カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「ヨブの問い」神学講座『イエス・キリストの神』(その4)

2017-02-06 22:08:01 | 神学

 2017年2月6日に久しぶりに神学講座が開かれました。2ヶ月ぶりでしょうか。何の話をしていたかというと、ベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察』(2011)を読んでいて、その第4回目というわけです。今日ははその第一章「神」、第4節「ヨブの問い」、に入りました。暖かい日差しの中、参加者は多く、20名を超えていたでしょうか。といっても男性は数人で、殆どが婦人会の方々でした。難しいテーマにもかかわらず、ご婦人方を前にして、H神父様は丁寧に説明されていました。
 第1章の最後の節である本節は「ヨブの問い」と題されているが、長さは翻訳でわずか9ページ、400字詰めでおそらく10枚余の短い文章である。この難問をこの短い文章で纏めているのは、答えを導き出すためではなく、問題の所在を明らかにするためと思われる。答えへの導きを後の章に委ねるためなのであろう。
 「ヨブの問い」とは「神義論」(弁神論)(Theodicy)のことである。全能の神が造られたこの世界は善であるはずなのに、なぜこの世界に悪が(苦しみ・災難・不公平が)、存在するのか、という問いである。
 ラッチンガーは「人間は神の似姿です」という書き出しから本節を始める。旧約の神はこの似姿以外に神の像を認めない。神殿の至聖所には神像は立っていない。では、「似姿」とは何のことなのか。これはラテン語では imago Dei というらしい。「かたち」とか「像」と訳されることもあるようだ。英語では image の訳語が当てられる。この場合の人間は「善」なるものとされる。神は善だからだ。だが、人間には同時に邪悪性、悪魔性が宿っている。つまり「悪」が存在する。では、悪とはなにか。
 スコラ神学では「悪」とは「善の欠如」と定義されてきた。今でも多くの司祭や神学生はこの答えを持ち出す。「欠如」、これがキーワードで、わたしも昔は耳にタコができるほどこの説明を聞いてきた。でも第二バチカン公会議以後、この説明では説得力がない。近代哲学のライブニッツやヘーゲルを持ち出されれば、「悪は善のの欠如」説は説得力が乏しい。だから、教会はいま「ヨブ記」を読み直すことでこの問いに答えようとしている。ラッチンガーはこういう視点から神義論に入っていく。
 「人間を通して神がその姿を垣間見せてくることがある」とラッチンガーはいう。つまり、芸術(絵・彫刻・音楽など)のなかに、神(の善)は顕れてくることがあるという。素晴らしい絵や、音楽に接したとき、確かになにかを感じることがある。でも、わたしなんかは感じない場合の方が多い。感じないわたしがおかしいのか? 芸術的センスを持たない自分がおかしいのか? 社会学的に言えば、芸術に美と善を感じなければならないという思考は、社会的なものだ。むしろ、アジアや日本では、山や森や自然の中に美と善を感じることの方が多いのではないか。こういう文脈では、ラッチンガーの議論の進め方は、大げさに言えば、すぐれてヨーロッパ的な、非社会学的な、臭いが強い。
 ラッチンガーは言う。「神の似姿としての人間は、神としてよりも、悪魔として現れることの方がはるかに多かった。」ヨブ記の内容に入っていく。ヨブ記は42章と結びからなる長い文書である。何度も読みたくなる文書ではないが誰もが一度は読んだことがあるであろう。最初の2章はいわば散文で、ヨブに起こった出来事を記している。残りの文書は韻文というか詩で、ヨブの三人の友人とヨブとの思想的・理論的対決が繰り広げられる。苦しみは罪に対する罰、幸福は善行に対する報いだという、交換正義論、応報論を展開する友人と、自分は何ら悪を犯していないのに苦しみを受けるとはなにごとだ、と告発するヨブ、自分の正義をあくまで主張するヨブが描かれる。だが、「眼には眼を、歯には歯を」の論理は成立しない。なぜなら、「罪なき者も罪ある者も同様に打ちのめされる」(9:22-24)からだ。なぜ、神は罪なき者も打ちのめすのか。
 「このヨブの叫びの後ろには、アウシュビッツのガス室や、左翼・右翼の独裁者たちの牢獄に果てた何万という名もなき人たちが控えています」とラッチンガーは言う。神は人間のこの悲惨な苦しみの中でなぜ沈黙しているのか、と問う。
 H神父様はここで唐突に話題の映画「沈黙」に話を振られた。当然と言えば当然といえよう。神父様自身はまだこの映画を観てないとのことだが、教会のご婦人方は殆どの方がもう観ておられ、しかも悪い印象を持たれた方が少ないことに驚かれた、と言われた。つまり、この原作が出版された頃は教会の中に批判的な声が多かったことを自分は記憶しており、今回は好意的な評価を聞くと時代の変化を感じる、と言われた。もっともな印象である。が、そうならば、この映画を「カトリックと日本的霊性の関係」とでも呼べるような文脈で神父様に是非とも論じて欲しいと思った。いつかそういう機会が来ることを願っている。
 また、遠藤周作論として言えば、映画監督としての技量は別として、スコセッシ監督が遠藤周作の神義論を転生論〈輪廻転生論)として描かなかったのは、この映画に深みを与えているという意味だと理解した。だが、果たして遠藤周作の神義論がラッチンガーの神義論の深みに達していたのかどうか、わたしにはわからない。いずれ、神父様の考えも知る機会があることだろう。
 ヨブ記に戻ろう。神は突然、ヨブと三人の友人との論争に介入する。神は交換正義の論理としての神義論を拒否する。しかしヨブになにか説明をしたりもしない。神学的に言えば、ここで、神は、神の先在性と、人間(ヨブ)の認識の限界、を指摘する。「あれ、これ、言うな」というわけだ。
 こう叱られて、ヨブは、なんと、黙る。言い返さない。沈黙する。ラッチンガーは「心が広くされたのです」という。「心が広くされる」、なんときれいな表現でしょう。わたしはこういう表現ができるラッチンガーが好きです。ドイツ語ではなんと言っているのでしょうか。
 沈黙する神に対する告発は、苦しむ者よりは、苦しむことを知らない人からなされる。人間は一人一人が自分と神との関係の体験・歴史を持っている。それは各人独特なもので、電卓でカウントしたり、他人に伝えられるものではない。ここでラッチンガーは「ダニエル書補遺」 3:24を取り上げ、三人の若者の話を紹介する。ダニエル書補遺って、なーに、ということになる。これは旧約続編に収録されているが、続編つきの聖書を持っていない人は読んだことがないのではないか。わたしも、さて、と思って読んでみた。ダニエル書は旧約聖書の最後期の文書で、最古の黙示文学とされているようだが、この補遺は、いろいろ曰く付きの文書のようで、十分には理解できなかった。特に母親の描き方は日本人の心象を超える。カト研のみなさまにはぜひご教授いただきたいと思った。
 ラッチンガーがこの補遺を高く評価しているのは、「神は手探りで答えを探している」ことを示すためのようだ。神が手探りで答えを探す、というのも考えてみれば変わった表現だ。神は万能なのだから。が、ヨブへの答えはほんの手始めであって、本当の答えはその先にある、ということを示すためのようだ。「キリストの十字架」。これが神義論の答えだという。ヨブ記はこの説明を導き出すための準備のため存在すると言っているようだ。旧約の神は、自分はこれほどお前たちを愛しているのになぜわたしを繰り返し裏切るのだ、と怒る。新約の神は、イエスはお前たちを愛するが故に十字架にかかるのだ、と言う。ラッチンガーはこの違いを手探りという言葉で表現しているのであろう。
 ラッチンガーは、神の答えは、説明ではない。それは、行為であり、ともに苦しむ、ことである、という。十字架と復活が神義論の答えだというわけだ。それはそれで納得できるが、ここでかれは聖画像やピエタ像をもちだす。それらを見るときわたしたちの苦しみは新しい意味を獲得するという。ここにも、芸術と通して十字架の意味を知る、というラッチンガーの考え方がにじみ出ている。東洋の山水画に同じロジックを使えるのだろうか。ラッチンガーのヨーロッパ的思考様式の限界を感じざるをえない。
 ラッチンガーはさらには、アシジのフランシスコやハンガリーのエリザベトの例をもちだす。アシジのフランシスコは誰でも知っているが、チューリンゲン(ハンガリー)のエリザベト(1207~1231)って、カト研のみなさまくらいしか知らないのではないか。神父様は丁寧に説明されたが、清貧と慈悲の王妃として、記憶しておきたい。
 ラッチンガーの説明は続く。イエスは、この世から苦しみを取り除くことはしなかったが、十字架によって人間を変えた、という。その心を苦しむ者に向けさせ、浄めたという。「小さき者への畏敬の念」はここから生まれたという。それは「異教的ヒューマニズム」には欠けているものである、という。異教的ヒューマニズムとはあまり聞き慣れない言葉だが、かれは、異教的ヒューマニズムという表現で近代ヒューマニズムを批判し、「現在の福祉制度の抱える諸問題」を批判する。これはこの講演がなされた時代背景を見ないと具体的に何のことを言っているのかは不明だが、一般的にいえば、ラッチンガーの近代主義批判の一つと考えて良いののかもしれない。日本人が持つヒューマニズムに対する盲目的傾倒を思うとき、この異教的ヒューマニズムという言葉をそう簡単には批判し、否定できないと思った。
 次にラッチンガーは十字架論から復活論に話題を転じる。ルカ16:27以下を使ってラザロの例を論じる。「この世の生命がすべてではない。永遠の生命がある」という。復活論、来世論だ。ここで神父様は興味深い話をされた。「永遠の生命」なんて古くさい考えだ、という人がいるが、こういうことを言う人には二つのタイプがある、という。一つは、宗教なんて人間が作り出したもので、永遠の生命なんてあるはずがない、という議論。もう一つは、死んだらすべてお終い。永遠の生命なんてあるはずがない、という議論。無神論と唯物論とでも呼んででおこうか。神父様はこれに反論して、「永遠の命」のイメージについて語り始めた。神父様がいつも好んで使う和紙のだるま人形の話だ。お人形に和紙がきちんと張れる場合と、少しずれたり剥がれたりする場合の話だ。葬儀で良く出てくる会話。「天国でまた会えますよね。」えっ、 天国でまた会うあなたは何歳の時のあなたなの? 子どもの時亡くなった子は天国で大人に成長しているの? 親より長生きした自分は、天国で自分より若い親に出会うの? これは永遠の生命を現世の延長として考えるから出てくる疑問。生命を霊魂として考えれば、こういう問い自体が意味を失う、というのが神父様の話の趣旨のように聞こえたが、不十分な理解かもしれない。
 ラッチンガーは最後に捧げ物論、犠牲論を展開する。人間は神の似姿だ。ただ、この言葉は終局的にはイエスについてのみ言いうる。キリストは神の似姿そのものである。しかし、旧約の神を、人身供犠を要求する神と誤解する人が多かった。ヨブの友人の言葉からそういう残酷な神を導き出すがそれは誤りだ。モレク神(訳書ではモロクの神、レビ記18章)、人身供犠の神は偽りの神である。人間の犠牲というならば、Gloria Dei homo vivens (生ける人間こそが神の栄光)と言わねばならない。キリストの十字架が人間の犠牲であり、神への捧げ物である。
 ここで神父様は、宗教改革500周年(ルターの95箇条の論題の提示から500年)の今年について話題を転じられた。種々述べられたが、ポイントは、イエスの十字架を「神の憐れみ」とみなすカトリックと、「回心」とみなすプロテスタントとの違いについてであった。教会一致にそれなりに関わっておられる神父様の話をわたしは十分には理解できていないので不用意な表現は避けねばならないが、宗教改革500周年にカトリック教会がどのように対応しているのか、わたしにはいまだはっきりとはわからない。この関連で言えば、先日、佐藤優の『宗教改革の物語』(2016)を読んだ。学位論文のような複雑で緻密な議論の積み重ねだ。フス論が中心だったが、宗教改革がルターだけでは語れないことがよくわかった。わたしは、佐藤優は『国家の罠』以来ほぼすべて読んでいる一ファンだが、プロテスタント信仰の強さをいつも感じている。佐藤優のラッチンガー論を是非期待したいものである。

 

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