カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

シーア派は異端か(その2) ー イスラム教概論13(学び合いの会)

2021-07-04 11:38:20 | 神学


Ⅵ 宗派(正統と異端) ー スンナ派とシーア派その他

2 シーア派 Shia

2-1 シーア派とは何か

 「シーア」とは「党派」を意味する。シーア派はもともと「シーア・アリー(アリーの党派)」と呼ばれた。「アリーを支持する党派」という意味のようだ。ムハンマドの後継者(カリフ)はムハンマドの従兄弟で、ムハンマドの義理の息子となったアリーおよびその子孫だけであると主張する一派である。現在は、カリフではなく、イマームを指導者とする(1)。
 シーア派は現在はイラン、アゼルバイジャン、バーレーン、イラクでマジョリティのようだが、イラン以外の国には当然スンニ派もいる(2)。

2-2 シーア派発生の経緯

 ムハンマドは、預言者(宗教指導者)であり、同時に軍事指導者(政治指導者)であった。ムハンマドの死とともに預言者の役割は終了した。ムハンマドは最後の預言者なので、かれの死後預言者は現れない。だが政治指導者の役割は誰かが引き継がねばならなかった。カリフ(代理者・代理人)の登場である。
 アリーはムハンマドの従兄弟で、娘婿で、最初からの信者で、ムハンマドに最も近く、初代カリフにアリーを推すグループがあった。だが、選挙でアブー・バクルが初代カリフに選ばれた。バクルはムハンマドの親戚以外では最初のイスラム教徒であった。

 カリフ Caliph(英)あるいは ハリーファとは、ムハンマド亡き後のイスラム共同体の指導者で、「預言者ムハンマドの代理人」のことである。実際には宗教指導者と政治指導者の両方の役割を持った。やがて10世紀にかけてシーア派はカリフの権威を否定していき、またファティマ朝などがカリフを称するようになると、カリフがスンナ全体を指導することは出来なくなり、力を失っていく。
 1258年にモンゴル帝国によってアッバース朝のカリフが処刑されると、カリフ制は事実上消滅する。オスマン帝国の時代にはスルタンがカリフであるとされたが、これもオスマン帝国の滅亡とともに1924年頃にはカリフ制は消滅する。少し年表にまとめてみよう。

 シーア派ではイスラム教の歴史的発展は三段階に分けて説明されることが多いという。

①第1期 ムハンマドの死(632)から「第12イマームの幽隠」(3)まで、およそ7-9世紀 シーア派はアリー以前のカリフを認めず ウマイヤ朝やアッバス朝と対立した
②第2期 イスマーイール派(7イマーム派)の発展と衰退 12イマーム派の整備 およそ10-15世紀
③第3期 「12イマーム派」の国教化(1501)から現代まで およそ16世紀-21世紀

 第1期を少し具体的に見てみよう(4)。

632年 ムハンマド死去 アブー・バクルが初代カリフに就任
634年 アブー・バクル死去 ウマルが第2代正統カリフに就任 大遠征で領土拡大
644年 ウマル死去 ウマイヤ家のウスマーンが第3代カリフ就任 ウマイヤ家はメッカの大商人で最後までムハンマドに反抗した ウスマーンは政権を私物化した
656年 エジプト兵500人がメッカに侵入し、ウスマーンを暗殺する やっとアリーが第4代カリフに就任する すでにムハンマド死後24年が経過していた
657年 ウマイヤ家のマーウイアがアリーをウスマン殺害の黒幕として非難し、スイツフィーの戦いとなる アリーは戦いは有利だったが停戦を受諾 停戦に不服の一部がアリー派を脱退し、ハワーリジュ派となる
659年 アリーとハワーリジュ派が対戦 ハワーリジュ派敗北
661年 アリーはハワーリジュ派により暗殺される ウマイア家のムアーウイアが第5代カリフ就任 ダマスクスにウマイア朝を創設する(661-750) アリー派はアリーの死後次男のフサインを代表とし、ウマイヤ朝と対立する 正統カリフは第4代までとなる
680年 カルバラ事件(フサインはカルバラ(現イラク)でウマイヤ朝軍に惨殺される) これはムハンマドの孫がイスラム共同体により殺害されるという考えられない重大事件であった
 これより、アリー・フサインのグループはシーア派としてウマイヤ朝に反抗する別の宗派となっていく。

 つまり、スンナ派とシーア派の対立は、教義をめぐる対立ではなく、ムハンマドの後継者をめぐる政治的権力闘争であった。
 今日でも、毎年、ムハッタム月(一年で最初の月 ヒジュラ暦の1月)の10日にはカルバラでのフサインの殉教を追悼して盛大な祭りがおこなわれるという(「アーシュラー」と呼ばれるようだ)。シーア派の宗教感情が最高潮に達する宗教行事だという。

 

アーシュラー(「泥まみれ」の祭り)

 

 

2-3 イマーム imam

 イマームとはイスラム共同体の指導者を意味する。スンナ派とシーア派ではその意味するところが異なるようだ。イマームには4つの意味があるという。

①集団礼拝の指導者(聖職者ではない)
②スンナ派ではカリフと同義語
③シーア派では最高指導者はアリーの子孫に限られる カリフとは異なり、教義決定権と立法権を有し、不可謬とされる
④スンナ派では学識が優れた学者の尊称

 イマーム論はイスラム神学の中心テーマらしいが、要は、シーア派ではイマームは全権を持つ最高指導者であり、スンニ派では数多くの指導者のなかの一人にすぎないとされるようだ。

2-4 シーア派の主要分派

①12イスマイール(イマーム)派(イラン) 最も有力な宗派
②ザイド派(イエメン スンナ派に近い)
③イスマイール派(インド パキスタンなど)
④ドウルーズ派(レバノン)
⑤アラウイー派(シリア) 現在のシリアのアサドが属する宗派 シリア人口の1割程度しか占めていないが政権の座にある 教義上はイスマイール派・マニ教・キリスト教の影響を受けているという 土着宗教の影響で女性の魂を認めず、輪廻転生思想を持つらしい 極めて異端的だという
⑥ハワーリジュ派 657年にアリー派から脱退したグループ この派は信仰と行為を不可分とし、背教者を殺害する 歴史的に散発的に反乱を起こし鎮圧されるが、今日でも、北アフリカ・オマーン・トリポリ・ザンジバルなどにイバート派として少数残存しているという この派は狂信的でゲリラ活動やテロ行為に傾くという(5)。 

 このように様々な分派があるが、アリーだけはこれらシーア派の諸分派が共通してイマームとして認めているという(6)。


イスラム教の主要な宗派 (7)

 


1 したがって、イマームの意味はスンニ派とシーア派では異なる。スンニ派からみればイマームは単に部族や集団の1指導者にすぎないが、シーア派では最高指導者と位置づけられる。
2 3割前後らしい。といっても、バーレーンやイラクのように人口上のマイノリティのスンナ派が権力を握ってシーア派を支配することもあり、一概には言えないようだ。また、スンナ派とシーア派のどちらが正統でどちらが異端かは視点による。単に信者の数だけでは判断できない。
3 いわゆるイマームの「お隠れ」だ いつかこのイマームが「再臨する」という期待がシーア派のエネルギーの源だという 現在のイランの国教である12イマーム派では、12人のイマームの存在を認め、12代目のイマームであるムンタザルは人間界から一時的に姿を隠し、シーア派が衰退したとき再び姿を現すとされている。現在のシリアのマジョリティーはイスマイール派といわれるが、これは「7イマーム」派のことのようだ(7代目を最後のイマームとする)。その他のイスマイール派は7代目以降のイマームも認めているという。
4 これはS氏による要約である
5 なお、アフガニスタン・パキスタン周辺のタリバン、対立するアルカイーダなど過激派組織は基本的にスンニ派系統だという イスラム原理主義というより民族・部族の違いが大きいようだ
6 「シーア派の三日月地帯」(レバノン・シリア・イラク・イエメンなど)と呼ばれるように、革命後のイランはシーア派勢力の拡大を図っている。レバノンのヒズボラ、イエメンのフーシ支援、シリアのアサド政権、イラクのシーア派はイランの影響が浸透していると言われる。
7 出典は『図解宗教史』成美堂 2015 なお各宗派の特徴の表現は監修者の塩尻和子氏らによる。  こういうウンマ(イスラーム共同体)の理解の仕方をめぐる分派の形成は、それではウンマは「教団」なのかという問いを促す。イスラム教にはキリスト教のような教会は存在しないとよく言われる。ではウンマや宗派は教団ではないのか。かってE・デュルケーム(社会学者)は「教団(教会組織)を持たない宗教はない」と言った。宗教を魔術や呪術から区別することは重要だが、教団の定義次第だろう。教団を体系化した教義や聖職者の階統制を持つ組織というならイスラム教には教団は存在しないと言えそうだし、教団を信仰者の集まりというならイスラム教の各宗派も教団と言えそうだ。

 

 

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