カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マリアはキリストの神性を産んだのか人性を産んだのか ー 聖母マリア(3)(学びあいの会

2022-03-04 09:54:50 | 神学


Ⅱ 古代教会

 初期教会の時代にはマリア論はおもに「神の母」論が中心だったようだ。やがて教父時代に入るとグノーシス派との対決のなかで「処女母性」論が浮かび上がってくる。100篇を超えるといわれる「外典」(僞典)の流布のなかでマリアの「永眠」(終わり)を語るものは30篇を超えるらしい。マリア信心が広まっていく。なかでも「ヤコブ原福音書」の与えた影響が大きい。

1 初期教会時代のマリア理解

①初期の信条
 「イエスが聖霊により乙女マリアから生まれた」との表現が見られる
②「ヤコブ原福音書」(2世紀中頃の外典)
 これはエジプトで書かれたものらしく、マリアの誕生、幼年時代、ヨセフとの結婚、処女性、「洞窟」でのイエスの誕生などを詳しく述べている(1)。後年のマリアのイメージはこの外典(2)から大きな影響を受けているという(3)。
③アンティオキアのイグナチオス(115年没)
 護教家であり、当時の仮現説を批判し(4)、マリアの処女懐胎を疑問視するユダヤ人に対してキリスト教信仰を擁護した。
④ユスチノス(165年没)
 マリアの処女性を強調したという。また、パウロの「アダム→キリスト」(第二のアダム)説にならい、「エヴァ→マリア」説をはじめて語ったという。以後マリアはエヴァになぞらえて語られるようになる(第二のエヴァ)。
⑤エイレナイオス(202年没)
 マリアの神母性と処女性を中心に、グノーシス主義との論争に加わる。「マリア→エヴァ」説を展開し、マリアをはじめて教会のシンボルとして位置づけた。「エヴァは不従順の罪を犯した・・・マリアの従順によってその罪は解かれた」はよく知られた言葉だという。
⑥テルトゥリアヌス(220年没)
 エイレナイオスよりもよりはっきりとマリアの処女性を語ったという。教会が「主の花嫁」であるという考えを述べ、マリアの処女性はイエスの誕生後も続いたと述べたという。
⑦オリゲネス(254年没)
 アレキサンドリア生まれのギリシャ教父。マリアの処女懐胎と処女性を強調した(5)。


2 「神の母」問題から「終生の処女」問題へ

①3・4世紀以来、マリアの「とりつぎ」(取次)(6)を願う祈りが盛んに行われる
②4世紀にはイエスの誕生を盛大に祝い、救いの営みにおけるマリアの役割を強調した
③「神の母」(テオトコス)の称号が普及した(7)
④ナジアンゾスのグレゴリオスは、従属説をめぐるをめぐる(8)アレイオスとの論争のなかで、「神の母」という称号がキリスト論的に重要であることを強調した
⑤やがて「終生の乙女」「永遠の乙女」という考え方が広まり、マリア崇敬が拡大した。神学的には、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、サラミスのエピファニオス、カイザリアのパシレイオス、ヒエロニムスなどが強調したという。

3 テオトコス(神の母)論争

 聖書には「神の母」という言葉はでてこない。光延師によればこの言葉がはじめて歴史的に確認できるのは3世紀の「あなたの憐れみのご保護のもとに」という祈りの中だという(9)。
 5世紀にコンスタンチノポリスの主教ネストリオスが唱えた説をめぐり論争が生まれた。アンティオキア学派のネストリオスは、マリアはキリストの「人間性」を産んだという理由で、「テオトコス」の代わりに「キリストトコス」(キリストの母)という称号を使うべきだと主張した。これがアンティオケア(シリア)とアレキサンドリア(エジプト)との間で激しい神学論争を引き起こした。結局、アンティオケイアのキュリロスの指導の下に開かれたエフェゾ公会議(428~431)はテオトコスの正統性を宣言し、ネストリオスを追放した(10)。
 こうしてキリストの神性と人性を分離するキリスト論は排斥された。マリアは最初から神性と位格的に結合した人間イエスを産んだことが確認された。ではそのマリア自身はどうなのか。


テオトコス修道院(シナイ山麓)のイコン(6世紀)


4 汚れなき神の母マリア

 4世に入るとマリアについての神学的著作が生まれてくる。アウグスティヌスは「マリアの罪を論じてはならない」と述べた。
 5世紀以降マリア信心がますます盛んになり、マリアの呼称に「処女」をつけることが通例になったという。マリアを褒め称える多くの説教、詩、絵画が生まれる。
 こういう聖像の普及は偶像禁止の教えと矛盾し、聖像破壊令が何度か出される。だが、結局はマリア信仰を抑えることは出来なかった。
 第2ニケア公会議(787)は「像の尊さは、その原像の尊さによる」とし、イコンの正しさを認め、「マリアは常に聖にして汚れなき神の母」と決議した。
 こうしてマリア崇敬が生まれ、発展していく。とりわけ典礼の発展とともに、典礼の中でマリアに祈ることが定着していったようだ。3世紀後半から、公現祭、降誕祭、アドベント(待降節)などの典礼が整備されてきて、マリアへの崇敬は教会共同体に深く浸透していったようだ。



1 原福音書の「原」とは「プロト」という意味で、オリジナルとか元々のという意味ではなく、「前の、先行する、以前の」という意味で、正典福音書が描く以前のマリアを描いているという意味のようだ。イエスは馬小屋でなく洞窟で産まれたとか、ヨセフは老人の男やもめで、イエスの「兄弟」(マタイ12:46など)とはヨセフの連れ子だったとか、マリアの聖霊による懐胎を母アンナの無原罪の懐妊にもとめるとかいう話があるようで、後世の絵などでよく描かれる題材になっている(ヤコブ原福音書は八木誠一・伊吹雄訳『聖書外典僞典』第6巻 教文館 1976など)。
2 外典とは「アポクリファ」で「隠されたもの」(秘義)を意味するという。「正典」(カノン)が編纂されていく過程でそこから除外された諸文書のことをさすようだ。旧約には「僞典」はあっても新約には僞典は存在しない。
 旧約外典とはギリシャ語訳(七十人訳)には含まれているが、ヘブライ語訳正典が確定したとき外された文書のこと。具体的には、トビト記・ユディト記・エステル記付加・知恵の書・シラ書・バルク書・エレミアの手紙・第1マカバイ記・第2マカバイ記・ダニエル書付加・第1エズラ記・マセナの祈り。
 旧約僞典とは七十人訳にもヘブライ語正典にも採用されていない文書群をさすようだ。
 新共同訳や協会共同訳にはこの外典が入った版と入らない版があり、入った版は旧約と新約の間に「旧約聖書続編」として挟まれている(間ではなく新約の後ろに入れるものもあるらしい)。カトリックはこの続編の入った版を用いている。
 新約では外典はほとんどグノーシス派のもので、教会はグノーシス派との激しい戦いに勝利した後、グノーシス派の文書を新約の正典文書を模倣・変形したものとして排除した。このため、アポクリファの意味が「異端的なゆえに隠された偽りのもの」を指すことになったようだ(荒井献・大貫隆『新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄』岩波 2022)。ちなみに、このナグ・ハマディ文書とは1945年にナイル川沿いのナグ・ハマディで発見されたコプト語のパピルス文書で、13冊あるという。大半はグノーシス派のものだという。これは、1947年に発見され、昨年2021年にさらなる断片が発見されたいわゆる「死海写本」とは異なる)。
3 S氏はヤコブ原福音書には「歴史的根拠はない」と断定している。そうかもしれないが後世のマリア像の形成に与えた影響の大きさは無視できないようだ。
4 仮現説とは、キリストの受肉を否定し、キリストの身体性・肉体性を否定する考え。イエスの誕生と死はそう見えただけと考える。グノーシス主義に近い考え方のようだ。
5 オリゲネスはその膨大な著作によって有名であるが、その魂の先在説とアポカタスタシス(万物復興)説は553年の第2コンスタンチノープル公会議で異端とされた。東方教会の神学的立場に近く、現在でも東西教会の神学上の争点の一つになっているという。
6 取次、取りなし、などいろいろな表現がある。intercession ともいう。神と人との間を取り次ぐ仲介者・媒介者としての働きを意味する。神に直接祈るのは恐れ多いのでマリア様のとりなしで、マリア様を通してキリストに祈る、というような使い方をするようだ。何故直接神に祈らないのだ、マリアに祈っているのはマリア崇拝ではないか、などすぐに難問が突きつけられる。教会の答えはたとえば「尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)」(https://peraichi.com/landing_pages/)などに詳しいが、要はマリアは「恩恵の仲介者」だというものだ。だがこれはこれで神学的、教義的に決着はついていないようだ。
7 テオトコス Theotokos は「テオトーコス」 とも表記される。「神の母」と訳されるが、直訳は「神を産んだ人」ということらしい。正教会では「生神女」(ショウシンジョと発音する)と訳すらしい。
8 従属説とはキリスト論の一つで、子なるキリストは父なる神に従属するという説。聖霊は神とキリストに従属するという説も含まれる。アレイオスのこの説は第1ニカイア公会議で「ホモウーシオス(同一本質)」説により否定された。
9 光延一郎 『主の母マリア』 2021 105頁。なお、師はテオトコス論争は「キリストの本性の交用」(communicatio ideomata)をめぐる論争だと説明されているが、「交用」とはなんのことかわたしにはわからなかった。
10 これは神学論争であるが、同時に権力闘争でもあったようだ。敗れたネストリオス派はやがてペルシャに逃れ、イスラムの影響を受けつつ東に拡大する。中国では唐と元の時代に普及して「景教」と呼ばれ、日本の空海も留学中に影響を受けたようだ。真言密教にネストリオス派のキリスト教の影響を見る人も多いようだ。なお、第3回エフェゾ公会議は教科書的には431年召集とされる。

 

 

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