩恵論)と呼んできた。神学校の授業では、前者は神学的人間論の中で、後者は秘跡各論のなかで講じられているようだ。第二バチカン公会議以降、救済論の議論は活発化し、キリストの救いの業を受難と死にのみ限定する過去の視点が疑問視され、救いは、人間だけではなく、地球や宇宙を含む万物に及ぶという視点が強調されるようになったようだ。解放の神学やエコロジー神学の登場はその一例と言えよう。
6 あまりにも抽象的な命題で、すぐにはピンとこないだろう。どうして処女が母たり得るのか。「すべては神がなしていることだ」という信仰がないとこの教義は理解できない。理解できないことは何でも信仰の一言で無視してしまうと言う批判は誰にでもできる。それを承知でラーナーの声に耳を傾けてみたい。ラーナーは「信仰の眼差し」という言葉を使う。信仰の眼差しでみれば別の光景が見えるという。
7 ヨハネ5:30「わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」
 ヨハネ6-38 「わたしが天から下ってきたのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」

 

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