今日の復活節第二主日のミサから当教会のミサは元に戻った。コロナ禍をなんとか乗り越えることが出来たわけだ。地区別の分散ミサは終了した。晴天にも恵まれ、実に3年ぶりにすべての地区の信者が集った。今日は恐らく100人を超えたのではないだろうか。
今日のミサは新たに赴任された新主任司祭のM師によるものだった。新主任司祭の意向だろうか歌ミサだった。皆が声を合わせて歌うのは久しぶりだった。賛歌をはじめ歌詞や祈祷文が変わったところもあり、オルガンや聖歌隊のリードが印象的だった。献金袋もきちんと以前のように回ってきた(1)。
今日の福音朗読はヨハネの20章で、復活したイエスが弟子たちの前に初めて姿を現す場面だ。誰も信じない。イエスは言う。「見ないのに信じる人は幸いである」(29節)。神学的には興味深いシーンだ。師は原稿を前もって用意され、慎重にお説教の話しをされた。若々しい張りのある声だった。感謝の典礼で奉納祈願の前に長い沈黙の祈りがおかれ、印象的だった(2)。聖体拝領も普通に戻った(3)。
聞くところによると、M師のキャリアーは驚くべきものだった。普通の会社員生活の中で洗礼を受けたのは30歳、山手での教会活動のなかで召命を受け、神学校に入ったのは49歳、叙階は56歳で(4)、教区の主任司祭はここが初めてだという(5)。信徒の皆さん、新しい主任司祭を心から歓迎しておられた。M師の活躍を期待したい。M神父様、がんばれ。
【新主任司祭】
注
1 維持費や献金についてはいろいろ議論があるようだが、それよりもコロナ禍の中でどこの教会でも献金箱を使う方法が定着していたようだ。カゴや袋を使う方法がどれほど一般的かはわからないが、当教会は伝統的に袋を使ってきたようだ。実際には両方が使われるのが普通だろう。
2 この沈黙の祈りはどうも日本でのみの適応らしく、以前のミサの式次第では、司祭により、教会によりやったりやらなかったりだったらしい。新しい式次第での大きな変化の一つになるかもしれない。
3 さすが両形態の聖体拝領をする方はおられなかったが、聖体拝領後、司祭はパテナをカリスの上ですすいだり、拭いたりすることが出来るようになったという。所作の違いはよくはわからなかった。
4 神学校入学は慣例的に40歳未満が条件だという。司祭の養成期間が、予科1年・哲学2年・神学3年・助任1年として、現在は叙階されるまで短くてもほぼ7~8年かかるからだろう。8年の養成期間を長いとみるか短いとみるかは一概に言えない。大学を出てから、ドクターをとったり(課程は別として)、司法試験に合格したり、医師免許を取ったりするケースではどうしても30歳前後になってしまうことが多いようだ。叙階が30歳前後というのは特に遅いわけではないらしい。
5 つまり、M師のケースは特例なのかもしれない。人智を超えた神の計らいにただ驚くばかりである。