2017年2月の「学び合いの会」は厳寒の27日に開かれました。昨日信徒総会が開かれ、皆さんお疲れだったのか、あまりの寒さの故か、参加者は7名にとどまりました。 今回は過去数回ヨハネ福音書について学んできた流れの続きです。ヨハネ福音書は共観福音書とは性格が少し異なるようだ。もともとギリシャ語で書かれたようだし、著者も使徒ヨハネとされている。共観福音書が基本的にイエスの行動を中心に書かれているのに対して、この第4福音書はイエスの内面、つまりイエスの神性、おん父とのつながりが描かれる。いわばキリストの神学が語られる。したがってこの福音書が想定した読者は未信者ではなく、教理や聖書を相当知っている人々だったようだ。この福音書は、実際にヨハネが書いたのか、ヨハネ教団の弟子が書いたのかはわからないらしいが、原ヨハネ福音書がヨハネ福音書として完成したのは90年から110年の間らしい。
ヨハネ福音書は21章からなる。序の賛歌に続く第1章19節から12章までは「徴(しるし)の書」(Book of Symbol)と呼ばれ、13章から20章までは「栄光の書」(Book of Glory)と呼ばれ、性格が少し異なるようだ。こういう説明や、大見出し・小見出しの付け方はたとえばフランシスコ会訳は詳しいし、わかりやすいが、共同訳はそっけない。新しい共同訳が進んでいるとも聞くし、カトリック教会がフランシスコ会訳かなにか別の訳を採用するようになるのかもしれない。共同訳が抱える問題はまた別の機会に考えてみたい。
今回はこの第六章を一節ずつみなで読み合わせながら、味わった。イザヤやエレミアなど関連する預言の書も一緒に読んでいくので結構時間がかかった。
S氏が読み合わせと解説の合間に、どきどき公会議以前の昔のお祈りを紹介したりしてくれた。出席の皆さんみなお年寄りなので昔のお祈りを思い出して、懐かしんだりしました。カト研の皆さんも昔のお祈りをまだ覚えておられる方が多いのではないだろうか。カト研の皆さんのなかにはごミサでいまだ Mea culpa Mea culpa メアクルパ メアクルパ と唱えて始める方がいるかもしれません。といっても、この学びあいの会の方々は第二公会議以前に戻りたいと考えている人がいるなどといういう大げさな話ではありません。というかピオ10世会のような考えの方はわたしの周りにはいない。
ただ、現在の典礼の不安定性は話題になった。来月から典礼の一部が変更になるらしいが、根本的な問題は日本の典礼式文がローマからみれば「仮の許可」の状態にとどまっているということだ。日本の司教団は正式の許可を求めて運動しているのだろうが、まだ暫くは時間がかかるのではないか。たとえば、ごミサで、「司祭:主は皆さんとともに 会衆:また司祭とともに」とわれわれは唱える。ラテン語では、「Dominus vobiscum」への応答として「Et cum spiritu tuo」と唱える。この応答は、たとえばドイツ語では "Und mit deinem Geiste" で、他の主要言語でもバチカンの要請にしたがってそのまま訳しているようだ。英語訳は日本語訳と同じく変則的らしく、"And also with you" だったらしい。もっとも、最近は "And with your spirit" に変わりつつあるようだ。ドイツ語でもdeinemがihremに変わるのかもしれない。日本語では、直訳すれば「またあなたの霊とともに」になる。だが、どうもこの表現は日本語の語感に合わないためか、または[霊」という言葉〈漢字)の持つ意味が安定していないせいか、日本司教団は「また司祭とともに」と訳しており、われわれもごミサではそのように唱える。これを意訳といって良いのかどうかわからないが、お祈り一つとってもこうなのだから、典礼式文は難しい。
さて第六章である。この章はご聖体、つまりパンについてである。ご聖体とはごミサで(聖餐式で)聖別されたパンのことだ。カトリック教会ではこの形態のなかに復活された主イエス・キリストが現存すると信じ、祈りと礼拝の対象となっている。普通に言えば、ただのパンがキリストの体ってなんのこと、パンの中にキリストがいるってどういうこと、という教会学校の幼稚園児レベルの疑問は、神学的には聖体におけるキリスト臨在のあり方とは実在なのか象徴なのかという大問題につながる。現在では教会は化体説はとらないとはいえ、聖変化によってご聖体にキリストが臨済することを信じている。
第六章パンの章は一般的には「パンの増加の奇跡」を語る章としてしられているが、実際に五つの話が含まれているという。①パンの増加の奇跡(6-1~15) ②湖上歩行の奇跡(6-10~21) ③イエスは生命のパン(6-22~40) ④ユダヤ人たちの離反(6-41~59) ⑤ペテロの信仰宣言(6-60~71) の五つである。簡単に一つづつみていこう。
1 パンの増加の奇跡(6-1~15)
この話はイエスのおこなった奇跡の中で最もよく知られた奇跡だろう。パン五つと魚二匹を増やして、イエスの話を聞きに集まった5千人(福音書によっては4千人とも)を満腹させ、しかも食べ残しのパン切れが12個(イスラエルの12支族の象徴)の籠一杯になったという。ヨハネ福音書は共観福音書に比べれば奇跡物語を語ることが少ないが、それでもこれだけ詳しく記録しているのだから、この奇跡は当時よほどよく知られた、大事な出来事だったのであろう。このパン増加の奇跡物語は福音書には6回出てくるという。マタイ14-13~21,15-32~39,マルコ6-30~44 8-1~10 ルカ9-10~11 そしてヨハネ6-1~15。この話がマタイとマルコに二回づつ出てくる理由もわからないが、そもそもパンがどうしてそんなに増えたのか。なかなかすんなりとは受け取れない人も多いことだろう。奇跡としてそのまま受け取ることもできるし、R.ブルトマン(1881~1976)の愛の奇跡説(「少年」にならってみなが持参したものを差し出した)に耳を傾ける人も多いかもしれない。いずれにせよ大変な出来事で、当時よほどよく知られていた伝承だったのだろう。
2 湖上歩行の奇跡(6-16~21)
船は教会の象徴なので、6~19節はイエス昇天から終末までのイエス不在の教会の不安を示しているのだという。この奇跡はマタイでも、マルコでも、パン増加の奇跡の直後に記述しているので、この二つを一つと数えるならば、ヨハネ福音書が取り上げている奇跡は主の復活を含めてわずか7つにすぎないという。
3 イエスは生命のパン(6-22~40)
パンは朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物である、つまり、霊的食べ物、聖体であることが述べられる。この福音書は聖体の制定を直接は述べていないが、それは既に共観福音書で語られているからだと著者ヨハネは考えていたのだろう。マタイ26-20,マルコ14-22,ルカ22-19 はご聖体の制定を語っている。
4 ユダヤ人の離反(6-41~59)
イエスは天から降ってきたパンであり、イエスの父は父なる神であると述べる。旧約ではモーゼがマナを与えたのではなく神が与えたのだが、イエスはマナではなくパンを与えた。マナとパンの違いが述べられる。つまりヨハネは、イエスは第二のモーゼではなく、モーゼを超える者として描く。良くなされる誤解は6-54だ。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠の命を得」とあるが、これをユダヤ人たちは誤解する。いわばカニバリズムととったのだ。この誤解はテルトリアヌス(三世紀のラテン教父)によって論駁されているが、古代教会にも存在したということだろう。現代でもキリスト教をカニバリズムとあげつらう解説本が存在するのも無知を通り越して悪意を感じる。
5 ペトロの信仰告白(6-60~71)
このパンを食べるものは永遠に生きるというイエスの教えにユダヤ人のみならず、イエスの弟子たちまで躓く。一体全体何の話なのだ、聞いて呆れる、ということだったのだろう。イエスは、「人の子が元いたところに上がっていくのを見るなら・・・・」という。やがてペテロは信仰を宣言する。「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう」(6-68)。いま、ごミサでは、聖体拝領前の信仰告白で、われわれは「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と唱える。この信仰宣言はペテロの宣言からとられているようだ。だが、裏切りが始まる。裏切りはユダだが、ヨハネ教団からの離反者、離教者の存在を暗示する。裏切りはマタイ福音書ではペテロ(とユダ)だが、ヨハネ福音書ではユダなのだ。「ガリラヤの春」はやがて「ガリラヤの危機」に転じていく(8-27)。