2020/12/6 マタイ伝13章44~50節「良い真珠を探す救い主」
前奏
招詞 イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美 讃美歌96「エサイの根より」①③
*主の祈り (週報裏面参照)
交読 詩篇100篇(24)
賛美 讃美歌98「天には栄え」①③
聖書 マタイの福音書13章44~52節
説教 「良い真珠を探す救い主」古川和男牧師
賛美 讃美歌111「神の御子は」①④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条 (週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌543「主イエスの恵みよ」
*祝祷
*後奏
イエスが譬えで教えられた話がまとめられているのが、このマタイ13章です。「天の御国は○○のようなものです。…○○のようなものです」と譬えを重ねて、ご自分がどんな世界を始めようとしているのか、イエスが王である国とはどんなものか、を思い描かせました[1]。13章に7つほどある譬えから、今日は44、45節の譬えを味わいましょう。[2]
44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
今は現実味がない話ですが、二千年前の当時は宝の保管に畑や地面に埋めるのは手っ取り早い方法だったようです。そのまま持ち主が亡くなって、誰かが見つけることもあったでしょう。畑の宝は畑の所有者のもので、畑を買えばその宝の所有権も手に入れるのは合法的でした。決してこの人は狡(ずる)をしたのではありません。もし宝だけをこっそり持って帰ったら犯罪です。彼はそうはせず、自分の全財産を売り払ってその畑を買って、合法的に宝を手に入れたのです。
考えてみれば、全財産を売り払うなんて、ちょっとおかしな事です。その宝が莫大で、後は遊んで暮らせる程だった、かは分かりません。大事なのは、その畑に隠されていたなんて思ってもいなかった宝を見つけて、驚いて、そっと隠しつつ、「喜びのあまり」自分の全財産を売り払って、その畑ごと宝を手に入れる、その喜び、思いがけなさです。毎日の単調な生活、期待もせずに汗を流し、豊作を考えるか不作に嘆いたり悩んだりしていた時に、いきなり全く思いもかけない贈り物を見つける。そういうサプライズは、本当に嬉しいこと。余りに嬉しくて、自分の全財産を売り払うことが果たして割に合うかどうかなんて損得勘定は考えずに、手に入れずにおれなくなる。それぐらい、思いがけない贈り物がもたらす喜びは莫大なのです。[3]
天の御国はそのようなものです。イエスの語る言葉は、理想や高尚な道徳である以上に、現実の私たちの生活や日毎の労働の中に潜む神の生きた御支配です。人は畑を見るだけで、期待通りにならない生活に「神などいない」と思っていても、神こそがこの世界を治め、思いもかけない恵みを育てていることが、ひょんな出来事で姿を現します。正しく良いお方である神が私たちの王であることは予想外の形で現れ、私たちに驚きと笑顔をくれます。喜びのあまり、苦労も文句も忘れて、全財産も投げ打ちたくなる。人生を一変させる出会いをもたらす天の御国が、私たちのただ中にあるのです[4]。「畑に隠された宝」の譬えはそう生き生きと語るのです。
45節の譬えは、畑に隠された宝の譬えと似ています。どちらも宝や真珠を見つけて、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。よく似た構造ですが、大きな違いもあります。その一つは、先は「畑に隠された宝」が天の御国であったのに対して、ここでは「良い真珠を探している商人」が-「良い真珠が」ではなく-天の御国を譬えるのです。[5]
45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
人が神の国を求めたり、救いを探し求めたりしなければ、という以上に、天の御国が先に捜している。高価な真珠を一つ見つけた商人が、持っていた物すべてと引き換えにしても惜しまないように、天の御国は私たちを探し求め、イエスの語る祝福や新しい生き方に私たちを捕らえてくださる[6]。そのために、自らの犠牲をも惜しまない。そういう御国をイエスはここで語ります。イエスは、ルカの福音書19章10節で、ハッキリとこう仰有いました。
「人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。」 [7]
イエスは、天の御国の王として、ご自身が失われた人を捜して救うために来られた方です。クリスマスは、神のひとり子イエスが、神としての力や輝かしさまでもすべてを投げ打って、何一つ持たない赤ん坊としてお生まれになったことを覚える時です。それは、私たちを買い取るため、ご自身を代価として贖ってくださるためでした。失われていた人も私たちも、真珠商人が高価な真珠を見つけた喜びにも例えられる思いで、見つけて救ってくださったのです[8]。
イエスが私たちを、宝を探すように来て、見つけて、ご自分のものになさる救い主。「見つけに来る救い主 」です。捜されるなんて、ギョッとしてひるみたくなるかもしれません。「私なんて宝ではありません」と遠慮したくなるかもしれません(笑)。そういう私たちに、イエスは「天の御国は、あなたを宝のように取り戻す国だ」とこの譬えを語ってくださいました。
私を捜して、見つけて、費用も犠牲も厭わずに払って、私を迎え入れてくださる方がいる。その天の御国を、私たちは何気ない、予想も期待もしない毎日の中で見つけることが出来る。思いがけない贈り物を見つける喜びと、私たち自身が宝のように捜されて、見つけてもらえる喜び。私たちを捜して止まない方がいる、という、考えてもいなかった贈り物が、私たちに届けられるのです。
「王なる神様。あなたの御支配を感謝します。私たちの生活に恵みが見えなくても、あなたの恵みに折々に驚かされ、不思議な御手のわざに出会って、賛美と献身を新たにさせてください。御子イエス様が私たちを宝として探し求め、すべてを捨てて私たちを買い戻されたことを感謝します。見つけられ、見つける喜びが天の御国にあります。まだ、あなたを小さく、冷たく、遠く感じている私たちを、このアドベントにもう一度見つけて、喜びに溢れさせてください」
脚注:
[1] 「天の御国」とは、「天の王国Kingdom of Heaven」(=神が王として治めている国・支配)であって、「天国heaven」ではありません。ここで語られているのは、「どうしたら、死後、幸せな天国に行けるのか」という話ではなく、「天にいます神の御支配はどのようなものか」ということです。これがイエスのメッセージの中心です。神が王となってくださることが中心で、それを抜きにした死後の楽園など、人間の堕落した妄想に過ぎません。一方で、神の「支配」と言った途端に、堕落した人間の色眼鏡では「暴君的な神」を思い描くのも事実でしょう。その「絶対君主」としての神観をも丁寧に塗り替えるのが、主イエスというお方です。
[2] 七つの「天の御国」についての譬えは「種を蒔く人の譬え」(3~9、18~24節)、「良い種の譬え」(24~30、36~43)、「からし種の譬え」(31~32)、「パン種の譬え」(33)、「畑に隠された宝の譬え」(44)、「良い真珠を探している商人の譬え」(45~46)、「海に投げ入れる網の譬え」(47~48)です。結びの51~52節は「天の御国の弟子となった学者」についてですので、七つには含めませんでした。
[3] 「全財産つぎこんで」は、損得勘定では出来ない、と思わせてくれるのは、こちらの記事 など。
[4] ルカの福音書17章20~21節「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
[6] 日本語では訳されていませんが、ESVでは原文に忠実に、45節を過去形で訳しています。「高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払って(不定過去時制)、それを買いました(不定過去時制)。」 不定過去(既にきっぱりと売り払った/買った)で思い描かせることで、買い切って喜ぶ商人を思い描かせます。これを、イエスが既に来られたことと重ねるまでは、言い切れないでしょう。
[7] 取税人ザアカイの話の結びです。日本語では「捜して」と、今日のマタイ13章45節の「探している」とは違う漢字が使われていますが、原文はどちらもゼーテオーです。
[8] それは、私たち自身の中から出て来る価値ではない。真珠であれ、金やダイヤモンドであれ、価値というものはそれ自体にはない。他者から贈られるものでしか、価値というものはない。神の御国は、私たちが自律した価値を持っているからではなく、私たちに価値を見出して、贈ってくれて、惜しみなく買ってくれるものなのだ。
思いがけない贈り物のもたらす祝福については、こちらの動画をどうぞ!
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