聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶

2022-01-01 12:50:27 | こども聖書
2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶
 少年ダビデは、巨人ゴリヤテを倒し、やがて王になりました。王になるまで、そして、王になってから死ぬまでのことも、聖書にはたっぷり書かれています。この『こども聖書』では、とても簡単に、ダビデの生涯をまとめています。詳しく話せば切りが無いほどの事が、聖書には書かれています。そして、多くの人に愛されている聖書の人物です。

 1つ、ダビデはとても感情の豊かな人です。
 先ほど、ダビデが神の箱を持ち帰ったとき、通りで喜んで踊ったと書かれていました。神が私たちとともにいることを、現す箱でした。神がモーセに命じて造らせた箱です。今のように聖書もない、イエスが来て下さるよりもずっと前、この箱が、神がともにおられることをよく現していたのでしょう。その箱が、長い間、大切にされなかったのを、ダビデは思いきって運び上げて、エルサレムの都に移動させたのです。その時、ダビデは躍り上がって喜び、居合わせた人たちにも大盤振る舞いをして、一緒にお祝いしました。踊るだけで無く「力の限り跳ね回った」とあります。それは、妻のミカルが見ていて、恥ずかしくなり、蔑むほどでした。それほど、ダビデは嬉しい時には、子どものように喜び、はしゃいで、楽しむ人でした。



 そのダビデは、沢山の詩を書きました。聖書の詩篇は、旧約聖書の真ん中で、長いページ数を占める大きな書です。その中の150篇のうち、73篇がダビデによるとされています。
 その中には、神への賛美、信仰告白、偽りのない信頼を寄せる詩も沢山あります。羊飼いと羊に譬えて、私たちを養ってくださる主をほめたたえます。
 また、自分が苦しい時に、主に助けを求めて祈る、嘆きの詩篇もいっぱいあります。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」

と叫んだりします。
 そして、不当な目にあわされたつらさを吐き出す、呪いの詩篇もあります。敵を滅ぼして下さい、と、心にある憎しみや毒をぶちまけていて、私たちは戸惑うほどです。聖書に、こんな激しい悪口があっていいんだろうかと思いそうになります。でも、それほどに、ダビデは感情の豊かな人でした。
 詩篇は「感情の解剖図」だと言われます。詩篇には、言い表されていない感情はないからです。つまり、私やあなたの心にある、喜び、憎しみ、妬み、悲しみ、寂しさ、孤独、恐れ、憧れ、辛さ、麻痺、幸せ…そうしたすべてを、ダビデは包み隠さずに歌ってくれています。だから、私たちはダビデに親近感を覚え、ダビデを通して、慰められるのです。私たちも、こんなふうに赤裸々に祈っていいんだ。神を賛美するとき、踊ったり跳ね回ったりしてもいいんだ、それぐらい嬉しい事なのだ、と知るのです。



 その詩篇の中で、大切なものの1つが、51篇です。その表題には

「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」

とあります。バテ・シェバはダビデの部下ウリヤの妻でした。ダビデの妻はもう既に何人もいたのです。それでも問題なのに、ダビデは更に飽き足らず、部下の妻を自分の所に呼び寄せて、犯してしまいます。その上、それを隠そうとして、家来のウリヤを殺すことにして、更に他の兵士たちも巻き添えにして、殺してしまうのです。それは酷い行為です。こんな酷い罪をダビデは犯した人でもあります

詩篇五一篇
1神よ、私を憐れんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きを拭い去ってください。あなたの豊かな憐れみによって。
2私の咎を私からすっかり洗い去り、
私の罪から私をきよめてください。…
4私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に悪であることを行いました。
5ご覧ください。
私は咎ある者として生まれ
罪ある者として母は私を身籠もりました。

 ダビデのしたことは、決して正当化できることではありません。しかし、その言い訳できない罪を犯して、大きな後悔と、消せない過去を持つダビデが、聖書に大きく登場していることが、慰めでもあるのです。今も、大きな過ちを犯した人、後悔してもしきれない間違いで立ち上がれない人、心に悲しみと傷を抱えた人が自分を重ねるのです。

16まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。
17神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれをさげすまれません。

 こう祈るダビデの言葉が、今も私を慰めてくれます。多くの人を慰めています。

 最後に、ダビデ王は、主のために家を建てよう、神殿を建てようとしましたが、それを神は許可しません。代わりに、主は、わたしがダビデの家を末代まで祝福して、ダビデの子孫から、永遠の王を立てる、という契約(ダビデ契約)を立ててくださいました。

Ⅱサムエル七12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。…16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 こうして、ダビデ王は、やがて世界を正しく治めて下さる王の家系に加えられたのです。新約聖書の一頁には、長い系図がありますが、その始まりは

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」

とあり、ダビデがとても大事な役割を果たした事が強調されています。そして、イエス・キリストは「ダビデの子」と何度も呼ばれています。ダビデは、やがておいでになるイエス様とも重なるのです。

 ダビデはとても人間らしい、私やあなたと同じ、感情の豊かな人でした。王となってから沢山の間違いもし、最悪な姦淫と殺人という罪さえ犯した人です。でも、そのダビデを神は愛し、王にし、祝福なさいました。罪には厳しく迫りながら、回復も惜しまれませんでした。だから、ダビデも自分の気持ちを開いて、神を心から信頼し、苦しい時には絶望や刺々しい言葉さえ、飾らずに祈れたのです。私たちもそうです。神は私たちの心をすべてご存じです。どんな大きな間違いをしてもそれでも愛し、私たちの躍りを喜んで受け入れてくださいます。その事を現したのは、ダビデの子イエスです。ダビデを通してイエスを知り、ダビデのように、いいえ私らしく主を信頼して歩みましょう。



「主よ、新しい年の最初に、ダビデ王の生涯を思い巡らさせてくださり、感謝します。私たちの心の喜びも、棘も、闇も憧れも、すべて知っておられる主よ。私たちにも、あなたが祈りを与えてください。心からの歌を歌わせてください。涙を流させてください。躍り上がるほどの喜びも与えてください。そうして、主イエスが、私たちのとこしえの王でいてくださる事を味わい知り、あなたの善き御支配を見る年としてください」

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2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

2022-01-01 12:01:30 | マタイの福音書講解
2022/1/2 マタイ伝26章57~68節「もう証人はいらない」

 「ナルニア国ものがたり」の作者C・S・ルイスが書いた、「被告席に立つ神」という説教があります[1]。神を被告席に立たせて、神のやり方を責め、神に疑問をぶつけているのが現代の私たちの態度だ。しかし問題は、そもそも神を被告席に立たせていることだ、というのです。



 今日の箇所はまさに、神の子イエスを被告席に立たせている裁判の図です。ルイスに言わせれば、私たちがしているのはこれです。良いことが起きる限りでは神を誉め、感謝するけれど、受け入れがたい事が起きれば、神を非難して背を向ける。神は被告で私たちが裁判官。そのボタンの掛け違えを戻して、神に被告席から降りて、正しくも裁判官の場に立って戴く。そして自分が裁判官の場から降りて、正しくも被告席に立ち、神の裁きの前に立つ。神の真摯な問いかけに答える。そこから人として生きる事が始まることを、一年の初めに確認したいのです。

 59節に「最高法院」(欄外「サンヘドリン」)とあります。大祭司、律法学者、長老たち、七〇人によって構成される、当時の最高議会でした。彼らはイエスが自分たちの権威を脅かす存在と思い、殺そうと企んで、イエスを捕らえて、夜中にこの裁判をしたのです。そのために「多くの偽証人[2]」まで捏(でっ)ち上げてイエスに不利な判決に持ち込もうとしました。この他の理由からも、この裁判自体が当時の制度からしても不法だったのかもしれません[3]。けれど、議会が不正だったからイエスが処刑になってしまった、もし手続きが正当だったら無罪放免になったはずだ、というものではありません。裁判の横暴さを非難するよりも、どんな不正な裁判でもここでイエスが堂々としておられることにこそ、目を引きます。偽証がされても、憤慨したり反論したりなさいません。過去の発言を引き合いに出されて、大祭司が立ち上がり、

62「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか」

と詰問しても

「イエスは黙っておられた」[4]。

 しかし万策尽きた大祭司がやけっぱち気味に[5]

「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」

と言われた時には、イエスはハッキリと答えます。

64…あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。

 こう言われるのです。これは旧約聖書のダニエル書7章13節や詩篇110篇1節を元にした言い方です[6]。神の右の座に着き、やがておいでになるメシアを語っています。大祭司が「おまえはキリストか」と問うた時、念頭にあったのは、キリストを自称して、民を巻き込んで反乱を扇動しようとする政治犯の罪状です。イエスはそうした政治的な運動以上の自称をなさったのです。
 同時にこの言葉は、この大議会の被告席に立たされているようなイエスこそ、実は神の右の座に着く主権者、この裁判の議長・裁判官であることを示しています。

 イエスは私たちの罪の赦しのため十字架に命を捧げられました。裁判が不当だったせいで処刑されてしまったわけではないし、偽証や強引さや嫉妬を非難もしませんし、逆に、他者の罪を庇いもせず、「自分は身代わりに死ぬのだから私を信じなさい」なんて発言もしていません。ただご自身が、あなたがたが思う以上のキリスト、神の御子であることを証しされました。

 この時のイエスはどんな格好だったか、想像してください。粗末な衣はひれ伏して祈った後で泥だらけ、激しい祈りの徹夜明けで憔悴し、乱暴に連れて来られて、殴られていたでしょう。とても「力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来る」とは思えません。この後、

67それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、68「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

 こんな惨めな扱いです。威厳も何もない格好と似ても似つかぬ告白は、お笑い種(ぐさ)でしょう。

65すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。[7]

 しかしこの言葉は奇しくも真実です。イエスの言葉はそれ以上証人を必要としない、十分な言葉でした。たとえどんな出で立ちで、「この男が神の子だなどと荒唐無稽だ」としか思えなくても、イエスは神の子であり、私たちの救い主です。その死は罪人であった私たちを救うとは、荒唐無稽としか思えません。でも、この方の言葉以上に、証人や証明は要りません。

 神は、人が被告席に立たせたつもりでも被告ではなく神であり、すべてを差配されます。その神の御子イエスが、私たちの全ての罪を背負って、命を捨てられました。イエスは、私たちが被告席に立たされる時、裁判にかけられるような思いをする時、私たちの十分な証人となってくださるのです。私たちの実際の罪や言動については、正直に告白し、責任を果たすよう促されます。でもイエスは、私たちが罪の故に貶められる者ではなく、既に罪の値を支払われ、神と和解し、神の子どもとされた事を証言してくださる。私たちの見かけや過去が今どんなに似つかわしくなくても、イエスが仰った言葉だけで十分。それ以上の証人は要らないのです。どんなに意地悪な証言が並べ立てられようと、傍聴人たちが何と言おうと、すべての裁き主なる神と、私たちの証人であるイエスが、被告席に立つ私たちの側に立ってくださるのです。

 新しい一年、起こり来る出来事は、私たちを一喜一憂させ、振り回そうとするでしょう。だから今日のこの箇所を、確かな原点として覚えましょう。
 人は神に替わって裁判官だと勘違いしがちですが、神は被告ではなく神です。
 イエスは、この裁判でも主導権を握り、ご自身を証しされました。
 そのイエスが、私たちの証人でもあります。人や敵、また自分自身の内なる声が何を言おうとも、いちいち抗弁しなくて良い[8]。イエスが私たちの証人となり、罪の赦し、神の家族の交わり、将来への希望、様々な恵みを下さった恵みに立って生きましょう。

 主のみことばを十分として歩ませていただく。これが、キリストに倣う、私たちの証しなのです。

「主よ。2022年最初の主日をともにし、ここから派遣され、毎週のリズムを繰り返します。この日、主が復活された確かな事実に立ち戻り続けます。人の言葉、時代の流れ、自分自身の内なる声、悪しき力の訴えに押し流されそうな私たちを、あなたの言葉に引き戻し、主の恵みに生かしてください。御言葉の十分な証言を素直に受け入れ、備えられた豊かな恵みを遠慮なく戴かせてください。やがて主が来られるまで、私たちをあなたの証しとしてください。」

脚注:

[1] C・S・ルイス『被告席に立つ神 C・S・ルイス宗教著作集別巻2』、本多峰子訳、新教出版社、1998年。また、被告席に立つ神 | 過去の礼拝説教 - 日本キリスト教団 茅ヶ崎恵泉教会 も参照。

[2] 60節。

[3] 特に、榊原、『マタイによる福音書 下』、261頁以下を参照。「…事実、欧米の聖書学者たちは、多くの点で、この審理の不正をあばいてきました。第一に、この裁判は、客観的な証拠によらず、被告の自白だけで判決されました。第二に、裁判長・議長たる大祭司が先に「彼は神を汚した」と結論してから「あなたがたの意見はどうか」と誘導しました。第三に、サンヘドリン議会は、神殿内の一定の部屋で開かれることが決まっていたのに、この時は大祭司邸宅で開かれました。第四に、こういう問題に関するユダヤ教議会は、午後から、ましてや真夜中には、開廷されてはならないのに、非合法な夜中に行われました。第五に、とくに死刑決議は、ユダヤでは慎重に行われ、二人の書記の一人が賛成票を、もう一人が反対票を数えるほどでしたし、証人は、特別に正義と真実とを求められ、また死刑決議の表決は、少なくとも翌日まで延期されねばならなかったのに、ここでは、その場で即決されてしまいました。 なるほど、今日の議事法からみれば、これらの点は不当な議事運営法かもしれません。けれども、このうちの第一点(自白にもとづく判決)と第二点(議長の誘導)とは、欧米の議会通念から下された勝手な批判であって、東洋人のセンスでは、それほど異例ではありません。…以下略」

[4] ここにはイザヤの預言した「苦難のしもべ」の姿があり、キリスト者にとっての模範もあるといえます。イザヤ書53章5~6節「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」、同7節「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」、Ⅰペテロ書2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」 しかし、イエスは沈黙し通してはおらず、64節で発言をされています。ですから、単純な「預言の成就」とは言い切れない複雑さも加味しなければなりません。

[5] この質問を最初からすれば良かったのであれば、わざわざ偽証人を大勢立てる必要はありません。偽証人の存在は、大祭司たちの策が(不完全で穴だらけではあれ)あったからです。その準備がうまくいかなかったために、大祭司はこの質問を問うたのでしょう。

[6] ダニエル書7章13~14節「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」また、同26~27節「しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、詩篇110篇1節「主は私の主に言われた。「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」」

[7] イエスの罪状を決定づけたのは、ご自分が「預言された「人の子」、やがて、栄光のうちに来る」と仰ったことです。第一に、イエスが人の罪を背負った、とはいえ、濡れ衣を着せられたり、身代わりとなることを申し出たり、誰かを庇って罪を背負うことで有罪判決を下されたのではありません。ですから、私たちがイエスに倣うとは、私たちが人を庇ったり、身に覚えのない罪をも認めたりするような事ではありません(けれど、そのような、「自分が罪を背負う」ことがキリスト者の証しだと誤解されていることも少なくないのです)。第二に、イエスがキリストであることは、証明できることではありません。大祭司も証明を求めませんでした。しかし、イエスがそう仰っただけで十分でした。私たちが、神の子どもとされた、という告白もそうではないでしょうか。また、私たちが他者からの言いがかり(偽証)や挑発にどう応えようかと悩む必要はありません。誤解を解こう、言葉尻を取られたことに抗弁しようとする必要もありません。相手を説得することがキリストの証しでもないし、無理矢理、誰かの罪を背負おうとして「証ししよう」とするのでもないのです。ただ、キリストのことばのゆえに、自分が神の子どもとされた事実。これを証すれば良いのです。

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2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

2022-01-01 09:50:27 | 一書説教
2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

 2022年の元旦、預言者ハガイの書を読みます。まだ一書説教で取り上げていなかったハガイ書で、初めて開いた方もいらっしゃるかも知れません。ハガイとは「祭」の意だそうです[1]。イスラエルのお祭りの時に生まれたのでしょうか。新年最初のお祝いに、本書を読みます。
 ハガイの時代は、イスラエルの民が、捕われていたバビロンから帰って来て、再出発していた時代です。エルサレムに帰り、破壊された神殿も建て直して、主を礼拝する民として歩もう。そう決めて帰ったものの、周囲からの反対や諸事情によって、神殿再建が中断されていました。この辺りの経緯は、エズラ記が詳しく伝えています[2]。エズラ記にこのハガイも登場します[3]。中断されていた神殿再建を、18年ぶりに、民の心を奮い立たせて再開させた預言者。その一人がハガイでした。彼は神殿再建に、いいえ、神の民の再出発そのものに大きく貢献しました。

 一つ目は礼拝の大切さです。神を第一とする礼拝を回復する事です。主は言われます。

2…「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」

4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」

 18年前、神殿再建を志ながら、それが中断されたのは民の不信仰や怠慢のせいではありませんでした。外から妨害されてのどうしようもない中断でした。しかし、その後、事情が変わって、民の暮らしもよくなって板張りの立派な家に住めるようになったのに、神殿建設は放ったらかしになっている。主を忘れて自分の家のために走り回っている生活は、結局、生活や仕事や神ならぬものを神とする生き方です。空回りした、虚しい、本当の神のいない歩みです[4]。

7万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ[5]。8山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ[6]。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。-主は言われる-

 ハガイは民に、まず主の宮の再建を促すのです。それは主が既にともにおられるからです。

13…「わたしは、あなたがたとともにいる-主のことば」

 これこそハガイ書で、宮の再建の呼びかけを通して思い起こさせたいメッセージです。礼拝を通して、主がおられる幸いを覚えます。他の事ごとに振り回されないために、主を主とする恵みに預かります。そして、慌ただしい中でも、生活の中心に主がともにおられることを覚えるのです。これこそが、聖書の中心にあるメッセージです。私たちに与えられた告白です。

 もう一つハガイ書から見えるのは「時の中での変化」です。工事に立ち上がった一月後、二章で言われるのは、民の中に、七〇年前に破壊されたソロモン神殿と比べての不平でした。

二3「あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。…あなたがたの目には、まるでないに等しいのではないか。

 70年前に壊された神殿をその目で見たことのある老人たちもいました。彼らは今ようやく工事の始まった新しい神殿を見ても、かつての輝く神殿と比べて嘆いてしまう[7]。「昔は良かった、以前はもっとああだった」と比べて、折角の今に水を差す声を上げました。
 更に二ヶ月後、10節以下では、造った神殿や献げる生け贄そのものに価値があるかのように慢心してしまったようです。僅か四ヶ月でも、民の心が揺れ動く。時間とともに人は、心も環境も良くも悪くも変わります。その事に私たちは鈍感です。七〇年前の神殿、かつての栄光を取り沙汰して今と比べたりしてしまいます。時とともに多くのもの、自分の心や見えるものは変わる。その事をもハガイ書が浮き彫りにします。その中で、主は民に力強く仰いました。

4しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。-主のことば-エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。-主のことば-仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。

 この聖書を貫くメッセージが繰り返されて、こう主は言われるのです。

 7わたしはこの宮を栄光で満たす。-万軍の主のことば-8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。-万軍の主のことば-9この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。

 宮が銀や金で出来ていなくても、主はすべての金銀財宝の所有者です。その主が、この宮のこれから後の栄光は先のものにまさる。それは、主がこの場所に平和を与えると約束される事です。その「平和」こそ、黄金の建物やどんな立派な過去の栄光にもまさる、新しい栄光です。

 人は時間の中で変わっていきますが、神はその変化のただ中に、働いてくださいます。人が「まだ時は来ない」と言い切っている所に、神は新しいことを始めてくださいます。逆に人が焦っても、神は18年、七十年、いや千年をも一日のように待たれる神でもあります。時の中での移ろいさえ用いて、神は私たちを教え、導かれます。ハガイ書の5年後、小さな神殿が再建されました。それは、かつてのソロモン神殿が破壊されてから70年後のことです。かつて、預言者エレミヤは、バビロン捕囚を七〇年と預言していました[8]。それがこの神殿破壊から再建まで、と見ることも出来ます[9]。だとすると、預言の70年は、中断されていた18年も含めています。主は、人の妨害や諦めの時間さえ、神のご計画のうちに含んでくださって、民を運んで下さる。その主を第一にして、主を礼拝する民としてともに歩むことが何よりの土台です。

 たった二章の、たった四ヶ月の間のハガイの預言。私たちが、時間の中で、時を超えた主を見上げながら、自分たちの変わりやすさと、その中に働かれる主を見上げさせてくれる書です。忙しい中でも、この短いハガイ書を通して、主を礼拝する幸いを確認し続けていきましょう。

「時を治めたもう主よ。新しい年、鳴門キリスト教会も、私たち一人一人も大きく変化します。移りゆく時を強く実感します。社会も人も自分自身も、変わり続ける現実に、振り回され、戸惑います。その中で、あなたは変わることなく、私たちの変化をも益とし、見えない祝福を用意され、ともにおられます。インマヌエルなる主が、私たちをあなたの宮として整えて、一人一人が主の前に静かに立ちながら、ともに歩ませてください[10]。そうして、私たちのこれからの歩みを通して、先の恵みに勝る栄光を現してください。」[11]





脚注:

[1] ヘブル語ハーグの複数形。

[2] エズラ記4章4~5節「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」

[3] エズラ記5章1節「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。」、6章14節「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。」

[4] 彼らが自分の歩みを考えたら、板張りの家に住むとか、多くの種を蒔いて豊作を見込むとか、自分の家のために走り回る事でした。でもそこに神の家がなかった。それは生ける神ではなく、富とか暮らしを神として、生活や時間を献げて、幸せになろうとする事でした。それは虚しい事です。神を神としないなら、何かを「神」としているのです。自分の住居、暮らし。何にお金を掛け、何に時間を費やしているか。何のために犠牲を惜しまず、何を今、気に掛けているか。それこそあなたの「神」です。「主なる神を、イエス・キリストを通して礼拝する」と言いつつ、私たちはその神の顔を何に見えているでしょうか。神は、地上の何かの形に、自分を形作るな、と仰せられます。それは私たちの神ではないのですから。主は生ける、力ある神で、人が主を神とするなら、それを喜び、栄光を現すと約束してくださいます。私たちが自分の家や生活のために走り回るとしても、それを拝むのではなく、神を礼拝すること。それは、私たちのためにも、ただ一つの第一のことなのです。

[5] 「よく考えよ」(に心を備えよ。欄外) 新共同訳「自分の道に心を留めよ」1:5、7。2:15、18も。

[6] 主はご自身のために、立派な宮を建てよとは求めません。山に上って運んでくる木で良いのです。

[7] エズラ記では3章10~13節にこう記されています。「3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。12しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」 しかし厳密には、これは最初の神殿建設が中断される直前の記事です。ですから、ハガイ書2章の出来事そのものではありません。18年前に、この比較と嘆きがありました。それも、神殿再建を中断されたまま放置した、心理的な要因と絡んでいるのかもしれません。その反省もなく、今ここでも、せっかく始まった再建工事に水を差す声として、ハガイ書2章3節は読まれるべきなのかもしれません。いずれにせよ、神が、大きさにかかわらず、神殿を建てることを命じて、その基礎作りを祝われているのに、人間のほうが、「まるで無いに等しい」と嘆いている、という奇妙なことが起きているのです。

[8] エレミヤ書25章11節「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」、29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」、ダニエル書9章2節「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」

[9] 第三回バビロン捕囚において神殿が破壊されたのが紀元前586年。その後、新興のペルシアによりバビロン帝国が滅ぼされたのが、紀元前539年。翌年、ペルシア王クロスによりイスラエル人の希望者による捕囚帰還(538年)。その後、18年の中断を経て、工事が再開され、ゼルバベル政権下で神殿が再建されたのが前515年です。

[10] イエス・キリストこそ、私たちといつもともにいますと仰いました。言いかえれば、キリストを信じる信仰者の共同体こそ、主の宮とされました。暮らし向きも違い、生きてきた時間も違う者たちも、ただこの真ん中に主がおられるゆえに、一つの聖霊の一つの宮です。建物や場所ではなく、私たちキリスト者を、神ご自身が生ける石として、宮としてくださいました。私たちが犠牲を献げることによってではなく、イエスご自身が唯一のいけにえとなって、礼拝を全うしてくださいました。その事を覚えるために、私たちは礼拝を第一とするのです。主がここにいますことを覚える事で、私たちは生活を偶像とせず、ともに歩むことが出来るのです。

[11] 鳴門キリスト教会も、皆さん一人一人も、この一年、大きな変化を予想しています。そうでなくても、時間の中で多くの事は変化し、予想もつかない出来事が起きるものです。その時の流れの中で、私たちは自分で時を見てしまい、神の時をも決めたくなります。でもそれは逆です。神こそが、時を支配しておられます。変わる時をも益に変えて、祝福を用意されています。その神を信頼するために、私たちにとって礼拝を第一とするのです。そうして、ともに生きることが出来るのです。主をともに礼拝する事が、新しい2022年の歩みを方向付け、支える祝福なのです。神殿再建を促すハガイの言葉は、私たちにも何度も何度も再出発を促してくれます。

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