聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/6 Ⅱテサロニ2章13節「教会とは何ですか」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-05 12:36:21 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/6 Ⅱテサロニ2章13節「教会とは何ですか」ニュー・シティ・カテキズム48
 
 アドベントの第2週を迎えました。毎年、キリストの御降誕を覚えながら、クリスマスの物語に出てくる人々が、不思議な集まりであったことを思い巡らしています。
 羊飼いたち、博士たち、ヨセフとマリア、そして、後からはシメオンとアンナという年を召した二人が出て来ます。羊飼いは、その頃、野原で羊を見ていた、つまり、家で温かく過ごすことが出来なかった仕事をしていた人たちです。一説に拠れば、羊飼いは、羊を襲う狼が耐えなかったので、血で汚れたり、羊の数をごまかしたりするとして、社会では信用されていなかった、裁判でも羊飼いの証言は採用されなかった、という人もいます。そのような、社会では外れ者、文字通り、蚊帳の外に置かれていた羊飼いが、真っ先に、救い主イエス・キリストの誕生を告げられて、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言われたのです。これは、本当に不思議なことです。
 次に、博士たちは、イエス・キリストにとっては外国人です。聖書には、博士たちが何人だったか、明記されてはいません。しかし、教会はずいぶん長く、三人の博士たちとしてきました。そして、その三人は、肌の色が白い人、黒い人、黄色い人と、違う人種を代表していると伝えてきました。世界中のすべての人、国籍も肌の色も違う、すべての人が集まってきた場所、それがイエス・キリストの誕生でした。
 他にも、シメオンとアンナは老人です。他ならぬ、母マリアは田舎の村、ナザレの少女です。田舎の訛りでしゃべる、十四歳ぐらいの女の子でした。ヨセフについては書かれていません。しかし、ここには、本当に色々な人たちが集まっていました。世界の救い主をお迎えするのに、集められたのは、このような人たちでした。



 もし今、世界に神の元からやってきた使いをお迎えするとしたら、どうでしょう。誰がお迎えするでしょうか。国の首相や地位のある人や有名な人が、黒ずくめのスーツやきれいなドレスで、盛大な準備をして迎えるでしょう。オリンピックの開会式よりも派手派手しい歓迎会をするでしょう。入れる人は制限されるでしょう。その時、汚い羊飼いや、見知らぬ外国人や、老人や田舎の少女なんて、真っ先にはじき出されるでしょう。でも、クリスマスは、王様や地位のある人たちが集まる場所ではありませんでした。むしろ、盛大な歓迎会ならはじき出されるような人たちが集められたのです。でも、それこそがイエス・キリストが集められた、新しいコミュニティ(共同体)でした。いわば、ここに、キリスト教会の姿が生き生きと描き出されています。今日は教会についてです。

問48 教会とは何ですか?
答 神はご自身のために、永遠の命に選ばれ、信仰によって結ばれた共同体、すなわち、神を愛し、神に従い、神から学び、神を共に礼拝する共同体を選び、守られます。神はこの共同体が、福音を宣べ伝え、共に歩む生活と互いへの愛によって、未だ見ぬキリストの御国を現すために遣わしておられます。

 「教会」と聴けば、建物を指すことが多いし、十字架のある建物を連想するでしょう。建物は分かりやすいですが、教会とは「共同体」です。建物は、その共同体の集まる場所で、「会堂」と言った方が正確です。何よりも、神が選ばれ、集めてくださるのが教会という共同体です。クリスチャンが集まって、自分たちで教会を作る。そのような集まりがあちこちにバラバラにある、というよりも、神が選び、信仰を与え、結び合わせてくださる共同体なのです。ここには、神を愛し、神に従い、神から学び、神をともに礼拝するという使命があります。「神はこの共同体が、福音を宣べ伝え、ともに歩む生活と互いへの愛によって、未だ見ぬキリストの御国を現すために遣わしておられます」ともある通りです。これが、教会なのです。教会とは、神が集めて下さった共同体で、そこにキリストの御国が現されている集まりなのです。
 なんだかそれを聞くと、立派なクリスチャンだけの集まりのように思ってしまうかもしれません。だから、思い出してください。クリスマスの集まりを。立派な人、尊敬される人格者、きらびやかな服を着た名士さんたちではなく、羊飼いや博士や老人や田舎者が集められました。そこにこそ、福音が宣べ伝えられています。キリストの教会は、すべての人の教会の始まりでした。そして、そのキリストが集められなければともにいることなど考えられなかった、多様な人が集まっているのが教会です。



 教会は、清らかな人しか集まれない場所だと思われがちです。本当は、貧しい人、障害がある人、外国の人も、おかしな格好をした人も、お年寄りも若い人も、敷居が高いところには入れない人たちが、神に招かれて、集まれるのが教会です。そうすることでキリストの御国を現しているのです。私たちは一人一人、神に招かれここにいます。一人一人が、神を愛し、神に従い、神から学び、神を共に礼拝する。それが、やがて完成するキリストの御国がどんなものかを告げ知らせています。今日読んだⅡテサロニ2章13節、
しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
 神が選んでくださった教会、キリストの周りに集まる共同体は「初穂」です。神がすべての人を集めて、愛して、新しい関係を作ってくださるのです。私たちの社会は、なかなかそうはいきません。社会にとって都合の悪い人、よそ者、変わった人は悲しいことに虐められたり弾かれたりします。それが当たり前のようになっている社会の、最も外にいる人たちが、キリストの誕生の時、集められて、主イエスに礼拝を捧げました。福音の初穂となり、神を愛し、神に学び、ともに教会という共同体にされました。そこから始まったキリストは、生涯、様々な人たちを招かれました。そして、その後始まった教会は、二千年かけて今に至るまで、歩みを重ねています。神が、教会に多くの方を加えてくださっています。そして、これからも私たちは、神が招いてくださっている多くの方と、神を愛し、ともに主を礼拝し、キリストの御国の表れを待ち望むのです。

「すべてにまさる王よ。あなたは私たちを神の家族として一つにしてくださいました。どうか共に礼拝を捧げ、互いに愛し合い、互いの必要を補い合うことを怠らないように守ってください。私たちの交わりが真実なものでありますように、また互いの信仰を高め合うものでありますように。アーメン」
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2020/12/6 マタイ伝13章44~50節「良い真珠を探す救い主」

2020-12-05 12:00:00 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/6 マタイ伝13章44~50節「良い真珠を探す救い主」

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌96「エサイの根より」①③
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌98「天には栄え」①③
聖書  マタイの福音書13章44~52節
説教  「良い真珠を探す救い主」古川和男牧師
賛美  讃美歌111「神の御子は」①④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌543「主イエスの恵みよ」
*祝祷
*後奏

 イエスが譬えで教えられた話がまとめられているのが、このマタイ13章です。「天の御国は○○のようなものです。…○○のようなものです」と譬えを重ねて、ご自分がどんな世界を始めようとしているのか、イエスが王である国とはどんなものか、を思い描かせました[1]。13章に7つほどある譬えから、今日は44、45節の譬えを味わいましょう。[2]
44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
 今は現実味がない話ですが、二千年前の当時は宝の保管に畑や地面に埋めるのは手っ取り早い方法だったようです。そのまま持ち主が亡くなって、誰かが見つけることもあったでしょう。畑の宝は畑の所有者のもので、畑を買えばその宝の所有権も手に入れるのは合法的でした。決してこの人は狡(ずる)をしたのではありません。もし宝だけをこっそり持って帰ったら犯罪です。彼はそうはせず、自分の全財産を売り払ってその畑を買って、合法的に宝を手に入れたのです。
 考えてみれば、全財産を売り払うなんて、ちょっとおかしな事です。その宝が莫大で、後は遊んで暮らせる程だった、かは分かりません。大事なのは、その畑に隠されていたなんて思ってもいなかった宝を見つけて、驚いて、そっと隠しつつ、「喜びのあまり」自分の全財産を売り払って、その畑ごと宝を手に入れる、その喜び、思いがけなさです。毎日の単調な生活、期待もせずに汗を流し、豊作を考えるか不作に嘆いたり悩んだりしていた時に、いきなり全く思いもかけない贈り物を見つける。そういうサプライズは、本当に嬉しいこと。余りに嬉しくて、自分の全財産を売り払うことが果たして割に合うかどうかなんて損得勘定は考えずに、手に入れずにおれなくなる。それぐらい、思いがけない贈り物がもたらす喜びは莫大なのです。[3]
 天の御国はそのようなものです。イエスの語る言葉は、理想や高尚な道徳である以上に、現実の私たちの生活や日毎の労働の中に潜む神の生きた御支配です。人は畑を見るだけで、期待通りにならない生活に「神などいない」と思っていても、神こそがこの世界を治め、思いもかけない恵みを育てていることが、ひょんな出来事で姿を現します。正しく良いお方である神が私たちの王であることは予想外の形で現れ、私たちに驚きと笑顔をくれます。喜びのあまり、苦労も文句も忘れて、全財産も投げ打ちたくなる。人生を一変させる出会いをもたらす天の御国が、私たちのただ中にあるのです[4]。「畑に隠された宝」の譬えはそう生き生きと語るのです。

 45節の譬えは、畑に隠された宝の譬えと似ています。どちらも宝や真珠を見つけて、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。よく似た構造ですが、大きな違いもあります。その一つは、先は「畑に隠された宝」が天の御国であったのに対して、ここでは「良い真珠を探している商人」が-「良い真珠が」ではなく-天の御国を譬えるのです。[5]
45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
 人が神の国を求めたり、救いを探し求めたりしなければ、という以上に、天の御国が先に捜している。高価な真珠を一つ見つけた商人が、持っていた物すべてと引き換えにしても惜しまないように、天の御国は私たちを探し求め、イエスの語る祝福や新しい生き方に私たちを捕らえてくださる[6]。そのために、自らの犠牲をも惜しまない。そういう御国をイエスはここで語ります。イエスは、ルカの福音書19章10節で、ハッキリとこう仰有いました。
「人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。」[7]
 イエスは、天の御国の王として、ご自身が失われた人を捜して救うために来られた方です。クリスマスは、神のひとり子イエスが、神としての力や輝かしさまでもすべてを投げ打って、何一つ持たない赤ん坊としてお生まれになったことを覚える時です。それは、私たちを買い取るため、ご自身を代価として贖ってくださるためでした。失われていた人も私たちも、真珠商人が高価な真珠を見つけた喜びにも例えられる思いで、見つけて救ってくださったのです[8]。
 イエスが私たちを、宝を探すように来て、見つけて、ご自分のものになさる救い主。「見つけに来る救い主」です。捜されるなんて、ギョッとしてひるみたくなるかもしれません。「私なんて宝ではありません」と遠慮したくなるかもしれません(笑)。そういう私たちに、イエスは「天の御国は、あなたを宝のように取り戻す国だ」とこの譬えを語ってくださいました。
 私を捜して、見つけて、費用も犠牲も厭わずに払って、私を迎え入れてくださる方がいる。その天の御国を、私たちは何気ない、予想も期待もしない毎日の中で見つけることが出来る。思いがけない贈り物を見つける喜びと、私たち自身が宝のように捜されて、見つけてもらえる喜び。私たちを捜して止まない方がいる、という、考えてもいなかった贈り物が、私たちに届けられるのです。

「王なる神様。あなたの御支配を感謝します。私たちの生活に恵みが見えなくても、あなたの恵みに折々に驚かされ、不思議な御手のわざに出会って、賛美と献身を新たにさせてください。御子イエス様が私たちを宝として探し求め、すべてを捨てて私たちを買い戻されたことを感謝します。見つけられ、見つける喜びが天の御国にあります。まだ、あなたを小さく、冷たく、遠く感じている私たちを、このアドベントにもう一度見つけて、喜びに溢れさせてください」

脚注:

[1] 「天の御国」とは、「天の王国Kingdom of Heaven」(=神が王として治めている国・支配)であって、「天国heaven」ではありません。ここで語られているのは、「どうしたら、死後、幸せな天国に行けるのか」という話ではなく、「天にいます神の御支配はどのようなものか」ということです。これがイエスのメッセージの中心です。神が王となってくださることが中心で、それを抜きにした死後の楽園など、人間の堕落した妄想に過ぎません。一方で、神の「支配」と言った途端に、堕落した人間の色眼鏡では「暴君的な神」を思い描くのも事実でしょう。その「絶対君主」としての神観をも丁寧に塗り替えるのが、主イエスというお方です。

[2] 七つの「天の御国」についての譬えは「種を蒔く人の譬え」(3~9、18~24節)、「良い種の譬え」(24~30、36~43)、「からし種の譬え」(31~32)、「パン種の譬え」(33)、「畑に隠された宝の譬え」(44)、「良い真珠を探している商人の譬え」(45~46)、「海に投げ入れる網の譬え」(47~48)です。結びの51~52節は「天の御国の弟子となった学者」についてですので、七つには含めませんでした。

[3] 「全財産つぎこんで」は、損得勘定では出来ない、と思わせてくれるのは、こちらの記事など。

[4] ルカの福音書17章20~21節「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

[5] この譬えを、天の御国が私たちを、良い真珠のように探すことだとする視点の説教は、他にこちらなど。アボッツフォード改革派教会説教

[6] 日本語では訳されていませんが、ESVでは原文に忠実に、45節を過去形で訳しています。「高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払って(不定過去時制)、それを買いました(不定過去時制)。」 不定過去(既にきっぱりと売り払った/買った)で思い描かせることで、買い切って喜ぶ商人を思い描かせます。これを、イエスが既に来られたことと重ねるまでは、言い切れないでしょう。

[7] 取税人ザアカイの話の結びです。日本語では「捜して」と、今日のマタイ13章45節の「探している」とは違う漢字が使われていますが、原文はどちらもゼーテオーです。

[8] それは、私たち自身の中から出て来る価値ではない。真珠であれ、金やダイヤモンドであれ、価値というものはそれ自体にはない。他者から贈られるものでしか、価値というものはない。神の御国は、私たちが自律した価値を持っているからではなく、私たちに価値を見出して、贈ってくれて、惜しみなく買ってくれるものなのだ。


思いがけない贈り物のもたらす祝福については、こちらの動画をどうぞ!

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