聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/13 マタイ伝13章53~58節「身内だからこそ」

2020-12-12 12:18:20 | マタイの福音書講解
2020/12/13 マタイ伝13章53~58節「身内だからこそ」

 マタイの13章の結びがこの郷里での出来事です。イエスの働きが広がって、噂が故郷にも届いていた頃でしょう。帰郷したならきっと郷里の人々は歓呼したろう。なにせイエスご自身の説教、聞いて信じないはずがないと思ったら、「故郷に錦を飾る」とはならなかったのです。
 54節の「驚いて」はとても強い驚きで、仰天した、腰を抜かしたというほどの意味です[1]。故郷の人々はイエスの教えや力あるわざを十分目の当たりにしました。そして驚いた。それでも彼らは、主イエスの教えを受け入れませんでした。「イエスよ、私たちはあなたの言葉を受け入れる」とは言わず、むしろ、「どこから得たのだろう」と首をひねって終わるのです[2]。

54…すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇蹟を行う力をどこから得たのだろう。
55この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう」

 かなり詳しく言い分を伝えています。母マリアに加えて、弟たちの名前や妹たちの存在など、あまり関係が無い知識を並べ立てる。そういう枝葉のことを並べ立てて、自分たちはイエスをこれだけ良く知っているのになぁ、と止まってしまって、耳を貸すことが出来ないのです。
57こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
 ここから、「郷里伝道は難しい、家族伝道は難しい、イエス様だって難しかったのだから、私たちは仕方がないのだ」と言ったりします。家族や郷里、よく知っている人にこそ自分の信仰を理解してほしい。分かってもらえないとガッカリする。だからかえって言葉がキツくなったり、強引になったりして、ますます苦しめ合うことがある。イエスも、郷里の人々が大事だからこそ、帰郷して人々に語ったのです。でもそれが伝わらなかった時、
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです」
と仰有いました[3]。「家族なのに」を「家族だから」と優しく諭して、手放させてくださっている言葉にも聞こえます[4]。
 イエスは最初から人の心の頑なさをご存じでした。なまじっか親しい間でこそ、「あの人なら昔からよく知っている。家族の名前も挙げることが出来る」。そう思う事で、聴く耳を持てなくなる、そういう人間の弱さを、既に悟っておられたでしょう。イエスの言葉が受け入れられず、人々が躓くことは、ここだけではありません[5]。これまでもこれからも繰り返されます。
 「躓きが起こるのは避けられません」(18章7節)
と仰有ったり、イエスは何度もどんな所でも「躓き」が起きうる事に触れるのです[6]。旧約聖書を紐解いても、預言者が故郷でだけ敬われなかったなんて事はありませんし、外国だったら受け入れてもらえるわけでもありません[7]。

 待降節に覚えるのは、主イエスがご自分の作られた世界に来られたことです。

ヨハネ1章10節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」

 主人であるイエスを、ユダヤの民もこの世界も受け入れませんでした。イエスが敬われなかったのは、郷里だけでなく、最初から最後までの現実でした。誕生では飼葉桶に寝かされ、命を狙われ、最後は妬まれ、憎まれて十字架につけられて、仮の墓に葬られた、その生涯全体が、郷里で拒まれた預言者の姿です。それは、私たちの最も身近な関係こそが最も難しくなり、互いに敬えない悲しみを、イエスご自身が味わって知っておられる、ということでしょう。
58そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
 それは諦めとか腹いせの仕返しではない。この時はここを去り、他の場所でも敬われない扱いを受け、最後は十字架にかけられます。でも死から復活したイエスは、躓いた人たちの中に信仰を芽生えさせ、救いが時として家族にも及ぶ御業を始めてくださいました。郷里や家族、最も難しい関係にも、イエスの言葉に耳を傾ける人が起こされます。それは、主イエスご自身の忍耐と、長い時間をかけてのお働きによることです。私たちは、家族との関係が大事であっても、それに縛られる以上に、神を天の父として信頼して、それから人にも向き合えるのです。
 身内だからこそ信じてほしい、分かってほしいけれど、身内だからこそ聴く耳を持てない、それまでの経験とか柵(しがらみ)が邪魔して心を開けない。「私はあの人はよく知っている。あの人はダメだ。変わらない」、そう決めつけたくなります。そう拒まれる体験をイエスご自身も味わったお方です。その家族の難しさを承知でイエスはこの世界に来られました[8]。いわば主ご自身が、躓く人々を決めつけなかった。諦めなかった、尊んでくださいました。その恵みの力が新しい関係を造りました。主の恵みは、人間関係の難しさや何十年もの経験よりも強いのです。
ヨハネ1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 神は私たちを、躓いたり不信仰だったり、分かったと思って神にも身近な人にも耳を貸せなくなりがちな私たちに信仰を与え、神の子どもとなる特権を下さいました。それは、神の子イエスが人として生まれた、計り知れない恵みに匹敵する、ひとえに神による贈り物なのです。

「父なる神様。御子イエスの側(そば)にいながら躓いた人々に自分が重なります。どうぞ私たちがその轍を踏まないよう、決めつけや諦めから救い出してください。主はご自身を拒む世界に来られて、心を新しくしてくださいました。まず私の心を開いてください。家族や周りの人を決めつけず、イエスにするように、耳を傾け、分かろうと、敬おうとする。そのように私たちを変えて、私たち自身をあなたの奇蹟の贈り物にして、私たちの身近な関係も変えてください」

脚注:

[1] 「驚く」7:28(イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた)、19:25(弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」)、22:33(群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。)

[2] この時点での応答は、「イエスを救い主として信じる」という宗教的な信仰よりも、「イエスの語る神の国を受け入れ、イエスを王として生きる」という全人的なものです。

[3] 新改訳2017の欄外引用には、エレミヤ書12章6節があります。「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」一読して分かるように、ここでは、エレミヤの身内でさえ裏切ると言っているのであって、故郷以外では尊敬される、とは逆のことを言っています。ここからも、このイエスの言葉は一般論では無いと分かります。

[4] 拉致被害者横田めぐみさんの母、横田早紀江さんのことば。「最初の苦しみが解決したわけでは決してない。それは神さまに委ねるしかないこと。めぐみのこともそうです。本当に元気で帰ってくるか、という気持ちはどこかにありますが、めぐみのことをいちばん気にかけて、見ていてくださるのは神さまなんです。だから平安でいられます。遠く離れていても祈ってますから、この子を生かさなければ、と神さまが思われるなら、生かされるだろうと信じています。」『クリスチャン新聞 福音版』2020年12月号、4頁

[5] 主イエスが育った村はナザレですが、ここには「郷里(パルディア、マタイではこの2箇所だけ)」とあるだけで、ナザレとは一言も触れていません。

[6] 「つまずく」マタイで17回も。 5:29(もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。)、11:6(だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。)、13:21(しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。)、41(人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、15:12(そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、17:27(しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」)、18:6(わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。7つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。8あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。9また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。)、24:10(そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。)、26:31(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。)、33(すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」)

[7] 「預言者」31回。1:22(このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、2:5(彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。」、15(ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。)、17(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。)、23(そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。)、3:3(この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。)、4:14(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、5:12(喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。)、17(わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。)、12 (ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。)、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」)、10:41 (預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。)、11:9(そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。)、13(すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。)、12:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。)、39(しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」、13:17(まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。)、35(それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」)、57(こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」)、14:5(ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。)、16:14(彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」)、21:4(このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。)、11(群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。)、26(だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」)、46(それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。)、22:40(この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」)、23:29(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、30こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』31こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。)、23:34(だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。)、23:37(エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。)、24:15(それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──)、26:56(しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。)、27:9(そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。」)

[8] ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』より、「ここで私が惹きつけられるのは、イエスはついには家族の輪の外で、家族から距離をとり、ご自分の権威を確立せねばならなかったことです。それは、イエスが十二歳のときの神殿においても、マリアが助けを求めたカナにおいても、説教したときも、家族がイエスを訪ねて来たときも、同じでした。/家族とは、私たちが大人へと成長し、人間として成熟していく場です。しかし、心の奥深くに語りかけてくる私たちの召しをまっとうするためには、そこを離れねばなりません。家族は帰属意識を与えてくれます。けれども、私たちが最も深く帰属しているもの、すなわち神への帰属に生きるためには、私たちを知り尽くしているつもりの家族から離れ、自分の命の最も深い源を見いださなくてはなりません。私たちは、両親や兄弟姉妹のものではありません。彼らから離れることなしには、まったき自由になることも、生まれる前から私たちを呼んでいる方の声を聴くことも困難になります。イエスは天の父に、心から「はい」と言えるように、家族にしばしば「いいえ」と言わねばなりませんでした。」43-44頁

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2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-12 12:08:34 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

 クリスマスが来週に近づきました。イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスは、教会にとって大きな喜びです。クリスマスまでの四回の日曜日、アドベント、日本語で「待降節」と呼ぶ時期を過ごしています。「待降」、降るのを待つと書きます。クリスマスは「降誕」。キリストが、天から地上に降ってきて、誕生してくださった日。その降誕を待つので「待降節」です。そして、そこにはもう一つの意味があります。それは、もう一度キリストが降ってこられることを待つ、という「待降」です。今から二千年ほど前、キリストがお生まれになりました。でも、その昔々の歴史を思い出し、懐かしんでいるのではなく、もう一度、キリストがおいでになる。その時を私たちは待ち望んでいるのです。今日は、二千年前にお生まれになったキリストが、今どこにいるかを覚えます。そうすることで、クリスマスのお祝いも、本当に私たちにとって嬉しい事だと、喜ぶ気持ちがぐーんと大きくなって欲しいのです。

問49 キリストは今どこにおられますか? 
答 キリストは死んで後、3日目に肉体を持って墓からよみがえり、父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。

 今から二千年前に、地上にお生まれになったキリストは、その後、30歳頃に三年ほど神の国を宣べ伝えて、捕らえられ、十字架に殺されました。その三日目に、墓からよみがえって、天に上られました。それは、天の父の右の座に着かれるためでした。右の座というのは、神と共に治めている、ということです。ここにあるように「御国を統べ治め、私たちのために執り成して下さっています」ということです。
エペソ1:20~21「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」

 イエス・キリストは今、目には見えません。クリスマスのお祝いも、今ではキリスト抜きの、ただのお祝いです。教会やキリスト教と関係なく、パーティをしたり、プレゼントを期待したり、盛り上がっています。お寺や神社でも、クリスマス会をしています。クリスマスがキリストの誕生のお祝いだというのは、最初だけで、今は別に関係ない、と思われているのでしょう。けれども、教会は、キリストが天上で神の右の座に着かせられている、すべての名の上に高く置かれていると信じています。目には見えなくても、イエスこそが、世界の治めるお方、王なのです。
 主イエスがお生まれになることは、主イエスがおいでになる何百年も前から、旧約聖書の中で約束されていました。救い主であり王である方が来られること、ダビデの家系から生まれること、ひとりの赤ん坊としてお生まれになること、ベツレヘムでお生まれになること、そして、主イエスの御生涯、十字架の死、復活についても沢山の預言があり、その多くが既に成就しました。この絵は、聖書の創世記から黙示録までを並べていったとき、そこにあった旧約の約束(預言)とそれが成就した新約の箇所を結びつけた図だそうです。

 天地を創造された神の大きなご計画は、黙示録の、この天地の終わりに至るまで見事に、美しく成就していきます。この世界を、神の作られた世界として完成なさるのです。その約束と成就が、美しいアーチを、まるで虹のように描いています。神が王である世界で、父と共に治められる王、主イエスの御降誕と十字架の死と復活は、その中でも中心となる御業です。そのたくさんある旧約聖書の預言の中でも、最も多く新約聖書に引用されているのが、詩篇の110篇1節のこの言葉です。
主は 私の主に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
 この言葉が、主イエスにおいて成就した。イエス・キリストは、十字架に死んで、よみがえって、今は天に上げられて、神の右の座についておられる。目には見えなくても、主イエスが私たちを治めて、敵や悪の支配を踏みつけてくださる。今、イエスが、この世界を治める王座の右におられる。これを、最も大きな告白の一つとしたのです。
 もちろん、戦争、暴力や悲劇はあります。自然災害や、ウイルスの蔓延で世界が大きく混乱している今のようなこともありますし、これからもどんなことが起こるか分かりません。今年は特にそのことを痛感している一年ですね。神がいるなら、どうしてこんなことがあるんだろう。イエスが敵を踏みつけているなら、どうして悲しいこと、苦しいことがあるんだろう、と言う声も多くあります。悪の方が好き放題しているようです。

 それでも、私たちは、主イエスが治めていることを信じます。主イエスご自身の生涯は、貧しく低い始まりでした。悪い王様に命を狙われ、権力者に憎まれ、最後は、歪められた裁判で、残酷な十字架につけられる死でした。悪が買ったように見えました。イエスご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれました。本当に、神に見捨てられたように思える時もあることを、主イエスは誰よりもご存じです。でも、その死は主イエスの敗北ではなく、神の御業でした。人の苦しみや悪の挑発をとことんまで受けて、なおイエスは神を見上げていました。そのイエスを天の父はよみがえらせて、ご自分の右に着かせてくださいました。

 今の世界の、苦しみも疑問も、イエスは知っておられます。誰よりも、苦しみや疑いを味わって知っているイエスが、今、天の右の座で、治めておられます。その良い支配を私たちは信じて、自分たちに出来ることをしていきます。この世界が良くなっていくよう、悪がなくなるよう責任を与えられています。でも、十分に最善を尽くせなくても、その私たちのため、
キリストは…父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。
と信じるのです。このイエスの支配と取りなしを信じつつ、イエスが再び来られる時を待ち望んでいる。それが、クリスマスを前に心を向ける、もう一つの待望です。

「復活の主、昇天の主よ。この地上にはおられなくとも、あなたは天の御座から私たちを治めていてくださいます。すべての権威と力はあなたにあります。あなたの御名にまさる名はありません。どうか終わりの日に私たちをよみがえらせ、あなたの御国でともに住まわせてください。アーメン」
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